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先月(2017年6月)

メルさんのレビュー一覧

投稿者:メル

108 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本生きる歓び

2006/04/05 19:55

三つ目の小説?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本には、妻の母親のお墓参りに出かけたときに見つけた病気の子猫を、付きっきりで看病した模様を語る「生きる歓び」と、田中小実昌が亡くなったときに、その交流を振り返り、そのことを綴った「小実昌さんのこと」の二つの作品が収められている。
「あとがき」のなかで保坂は、この二つの作品にフィクションが紛れ込んでいるとしたら、小実昌さんから家までの道順を訊くところだけで、他にはウソはないという。そして、「「小説」と言っているんだったらウソのあるなしにこだわる必要もないだろうけれど、今回の私はこだわる」(p.141)と書いている。「だったら小説ではないんじゃないかという意見もあるかもしれないけれど、私は小説であることにもこだわる。この二つの話はあったことしか書いていないけれど、それでもやっぱり明快に小説なのだ」(p.141)と断言しているところが、なんだか気になる。なぜ「明快に小説」なのだろう? では、保坂にとって、「小説/非小説」の差異はどこにあるのか。これは、保坂の他作品を読むときにも感じることでもある。
この「あとがき」の言葉を読んでしまうと、「小説」というものが一体何なのか分からなくなるのだが、そんなとき、ふと感じたのはこの「あとがき」自身も実は「小説」と呼べるのではないかということだ。つまり、この本には、「生きる歓び」と「小実昌さんのこと」と「あとがき」という三つの小説が収められていると言ってもよいのではないだろうか。実際、「あとがき」にしてはやや長めの文章で、またここで語られているのは、「貢伯父さん」の思い出とその死についてなのだ。となると「あとがき」の文章と、たとえば「小実昌さんのこと」の文章の差異はどこにあるのだろう。
ひとつ補足しておくと、「生きる歓び」のなかにあった言葉すなわち「人間というのは、自分が立ち会って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ている」、「人間の思考はもともと「世界」というような抽象的でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ」(p.16)といったところが注目に値する。
「世界」ではなく、「自分が立ち合っている現実」に留まること。そして、それを受け止める「感情の力」。これらが、保坂の「小説」を創りあげるものであろう。「現実」ではなく「世界」のほうを語る言葉を「ご都合主義のフィクション」(p.16)すなわち嘘でしかないとする点が、保坂らしい。ご都合主義ではないフィクションこそが、保坂の小説だと言えそうだ。

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紙の本現代思想のパフォーマンス

2004/11/23 11:00

現代思想のリーダーとして最適!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、思想書のアンソロジーを目指したものだ。取り上げられた思想家は、ソシュール(難波江)、ロラン・バルト(内田)、フーコー(難波江)、レヴィ=ストロース(内田)、ジャック・ラカン(内田)、サイード(難波江)の六人である。もちろん、著者らも自覚しているように、これだけではとても現代思想を覆いきれないし、フランス系に偏ったものだ。しかし、新書一冊にあれもこれも望むのは土台無理なこと。それよりも、この本で著者らが目指したことのほうが大切だと思う。すなわち、これらの思想を「ツール」として、どうやって使ったらよいのか、その「パフォーマンス」を示したことが重要なのだ。

 論じられている六人の思想家は、日本でもすでに何年も前から知られており、当然入門書や解説書の類も多い。したがって、すでにこれらの思想に触れている人にとっては、この本を読んでもそれほど新鮮な刺激は受けないかもしれない。この本は、まだ思想に触れたことがないか、あるいは少しは知っているけれどそれをどうやって使うのかが分からないという人にお薦めだ。

 思想を理解することは難しい。この中の一人の思想家を理解しようと思ったら、けっこう大変なことだ。一方で、新しい思想はつぎつぎと入ってくる。私は、思想書を読むのが苦手なので、思想を充分に理解できないし、ましてその思想をどの場面で、どのように用いたら効果的なのか分からない。だから、こうした教科書のような本があると助かる。とりあえずのパースペクティブが得られるからだ。

 また、思想の「使い方」を知ることも重要だ。私の経験だが、思想の内容はなんとなく分かっても、それをどこにどうやって使ったらよいのかが分からないということがある。これでは、せっかく苦労して思想書を読んでも、宝の持ち腐れではないか!。なんてもったいないことだろう。「この場面で、この思想を使う」ということを知っておくのも必要なことだと思う。

 あとがきで、内田氏は「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」と学生に向かって言う、と書いている。パソコンの動く仕組みもよく知らない、テレビがどうして映るのかもよく分からないが、それでも日々パソコンを使い、テレビを見ている。道具は、使っている内に「何をする」ための道具なのか、自ずと分かってくるだろう、と。

 たしかに使ってみて理解できることもあるのだろう。これはまた身体論の一つなのかもしれない。思想を頭ではなく身体として用いること。本書は、そのための良きガイド役となるだろう。

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可能性に満ちた魅力的な研究

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これはすごい本だ。ここ数年のなかで最も優れた研究書ではないだろうか。ものすごい衝撃力を持った本で、歴史学のみならず、すくなくとも人文系の研究者は強烈な知的刺激を受けるはずだ。とてつもなく大きな可能性を秘めた研究書である。この本で著者が問いかけた問題は、アカデミズムに携わる者はみな真摯に受けとめて、自分なりに考えていくべきだと思う。

著者はオーストラリアに留学し、グリンジ・カントリーに滞在しながら、アボリジニの長老(とくにジミーじいさん)を師として彼らの「歴史」を学ぶ。そこで「歴史」とは何かという大きなかつ根源的な問いにぶつかる。「歴史」を語ることができるのは誰なのか。アカデミズムにおける「歴史」が「正しい」もので、アボリジニの長老の語る「歴史」は「歴史」ではないと言える根拠は何か。近年、ポストモダニズムやポストコロニアル研究などにより、既存の学問のあり方に批判的検討がなされてきた。そして研究者はたしかにアボリジニの語る「歴史」も尊重するようになった。ここまでは良い。だが著者はこの先にある問題を問う。

《しかし、アカデミックな歴史学者はいまや、あらたな方法論的問題に直面しているのではなかろうか。それは、アボリジニの過去にたいして、西洋近代的概念としての「歴史」(のみ)を適用する根拠は何か、というより根源的な問いである。(p.183)》

アボリジニが語る「歴史」をアカデミックな「歴史」と同じように受けとることができますか?と著者は訴える。たとえば、アボリジニの長老はこんなことを語る。「アメリカのケネディ大統領が、グリンジ・カントリーに来た」と。そして、彼らはケネディ大統領にイギリスから来た白人に迫害されたことを訴え、それを聞いた大統領が「イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよ」と言った。それがきっかけとなって、牧場退去運動が始まったのだという。

もちろん、我々の知っている「史実」では、そんなことは起きていない。となると、アカデミックな「歴史」は、このアボリジニの語りは「正しい歴史」とは異なるとして、「歴史」と呼べるものではないと分類してしまうかもしれない。あるいは、もう少し良心的な研究者ならこの語りも尊重して、おそらくこれは何かを言い換えたものなのだろうとメタファーとして分析し始めるかもしれない。

しかし、著者はアボリジニの長老たちは大統領をメタファーとして語っているわけではないのだという。それは彼らなりの歴史分析であり「現実」なのだと。これを私たちの「歴史」の枠内に収めることなく受けとめることができるのかと、著者は既存の歴史学に問いかけているのだ。こうして既存の「知」の枠組みにはげしく揺さぶりをかける。そして、著者が目指すのは、彼らの「歴史」と私たちの「歴史」を繋げることができるのかということである。われわれと彼らの間にギャップがあっても繋がることができると、その方法を模索し続けた。

現時点におけるアカデミズムの限界点を示した本書の功績は今後、さまざまな分野でも応用できそうだ。このような重要な問題を考察しているのに、その文章はきわめて明快であるということも本書の優れた点の一つであると思う。具体的な事例から積み上げ、そこから聞こえてくる「声」を誠実に受けとめた結果なのだろうと思う。このような素晴らしい本を残してくれた保苅実氏に感謝したい。

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紙の本歴史学ってなんだ?

2004/01/28 00:46

歴史学を考える

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 すごく面白い。久々に読んで満足感を覚えた新書である。
 本書には、3つの大きな柱がある。一つは、「史実を明らかにできるか」。次に、「歴史学は社会に役に立つか」。そして「歴史家は何をしているか」である。これらのテーマは、同じ人文系の文学を研究する私自身にとっても関心のあるテーマだ。
 というのも、最近、文学の研究においても歴史/物語を問う研究が増えている。たとえば、よく言われることだがフランス語の「histoire」は「歴史」を意味すると同時に「物語」も意味している。したがって、物語と歴史の境界は実は非常にあいまいで、それは本書でも歴史小説と歴史書のちがいを取り上げている。
 そんなわけで、歴史研究と文学研究はかなり近い位置にあると言える。したがって、私は本書読みながら「歴史」という語を「文学」と置き直して文学について考えてみたりもした。たとえば、「文学」は社会に役に立つか、というように。
さて、本書において私が特に印象的だなと思った箇所を引用してみよう。それは、歴史家は何をしているのかについて論じているところ。歴史家が史料を集めて、そこから得た知識をどう文章化するのか述べた箇所である。

《そして、歴史を論じる文章を書く際に留意しなければならないポイントは、この「読み手をわくわくさせる力を備えていなければならない」ということにあります。文章化するということは、読み手とコミュニケートするということです。読み手をわくわくさせられなければ、コミュニケートは困難です。そんな文章は、書き手の自己満足以上のものにはなりえません。》

 そして、さらに歴史家に必要なものとして著書は「情熱」を挙げている。「情熱」があれば良い、ということではないけれど、「情熱」の込められていない歴史像は面白くないと言う。このちょっと気恥ずかしい研究に対する「情熱」という言葉を、こんなところで出会って一瞬驚いたけれど、しかし研究を続けているとつい忘れてしまいがちなのがこの「情熱」なのではないかと反省する。
 読んで面白い研究書というのは、文芸作品を読んでいるときと同じように「わくわく」するものなのだ。たとえば、ミステリー小説のように、謎を解き明かしていく、そんな研究書はたしかにある。こういう読書経験を実際私は何度か経験したことがある。というか、書評でも書いて紹介したいと思う研究書は、たいてい読んでいて「わくわく」した本だ。「わくわく」しない研究書など、紹介しようとも書評を書こうとも思わない。
 読み手をわくわくさせることによって、読み手とコミュニケートする。これこそ、開かれた研究と言えるだろう。そして、歴史の絶対正しい認識ができない以上、「よりよい認識や解釈や歴史像」を手に入れるために必要なことなのである。
 読み手に何かを喚起させる力、それをもたらす書き手の情熱。私が論文を書くときにも、このことを常に心がけておこう。

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愛する人と共に生きる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

高橋留美子の作品は、よく言われていることだが、時間がまるで停止してしまっているかのように、日常生活がただ反復されるのが特徴と言える。このテーマはもちろん『めぞん一刻』でも受け継がれている。そもそもタイトルに『一刻』とあるだけに、時が主題と成していることは明らかである。そして、時間といえば、この作品の舞台となる古いアパート「一刻館」のシンボルである大きな古時計はすでに時を刻まなくなって久しい。

この作品の開始当初は、高橋留美子作品らしく、日常生活の反復を描いていた。つまり、五代君と管理人の響子さんを中心とした住人のエピソードが繰り返されていくスタイルである。しかしながら、この作品が一方で恋愛物語という性格をもっていることを考えると、こうした時間の停止している世界とは齟齬を来すはずだ。なぜなら、恋愛物語は、出会いがあり、交流を深め、やがて結婚に至るといったリニアな時間が流れなければ物語が破綻してしまうかもしれない。ただ単に住人間の戯れを描いているだけでは済まなくなってくる。

ここで、ヒロインの響子さんについて振り返ってみたい。響子さんは未亡人という設定で、高校時代に出会った音無先生と結婚したが、すぐに夫を失ってしまう。そんな過去を持って、音無家が管理していた一刻館の管理人としてやってくる。

大雑把に論じてみると、時間の停止した空間である一刻館という建物は、響子さんの内面を象徴していると言える。響子さんは、夫である惣一郎を亡くしたとき、その時点で時が止まってしまったのだ。なぜ、響子さんが時を止めてしまったかと言えば、惣一郎という愛する人を失ったショックや、さらに深い理由は、惣一郎を永遠に忘れまいとする思いがあるからだろう。時は残酷にも記憶を薄らいでいく。響子さんが恐れていたのは、惣一郎の記憶がだんだんと薄らいでいくことであったことを思い出すべきだ。こう考えると、響子さんが時間の無い一刻館にやってきたのも頷けることだ。したがって、物語は惣一郎が亡くなった時点で時間を止めてしまった響子さんが、新たな時間を取り戻すまでの過程を描いていると解釈できるだろう。

もちろん、響子さんに再び時間を与えるのは五代君である。五代君は、大学受験のために上京して一刻館に住み始める。そして大学に合格し、やがていろいろありながらも卒業。そして就職をする。五代君にはきちんとリニアな時間が流れている。つまり、一刻館の住人の中で唯一五代君だけが無時間的な世界の住人ではなく、現実世界を生きていた人物であることが理解できる。したがって、恋愛物語として『めぞん一刻』は、戯れの反復にとどまらずに五代君と響子さんの恋愛→結婚という、いわば、はじまりと終わりを持った物語を動き始めるのだ。

惣一郎が亡くなった時点で時を止めてしまった響子さんが、再び時間を回復するには、平凡な言い方になってしまうが、やはり「愛」が必要であったのだろう。すなわち、響子さんが五代君と共に生きるという決心をした時、響子さんの中で時が動き始めるのだ。逆に言えば、時を動かすには愛する人と共に生きなければならない。したがって、作品中で最も感動的といえる五代君のプロポーズの場面において、響子さんが五代君に求めた約束とは《お願い、一日でいいから、あたしより長生きして》であった。というわけで、時間を巡る物語は、響子さんが再び時を取り戻した時に結末を迎えるだろう。それが、物語の論理であり要請でもあるのだ。

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紙の本「心」はあるのか

2003/03/23 13:33

言語ゲームとしての「心」

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 普段何気なく「あなたの心が分からない」などと、「心」という言葉を使っているけれど、それでは「心」とは何だろう? 「心」はどこにあるのだろう?と考えてみると「心」には分からないことが多い。それゆえに、「心」への興味・関心が集まっているのだろう。
 本書の問いは、まさに「心はあるのか」である。もう少し限定するなら、「心」があることが自明でないとすると、では人々はどうして「心」があることを信じているのだろうか。
 この問いに答えるために、重要になるのが言語である。なにしろ、他人の「心」も自分の「心」も見ることはできない。見ることのできない「心」が存在するように感じられるのは何故なのか。それは、言葉が大きな鍵を握っている。ここでは、言葉をルールあるいはパターンと捉えている。言葉は、自分一人のものではない。ただ一人でしか使わない言葉はない。言葉は何らかのルールの下に誰でも同じように使うことができる。そこに言葉の平等性があり、そのような言葉を他人と使うことによって、コミュニケーションができる。そうやって言葉でコミュニケーションをしているうちに、なんとなく他人の内面が見えるような気がしてそれを「心」と呼んでいるのではないだろうか。「心」は、はじめからどこかに存在しているわけではない。言葉で作られているのだ。
 そのことを論じるために、紹介されるのが言語を哲学の考察の対象にしたヴィトゲンシュタインである。主として「言語ゲーム」が持ち出されるのだが、それは言葉の意味が言葉の用い方・使い方にあり、言葉の使われ方を見ているうちになんとなくルールがあることが理解されてくるということだ。ルールは、はじめから決まっているのではなく、使われているうちにルールらしきものが見えてくるという。
 となると、重要なのか振る舞いであり行為ということになる。
《言葉を話すことの外側に出来事があるのではなく、言葉を話すことそれ自体が、世界のなかに出来事を作り出している。》
ということで、たとえば、「愛している」と言葉にし、そう振る舞うことによって、愛情といった内面があるかのように感じることができるだろう。それを「心」と呼んでいるのではないだろうか。
 本書の最後で暫定的な答えとして、心はそのものとしては存在しない、《言葉や行為というその表れにおいて「心」》があると言う。自分にも「心」がある、だから他人にも「心」があるだろうという信頼や理解を前提にした振る舞い、これこそが「心」と呼ばれるものなのだろう。「心」を一種の「言語ゲーム」として理解した点が、本書の特徴であり面白いところだ。これをもとに、今度は「心」が具体的にどのように用いられているか、また、どのように振る舞われているのか、などという具体的な場面を考えることによって「心」とは何か理解することができるようになるのだろう。

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小津安二郎の反映画

2004/08/14 19:23

無秩序の世界

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映画監督吉田喜重が、小津安二郎を論じる。小津映画の何が魅力なのか、よくわかる一冊。これから小津映画を見るときに参考になるだろう。

吉田が小津映画に見るのは「無秩序」である。同一性よりも無秩序を好むのが小津なのだ、というのがこの本の主旨ではなかろうか。

それは、吉田がしばしば口にする「反復とずれ」という小津映画の特徴に象徴されるであろう。小津映画では、同じ場面や、一見すると同一に見えるショットが反復されることがあるが、それは絶対に同一なものではない。かならず、反復にはずれが含まれていて、けっして同一化することはない。それが、小津映画の特徴だ。

吉田は、小津の世界観を「無秩序」にみている。

《おそらく小津さんはこの世界を無秩序なものとして捉え、それに見合うかのように映画の表現もまた無秩序であり、まやかしにすぎないと考える人であった。(p.294)》

たとえば、『東京物語』を吉田は、さまざまな眼差しが反映しあう世界だと見ている。そこには、一つの世界に収斂させる特権的な眼差しは存在しない。それぞれの眼差しが相対的に交わるのだ。

《『東京物語』を数限りない眼差しの反映しあうドラマに見立て、言葉では容易に捉えがたい黙示録として読み取ろうとしたのも、そうした意味にほかならなかった。事物の眼差し、不在の眼差し、不可視の眼差し、無秩序なる人間の眼差し、聖なる彼岸の眼差し、秩序ある他人の眼差し、あるいは水の輝く揺らめきに宿る死者の眼差しといったものが、たがいに行きかい、限りなく乱反射しながら、あたかもこの世界の無秩序さに見合うかのように混在し、決して中心の主体となるような眼差しによって統一されないのが、小津作品のありようであった。(p.232)》

さらにほかにも小津映画には独特な特徴がある。

サイレントからトーキーへ移り、さらに現在に至るまで映画の技術はかなり高度なものとなってきた。そこには、より「自然」な映像を目指す工夫もあったのではと思う。しかし、たいていの映画監督や映画の観客が「自然」だと感じるものを、小津は逆に「不自然」なことだと捉えていたと吉田が論じているのは面白い。

たしかに、映像が「混濁」したり「不連続」であったりすることを、通常は回避するところ、小津の映画ではむしろ積極的に取り入れているように思える。小津の映画を見ることで、私たちの視線のあり方をもう一度反省してみる必要があるのではないか。何を「自然」だと感じるのか、何を「不自然」だと、私たちの視線は捉えていたのか?

小津映画というと家族物語が多く、難解な映画だというイメージはない。しかし、吉田喜重も書いているが、小津の映画を語ることは案外むずかしいことである。その難しさは、たとえば、「無秩序」に象徴される特徴にあるのかもしれない。小津の映画は、何度見ても、その都度新たな一面を見せる。「これが正しい解釈だ」という特権的な見方を許さないだろう。吉田の解釈は、また小津映画の一つの見方にすぎない。わたしたちも実際に小津の映画を見るべきだろう。そして、その後に再びこの本を読んで吉田の解釈が相応しいものかどうか、確かめてみるのも悪くないと思う。

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ことば、このやっかいなもの

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 ことばは自然なものだろうか、それとも人間によって作られた人口のものだろうか。このような問いが、言語学の歴史をたどりながら論じられていく。ことばは、人間の手ではどうにもすることができないものなのか。いや、人は言葉を変化させてきたのではないか。
 ことばを自然と見なして、ことばをまるで自然科学のように研究したのが19世紀の言語学だ。ここでは、言語は人間の手ではどうにもならない自然のような自立した存在としてみなされ、それゆえに言語を研究することは自然科学と同様に科学的であった。しかしながら、これは言語から人間を抜き取ることを意味する。
 一方で、言語は人間の作ったものであるという考えも現れる。人間がある意図を持って、あるいはある目的を持って言語を作ったのであるならば、言語がなぜそうなっているのかについて、人間は説明することが可能だ。
 ことばが自然か人工かという問題は、答えるのが相当困難なものだ。ことばは自然でもあるし、人工でもあり得る。そのどちらでもないのかもしれない。まさに「言語はほとんどすべての点にわたって、矛盾しあう二つの面をもっている(p.170)」と言えるだろう。
 さて、著者はこんなことばに対しどんな考えを持っているのか。それは、「自然に近い文化である」というものだ。

《文化とは人間が作ったものである。したがってそれは人工のものであり、自然物ではない。ところが、言語は文化ではあるが、より自然に近い文化である。それは、文化がさまざまに加工でき、変形できるのに対し、言語は草木がそうであるように、加工したり変形したりすることのいちじるしく困難なものであることからわかる。(p.160)》

 ことばには、自然のように人間の理解を超えるような部分もある。ある言語には性別の区別があるのに、どうして日本語では性別を区別しないのか。そうであるとしか説明がつかないようなことが言語には付きまとう。だから、言語=自然観も現れる。こうした背景から、ことばを「自然に近い文化」という第三の項目が示唆される。自然か人工か、無意図的か意図的かとは異なる項目の導入である。
 自然のように説明の困難な部分もあるし、一方で人間の意図を持って作られる部分もことばにはある。言語学が取り組む問題は、おそらく後者のほうなのだろう。たとえば、言語と民族の関係。ここには、政治という問題が絡んでくる。このあたりは、第三章でさまざまな具体的事例をもって説明されている。とくにモンゴルの北に位置するブリヤートにおけるブリヤート語とモンゴル語の問題は政治と言語の関係を鋭く抉り出していて興味深い。
 言語と民族の問題は、近年盛んになっているが、たとえ民族が幻想の共同体だとしても、ことばはどうなのか?と問いかける箇所は重要だと思う。

《民族は虚構だとしよう。では、ことばは虚構なのだろうか。民族はやめようと思えば、二、三日かけて決心すればやめられるかもしれないが、ことばは誰にもやめられないのである。民族は技術ではないが、ことばは技術である。しかも、簡単にとりかえたり一時的にやめたりすることのできない相当やっかいな技術である。(p.13)》

 ことばというものが、いかにやっかいなものであるか、これは本書を通じて私が感じたことだ。しかし、やっかいだからといって、ことばを捨て去るわけにはいかない。だから、私たちはことばについて考えざるを得ないのである。

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目から鱗が落ちた

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目から鱗が落ちるとはまさにこういう体験のことを言うのだろう、と思うぐらい勉強になる本だった。自然科学音痴の私は、いかに自分の知識が偏ったものであったかを思い知る。

本書の冒頭で、チューブワームという動物が紹介される。この動物は、水深2600メートル、300度の熱水の噴出孔近くに生息する動物だ。体長は数十センチから二メートルぐらいのものまであり、細い棒状の形をしていて、口と胃腸と肛門がないという。太陽の光が届かない深海で、熱水があり、栄養素である硫化水素に囲まれているということが、この動物にとっての「環境」なのだと言う。

地球には、このような「環境」で生きている動物がいるのである。この「環境」は私たちが指す「環境」とは全く異なっている。人間が指す「環境」がいくら破壊されようと、地球は存在するし、チューブワームのような動物が生き残るかもしれない。こうしたことを踏まえて、著者は、「地球にやさしい○○」「地球治癒」といった言葉には、「地球環境問題といったときの「環境」とは何であり、「問題」とは誰にとっての問題かという意識」が欠けていることを指摘している。つまり、環境問題で問題になるのは人間にとっての「環境」にすぎないことが分かる。

この部分だけを読んだだけでも、私には価値がある本だ。なぜなら、私が「環境問題」と考えていたことが、いかに人間中心であったか、ということを知ったからだ。自分の盲点をズバリと突いた意見だった。そもそも人文系の学問は、(私だけかもしれないが)ついつい人間を中心に考えてしまう。自分の環境は普遍的という思いこみが働く傾向があるのかもしれない。
他にも、道徳がどうして生まれてきたのか、ということをヒトの進化の過程から考察しているところなど、その説が妥当かどうかは私には分からないけれど、けっこう面白く読めた。

たとえば、自然淘汰というと強いものだけが生き残っていくというイメージがあるけれど、実はそれだけでは効率が良くないらしい。あるところで他人と協力したほうが、生き残る確率が高くなることがある。そうしたとき、協力をしない裏切り者をどうするか、ということが問題になるだろう。こうした過程のなかで道徳性が生まれてくる。要するに、市場と同じなのだと思う。自分だけが勝ち残るよりも、相手の出方を見て、それに合わせて競争したほうが、効率がいいということらしい。このあたりゲーム理論などを使って、うまく説明している。

それから、現代人であるホモ・サピエンスの脳に見合った集団の大きさというものがある。それによると、150人ぐらいの集団が脳に見合うサイズらしい。それ以上のサイズになると、脳はうまく捉えられない。

「あとがき」のなかで著者は、環境問題は「身の丈サイズ」を超えていることが問題であるという。だから、まず問題を「身の丈サイズ」に変換してから取りかかるのはどうかと述べている。この変換が現状を性格に反映できるのかどうかなど、問題が残るがこれも1つの提案として考える価値がありそうだ。

思うに、現代人は両極端なサイズに分かれているのかもしれない。まったく「身の丈サイズ」を超えたところで物事を捉えようとする人と、150人というサイズどころか1人の「身の丈サイズ」で物事を捉える人というような感じで。こうなると環境問題を話し合うのは難しいだろうなと思う。環境問題は、まず、私たちに相応しいサイズをどうやって共有するのか、ということから始めないといけないのかもしれない。

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紙の本夜明け前 改版 第2部下

2003/09/21 17:46

近代化と日本

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 『夜明け前』は藤村の代表的な長篇小説。岩波文庫で4冊と長いけれど、それほど時間が掛からずに読める。しかし、すらすらと読めるものの、この小説を理解しようとすると意外に難しいのではないか、と思う。とはいうものの、藤村的モチーフが現れるので、それを追っていくのが面白いかもしれない。

 たとえば、「狂気」のテーマ。この第二巻の(下)あたりから、それまでそれほど前面に出てこなかった「内部」というものが現れる。登場人物の「内部」が謎として出てきて、徐々に語りは「内部」へと進んでいく。と同時に主人公半蔵の「狂気」が生じてくる。しばしば、藤村における「狂気」の問題は、モデルとしての父と結びつけられて解釈される。しかしながら、反復される藤村的な「狂気」を作家に還元せずに理解することが、今後の研究の課題になると思う。

 それから、この小説の主題として「近代」(半蔵にとっては「近つ世」)がある。これは、「夜明け前」というタイトル通り、光と闇の対立で捉えることができる。これは、たとえば、啓蒙主義=近代=西洋というのは「光」であり、それに対する旧世界は「闇」となるというよく言われる構図を適用することが可能だ。さらに、物語の構造をみると、有名な冒頭部の「木曾路はすべて山の中である」とあるように物語の舞台となる「木曾」が、京都と江戸の中間地点にあたることが重要だろう。京都は、半蔵が望む「復古」の世界であり、江戸は西洋化する「近代」の世界である。つまり、半蔵はその二つのあいだで常に揺れ動いているということになる。最終的に、半蔵が「狂気」に陥るのは、「内部」という「闇」の中へ突き進んでいったからだと考えられる。半蔵が違和感を抱く「近代」化(この場合の近代化は西洋の模倣と考えられる)する日本で、「復古」を理想とし「闇」へ向かうのは倒錯的行為と見なされるだろう。

 こうした「狂気」は、西洋化する日本を半蔵が憂えるという、一種の愛国的な感情とも絡んでくるだろう。半蔵には西洋化する「近代」ではなく、日本独自の近代的世界=「近つ世」を望んでおり、このことは、すなわち西洋化という近代の道ではなく、別の近代の道があったのではないか、ということを物語は示唆する。こうした思想は、たとえば谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出す。このように、『夜明け前』には近代と日本という興味深い問題があり、今この時代に読み直す意味があると思う。

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紙の本雑読系

2003/04/03 02:12

「本」が待っている

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 「雑読系」のタイトル通り、様々な本が取り上げられ、評されているので読んでいて飽きない。こんな本があったのかと、紹介される本が読みたくなってくる。本好きによる本好きのための本。
 しかし、この本を書評集として読むのはもったいない。なぜなら、これは私小説としても読めるのではないか、という理由からだ。本書では、坪内氏と様々な「本」との出会い、因縁が語られる。「本」を通して自分自身を語っている坪内氏。この語りも本書の魅力である。
 それにしても、「本」好きな人のところには、「本」自らその人のもとにやってくるのだ。たとえば、松村雄策について語った文章ではこうだ。坪内氏は松村雄策の新刊を渋谷旭屋で見つける。最後の一冊だったのか、棚には帯が少し破れた一冊の本しかなかった。そして、「あぶない所だった」とひとりごちし、坪内氏はその本を手に取る。しかし、その本の編集者が旧知の人だと分かると、その本を棚に戻し、家に帰る。すると、

《帰宅後、ひと仕事終えてポストを覗くと、郵便物に交じってクロネコヤマトのメール便が入っていた。差出人を見ると二見書房だった。ウフフフフフ。あまりにもナイスなタイミングだ。》

そう、あまりに出来過ぎた話に、本当?と不思議に思うような出来事だ。それに、この「ウフフフフフ」という笑いが、また憎らしい。この笑み、本好きな人なら理解できるのではないだろうか。自分の欲しかった、読みたかった本を手にした時のあの至福の時を。

 さて、坪内氏が「本」との出会いを語るとき、それは当然のことながら本屋と結びついている。「本」を語りながら、その「本」を買った本屋についても語っている。それは、坪内氏が中学生のころから30年近く通っているという大雅堂という古本屋だ。そこで、はじめは、プロレス雑誌のバックナンバーを買い、やがて漫画を買うようになり、大学生になって文学の本を買うようになったこと。その本屋のご主人が出久根達郎が働いていた本屋の番頭の青年「加藤さん」であったことなどが語られる。そして、ある時、『尾崎一雄作品集』を見つけ、誰も買わないのであれば、時々一冊ずつ買っていこうと決めたとき、その古本屋が店を閉めることになった。

《二月二日、私は、大雅堂の中に入れなかった。何かを失ってしまいそうな気がして。それから毎日のように大雅堂の前を通りながら、しかもガラス戸越しに店内を覗きつつ、私は、やはり、大雅堂に入れなかった。『尾崎一雄作品集』の六冊は、ずっと売れ残っていた。
 そして二月九日に至った。ガラス戸越しに覗くと、『尾崎一雄作品集』の六冊が最後まで私の来店を待っていた。》

果たして、坪内氏はこの作品集を購入したのだろうか。それは書いていない。この最後の一文はまるで私小説のような書きぶりだと思う。「本」が坪内氏を待っている。何とも言えないロマンチックな風景だ。「本」がやってきたり、「本」が待っていてくれる。そんな坪内氏は、幸福な読者であると言えよう。「本」は読んでもらいたい人を選ぶのだろうか。そうならば、私も「本」に選ばれる読者になりたいものだ。

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百年の誤読

2004/11/07 11:19

笑わずにいられない

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とんでもなく面白い! ほんとに声を出して大笑いしながら読んだ。

過去百年間の話題作、ベストセラーに二人が突っ込んでいく。このツッコミがおかしくてたまらない。たとえば、こんな感じ。リチャード・バックの『かもめのジョナサン』を取り上げたところで、訳者の五木寛之について——。

《岡崎 どう読んでも、好きじゃないんだよ、五木さん、この本。なのに翻訳と解説。
豊崎 お金だね(笑)。(p.272)》

「お金だね(笑)」って、そのまんま。あまりにストレートに突っ込むのでゲラゲラ笑ってしまった。

でも、このツッコミがけっして本を貶めることではないのがいい。名作とか古典だと思われる本でも、よく読んでみるとおかしなところがいっぱいある、ということを教えてくれる。それが本を読むことの楽しさなのだ。

《そこが文芸ってジャンルの面白いところで、どんな古典でも、文芸関係のお偉いさんの評価をありがたがったりせず、まっさらな眼で読み直せばけっこう笑えたりするんです。(p.125)》

この言葉は良い。ほんと、その通りだと思う。本を読んでいて、苦しくなったらこの言葉を思い出したい。

この二人にかかるとどんな本にでも、面白い箇所、笑える箇所がでてくる。二人の才能というか、芸というか、そんなものを見せつけられる。あまりにも面白く本を読むので、なんか嫉妬してしまった。私も、この二人のように、本を楽しく読みたい。

本なんて読んでもつまらない、と思っている人はぜひ読んで貰いたい。そうすれば、きっと読書の楽しさを知るはず。また、読書好きな人にもお薦め。この本を読めば、ますます本が面白く読めるようになるだろう。

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紙の本漱石と三人の読者

2004/10/24 13:59

巧みなテクストの読解に感動する

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巧い。現在の文学研究者でも石原千秋は、特に優れた小説の読み手だと思う。この本でもその力は発揮されていて唸らされる。新書という本のなかで、コンパクトに明治文学の基礎知識を語り、その上で独自の漱石論を展開した本書は、明治文学研究の教科書としても非常に役立つだろう。この本の内容をまるまる暗記しておきたいと思った。

さて、本書のタイトルでもある「三人の読者」とは何者か。まず石原は、漱石が「読者」を常に意識しながら作品を執筆していたことに目を向ける。その上で漱石が意識していた「読者」とは何かについて、テクスト読解から浮かび上がらせていく。ここで、石原は「読者」を三つの層に分けた。それは第一の読者は漱石にとって「顔の見える読者」であり、第二の読者は漱石にも「何となく顔の見える読者」であり、そして最後の三番目の読者は「顔のないのっぺりとした読者」である。

「顔の見える読者」とは、たとえば漱石の周囲に集まっていた青年たちのことだ。実際に漱石の身近にいて付き合いのあった人たちである。では「なんとなく顔の見える読者」とは誰か。漱石は朝日新聞に新聞連載小説を執筆していたが、いわば同時代に新聞を読むような階層にいた読者のことだ。とりわけ本書では「朝日新聞を読む読者」ということになる。「顔のないのっぺりとした読者」とは、要するに漱石にはまったく予想のつかない読者ということになるだろう。したがって、漱石と同時代の読者というわけでもなく、「可変項」の読者、入れ替え可能な読者ということだ。こうした読者が、テクストの構造に組みこまれているのだというのが本書の主張なのである。

漱石はつねに読者を意識して執筆したと先に書いた。それはこういうことだ。漱石は仲間や知人にむけて小説を書き始める。やがて、朝日新聞に入社し大学の先生から小説家となった漱石は、この新聞を読む読者に向けて書くことになった。だが、『虞美人草』において、漱石はその読者に裏切られる。そして自分の意識していたものとは異なる読者がいることに気がつく。それが第三の読者ということになる。こうして漱石は新聞社の社員として、この第三の読者に向けても小説を書くことになるのだ。

では、その時漱石は何をしたのか? たとえば、小説中に「死角」を組みこむ。「死角」とは小説の主人公には見えない部分ということだ。小説の構造として組みこまれた「死角」は、読者に多様な読みを誘発することになる。つまり、漱石の読者意識の拡がりが、のちに漱石作品の多様な解釈を産み出すことになったのだということになるだろう。この論は、かなり興味深い。

本書の作品分析で、最も面白く興味深いのは『三四郎』の読解であった。ここで、美禰子がだれを挑発していたのかという点から、三四郎と美禰子が初めて出会う場面を読み解いている。当時の東大の構内地図などを参照しつつ、人物の動きを推測し、美禰子が挑発していた人物を探り出す。この読み解きはかなり面白い。

近代文学史の教科書として、また同時にスリリングな小説の読解を味わえる本書は、文学研究者のみならず、一般の「読者」にも充分楽しめる好著であると思う。

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ピュアになれ

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舞城王太郎はピュアである。いつだって純粋な物語を語っていたのだと思う。
本作『好き好き大好き超愛してる。』は、ストレートな純愛物語である。
登場人物の言葉づかいは、ちょっと下品だ。そのことによって、舞城のピュアな心を見えにくくしているかもしれない。
だけど、そんな表面上にごまかされてはいけない。『好き好き大好き超愛してる。』の登場人物たちは、みんなピュアなのだから。彼らには、少しも嘘やごまかしなどない。愛する人を疑うことなど微塵もない。だから「愛し過ぎるほど愛してみせる」というストレートな言葉が、かっこいい。
わたしたちも、この作品を純粋に読めばいい。そうすれば、きっとこの作品も「好き」になるはずだ。

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気の短い人たち

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 この本は良かった。なぜなら、けっこう現代思想の勉強になるからだ。
この本では、「自己決定」することが悪いということではなくて、「自己決定」するにも、ただ情報だけみんなに平等に与えて、さあこれで各自自己決定しなさいと、言われてもそれには限界がある、ということを教えてくれる。
 というのも、そもそも決定する「自己」が、そう簡単に決めることができないと指摘している。ポストモダン以降、普遍性が批判されている今、自己は他人との複雑な関係のなかで構築されるもので、私は今どんな状況にあるのか、ということをその都度確認していかなければ、つまりどんなコンテクストを持つ自己であるのか考えなければいけない。自己決定を進めている人は、おそらくこの「自己」がどんな文脈の中にあるのか、ということを検討するのを忘れているということだろう。
 「主体性」を求める西洋思想は、「気の短さ」に由来するという説を紹介していて、なるほどうまいこと言うなあと思わず納得する。要するに、何かを決定するにあたって、時間が短いほどよい。長く掛かれば、それだけ「主体性」が確立していないことになる。このあたり、デリダの音声中心主義批判を思い出す。西洋思想にある音声中心主義だと、よく言われるように「自分の声を自分で聞く」こと良いとされる。その根底にはおそらく直接性と即時性があるのではないだろうか。つまり、自分の声を「直接に」「時間を置かずに」聞きたい、という欲望が音声中心主義だと思う。純粋さを保つには、時間をかけてはいけないのだろう。だから、気が短くなってしまうのだ。
 どんな状況にある「私」であるのか。その確認を怠ってしまう。普遍性の確立が困難である現在、面倒ではあるが、自己がどんな「状況」なのかを常に考えることが重要である、ということを学んだ。

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