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先月(2017年6月)

BLUEさんのレビュー一覧

投稿者:BLUE

3 件中 1 件~ 3 件を表示

ラジカルなフェティシズム、そしてユーモア

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 コミケ出身のマンガ家砂のメジャーデビュー作。98年〜99年の間に『ホットミルク』(コアブックス)、『マンガ・エロティクス』(太田出版)などに掲載された作品8本を収録。
 収録作品の中心をなす「涼子シリーズ」は、あらゆる意味において「過剰」な作品である。キャンギャルを職業とし、ショーの最中に目星をつけた男とアナルセックスをすることが趣味の女涼子。「すべての女は売春婦である」というラディカル・フェミニズムの立場から、彼女はセックスを仕事ではなく趣味にしようとする女、売春婦ではなく色情狂になろうとする女として描かれる。「セックスをしない売春婦」の鏡としてのキャンギャルとの対置において、その批評的強度を高めようとする作者の戦略がそこには明瞭にみてとれる。

 またそこでは、ホットパンツやアナル、ショートカットの女などへのフェティシズムと、それらの表現への批判に対する周到な理論武装が同居している。それは、自分の好きなものを他者に向けて自己正当化するための詭弁に陥る危険をすらはらんでいる。

 だが何よりも圧巻なのはそこに突然挿入される異様なセックスシーンの描写である。1ページそのまま使った肢体描写に、ほとんどギャグとしか思えないベタな淫猥句のリズミカルな反復。それまでの物語展開とこのシーンとの違和感こそ本作品の"キモ"なのだが、ひとまずここでは笑うのが正しい。

 フェティシズムと周到な理論武装、そして異様なセックス描写。この作品にあっては、それらすべてが「過剰」なものである。それらの同居によるギャップがもたらす異様な違和感には、単なるギャグでもなく形式ばったメッセージ性でもない、それらを危ういところで均衡させつつ、最後には自分自身をも含めた全てを笑い飛ばしてしまうようなユーモアといえるものすら感じられる。まだ荒削りの感は否めなくとも、そこに僕は大きな可能性を感じる。

 たとえば似たような主題を扱った同作品集収録の「まわりみち」は、扱う題材(学園ラブコメのパロディ)のキャッチーさのために割とすんなりと入っていけるのだが、コミケ的な文脈におけるいわゆる「お約束」がここかしこに見えたりして、資本主義社会とフェミニズムに関する作者の深い洞察は伺えながらも、自身の出自であるコミケ的文脈からいまだ抜けきっていないかのように見える。その外部へと開かれた読者を想定したとき、作者は、「涼子シリーズ」のようないわば「開かれた過剰さ」ともいうべき批評意識に根ざされた作品を描きえたのであろう。

 その他、カフカのパロディ的設定のなかでエロ妄想が炸裂する「BOXES」、現実と記憶と妄想の相互侵入が記憶喪失の探偵の自己探求という形で描かれる「探偵」など、佳作多し。8本の作品の配置の構成も周到に練られており、作品集トータルで見たコンセプチュアルな完成度も非常に高いといえる。今後の活躍に期待大。

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良識に隠された暗闇

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 戦後の裏社会を駆け抜けたひとりの破天荒な「突破者」が綴る半自伝的ノン・フィクション。生い立ちを簡単に説明すると、著者は1945年に京都の暴力団組長の次男として出生。荒くれ者ばかりに囲まれ、土台を母性的なものに支えられた「原始共産制」的な環境のもとで幼少期を過ごす。喧嘩と無法に明け暮れていた少年時代を経て、高校時代からしだいにマルクス主義に傾倒しはじめ、60年代からの学生運動では日本共産党の非公然ゲバルト部隊のリーダーとして暗躍。大学を中退し左翼的な活動を離れた後は、『週間現代』の「突撃記者」として活躍しつつ、傾きつつあった家業の解体業を継ぎ家運の盛り返しを計るも、あえなく倒産。以後、バブル時代には地上げ屋、恐喝などの悪行をこなし逮捕されたり、82年のグリコ・森永事件では犯人の「キツネ目の男」に擬されたりと、「波乱」の一言で済ますにはあまりにも猥雑でアウトローな半生を生きる著者は、自らを「突破者」と評する。ではその「突破者」とは何か。

 「突破とは「思い込んだら一途で、がむしゃら」ということなのだが、プラス・マイナス両面の意味合いがある。ひとつは一途さのあまりに周囲が見えていないという負の評価であり、もうひとつは一途ゆえに、それなりに筋を曲げないで頑張るという正の評価である。要するに、がむしゃらに走り続けるのだが、何処へ向かって走っているのやら当人自身もわかってない、といった人間を評する言葉である。」

 喧嘩、ゲバルト、横紙破り、地上げ、恐喝…。著者が駆け抜けた戦後史の闇の領域、裏の社会には、数多の「突破者」たちと彼らの破天荒な所業が存在している。「啓蒙」(enlightment)という市民社会的価値観の「恩恵」の光を当てられることによって、良くも悪くも「良識的」な戦後民主主義社会にどっぷりと浸ることになってしまったしまった人々の目には、それらのものは決して映ることはない。その闇を「突破者」という視点から容赦なく照射していくさまに、そして闇と暴力のもつ抗しがたい魅力に、われわれは否応なく惹きつけられてしまうのだ。

 著者の試みは、闇を隠蔽・排除しようとする「デオドラント文化」(呉智英)としての戦後民主主義がヘゲモニーを握るこの社会における、またとないカウンター的な役割を果たすことになるのだろう。またしかし逆に言えばそれは、カウンターとしての役割を越えるものではない。だがバブル崩壊以後、それまで戦後社会を支えてきたある種のモラルがますます立ち行かなくなってきたこの状況下において、こうした著者の「突破者」ぶりは今後否応なく光彩を放ち続けていくことになるだろうし、その「突破」ぶりから見える暗闇の新鮮さに触れておくのも、決して悪いことではない。

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倫理21

2000/07/17 01:57

はたして倫理の声は他者へと届くのか?

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 「自由」についてのカント解釈の「大胆」な読み替え(「トランスクリティーク」)をベースにして、連合赤軍や神戸の中学生A君事件などといった具体的な事件・出来事に即しつつ、自由のあり方、責任のあり方について問う。未来の他者への責任に開かれた新しい倫理のあり方を呈示せんとする心意気にあふれた一冊。
 構造と主体、あるいは構造主義と実存主義という対立をいわゆる「68年の思想」以降立ち現れてきた真新しい問題としてではなく、すでにカントのアンチノミー論において先取りされていたものとして考え、(1)スピノザ的決定論を源流とし、アルチュセール「構造論的因果性」などをはじめとする構造主義に受け継がれた<主体>の否定の系譜(形而上学批判)と、(2)こうした決定論的因果性を括弧に入れた位相において見出される<主体>の考察(形而上学)とが、カントの第三アンチノミーにおいては両立しうるものであるとする。

 構造論的因果性を括弧入れした位相において<主体>が見出されるのとちょうど同じように、<主体>や「自由」を括弧入れしたときにはじめてそうした構造論的な因果性が見出されるのだとすれば、両者は対立しあうものではなく、括弧入れという作業によって調停されうる「立場」の問題であるとする。このとき、前者の立場を実践的なもの、後者の立場を理論的なものとし、後者の立場にあっては自由や責任といった問題は出てこないと論じる。

 戦争責任や犯罪者の責任などといった問題を問うには、後者のような「理論的な」立場からではなく、そういう立場を括弧入れした「実践的な」立場に身を置かなければならない。なぜなら、<主体>のないところには責任もまたないからである。

 こうして実践的な位相において改めて倫理のあり方を問うてながらも、著者は両者のうち一方を排すべきなのではなく、両者を両立させ、調停させるべきであることをあくまでも強調する。「他者を手段としてのみならず目的として扱え」(傍線引用者)というカントのテーゼへの解釈も、そこから要請されたものであろう。だがこのとき、実践的(倫理的)な<主体>とはまた別の主体、括弧入れを行うもうひとつの主体(超越論的主体)が存在するのではないかという疑問、そしてそうした主体(超越論的主体)の自律性そのものへの問いは本書においてはなおざりにされてしまっているのではないか、という疑問が生じる。

 理論と実践を調停するような、一種弁証法にも見える手法によって得られた柄谷氏のテーぜが、実は超越論的主体の自律性によって保証されているのだとすれば、その自律性を「理論的に」問う試みもまた、責任を回避する方便として断罪されてしまうべきなのか。そして、そうした「理論的な」問いをあえて不問に付してまで、責任を引き受けるべき<主体>、倫理的な実践的<主体>を立ち上げようとした著者の「倫理的」な心意気を買うべきか。

 著者のこうした立ち居振る舞いを言下に拒絶することもできず、かといって全面的に与することを今ひとつためらってしまう僕のような日和見主義者こそ、あるいはもっとも批判されるべき存在であるのかも知れないのだが、いまだ生まれざる未来の他者への責任や倫理を問う著者の姿勢が、同時代に生きる具体的な他者への徹底した無関心を生んでしまっているのだとすれば、その具体的・経験的な他者とは、一見著者と対立しあう立場にいるような人たちではなく、実は僕のような日和見主義者のことを指すのではないか。

 ともかくも、そういう日和見主義者たちこそ、実は本書の一番の読者であるべきであるとは思う。いわゆる「柄谷信者」なるものが現実に存在するとして、そうした人たちに本書の解釈権を独占させないためにも、単純に著者の昨今の言動へのジャーナリスティックな関心を動機にしてでも、一読しておいて損はない。

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