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  3. サトケンさんのレビュー一覧

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先月(2017年8月)

サトケンさんのレビュー一覧

投稿者:サトケン

351 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本凶悪 ある死刑囚の告発

2009/11/25 00:19

ドストエフスキーの小説よりはるかにすごい迫力、最後まで読み切らずにはいられない

29人中、28人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 白熱のノンフィクション、これほどすごい内容のノンフィクションは滅多にない。これほど興奮しながら読んだ本もあまりない。

 獄中の元ヤクザの死刑囚が告発した「上申書」、これがついに警察を動かし、警察の執念の捜査によって、のうのうと市民生活を送っていた"先生"とよばれる真の凶悪を追い詰め、逮捕起訴し、判決が下されるまでのストーリーが、この文庫版で完結した。単行本では未完に終わっていたストーリーが文庫版で完結したのだ。
 そしてこの獄中の凶悪犯の告白を聴きとり、徹底的な裏付け取材を行った上で雑誌記事にし、警察を動かしたのは、「新潮45」という月刊誌の編集記者・宮本太一氏(現在編集長)であった。雑誌メディアの底力を天下に示した力作である。

 「事実は小説より奇なり」、などというと陳腐に響くかもしれないが、このノンフィクションはドストエフスキーの小説よりはるかにすごい迫力をもっている。
 それは事実のもつ重み、探り当てた真実の重みであろう。文庫版ではじめて読んだ私は、この事実のもつ迫力に圧倒され続けた。

 自ら手を下さすに人を殺させ、人の死をカネに換えてきた錬金術師、"先生"。この存在には、何か得たいの知れない、人間悪の化身のようなものを感じる。
 しかしそれはサイコキラーではない、快楽殺人でもない、なにかしら人間として底が抜けているというか、人間としてのタガの外れた知能犯としての姿を見いだすのである。この男はいったい何者なのだ、と。
 しかし、事件はすべて解決されたわけではない・・・

 とにかく、結末などいっさい知ることなく、最初のページから読んでみるべきだ。
 間違いなく、最後まで読み切らずにはいられない本なのだ。

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紙の本漢字が日本語をほろぼす

2011/06/02 18:03

異端の社会言語学者でモンゴル学者・田中克彦の「最初で最後の日本語論」

19人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ラディカルな本である。コトバの本来の意味で、日本語のありかたについて根源的な問いかけを行っている本である。

 せっかく受け入れたフィリピンやインドネシアからきた外国人看護士を実質的に閉め出しているのは、医療関係者以外は日本人でもまったく読めも書けもしないような難しい漢字の専門語をクリアしなくてはならないからだ。
 ワープロの使用によって、不必要なまでに変換されてしまう漢字にみちみちた文章。これは日本語への世界的な普及には、むしろ大いに逆行する現象だ。
 現在の日本語の状況は、ビジネス界の流行語をつかえば「ガラパゴス化」とでも言うしかない。

 本書でとくに重要なのは、「漢字に苦しめられてきた中国」にかんする第3章だろう。中国語をローマ字で表記するピンイン、そして簡体字。その先には、漢字の産みの親である中国ですら、漢字の廃止というビジョンが根底にあることを知るべきなのだ。本書には、中国語をローマ字のみで表記する少数民族の存在が紹介されているが、その大きな例証となっている。
 いわゆる「漢字文明圏」で、いまでも漢字を使い続けているのは、現在ではもはや日本と中国と台湾のみとなっている。はやくからローマ字を採用しているベトナムはいうまでもなく、北朝鮮はハングルのみ、韓国もハングル中心で漢字はほとんど使わなくなった。
 そもそも言語というものは、耳で聞いてわかるものでなければ意味はない。日本人は視覚に頼りすぎるので、外国語習得が得意ではないのである。

 著者の田中克彦は、言語学者でありモンゴル学者である。後者のモンゴル学者としての視点が面白いのは、漢字を拒否し続けた中国の周辺諸民族をふくむ、「ツラン文化圏」(トゥラニズム)にまで至る壮大な文明論に言及していることだ。西端は欧州のフィン族やハンガリーから東端は日本にまで至る、ユーラシア遊牧民につらなる「ツラン文化圏」。戦後日本ではほとんど言及されることのないこの概念に、あらたに息を吹きこもうというこの試みには、モンゴル研究にかかわった日本人としての「見果てぬ夢」を感じ取るものである。

 英語が優勢のグローバル世界のなか、人口減がそのまま日本語の話者の減少にもつながっていく。このような状況のなかで日本語を守るためには、漢字を段階的に廃止する方向にもっていかなければならないというのが著者の主張である。この主張の是非については、間違いなく反対論が多数派であろう。本書もまた、「品格」がないとして、多くの反発を生むことのではないか? 
 この「逆説的な日本語への愛」が、なかなか世間一般にはストレートには拡がらないのは、ある意味では仕方がないことだ。

 タイトルに強い違和感(!)を感じた人は、ぜひ手にとって読んでみてほしい。著者の主張の是非はさておき、日本語のありかたについて根源的に考えるための、耳を傾けるべき主張がそこにはある。

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記憶のメカニズムを知れば、大学受験だけでなく社会人にも十分に応用可能だ

18人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

脳科学に関心のある人は、その大半が記憶にかんする関心であろう。どうしたら記憶力を増強することができるのか、どうしたら記憶力の減退を防ぐことができるのか、なにかいい方法はないのか、と。

本書は、もともとは10年前に高校生向けに書かれた『高校生の勉強法』に、加筆修正した文庫版である。脳科学の専門用語は必要最低限に押さえ込んでおり、たいへんわかりやすい文章であるが、押さえるべきところはすべて押さえてあるので、繰り返し読めば得るものはきわめて大きい。

本書の著者の池谷裕二博士は、記憶のメカニズムにおいて、きわめて重要な役目を果たしている海馬(かいば)についての研究で薬学博士号を取得した最前線の研究者である。しかも、一般人向けに記憶のメカニズムについてじつにわかりやすく説明してくれるサイエンスライターとしての才能をもつ人でもある。名著『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス、2001)がデビュー作だが、最新の研究成果を一般社会に還元してくれる、じつにありがたい存在だ。

基本的に大学受験を控えた高校生向けの本なのだが、脳科学のメカニズムに基づいた原理は共通しているので、勉強法としては高校生以外の一般社会人が読んでも、面白くてためになる好著になっているといえよう。とくに社会人の読者は、いままでの自分の勉強法がどこが正しいのか、どこが間違っているのか検証する読み方もいいかもしれない。中高校生には、正しい勉強法として推薦してあげたほしいとも思う。

しかし、「学問に王道なし」というように、「勉強法にも王道なし」と言っておかねばならないだろう。本書で解説されているのは「効率」的な勉強法とはいえ、「効果」が出てくるには時間がかかるのだ。なぜそうなのかも、ちゃんと解説されている。

巻末には使用されている専門用語がすべて1ページに集約された索引がついているのもありがたい。その数、たったの27語。一般読者は、このリストにある専門用語すら覚える必要はないと思うが、よく読んでなぜそうなのかというメカニズムだけは理解しておきたいものだ。現代人の必読書といえよう。

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面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた二畳庵先生の名講義が帰ってきた!

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二畳庵主人とは中国思想研究者の加地伸行先生のことだったのか!
 高校時代、予備校にはいかずにZ会(増進会)の添削で大学受験勉強していた私にとって、ほんとうに読んで面白い漢文参考書がこの二畳庵主人による『漢文法基礎』だったのだ。いまからすでに30年(?)近く昔のことである。

 まさに、「二畳庵主人リターンズ」! しかも、覆面を脱いだその人は、加地伸行。儒教研究者という学者の顔だけでなく、歯に衣着せず舌鋒鋭く論じる論客でもある加地氏が書いた文章であるといわれれば、そのとおりだなあと納得する。
 私が読んでいたのは本書の底本である『漢文法基礎』(新版)の前のエディションで、こんなに分厚くなかったのだが、いま講談社学術版を手にして、思わず読み進めている自分を発見してしまう。なんせ面白いのだ。当時の語り口調がそのまま再現されているので、懐かしいという気持ちもあるが、それよりも講義を受けているというライブ感が素晴らしい。ちょっと引用してみようか・・・

 「この私、二畳庵先生は。大学で中国のことを専攻して以来、二十年あまり漢文で明け暮れてきた。・・(中略)・・こう言っては自慢めくが、高校漢文教育の経験豊富である。だから諸君の弱点もよーく知っておるぞ。・・(後略)・・」(初版1977年の「はじめに」より)。

 全篇こんな調子で面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた内容の講義が続くわけだ。もちろん、漢文が読めたからといって、現在使われている中国語ができるわけにならないので、実用という観点からいったら得になるかどうかわからないが、この本は読んで絶対に損はないとはいっておこう。小西甚一先生執筆の大学受験参考書のロングセラー『古文研究法』とともに、イチオシの漢文参考書としてすべての読者に勧めたい好著だ。

 ホンモノの学者が書いた受験参考書は、こんなにも面白くてタメになるという良き見本である。受験勉強は、ほんとうは役に立つのである。

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紙の本苦海浄土 わが水俣病 新装版

2011/05/04 12:58

「フクシマ」で「ミナマタ」の悲劇がふたたび繰り返さないことを願いつつ読む

18人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 福島第一の「原発事故」の処理に際して、放射能汚染水を地域住民にも国際社会にもいっさい説明することもなく、垂れ流しの決定を行った日本政府。このことを知ってただちに思い出したのは「水俣病」のことであり、『苦海浄土』のことである。

 今回の「人災」を機会に、ずいぶん前に買って本棚に入れておきながら、背表紙を眺めるだけで、読まないままになっていた文庫本を読み始めた。

 水俣病とは、チッソが海に流した廃液にふくまれたメチル水銀が食物連鎖のなかで魚介類に蓄積し、それを日常的に食べていた漁民を中心に引き起こされた公害病のことである。1956年に公式に確認された水俣の悲劇は世界中に知れ渡り、水俣はミナマタとなった。ネコが踊り狂うモノクロの映像は目に焼き付いている。

 この本は、「公害事件」を目の当たりにした、その土地に生まれ育って生きてきた一人の女性で、主婦で、詩人の手になる作品である。「公害」発生前の美しい海と、「公害」発生後の汚れた海から目をそらすことなく、被害にあった漁民たちにきわめて近いところで寄り添い、声になった怒り、声にならぬ魂の叫びを、著者の肉体と精神というフィルターをとおして文字にした文章を集めて一書にしたものだ。

 あくまでも私小説なのであり、土地の方言を生かした語り口は、けっして読みやすいものではない。『苦海浄土』の「苦海」(くかい)とは、生き地獄を意味する「苦界」(くがい)に掛けたものだろう。だが、その「苦海」と「浄土」が結びつくとき、いったい何を意味しているのか?
 
 福島に第一原発と第二原発をもつ東京電力と周辺住民の関係は、熊本県水俣に肥料工場を建設したチッソ(=新日本窒素肥料株式会社)と周辺住民の関係とよく似ている。メチル水銀のまじった汚染水と放射能をふくむ汚染水という違いはあるが、漁場が汚染されたという事実だけでなく、致命的な事故が発生するまでは東電もチッソも地域にカネを落とし、雇用を作り出した恩恵者であったことが共通しているのだ。環境汚染企業と周辺地域住民との関係は、アンビバレントなものであり、「企業城下町」や「原発城下町」という性格を知ることなしに、汚染水問題を論じることの難しさもまた知ることになる。

 この国は、近代に入ってから足尾銅山、カネミ油症、イタイイタイ病、森永ヒ素ミルク事件と、枚挙に暇(いとま)のないほど、数々の「公害事件」を引き起こしてきた。いま現在フクシマで起こっているアクチュアルな事件を見つめながら、先行するミナマタを描いた小説を読む。こういう読み方は文学作品の読み方としては邪道かもしれないが、それでもこの『苦海浄土』を読むと、文学のチカラをあらためて感じることもできるのだ。

 科学万能神話に疑問符がつきだしたいまこそ、詩人をはじめとする文学者への期待するものは大きい。今回の大地震、大津波、原発事故、風評被害という四重苦から、どんな文学作品が生まれてくることになるのだろうか?

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紙の本松井石根と南京事件の真実

2011/08/21 16:36

「A級戦犯」として東京裁判で死刑を宣告された「悲劇の将軍」は、じつは帝国陸軍きっての中国通で日中友好論者だった

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

, 松井石根と書いて、まつい・いわね、と読む。「A級戦犯」として極東軍事裁判(東京裁判)で死刑を宣告された7人の一人だ。現在では知っているひとはそう多くはないのではかもしれない。
 本書は、心ならずも「南京事件」における「虐殺」の責任者とされた「悲劇の将軍」を正面きってとりあげた評伝である。そしてまた、「南京事件」を中心に、松井石根という一人の中国通の情報将校の目をとおして描いた日中関係史でもある。

 ではなぜ松井中将が「悲劇の将軍」となったのか? 松井将軍が心の底から中国を愛し、日中友好こそがアジア安定の要であるという固い信念をもっていたにもかかわらず、日中関係が悪化の一方をたどった時代に生きた職業軍人であったことが、その原因の一つである。松井将軍は、59歳で予備役から戻されて、上海攻略戦の総司令官となったのであった。

 しかも、1937年(昭和12年)の「南京事件」は、松井将軍の意に反して行われたものであった。「上海事変」で中国側の激しい抵抗にあった日本軍は、からくも勝利を収めたあと、一部の司令官がなしくずしで開始した南京攻略戦を追認せざるをえなくなる。軍隊にあっては絶対にあってはいけないはずの「指揮命令系統の混乱」が生じたのは、そもそも戦争目的があいまいであったこと、戦争の「出口戦略」が見失われたことも大きい。

 捕虜の虐待や民間人に被害を与えないよう、上海と南京の攻略戦をつうじて、松井将軍が何度も「戦時国際法」に基づいて軍紀を守るよう、くどいほど念を押していることが本書を読むと確認できる。とはいえ、軍紀に厳しい理想肌の松井中将の下にいたのは、内心ではそんな松井将軍をせせら笑っていた下克上的風潮のつよい将校たちであった。南京事件は、「カリスマなき誠実な理想主義者」がリーダーとして現場でトップに立ったときに引き起こされた悲劇というべきかもしれない。そして、その後の松井将軍の生涯は、この南京攻略戦が原因となった東京裁判での死刑判決によって完結することになる。

 終生、親中国の姿勢を変えることのなかった松井将軍。みずから意図したものとは正反対の結果を生み出し、死後もなお誤解が解けることがない「悲劇」の人生。日本側がみて良かれと思ったことが、けっして現地住民が心から歓迎するものではないことに思い至らなかったイマジネーションの欠如、認識ギャップが存在したことが否定できないのもまた事実である。この点もまた、軍人としては優秀であっても政治への洞察力に欠けるものがあったというべきだろうか。

 松井将軍にまつわる中国側の誤解が解ける日は、残念ながら半永久的に来ることはないだろう。だが、せめて日本側においての評価が「正常化」し、「名誉回復」がなされることを望みたい。そのためにも、本書には一読の価値がある。

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紙の本三陸海岸大津波

2011/05/01 14:40

「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「3-11」の大地震にともなう大津波。被災者として直接体験していない多くの人もまた、すでに膨大な数の映像を見て津波という自然現象のすさまじさを、アタマとココロに刻みつけられた。

 この映像視聴体験を踏まえたうえで本書を読むと、すでに明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)におこった三陸海岸大津波において、今回2011年の大津波とほぼ同じことが起こっていたことを知ることができる。

 とくに「明治29年の津波」。当時は、文字通り「陸の孤島」であった三陸地方の受けた津波の被害があまりにもナマナマしい。文字で追って読む内容と、今回の津波を映像で見た記憶が完全にオーバラップしてくる。

 津波の犠牲者のほとんどは溺死したわけだが、溺死寸前で生還した体験者の語った内容を読むと、あまりものリアリティに、読んでいる自分自身が、水のなかでもがき苦しんでいる状態を想像してしまうくらいだ。これは、高台から撮影した映像からは、けっしてうかがい知ることのできない貴重な証言である。

 文明がいくら進もうと、地震と津波は避けることができない。防潮堤すら越えてあっという間に押し寄せてくる津波。地震予知が進歩したと思ったのも幻想に過ぎなかったことがわかってしまった。いや、すでに1934年に寺田寅彦が書いているように、文明が進めば進むほど被害はかえって大きくなるということが、残念なことに今回もまた実証されてしまったのだ。

 今回の大津波の生存者の証言も時間がたてば集められ、整理されることになると思うが、おそらく明治29年のときのものと大きな違いはないのかもしれない。本書じたい、いまから40年も前の出版だが、まったく古さを感じないのは、自然の猛威を前にしたら、たとえ文明が進もうが、人間などほんとうにちっぽけな存在に過ぎないことを再確認したことにある。

 まだまだ、これからも読み続けられていくべき名著であることは間違いない。はじめて読んでみて強くそう感じた。

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紙の本歴史入門

2010/08/19 10:00

原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した経済を軸にした「世界の読み方」

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、日本語訳ではハードカバーで6巻に及ぶ大著『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)への著者自身による入門である。経済を軸に据え、歴史学の立場から行った、壮大な規模と構想をもった15世紀から18世紀までの「世界=経済」の解釈を、アナール派を代表する「知の巨人」であった歴史学者ブローデルが、自ら要約して1976年に米国の大学で講演したものだ。

 「歴史入門」というタイトルで本書を手にとった読者は、少しとまどいを感じたのではないだろうか。本書の日本語版は「歴史入門」と題されているが、原題は La Dynamique du capitalisme(1976)、直訳すれば「資本主義の力学」とでもなろうか。単行本出版の際に出版社がつけたタイトルであろうが、きわめてミスリーディングなタイトルである。文庫版刊行にあたって、「ブローデル歴史学入門」くらいに変更しておくべきだったのではないか。

 では、「全体史」を目指した歴史学者フェルナン・ブローデルのものの見方とはいったいどういうものか簡単に見ておこう。人間の生物学的な生存条件を出発点とし、政治ではなく「経済」を主人公とした歴史解釈であり歴史記述であるが、それは『物質文明・経済・資本主義』というタイトルそのものに表現されているといってよい。
 しかしながら、歴史学者ブローデルの主張は、マルクス、ウェーバー、シュンペーターといった社会科学者たちの通説とは大きく異なるものだ。日本の大学で社会科学を勉強して、これらを常識として受け取ってきた者にとっては、やや違和感というか、よくいえば新鮮な印象を受けるのではないだろうか?
 マルクスの発展段階説を否定し、奴隷制、農奴制、資本主義は順番に出現したのではなく、同時性と共時性があると強調する(P.117)。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムが資本主義の推進力との考えを否定し、「世界=経済」が地中海から北ヨーロッパに移行した結果にすぎないとする(P.88)。シュンペーターのように起業家(アントルプルナー)を資本主義の推進力とはしない(P.85)。
 このように、ブローデルの歴史学においては、経済において歴史学と社会科学が結びつく。しかも、首尾一貫して「資本主義」と「市場経済」を区分して考えている。これは著者の主張のキモなのだが、一般の通念とは大きく異なっているので、著者の主張をすんなり理解するには、ためらいを感じるかもしれない。

 また、著者自らがいうように、「世界システム論」を説くウォーラースティンとは共通認識をもつが、ヨーロッパ以外でも世界は共存する複数の「世界=経済」に分割されていたと考える点においては異なるともいっている(P.106)。
 封建社会からゆっくりと崩壊して資本主義社会が出現した点において、西欧社会と共通しているのは日本だけであるという指摘(P.93)は、先行研究を踏まえたものだが、日本人としてはあらためてその意味を深く考えてみる必要があるだろう。

 訳注と解説を除けば、文庫本でたった145ページという小冊子であるが、ブローデルの到達点を語って、語り残すところのない凝縮された一冊である。
 簡潔すぎるのが強みでも弱みでもある「ブローデル歴史学入門」であるが、ブローデルについて語るなら、まず最低この本だけでも、腰を据えてじっくり読んでおきたいものだ。
 とくに、「資本主義」のまっただなかに生きるビジネスパーソンには、通説と異なる感想をもつとしても、ぜひ読んで欲しい一冊である。いま生きているこの時代が、いったいどういう歴史の流れのなかにあるかを正確に認識するためにも。

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「資源をもたざる国」日本-いま改めて振り返って知る、「エネルギー自主独立路線」を貫こうとして敗れた田中角栄の闘い

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 資源をもたざる国、日本。1970年代はじめ、日本の繁栄にとって不可欠な資源エネルギー確保のため、自ら先頭にたって熾烈な資源争奪戦争に飛び込んだ男がいた。日本の首相であった田中角栄は、超えてはいけない一線を超え、そして敗れ去る。

 田中角栄が政治目標として作ろうとした「一億総中流社会」。彼の政治姿勢は、上から目線ではなく、あくまでも一般庶民の「モノと生活」を豊かにするという考えが根底に発していた。
 その角栄にとっての一大テーマが、資源エネルギー確保であった。石油、そして原子力の燃料であるウラン。資源国でない日本が「モノと生活」を豊かにするための前提が、資源エネルギーの安定的な確保であり、そのための方法論が資源調達の多角化であった。
 資源エネルギー確保のための外交を政治目標としてプライオリティをおいた角栄は、精力的に外遊し、各国の首脳とトップ会談を行い、次から次へと話をまとめていく。
 しかし勢力地図の確立した石油の世界はもとより、新しいエネルギー源で勢力地図がかたまっていないウランの世界は、権謀術数渦巻く激烈な世界であった。そのなかでやり抜くには日本も、角栄もまだまだ未熟だったのかもしれない。

 軍事用の「核」と不可分な、民生用の「原子力」。ウランをめぐる資源戦争においては、ロスチャイルドの欧州、ロッックフェラーやモルガンの米国との死闘を覚悟しなければならなかったわけである。獰猛なプレイヤーが資源の覇権を争って死闘を繰り広げる世界のなかで。

 「ロッキード事件で角栄はアメリカにやられた」、「角栄はアメリカの虎の尾を踏んだのだ」、という陰謀説は以前からまことしやかに語られてきた。この説の当否については確証はない。しかし、軍事的には米国の傘の下にありながら、エネルギー問題において自主独立路線をとろとした角栄が、米国の虎の尾を踏んだことは間違いない。
 資源を巡ってなりふり構わぬ姿勢で国益を追求してきた米国。本書でも一章をさいて詳しく描かれている、インドネシアのスハルト軍事政権誕生と米国による資源権益確保のウラ事情は、国益を賭けた国際政治の実態とはこういうものなのだ、と平和ボケした日本人に強い印象をもって迫ってくる。
 軍事戦略と密接に結びついた、この米国の資源エネルギー戦略は、日本の国内政治事情とも複雑にからみあってきた。

 田中角栄の直弟子である小沢一郎と、政治家人生の第一歩を田中派に身を置いた鳩山由紀夫が率いる民主党政権。自民党の岸信介=福田赳夫ラインに連なる小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫。
 「派閥」で単純化するわけではないが、国際政治とのかかわりのなかでみた、民主党政権の今後の方向性を見極めるためにも、本書を読む必要があるといえる。角栄の「失敗」から何を学んだのか、あるいは学んでいないのか。
 また、核廃絶(グローバル・ゼロ)に踏み切ったオバマ大統領のシナリオを書いたのが、資源エネルギー問題で田中角栄を追い詰めたキッシンジャーであることは、記憶しておかねばならない。共和党の国務長官を務めたキッシンジャーはいったい誰の利害のもとに動いているのかを。

 まことに時宜にかなったテーマの内容の出版である。
 熟読する価値ある、中身の濃い、著者渾身の一冊だ。

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紙の本国をつくるという仕事

2009/08/03 22:33

真のリーダーシップとは何かを教えてくれる本

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 元世界銀行南アジア担当副総裁が書いた、貧困撲滅のための戦いの現場体験を描いた回想集。
 「思い出の国、忘れ得ぬ人々」というタイトルで、雑誌『選択』に連載されているときから愛読していた。こうやって単行本としてまとめられ一書となったことは喜びに堪えない。ぜひ多くの人に読んでほしい。

 世銀副総裁の回想といっても、功成り名遂げた人の回想録とはまったく性格を異にする。

 世界銀行のミッションは「貧困なき世界をつくること」、このミッション実現のため、各種のプロジェクトへの融資をつうじて、当該国の民衆の自立のために必要な支援を行うのがその仕事である。加盟国の国民すべてが株主であり、また受益者でもある。
 金融機関として、市場から安く調達した資金を、金融市場が効率的に機能しない発展途上国で、低利の長期融資を実行する。
 著者が責任者としてカバーした担当地域は南アジア、すなわちインド、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、モルディブ、アフガニスタン、ネパール、ブータン、その多くが第二次大戦後、独立を勝ち得た"若い"国々である。

 「国づくり」の中で置いてきぼりにされたのが国民、その中でも大多数を占める貧困層である。貧困問題の解決を行わない限り、ほんとうの「国づくり」からはほど遠い。なぜなら、貧困は人間から希望を奪い、国民としての参加意欲を削いでしまうからだ。
 一部の特権階級が潤うだけでは、国全体としてのチカラが生まれてこない。貧困を撲滅するために行われてきた国際援助が、本来の意図に反して政治家の汚職、腐敗の温床となってきたこともまた事実である。

 世銀は援助機関ではなく、あくまでも金融機関であり、貸し倒れリスクを最小にしなければならない義務がある以上、融資を実行するに当たっては、さまざまなリスク、とくに長期的なカントリーリスクに対する厳しい目も必要とする。
 著者は、マスコミの評価、その国の政治家の説明は決して鵜呑みにせず、自ら農村やスラムに足を踏み入れ、ホームステイし民衆と語らい、貧困問題とその解決策が、かならず「現場」にあることを、つねに確認してきた人である。

 「国をつくるという仕事」は、あくまでも草の根の国民の立場に身をおき、私利私欲を離れた立場から一般民衆のために奉仕するよきリーダー、よき統治(ガバナンス)があってこそ実現する。
 よきリーダーの補佐役を行うのが世銀であり、また著者自身の役割であると認識、問題を直視したうえで、ときには政治家を叱咤し、民衆のリーダーの熱い思いと行動に何度も涙してきた。経済学博士である著者自身が、経済学でいう "Cool head but warm heart" (アタマはクールでココロは暖かい)人なのだ。

 草の根の民間人であれ、一国の最高指導者であれ、よきリーダーの特質とは言行一致していること、あくまでも一般の民衆のために奉仕することを念頭においている人のことだ。
 本書を読んでいて何よりも強く印象に残るのが、ブータンの前国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク雷龍王4世である。あるべき理想のリーダー像を示して素晴らしいの一語に尽きる。
 しかしながら、著者はブータンの抱える最大の政治問題である、ネパール系ブータン人難民についても多くのページを割いて言及している。けっしてブータン礼賛には終わらせないところに著者のバランス感覚をみる。

 そしてまた著者は、現場で得てきた貴重な経験を、自らが属する世銀の組織にフィードバックし、ビジョンを共有し、ミッションを組織の隅々にまで浸透させるための「組織文化改革」をやり抜いた。できればこの点をもっと詳述してほしかったとも思う。

 本書は、発展途上国や南アジアに関心をもつ人にも、貧困問題に関心のある人にも、ビジネスパーソンにも、社会起業家にも、ぜひ読むことを薦めたい。
 あるべきリーダシップや、あるべき組織のありかたを考える際に、必ず大きなヒントを与えてくれるはずである。
 

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「津波てんでんこ」というコトバに託された著者の思いを、日本人全体で共有しよう!

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「津波の際は、とにかく躊躇せず、一人一人バラバラで全力で高台に逃げろ!」これが著者による本書の最大のメッセージである。そして、「津波は他人事じゃない!」、これが本書を一読してのわたしの率直な感想だ。

 タイトルになっている「津波てんでんこ」とは、明治三陸大津波の悲しい歴史を背負った貴重な教訓である。「てんでんばらばら」の「てんでん」に東北地方言の「こ」がついたもの。親兄弟が災害時に助け合うのは人間として当然の感情だが、こと津波に限ってはそれは例外でなければならない。なぜなら津波は不意打ちで突然襲ってくるから、共倒れを避けるためにはそれしかない、ということを意味している。

 「津波てんでんこ」という表現には、著者が子どもの時に体験した「昭和8年の大津波」が原点にあるという。「七人兄弟の末っ子だったが、両親も兄たちも、誰も手を引いてくれなかった。そのため否応なしで一人で逃げ、雪道を裸足で山まで駆け上がっている。後で聞くと、友だちの多くもみんな同じことだったらしい。助かろうと思ったら子どもでそうせざるをえないのである」(P.223)。今年87歳になる本書の著者・山下文男氏は、今回の大津波でも九死に一生を得たことが報道されていた。

 吉村昭の『三陸海岸大津波』は読み継がれるべきロングセラーだが、津波はけっして三陸海岸だけのものではない。本書はこの重要な事実に読者の注意を促してくれる。「津波は他人事じゃない!」とはこのことだ。
 本書によれば、関東大震災のときには相模湾沿岸では津波と山津波の挟み撃ちになっている。戦時下の東南海地震津波(1944年)は厳しい情報統制のため知られていないだけ。敗戦後の南海地震津波(1946年)はそれどころではない状況だった。日本海中部地震津波(1983年)では秋田に大被害、北海道南西沖地震津波(1993年)では奥尻島を中心に、沖縄の石垣島でも大津波の被害を受けている。
 日本は、地震と津波の多さにかんしては、同じくプレートのうえに乗っかり、周囲を海に囲まれた島国のインドネシアとならんでいるのだ。。津波が tsunami として英語になっていることからもわかるように、この国は「世界有数の津波大国」なのだ。

 自然災害である津波は、人間サイドの事情にはいっさいお構いなしに突然襲ってくる。しかも、集中豪雨や台風など、毎年の決まった時期に定期的に襲ってくる自然災害に比べると、大津波と大津波のあいだのインターバルがきわめて長いのが特徴である。そのため、どうしても体験が風化しやすい。また逆に体験していると、どうしても実際より軽くみなしがちという側面もあることが指摘されている。津波への対応は、マインド面でも難しいのだ。

 狭い意味の専門家ではなく、三陸海岸に生まれ育った一市民の立場から書かれた、日本国民に覚醒を促す本である。ぜひこの機会に眼をとおして「自分の問題」だと受け止めてほしいと強く思う。

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あくまでも数字によって中国経済を曇りなき目でみた本。エピローグは関係者必読!

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 2010年12月に出版された中国経済分析の本である。「尖閣事件」後に出版されたので、出版社がつけたのであろうタイトルはタイミング的にみて、やや奇をてらった、センセーショナルな感がなくもないが、内容はいたってまともである。虚心坦懐(きょしんたんかい)に経済統計データを見つめれば導き出せる結論といってよい。

 著者は、狭い意味の中国経済の専門家ではないが、その分析はきわめて確かである。なぜなら、中国研究者に特有の希望的観測(wishful thinking)から完全に解放されているからだ。中国をおとしめようという見解ではなく、日本を無批判に賞賛しているわけでもない。経済学的思考においては常識である「トレードオフ」について語っているから好感がもてるのである。経済分析の王道をいく内容といえよう。

 マスコミが無批判に垂れ流す常識のウソを、次から次へと数字でもって否定する著者の人気が高いのもなるほどと了解される。「日本は輸出依存型経済?」など、学校教育やマスコミによる検証なき思い込みの数々が、快刀乱麻を断つがごとく次から次へと論破されてゆく。著者がこの新著においても、いまだこのようなことを書かねばならないのは、ある意味では日本にとっては不幸なことである。

 現在の中国経済は、まさに「不動産投資一極集中」といってもよい状態で、誰がどう見ても異常な状態である。「不動産バブル」であることは間違いない。富裕層が存在するとはいえ、個人消費を中心とした内需の規模はマクロ的にみれば相対的にウェイトが小さく公共投資に依存する割合が高い経済。GDP規模で日本を抜いて世界第2位になったとはいえ、先進国型経済からはほど遠い、いびつな状態である。

 ビジネス界を中心に、中国経済に幻想を抱き続けている人たちがきわめて多いなか、あえて正論を主張する著者の姿勢に共感するのは私だけではないだろう。中国経済は、政治も密接にからまる政治経済の分野というべきであるが、日本人として言うべきことをキチンと言っている著者の姿勢は大いに評価したい。

 本文は基本的にマクロ経済分析であるが、本書の最終章である「長いエピローグ 体験者が語るチャイナリスク」こそ、読まねばならないといっておこう。40ページのも及ぶこの最終章で、著者は「中国民事訴訟法231条の異常性」について、体験者である日本企業関係者とのインタビューを掲載している。この章を読むだけでも価値がある。いや、中国ビジネス関係者必読である。そのうえで、あえて中国ビジネスに取り組むのが、正しい意味での自己責任というべきであろう。

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紙の本梅棹忠夫語る

2010/09/19 12:11

こんなおもろい本はないで! 関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている

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 今年(2010年)7月、残念なことに、知的世界の巨星がまた一つ墜ちた。老衰のために90歳で亡くなった梅棹忠夫である。

 この本は、戦後日本の「思想」をリードした知的巨人の、死の直前まで語り通した回顧録である。
 関西弁で語りつくしたホンネの放談は、しかしながら本質論をズバリ語って尽きることがない。時代の証言者として、昔の話をする際のライブ感が実にすばらしい。目の前でその光景が見えるようだ。

 学者としての業績として残された梅棹忠夫の著作集は実に23巻にも及ぶものだが、その人生はまた、挫折とその克服によってまっとうされたものであることも語られる。山歩きにのめり込んで授業に出なかったために放校された三高時代から始まって、日本隊が初登頂を実現したマナスル登頂計画の前にして肺結核で二年間療養、学者としては致命的な両目の失明、と挫折につぐ挫折も経験している。 
 しかし、「困難は克服するためにある」という精神力がそれらを乗り越えさせてきた。このように、人生論としても実に骨太で、まさに知恵のかたまりの一冊にもなっている。

 梅棹忠夫というと『知的生産の技術』という連想しか思い浮かばない人も、『文明の生態史観』や『情報産業論』など主要著作を読んできた人も、梅棹忠夫については何も知らない人も、この本はぜひ読むべきだと強く薦めたい。番外編であるこの本は、すぐれた「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている。

 こういう本が、日本経済新聞社から出たということの意味は実に大きい。もちろん、対象とされたビジネスパーソンだけでなく、広く一般に読まれて欲しい本である。ホンネをいうと、ぜひ本という形ではなく、ライブで見たかった対談だ。
 「こんなおもろい本はないで!」といっておこう。読めば絶対に元気になることを保証します。

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紙の本日本文明圏の覚醒

2010/05/24 16:45

覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。時代はすでに根本的に変わったのだ!

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 「モダンという時代は本当に堅苦しかった」。「そして今、ようやくモダンな時代は終わりを告げた」。「ポストモダンは、明治以来はじめて我が国が迎える巨大なパラダイムシフトである」・・・
 本書のいたるところに漏らされる、ため息にも似た感想の数々。1953年生まれの50歳台後半の著者が、意外と若い世代の感覚と近いように思われるのは、著者がつづる自らの人生を振り返る文章を読むとき、おのずから理解されるのである。著者は「モダン」の時代に、ずっと違和感を感じつづけた「異端」であったからだ。

 本書は、「ポストモダン」時代に生きる日本人に、「日本文明圏」の特質を抽出し、新しい時代を生きるための心構えをエッセイの形で描いた思索の書である。幕末維新の激動期を生ききった福澤諭吉は、「恰(あたか)も一身(いっしん)にして二生(にせい)を経(ふ)るが如く」と述懐しているが、著者もまた「モダン」時代と「ポストモダン」時代の2つの時代を体験した思索者の一人である。慶應出身の著者は、慶應に対するアンビバレントな感情を隠さないが。

 「モダン」(近代)と「ポストモダン」(後近代)の断層は限りなく大きい。19世紀後半から始まった「モダン」は、冷戦構造の終焉から解体がはじまり、いまやほぼ完全に終焉を迎え、不可逆の流れとして「ポストモダン」が進行している。
 「モダン」の時代に確固たるものと思われていた「中心」は、実は空洞であったことが次から次へと露見し、すべてが虚構であったことがわかってしまった。30歳台以下の世代と、私もその一人であるが40歳台以上とくに「モダン」時代にマインドセットを形成された50歳台以上の世代との断層は、たんなる世代間格差を超えたものがある。後者の世代が願う、失われた「共同体」再現というノスタルジックな夢は、徒労と終わるだけであろう。時代は完全に変わったのである。あらたな時代に、40歳台以上の人間がとるべき態度はあきらかだろう。
 むしろ、著者が指摘するように、下手に「モダン」の時代を知らない30歳台以下の若年層のほうが、この時代への適応力が強いのは当然だ。インターネットの普及がさらに「ポストモダン」を加速し、因果律ですべてを説明したがるドイツ的知性から、事実列挙式のアングロサクソン的知性への転換が定着しつつある。日頃から大学生と接することの多い著者ならではの見解といえよう。著者による、2000年以降の時系列の大学生の観察と大学教育における試行錯誤の記録が、ドキュメントとしてもたいへん興味深く、説得力をもつ。

 著者は、韓国・朝鮮問題の本質を語って右に出る者はいない論客である。いままさに「モダン」の最中にある中国、すでに「ポストモダン」にあるが民主主義が破綻した韓国、この中国と韓国というアジアのなかでも特殊な「中華文明圏」の二カ国とは根本的に異なる「日本文明圏」の特質を、複数の「文化端末」という形で抽出し、日本人が今後の時代を生き抜いてゆくうえでの、「文化端末」ごとのメリット・デメリットについて論じている。
 「文化端末」の詳細については直接本文を読んでみていただきたいが、中華文明と日本文明の2つの文明の差異について展開してきた議論が、ついに「アジア主義との永遠の訣別」の表明に至るのを読むとき、同じく東アジアの二国に深く関与したが故に「脱亜論」を説かねばならなかった福澤諭吉を想起するのは、私だけではないだろう。
 訣別すべき「アジア主義」もまた、「モダン」時代の産物であった。

 「モダン」が崩壊したあとの廃墟に残ったのは、ある種のニリヒリズムである。しかし、そのニヒリズムからこそ、現実を直視するためのリアリズムが生まれ、あらたな時代へのポジティブな展望をもつことが可能となる。

 覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。時代はすでに根本的に変わったのだ。すでに新しい時代は始まっている。

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紙の本プーチンと柔道の心

2009/05/19 00:19

やっと日本語版がでたか・・

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 やっと日本語版がでたか、そういう思いである。もしプーチンが首相という形で最高権力者として残らなかったら、本書出版企画は流れたことであろう。
 「プーチン大統領(当時)が柔道の本を書いた!」、そういう噂は2002年頃、ニュース配信されていたので覚えている。翻訳してほしいものだ、と思っていたがその件はすっかり忘れていた。

 ロシアの大統領が柔道をたしなんでいる、しかしそれは決して不思議なことではない。
 私は、仕事の関係で1998年に仕事で合計3週間ロシアにいったときにさまざまな話を見聞しているが、ロシアでは柔道、剣道のみならず、合気道、空手も広く愛好されている。ただし、空手は危険だというので、ソ連時代は禁止されていたという話をロシア人の空手愛好家から聞いた。
 日本武道を通じて、日本的な礼儀作法とその精神が、日本人が思っている以上に浸透していると考えるべきだろう。日露関係は相思相愛ではないが、もしかするとロシア側の片思いの関係なのかもしれない。エリツィン大統領時代に来日したキリエンコ首相(当時)は、趣味はアメリカンポップスと剣道、合気道、とのことであった。
 それにしてもプーチン首相(前大統領)という国家の最高指導者が、日本の武道を少年時代から本格的にたしなんできたというのは、実にうれしいことではないか。そしてまた、日本の至宝、「世界の山下」とも非常に親しい、これもまたうれしいことだ。

 本書を読むに当たってはまず、山下泰裕氏による解説、元NHKモスクワ支局長の小林和男氏によるプーチン本人と、柔道の師匠へのインタビューを読むことを奨める。その上で、抄訳された本文を読むと、本書が単なる柔道の実技解説本ではないことが実感されるはずだ。柔道の歴史に始り、道着についての解説、礼に始って礼に終わる心など、本格的な柔道入門書になっているのだ。
 過度の競技スポーツ化により、「勝ちさえすればいい」という堕落が目に余る昨今の国際柔道界であるが、本書のような日本武道の精神面にまで踏み込んだ柔道書で指導されたロシア柔道界は、数少ない希望といえるかもない。
 また、であるからこそ、プーチンという政治家は侮れないのである。柔道を通じての人格陶冶、これは決して古臭い考えでも何でもない。プーチンは「大切なことはすべて柔道から学んだ」と述懐している。私自身、合気道を通じて同様な感想を抱いているので大いに共感できるものがある。

 2003年に行われた小林和男氏によるインタビュー後記にこうある。「報道官はますます私たちを急かす。それもそのはずだった。私の後には中国の胡錦濤総書記が初めてのロシア公式訪問でプーチン大統領と会談する予定になっていたのだ。中国との首脳会談の時間を押してまで柔道の話を続けるプーチン大統領の柔道への思いは(以下略)」。
 この文章にすべてが言い尽くされているといえよう。

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