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    3月のライオン(1)

    3月のライオン(1)

    羽海野 チカ(著),先崎 学 (将棋監修)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

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    はらぺこあおむし 改訂

    はらぺこあおむし 改訂

    エリック=カール (さく),もり ひさし (やく)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

読ん太さんのレビュー一覧

投稿者:読ん太

238 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本逃亡 上巻

2001/10/26 21:44

逃げろ、逃げろ!で、長編一気読み

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第2次大戦中、憲兵として香港や広東に従軍した守田。中国人の統括、規制、あるいは英人のスパイ摘発に血道を上げて国に忠義を尽くすが、敗戦とともに「戦犯」という烙印を押されて立場は180度転換してしまう。守田の長い逃亡生活の始まりだった。 中国人の手から命からがら日本に逃げ帰った守田ではあったが、そこでも彼には安住の地が与えられてはいなかった。警察から逃げ惑う様は、まるで脱獄囚のそれと同じである。全編逃げて逃げて逃げまくる。息のつまるような長編作品だった。
 逃亡生活を続ける守田の頭に、彼が憲兵だった頃の思い出が浮かぶ形で、戦中・戦後の描写が交互に現れる。故郷の住民に万歳三唱で送られる守田・故郷の住民に白い目で見られる守田一家。軍服姿で馬にまたがり颯爽と海岸を駆け巡る守田・着る物も食べる物もろくになく垢にまみれた守田。スパイ容疑人を拷問する守田・独房で体を折り曲げて寝る守田。戦中・戦後で見事なまでに事態は対称を成す。
 敗戦国に対して戦争責任を問われる戦犯について、これほど考えを深めたことは今までになかった。戦争は個を消し去る。それゆえ、戦犯の裁判は形式的なものになり人身御供として死刑や重刑に処せられた人々がどれほどいたことだろう。戦争とは殺し合いだ。その点では純粋に罪の意識を持つだろうと思う。しかし、天皇陛下のために命を捧げて戦ってきた我が身がこの世から抹殺され、天皇はのうのうと生き延びている事実を彼らはどのように受け止めていただろうか?  
 サラサラと読むにはあまりにもテーマが重い。帚木蓬生のスピード感あふれる筆によってこそ読み終えることができたように思う。今まで何作か帚木氏の作品を読んできたが、『逃亡』は彼にとっても特別に思い入れの強い作品であるのではないだろうか。自身の使命というものをはっきりと持っている作家だと思った。
 彼から受け取るものは両手に抱えきれないほど大きなものであった。

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紙の本アルケミスト 夢を旅した少年

2002/06/16 11:13

夢は向うもの

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 羊飼いの少年が、夢で見たエジプトのピラミッドのそばに眠る宝物を探しに、旅に出るお話。
 以上、あらすじ終わりである。たったこれだけの物語である。少年が宝物を手にすることが出来るかどうかと話は盛り上がりに盛り上がる…ことはない。始めから終わりまで淡々と少年の旅は続く。

 『アルケミスト』は、著者のパウロ・コエーリョの人生観を一つの物語にしたものである。彼は、自分の人生観を単純な物語に乗せて語りきった。単純な物語には、彼の思想を思いっきり織り込める余地が残されている。そして、物語の単純さは、童話でも楽しむような感覚で読者に迎え入れられ、その後あるいはその最中に爆裂し、読者の内なる感動を呼び起こす。
 感動は、ストーリーによってもたらされるものではなく、あくまでも読者の内からもたらされる類のものであるから、パウロ・コエーリョの人生観に対する共感度によって、それぞれに感動の度合いが異なるものになると思う。私は、著者の人生観にほぼ100%共感する類の人間であったので、読んでいる最中から読後から感動の嵐が吹きまくりであった。

 私は、自分の人生を堅実なものにしたいと思っている。そして、本書には、人生を堅実にするための歩み方が書かれている。堅実なものにするためには、危ないことをしない? 失敗しないようにする? お金を貯める? 社会的地位を確保する? 子孫を増やす? いえいえ、答えはただ一つ。夢を追うこと。
 夢の行方を見極めるには、つねに自分の心の声に耳を傾ける必要がある。心は時には嘘をつく。心から真実を引き出すのは、その心の持ち主である自分の手腕にかかっている。
 耳を使ったならば目も使う。物や人に対して、それぞれに一番焦点が合う距離を保ってしっかりと見る。すべてを見る。『この世が存在しているということは、ただ単に、完全なる世界が存在するという証拠にすぎない』ことが見えてくるだろう。
 堅実な人生とは、見ない聞かない望まないではなくて、見て聞いて望むこと。危ない橋を渡らないのではなくて、決心をすること。そして、『決心するということは、単に始まりにすぎない』のだから、堅実な人生とは、なんとも大忙しで浮き沈みの激しいものである。

 夢を追うなどは子供のすることだろうか? そんなことしている暇なんてないだろうか? だけど、「そんなこと」が、しっかりと自分の人生に関わってくるものだとしたら? 自分をしばっているのは自分だけである。親も兄弟も労働も社会も、自分をしばって動けなくすることはできない。自分をピクリとも動けなくするのはすべて自分である。

 パウロ・コエーリョは、『アルケミスト』の登場人物に次のような言葉をしゃべらせている。
 『人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ。』
 全宇宙が協力してくれる! 素敵な一文だと思った。

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紙の本アフリカの蹄

2001/10/20 23:39

♪ンコシ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 心臓移植の研究でアフリカに留学した作田信という医師が、その地で見た黒人廃絶の為の極右組織による陰謀工作に立ち向かうというお話。文中では国名は出てこないが、アパルトヘイトが実施され黒人が家畜のように扱われている状況を示しており、これは間違いなく南アフリカ共和国を舞台にしたものであるというのがわかる。
 南アフリカ共和国で制憲議会選挙が行われて、南ア史上初の黒人大統領(マンデラ氏)が誕生したのが1994年だが、本書では、黒人が選挙権をまだ与えられておらず、ホームランドと呼ばれる土地の痩せた狭い地区へと強制移住されている頃が背景に描かれている。アフリカーナーと呼ばれる白人達がのさばり、「名誉白人」という特権を享受した日本人がふんぞり返る。彼らの目には黒人は皆同じに映る。無理に分類してみれば、ゴミ、家畜、奴隷のいずれかに分けることができるかという程度。
 本書では、撲滅宣言が成された天然痘ウィルスが、黒人廃絶のための秘密兵器として使われる。ミサイルだ何だと恐ろしい武器は数多くあるが、ウィルスが強力な武器になり得る可能性を示されて身の毛がよだつ思いがした。
 いつもながらに読者の視線をグイと広げてくれる作品となっている。人間の本性を多面的に表現してくれており、スラムで働く黒人医師サミュエル、作田の恋人パメラ、靴みがきの少年オリバー、宿無しの黒人イスマイルなどの登場が負の部分を取り消しにしてホノボノとした読後感を与えてくれる。
 白人対黒人のみを扱っており、黒人の部族間の対立については一切描かれていない。実際の南アフリカ共和国はこの本の中身ほど単純なものではないとは思う。しかし、この本には「すべてを奪われた人間でも<精神>は残るのである」ということが繰り返し書かれている。様々な状況において、我々が「何をすればいいのか?」あるいは「何をしたらいけないのか?」が自ずとわかってくる。
 最後に、文中で作田が心臓移植手術について想いを巡らせる個所があり、これが私の頭から離れなかったので紹介させてもらいます。「…作田の頭には0.5+0.5=1.0という数式が思い浮かぶ。半分死にかけた人間が二人いるよりも、一方を確実な死に至らしめ、他方に十分な生を与えるのが心臓移植だ。数式はそれを何の感傷も加えず表していた…」

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救いを求めるのであれば、知ることを恐れてはいけない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アウシュヴィッツ他ナチスの収容所を、かつて囚人の一人として捕らわれた心理学者、フランクルが描く。
 全体の構成としては、まず70ページ近くもの「解説」が最初に持ってこられている。普通「解説」といえば巻末にくるのだろうが、巻頭に持ってくることによって、収容所の全体像を読者に理解させた上で、次にくるフランクルの手記にフォーカスをあてて深読みできる仕組みになっている。
 「解説」によって、ガス室だけに限らないありとあらゆる虐殺の方法を知ることになった。石炭酸の注射(死の注射)で何万人もの人が殺された。銃殺ももちろんあった。人体実験による死者も山のように(殺された人々は、まさに「山のように」積み上げられるのだ!)あった。飢餓と重労働で毎日多数の死者が出た。栄養不足と衛生状態の悪化によりチブスが蔓延するが、病人は紙くずのように放り出されたままだ。
 これらの虐殺に手を染めた収容所の人間の多くは、元は暴力犯罪のために長期の刑に服している犯罪人であった。収容所運営には、残忍でサディスティックな性格を持った人材が必要不可欠だったのだ。

 「解説」に続くフランクルの手記は、収容所の悲惨な生活を描写することを第一の目的とはしていない。囚人の身であったフランクルが、その体験をもとに、心理学者の目を持って冷静に「囚人の心理状態」を分析していく。アウシュビッツ到着から、それに続く長く苦しい収容所生活。そして、ついに解放の時を迎えるまでの心の動きを追う。
 体は棒切れのようにやせ細り、すべてを奪われ、残っているものは腕に入れられた囚人番号を示す入れ墨ばかり。こんな状況にあって、唯一彼らが持ち得るものがあった。それは、「精神的自由」である。この精神的自由は、何人によっても奪い去ることはできない。たとえ死を持ってしても。

 運命というバケモノのような手を恐れる気持ちが薄れていくように感じた。そして、運命を享受する勇気と、さらには、それをゲーム的に楽しむ余裕すら持ち得ることを教えてもらった。ロングセラーを誇る本書であるが、その理由は、ただ悲惨な歴史的事実を語るのではなく、究極の状況においてこそ表れた精神性について書かれてあるからだろうと思う。暗い気持ちに終始することはなかった。元気になれた。
 巻末に付されている、「写真と図版」は目を被いたくなるものばかりではあるが、これまでの文章を読んだ後には、それぞれの写真を直視し、歴史的事実を頭に刻み込もうとする自分がそこにいるのに気付いた。本書の構成は、全く理にかなったものであると言えよう。

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紙の本ポプラの秋

2001/11/14 11:51

心模様があやしい方はすぐに『ポプラの秋』を処方してください

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 おばあちゃんがいい味を出す小説が好きだ。久世光彦『卑弥呼』のばあちゃんもなかなかのものだったが、本書『ポプラの秋』に登場するばあちゃんも負けてはいない。上の歯が全部抜けて下の歯は3本だけなのでポパイのような顔をしていて、よそいき用に入れ歯を入れると人相が変わってしまうばあちゃん。愛想は悪いし口も悪い、子供は嫌いと三拍子も四拍子もそろった筋金入りだ。
 このばあちゃんと、お父さんを亡くしたばかりの6歳の女の子の関係を描いた物語。キーワードは手紙。女の子はせっせとお父さんに宛てた手紙を書き続ける。「手紙というのはやはり、郵便屋にしろ、海に浮かぶ瓶にしろ、何かに運ばれて行ってこそ、書いた者の心がほんとうに解き放たれるもの」と考えるばあちゃんは、死んだ人にも手紙が届く方法を女の子に伝授したようだ。
 ばあちゃんは、白衣など着ていないし、もちろん看板も出していないけれどピカイチのカウンセラーだ。女の子の心は徐々に解き放たれていく。女の子だけじゃない、近所の人達のセラピーも引き受けている。お代もしっかり受け取ります。この辺はばあちゃんのこと、ぬかりはない。
 『ポプラの秋』を読んだ人の心模様は、「大笑い時々しみる!」でしょう。なかなかに良い心模様のようでございます。

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混乱するアフガニスタンにどっしりと腰をすえる人がいる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中村哲氏については、中村哲著『医者 井戸を掘る』(石風社)を読み、パキスタンとアフガニスタンを中心にして医療活動を行うNGO ペシャワール会の現地代表であることを知った。『医者 井戸を掘る』では、2000年のアフガニスタンの大旱魃の様子から、ペシャワール会が井戸を掘るNGO活動について書かれたもので、活動の様子は2001年9月の米同時多発テロが起こる直前までが綴られている。
 本書『ほんとうのアフガニスタン』では、ペシャワール会の発足当初の様子から、『医者 井戸を掘る』の内容とも重なる水確保の為の井戸掘り活動について、そして米テロ事件の勃発からその後のアフガニスタンの様子とペシャワール会の対応についてが綴られている。

 中村さんは、18年も前からパキスタンのペシャワールを中心にして地道な医療活動を続けて来られた人だ。中村さんが語ってくれるアフガニスタンやアフガニスタンの人々の様子は、ニュースで見るような抑圧された人々ではない。ニュースでは、イスラム原理主義や武器を持つ兵士、そして米国側が口角泡を飛ばして叫ぶ「報復」という恐ろしい言葉など、色々なものが飛び込んでくるが、私の頭は混乱するばかりだった。どこから湧き出してきたのかと驚くほどの多方面からの評論家や大学教授などの言葉を聞いても、混乱は増すばかりだった。
 中村さんによって、アフガニスタンの地に暮らす人々に対して、血の通わぬのっぺら坊の人形のようなイメージから、人情味のある人懐っこい笑顔を持った、日本人に対して親近感を持っている人々のイメージにすり替えてもらえた。当たり前のことだけれど、戦争はコンピュータゲームとは違うのだということを心底実感した。

 大きなことをやってのけている中村さんだが、人に「大いなる志を持ちなさい」などということは言わない。それどころか、『はじめから張り切って、人のために役立つと言って来て、役立てることはほとんどないのです。』と話し、とにかくどこにでも行ってみること、そうすると縁が出来て、縁から縁へのつながりが自分の生きる道を示してくれるというようなことを言われる。肝心なのは人だということだろう。現地でも土地の人々の慣習や文化を大切にするのが鉄則だ。人と人とは、言葉が違っても分かり合えるものだと思う。しかし、それぞれに持っている慣習や文化は独自のものだから、自分の持っているものを強要するのは、最初から縁を拒絶しているようなものである。瀕死の小国に世界中の超大国が束になってしていることは、縁を拒絶した強要である。

 翻弄される小国アフガニスタンが、激しい移り変わりを見せる中、中村さん達ペシャワール会はいつもと変わらぬ活動を続けるばかりである。ハンセン病の根絶を最終目的にしているが、医療を受けられない人々への医療活動や、自然災害や戦争によって荒らされてしまった土地の人々が難民にならないような食糧援助活動なども黙々と続けている。

 私は、中村さんの著書によって、ブレそうになる軸をしっかりと据え直してもらえたような気がした。生きがいのある人生を歩む方法というものを伝授してもらったようにも思った。

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紙の本ねこに未来はない

2002/04/01 21:48

文章が歌い、陶酔が訪れる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 先日、長田弘『読書からはじまる』を読んで、とても幸せな気持ちになれたので、「いっちょ、他のものも読んでみよう」と手に取ったのが本書である。こちらは、全く猫に興味がなかった長田さんが、結婚後に奥さんの提案で猫を飼うことになり、「猫を飼うこと」一年生の長田さんと奥さんが四苦八苦しながら猫を育てていく様子を綴ったエッセイだ。
 またまた幸せな気持ちでいっぱいになれた。『読書からはじまる』の余韻が残っていたのもあるかもしれないと冷静に考え考えしてみた。結果、『ねこに未来はない』単独でも十分に幸せになれる!

 私自身は、特に猫に思い入れの強い方ではないと思う。生まれた時から団地住まいで、猫とも犬ともいっしょに生活をしたことがない。飼いたいと思っても飼える状況ではなかったので、なるべく彼らといっしょに生活する自分などは想像しないようにしていた。こんな私でも、長田さんのエッセイを読むと、「飼えていいなぁ」って思いなどは通り越して、一つの幸せの形みたいなものを共有できて嬉しかった。

 長田さんの書くものを読んでいると、気持ちがとてもゆったりとしてくる。これは長田さんのライフスタイルから来るものとはまた違うように思う。特に、このエッセイが書かれた当時は、長田さんは結婚したてで夫婦共働き、猫を飼える家に住むべく、一畳のそれこそ猫の額ほどの庭付きの家を借りて生活費を搾り出す毎日だった。
 ハートスタイル、こんな言葉聞いたこともないけれど、長田さんは素敵なハートスタイルを持っている人。たとえば、まとまったお金が出来たとして、数ヶ月あるいは一年ぐらい仕事をせずに好きなことをして暮らしたとて、気持ちがゆったりするとは限らないのよね。ハートスタイルの貧しい人は、ライフスタイルを変えてみたって、何も変わりはしないんだってことを教えてもらえた。

 ところで、長田さんは詩人だそうである。私は、長田さんの詩をまだ知らない。ちょっと失礼な奴だ。しかし、長田さんのエッセイを読んでいると、「いかにも詩人!」と感じられる心にジワッと広がる表現が、文章に織り込まれているのに気付く。これがたまらない。

 最後に、長田さんの「心にジワッと広がる表現」を少しだけご紹介して終わりにします。

『仲睦まじい二ひきのねこが日陰でゴヤの裸のマタハリのようにねむりこけている単純な風景。
 綺麗な厚表紙の童話の本をぱたりと閉じてしまうような夏の終わり。
 しまいわすれた風鈴が忘れられた死刑囚のように吊られて鳴っている九月。
 それでも、仲睦まじい二ひきのねこが日向でゴヤの着衣のマタハリのようにねむりこけている単純な風景。』

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紙の本ヒトラーの防具 上巻

2001/10/13 09:02

ゲームを楽しむ人間の下で運命をもてあそばれる人びと

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『総統の防具』というタイトルで単行本になっていたが、文庫化するに当たって『ヒトラーの防具』と改題された。
 東西ドイツの壁が取り払われて久しいベルリンの街を、剣道仲間が車を走らせている。道すがらネオナチのデモ行進を目にしたりしながらベルリン経済大学の倉庫に到着して彼らが見たものは、日本がヒトラーに献上した剣道の防具一式「ヒトラーの防具」と香田という日本軍人が所有していたノートと手紙の束だった。
 ここで時代は一気に逆戻りし、1938年4月、ベルリンに赴任した香田の手記から物語が展開されていく。ヒトラーはすでに神格化されたような存在になりつつあり、ドイツ国民は本来のドイツ国民ではなくなりつつあった。日独伊三国同盟樹立、アメリカによる日米通商条約破棄、独ソ不可侵条約、独軍ポーランド侵攻、英仏の対独宣戦、日ソ停戦、日本の真珠湾攻撃、日米開戦などページをめくるごとに目まぐるしく変化する世界が展開されるが、過去の歴史を再確認するというよりも「国盗りゲーム」の成り行きを見守っている感覚が先に立つ。そして、この「国盗りゲーム」がゲームではなく人間と人間が血を流し合った本物の戦争であったことを考えた時、恐ろしさに身震いが起こり、人間の浅はかさを肝に銘じられる思いがした。
 希望に燃えてベルリン入りを果たした香田だが、ミュンヘンで精神病院の医師をしている兄、雅彦から患者の間引きや人体実験の事実を知らされ、またユダヤ人連行の現場を見て、無力な自分を感じながらも「狂気に引きずられて驀進するドイツ」をしっかりと見ることが自分の使命と考えるようになる。
 ヒルデという女性との恋愛、ベルリンフィルのオーボエ奏者ルントシュテット氏とその妻、家具職人のヒャルマー爺さんなどとの暖かい交流を描いた物語が「国盗りゲーム」の残酷物語に重なって、美しくも悲しい協奏曲を奏でている。
 香田が戦争を博奕(ばくち)に例えている個所が印象に残った。
 「…この論理こそ博奕の論理、それも博奕で身代をつぶした男の考え方と相似ではないか。博奕をやめれば、今まで損した分を取り返せない。損失分を取り戻そうとしてまた博奕に手を出す。それも危険度の高い方に張ってしまうのだ。そうやって元手をすっかり無くしてしまうまで、この狂態は続く。」

 ベルリンの街がズタズタに壊れていく中で香田の手記は終わるのだが、この最後の部分でアッ! と声をあげる最大の山場が残されている。
 本書は、壮大な構想のもとに仕上げられた傑作サスペンスである。

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お気に入りの本屋さんありますか?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昨今の不況、本離れ、書店の大型化、ネット書店の出現など色々な理由から、年間で何千という書店が廃業に追い込まれている。私の住む神戸も例外ではない。ポツポツと店をたたむところが後を絶たない。その中には、何度か本を買い求めたお店も含まれていて、「不便になるなぁ。」「時代の流れというものかなぁ。」と寂しい思いがした。
 『烏書房』という本屋が、2001年10月に閉店した。「不便になるなぁ。」とは思わなかった。元々便利な場所にあったわけではなく、元町から鯉川筋という通りをテクテク歩いて登らなければたどり着かないお店だった。わざわざ行く道すがらがワクワクとなるような本屋さんだった。「時代の流れというものかなぁ。」とは思えなかった。『烏書房』が潰れてしまうような時代の流れなら、この時代はどこかが狂ってきていると思って悔しかった。私が『烏書房』を知り、すぐに虜になってしまった後3カ月の出来事である。

 『街の本屋が「カア!」と啼く』は、前出の『烏書房』の店主であった川辺さんの手記である。副題が「からすの本屋熱血風雲ボンボンビンボ録」となっているように、支払いに追いまくられながらのビンボ(貧乏)な毎日が綴られていて大笑いしてしまう。ビンボの様を読んで大笑いとは何事!と眉をひそめる向きもあると思われるが、『星を売る店』を作り続けた川辺さんの周りには、ビンボも恐れをなして逃げていくような(実際は逃げて行ってはくれなかったのだが)、飛び切りの人達が集まっている。そして、その人達を交えたエピソードは、最高に楽しくて最高におかしくて最高に暖かい。
 とうとうお金が行き詰まって、本を仕入れることができなくなったので閉店を余儀無くされた『烏書房』。閉店の日、川辺さんは一人涙しながら片付けを…、しなかった。地元はもちろん、全国津々浦々から『烏書房』を愛する人々が押し寄せ、最初で最後の「本屋で飲む会」が盛大に行われたのだ。

 本書には、川辺さんの手記の他に太郎吉野氏執筆の短編小説が4編収められている。川辺さんは小説家でもあり、小説を書く際には「太郎吉野」という名に変身する。後半に収められている『平成くだんがたり』『猫寺』と読み進めていくと、前半の手記は遠いかなたに飛んで行ってしまい、それぞれのストーリーにぐいぐいと引き込まれた。
 『平成くだんがたり』では、ド田舎にマイホームを持った悲哀の漂う家族と、そこにやって来たおかしな顔をしたテッチャンという牛の物語をファンタジックに描いている。現実感とファンタジーの振りかけ具合、混ざり具合がたまらない。このたまらなさ加減は、『猫寺』でも同様である。
 『烏書房』のことは頭からすっかり抜け落ちて、太郎吉野の世界にどっぷりつかりかかったところで紙がつきた。「あぁ、残念。」と思っているところにふと思い出したのが、本の間に挟み込まれていた『まぼろし文庫』という豆本である。「これは何だったのだろう?」と開いてみると、あった! ありました。太郎吉野氏の短編がまだあった! 『猫と地下足袋』と『おかん箱』の2編が、かわいらしい豆本にチンと並んでいた。本体を横に置いておいて、豆本にいそいそと取り掛かった。全く「いそいそ」という表現がぴったりの心持ちだった。

 『烏書房』はなくなってしまったけれど、川辺さんはこれからも私に満点の星空を見せてくれることだろうと思う。
 おひとつくださいな。川辺さんにもらった星は、ポケットに入れても輝きが消えることはなかった。

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手を伝う水を見る、これが命の水

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 米テロ事件、その後の報復戦争。衝撃の映像がテレビで繰り返し流され、「報復」という恐ろしい言葉が繰り返し叫ばれる中、「何があったのか?」「何が行われようとしているのか?」をもっと知らなければいけないとの思いとは裏腹に、心臓はドキドキと打ち、気が付けば、目をしっかり閉じて両の耳はしっかりと手で塞ぎ口は一言も発せぬように真一文字に結んでいる自分がいた。
 どうしようもない焦燥感に襲われていた私を、『医者 井戸を掘る』が救ってくれた。
 本書は、テロ事件やタリバンに言及したものではない。2000年にアフガニスタン、パキスタン周辺を襲った大旱魃について記したものである。PMS(ペシャワール会医療サービス)の院長である中村哲さんが、旱魃によって赤痢などの伝染病が多発し始めた背景から、「医療以前に今は水の確保である」との判断から、WATER SUPPLY PROJECT(水源確保計画)を開始して、各地に井戸を掘る一大事業を推し進めた。中村さんの報告は、2001年8月、ニューヨークでテロ事件が起こる寸前のところで終わっている。しかし、井戸掘り作業に関連して出てくるタリバンは、「超原理主義」という国際的非難を浴びているにかかわらず、アフガニスタンの秩序を守るには唯一頼れる存在であり、また、大旱魃で何十万という人々が死と背中あわせになろうかとしている時に、国連は、米露の提案で「タリバンの制裁」を決議した。渇きに喘ぐ人々に援助は行われず、反タリバン派への武器援助は山のように行った。
 PMSの活動を通じて知ったアフガニスタンの状況から、あの米テロ事件が決して天から降ってきたような突飛な事件ではなかったことが理解できた。

 不幸にも弾丸が飛び交うような危険な場所になったところにも、人が住んでいる。恐い思いをしながらも生活をしている。大旱魃がやってきて水が不足したからとて、「それでは、水があるところに移りましょう」とはいかないもの。「そこに人がいる」こと、「そこがその人の故郷」だということ、この世界にバケモノはいないこと、言葉は通じなくても通訳してもらえれば理解ができる思いを持つ者達だということ、これらのことを私は感じきれていなかったのだと思う。
 中村さん達が黙々と井戸を掘る姿を知って、自然から100%拒否されない限りはそれぞれの土地で生きる術を見つけるという、地味であって、もしかしたら無駄な抵抗になるかもしれないことが、しかし一番当たり前で自然なことだとわかった。

 PMSは、医療を目的とした団体である。ハンセン病の根絶を目指している。多くの困難の中、直線的には事が進まず、今回の井戸掘り事業もその現れである。まだまだ道のりは遠いのかもしれないが、私に地球をギュッと抱きしめる感覚を残してくれた中村さん、これからもどうかがんばっていただきたいと思います。

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紙の本わたしのろばベンジャミン

2002/04/18 22:35

絵本であり写真集でもあるけれど、中途半端ではない

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 写真絵本。
 最初のページを開くと、『こんにちは。わたしのなまえは、スザンヌです。でも、まだちいさいので、みんなは、わたしのことをスージーといいます』の文とともに、丸々と太った愛嬌のある女の子が、右手をオーバーオールのポケットにキュッとつっこみ、左手は「ハ〜イ!」という風に高々とあげている写真が飛び込んでくる。顔も丸いし、手も丸い、丸々した足には丸くてかわいらしい靴をはいている。思わず、「おっ、なんだよ、おまえ」と笑いながら写真に話しかけてしまう。
 さらにページをめくると、スージーが、友達のろばのベンジャミンと並んで写った写真。自分の背丈ほどのろばの横に、スージーが寄り添っている。『わたしは、ベンを うちへつれてきたひのことを、よく おぼえています。それは、こんなふうでした −−−−』で、そのページの文が終わると、もうすでにスージーとベンの出会いの物語を聞く気満々の私が出来上がっていた。

 ベンがスージーの家にやってくることになった経緯や、家でのスージーとベンの様子、またある日に起こった小さな事件などが綴られていく。スージの表情の豊かさとベンの濡れたように真っ黒で愛らしい瞳がたまらなくかわいらしい。

 この絵本は、30年以上も前に出版されたそうだ。古いものであるというのは、写真の様子からも察せられる。写真はすべて白黒で、やや不鮮明な感じで、見るとすぐに大分昔の写真だなとわかる。しかし、このややセピアがかった写真が良いとも、不鮮明さが悪いとも思わない。ただただ、この物語には、この写真がぴったりだと感じるだけだ。

 『わたしたちが すんでいるむらは、ちちゅうかいの しまにあります』と、スージーが説明するように、スージーとベンがお散歩する先には海が広がり、ギリシャ風の真っ白でマッチ箱のように真四角な家が並んでいる。石で作ったアーチの下、石畳が敷き詰められた道の上を、クマのぬいぐるみをかかえたスージーと、ろばのベンジャミンが通る。スージーの家に入ってみると、こちらも床にはぎっしりと石が敷かれている。
 物語を読み終わってからも、今度は写真集を眺めるようにあちこちのページをパラパラとめくってみた。写真だけをじっと楽しんでいるつもりでも、自然に物語が乗っかってくるので楽しくて仕方がなかった。

 絵本や写真集などを、たまに手に取って楽しむスローな生活をしていきたいな。『わたしのろばベンジャミン』を読んで、このことを強く思った。
 そんなわけで、スージー、時々会いに行くからね。ベンの世話を頼むよ。

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紙の本読書からはじまる

2002/03/17 10:44

本というメディアを考えてみよう

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読んだ後に、何とも言えず幸せな気持ちになれる本だった。

 本が好きで、明けても暮れても本を読んでいる私だが、時々、「いったい何のために?」という漠然とした虚脱感に襲われる。記憶力がいいわけでもないので、読んだ端から忘れてしまう。「徒労」という二文字が悲しく頭をよぎっていく。
 長田さんは、『読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。(中略)再読できるというのが、本のもっているちからです。』と、言う。えっ、そうなの?と、自分の顔がやや明るくなった。が、どうせ忘れてしまうのになぜ読むのだろう? 長田さんは言う、『もう一つの時間への入口を気づかせるということが、そもそも本のいちばん大事な仕事だからです。こちら側だけの考えでは計れないものが、そこにあるということを思いおこさせるのが、本のひそめているちからです。』。すなわち、本は記憶の目安を提示してくれるもの、そして、この記憶の目安を与えてもらうことによって、自分にとってのとりかえのきかない記憶が引きだされ、引きだされた確かな記憶によって自らの日々に必要な物語がつくられる。自分の人生を歩めるというわけだ。
 本はこのように読みなさい、とか、名作を読みなさいという類の事を、長田さんは一切言わない。ソフトウェアとしての本について良悪は言わない代わりに、唯一、ハードウェアとしての椅子、読書のための椅子については多くの紙面を割いている。『本を一冊読もうと思ったら、その本をどの椅子で読もうかと考えられるなら、いい時間をきっと手に入れられるだろうと思うのです。「その椅子でその本をぜんぶ読める」ような椅子を見つけられるかどうかで、人生の時間の景色は違ってきます。』と長田さんは言う。私もこの意見には大賛成で、すでに実行に移してもいる。数年前に清水の舞台から飛び降りたつもりで一人用ソファを購入した。何しろ、家中の家具の中で一番高価であり、身の丈以上の買い物であった。しかし、このソファは何時間座っていても疲れない。興に乗ったなら、飲まず食わずで一気に読んだとしても、体のどこも痛くもならない。読んでいる内に眠くなったなら、ピヨッと足をだして体を横たえることも出来る。この椅子によって、私の人生の時間の景色は違ってきたのだ。長田さんの言う、『自分にとって本を読みたくなるような生活を、自分からたくらんでゆくこと』が非常に大切なことを実感している。
 子どもの本についても長田さんは熱く語ってくれる。長田さんの言葉によって、私は、子どもの本に対する自分のスタンスの取り方への戸惑いを拭い去ってもらえた。私は今まで、絵本や童話といった、子どもの本を読む場合、子どもになったつもりで読むのがいいのか、子どもに与えるならを頭に置いて読めばいいのか、などとくだくだ考えていた。しかし、長田さんは、『自分がこの本を読んでおもしろいだろうかという新鮮な眼差しで、子どもの本と付きあう』ことが大切と言う。これ、当たり前のことなのだが、自分の中に「もう子どもではない。」という何か必死の思いがあって、子どもの本の前で歪んだ自分を演じてきてしまっていたようだ。子どもの本には、擬人法がよく使われている。木がしゃべったり、人形がしゃべったり踊ったり。私も子供の頃に、ぬいぐるみを片手に、「コンチワ!」と頭の上から声を出してはおしゃべりをさせていた。今でも、声にこそ出さないが、目にする動物や物におしゃべりをさせる癖は残っていて、これは、私にとってはちょっとはずかしいことであった。それで、子どもの本を選ぶ場合も、擬人法が多用されているものは、意識して避けていた。長田さんの言葉によって、吹っ切れるものがあった。嬉しかった。

これからも本の友人として存在していきたいと思った。

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切り貼りで、明治を描く職人技

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 「漱石狂す」の報とともに、留学期間半ばでイギリスから戻った漱石が、東京帝国大学文科大学講師及び第一高等学校英文学講師をしながら、小説『坊ちゃん』を執筆する頃の様子が描かれている。

 とにかく、錚々たるメンバーが、この一冊の中に次々と登場するのに魅了された。
 散歩に出た漱石と、目白台に向かう途中の森鴎外を出会わせる。二人は、樋口一葉がかつて住んでいたという家の前で感慨にふける。
 漱石の帰郷の陰には、小泉八雲の退官劇があった。
 ハイカラの先端をいっていたであろう「ビヤホール」では、苦虫を噛み潰したような顔をしてビールをちびちびやる漱石が、カメラをパーンすると小さな点となり、ホール全景の中には、石川啄木青年、国木田独歩、『破戒』を執筆中の島崎藤村、柳田國男、田山花袋などが同じようにビールを飲みながらあれこれと話をしている。泉鏡花が病中であることも伺われる。
 本書を物語性の強いものにしているのは、「新時代の女」平塚らいてうの存在である。竜巻のような女性である。まわりのものは、地面から足が数十センチも浮き上がったような状態になってしまう。
 登場するのは、文学者だけに限られてはいない。いつもうつむき加減に歩く漱石は、人にぶつかって手に持っていた書物類を道に落としてしまうのだが、そのぶつかった人というのが、後に伊藤博文を暗殺した安重根であり、落ちた書物を拾い集めてくれたのが若き日の東条英機といった具合である。

 私は漱石の作品がとても好きだ。しかし、『坊ちゃん』に出てくる赤シャツや山嵐、うらなり君、マドンナなどのことは、あれやこれやと感想が浮かぶが、漱石その人、あるいは、漱石が生きた明治という世についてはほとんど気にとめていなかったことに気付かされた。
 小説を読む上で、作家のプライベートなことを知る必要はない、もっと言えば、なるべく知らない方が良いとも思っていたが、現代小説なら自分の生きている時代と重なる部分なのでそれも良いだろうが、明治や大正といった一時代前の作品においてこの考えを持っていては、大損をしてしまうと思った。

 時代が変わろうとも変わらないものがあるから、半永久的に読み継がれる書物がある。変わらないものだけを受け止めて楽しむのも良いが、変わったものを踏まえて読めるなら、それにこしたことはないと思った。

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「戦う哲学者」が戦えるようになった理由

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 久々に中島義道さんの著書を読んだ。相変わらずのズッパリ断言口調が、やはり私には心地いい。ズッパリ言ってくれなくて、「…だと思う。」あるいは、「…ではないだろうか。」という表現で書かれていたとしたら、だれも中島さんに付いて行きやしないだろう。と、言っても、中島さんは、読者に何の期待もしておらず、ただただ自分のために書いているとのことなので、付いて行く行かないを語る必要はないかもしれないが。

 今回は、中島さんの子供時代の苦しみと、その苦しみを取り除くためにどんな事をしてきたかが語られる。内容的には、『孤独について』(文藝春秋)と重なる部分が多くある。しかし、本書が、中島さんが長い年月かかって勝ち得た「強さ」について深く言及しているのに対して、『孤独について』は、子供時代の苦痛や大学になってからの引きこもりの状態について詳しく書かれているので、内容は重なっていても損をした気分は全くない。

 中島さんは、子供の頃から優等生だった。優等生がどれだけ辛いかを筆を限りに綴っていく。勉強が出来て、東大法学部に入学、その後哲学を勉強し、ウィーン大学哲学課を出て博士号を取り、現在は大学の教授という華々しい経歴の人から、「私は不幸である。」と連発されても、普通はケッと笑ってすませるのがオチだと思うのだが、中島さんの言葉は息をしているのが伝わってくるのでとても笑えない。笑えないどころか、自分の過去について、無理やりに封印してしまっていたあれこれについて、面と向かわせられる結果となった。中島さんの著書は、読者にも血を流させるものである。本来人は、もっと血を流すべき事項をたくさん持っていると思う。だけれども、流れる血を見るのは恐いというのもあるし、血を流して貧血になって倒れてしまったならどうしようと思って、必死でケガをすることのないように気を付けて(自分を騙して)いる。中島さんの助けを得て、目出度く血を流すことができた。これで、また新たな血が私の体をめぐるであろう。

 自分の子供時代の頃を思い出した。私も優等生の部類に入る人間だった。いや、勉強はたいして出来なかったので模範生と言った方が正しいかもしれない。ある日、教室で行った視力測定の結果が、先生から手渡された。眼が悪い生徒は、別紙が添付されていて眼科に行くように申し渡された。数人の生徒に別紙添付があったのだが、先生は手渡す度に、「○○、テレビの見過ぎや。」と生徒の頭をポンと叩いた。そして、私の時。「○○さん、ちょっと本を読み過ぎたかな?」とやさしく用紙を手渡された。この思い出は、私の自慢でも何でもない。私は、先生に頭をポンと叩かれる生徒でありたかった。
 「また先生に怒られたよ。」とは、ある意味で大威張りで言えること。だけど、「また先生に贔屓されたよ。まったく、もう。」とは言えないのである。模範生は、担任が代わる毎にカメレオンのように変心する人間になる。人が好きで、同時に人を恐れる人間になる。
 「子供の頃はガキ大将でした。」「問題児でした。」と快活に笑いながら話す鈍感な人には、本書は不要である。苦痛を伴いながらも、「こんなイタズラをしたよ。」と、あることなら誇大して、もしくはないことまで言わなければならない経験をした人は、本書が救いになることだろう。

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建造物が出来上がっていく様子にワクワク

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 素晴らしい本です。穂積和夫氏の詳細なイラストがふんだんに使われていて、金堂が建築されていく様子、五重塔が建築されていく様子が手に取るように理解できる。
 土地をきれいに整地し、礎石を運び、木を切り出し、柱を立て、木を組み上げ…、何もないところに一つの建造物が出来上がる様は、感動的だ。
 平行を出すため、傾斜を調べるために使われる道具など、限られた材料から作られる道具にも知恵の結晶が見られる。重い瓦を支えるために組まれる組物は、一つ一つの部品が機能的に設計されており、且つ雲形に削り出すなどの芸術性も考えられている。
 数えきれないほどの工程を経て初重が組みあがり、続いて上重の組み上げ。そして遂に棟をあげて組み上げは終了。イラストと文章で、金堂が組みあがっていく様子を目で追ってきただけなのだが、『棟をあげた日には、棟上げの儀式が行われ、棟梁をはじめ大工たちをねぎらうために、宴会も開かれたことでしょう。』という文章を読むと、金堂建築に携った人々が、この棟上げの儀式をどれほどの喜びを持って執り行ったのかがわかる気がした。
 棟上げが終わると、瓦を葺き、壁を塗り、壁画や天井画を描くなどの作業になる。昭和の大修理の折に、外からは見えない部分に当時の人達が残した落書きが見つかったなどのエピソードも紹介されていて楽しい。

 本書は、宮大工棟梁の西岡常一さんと、工学博士の宮上茂隆さんの共著である。
 あとがきで、西岡常一さんの話の中にドキッとさせられるものがあった。西岡さんは、日中戦争、大東亜戦争の前後四回徴兵されているのだが、『兵として戦列にいるときも、中国や朝鮮はわが国のお師匠様であったことを思い、』という表現をされている。そうなのである。法隆寺は、中国から技術者がやって来て、あるいは、技術を学ぶために日本の技術者が中国に赴いてこそ建立が成就したのだ。現在の日本が、ポッコリと海から浮かび上がり、そこに日本人が出現し、あれこれちょこまか生活し子孫を増やして今に至っているわけではないことは承知しているだろう。だけれど、まだまだ私達は日本の在り様を深く考えることを怠っているように思う。その証拠に、近い過去に於いて日本人は、中国や朝鮮に向かって武器を向けることをしてしまっているのだから。
 日本を知ろうとすればいいんだ。それだけで、いい。すると、中国、朝鮮、台湾などがしっかりと見えてくるのではないかと思った。

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