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先月(2017年6月)

まさ・さいとーさんのレビュー一覧

投稿者:まさ・さいとー

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本文化帝国主義 新装版

2001/08/14 16:44

近代性について考えてみるときの絶好の書

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は「文化帝国主義」と呼ばれるものを、人工的な一貫性を付与された「テーゼ」という観点から「定義」していくのではなく、種々さまざまな言述が入り乱れ、絡まり合い、多様な側面を覗かせる「言説」といった角度からそれらを「寄せ集め」、批判的に検討しようとするものである。
 文化帝国主義の言説を批判するにあたって、著者トムリンソンが扱うのは、マス=メディアの支配力を過大に評価する<マス=メディアの神話>、外国文化なるものの流入を文化帝国主義的侵入として拒絶し、ナショナルな文化をそれに対置しようとする<ナショナリズムの神話>、文化を資本主義の道具的機能とみなし、資本主義批判の一分枝として文化帝国主義を批判しようとする<「資本主義の文化」論>などである。
 これら三つの型の文化帝国主義論を批判するにあたって、トムリンソンは次のような確固たる信念をもってする。すなわち、文化はそれ自体行為する「生物」ではなく、行為するのはあくまで主体的能力をもった人間主体にほかならならず、文化の問題とは文化の生存の問題ではなく、人間主体の実存の問題でなければならない、という信念がそれである。
 しかしながら本書の圧巻は、このような批判的作業を経ながらも、「文化帝国主義」の言説をある観点から救い出そうとするところにある。すなわち、著者は「近代性批判」という観点から文化帝国主義論の可能性を引き出そうと試みるのである。近代性は無限の進歩という概念をキーワードにして、人間からさまざまな歴史的物語の可能性をつみ取ってしまった。しかしながら、この近代性の文化はわれわれにどれだけの文化的満足を与えてきたのだろうか。むしろ近代性は文化的、実存的満足の喪失として捉えることができるのではないか。カストリアディスやギデンズの議論を援用しつつ、トムリンソンはこのような問いを提起する。
 こうして文化帝国主義の言説は単に弾劾されるのではなく、近代性(そしてその徹底化された状況であるところのグローバリゼーション)に対する問いを引き出し、見つめ直す契機、あるいはひとつの可能性として救い出されるのである。
 本書は文化帝国主義という言説に対する一面的な弾劾でもなければ、称賛でもない。本書はその意味で、あるテクストを批判しつつそれを救い出すとことで、批判そのものをより建設的なものにしようとする、優れた批判のあり方を実践的に提示した書であるといえる。

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紙の本テヘランでロリータを読む

2007/12/09 14:09

いかにもアメリカ人好みのテーマだが

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はアメリカで大変な反響を呼び、ベストセラーになったというが、それはアメリカ大使館占拠事件に端を発する、アメリカのイランに対する嫌悪と決して無関係ではないだろう。アメリカ人は本書を通じて、アメリカが支持してきたシャー体制を転覆した1979年の革命の悪辣な実態を覗き見ることで、溜飲を下げることができるからだ。自らが信奉する「自由」の普遍的価値を確認することもできる。

しかし、イランの現実の不自由さを垣間見ることだけを目的に本書を読むとしたら、それは誤っているといわねばならないだろう。それは自らが置かれた(かつて置かれた/今後置かれる可能性のある)状況に対して、あまりに無自覚な読みである。むしろ著者が語る革命やイラン・イラク戦争の体験は、イランと同じ近代世界に生きるわれわれの判断能力のあやふやさ、独善的な「夢」の非合理性や残酷さ、愚かさを自覚し自省するために読むべきであろう。

世の中には戦争や革命を通して変革を夢想する人々がいる。戦前の日本然り、数々の粛清を伴ったイスラーム革命、そして8年間に及ぶイラクとの妥協なき総力戦然り。今も戦争を通じて現状の打開を夢想する「フリーター」が、日本にはいるそうだ。その非合理性と愚かさを知るためには、本書の第2章と第3章の回想は実に有益である。

ところで、本書の著者は秘密の読書会を教え子たちと行うわけだが、実はこれと同じことを無名時代のホメイニーも行い、反体制的な神学を教え子たちとともに育んだことは示唆的だ。ホメイニーはイスラーム法学者たちの世界ではほとんど異端的と言えるほど、哲学や神秘主義を論じた人物だ。シャー体制からも伝統的なイスラーム法学者の世界からも孤立していたホメイニー一派が哲学や神秘主義を論じ合う姿と、イスラーム体制からも大学からも孤立していた本書の著者が「秘密の読書会」を教え子たちと行う姿は、どうしてもダブって見えてしまう。

著者は小説を通して、抑圧された現実とは異なる自由の世界を夢想する。同様にホメイニーも自らが信じる「正しい」イスラームを通じて、堕落と抑圧から解放された神の国を夢想した。著者は過激な学生の人間としての「自然な感情」の欠如を嘆くが(「彼は恋をしたことがあるのだろうか」)、同様にホメイニーも人間として当然の「神の道」からの逸脱を憤る。

このように考えると、著者とホメイニーは一種パラレルな関係にあるように思えてならない。実際著者は『ロリータ』について、「被害者ロリータ」の側からの見事な読みを提示するが、「ハンバート」は暴君としてしか描かない。これは著者がいつも指摘する共感の欠如、多様な声に対する不注意の一種ではないのか。「夢」の強制を批判しつつ、その一方で著者は自らの「夢」を小説に見出し、それを「イスラーム共和国」に投影する。そこに著者の「教養ある、そこそこ裕福な人物」としての優越的な視線を感じてしまうのは、私だけだろうか。

私は著者の議論が基本的に正しいと思っているし、彼女の回想が私たちにとってインフォーマティヴな内容を含んでいるとも思う。著者のイスラーム革命に関する回想は自己反省的であり、その意味で良心的なものだとも思う。しかしそれと同時に、容易に善悪を語りたがる私たちがいかに独善的になりがちかの警鐘を、本書が語る過激な学生たちの姿からだけでなく、本書の叙述そのものの中に読み込むことも、可能であるように思える。

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イランの現状よりも、日本の翻訳業界の質の低さを憂うべき

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

エバーディーさんの回顧録そのものは、興味深い内容です。彼女の主張にケチをつけるつもりもありません。問題は訳文です。英語と対照させると、そのお粗末さと無責任さがはっきりします。

第一に、原著の段落の順番が大幅に入れ替えられています(特に第一章はひどい)。訳者は読みやすさを配慮したというかも知れませんが、これでは「翻訳」とは言えないでしょう。例えば、訳書冒頭に「つぎに殺さねばならんのは、シリン・エバディだ」という文句が出てきますが、こんな文章は原著の冒頭にはありません。訳者は自分を雑誌の編集者と勘違いしているのではないでしょうか。

第二に、あまりにお粗末な誤訳です。「これらの殺人の異常性は、用事で外出したところを絞殺され自宅でからだを切り刻まれた犠牲者がいることからも想像できると思う」(pp.7-8.)。こんな文章は原著にはありません。原著には「ある者は用事で外出したところを絞殺され、ある者はめった切りにされて殺された」と書いているだけです。

「その頃すでに政敵への残忍行為の伝説的首謀者と目されていたアーヤトッラー・ホメイニーは体制側の秘密警察SAVAKを糾弾した」(p.52.)とあたかもホメイニーが「政敵」に対して残忍行為をしたかのように訳されていますが、原著には「政府を批判する者たちへの残忍さですでに伝説的な存在となっていた、シャー体制の秘密警察SAVAKを、アーヤトッラー・ホメイニーは激しく非難した」と書いています。

「シャーの支配は行き過ぎであったり手ぬるかったりして‥‥」(p.38.)。repression(抑圧)が何故か「手ぬるい」と訳されているようです。

このように、訳者による初歩的な誤訳と過剰な演出が盛りだくさんですので、本書は信用にたるような訳書ではないということを心にとめておいて下さい。

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