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先月(2017年8月)

ミミズクさんのレビュー一覧

投稿者:ミミズク

5 件中 1 件~ 5 件を表示

『白鯨』解体

2001/02/13 14:17

『白鯨』の不思議に、体当たり

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまや「世界10大小説」などの企画モノには必ずエントリーされる『白鯨』だが、意外にも出版後約70年間はさしたる評価を受けない、ただの小説だった。

 その理由は、いちどでもこの(反)小説を手にしたことのある者なら、明確なはずだ。物語冒頭のある章までは、なるほど小説らしい展開。それが、だ。突如、物語のまっすぐな進行は放棄され、作者メルヴィルの知識の、また、彼が執筆時点で参照可能であった様々な本からの、膨大な引用が織り成す、怪物的テクストに変貌する。突然、「小説以上のなにか」になりおおせたテクストは、物語のまっすぐな進行には不要なはずの脱線・考察・劇中劇のカーニバルを自ら演じつつ、ごく緩慢に、カタストロフィーへと進みゆく。これはどうしたことか。

 この不思議に真正面から取り組む『『白鯨』解体』は、あの冒頭の有名な「俺をイシュメルと呼べ」という一文さえ、最初からあったものではなく、創作のよりあとの段階で付け加えられた、と論じてみせる。ごく簡単に言ってしまえば、メルヴィルという人は、書くという行為に関して、極めて意識的であった、ということだ。物語の語り手イシュメルがクィーケッグを称して、「1冊の書物」と断言する根っこもこの辺にある。メルヴィルは、何もはじめから、「世界文学の名作を」などという意識は毛頭なかったのだ。始めにありきは、「あるモノを組み合わせて何かを作ろう」、ぐらいの意識か。全身全霊を傾けて書く、というロマン的な作家のイメージが、著者の平易な文章によって楽々と切り崩されてゆく。楽しい。

 1920年代、アメリカでメルヴィルの再評価が始まって以来、この不思議に取り組む学者は驚くほど少なかった。にもかかわらず、このトピックに関して書かれた論文はみな一定の評価をえているし、著者も一貫してこの問題に取り組んできた世界に数少ないひとりである。付け加えるなら、この不思議に真正面から取り組んだ本は世界に1冊、これしかない。久間十義の『世紀末鯨鯢記』(三島由紀夫文学賞)が、本書にインスパイアされたことを知る人もまた、少ない。

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すこし大きなコンテクストを

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 掛け値なしの名著だけに、早くも4件もの書評が寄せられ、こまかい内容についてはすでに語り尽くされた感があるので、知る限りのすこし大きなコンテクストでこの書の位置を確認しておこう。

 いま名著といったがしかし、長く高山ワールドをフォローしてきた身にとって、本書の内容は十分予想できるものであった。結局この書は、彼の手になる単著、訳業、書評の内容を、適度に薄めた、一般向け叢書用に書き下ろし(喋り倒し?)と見るのが正解で、『アリス狩り』シリーズや『世紀末異貌』を超えるほどの衝撃作というよりはむしろ、これまた高山ワールド入門書のひとつ、『パラダイムヒストリ−』の親戚とみるのがよい、ということ。著者の遊び心の裏にある、天才的な思考回路のさらなる飛躍を目撃したければ、もう少し値段のはる個別の単著や訳書を、と指摘しておくことは無駄ではないはずだ。

 山口昌男が、その「じじむささ」から英文化には目もくれずに国史学科へと進んだのは有名な話だが、その「じじむささ」と真っ向から対決していたのが、著者高山の師、由良君美(故人)だ。「口上—傲慢謝辞」と題されたあとがきは、多分に『椿説泰西浪漫派文学談義』などにおける由良君美の語り口をふまえたもの、とみなければならない。そういえば「英文学をすこしおもしろくしよう」とは、由良の有名な言葉だ。由良の死から、はや10年。英文学はおもしろくなりすぎた。

 この書にはきちんと索引がついているが、これはこうした叢書の類には珍しいことで、本など何も頭から真面目に読まなくってもいいんだよ、君の好きなところからどうぞ、というメッセージがこめられている。これも由良か、それとも山口昌男の影響か。巻末6ページにわたる書誌は、本は本からしか生まれないことをよく物語る。山口昌男『本の神話学』なくしてこの書誌はありえなかった、とみる。

 1枚1枚解説つきの図版が満載されているのもまた高山の著書の大きな特徴だから、慣れた人にはいちいち驚くに値しない。異様なのは、著者お気に入りの名著の表紙の写真が多く図版として採用されていることだ。これも以前から著者おなじみの手法であるが、この異様さを指摘した人はかつているか。たしか初めてこういう図版のひき方を見たのは、由良の一連の『みみずく』シリーズだったと思う。本のなかに本があり、またそのなかに、という感覚は、一冊の本をその前後のコンテクストから独立した何かとみている向きを十分ノックアウトするに足る。

 近年書かれた英文学関係の本で、これほど面白いものはなかったのだから、この書を名著と褒め称えることはやさしい。ただ、1960年代以降の全世界的な知的潮流の変動なくしてこの書はありえなかった、ということを100パーセント認めて、著者が駆使したアルス・コンビナトリアをいちいち解きほぐしてゆくという作業こそ、この書がわれわれに要求していることではないか。

 つまり、「小説はメディアなのだ」(本書167ページ)、と喝破する者の著書もやはりメディアとして読まれなければならないということだ。ひとたびこの名著が特権化されたならば、そこには悲しい結末が待ち受けているに違いない。由良君美の主著は、一部で無闇に特権化されたあげく、まともに一般には紹介されないまま、ほぼすべて品切または絶版となってしまい、現在古書のマーケーットで異常な高値にて取引されている。こうした過ちを繰り返さないために、いちど冷静にこの書をほぐして、さらに組みなおして、「超えて」ゆかねばと思うのは、杞憂か。

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漱石から批評史まで

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 フレドリック・ジェイムソンからスティーブン・グリーンブラットまで、英米の最先端を行く批評家たちを積極的に本邦に紹介してきた著者のひとつの成果。取り扱う範囲は、漱石から英米批評理論史までと、著者の碩学ぶりがいかんなく発揮される。残念ながら学会方面からはほぼ黙殺された書だけに、いまこそ、一般読者の出番だ。
 「批評」なるものの胡散臭さを言う前に、また著者を称して「輸入屋」などと陰口をたたく前に、熟読すべし。

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紙の本白鯨 モービィ・ディック 上

2001/02/13 15:12

旧ペンギン版とともに、ぜひ

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 かつてペンギン・ブックスに、ハロルド・ビーバーなる学者が注釈を付した、Moby Dickがあった。作中何気ない個所にホモセクシャルな意識を読み込んでみたり、言葉遊びに明け暮れたり、と、注釈だけでも存分に価値のある版だった。ところが、注釈に割くページが本文に匹敵するという異常さのためか、はたまた従来考えられてきた『白鯨』という作品を解体しかねない至上の遊び心のゆえか、この版は一部のマニアックな読者層からは熱狂的にに迎え入れられたものの、良識派の学者連中からは不評を買い、絶版となった。現行のペンギン・ブックス版は、角の立たない、ありきたりな、薄っぺらい注釈になり下がり、物分かりのいい人は誰も見向きをしなくなった。

 何十年かぶりの新訳、『白鯨』を読むときは、ぜひともこの旧ペンギン版を傍らに、と思う。訳者注は括弧付で本文中に組み込まれているのみだが、翻訳の姿勢は一貫して旧ペンギン版、ビーバー氏の注釈の意図を存分に汲み取ったものとなっている。時に読み込みすぎて、知らぬ人にとってはつらい場面もある。しかしこれは、翻訳とは横を縦に換えるだけの作業ではなく、変換するさいになんらかの意図を組み込むことが可能な、いや、図らずも組み込まざるを得ないような、そんな作業であることを体現しているからこそ、なのだ。

 難渋な原文を読みやすい日本語に変換しているから、面倒くさい議論はいいよ、という人にとっても、いちばん読みやすい『白鯨』であること間違いなし。途中まで読んで、何コレ、どこが名作なの、と思った敏感なあなた。それは翻訳のせいではなく、原書が、普通一般に考えられている小説の概念をはるかに超えてしまっているからと考えて欲しい。八木敏雄『『白鯨』解体』および、千石英世『白い鯨のなかへ』がここらの事情に詳しいので、併せてぜひ。

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衝撃か、それとも怠慢か

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 プラトン対話編の現代版パロディー。表題にあるとおり、生身の哲学を、自身の体から発せられる言葉で徹底的に実践して見せようとする態度は、数多ある哲学入門書よりよっぽどおもしろいし、哲学、と構えるのが嫌なら、ただの読み物と割り切っても十分楽しめる。

 周知のとおり「哲学」の原語Philosopyは、「知を愛する」ほどの謂で、ハイデガーが、フッサールが、と、高度に専門的なご託宣を並べ立てるのが「哲学」と勘違いしている向きにとって、この本は果たして新鮮な衝撃となり得るか、それとも単なる怠慢な哲学ごっこと映ずるか。ここらが本書の評価の分かれ目とみた。

 個人的には、紋切り型の思考や言語を廃し、ひたすら「個人語」(これがこの書のキーワードだ)で考え、また語りつづけよ、という著者の姿勢には、ほぼ賛成。しかし、仮に各人が「個人語」を完璧に駆使し、対話に対話を重ねることで、著者の理想とする世界が実現するなら、この本の価値はまったくもってゼロとなるのもまた、明白。

 結局、「個人語で…」という訴えが価値をもつのは、現今の新聞だのテレビだのが紋切り型に満ちているからこそ、なのだ。これは、この本にかぎらず、こうした類の書の決定的な弱点。一見、現状を批判しているようでありながら、実は最大限、現状に寄りかかっている、という悲しい現実を、目ざとい、それこそ「知を愛する」読者は見逃さないはずである。

 それにしても著者がこのような相対的な視点を微塵も提出してないのは、どうしたことか。「自分から自由になりたいすべての人へ」、とはこの書の帯にかかれたキャッチフレーズ。これぞ紋切り型、と笑える君には、この本は不要だ。

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