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ソネアキラさんのレビュー一覧

投稿者:ソネアキラ

240 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本終の住処

2009/08/08 17:00

家族の肖像

12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近、再びウイスキーが見直されているらしい。作者の書くものは、ちょっとクセのあるシングルモルトってとこだろうか。この作品も、震えたね。

30歳過ぎて結婚した男女。すでに大人なわけで甘い新婚生活なんて無縁。いきなりドライなわけ。男は、いわゆる薬品会社のプロパー。職場も劣悪だが、家庭も居ずらい。イラクサの家で。やがて子どもができ、マイホームを建てる。

このあたり、家を建てる描写は、小島信夫の小説を彷彿とさせる。男は、会社に長居し、外に次々と女をつくる。この女性遍歴をふくらませるとまた違った趣の小説になる。サラリーマン小説だと黒井千次の系譜なんだけど、底辺に漂っている苦いユーモアは後藤明生かなあ。源流はゴーゴリやカフカかも。

男の勤務する薬品会社は、外資の波をもろに受ける。不慣れなアメリカでのM&Aビジネス。万事不快調な『島耕作』ってのもある、ある。男と入れ替わりに娘がアメリカへ留学する。わが家で男は背後から妻の肩をつかむ。ハッピーエンド、めでたし、めでたし。

ぼくには到底そうは読めなかった。映画なら、何だろう。やっぱり、成瀬巳喜男だ。

何日か前の朝日新聞に作者のインタビューが掲載されていた。

「過去というのはどうしてこんなにも堅固で、悠然とそびえ立って、堂々としているのだろう。だが過去のこの遥かさ、侵しがたさこそが私にとっては大きな希望なのだ。私の書く小説もまた、その希望の上に成り立っている。」

時の流れは、過去-現在-未来と決して一本道ではない。1時間は60分と決められてはいるが、それ以上に長いと感じるときもあれば、逆に短いと感じるときもある。また、先のことは不可視だから「不安」でもあり、「楽しみ」でもある。裏腹の関係。

記録と記憶の違い。記憶は、自分の都合の良いようにある意味、捏造または虚構化、演出してくれる。そして細部はきれいさっぱり消去してくれる。昔のことゆえ、振り返ってもどうにもならない。どうにもならないことをアーカイブ(保存記録)で見せられても閉口するだけ。「昔は良かった」と多数の人が口にしたがるが、実際のところは、そうでもなかったりして。現前の状況からの気休め的一時避難の方法として言うのかもしれない。ただ不動の過去に対して寄りかかってしまうのは不変だからだろう。変わらない過去、それは屍だからなのか。否。

♪ 時はいつの日にも親切な友達 
過ぎてゆくきのうを物語に変える ♪

―『12月の雨』荒井由実より一部引用―

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世紀の発見

2009/07/02 10:12

20世紀少年→21世紀中年

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「いまではまったく信じがたい話だが、私たちはついこのあいだまで花は花屋で、肉は肉屋で、服は仕立屋で買う世界に住んでいた」

という書き出しを読んでいたら、30数年前住んでいた練馬の小さな商店街が浮かんできた。コンビニエンスストアはまだなく、旧盆や正月3が日には一斉に店を閉め、さながらゴーストタウンだった。ぽつんと点いている灯りは、一杯呑み屋かお茶漬け店だった。

前半は、仕立屋の家に生まれた主人公の子ども時代の思い出が記されている。豊かな自然、友だち、親のことなど。表紙にもなっている機関車、蒸気機関車が象徴的に出てくる。しかし、ノスタルジックな文学的な甘美さよりも、硬質な文明論的なものを読み取れてしまう。

で、大人になった主人公は、「石油掘削設備の技術者」になり、「ナイジェリア」に派遣されるという、いきなり話は急展開していく。あえて強引とも思える話のつなぎが、リアリティや深みを生み出している。荒涼とした風景、異郷の地でありながら、子ども時代を過ごした土地とまったく似ていないのだが、オーバーラップしてくる。

10数年ナイジェリア暮らしを経て主人公は帰国する。そこで老親と再会する。仕立屋を細々と営んでいる。結婚している彼は、親とは次第に疎遠となるが、母の病気をきっかけに会うようになる。子どもにとって親は最初の社会(もしくは社会の入口)だ。良きにつけ悪しきにつけ、コンラート・ローレンツ言うところのすりこみをされてしまう。しかし、就職などで親元から独立する、そこから先は、自分次第。ふと気がつくと、自分が子どもだった頃の親の年齢よりも齢を重ねてしまったいまの自分。親という揺り篭を出されたような、なにか居心地が悪く、胃が痛くなりそうな。

それにしてもこの書き出しは、どうよ。と思いつつ最後まで読んでいくと、腑に落ちる。文章は手書きではなくパソコンで打つようになった。缶ビールは酒屋でなくコンビニエンスストアで買うようになった。一見新しいように見えても、実際のところ、奥の奥の部分は、変わらない、旧態然としている。そういうものではないだろうか。文化が集積して文明となるならば、人々、家族の軌跡が堆積して歴史となるのだろうか。

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紙の本残光

2006/09/11 13:16

読む歓び。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

作者は、確か第三の新人に含まれている人で、この本のはじめのあたりを読みながら、なんとなくだけど、安岡章太郎や庄野潤三あたりのユーモアにも通じるものがあるなと感じた。他に何か読んだろうか。読んだとしても、たぶん、覚えてはいない。これは加齢のせい、それとも記憶の容量に問題があるのか。ともかく映画もかつてスクリーンで見て感動なり興奮なりしたはずなのに、TVやDVDで再見すると、何か違っていたりする。
『残光』は、読書人関係のWebやブログを拝見してどうも読み辛そうだという先入観があった。あった、あった。而してそれはこの本を読み進むにつれてコッパミジンに粉砕される。
90歳になる作家は、肉体的な老いや妻の痴呆症による入院、生まれつきマヒがあり、アルコール依存症で息子に先立たれた不幸などはあるが、それすらも小説の素材にして、淡々と言葉を綴っていく。
この作品の土台は老境を迎えた近況のエッセイ風小説なのだが、そこに過去の自作の引用、本人、妻など実在の人物と作者の過去の小説(虚構)の登場人物がすりかわったりして、読み手をとまどわせるメタフィクションにもなっている。
なんて書いてしまうとあたかも前衛小説のごときものをイメージされたら困るので、もう少し説明。表向き、字面はそんな企みは皆無で、大河のようにゆるやかに流れている。しかし、ちょっと水面下を覗いてみると、上述したとおり、さまざまな流れが混在している。
既存の小説のフレームワークでは通じない、凌駕したところがあり、そこに魅せられればどんどん読むスピードが上がっていくが、そうでない人は退屈のち頓挫してしまうだろう。
ぼくも最初はめんくらっていたのだが、過去-現在-未来という時制をとっぱらった展開や文体、行間が心地よく思えてきて、いままでにない読む愉しさを味わっている。換言するならば、ワンシーンワンカット、映画でいうところの長回しが延々と続く。
ひょうひょうとはしているが、けして枯れてはいない。老いてその道の名人と呼ばれるとどうしてもそういう言い回しを使いたくなるのだが、走り出したら止まらないではないが、書き出したら止まらない。その小説家の業の深さみたいものを端々に感じる。現役バリバリだ。常套句を使ってしまえば、生きていることの歓びを伝えてくれる小説。さすが、保坂和志の先達的小説家。

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紙の本大失敗

2007/03/14 13:49

不可視的なるもの。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いきなり登場してくるディグレイター(巨大歩行マシン)。何のことはない、モビールスーツだ。意外と宇宙船エウリディケ号のディテールなども細かく描かれており、メカフェチ、コクピットマニアでもないぼくも、前半部は同乗気分で読み進めることができた。カーナビならぬスターシップナビGOD(General Operational Device)(コンピュータ中枢の名称)は、『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータH.A.L.のようなものだし。えっ、スペースオペラなの。
やがて知的生命体とコンタクトしていくのだが、「惑星クウィンタ」このあたりから、いつものレム先生の哲学的深淵というのか、厭世的な霧が深く立ち込めてくる。あ、そういう描写じゃなくてぼくの心象風景が、ね。書かれた文章が重たくて、別に翻訳に難があるというわけでなくて、よーく反芻しないと咀嚼できないのだ。ともかく言えることは、月並みかもしれないが、レムの集大成といえる作品で、冒頭の小道具は、子どもに苦い薬を騙して呑ませるための糖衣だったのだろうか。
不可視的なるもの。見えない(確認できない)けど、存在する。どうも人間のDNAには認識不可な対象物には、味方か敵か、有益か害悪かという二者択一志向が刷り込まれているようだ。古くは未開人、SFだとエイリアン。そうじゃないだろと。
異星人と万が一コンタクトできて、その形成された文明がわが地球よりもはるかに進んでいたら、どーする。どーするって、たぶん、ぼくたちが想像もできない、見たこともないものだったら、「進化した文明」なんてわかりっこないかも。
同作者の『高い城・文学エッセイ』 を読むと、幼少年時代、ナチスドイツ支配下のポーランドが描かれている。やがてソ連の支配下となり、東西冷戦からソ連邦崩壊を迎える。作者が翻弄され、ある意味、蹂躙された果てに見えたもの、感じたものが、この小説の原形質なのだろう。二項対立ですべてが割り切れると思ったら大間違い。最後はともかくストーリー展開ではなく、作者の創造力に圧倒される。
いまだにこの星じゃ、同じ生物なのに、文明の衝突とかなんとかいって、いがみ合っている。相互理解、異文化コミュニケーションなんてほど遠いなと落胆させられる限り、この作品の価値は変わらない。と、ハッタリかまして結びの言葉にさせていただく。

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哲学と科学のリエゾン。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

縁あって作者の著作を読みつづけているのだが、最近のものは、どんどん科学の領域に近づいていって、しかも、文体までもが読みやすくなっている。袋小路に入り込み、抜け出られなくなった従来の哲学を「複雑系」で、ガラガラポンしてみるという意欲的な試みと勝手に判断しているのだが。

「多様な要素の相互関連によって成り立つ複雑系の世界では、あらゆる要素は相互に映し合い、相互に浸透し、相互に共鳴し合っている。そこでは、海の中で音波を出し、互いに連絡し合いながら集団行動をとっている魚たちのように、各要素は相互に認識し合い、相互に結合している。そのことによって、世界は刻々として新たに創造されているのである」

つながりとかかわり。リンクやネットワークと言ってもよいだろう。横文字がお嫌いな人には、因とか縁とか。

「動物は環境から必要な情報だけ抽出し、不必要なものは無視する。動物は、自分の生命維持にとってその時々に最も重要な情報だけを環境から抜き出してくるのであって、すべての情報を取り出して解析しているのではない」「動物は、多様な環境の中を、行為しつつ知覚し、知覚しつつ行為し、これらを調整しながら、環境に対して柔軟に適応していっているのである」

人間もまた同様であると。ただ、いまどきのぼくたちはどうなのだろう。「その時々に最も重要な情報だけを環境から抜き出」す能力が衰えているのでは。直観とかそういう類の能力が。ネット検索して見つけたいわば他人の請け売り情報だけで満足して。

「<われ考える>の前提に<物や道具の製作>がある。コギトの成立の前に、ポイエーシス(製作)がなければならない。デカルト的なコギトは、単に考えること、思惟することだけからは成立しない。―略―手によって物を製作する能力こそ、自己覚醒の源泉である」

「われ思う。ゆえにわれあり」じゃなくて「われ思って(同時に)つくる。ゆえにわれあり」ってことなのだろうか。ベルクソンいうところのホモ・ファーベル。あるいはキューブリックの映画『2001年宇宙の旅』での猿が石を道具として使いこなす象徴的なワンシーンを思い浮かべる。つながりから言うなら「われ」じゃなくて「われわれ」だし。

「科学は科学史であると言うべきかもしれない。―略―科学自身が、仮説とその変更の歴史であった。科学は永遠不変の真理を語っているものではなく、それ自身、歴史的に発展してゆくものである。―略―科学自身が世界の生成変化の過程の中にある」

科学は決して単なるナレッジの集積ではないと思う。でも、覆す対象(前提)としてのポピュラリティを得た仮説はあった。ヴァージョンアップしていると言い切れるのだろうか。

願わくば、福岡伸一や郡司ペギオ-幸夫、山本義隆あたりとの対談を本にしたものを読んでみたい。どのような人的化学反応を起こすのだろうか。

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「誰でもメディア」時代でのメディア人は。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本のレビューの方向性は、2つある。

(1)紙とWebの垣根をとっぱらったメディア展開を先駆けてきた作者の経験に基づくいわば商売のツボや肝を知ることができる。ゆえに、ギョーカイ関係者には参考書、指南書として必読と言えよう。

(2) 作者の実践してきたことからこれからの編集者、出版のスタイルが提示されているスタイルと書くと表層的に捉えられるかもしれないな。心構えか。作者は「魂」と述べているが。ネオ編集者のバイブルというのは、大げさかもしれないが、そんな印象を持った。

で、(2)の方で、レビューを進めていくことにする。

「多くの人たちにとっての出版とは、取次機構を通して全国にバラまく紙の雑誌や書籍、新聞しか指していないような気がします」
確かにそうだ。ところが、
「いまではコンテンツが紙という容器より飛び出て、インターネット上における雲(クラウド)として遍在しています」
たとえば新聞社からのニュースは、携帯電話やパソコンで読む。ヘッドラインだけでも読めば、あとはもう大元の新聞は新聞紙というパッケージで読まなくてもよい。

「これまで専業者でなかった誰かと競合するような、すぐにメディアを立ち上げられる時代を「誰でもメディア」の勃興期として捉えています。この「誰でもメディア人」たちは、発信者であると同時に、受信者なのです」

発受信者とは、インターネット上でのプロシューマーの如き存在なのだろう。フラット化されたネット上では、プロフェッショナルとアマチュアの差がつきにくくなる。さらに言うならば、非の打ち所のない立派な文章だけど、月並みな内容、稚拙な文章だけど、読み手に気づきを与える内容。どちらを選ぶだろうか。

「今後の企業活動におけるメディア戦略は、「PR」よりも、「ストーリーの提供」」すなわち「「企業が言いたい情報」の提供ではなく、相手が読みたいストーリーを提供することです」

ユーザーオリエンテッドってことか。

「優れたストーリーを提供することさえできれば、多くの人たちがそのストーリーを中心にメディアを創出し、さらに大きなストーリーを紡ぐことができる、という可能性のことです」

作為的、意図的じゃなくて自然発生的。本来の祭り状態。

「実は雑誌社が気づいていないのは、信頼に足るはずだった自分たちの媒体が、出稿企業へのご機嫌伺いにより、提灯記事のオンパレードとなり、それをマニアたちに見破られていたりすることです」

雑誌が(新聞も)雑誌の売上げと広告収入の売上げの2本柱から成り立っているわけだから、難しいんだろうね。でも、読み手に眉にツバつけて読まれているんじゃねえ。

作者はその打開策の一手立てとして「レビュード・コム」を挙げている。「レビュード・コム」とは「製品レビューを載せたポータルサイト」。amazonや価格ドットコムよりも、プロもしくはプロ並みのアマによるレビューが立つサイト。リアル店舗だと専門的な知識を有した店員と品揃えが充実した東急ハンズのオンライン版のようなものか。

「編集という行為は、情報のハブ(データの集約・中継装置)づくりです。このような情報収集という行為そのものが、雑誌的なのです」

Webの語源がクモの巣。紙からWebまで偏見なく隈なく見渡し、編集者の目にかなったものをピックアップする。文字通り雑誌の「雑」。

「「誰でもメディア時代」は、多くのアウトプットは、「発行」か「引用」、もしくはその両方、あるいは「エコー」といったコピーだけで構成されるものになるでしょう」

断片と膨大な引用からなるヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を思い出す。引用もどこを引用するか。また、引用を束ねての編集、「情報のハブ」は、編者によって当然、異なる。何も無理して記事に仕立てることもないのではないだろうか。たびたび述べているが、リミックスが音楽として通用しているいまなんだし。

となると、やはり、こう作者が言うのも頷かざるを得なくなる。

「「誰でもメディア時代」では、」「ネットの使い手でない人間が送り手になることはあり得ないのです」

別に編集者が、コーディングできるようになれと言っているのではなくて、CSSやHTMLなどネットのことをある程度きちんと知らなければ、対応できないと。編集者なら、紙や印刷・製版のことは一応知ってるでしょ、それといっしょだと。

「これは私の持論ですが、「雑誌の本質はその形に非ず」なのです。本質は「コミュニティを生み出す力」なのだと考えています」

器にこだわるな。「コミュニティを生み出す力」があるかどうかが、コンテンツ作成時の目安となる。なるほど。そのメディアから派生したコミュニティから、たとえば新しい書き手やミュージシャンやアーティストが輩出されるような。知と知の出会い系サイト。異物と異物のぶつかり系サイト。

「メディアを立ち上げたいなら、今日にでも自宅で立ち上げればいいのです」

マスコミとて最初はミニコミからはじまったわけだし。メディアは発刊者の思い入れというか、個性が強ければ強いほど、ユニークなものが生まれる。所帯、組織がでかくなって抱えるものが多くなると、どうしてもコンサバになりがち(どの企業もそう言えるけど)。

「大切なのは出版(=メディア)魂や編集魂であって、編集者という肩書きではないと思っています」

気持ち的に言うなら、はじめは寝そべって読んでいたのに、最後には正座して読んでいた。

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「戦後日本」の清新なる総括。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本を書くきっかけについて作者はこう述べている。「考えてみれば『戦後』とは現代の人びとがもっとも知らない時代の一つである。なぜ知らないのかといえば『もうわかっている』と、安易に考えすぎているからだろう」。確かに、近すぎるものは、歳月が経たないと、なかなか評価が定まらないものである。


作者が俎上(そじょう)にのせた文化人・知識人をざっと羅列してみる。丸山真男、大塚久雄、小林秀雄、福田恒存、網野善彦、竹内好、吉本隆明、江藤淳、鶴見俊輔、小田実…。彼らの主義・主張の背景となるべき生い立ちや生まれ育った階層、敗戦時の状況にもふれているのだが、いわゆる戦前・戦中・戦後派では世代差による微妙な温度差が、当然ある。

それもさることながら、ぼくには、エラい学者先生はもちろん、取り上げられた一般人の折々の発言も、とても興味深かった。そのあたりをランダムに列記する。

○「天皇陛下、万歳!」と日本軍の兵士たちは、死んでいった(殺されて)いったのだが、敗戦後、多くの人は天皇は自刃するものと思っていたのに、人間宣言なんかして生き延びてしまったこと。

○予科連帰りの生徒たちに、それまで皇国教育を説いてきたのに、いきなり民主主義を唱えて彼らから一喝されて何も答えられなかった教師。

○自衛隊をつくるにあたり、参加を呼びかけられたが、断固拒否した元将校。

○アメリカに対してアンビバレントな感情を抱いていた江藤淳。しかし、留学先のアメリカ東部の町で、日本が喪失してしまった伝統的なもの、それこそ愛国的なもの、山の手の、においを感じてしまったこと。

○日米安保条約を締結した岸内閣に対する右の人も左の人も抱いた激しい憤りと失望。60年アンポ闘争。日本が韓国のように、怒りをダイレクトにアピールしていた時代。

○サヨク学生の教祖だった吉本隆明の著作に関して、ほんとのところは、よくわからないで読んでいたと率直に語る元大学生(ブームとは、そういうものでなかろうか)。

○小田実がアメリカへ行き、豊かな経済社会の中で生きている当時のアメリカの若者たちが、政治に対する意識の低さを嘆いているくだりがあるが、それはまったく現在の日本の若者たちにあてはまることだ。

○帰国子女の草分け、鶴見俊輔は、アメリカの哲学、プラグマティズムの洗礼を受け、その後、「ベ平連」の活動につながるのだが、すでに1960年頃に「無党派」という言葉を使用していることには、驚いた。民主主義は、ともすると「量」に重きが置かれ、ゆえに政党政治であり、また、選挙では大票田である労働組合や宗教団体にすがらざるを得ないのだが、基本は一個人であり、一市民であるという鶴見の意見には、改めて賛同した。

総括というべきなのか。「結論」の章まで、作者の考えが、まったく前面に出てこない。ここまでクールにとらえられるのは、作者の世代が、前述の文化人たちにリアルタイムで感化されなかったことが大だと思う。

よくいわれるように、日本人には一貫した倫理や論理がないと非難される。愛国心も希薄だと。「民主主義」をチョコレートやチューインガムといっしょにアメリカからもらった日本。そういうものは、民衆が血や汗を流して勝ち取るものらしいのだが。戦後の米ソの対立が、幸か不幸か、取り付く島もなく、日本はアメリカの属国となり、1950年に勃発した米ソ代理戦争である「朝鮮戦争」が、日本経済復興の契機となる。作者によれば、1960年代までは「『民主』と『愛国』は共存状態」にあったという。

マーケティング用語でポジショニングだの、マッピングとかいうのがあるんだけど、それに近いのかな。参考書や辞書というと語弊があるかもしれないが、戦後の日本を知るのには、便利な一冊だと思う。

タイムマシーンの目盛りを、1945年8月15日に合わせよう。

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奥の血道。

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

東北地方―みちのくとも呼ばれるが、語源は道の奥、陸奥。東北は方角的に丑寅で鬼門、鬼が棲んでいると言われた。武家が幕府を開く時に、朝廷から代々征夷大将軍の称号を認定されたが、その初代は坂上田村麻呂。夷敵の地である東北を制圧した。福島県の田村郡は、その名にちなんで。東北は、源義経が逃亡先に選んだ、聖域、アジールでもある。鎌倉・室町時代に内外の交易で栄えた十三湊と安東氏とか。

この本は、東北地方を舞台にしたある血族の物語であり、東北のゲニウス・ロキ(地霊)の物語でもある。全体小説、あるいは大きな物語の復権を狙っているのだろうか。復権ではないか、新しさを感じるもの。きわめてスピーディーな文体、時制なんか構ってられるかというテンポ良い展開、繰り広げられる一種のスペクタル的世界は、読むものを魅了する。これほどまでページをめくるスピードが高速だった小説は最近ではなかった。

同地出身である作者は、東北弁、-正しくは郡山弁かも-方言を駆使している。作者と同郷であるぼくには、ひたすら懐かしい。土着的、猥雑な生的エネルギーに満ちあふれている。井上ひさしの『吉里吉里人』あたりを思い出す。フォークナーのアメリカ南部、「架空の土地ヨクナパトーファ郡」や中上健次の紀州ともダブる。東北地方の物語だが、そうであってそうではない。辿れば、遡れば、あなた自身の物語でもあることが理解できるはず。
ともかく一気に読みきることだ。細部は再読で味わおう。作者の真似をして朗読してみれば、文章の心地よいリズムが伝わる。

逃亡ロードノベル、伝奇小説、犯罪小説など、1冊でいろいろな味が楽しめるんで、読む人にとって評価が異なるだろう。

現在の日本の地方都市はどこも同じで、『ファスト風土化する日本』などといわれているが、ところがどっこい、コンクリートやアスファルトを一皮剥けば、埋もれていた魑魅魍魎が跋扈する。

いままで作者が発表していた作品は、この本を書くためのエチュードだったのかもしれない。

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小さな波の大きな力。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

メガトレンドはなじみのある言葉だが、マイクロトレンドとは何だろう。引用二箇所。

「もしトレンドが全人口の1パーセントに達したとしたら、映画ならばヒット作となり、
書籍ならばベストセラーとなり、政治ならば新しい波が生れたことになる」

「今日の大衆社会では、わずか1パーセントの熱心な人々が主流派とは違う選択をするだけで、世界を変えるほどの波を作り出すことができるのだ」

じゃあ、その事例を具体的に挙げ立証しようと、41にグループ分けして、いまそこにあるマイクロトレンドを紹介している。アメリカで起きていることは10年後日本でも起こること。などと、いわれているが、そのスピードは、早くなっただろう。日本語版の特典としては、同テーマについて三浦“下流社会”展が、データに基づき、日本での現状や動向を手短に分析している。どうなんだろう、ぼく的には、要らないかも。

いうなればトレンドセッター(流行発信人、作り手)層、インフルエンサー層を置き換えたのが、マイクロトレンドなんじゃないだろうか。素朴な疑問。前述の「全人口の1パーセントに達したとしたら、ベストセラー」って、日本の人口が1億2千万人としたら、1パーセントで120万人。そしたら立派なメガヒットで、あったりまえじゃんってことになる。そうすると、急につまんなくなるかもしれないが。

アメリカの事例が、かなり面白かった。たとえば、実はアメリカ人は意外にもワーカホリックとか。死ぬまで現役。なぜか。再婚、再々婚で若い妻といっしょになり、中高年になって子どもをつくる。となると、稼がないといけない。隠居、老後なんてとんでもはっぷんという図式らしい。

あとは、ギーク(オタク)かな。コンピュータオタクとかいうと、イコール非社交的になるが、それは違うと。こんなにネットやコンピュータが普及すると、「社交的なギーク」が出現していると。んで、ネットで知り合った「ネット婚」カップルも、別に恥ずかしいことではない。

すべてが、日本でも起こりうるとは思わないが、ある程度、日本の近未来図が垣間見えたりもする。

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漫画論からマンガ表現論へ。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まず、マンガはほんとうにつまらなくなったのか。それで、読まれなくなったのか。『少年ジャンプ』以下少年漫画誌の発行部数は確かに減少している。統計的には、またビジネス面など「量」的な見方をすれば、そうかもしれないが、マンガはさらに拡散して、次なる進化(この言葉が的確かどうか疑問だけど)を遂げて、新たな読者層の心をとらえている。
この本にもその代表として『少年ガンガン』が挙げられているが、これはぼくにはもう読めない。ついていけない。でも、いまの子どもたちには支持されている事実を鑑みれば、マンガ(少年漫画誌)は、ようやく本来の子どもたちのものに回帰したのではないだろうか。
そして、作者はいう。レディーメードの漫画評論では、現在のマンガは論じられないと。つまり、マンガを歴史軸から解釈する、ウンチクたれ評論。「若い読者の間からは「マンガ評論とは、(自分たちとは関係のない)昔のマンガについて語るものでしょう?」という声も聞かれている」。
それと本当にマンガは手塚治虫の『新宝島』に感化され、そこから始まったものなのか。トキワ荘メンバー、手塚チルドレンにはそうであったかもしれないが、ほんとのところはどうなのか。作者は検証を重ねる。
作者は「マンガを構成する三要素に「キャラ」「コマ構造」「言葉」」としている。従来なら「絵」と「ストーリー」とかそういうものなのだが。ちとややこしいが「キャラ」と「キャラクター」は同一ではないとか。「「キャラクター」は必ず基盤に「キャラ」であることをもつ」「「キャラ」の強度とは、「萌え」を支えるものである」「強烈なキャラ」が存在していれば、それだけでマンガは成立するということなのだろうか。
ぼくが魅かれたのは三要素のうち、「コマ構造」だ。確かに『新宝島』の映画のようなスピード感あふれる「コマ構造」は、斬新だったようだ。映画からモンタージュなどを引用しているが、映画の絵コンテとマンガの「コマ構造」は、似て非なるもの。絵コンテは撮影して映画にするための契約書のようなものであるが、マンガはマンガだけで完結なり帰着なりをしなければならない。
マンガ図版が多用されており、理解促進を大いに助けている。図版がなかったら、マニアでなきゃついていけないだろう。作者が作成した図は、一見明解に思えるが、じっくり眺てみると、よくわからないものが少なからずあった。当方のマンガIQの低さによるものかもしれないが。
『テヅカイズデッド』は、てっきりニーチェの有名な「神は死んだ」からの引用かと思ったら、懐かしのロックバンド、モリッシー様率いる『ザ・スミスのナンバーのもじり』だった。
「マンガ」を「文学」や「小説」に、「マンガ評論」を「文芸評論」に置き換えても通じる部分が多々ある。新しいマンガには新しいマンガ評論、マンガ批評を。「表現」軸からアプローチしたものがあってもいい。ひょっとすると、マンガ評論の新しい書き手を望んでいるのかもしれない。

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紙の本東京少年

2005/12/09 17:32

疎開と疎外。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まるで山下達郎の楽曲のようなタイトル。
第二次世界大戦で日本が敗色濃厚となった頃、東京・両国から、埼玉の山奥へ集団疎開することになった少年と弟。ふだんの小学校では優等生だった彼も、集団疎開といういわば「異界」では、たちまち、プライドも地位も剥奪されてしまう。同じ作者の同じテーマの作品『冬の神話』をかつて読んだものとしては、『冬の神話』では、密閉された世界で、行き場のなくなった子どもたちの残虐な暴力性のみがうっすらと記憶に残っている。
しかし、この作品では、そういう場面も出てくるが、静かな文体で書かれており、逆にそれが、戦争の与えた大きな影のようなもの、たとえば飢餓や病気などが、真綿で首を絞めるようにじわじわと伝わってくる。
東京大空襲で主人公の両親は幸いなことに助かるが、老舗の和菓子店は、炎上し焼尽と化す。迎えに来た父親と共に、今度は親戚を頼って新潟県新井へ縁故疎開をする。まもなく敗戦となる。
豪雪地帯の圧倒的な雪の多さ、それに反して夏の暑さ。地元の子どもたちとの交流。方言と東京弁。それらが予想に反してほほえましく描かれている。初めての夢精など少年は、心身ともに青年への孵化をはじめようとしている。母親の実家を頼って東京へ戻ろうとするが、それを快諾しない父親。新体制になっても、頭が即座に切り替えられない父親に対して少年は、諦観の念で接し、早や自活の道をも模索しようとする。
彼は高田の映画館の闇の中で光を見る。そのときは、東京の映画館にいたときと同じ空気が吸えたからだ。
戦争は、一瞬にして、多くの命を無差別に奪うが、残された者に対しては、それこそ死ぬまで痛めつける。生まれ育った土地を、家を、暮らしを、仕事を、奪取して、家族の運命まで翻弄してしまう。
ティーンエイジ真っ只中に、喪失感と不信感と一種の虚無感を体験しなければならなかたことは、舵取りを誤った国の責任である。このことを声高に叫ばず、−それは野暮天−作家は小説に仕立て上げた。
この小説は、再び東京へ戻って地下鉄に乗るシーンで終わりとなるが、少年の表情は決して暗くない。それが救いとなっている。
たぶん作者が長年あたためていたテーマだと思うが、ここまで対象を突き放して書けるには、それなりの歳月が必要だったのだろう。

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紙の本山尾悠子作品集成

2004/01/22 09:15

早すぎた幻想小説家。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

年末は阿部和重の『シンセミア』にやられ、年始は山尾悠子の『山尾悠子作品集成』にやられてしまった。

緻密な文体や構成は、完成度が素晴らしく高く、全然古びていない。えらい重たくて、読むのにナンギしたけど。

山尾悠子のことを、てっきり妙齢の作家だと勝手にイメージしていたが、タメ年だった。女性のSF・ファンタジー系作家の草分けとか聞きかじっていたものだから。

なんで、遅い初体験。若い子が、『はっぴいえんど』や『シュガーベイブ』を聞くようなものかな。体験が遅ければ、遅いほど、はまってしまう度合いも強いとかで、ほんと、脊髄までシビれてしまった。

巻末の山尾をリスペクトする人々のレビューというのか、ファンレターの中で、澁澤龍彦や金井美恵子、倉橋由美子やロブ=グリエ、ボルヘスなどなど彼女が感化されたものを取り上げている。

そうそう、ヌーヴォーロマンなんてわけのわからんものを、有り難がって読んでいた。

SFは、舶来ものを少々読んでただけだし、国産ものだと筒井康隆一本勝負だったし。『SFマガジン』も『奇想天外』も見事なまでに読まなかった。

一作選ぶなら、代表作の『夢の棲む街』。これを二十歳そこそこで書き上げるとは。キリコのシュールリアリスティックな絵画の世界へと誘う。凄いとしかいいようがない。今だったら、芥川賞もの。

ファンタジーが、どうも女・子ども(女性のみなさまとお子様方、失礼!)のものであるという昨今の風潮が気に食わない。なら幻想小説ってのは。ファンタジーと幻想小説、こう並列させると、字面からしても、かなり違うよね。けど、中身はおんなじ。

『月蝕』は、数十年前の京都ー彼女は同志社大学出身ーを舞台に書かれていて、ぼくもタイムスリップしてしまった感じ。ジャズ喫茶で、文庫本片手にハイライトくゆらせてえ、みたいな…。別に京都の大学へ通ったわけではないが、なんか当時の空気が行間から伝わってくるのさ。これなんか恩田陸っていっても、通じるかも。


沢渡朔が撮影したモノクロのポートレイトが巻頭に掲載されているが、こりゃまた凛としてお美しい。文学美少女もそうだけど、文学美青年なんていなくなったなあ。流行んないか。


Weblog「うたかたの日々」
http://soneakira.blogtribe.org/

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「批評」することのはじまりに向かって。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

副題の「批評家養成ギブス」なんて言われると、「大リーグボール養成ギブス」なんて想像してしまうオールド世代のぼくが読んでも、おもしろくてためになる。ほらよく「キミは評論家タイプだから」なんてつぶやかれると、なんだか実作(小説、音楽、絵画など)ができない口ばっかの人とレッテル貼られたようでいい気はしない。

だけど、だけど、作者に倣えば「小島信夫が小説は自由に書けばいいんだ」と教えてくれたように批評とて「自由に書けばいい」。小説家が批評や評論は不要と声高に叫んでも、批評や評論を書くのは、小説を書くのと同様に自由であり、どう書いてもいいはずだ。「私性」を排除したつもりでも、最後には見事に露呈している、それでいいんだと。

だってバックデータは、ネット検索すれば、大抵出てくる。評論っていうと、そういう、データの引用の織物だったかもしれないが、ちゃう、ちゃう。これからは「センス」だと。

「物知りじゃなきゃ批評は書けない、ある批評対象についてたくさんの知識と情報を持っていなければ批評は書けないとはぼくは今は全く思わない」

ここも納得。

「社会学系の人が、サブカル的なものを対象として扱うことがよくありますよね。だけど、自分が会得した理論的な解読方針で何でも斬れるっていうことは、あくまでも、「対象の方からこっちに向かってくるんだ」っていう考え方がないと、批評の暴力になっちゃうと思うんですよ。理論的な暴力っていう」「対象の方からこっちに向かってくるんだ」

書くんじゃなくて書かされるってやつね。憑いてくる、降りてくる。「社会学系の人」って誰だろ。

この本で作者がシネ・ヴィヴァンの映画館員のアルバイトをしていたことを知った。で、ロック雑誌での映画レビューが批評を書くはじまりだったそうだ。六本木シネ・ヴィヴァンや蓮実重彦が当時の青少年に与えたウィルス的インパクトとか、チョー懐かしい。シネ・ヴィヴァンのアルバイトの後釜が、中原昌也という。事実は小説よりも~なり。

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紙の本日本文学盛衰史

2004/06/28 14:12

作家大爆発。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、日本近代文学の揺籃期を描いた小説。だけど、そこはポップ文学の第一人者である作者だけに、いままで国語の授業や日本文学の講義で習ったものとはひと味もふた味も違っている。たとえば、いま、ぼくたちがこうして書いている文章は言文一致体というが、その創始者といわれる二葉亭四迷や山田美妙の苦悩をつまびらかに再現している。

日本語でロックは表現できるか。それで大激論となった日本のロックの黎明期と似てなくもない。

新しい日本文学を樹立しようと意気込む作家たち。ドストエフスキーなど当時の世界の最先端文学を翻訳しながら、どのように自作に採り入れようかと躍起になる作家もいれば、オリジナリティの創作に励む作家もいる。

国木田独歩や田山花袋らに代表される自然主義文学はオールドファッションだと当時勃興しつつある危険とみなされた社会主義思想に強い共感を抱いていた石川啄木。石川が校正係をしていた朝日新聞社に出入りしていた夏目漱石との交流。森鴎外、島崎藤村などキラ星のごとく輝く明治時代の文豪たちが本作の中では、いきいきと動き回っている。

樋口一葉が登場してくるシーンは、王道をいく青春小説仕立てになっていて、−村上春樹のパスティーシュの如し−ふだんはひねくれた文学ファンならずとも、そのまぶしい青春ぶりをテレることなく賛辞してしまうはず。

伝言ボックスを愛用して、渋谷が大好き、アルバイトでブルセラショップの店長をしているな石川啄木やアダルトビデオ監督に挑戦する田山花袋など、作者は、ケータイ、Web、ルーズソックスの女子高校生など現代のトレンドを巧みに織りまぜながら、ポップにユーモラスに展開している。ある詩人のサイトの掲示板の書き込みあたりが実にうまくて笑える。違和感があるかというとなぜかそれがまったくといっていいくらいない。なぜならば古色蒼然たる世界ではなく、アップ・トゥ・デートな世界をとらえようとしているからだ。


坪内祐三あたりがしきりに明治時代の文学をプッシュしているのは、この時代の多士済々な作家たちや作品、いずれもが爆発的なエネルギーにあふれているからなのだろう。さしずめ明治時代は、かつていろんな生物がいちどきに大量発生したカンブリア期のようなものだ。

メタフィクション、メタメタフィクションと、もうメタメタ…。

日本文学史としても読めるし、ある意味、私小説的部分(作者のご母堂のことやラストに出て来る実子に対しての思いは、まるっきし無頼派作家のよう)もあるしと、かなり味わい深い、読み応えのある、とびきりの小説である。


ブログ「うたかたの日々」

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悔いのない人生を生き切るために。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いわゆる学者の書くものは、大概が、小難しいロジックをデコレートしたもので、学説の引用のパッチワークで、結局、何をいいたいんか、とツッコミを入れたくなるのだが、著者は、「私はこう思う」と、あっけらかんと心情を吐露している。いきなり読者にカミングアウトされても、とまどうばかりなのだが、読んでいるうちに、魅力を覚えてしまった。

しかし、その一方で、こうもファンダメンタルな問題ばかり突き詰められると、息苦しくなり、陰鬱になってしまったことも否めない事実である。

脳死に関して作者は、メルロ=ポンティの「間身体性」という言葉を引きながら、こう述べている。「脳死になったとしても、その人はまだ完全に死に切っているのではないという感覚は、多くの一般人がもつ感覚で感覚である」

しかし、「英語圏で成立した『生命倫理学』」においては、「意識のない人間はもはやひとにあらず」というパーソン論が主流であると。脳死=死と決めつけ、さっさと臓器移植して命を救う、そこに即物的、効率的なもの、強者(医者)と弱者(患者)の図式、あるいは医療の生命に対する傲慢さを、ぼくも感じてしまう。

フェミニズムに関しては、日本のフェミニズムの流れを俯瞰している。その中で、田中美津への言及が、ひかれた。

A−「田中のリブは、自己との出会いから出発し、女から女たちへとつながってゆき、そして最終的には男から男たちへの出会いを誘発することを目標とする。リブは、それを真正面から受けとめて自分自身を振り返る男たちが現われない限り、次のステップには進めないのである」

B−「田中は言う。『(女と男)闇の重さは共有できないが、共有できないということそれ自体を共有することはできる。そうやって、われわれはつながってゆける』」

Aへ進むには、まずBを共通認識することからなのだが、はてさて…。

優生学に関しては、優生保護法の「優生」と優生学の「優生」は、同巣であると。いわれてみるまで、まったく気がつかなかった。

「優生思想とは、生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方のことである」

「障害者と『内なる優生思想』」の章では、障害者の夫婦が、妊娠して生まれてくる子どもが健常児であることを望むのは、一見、正当のように思えるが、しかし、それは自分たちの生存証明を打ち消すことになるのではないかと。

最終章の最後の数行。

「われわれは、連帯しない。われわれは、自分の生きている地点にとどまったまま、それぞれ固有のメッセージを発信する。われわれは、この広大な世界の片隅で孤独に闘っている人々と微弱な電波を交信し、悔いのない人生を生き切るために、お互いに遠くからささえあってゆくのである」

科学(でなかったら理系)と文学(でいいのかどうかわからないので、なら文系)と宗教の学際的立場の人の本を、結果的に、かなり、読んでいるのだが、この箇所だけ引用してみると、それはあたかも新興宗教の教典の一部のようにも思える。

はまるか、はまらないか、読み手の評価が真っ二つに分れる本である。

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