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レビューアーランキング
先月(2017年4月)

安藤星彦さんのレビュー一覧

投稿者:安藤星彦

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本杳子・妻隠

2000/07/21 05:41

喪失の「不在」のなかで

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 この『杳子』が書かれた70年という時代のコンテクストの暴力的な要約。三島由紀夫の自殺と、学生運動の敗北(「政治の季節」の終焉)。「第一次戦後派」と「第三の新人」を分けるものが、敗戦によって崩壊した個と全体の照応関係(統覚)を再構築するか、あるいは「喪失」の感覚にとどまり続けるかにあるのだとすれば、古井由吉ら「内向の世代」とよばれる作家たちは、後者に属しながらも、もはや「喪失」の感覚すらも拠り所にできない、統覚とその不在の間で「挟み撃ち」(後藤明生)にされるほかない状況のなかで言葉を紡ごうとする人たちのことだと、とりあえず言うことができる。

 本小説の物語構造そのものはいたって単純だ。山の谷底で出会った青年と神経症を病む少女杳子との恋愛小説という形態。精緻にして冷たく美しい文体。幻想性すらも感じさせる独特な比喩の用法。いつしか読者は作者の作り上げる世界観のなかに違和感なく入っていってしまう。

 「病気の中へ座りこんでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいに顫えて、それで生きていることを感じているの」

 杳子の病は臨床用語で言えば境界例にあたるものであり、彼女は「健康」と「病気」の間をたえずゆれうごく。「病気の中に座りこんでしま」うということは、分裂病状態に陥ることであり、そのとき他者は消滅し、社会と何ら共有するものをもたない完全な暗黒の中におかれることになる。それは理性をもつ者にとっては精神的自殺に等しい。ゆえに杳子はそれを拒絶する。一方で彼女は、社会に適応するためにこしらえた見せかけだけの自己同一性(健康)をも嫌悪し拒否する。

 その杳子が主人公の「彼」に対してのみ心を開くことができるのは、彼が「健康人としても、中途半端なところがある」人物であり、杳子の内面へと「入りこんで来るわけでもなく、距離を取るでもなく」、彼女の「病気を抱きしめるでもなく(略)病気から引張り出すでも」ないような関係性を保ち続けるかぎりにおいてである。彼との関係においてのみ、彼女は不安定ながらも「境い目」にいることができる。そこには自己というものへの作者の深い洞察がうかがえる。自己が自己たりえるのは他者との不安定な関係性のなかにおいてでしかなく、ゆえに自己は同一性・連続性を保ちえず、つねにゆれ動いていなければならない。

 二人にとって、安定した関係というものは持続しえない。それは杳子に自己の同一化(反復)を強いるからである。ゆえに彼女は「彼」に対してつねにアンビヴァレントな感情を抱きつづけねばならず、両者の関係は一定の距離をおいたものにならざるをえない。彼女は彼が関係の持続を求めることをおそれる。

 「いまのあたしは、じつは自分の癖になりきってはいないのよ。あたしは病人だから、中途半端なの。健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じ事の繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。そうなると、癖が病人の場合よりも露わに出てくるんだわ。そんな風になったら、あなたはあたしに耐えられるかしら…」

 実は杳子にとって、「そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なこと」であり、やがて彼女は関係の持続を求める「彼」を受け入れるのだが、そのとき一回一回の不安定な関係性はまさに終息する。その最後の瞬間に、「物の姿がふと一回限りの深い感情」を帯び、彼女は「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」とつぶやく。この反復しえない一回性へのすぐれて文学的な「夢想」をどう受け取るか。


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紙の本不過視なものの世界

2001/06/22 14:39

体験と思弁をつなぐスリル

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 ラカン精神分析、ハッカー文化、オタク文化、ミステリ、映画などの諸領野に携わる人たち(斎藤環、山形浩生、山根信二、村上隆、法月綸太郎、阿部和重)との対談を通じて、諸領野をアナロジカルに繋げつつ一つの大きな理論に収斂させていこうとする氏の試み。厳密な論証をこととしない対談形式であるだけに、氏の抱える大きなヴィジョンが大ざっぱではあれかなり明確なかたちで繰り広げられている。

 理論的評価。その雑多な活動にもかかわらず、氏の理論的なパースペクティヴは一貫している。[シンボル/イメージ]の厳密な峻別によって保たれてきたラカン理論によっては、70年代以降の種々の社会的・文化的事象を解読できなくなってきたのではないかという疑いのもとに、ポストモダン的状況が明らかになりつつある70年代以降の新たな社会的状況を、ラカン理論になり代わって分析するためのオルタナティヴな理論的基盤を形成することはできないか、と。ここで、一貫してシンボル(象徴界)とイメージ(想像界)の峻別を批判してきたデリダのエクリチュール概念を、シンボルとイメージの不可分な審級における新たな記号概念として援用していることは見るにたやすい。本書ではそれは「アーカイブ」という無意識的記憶の集積を表す概念として読みかえられ使用されており、[表層/深層]という近代的な二項対立を新たに[インターフェイス/アーカイブ]という超近代的な二項対立として読みかえる大胆な作業仮説の布石とされている。

 娯楽性への評価。氏は自ら作り出した理論仮説の強度を試すように、対談のなかで語られるさまざまな文化事象にそれを投げだし検証を試みる。しかし読者はその試みを、あらかじめ完成された理論の演繹による文化事象の解読としてではなく、諸領野への横断的なアプローチを通じてまるでその理論仮説が徐々に現在進行形で生成されていくかのような、アクチュアリティとロジックの緊張感が醸し出す思考のスリリングなエンターテイメントとして楽しむことができるだろう。

 疑問。だがここで、数多ある文化事象の中から氏が「症例」としてことさらに取り上げる、その事象の選択そのものがあるいは恣意的なものではないかという疑問も生じるだろう。なぜアメリカ映画なのか。なぜハッカー文化なのか。そしてなぜ、日本のアニメ・オタク文化なのか。自らの出自であるところのアニメ・オタク文化への過度の言及を見れば、そして氏の模索する新たな「理論」とやらが自らの出自の正当性、それのみを証明するかのようにすら見えなくもない振る舞いを見れば、そうした疑問が生じるのもあながち止むをえないとは言えるはずだ。

 展望。本書においては、提出された理論仮説は大ざっぱなものであり、実証的な説得力を有するまでには未だ至っていない。となれば、オタク文化への言及に即しつつ、ラカン理論(否定神学)にとって代わる新たな超越論的思弁を持たらさんとする氏の「普遍性」を装った「自分語り」のスタンスが、あるいは確信犯的な振る舞いなのであるとするのならば、その振る舞いの功罪を問うのは、現行の問題意識に理論的な回答が与えられる(と、著者自身が予告する)次著が繙かれるまで待つほかない。いずれにせよ、話が「デカい」のならばそこに込められた賭け金も相当に「デカい」ものになるはずだ。

□■■ HOSHIHIKO ANDO (web)(mail)

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紙の本プレーンソング

2001/06/22 14:16

自意識をぼやかしながら日常を生きること

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 主人公「ぼく」は2LDKの広い部屋に引っ越してきたのに、いっしょに住もうと思っていた女の子に振られてしまい、仕方なくそのまま一人で住んでいる。その後なにか新しい特別なことが始まるわけでもなく、別れた女の子についての主人公の思いが綴られていくのでもない。広い部屋ぶん上がってしまった家賃も気にならないほど出費が少なくなったこと、つまりは外へ出かけて飲みに行ったりすることもなくなったことに気づいてはみるものの、とくべつそうした事実を気にするわけでもない。描かれてゆくのは、ただダラダラと過ぎてゆくひきのばされた日常。しかしそうした日常を生きる主人公には、必ずしも社会的な通念とは一致しない、きわめて廉潔な、ややもすればふてぶてしさすら感じなくもないプライヴェートな倫理観がある。そう、たとえて言うならば村上春樹の小説の「僕」のような。そんな主人公の、猫との交流や競馬へ出かける日々、他愛もない日常を、さらさらと「いつのまにか時間の流れる」ような筆致で描く。

 過剰なまでに事件性をはぎ取られた何もなさすぎる日常を、こうして淡々と描写する文体には、ある種の「ぼやかし」のフィルターがかけられている。なにをぼやかそうとしているのか? 何もない日常に対して受け身的な主人公「ぼく」の、まさに受け身的であることそのものへのこだわりや自意識は、「ぼく」の家に転がり込んできた「ぼくたちから十歳も年下」の、なんの屈託もなく日常を享受するアキラやよう子たちとの、彼我の距離をみずから作り出す。その距離を埋めようというふるまいも、距離自体を不問に付そうという姿勢も、同じように自意識の所作なのだとすれば、ぼやかされているのは彼我の距離感ではなく、作者の自意識そのものである。

 こうした「ぼやかし」のふるまいを支えているのは何か。一切の「文学趣味」的な紋切り型(隠喩やシンボルのあられもない使用であれ、物語そのものの陳腐な構造であれ)を排除する作者の倫理観を指摘する識者の意見にも得心がいくものだが、たとえば作品中の挿話で言うならば、結末近く、何の目的もなく出かけた海(「海へ行くつもりじゃなかった」!)で出会った、大きな声で話しかけていたら耳の遠くなった犬が治ったという男の話に共感する主人公の、こんな気持ちにもあらわれているのではないか。

 「本当以外の何者でもないような本当というのでもないし、作り話やフィクションという枠組に守られてその中で面白がればそれでいいという話とも違っていて、信じてしまう人間だけが信じてしまう、それはもう事実性からどうこういう話なのではなくて、話す側と聞く側の意志だけで意味とかあるいは意味に近い何かを与えていく話で、ぼくはそういう話がすごく好きなのだ」(文庫版233P)

 これは、必ずしも「わかる人だけがわかればいい」というような他者性の排除をあらわしているのではなく、それぞれの世界を生きるそれぞれの人物たちがそのままに存在している状態を、その出会いや交流の偶然性をも含めて、積極的に肯定していこうとするような感性である。そしてもちろん、そうした感性は、多分に個人の資質に頼ったものではある。このような、いわく言いがたい感性として、たとえば作者自身がその渦中にいた80年代的なセゾン文化のそれを想像してしまうのは、問題を矮小化してしまうコンテクストの深読みに過ぎないだろうか。

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僕は模造人間

2000/07/21 05:25

ロマンティックな物語破壊者───「青二才」入門

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 重苦しい真剣さとは全く裏腹なのパロディである。あるいはそれ以上に、の死によってはからずも解体してしまった近代文学総体へのパロディである、と言うには軽快で歯切れが良すぎるか。その、ときに軽薄さすら感じさせるテンポは、「青二才」を自称する島田ならでは。ときおり挿入される詩もまたリズミカル。たとえば「ドラマのないドラマ/終りと始まりの近親相姦/助けてえ/これじゃ、自家中毒だ」(文庫版148P)。

 「…福引きのはずれ玉としてこの世に転がり込んでから、僕は亜久間一人という名前に情熱を突き上げられて、目に見えない怪獣に反抗し続けてきたのだった。怪獣の正体は今もって不明である。全てを予定された結末へと運ぼうとする力…全てを一定の秩序に収めようとする力…何をするにもついて回る紋切り型のの力…無意味を許さぬ力…まだまだある。(略)多くのはずれ玉たちは個の自立を目指して、人の猿真似を繰り返す。エリート・コースを歩むこと、非行に走ること、業界の花形になること、離婚すること、不倫の恋をすること…個の自立の仕方は何処でも教えてくれます」(文庫版149P)

 この認識のもとに、主人公はを覚悟して、というよりも、何もすることがないからと戯れる目的で決行するロック・クライミングのさなかで、「自己の存在証明の義務感から完全に解放され」、いわば生きている以上どうしても避けられないたることを確信犯的に生きる決意をする。「実存」のないことが彼の「実存」であり、「人間はやという部分と亜久間一人とか三島由紀夫といった模造人間の部分とが強引に合成されたものだ」とわかった以上、なんかなくても彼は何ら痛痒を感じない。それはいわば、スキーのさなかに遭難し雪山で死に直面したハンス・カストルプが、限界状況のなかで自己の存在証明を見出すトーマス・マンの『魔の山』のクライマックス部分、この近代教養小説の格好のサンプルへのパロディである。

 本小説の初出は86年4月とある。フランスの「現代思想」が輸入されて間もない、いわゆるニューアカ・ブーム全盛の時代である。つまり「物語批判」全盛の時代である。本小説をその時代的コンテクストと密接につなげて読んでもいいのだが、何よりもまずこれが青春小説のスタイルを取っていることに着目すべきである。「僕」と恋人ちづるとの一見エキセントリックにも見えるやり取りや、奥ゆかしさすら感じさせる淡泊な恋情の告白をつづった彼女への手紙。本小説の主旋律が物語批判にあるだけに、そのすぐれて思春期的なロマンティシズムは一層奥ゆかしく、自ら「青二才」をもって演ずる島田の面目躍如といったところである。「未成熟」ではなく「青二才」。それは「成熟」からの逃避ということではなく、「個の自立」という物語から限りなく遠ざかりつつ宙づりの姿勢であろうとする、すぐれて倫理的な振る舞いなのである。

 ロマンティックな青春小説にして反ロマンティシズムをも含包し、その両者の間で宙づりにされること。島田の「青二才」という戦略の主眼はそこにあるのであり、その是非はともかくとして、それがバランス良く提示されているという意味で、本小説を島田文学の格好の入門書としてお薦めしたい。


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