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サブルテさんのレビュー一覧

投稿者:サブルテ

8 件中 1 件~ 8 件を表示

文学の新しいかたち

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「三点確保」というなにやら謎めいたタイトルは、本書の魅力を十全に引き出すものであるにはかわりないが、それでもこの書が今日の文学の舞台に巨大な地殻変動を引き起こすようなうねりを秘めた知の結晶であることを誰に予想させようか。
 野口武彦に借りた三点確保の用語は、もともと登山用語である。重心をとるための、三点の位置、著者はこれを、ドイツ・ロマン主義、フランス象徴主義、そして日本の国学におく。これだけ聞くと、いわゆるトンデモ本の印象を受ける読者もいるかもしれないが、厳密なテクスト分析と時代検証に裏付けられた本書は、文学にとっての可能な限りの実証的研究であるともいえるのである。しかも、文学テクストの思想を読みとり、抑圧された文学の思想を明るみに出すかと思えば、哲学のテクストの文学性の欲望を読みとりもする。
 第一部のヴァレリーの読解とその周辺、ヨーロッパ精神、国際知的協力会議を世界史の文脈のなかで読み解くなかで、読解の方向は同時代のいわゆる近代の超克論とのアナロジー、その「連関」の方へと向かう。そう、世界はひとつになったのである。世界の極東で生じる出来事は、ヨーロッパに、アメリカに影響を与え、ヨーロッパはまたあまねく世界に広がる欲望となる。ここで問題とされるのは、一貫してナショナリズムの問題である。ヴァレリーなど、ある思想家を反ユダヤ主義と斬ってしまうのはたやすい。しかし著者の強靱な精神は、忍耐強い分析の作業によって、作家の論理のもつれの抵抗に対抗してゆく。
 安吾、そう「日本文化私論」の安吾のような冷徹な客観性をもって。デリダやラクー=ラバルトの思想を参照するときも、著者はそれらを鵜呑みにすることはしない。テクストの唯物論ともいえる、徹底的な忍耐強い読解の作業、それこそが著者にとっての作家への愛なのかもしれない。

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「エクリチュールと」はなにか?デリダの主著を読む。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本で最近、取り沙汰されることの多いフランスの哲学者ジャック・デリダの主著である。東浩紀の『存在論的、郵便的』のあと、いわゆる後期デリダなどというものが日本ではまことしやかに囁かれ、従来の日本の優秀なデリダ研究者たちのみならず「初期デリダ」まで葬り去ろうとする野蛮がまかり通っている。喫茶店にたまる大学生たちの声やインターネットの掲示板での書き込みなどからそんな暴力的なことばを聞く度に考えさせられるのは、「初期デリダ」なるものは実はほとんど読まれてこなかったし、読まれたとしても理解されてこなかったのではないかということである。そのような状況でひとり孤独に放置されていたデリダは、実に明解な整理を披露した気鋭の批評家の本によって瞬く間に現代思想の最前列に返り咲いたかのようである。しかし往々にしてそうであるように明解な整理ほど罪なものはない。デリダの思想はほとんど曲解されたやり方で流通し、デリダ=東のいうところによればなどという暴力的な同一視が氾濫することになる。
 デリダを読むには最近翻訳が進んでいる80年代以降の作品も重要であるが、彼の思想をもっとも裏切らずに汲み取るためには『根源の彼方に』をまずは読まねばならないだろう。その後に展開される数々のデリダ哲学を理解するために絶対に欠かせない著作であるからだ。とくに第一部に集約される「差延」や「痕跡」、「エクリチュール」などの諸概念(あえて概念と呼ぼう)は、もしもデリダが21世紀の哲学マニュアルに紹介されるならば筆頭に挙げられる記念碑的な成果である。
 「エクリチュール」とはなにか?それは単純に書くことや書かれたものであり、話すことや話されたことばに対立するものなのであろうか?そのように考える者はデリダを通俗的にしか理解していないことになる。なぜならば話されたことばも、さまざまな社会的な活動や生命の営みや歴史そのもの、あるいは経済もまた「エクリチュール」であることを、本書の読者ならば知るであろうからだ。
 後のサールとの「言語行為論論争」を理解するためにも、ぜヒとも必読の書である。翻訳は足立和浩の手によるものであり、硬質で歯ごたえがあるだけではなく原文に忠実である。なによりも丁寧に加えられた膨大な訳注が、いまは亡き足立氏の強靱な精神の活動の一記録となっている。

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情報様式論

2002/02/04 17:57

電子時代の本格的な言語社会理論

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 数年前に原書で読んだときはたいした印象も残らなかった。よくあるポストモダン理論による電子メディアの分析のひとつと思っていた。長い間、書庫に眠り、数々の(邦訳もされている)予言的トンデモメディア論のひとつと一緒にされていた… この書!

 文庫化によって、再読すると、印象が一転した。これほどの重量感のある情報社会論はほかにないかもしれない。しかも出版されたのが10年以上も前なのに、今日のインターネット社会を中心とする文化の問題点を明確に見抜いていたことには驚きだ。
 ボードリヤール、バルト、リオタール、デリダ、フーコーといった、アメリカの新文芸批評ではおなじみのフランス思想家たちの名前と、テレビCMやデーターベース、電子メディアの問題などが平行して語られてゆくなかに、なにかしらのいかがわしさを感じさせずにはいられない。
 しかし、ポスターは安易な現代思想の引用のコラージュをつくるよりは、思想家たちのエッセンスを手がかりに、可能な限りの個々の分野の文献の検証——経済学、メディア研究、フェミニズムなどいずれも専門のジャーナルなどを用いて——を行ってゆく。
 本書のモチーフは、マルクスやウェーバーをもとにした社会理論が電子メディアの時代では有効性を失い、記号学的な言語理論の方へと(転回ではなく)接続してゆかなければならないというものである。そのすごみは、ベルの脱工業化社会論を徹底的に批判した部分に現れている。その背景には、統計的な知によって文化事象・社会の全般を説明しようとする全体主義的な欺瞞を暴くという執拗な欲望がある。マルクスの慧眼を評価しながらも、そこにいまでは言語的な知が必要とされることを著者は主張する。

 この時代の人文的な知の方向について、もっとも刺激的な一冊であることは間違いない。とりわけ社会学や文学の学生に、また経済学や経営学の学生にも読んで欲しい。

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紙の本文化帝国主義 新装版

2000/09/02 00:12

グローバリゼーションを論じる前に

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「文化帝国主義」ということばが内容を欠いたままに虚ろにひとり歩きをする。そのような文化研究の現状に異議を申し立て、「文化帝国主義」に《関する》言説を読み解いてゆくのが著者の目的である。
 まず「文化」ということばも「帝国主義」ということばもまた定義が曖昧なものである。レイモンド・ウィリアムズをはじめとするさまざまな研究者たちの文献を渉猟しながら、著者は両語の組み合わせからなる「文化帝国主義」の一定の理解を試みようとする。その結果、いかに定義もなくこのことばが使用されてきたかが明らかになり、無数の研究者たちが弾劾される。そのなかには、米国つづいて英国が撤退することになった70年代末のユネスコでの第三世界の批判の隆盛も含められている。
 著者は「文化帝国主義」にまつわる言説をさまざまなタイプに分類する。たとえばハーバート・シラーやアルマン・マットラールのようなマルクス主義的な研究の潮流では、経済の支配がいかに文化に悪影響を与えるのかという点が厳密に議論されていない。マクドナルドやディズニーランドは無前提に「帝国主義」的なものとされ、それが一国の文化にどのように浸透してゆくのかというミクロなプロセスを見ようとはしない。

 今日、インターネットや情報社会が議論される時代にもういちど読み直しておいてもよい書物である。フランスの哲学者フーコーの方法論に影響を受けた研究の手順は、いかにも80年代の英米文化研究にありがちなものではあるが、著者の挙げる膨大な文献を渡り歩くだけでも十分に楽しめる書物である。

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若き知、退屈な日常のなかで

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 東浩紀の才能はみっつある。ひとつには、テクストを読み解くするどい分析的な知。これは、決して多くはない彼の文芸批評の仕事が示すところである。
 ふたつめは、哲学的な思考。彼のエレメントは、おそらく哲学研究にある。才能に恵まれたがゆえに、若くして文筆の仕事を始めた彼は、そのエネルギーを古典的な哲学研究に注いでいたなら並々ならぬ哲学研究者となっていただろう。しかし、彼の哲学的思考の才能は、著作のはしばしでいかんなく発揮される。それはものごとの原理を説明する知といってもよいかもしれない。これはひとつめの才能とも関連することだが、日本語・外国語にかかわらず「ことば」への鋭敏な感性を東浩紀はもっている。ハイデガーやデリダの語源的な探究を、日本的な知のなかに活かしたり、いまは語のレベルで発揮されているその感性をディスクールの単位にまで広げれば、東はまだまだ飛躍するはずである。
 最後にみっつめの才能は、現代文化を読者の視線でみつめられること。たとえば本書のオタク文化の分析がそうである。オタク文化のただなかにオタク的に生きる若者たちに、彼の分析は、距離をとること、客観的な対象にすることを許す。そうして、オタクの主体たちは、自らのオタク的対象との関係や距離について、納得のゆく説明を受けることになるのである。
 しかしながら、本書の魅力でもある思想によるオタク文化の説明は、どうもまだ両者の接続がうまくいっていないとの私感をもたざるを得ない。コジェーブの歴史の終焉のような大きな物語により時代の背景を説明することは必要であるかもしれないけれども、東が本書で語っている内容は必ずしもコジェーブをもちだすまでもないことであるし、コジェーブの哲学の曲解とも成りかねない。そうはいえ、この本がオタク文化の若者たちにとっての最良の思想入門書であることに違いはない。
 本領の現代哲学研究の場での成果の早い出版を願うものである。

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メディオロジーの誕生

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 レジス・ドゥブレ本人によるメディオロジーの最適の入門書である。読書対象は「学術書」となっているが、本書は陳腐で退屈な研究書ではない。闘う男ドゥブレによる新たな「マニフェスト」である。高等師範学校のエリートは哲学教授となる道を放棄し、ゲバラの下での南米革命運動に身を投じ、さまざまな政治的曲折を経てミッテラン政権下での外交顧問となってまたこれを放棄、ふたたびアカデミズムの世界に戻ってきた。ただし凡庸な学者としてではなく、毒に充ちた爆弾を抱えてである。

 メディオロジーは、いわゆる情報社会の波に乗る流行の学問などではない。人間的事象の歴史を「メディアシオン」(媒介)や「トランスミッシオン」(伝達)の視点から包括的にとらえようという革命的思想である。初期キリスト教の形成から社会主義革命や精神分析学の設立まで、またマス・メディアやインターネットの問題まで、歴史を縦横にかけめぐる学問である。70年代末から80年代初頭にかけての『フランスの知識権力』や『書記』や『政治理性批判』の《前メディオロジー三部作》ですでにメディオロジーの問題系は提起されていたものの、そこで扱われていたのは歴史のなかで制度がいかに権力を得るにいたるかという問題であった。
 その後90年代にはいって国際哲学院でブーニューとの共同セミナーを行うにあたって、メディオロジーは「技術」の問題を考え始める。メディオロジーは、政治や文化などの象徴次元の上部構造を規定する下部構造は経済ではなくて伝達の「技術」の様式であると主張するのである。『一般メディオロジー講義』や『誘惑する国家』や『イマージュの生と死』の《メディオロジー三部作》で研究される以上の問題を平明に解説するのが本書である。

 ソルボンヌでの博士学位論文審査会および指導資格審査会で読まれたふたつのテクストを収める。前者(第一部)はパリに壮絶なメディオロジー論争をひきおこすきっかけとなった。ソルボンヌの哲学科と政治学科を舞台に論争が繰り広げられ、なかにはマシュレーのようにパリを去ったものもある。論争はフランス全土に広がり、最近では情報・コミュニケーション科学の側の重鎮であるマイケル・パーマーたちがメディオロジーに与するようになったことでふたたび目が離せない状況にある。

 嶋崎氏による翻訳は読みやすさを重視した簡明な日本語となっている。まずはこの本でメディオロジーを知って欲しい。

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紙の本法の力

2000/09/02 00:10

法と正義と脱構築の(不)可能性

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 デリダの近年の仕事の最大のテーマである「正義」の問題をはじめて理論的に扱った書であり、間違いなく主著のひとつである。翻訳は、慣例にそぐわない記号類の使用(「法/権利」など)とルビの多様でやや読みにくいが、原語との関係を知りたいひとには重宝するだろう。

 アメリカの大学におけるふたつの講演の記録から成る二部構成だが、どちらもヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』における法と暴力についての考察が重要な参照となっている。第二部は同書の読解にほとんどがあてられている。ベンヤミンの暴力(ゲヴァルト)はフランス語や英語ではヴァイオレンスの意味にしか翻訳されていないが、本来のドイツ語には「国家権力」のような法によって正当なものとされた「権力」の意味もある。国家権力に対抗するものとして法によって認められた「ストライキ」もまた暴力であるが、ソレルのふたつのゼネスト(政治的ゼネスト/プロレタリア・ゼネスト)を読むベンヤミンは、ベンヤミンを読むデリダによって区別対立を脱構築するようにと導かれる。脱構築の主体はデリダでもなければベンヤミンでもなく、当初からその対立にある汚染の関係であり、読解のなかで「脱構築が生じるのだ」ということもいえるだろう。このようにデリダの手にかかると、法と正義の問題もまた密接に「読解」の問題設定のなかでの反省へと誘われるのである。
 読解、翻訳、メシアニズムの問題を貫いて、法や暴力、神話的なものと神的なものなどが脱構築されてゆく。しかし「正義」は《脱構築不能》なものとして残り続けるし、「脱構築」もまた《正義》であるという円環が生まれる。第一部のモンテーニュの「掟の神秘的基礎」を読むパスカル、そのパスカルを読むデリダもまた「脱構築の出来事」を生じさせるようにと誘う。「正義に従うのは正しいことであり、強い者に従うのは必然である」というパスカルのことばは、さてどのように解釈されてゆくのだろうか。

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紙の本ニーチェは、今日?

2002/02/19 21:54

20世紀フランス思想のなかのニーチェの巨像

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 本書は、20世紀のフランス現代思想におけるニーチェの重要性を改めて認識させる。それは、20世紀後半の世界の人文的知的風土におけるニーチェの影を映す書である、というのと同義である。本書収録の発表参加者であるデリダ、ドゥルーズ、リオタールのビッグネームはみなニーチェによって、それぞれの独自の思想の根っこが養われている。これほどさまざまなオリジナルな思想は、ニーチェという根っこが、20世紀という時代、そしてフランスという特定の場において、それぞれの色に花開いたものだというと言い過ぎであろうか。いわゆるポスト構造主義と呼ばれるものを括るのは、間違いなくニーチェ的な「感性」である。
 この感性を、歴史的な感覚(反歴史的な定位は歴史への鋭敏な感覚なくしては成立しない)と差異への繊細な目配り、そしてドグマ的な真理の拒否である。相対主義として批判されることも多いこのような思考であるが、果たして批判者たちはその歴史的意味を十分に認識しているのであろうか。
 とりわけ興味深いのは、各発表論文の後に訳者によってつけられた解説のなかに紹介される、コロックでの討論のやりとりである。そこでの賭金のひとつは「脱構築」である。正確には、ニーチェというテクストを読む際に働く、脱構築的な読解の正当性の問題である。これは本書最後に収録されるデリダの「尖鋭筆鋒の問題」を一読すれば、誰もが抱く疑問であろう。このコロックは1972年にスリジー=ラ=サルで開かれた。72年といえば、『余白』や『散種』の出版年でもある。初期のデリダの脱構築の枠組みが熟す時、つまり世界にその可能性を問うた時期である。スリジーは、その時々の最高峰の顔ぶれを集めて、年間を通じて大規模なコロックが行われる場である。その後、デリダ自身に捧げられたコロックが複数開催されることになる。
 冒頭には、クロソウスキーの発表論文が収められているが、彼はフランスへのニーチェの紹介者の代表的な人物であり、全集の訳者として貢献しただけではなく、『ニーチェと悪循環』のような、生と著作をひとつの作品として同時に読むなかから、シミュラークルやパロディといった重要概念を提供した書も書いている。
 リオタールとドゥルーズは明らかに共同歩調をとっている。ブランショやバタイユ、フーコーという、「外の思考」と、ニーチェの経済学的(バタイユの意味での)な受容の可能性を問う。一方で、デリダはハイデガーを経由しながら、形而上学の破壊者としてのニーチェを見る、これを脱構築する。ある意味で、クロソウスキーの継承を巡る争異がそこには見られる。
 クロソウスキー「悪循環」、ドゥルーズ「ノマドの思考」、リオタール「回帰と資本についてのノート」と続くが、やはりデリダの論文がポイントとなる。しかしそれにしても、語義や語源にこだわる読解の厳密さゆえに、訳文がやや読みにくく思われるのは残念である。表題についても、styleの訳は、従来用いられてきた「尖筆」で十分なように思われる。訳者が、丁寧な訳注をつけているので、読者は十分にその意味的広がりを理解できるだろう。ハイデガーの翻訳にならった仏教用語の借用については、森本氏の知識をもってすれば、当然その背景にある連関が問題となるのだろう。この点については、納得させられる。

 いずれにしても、全体的に丁寧な訳であることには違いない。訳注も解説も豊富である。

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