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  3. 馬丁酔語さんのレビュー一覧

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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

馬丁酔語さんのレビュー一覧

投稿者:馬丁酔語

12 件中 1 件~ 12 件を表示

異世界表象の歴史

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新歴史主義を代表するグリーンブラットによるヨーロッパの異世界表象の歴史。マンデヴィル、マルコ・ポーロ、コロンブス、ラス・カサス、ベルナル・ディアスらによる外部の世界への関わりにどのような変化が見られるかを、とりわけ初期近代を分岐点として鮮やかに浮彫りにする。

 新歴史主義に特徴的なことだが、本書でも近代初期における表象の成立は、「言説」を中心にして分析される。非ヨーロッパ圏との関わりにおいて最も大きな相違は、商人ないし旅行家として、その土地その土地の言語や土地の名称を記録に留めて行った(あるいはそう自称する)マンデヴィル、マルコ・ポーロと、国家の威信を背景として、侵略する土地に新たなヨーロッパ風の名前を刻印して行ったコロンブスとのあいだに認められる。かつては交換であり放浪であり、中心からの逸脱であった旅行が、収奪としての占有へと偏向していく。しかしこの両者は、元を正せば、「驚き」という、未知の他者に出会ったときの衝撃に端を発するという点では同じである。交換と占有のあいだには、「驚き」に対処するためにどのような文化的フィルターを用いるかという、かなり微妙な違いがあるにすぎない。そうした微妙な相違をグリーンブラットは見事な手腕をもって精細に分析していく。

 同じ著者のもので、本書の同種の主題を扱った『悪口を習う —— 初期近代の文化論集』(法政大学出版局)、とりわけそのなかの標題作「悪口を習う」と、掉尾を飾る「共鳴と驚嘆」は、本書の理解にとって有益だろう。しかし、さらに言うなら、マンデヴィルに関して言われる放浪の感覚 —— 「現存しない王朝に言及するふりをし、幻想でしかない典拠(権威)をいくつも引き合いに出し、目撃した信ずべきものであると偽りの主張をしている」というその逸脱の感性 —— を最も生き生きと理解させてくれるのは、カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』(河出書房新社)かもしれない。これはやはり、グリーンブラット本人によって、膨大な註の一つで、バルトの『記号の帝国』(『表徴の帝国』)とともに言及されている。

 本書『驚異と占有』の翻訳は、この種の翻訳の範となるような出来映えである。簡単な割注で本文の読解を助けながら、より詳細な情報は訳註として巻末にもって行くという処理の仕方も上手い。そのために、巻末の訳註は、さながら現代思想の基礎知識集のような趣になっている。原書にない図版も含め、個別的なデータもよく補足してあり、手抜きがない。

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詩作される自我

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 日本ではなかなか本格的な紹介が難しい「修辞学」を軸として、ルネサンス文学と、その先蹤と言えるオウィディウスを俎上に乗せる。哲学の伝統の中で修辞学が不当に扱われてきたのは、ソクラテスとソフィストたちとの対立を原型とするが、著者はこれを人間と人生観の二類型として整理する。著者の言う「ホモ・レトリクス」(レトリック的人間)と「ホモ・セリオスス」(シリアスな真面目人間)である。言うまでもなく、哲学や正統文学が後者の系統である。それは何事も正面から律儀に、できる限り論理的に捉える姿勢だといえるだろう。芸術では「ミメーシス」(模倣)の原理がこれに当たる。しかし、現実を生真面目に正確に「模倣」しようとする、そうしたシリアスな前提に立つ正統的文学史からはみ出てしまうような著作も、文学の世界には珍しくない。それは、シリアスな人間とは異なって、現実を斜交いから眺めて、現実を茶化し、多重化し、脱臼させるような詐欺師の眼差しである。本書が救い出そうとするのは、まさにそういった異彩を放つもう一つの系列の人々の著作からなる文学史である。しかも本書ではそれを、単に正統的文学に尽きないものというだけの評価に留めず、基本的な評価の枠組そのものを転倒させようとする。「フィールディングによってスターンを、フロワサールによってラブレーを、ウェルギリウスによってオウィディウスを評価するのをやめること」(p.33)が求められるわけだ。

 典型的な対比は、ウェルギリウス『アエネイス』とオウィディウス『変身物語』(メタモルフォーゼ)である。ウェルギリウスは、シリアスな人間の常として、論理的に物語の背景と構築しようとするために、ローマの氏族の「系譜」を規範としていたが、オウィディウスの神々はそのような確固たる規範を呈示することのない変転常なき、あてにならない遊戯する神々である。結局のところ、レトリック的人間にとって同一性なるものは存在しない。「絶え間なく変わりゆく語り、主題、パロディ、反論の詩の中で、一貫して変わらないものがあるだろうか。それは文体だけだ」(p.84)。

レトリックを支える同一性は、自我や実体の同一性ではなく、ただ言語の同一性、その意味では表層の同一性のみなのである。シェイクスピアのあるソネットを分析して言われている言葉を使えば、「本質的なもの〔......〕を定義する詩でありながら、言葉に依存し、繰り返しによって言葉の意味を変え、その結果、本質的なものがまず言葉に宿る」のである。本質は、内奥に潜む神秘などではなく、言葉という表面に仮初めに映る影なのである。こうなってくると、レトリック的人間などというものも、実のところは存在しないということにもなりかねない。カスティリオーネの『宮廷人』に託してこう言われる。「人間は確固たる中心的な自我をもって世に生まれるのではない。自我を形成するようにつとめるのだ。中心的な自我は技倆であり、それ自身が本能的な優れた劇である」(p.202)。

 上演される劇としての自我。しかもこの劇には、常打ちの小屋もなければ、常連の客もいない。元来が自己を演出する技法であった修辞学という古い学科がもっている可能性を踏破し尽くすと、そこに現れるのは、意外にも現代的な光景であることを、この著作は身をもって示してくれる。

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ドイツ流の思弁的哲学史

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 オリジナルのタイトルは日本語標題の副題のほう。そのタイトルからも分かるように、近代哲学と中世哲学との連続性を強く意識しながら、世界と神・無限性・魂論・存在論・個体論・意志論といった主要テーマを追跡したもの。従来の古代・中世・近代という区分に疑義を呈しつつ、哲学史の隠れた水脈を探る試み。しかもここで提示されるのは、事実としての影響史ではなく、いわば思弁的な連携とでも言える流れである。そのために、本書で重視されるのは、ドイツ神秘主義からドイツ観念論に至る影響史である。そのためここでは、フライベルクのディートリヒなど、いわゆるアルベルトゥス学派と呼ばれる、通常の哲学史では触れられることの少ない思想家たちが脚光を浴びることになる。

 おそらくはドイツの哲学史家でなければ書けない(書かない)タイプの思想史である。哲学の影響史というものは、単なる事実的な引証関係でもなければ、深層心理の連鎖などでもなく、おそらく実証的には跡付けることのできないような観念同士の関係のような性格を多分に持っている。そうした思弁としての哲学を歴史的考察を通じて堪能するには、本書は格好の思弁的哲学史である。

 本書の標題の「中世の終わり」というのは、何かが息絶えて終焉を迎えるというのではなく、そこを出発点として何事かが新たに始まるといったニュアンスが強い。したがって本書の対象は、中世そのものや近代そのものではなく、むしろその移行だと言える。時代的には中世末期、唯名論から主意主義的傾向が生じるそうした時代の経緯が本書が最も関心を寄せる問題である。その意味で、これはことさらにルネサンスという運動を際立たせることなく、中世末期と近代初頭の問題を考えようというスタンスを取っている。日本でも稲垣良典『抽象と直観』(創文社)や金子晴勇『近代自由思想の源流』(創文社)など、中世末期の問題に取り組んだ良書が散見されるようになった現状からすると、この時代をそろそろ本格的に考える状況は整いつつあるのかもしれない。

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視覚論

2000/10/28 21:01

視覚のパースペクティヴから見事に整理された近代論

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 「世界像の時代」(ハイデガー)や「表象」としての世界(フーコー)ということが取り沙汰されるように、近代が視覚優位の時代であるとはよく語られることではある。しかしその内実を確認しようと思うと、そこには多くの場合、相当に曖昧で雑多な要素が含まれていることに気づかされる。本書は、近代と視覚をめぐる多様で錯綜した論点を、五本の論文を中心に、簡潔にして充分なかたちで纏め上げた好著である。本書に論文を寄せている五人の錚々たる論客は、視覚や身体といったものは、それ自体が歴史的に構成された産物であるという共通の認識にもとづきながら、それぞれ独自の視覚論を展開している。さらに、ここで論じられる「視覚」とは、一つの身体能力であるにとどまらず、近代を形作る主観・客観図式や、認識主観の特権性といったものを表す特権的メタファーでもあるという理解も、五人の著者の共有するところである。

 冒頭のマーティン・ジェイの論考は、とりわけ視覚をめぐる議論を腑分けして、要を得た見取り図を描くものとなっている。ここで前提となっているのは、アルパース『描写の芸術』(ありな書房)やビシュ=グリュックスマン『見ることの狂気』(ありな書房)などのきわめて現代的な論点である。そのためにジェイの議論は、それらの書物に関する格好の案内ともなっている。それは、続くクレーリーの論考にも言えることであり、その論文は、著者自身の『観察者の系譜』(十月堂)のエッセンスとなっている。

 クラウスとローズは、リオタールやラカンを踏まえながら、視覚とセクシャリティ、あるいは視覚と身体といった論点を縦横に論じ、ブライソンは西谷啓治や水墨画を手掛かりに、視覚の脱中心化を模索するなど、その議論は実に多岐にわたっている。また本書は、シンポジウムの記録が核になったものであるため、各論考についての質疑応答と全体討議の模様を収録しているというのも特色の一つである。それぞれ分量的には短いものではあるが、論文という形態とは違った生の議論に立ち会えるという意味で貴重な資料である。それぞれの論考が孕んでいる問題点や発展の可能性がそこでの討論によって炙り出されてくるばかりか、近代の視覚中心性に対する五人の論者それぞれの態度の微妙なずれが垣間見えてくる。

 こうした特色ゆえに、本書は、従来の議論の総括であると同時に、今後の多様な議論を紡ぎ出すための出発点であり、またそれらの議論にある程度の見通しを与えるナヴィゲーターとしての役割をも担っている。その意味で、繰り返し参照し、再読するに足る一冊であろう。200頁あまりの小著ではあるが、これが持っている意味は計り知れない。しかもその記述の簡潔さのお陰で、錯綜した議論に対する透徹した「視界」が得られるというのも、本書の大きな魅力である。それを考えると、本書の小ささは逆に大きな利点なのである。翻訳および訳者解説も実に優れている。

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18世紀思想史の古典

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 「大体二千年ばかりの歴史でヨオロッパが最もヨオロッパだったのが十八世紀だった」と書いたのは吉田健一だが、実を言うと、この最もヨーロッパ的な十八世紀というものは、われわれにとってかならずしも身近なものではない。思想家の名前にしてから、ヴォルテールやルソーは兎も角としても、シャフツベリ、アディソン、マンデヴィル、フォントネルといった人びとのことを、ある程度でも明確にイメージできる人は少ないのではなかろうか。本書は、このような欠を埋めるには格好の、しかもこの分野でも古典中の古典とされるものである。

 本書はおおよそのところ、宗教論(理神論)、社会論、心理学・芸術論といった大きな流れに沿って展開される。それぞれの思想家からの直接の引用も多く、資料的にも有益な大冊である。しかし何よりも本書の特徴となっているのはそのこなれた語り口である。この時代の隅々まで知悉し、資料を縦横無尽に使いこなされる博学の士にして初めて可能になる肩の凝らない談話調が全篇を貫いている。著者のアザールは、まるで自分の友人であるかのように、論じられている思想家の性格や癖にまで言及して、読者を飽きさせることがない。同時代のゴシップでも聞いているような親密さに溢れている。十八世紀という、芸術面でも文化面でも多彩で、一筋縄ではいかない時代を語るには、このような柔軟な接しかたこそが相応しいのかもしれない。

 そして本書に関してもう一つ特筆すべきは、その翻訳である。流麗なアザールの文章を、これまた淀みのない見事な日本語に移しているのは、十八世紀思想の礎を築いたベール『歴史批評辞典』(法政大学出版局)の翻訳という快挙をも成し遂げた野沢協そのひとである。実はこの野沢氏は、かの澁澤龍彦の旧制高校時代からの友人でもあり、出口裕弘『澁澤龍彦の手紙』(朝日新聞社)などでも、その早熟ぶりが回想されていたりもする人物である。

 本書の翻訳は日本語として優れているばかりではない。この原著にはすでに膨大な文献データが付録として盛り込まれているが、訳者はさらに、この原著が出て以降の研究文献を独自に追加するというようなことすらもやっている。単なる機械的な翻訳ではなく日本語版として立派なものを出すというのはどういうことかを、実物をもって示してくれる翻訳の鑑である。

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豪快で痛烈なエピソード集

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 本書で取り上げられている人物は、みな日本国内で教育を受けながら(あるいは独学で)、ネイティヴをも圧倒するほどの英語力をもって外国人と渉り合った人々である。標題にもあるように、主題は英語力という点にあるのだが、紹介される個々のエピソードが実に面白い。それぞれの人が人間として実に豪快で魅力的なのである。

 伝説的な英語の達人である齋藤秀三郎は、英語の授業にポープ(18世紀の英国の文学者)の作品をテクストに使って、主任の米人教師から難しすぎると苦言を呈されると、「ほお、ポープはアメリカ人には難しくても、日本人にはこれが判るんですな」と平然と応えたとか。しかもこの齋藤秀三郎、英語学の貢献でノーベル賞候補にすらなりかけたというのだから驚きである。西脇順三郎などは、英語ではあまりにも「俗」だといって、卒論を全文ラテン語で書き上げた。本書はこの手の「武勇伝」が満載で、後から思い出しても、妙に元気の出てくるような話が盛り沢山である。兎に角、肩が凝らずに気楽に愉しく読み通せる。

 ボストンでの講演旅行のあいだじゅう羽織袴で通した岡倉天心は、「アメリカ人と同じように英語が喋れるようになったら羽織袴で通せば良い。英語も喋れないのに、羽織袴姿は見苦しい」という意見をもっていたそうだ。「国際化」ということについての実に堅実な見識が伺われる。気軽に欧米人に同化して(あるいは同化した気になって)しまうのでもなければ、頑なに日本人の特殊性にしがみつくのでもない方向。つまり、外国語を使いながら日本人としての自分を表現すること —— 本書の登場人物たちが目指したのが、まさにこのことにほかならない。

 本書を読んであらためて気づかされるのは、外国語の修得は、最終的には自分を表現する手段だという、半ば当たり前の事実である。本書で扱われている人々は、英語そのものに対する情熱はもとより、その英語を使って表現すべき事柄を存分に持っていた人たちでもある。身近なところでは、例えば鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)では、英語の習得の際には、日本のことを話す教育をすべきだという提言がなされているが、これなども、英語を使って「何を話すか」というレベルの議論である。「英語のための英語」ということであってはならないのである。

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テクストのぶどう畑で

2004/03/20 14:18

修道院と書物文化

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 12世紀のサン=ヴィクトル学派を代表するサン=ヴィクトルのフーゴーの『ディダスカリコン(学習論)』を中心に、物質性と秩序感覚をたっぷりと沁み込ませた「書物」の世界を追う。「書物としての世界」という比喩があるように、かつて書物は宇宙の秩序をそのまま反映するばかりか、それ自身の内に写本独自の技法によって壮麗な宇宙を抱え込むものであった。それは記憶術における「記憶の館」や、写本装飾のさまざまな意匠に彩られた完結した世界を表現していた。

本書はそうした書物と修道院文化との密接な関係を追いながら、書物文化のかつての有り様を活写している。印刷術の発明以前にあって、書物といったものがいまだに貴重品であると同時に、文化を具現する象徴的意味合いを帯びていた時代の面影が愛惜される。印刷術からコンピュータ環境に向かい、書物は物質性を失い、それ自体として変幻自在な「テクスト」となっていくわけだが、そうした状況から多少距離を取って、テクスト理解そのものを冷静に捉え返す機縁になるだろう。修道院文化と書物という点では、堀切直人『ヨーロッパ精神史序説』(風媒社)、『読書の死と再生』(青弓社)などを挙げることもできるだろう。

 因みに、サン=ヴィクトルのフーゴーの著作そのものは、『ディダスカリコン』の全訳も含めて、『中世思想原典集成』第9巻「サン=ヴィクトル学派」(平凡社)で読むことができる。

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旅のエクリチュール

2000/09/13 00:51

失われた楽園を求める旅路

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 旅行記あるいは紀行文というと、ともすると、旅先で生じた出来事を時間の流れに沿って書き記したドキュメントと思いがちである。しかし本書が対象としているのは、あくまでも作家の旅行記である。虚構の創作を生業(なりわい)とする彼らが、ただの事実の報告をもって足れりとするはずはない。案の定、本書が論じているさまざまな旅行記は、事実を自在に歪め、旅程までをも偽ることで成立した「作品」としての「旅のエクリチュール」のである。

 「風景の誕生」といった主題を始め、目を引くキャッチフレーズもサーヴィスに鏤めながら、著者が追い求めようとするのは、旅と「わたし」という主題である。旅というものが、場所の移動というよりは、むしろ書き手が自己を模索する内面の道程であることが、「時間」や「虚構」というモチーフを絡めながら、縦横に論じられていく。しかもここには、旅を通じて求められるものが、最終的には自分自身の失われた楽園であるといった、漂泊者の意識が常に通奏低音のように鳴り響いているのだ。旅の出発点も、旅の終着点も「自己」なのである。

 著者はこのような経緯をとりわけ18世紀以降を舞台に、明晰で滞りのない文体で追って行く。そうした緩やかな歩みを追いながら想い起こしたのは、13世紀の神秘思想家ボナヴェントゥーラのことである。彼が『神へと至る精神の道程』という著作を著したのは、まさしく人間の生そのものを、自己の内面の核心へと至る旅として見ていたからにほかならない。おそらく本書の著者が示唆する問題は、時代を超えて、このような大きな文脈にも接続して行くものであろう。

 それにしても、本書の何よりの美点は、その文体にある。奇を衒った修辞などに流されない堅実な筆捌きは、本書の読書を実に愉しいものとしてくれている。装幀も瀟洒で、手に良く馴染む。

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謎の蔵書票

2000/09/13 16:47

書物が武器であった時代

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 舞台となるのは、イギリスでは清教徒(ピューリタン)革命の直後の時代、大陸では30年にわたる大宗教戦争が一応の終結を見たものの、カトリックとプロテスタントの対立がいまだに燠火(おきび)のように燻り、カトリック側の必死の巻き返しがなされる物情騒然たる時代である。そうした政治、宗教の勢力図が入り交じる17世紀中葉の世界で、一冊の書物をめぐってミステリが展開されるというのは、現代のわれわれには少しピンとこないかもしれない。こんな危機的状況の中で、どんなに貴重なものであったとしても、なぜたかが一冊の書物が問題になるのか。

 そうした疑問をもちながらも、沈着な語り口に載せられて本書の物語を追っていくと、「たかが一冊の書物」などという思いこみが見事に氷解していく。思想・宗教・政治が混然となった世界であるからこそ、書物というものが、今日からすると考えられないほどの大きな力をもっていたということが、段々に実感されていくのだ。ルドルフ二世のプラハや薔薇十字運動、同時代に進行するコペルニクス、ガリレオの科学革命、ヘルメス主義の流行と衰退といった思想的な事件が、物語の中に大小の伏流として絡んでくる。こうしたイデオロギー戦争の時代にあっては、書物というのは大砲や弓矢に劣らないどころか、それらに勝る危険きわまりない武器であった。本書の冷静でもの静かな書きぶりは、そうした複雑な絡み合いを解き明かし、『迷宮としての世界』という一冊の書物の行方へと物語を収斂させていく。

 宗教戦争や科学革命は、こうした政治的・宗教的大変動と連動した時代のうねりの中で初めて理解できるということを鮮やかに見せてくれるという点で、本書はきわめて思想的なミステリでもある。古書の探索という謎解きの進行そのもの以上に、さまざまな細部に注意が払われ、その記述は歴史書さながらである。世界の珍品・稀書を蒐集したルドルフ二世の宮廷が舞台の一つとなっていたり、入手した暗号を古書店主が職業上の知識を総動員して解読したりと、小説としての道具立てもなかなかに面白い。古書の探求を依頼してくる貴婦人の城も何やらポーの「アッシャー家」の城を髣髴とさせる。翻訳もそのような感覚をやや古風な文字遣いや言い回しで表現し、雰囲気を作って巧みである。

 本書の読了後には、この時代をめぐる思想史的な書物がにわか読みたくなってくるのではあるまいか。直接にこの物語に関係するものとしては、エヴァンズ『魔術の帝国 ルドルフ二世のプラハ』(平凡社)、イエイツ『薔薇十字の覚醒』(工作舎)あたりが格好かもしれない。われわれの周囲にも、このような時代の複雑な襞を読み取る道具立てはすでに大分整ってきているのだ。

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紙の本誤植読本

2000/09/20 17:13

とかく他人の失敗は面白いもの

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 多少でも出版に関わったことのある人なら、誤植(印刷ミス)の恐ろしさを身に沁みて知っているはずである。どんなに丁寧にゲラ(印刷の見本刷り)を二度三度と読んで、おさおさチェック怠りないつもりでも、いざ刷りあがった現物を見てみると、そんな努力をあざ笑うかのように、誤植はちゃっかりと鎮座ましましているという具合である。刷りあがったばかりの本文が綺麗な仕上りになっていればいるほど、本人の落胆ぶりはますます大きい。誤植という魔物は、本人のみならず、制作に関わった編集者や印刷者にとっても実に後味の悪いものであるが、本書は、誤植にとどまらず、広く出版にまつわる失敗談(古いところで森鴎外、新しいところで泉麻人くらいまでの50篇あまりの文章)を蒐めたアンソロジーである。

 一口に書物と言っても、実際に本の形になるまでには、実に多くの工程を経ているものである。いきおいそのそれぞれの場面に、思わぬミスの生じる可能性がある。原稿段階での著者本人の誤りから始まって、印刷時の植字のエラー、最近ではオペレータの打ち間違えや変換ミス、製本時の失敗など、数え上げると切りがない。これに図版でも入ろうものなら、エラーの確率は飛躍的に増大する。

 誤植で多いのが、「魯魚焉馬、虚虎の誤り」と言われるように、似た形の文字の取り違えである。本書で触れられているところで、「尻」が「尼」、「庇」「屁」に化けたといった種類の混乱である。これは活版に多く見られるものだが、最近目に立つのは、ワープロの変換ミス。「先頭に立って」が「銭湯煮立って」となる類のエラー。誤植以外のミスと言えば、出版社勤務の時代の井伏鱒二は、自分の担当した本を「奥付」なしで出してしまったという大失敗をしたそうだ(本書所収「満身創痍」)。いわば出生証明のない子供を世に送り出してしまった格好である。

 こうした笑うに笑えないエピソードの一方で、鴎外の「鸚鵡石」(序に代ふる対話)などは、誤植の話から始まって語源論にまで説き及んで流石である。また『漱石全集』に携わった「校正の神様」西島九州男のエセーでは、漱石が意識的に使った当て字などをどこまで直して良いかといった、文献学に踏み込むような話が紹介されている。詩人の大岡信に至っては、誤植されたことで自分の詩の新たな側面を見出して、誤植をそのままにして、それに合わせて他の部分に手を入れたということまで語っている。こうなると、誤植も一種の創造的行為である。

 なくて当たり前の誤植ではあるが、それ自体なかなかに奥の深いものであることが実感される一冊である。

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渋いが飽きのこないイギリス音楽のために

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 かなりのクラシック音楽好きを自任する人でも、イギリスの作曲家をたちどころに十人挙げられる人は案外少ないのではないだろうか。パーセル、エルガー、ホルスト、ディーリアス、ブリテンといったところで、ぐっと詰まってしまうのが普通ではないかと思う。しかもその曲目たるや、エルガーなら『威風堂々』、ホルストなら『惑星』と、何とも通り一遍のものしか思い浮かばなかったりもする。かの吉田秀和氏にしてから、「イギリス音楽はイギリスの批評家に任せておけば良いんですよ」と言っていたとかで、それほどまで、日本におけるイギリス音楽の受容は恵まれていない。

 その欠を補ってくれる数少ない案内が本書である。およそ日本で好まれる音楽は、ある種の「物語性」の強いものが多いような気がする。ベートーヴェンの「苦悩を超えて歓喜へ」というのはその最たるものだが、そこまで行かなくとも、終楽章で何らかの解決を見て大団円を迎えるという曲の組み立てに、われわれの感性は少々慣らされすぎてしまっている気味がある。イギリスの音楽は、およそそうした感覚とは無縁であり、平穏でどこまでも続き、終わるともなくいつのまにか終わるといった駘蕩たるものが大半を占める。悠揚迫らざる大人の感覚とでも言うか、そうすぐには入り込めないが、一旦分かってしまうと常に身近に置いておきたくなるような存在である。

 本書は、そうしたイギリス音楽のある種のとっつきにくさをも十分に考慮に入れたうえで、「この作曲家を最初に聴くのはこの辺りの曲から」といった具合の入門的な配慮も忘れていない。具体的な演奏やディスクの紹介も多く、これからイギリス音楽を聴いてみようという人には何とも心強い案内である。しかし、音楽は何よりも聴かなければ始まらない。本書片手に、CDショップに出かけて、これまたなかなか入手しずらいイギリス音楽もののCDを捜し回るというのも、また新たな楽しみになるのではないだろうか。音楽の紹介というものは、実際にそれを聴いてみたくなるというのが一番なのである。

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書物の達人

2000/09/13 11:31

書影が雅趣を添える書籍のエンサイクロペディア

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 書物について書かれたもの(読書論・書評・書物随筆)は世に多いが、本書はさらにその上をいく。本書は、そうした「書物についての書物」を蒐めてその特徴を解説したものであり、その意味では、「書物についての書物についての書物」なのである。取り上げられた書物の総数、なんと二百数十点、しかもそのほとんどに書影の写真が付されていて、まさに書物の百科事典の趣がある。

 それだけの数の書物を取り上げているのだから、一つ一つの記述はそれほど長くはない。精々半頁、長くても二頁といったところである。しかしこの短さが本書のポイントでもある。記述が短いために、そこで取り上げられている書物を是非とも実際に読んでみたくなるのだ。しかもその取り上げ方も実に上手く、その本の中で一番印象的なさわりを取り出してきて、紹介してくれるのだから、どうしたってその本が(もしかすると実際以上に)魅力的にも見えてくる。なかなか心憎い演出である。

 ここで取り上げられている書物は、多くは古書でしか手に入らなくなっているが、その古書としての値段の相場までが記してあり、「相場はいくらいくらだが、筆者はこれこれで手に入れた」といった記述が数多く見られる。これも随分と親切で、役に立つ記述である。そうした点では、本書を案内に古書店巡りをはじめて見るのも良いかもしれない。

 本書はどこから読み始めてもいいし、収録された書影だけを眺めていても十分に愉しい。値段にしてもお買い得感のある一冊だ。書物好きなら、持っているといろいろと役に立つことだろう。

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