サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. Ikuno Hiroshiさんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年6月)

Ikuno Hiroshiさんのレビュー一覧

投稿者:Ikuno Hiroshi

9 件中 1 件~ 9 件を表示

紙の本大正天皇

2009/06/19 10:28

「人間的な,あまりにも人間的な」

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 長い明治と昭和の狭間にあって,たった15年しか在位しなかった短命の天皇。
 統治期間である大正時代の印象はあっても,後半は裕仁皇太子による摂政下にあったためもあって,天皇個人に対するイメージは余りにも希薄だ。
 その希薄さの中に,今なお語り継がれる「遠眼鏡事件」の風説(詳しくは検索)による「脳の病」「暗愚」といった否定的な姿で立ち現われることが多いのではないだろうか。
 この本は,そんな大正天皇の一生を各種資料を駆使して丹念に描いた評伝(本格的なものとしては最初の!)である。

 明治天皇の側室の子として(正室=皇后からは子は生まれなかった)唯一生き延びた親王は,最初から病弱だった。しかも当時の皇室の伝統に従い,実母(柳原愛子)の手から離され父と会うこともなく里子として育てられる。
 病弱故に通常よりも学習は遅れ,学習院で規律だった集団生活に馴染むこともなく,個人教授によってなんとか学習を続けた少年時代。
 そのせいか,「現人神」として人間的な言葉/振舞いの少なかった父・明治天皇とは異なり,自我を抑えることなく闊達な性格を開花させた青年時代。
 九条節子との結婚により初めて家庭を持った嘉仁皇太子は,有栖川宮威仁親王という理解者を得,「地理歴史の実地見学」という名目で巡啓(旅行)を行うことで健康を取り戻す。

 この全国巡啓の頃の姿は,人間としてとても魅力に溢れている。
 歓迎に集まった民衆を観察してトラコーマ(眼病)が多いことを見抜き,その予防策の甘さを指摘する鋭さ。
 人力車での移動の際,車夫に予定とは違う道を指示して行かせるという受け入れ側の意表をつく行動(夜間,こっそりと宿舎を抜け出して散歩するということもしている)。
 各地の視察場所や伺候した知事たちに続けざまに質問を浴びせる好奇心の強さと饒舌。
 皇族として初訪問した朝鮮(以下,当時の呼称を使用)では,幼い李垠皇太子を気に入り,彼が日本に留学して来た時には朝鮮語の学習に熱を入れている。
 人間離れしたイメージの強い明治天皇/昭和天皇とはまったく異なる姿がそこにはあった。

 愛情に恵まれなかった幼少期を過ごしたためか,家庭ではひとしお子煩悩だったようだ。
 慣例により里子に出された皇子たちを数年で御所の隣の皇孫御所に引き取り,完全同居ではないものの食事を共にしたり節子妃の伴奏で歌を歌ったり,また一緒に遊んだりと,今の皇室に近い形で過ごしていたらしい。巡啓先では,三皇子のための土産物を選ぶこともよくあったという。

 しかし,このような人間的な姿は,天皇を超越的な存在として扱う近代天皇制においてはあまりにも異端なものだった。
 即位後,元老・山県有朋は,天皇に対して思ったことをすぐ口にする性格などについて苦言を呈しているし,山本権兵衛は政治的な面で不信感すら抱いている。
 環境も,自由に振る舞えた皇太子時代とはがらりと変わった。闊達な性格の裏返しとして秩序,規律といったものに馴染めなかったことは,天皇としての束縛の多い生活はかなりのストレスになったらしい。後に秩父宮が言ったように,その環境の激変が天皇の健康を蝕んでいったようだ。
 病(病名は不明だ)は次第に悪化し,遂に一人で歩くことも言葉を発することも不自由になる。記憶障害も起こったらしい。
 そんな中で印象的なのは,李垠拝謁の時,彼の記憶も失ったらしい状態でそれでも朝鮮語らしい言葉を発したという逸話だ。

 病の悪化に伴い,裕仁皇太子の摂政就任が浮上し始める。
 世論に対する地ならしとして病状公表も行われ,その中で幼少時の「脳膜炎」の後遺症によると思われる「脳病」という表現が使われるようになった。これが,大正天皇のイメージを変えていったことは疑いないだろう。そして,そのイメージは現代まで続いている。
 摂政就任に際しては,側近による「押し込め」的事態があったのではないかと筆者は推測している。これについては,更に研究が必要だろう。

 大正天皇の崩御に際しては,それまで相見えることもなかった実母の柳原愛子がずっと手を握っていたという。筆者はそのことについて,「大正天皇は,天皇としての役割を完全に終えたとき,皮肉にも初めて親子の情愛を交わすことができたといえようか。」と評している。
 崩御後,節子皇太后は一日のかなりの時間を大正天皇の御影の前で祈って過ごす生活を,25年間ずっと続けた。
 この二つのエピソードは,人間としての大正天皇の姿の一面を見せてくれるものではないだろうか。

 天皇が人間として生き生きと振る舞うことができなかった近代天皇制。
 その残滓は,美智子皇后の皇太子妃時代の苦闘,雅子皇太子妃の今の有様に未だに残っているのではないか。一部からとかく批判されがちな徳仁皇太子の振舞いは,それに対する抗いではないのか。
 大正天皇のような傷ましい犠牲は,これ以上出してはならないと思う。



 「人間的な,あまりにも人間的な」
 大正天皇の生涯は,この言葉に尽きる。それが,この初の評伝を読んでの感想である。
 この本の後に続く研究を,是非とも望む。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「小笠原クロニクル 国境の揺れた島」

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読後,小笠原については何も知らなかったなあ,と思わせてくれた。
 ネットで購入したきっかけはもう忘れたが,たぶん好奇心。自分が移住してきた沖縄の東方遥かに浮かぶ小さな島は,いったいどんな島なんだろう,という。

 発見は日本人だったにもかかわらずその後は放置,1830年に至って欧米系+ポリネシア系の人々が移住して無人島ではなくなったという事実。
 ペリー来航後,この島嶼に対する米英の領有意欲を知って焦った幕府により「回収」作業が始まり,明治になって日本領であることが確定。住まっていた人々はそのまま日本人となったという事実。
 農業や漁業,捕鯨などにより繁栄し,内地からの移住者も増えたのも束の間,太平洋戦争で前線基地となったために,軍属とされた人以外の島民が全員内地に強制疎開させられたという事実。
 戦後はアメリカ統治下に入り,欧米系住民だけが帰島を許され,すぐに帰れると思っていた日系住民たちが路頭に迷う羽目に陥ったという事実(そして,政府はその救済に冷淡だったという事実)。
 1968年に返還され再び日本領に戻ったものの,公用語が英語から日本語に変わったことに象徴される文化的な齟齬や先行きの不安から,同じ一家の中でも日本国籍を取得する者とアメリカ国籍になって移住していく者とに分かれたという事実。

 僕の知らなかったそんな事実が,筆者の丹念なインタビューによる島民たちの語りによって浮き彫りにされる。
 このように書いてくると,なんだか暗い本のようにと思われるだろうが,そこは南の島。深刻なことは深刻なりに,でも基調はとても明るい。真西のここ沖縄にも降り注ぐ太陽の光のように。それはきっとこの島に住んでいる人々の心性がそうだから,に違いない。

 ただし。
 屈託のない島っ子・瀬堀エーブルさん(名前のとおり欧米系で,最初の移住者の一人で島の長となったセーボレーの子孫)が著者にアイデンティティを問われて答えたこの言葉が,実は深い意味をもつのかもしれない,と読む人は考えてみる必要があるだろう。

 『オレは小笠原原人だと思ってるよ』(85頁)


 「クロニクル(年代記)」という書名にもかかわらず,単に小笠原についての歴史的な知識だけではなく,日本人の中には「日本人」でない人々がまぎれもなく存在しているのだと事実(そしてマイノリティの存在に鈍感な日本社会の通弊)もそれとなく教えてくれる良書だ。
 この本を読めたのは,今年前半の大きな収穫だった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

事実はアニメより奇なり

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

クマノミが性転換する魚だってのは知っていましたが,サンゴ礁には他にもいろいろいるんですなあ,そーゆーヤツらが。お掃除魚のホンソメワケベラとかダルマハゼとか。
どうしてそんな七面倒くさいことをするんだろう,と前々から疑問に思っていたことが,この本で氷解!しました。
なんと,社会的地位=体の大きさによって性を変えるんですな〜(体長有利性説)。しかも,種類によっては一方向だけではなく逆方向にも。これには一夫一妻制か一夫多妻制か,という配偶システムも関係してくるそうで。どうしてそんな戦略をとるのかは,中身を読んでもらうということにして(わかりやすく書いてあるので心配無用)。
面白かったのは,ファインディング・ニモの主人公カクレクマノミの衝撃の事実!
『本当は,「ニモだと思って育てていた息子だか娘だかまだわからない養子を,お父さんがいつのまにか性転換してお母さんになって探しに行きました」というお話なのである。そして,二人が出会った暁には,「お父さん」と「ニモ」は夫婦になるはずだ。血はつながっていないので問題はない。お父さんがメス,ニモがオスとしてペアで繁殖する・・・というハッピーエンド(?)のお話しになる。』(以上,引用)
・・・読んだ瞬間,爆笑! 絶対,ディズニーの無理矢理人間に引きつけた安っぽいストーリーよりこっちの事実の方が面白いですから!
この「真実」に基づいて,誰かパロディアニメ(というより教育アニメか?),作りません?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本黒のもんもん組

2005/10/26 16:16

ここまでやったら後に何が残るだろう

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 少女マンガ破格のギャグマンガ。あの名作「つる姫じゃ〜っ」でさえも,この作品の前にはかなり分が悪い。
 一応大学生という設定の,少女漫画家・とらじゃ,男色家・めりた,変態を超えた変態・かりた[なぜにコーヒー関係のネーミング?]の3人組がナンセンスで微妙に知的かつ痴的なギャグを一コマごとに炸裂させる。しかも,誰も突っ込まない。突っ込むかと思われた大学のセンセたちすら,彼らに対抗して「白のいやいや組」を結成してしまう・・・ギャグは逝きますドコまでも,奈良と鎌倉二人の大仏心中させて,釈迦とキリスト絡ませて,笑いの極北突き抜けて,何も残らぬ潔さ。
 基本は言葉遊び/だじゃれギャグ。ただ,それがわけのわからないシチュエーション&変調リズムでぽんぽん放り出されるため,読む方は押し流されて笑い(もしくは笑えず),ふと気がつくと自分もギャグと同じくぽーんと放り出されているのに気がつくしかない不親切設計なマンガ。よくぞこういう作品を何年も連載させていたものだと,当時の白泉社の英断(蛮勇)に感動するばかり。
 笑えれば笑えたなりに,笑えなければまた笑えなかったなりに,読後に不思議感の漂う世界。後に何を考えようとしても,無駄なのかもしれない。
 初めて読んだ時,作者名を改めて確認して愕然とした。擬人化された猫たちのほのぼのストーリィ「小さなお茶会」を描いているのと同一人物じゃないか! いったい,この人はどういう人格をしているのだ???
 この人が更に「幻獣の國物語」というハードな異世界ファンタジーまで描いているのだから,もうわけがわからない。3つの作品の間に共通点が見当たらないのだから。
 本来は白泉社コミックで3巻あったものを,文庫版では抜粋して1巻にしている。・・・ので,解説に紹介されている「バチ当たり」ギャグの回が収録されていないという「失態」も。
 全話まとめて読みたいんですけどね・・・白泉社さん?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本いぬうえくんがやってきた

2010/02/21 23:38

こどもだけによませるのは おしい

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 絵本「いぬうえくんとくまざわくん」シリーズの第1作。

 粗筋を書けば,一人で暮らしていた熊のくまざわくんが犬のいぬうえくんと友だちになり,一緒に暮らすようになったけど,ちょっとしたことから仲違いをしていぬうえくんが出て行って・・・という他愛ないといえば他愛ないお話。

 でもね。
 あちこちにちりばめられた言葉が,心に響くんだよ。それは大人だからなおのことなんじゃないかな。

 『いやだなあ,くまざわくん。めにみえないものをわけることだって,できるんだ』
 「ぼくのよこで,あんしんしてねむっているいぬうえくんをみていると,ぼくもなんだかあんしんする」
 「いままであたりまえだとおもっていたことが,じつはぼくらしいことだっていうことだ」


 おっとりしたマイペースのくまざわくんと,理屈っぽくどこか上から目線ないぬうえくん。
 こんな二人が一つの家で暮らすようになれば早晩ぶつかるのは当たり前で,誰だってそんな経験はあるでしょ。
 でも,ぶつかった時に必要な「なにか」があるよね。
 くまざわくんはそれを口に出せなかった。いぬうえくんがいなくなってから,口に出すことが大事だって気づいた。
 いぬうえくんはそれを言い忘れていた。「ありがとう」は言ったのに,肝心なことを忘れていた。


 その内容は大人が読むのに堪える・・・というか,大人こそ読みなさい!と言いたいな。
 ひねくれた僕が虜になるくらいだから,間違いない。



 そうそう。
 あちこちに「くすっ」と微笑ませるエピソードもあって。
 「くまざわくんふう はちみついりこうちゃのつくりかた」とか(「わざとよそみをしながらはちみつをいれてあふれさせる」),「いぬうえくんがはなしてくれた うみ」の想像図とか。
 その一端は,きたやま ようこオフィシャルサイトにある彼女の童話の絵を使った短いフラッシュ動画で見られるよ♪(「ファンクラブ」をクリック)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ワライおばさんから何かをもらったような気がする

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 タイトルで衝動買いした本。てっきり,感染者が自らの生活を描いたものだと思った。
 読み始めて勘違いに気づいた時,がっかりした。僕は日本の感染者のことが知りたかったので,タイの感染者のことじゃない。
 でもそれはすぐに消えて,本の中に惹き込まれていった。

 タイ最北部チェンラーイ県の村に一人娘と住まう感染者のワライおばさん。
 夫からHIVに感染し,その夫はAIDSを発症して死んだ。筆者が訪ねてゆく度に,商売を替えている。あまり後先を考えない「マイ ペン ライ(なんでもない)」の典型的なタイの人。
 筆者に「それでよく商売やってんなあ」と言われるような儲からない商売をしながら,PWA(People with Aids,感染者の相互扶助団体)を立ち上げて活動している。
 タイでも感染者は疎外される。疎外されれば,他者との交わりによってその人の存在が確立される村の暮らしでは,感染者はその存在理由を失ってしまう。
 ワライおばさんは,村で感染を告白し,支援のNGOの力を借りて啓発活動,支援活動を始めた。ワライおばさんが突破口になって,隠れていた感染者が次々と名乗り出,HIV/AIDSは村人にとって身近なものになっていった。「普通」になったものを疎外することはできない。
色々な感染者/発症者が出てくる。
 とても悪い状態だったのに,恋人が訪ねてくると奇跡的な病状改善をみせたり。
 恋人の気を惹くために,睡眠薬を飲んでみたり。
 感染しているのに,恋人がいるのに,別の人とあっけらかんとセックスしてみたり。
・・・そして,亡くなる人たち。何度も村を訪ねる間に,何人もの顔が欠けていく。
 その葬送は何ごともなく行われ,人々は「この儚い現世を笑顔で軽やかにすごしていく」「そして何ごともなかったかのように,進んでいく」。
 諦め,前向き,達観,無思慮,呑気・・・そのどれでもなく,どれでもある生のあり方。
 その中から生まれるワライおばさんの言葉のいくつかは,不思議な力を持っている。
「元気な心がなくなったら,おしまいよね。ハトリ,そうでしょ?」
「そうねえ,みんながいなければ,ワライはエイズが治っても,生きていけない」
「ワライ,生まれてきてハッピーよ。今,こうして生きているから」
・・・何かをもらったような気がする。
 そんな本だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

タイトル負け

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 内容は,化外の民であった「蝦夷」が大和王権の下に組み込まれる様を,日本書紀などを通して描くというもの。
 蝦夷と王権との関わりをいかに掘り下げているかと,大いに期待して読み始めたというのに,しょっぱなから躓いた。
 第1,2章。
 敏達天皇10年,大和王権の勢力圏に進攻した蝦夷の長「綾糟」が大和に呼び寄せられ,泊瀬川に入って三輪山に向かい王権に服属する誓いを立てたという記事に関する記述。
 詳細は煩雑なので省略するが,綾糟が三輪山に向かったのは,それが故国の山々(そこには国の神々がこもる)に似ていたからであって,「天皇霊の影さえ認めてはいなかった」。
 「似ていた」? 綾糟の住まう地がどこかはっきりともしていないのに,それと三輪山がどうして似ていると言えるのか?
 その前の文章で,「天皇霊は三輪山にはこもっていない」という論証をしようとはしているが,単なる仮説に仮説を重ねただけのものにすぎず,読む側としては納得していないところにいきなりそのような空想的印象を持ち出されるものだから,「何を得手勝手なことを書いてるんだ?」となる。
 一事が万事。
 読み進めていくと,この類いの記述が次々に出てくる。
 どうもこの本は,東北岩手の魔力に憑かれた著者の,その地の先住民たる蝦夷に対する「思い」が先に立って,それを元として想像された蝦夷像を述べ立てるために,我田引水的に日本書紀や国造本紀などを駆使しているだけの,「自慰本」らしい。
 蝦夷に限らず,特に岩手に関連する「遠野」「宮沢賢治」「平泉」に関する本に,資料を操作して論理的展開をするように見せかけながら,その論理が不完全なまま,最終的には対象に抱く自分の思い/印象を押しつけるといった,自慰的,自己満足的な本が多いように思えるのはなぜだろう。それは,岩手の地の人ではなく,外から来た人の書いたものによく見受けられるようでもある。
 ・・・それが,彼の地の魅(魔)力の為せる業なのか。
 著者が専攻するという「東北学」。
 それに限らず,地名を冠した「○○学」と呼ばれる地域研究が,果たして論理的な「学」を名乗るにふさわしいものなのかどうか。
 僕は一抹の不安を感じる。
 後半は,そのような「勢い」すら失われる。
 史書の蝦夷関係記述の敷衍的説明に過ぎず,「王権」の関わり方についてはごく初歩的な知識程度しか記述していない。これでは完全にタイトル負けと呼ばざるを得ない。
 もちろん,蝦夷/大和朝廷関係史を通して知りたい人にはいいかもしれないが,それにはタイトルがオーバーすぎるだろう。
 最後の第8章で,岩手県江刺市藤里の兜跋毘沙門天立像と東北人の心性の関連についての試論を,アテルイと絡ませて数ページだけ展開しているが,いっそこちらをメインテーマとしてそこから蝦夷/大和朝廷関係史を掘り下げていった方が,著者が本来専攻する哲学からしても興味深いものになったであろうと思われる。
 かつて「隠された十字架」などで梅原猛が(賛否はともかく)迫力のある所論を展開したように。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ヨーロッパ鉄道旅行の魅力

2007/09/17 12:22

短すぎる上に伝わらない

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ヨーロッパの鉄道旅行を紹介した新書。
 取り上げられているのはドイツ,ベネルクス,イタリア,北欧(デンマーク経由で列車で渡れるのだ),中欧の特急(高速列車)がメイン。

 面白いといえば面白いのだが・・・各章10ページ前後とあっては中身が薄くならざるを得ない。だがそれはページ数だけの問題ではなかろう。
 たとえば,もう30年くらい前になるだろうか,「暮らしの手帳」に当時フランスが誇っていたTEE「ミストラル」乗車記が掲載されたことがあった。新書にすればおそらく12ページ程度だったろうが,車内,車窓風景,食堂車での食事と,旅そのものを楽しんでいる様子が抒情性豊かに描かれ,読後「自分もぜひミストラルに乗って旅を楽しみたい」と旅心をそそるものだった。
 この本にはそれが希薄なのだ。いや,著者本人は楽しんでいるし,それはそれなりに描かれている。だが「鉄道旅の楽しみ」,そしてもっと大事な「旅の楽しみ」がいまひとつ発せられていない。

 確かに,タリス,TGV,ICEと高速化された列車と高速新線には,TEEのような「旅」は期待できないだろう。
 それならそれで,そちらはちらりと触れる程度にしてその分を「旅」の楽しめる路線/列車の方に割いた方がよかったのではないか。
 例えば,第8章「ベネルックスの小さな旅」,第12章「雄大な山岳風景を楽しむ旅-ノルウェー各地」や第14章「すべての鉄路はローマに通ず?イタリア紀行」などは短過ぎて物足りなさが募るのだ。
 第16章「鈍行列車で行くチェコの旅」も,あまり紹介されないと思われる路線/列車である上に,著者本人も「ノスタルジックな「汽車旅」」が楽しめる国だと指摘しているぐらいなのであるから,他章と同じくたった10ページで終わりというのは寂しすぎる。

 更に言えば,凡百の鉄道旅行文にありがちなように描写が平板,というかありきたりだ。表現や視点がどこかで見たことがあるという印象が拭えない。
 そんなわけで,これを読んで「その列車に乗りたい」と思わせるほどの「旅」の楽しさ,魅力は残念ながら伝わってこなかった。


 ヨーロッパ鉄道旅行のちょっとしたガイドブックとしてならいいが,旅情を求める向きにはお薦めできない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本美のジャポニスム

2006/08/14 12:13

興味深いが・・・

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 内容は興味深いし,大変面白い。
 「ジャポニスム」の影響が,アールヌーヴォーや印象派だけに留まらず現代にまで及んでいる(ネオ・ジャポニスム)という指摘は,目から鱗でもある。
 しかし。
 用語の不統一(例:アール・ヌーヴォとアール・ヌーボ),「・」の付け間違い(例:羽織・半纏→羽織半・纏,グラフィック・デザイン→グラフィックデ・ザイン)など,書の中身以前のところで印象が非常に悪い。
 各章末の註の文字サイズ/書体が本文と全く同じ,巻末の年表の文字バランスが極端に悪いなど,見た目の問題もある。これは意図的だろうが,斬新さではなく違和感しか与えないという点でデザイン失敗である。美の構成学を専門とする人がなぜこんなことをしたのか,理解に苦しむ。
 更に,重複する内容の文章が何度も出てくる,主語と述部がねじれている文章が多い,句読点の付け方が意味に対して不自然,など文章作法面でも「これが何冊も著書がある人間の書いたものか?」と首をひねりたくなる部分が多々見受けられる。
 このあたりは,最初の読者にして助言者でもある編集者の責任も大いにあるだろう。もし僕が編集者なら,「書き直してください」と突っ返しているところだ。
 もう一つ。
 著者は,「ネオ・ジャポニスム」を見出したことは別段ナショナリスティックな視点からではない,という意味のことを書いているが,終わり近くになって突然このような大袈裟な文章が現われると,出版社が出版社なだけに僕のようなひねくれた読者は「本当か?」と首を傾げたくなるのだ。
(ついでに。この文章にも重複表現が見受けられる!)
 今この非定形やフラクタルは西欧人が古代から美の摂理として崇拝していたプロポーション、黄金分割とも深い関係にあり、改めて日本人の美学の整合性が証明された思いで、私は日本人としての誇りと、人間は所詮、大自然の中の九牛の一毛にすぎないのだという全宇宙的なコスモロジーの感慨に耽っているのである。(204頁)
 冒頭にも書いたように,ジャポニスムの概念を拡大し,その影響力の分析を現代まで広げた視点は大変興味深く,手柄と言ってもいいだろう。
 それだけに,こうした主要内容以前の部分でひっかかる点が多々あるというのは,惜しんでも余ある。
 だが,そういうところに目をつぶれば,ジャポニスムの概説としては値段も手頃でよいと思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

9 件中 1 件~ 9 件を表示