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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

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    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

ホセ・マッチョスさんのレビュー一覧

投稿者:ホセ・マッチョス

16 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本荒野のロマネスク

2001/12/06 23:30

エキゾティックは驚くほど近くにある

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 たとえば、空の色や植生や料理の匂いなどが織り上げているヴァナキュラーな生活を土壌として生まれた言葉と引き換えに、いつの頃からか、西洋が築き上げてきた厳密な構成力と強固な境界線をもった言葉と文章に慣れ親しむことによって、私たちはもうかなり遠いところまで来てしまったのではないかと呆然とすることがある。似たような品揃えしかしていない書店を経巡ってみても、12年前の時点で著者が提示していた「荒野」を勇敢に歩こうとしている書物を見つけることができず、それどころか、のっぺりとした「都会」を誇らし気に、しかし、つまらなそうに佇んでいる書物という名を借りた紙の束を前にするとき、私のその憂鬱な予感は確信に変わる。

 言葉に込められている無限の可能性を束縛してしまったそれらの文章の周りには、言葉の悲劇性と呼んでもいいような雰囲気が漂っている。喚起的な言葉によって織り上げられた想像力豊かな文章を放擲することによって、学問は旅人を寄せつけない牙城を築き、言葉はいよいよ拘束されてゆくのだ。かつて、土地や人や歴史を語る言葉には、想像力と物語の魂(スピリット)が存分に吹き込まれていたのではなかったか。のちに著者の代表作とされる書物のもつ緩やかな影響力のもとにいくつも出版される「クレオール関係」の書物が、日々の生活の無数の間隙から顔をのぞかせているはずの「荒野」を通り過ぎ、フランコフォンにまつわる限られた土地と人々の研究に専念するという誤解を見るにつけ、状況は少しも改善されていないことを知る。だからこそ、著者が『荒野のロマネスク』の冒頭近くでマニフェストのようにして書きつけた「エキゾティックは驚くほど近くにある」という言葉は何度想起されてもいいだろう。「荒野」はどこにでもある。しかし私たちはそれを見る視力を失ってしまったようだ。

 今回、文庫化されたのを機会に何度目かの通読をした。著者が幼少時に感性を培ったに違いない湘南海岸の景観を前にして読むことになったのは単なる偶然だろう。丹沢の山々の向こうに富士山の影を見つつ、その傍らに沈んでゆく夕陽は、江ノ島がかすんで見える方向へと曲線を描いている砂浜に打ち寄せるさざ波のために揺らぎ、それを見ている私の身体には、それらすべての情景が間断なくとどく。『荒野のロマネスク』は不思議な書物だ。波が沖へと引いていくように、私は一気に「荒野」に引きずり込まれたような気がしていたが、いまでは、汀でたゆたいながら、過去でも未来でもない場所へ、どこでもない場所へと、この本は誘っているように思える。『荒野のロマネスク』は汀から生まれたのかもしれない。私はまた沖へと漕ぎ出すだろうし、山頂を目指して歩みを進めるかもしれない。しかし、汀にたゆたいながら、さまざまな発見に満ちたこの本と過ごす時間が懐かしくなるだろうことをすでに私は知っている。なぜなら、最後のページにさしかかったときにいつも、私は未来へのノスタルジーを楽しみにしている自分に気づき驚くからだ。

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人間が生きるためには「詩」が必要だ!

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 多木浩二の感性が捉える対象はいつでも粋だ。そして彼の詩的な文章はいつでも私を酔わせる。彼がいま何に興味を持っているのかを、遅れてきた読者である私はいつの頃からか追うようになっていた。この20世紀を総括するようなタイトルの本も、書店で迷わずに手に取った。最後まで一気に通読したあと、私たちが文化をもっていることの意味を知るための、最良の書の一つであるとすぐに思った。また、これから彼の著作を読んでいこうとする者にとっても最良の本となるだろう。最後に掲載されている「多木浩二著作一覧」が参考になるはずだ。
 無意識、言語、文明、国家、想像力、人間という6つのキーワードのそれぞれに、フロイト『精神分析入門』、ソシュール『一般言語学講議』、T・S・エリオット『荒地』、カール・シュミット『政治的なものの概念』、ベケット『ゴドーを待ちながら』、プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』が著者によって選ばれる。どの章も心地よい緊張感と透徹したセンスに裏打ちされながら、読む者にうったえかけるある一定の響きがある。それが何なのかを、読みながらずっと考えていた。プリモ・レーヴィの章の最後、つまりこの本の最後に書かれた、次のような言葉からそれをうかがい知ることができるかもしれない。それは「人間が生きるためには「詩」が必要なのである」というものだ。
 私にはとりわけ詩を論じた『荒地』の章が面白く、この本の白眉だとも思われるのだが、そのなかから「詩」に関する著者の意見が述べられている一節を抜き出してみよう。「おそらく哲学者や社会学者は、詩的思考など理性的な思考に比して一段と低いものであるとみなし、ときには理性の活動のあとからやってくると思っているかもしれない。ところがそれは反対なのだ。芸術の方が先にある。詩的言語とはさまざまに不可解なこと、未知なものをはらんだ形象である」。これまで培ってきた知識の構築物の上に、単純に人は未知の価値を見い出すわけではない。そう著者は言っている。
 そしてエリオット『荒地』の章の最後。
 「詩的な思考能力こそ、精神の崩壊から脱出するひとつの手掛かりであり、あからさまな救済と見えるものにこだわってはならないのである」。箇条書きにされたような気のきいた文句によって、人は単純に癒されるわけではない。詩的思考が詩的言語によって表現されたとき、私たちはそれを読みながら社会のなかで癒され、生きていく上での精神の健康さを保つことができるのである。この本はそれは可能にするじつに稀有な本だと言えるだろう。

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「理性としての身体」を生きるために

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 理屈ではなく身体感覚として確信していることをバカ正直に思わず口に出してしまい、それが世の中の大方の意見や上司や指導教授や先輩などの考えとはそぐわずに頭ごなしに反論され、罵倒され、貶められてしまうことがある。普通に生きているだけで、そういう場面に遭遇する機会はこと欠かないだろう。そんなことを繰り返しているうちに人は、自分で考えることにだんだんと自信が持てなくなり(というよりもうんざりしてしまい)、ついには本当のバカになってしまうようになる。
 そういう真性バカへのチャートにのっかるよりも、たとえば、波に乗っていた頃の高橋哲哉の本などをわからないながらも熟読し、身体が拒否しつつも自分の意見として無理矢理に取り入れ、そのうえで、他人に向かって知ったかぶりをすることの方がはるかに利口な生き方に違いない。しかしそれは、安易ではあるが情けない生き方である。そういう愚かな選択をあえてしてしまうのはどういう人なのだろう。おそらく、なんらかのコンプレックスをバネとしつつ、知識人という勝者のフリをしようと努め、それによって、社会的勝者たらんとする欲望に惑わされている人なのだろう。なんとも、楽しくない生き方だ。
 著者の内田氏はそういうところからもっとも遠いところにいる。彼のなかには、コンプレックスを成り立たせている構図(父権制イデオロギーなど)がかけらもないから、たいした拒否反応もなく仮性バカを演じることができ、身体感覚として確信している持論を自信をもって開陳することができる。実にうらやましい生き方だ。また哲学(主にレヴィナス)を、自分を惑わしたり他人を幻惑させたりすることを目的とせずに、実際の生活においてどのように運用すればいいのかをわかりやすく示してくれているところもすばらしい。
 武道をたしなむ著者だから「理性としての身体」を生きることができるのか、その逆なのか、いずれにしても、不可解な自分をよく見つめ直すことによって他人の不可解さにも思いを致し、そこに「愛」を芽生えさせる著者の生き方は、新しい世紀を迎えてついに日の目を見ることとなった(ちょっと大ゲサか)。

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紙の本宮沢賢治異界を見た人

2001/02/10 22:47

現実は寓話や詩のように存在している

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 宮沢賢治の作品に感動し、その思いをそのまま言葉に表そうとする文章がある。その一方で、賢治の作品からなるべく感動を遠ざけ(あるいは感動に届かないまま)、ひたすら「理解」しようと試みる文章がある。しかし、感動をともないつつも、同時に、賢治を客観的に分析するという文章にはあまりお目にかかったことがない。そんなことを漠然と感じていたときに、本屋でこの本をたまたま手にした。最初に目に飛び込んできた一節はこうである。「私には、賢治を愛することと、賢治論を読んでそれを理解することは、まったく異質のことのような気がするのです」。
 童話作品として賢治作品を楽しむというレベルと、そこに描き込まれている賢治の特異な世界を知るというレベルには大きな隔たりがあるようだ。少年の頃に「妙法蓮華教」にいたく感動したという賢治は、その宗教的な独特の感性を通して、世界を言葉にしていった。その文章には何の装飾もなく、素直に作品に投影されている。誰にも楽しめるものとしての童話の形式をとっていても、賢治にとってそこにあるのは、まぎれもない真実の世界なのである。したがって私たちは、賢治の寓話に、現実の比喩を見るべきではない。あるいは詩に、現実の歪曲された一部を見るべきではない。それらは、宮沢賢治の感性に捉えられた、まぎれもない現実なのだ。
 そのような宮沢賢治を筆者は、「神秘主義」という視点から見ようとしている。ネルヴァルやランボーを引き合いに出しながら、日本における神秘主義的なものの受容の欠落を指摘し、「賢治は神秘主義者である」というのは結論であり、そして前提だとすることから論じ始める。『春と修羅』の「序」にある「わたくしといふ現象は・・・(あらゆる透明な幽霊の複合体)」や、「(すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから)」のような言葉の難解さは、詩としての難解さなのではなく、賢治の特異な感覚を私たちが理解できないことの難解さなのだ。
 そもそも賢治は、『春と修羅』は詩ではないと明言していた。詩とは、何だろうか。寓話や詩とは、現実の世界を描写するための一つの手段であると思われがちではあるが、実際は、寓話や詩のように現実は存在しているのではないだろうか。この本は、宮沢賢治を「愛読」しながら、かつ深く分析することのできた稀有の一冊だと私は思う。

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さらば長き眠り

2001/02/06 13:22

誰かのために死ぬということはとるにたりない愛の証である

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 探偵小説を日常的に読む、という習慣から離れてかなりたつ。
 そもそも最初に本を読み始めたのが、その種の小説だった。推理小説というよりは探偵小説。あれは小学生の頃、掛け算を覚えるくらいの年代だっただろうか。あるいはもう、中学生だったかもしれない。中学に入って私は、通学のために電車に乗らなければならなくなった。規則的なリズムにゆられながら、私は何度、探偵ものの文庫本を開いたことだろう。夢中になり過ぎて(あるいは本を閉じるのが嫌で)、何度も乗り越して終点(高尾)まで行ったことがある。
 当時は車内に冷房もなく、私は汗ばんでくると電車の窓をゆっくりと開け放った。短い髪は一気に流れ込んでくる風になびくにまかせていた。乗り込んでくる憂鬱そうな大人たちは、スプリングのきかなくなった座席にどかっと腰をおろした。そして、みな決まったようにタバコに火をつけ、やがて持てなくなるくらい短くなると、足下にぽとっと落として靴で踏んだ。私はそういう光と風と匂いのなかで、ただ小さな文字に眼を落とし続けていた。
 しかし中学も終わりに近づくにつれ、私は探偵小説以外の、本の広大な海の存在に気づくようになっていた。そして自然に、少しずつ岸辺から離れるようにして、荒海に乗り出していくようになった。ごくたまに、探偵小説という見慣れた岸辺で身体を休めては、再び目的も持たずに勢いよく漕ぎ出していったのだった。いつの頃か新大陸を発見し上陸、そこから西(東)海岸まで突き進むような読み方もした。その大陸は今の私にとって、専門と呼べるようなものになっているのかもしれない。大洋を気ままに漂流しながら、思い立って探偵小説のあの岸辺を探そうと思っても、今の私がたどり着けるのは、幕張かみなとみらいか、護岸された人工的な浜辺だらけになっていた。
 私にとっての原氏の作品は、この私の記憶のなかの見慣れた岸辺のようなものだ。新宿や中野を中心とした中央線で10代から20代を過ごした私にとって、彼の文体からは文字どおり匂いがする。プロットやトリックの秀逸さなら、優れた作家はいくらでもいるだろう。しかし、文章を堪能できる作家はそう多くはない。私はただ流れに身を任せるだけで、どこにでも行くことができる。もはや私は、原氏の岸辺を素通りして、この大洋を漂流することなどできなくなっている。

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シャーマンたちのアルスとアートのはざまから生まれた刺激的な一冊!

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 言葉にできないことを言葉にしようと試みている本について、言葉をもって説明することなどおよそ的外れなことしか書けそうもないが、最近読んだもののなかでは圧倒的に存在感のある本であったことは間違いない。
 概要としては、造形作家である著者がアフリカ、沖縄、スペイン、日本、現代美術を対象に、シャーマンを中心に据えつつ芸術について語るというものである。現地でのフィールドに基づいた著者のフィールドワークが豊富な読書体験と相俟って読みごたえがある。 しかし、文章はけっして読みやすいとは言えない(「です・ます調」に、具体的な話と抽象的な話が入り混ざっている)。また、内容的に繰り返しが多いということもある。ロジックではなく直覚や実感を重視する著者の、直覚にまかせて書かれた文章のせいであろうか。世界は私たちが思っているよりもはるかに豊穣で複雑で、そして可能性に満ちたものであるという著者の主張を、この本に当てはめてみることができるかもしれない。したがって私はおそらく、何度もこの本を直覚にしたがって開くことになるだろう。
 著者のもっとも中核にある主張は以下のようである。
「汎世界的に存在するシャーマンたちの技法(アルス)は、汎世界的に存在する芸術的衝動(アート)と多くの点で対応関係にあると思われます」
 このように文化人類学と芸術とのかかわりでは、『野生のテクノロジー』(今福龍太)のような、文化人類学の側から論じた本はすでにいくつかあるが、芸術の側からの試みによってさらに大きな成果を得ることができるだろう。いずれにしてもこの本は、個人の実体験と直覚と誤解と予言と循環の渦の発する異様な熱をともないながら、しばらくのあいだは、私の一番近い本棚におかれ続けるに違いない。
 末尾にあげられている参考文献から、著者の影響関係を推し量ることが可能である。めぼしいところでは、G・ベイトソン『精神と自然』、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』、M・グリオール『青い狐』、C・ギンズブルグ『闇の歴史』、エ・H・ゴンブリッチ『棒馬考』、など。

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柳田再考の提言から多くの示唆を手に入れることのできる本

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 柳田国男の長きに渡った膨大な仕事に対して、一方的に讃歌を寄せたり、または反対に悪意とも取れるような解釈をもって何かを述べることは、もうほとんど意味がない。私たちは、人でも芸術作品でもどのような対象であっても、まるでノストラダムスの予言をアクロバティックに導き出すようにして、天と地ほどの差のいかなる評価をも与えることができるからだ。できうることならばそのどちらでもない場所に立ち、近代国家の形成期におかれた一級の知識人としての柳田が、日本における近代化というものについてどのように考えていたのかのその足跡について丹念に、ときにはダイナミックに読みとっていく必要があるだろう。
 柳田の創出した「常民」というこの波乱含みの概念の内実は、たとえば「国民」というもう一つの恣意的な集団と比較することで、何か得るものが生まれると私には思われる。著者が言うように「常民」は、「奇麗すぎ」「上品すぎ」「表面的すぎ」かもしれない。しかし、それは人々の実感と乖離して想定される「国民」という集団においても変わらないのではないだろうか。「常民」は今でも、「国民」と相対化させることのできる一つの可能性として存在していると私は思う。西洋からの近代の洗礼を自覚するにはあまりにもすでに深く浸ってしまっている私たちが、「国民」やあるいは「国家」というものをもう一度捉え直すための道具として、柳田の文章を機能させることができるだろう。
 著者が批判の一つの源として取り上げる、柳田の失われてしまった故郷に対する屈折した思いというのも、むしろ現代の私たち多くの感覚と非常に近しいものがある。今を生きる多くの人々にとって、帰るべき故郷などもう探すことが難しくなってきている。そのような感覚は、柳田の生きた時代以上のものがある。そこで私たちははたして、柳田のように一体感を感じることのできる共同性を取り戻す必要を感じているのか、そして取り戻すための手段を手に入れることができるのか、またはその必要はないのか。
 柳田の一連の文章は、20世紀以降急速に意味をもち始めたナショナリズム(生きることの意味を与えてくれるイデオロギー)とは異なる、日本における近代のあり方を模索するための一つの試みとして捉えることができる。そのようなことをつらつらと考えることができたこの本は、私にとって非常に喚起的な本であったと言うことができるだろう。表題ほどには悪意の視線で貫かれていないことがその大きな要因であり、内容的に大きな広がりをもった本である。

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時代は『クレオール主義』に追いついたか?

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 ポストコロニアルにまつわる多岐にわたるテーマが、著者独特の華麗な文体にのって繰り広げられるこの書物は、なんと今から10年も前に出版されたとのこと。時代はやっと『クレオール主義』に追いついた(!)と言えるだろうか。最近になって「クレオール」という名称を冠する本がいくつも出版されるようになっているが、しかし残念ながらそのどれもが、この『クレオール主義』のもつテーマの壮大さと深遠さと、そして先見性には見劣りがするように思われる。
 クレオールとはそもそも、人種や土地や言語などを本質的に語ることではなく、地域的に離れている人間や場所や言葉が、意外なところで結びつけられて語られる想像力の源としてある。クレオールは地球規模の広がりで捉えなければあまり意味がないだろう。そして、土地を越え出て混淆していく力の源がクレオールであるから、当然国家の目指すところとはあいいれない。ポストコロニアルである。
 そのようなクレオール世界への入り口としての、この本の冒頭は象徴的に「失われた景観がそこにある」である。そう、本質的な場所などもうどこにもないのである。そんな当たり前なことに私たちはようやく気づき始めている。漂泊から定住へと移行した時代は、再び漂泊から移住の世界へと移りつつある。生まれた場所を離れて暮らすことや、あるいは移民や亡命でさえも、ごく一部の変わり者による特殊な生き方ではなくなってきていることに、私たちは身近に感じ始めているのである。
 そこで、ある固定的な人や土地と結びつけられて語られることの多い「ネイティヴ」という言葉に著者は違和感を感じ、そこから論を始めていく。その後、ジェイムズ・クリフォード、エドワード・サイード、レナト・ロサルド、アドリエンヌ・リッチ、ミハイル・バフチン、エドゥアール・グリッサン、エメ・セゼール、ゾラ・ニール・ハーストン、トリン・ミンハ、ガヤトリ・スピヴァク、キャリバン(!)らが、カリブや南北アメリカ大陸を舞台の中心としながら地球的規模で取り上げられる。
 彼らの言葉は著者自身の移動する身体を通して「日本語」に移し変えられ、私たちに新たな可能性をもった言葉の集合体として提示されている。登場する人々や著者さえもが予想しなかったそれら新たな可能性の種子は私たちに任されており、拡散する多様な通路へと大きく開かれているのである。『クレオール主義』を使って私たちが語るべきことは、まだまだたくさんあるのではないだろうか。最近あまり本屋で見かけないが・・・。
 

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加藤氏の考え方をあらためて咀嚼することができる

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 新聞や雑誌を中心に発表された論考のため、著者の生活に密着した親しみやすい題材が選ばれたり、アメリカ同時多発テロなどの、時事的なテーマに関する著者の考え方をうかがうことができる。
 そのため、文体や文章の長さはそれぞれで、政策科学研究所例会での講演「非西洋近代の可能性」は「です・ます」調で40ページと長い。一方で、「毎日新聞」に連載された「深層への思考」は、5ページに満たない分量にもかかわらず「援助交際はなぜいけない」「日の丸と君が代を分離する」「オウムと天皇」など、ハードなテーマに関する著者のストレートな意見を読むことができる。
 全体としては、「内在と関係」や「私利私欲」などに関する加藤氏の一連の書物(『敗戦後論』『戦後的思考』『日本人の自画像』)に目を通してきた者にとっては、さまざまなテーマを通して、加藤氏の考え方をあらためて咀嚼することができるようになっている。しかも、著者自身の解説によって。フランス人の学生に答えた「『敗戦後論』をめぐるQ&Aは」は、特に興味深い。
 その他のテーマとして「白楽晴の『朝鮮半島統一論』」「わが小林秀雄」「江藤淳氏の戦後批判をめぐって」「柳美里裁判の問題点」などなど。

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「華麗な虚偽」が『アンダーグラウンド』にも生かされているのでは疑惑!

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 村上春樹への大いなる愛がにじみでている前2作とは少々趣が変わって、本書では『アンダーグラウンド』への大いなる疑問や不満が、多少辛辣な文章によって書かれています。悪意とさえ思えるほどに。しかし、これも愛情表現のひとつなのでしょうか。
 早朝のジョギングから始まる優雅な日々を、大磯の片田舎で満喫している(であろう)村上春樹が、いったいどのような動機でどのような主張をもって、このような作品を書こうと思ったのか。それを考えると、著者にはどうも「むむむ」と思えることばかり。そのモヤモヤから、前回までと同じような、著者独自の探偵のような捜索が開始されます。今回は捜索の結果に納得するとともに、笑えるところもたくさんありますよ。
 第一話が「動機捏造疑惑×「私」とは?」で、第二話は「詭弁、商魂、自己都合」と続きます。なんとなく、どんなことが書いてあるか伝わってくるでしょ? 春樹作品を貫く「華麗な虚偽」が、ここノンフィクション作品であるはずの『アンダーグラウンド』にも生かされているのでは疑惑!
 やっぱり著者は、この作品に限っては、村上春樹に呆れてるんでしょうねえ。

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時間や空間の不連続を意識させる内容

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 一部と二部のあいだには文体や内容などの点で連続性があるが、三部はまた別の小説といってもいいほどの違いがある。しかしいずれの作品も、著者が『ダンス・ダンス・ダンス』で展開してきたような、時間や空間の不連続を意識させる内容であることに変わりはない。過去や未来、この場所やあの場所が、主人公が生活する家を中心に複雑に交錯していく。ねじまき鳥の鳴く「ギイイイッ」という音は、時間や空間の移動を、あえて現実世界のなかで意識させるための道具のひとつとして使われている。
 そしてまたもちろん、この作品においても言えるのは、著者が設定したテーマやストーリーが複雑であろうと単純であろうと、村上春樹という作家は「文体」によって読者を引っ張っていく作家であるということ。その小説がもっともらしいか否かとか、スリリングな展開に手に汗握るかどうかとかそういうことよりも、読者が気持ちよくページを次々とめくることができるように、著者は最新の注意を払っている。
 著者による心地よい文体に支えられながら、非現実的な名前の登場人物に囲まれた主人公が、現実にはあり得ない時間と空間の移動をするというところに、村上春樹作品が醸し出す特徴のひとつがあるように思える。

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漱石片付かない〈近代〉

2002/05/15 14:10

私たちは漱石を語ることによって「近代」そのものを語ってきた

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 日本における「近代」の捉え方が変化するにつれて、なぜか漱石に対するイメージも大きく変化してきた。私たちは漱石を語ることによって「近代」そのものを語ってきたのではないだろうか、というのが作者の主張である。
 そのことを見ていくために、教科書のなかで取り上げられてきた漱石像の変遷を跡づけ、さらに、漱石作品に現れた近代的なテクノロジーと視線の問題を論じ、そして、それぞれの代表作についての近代にまつわる代表的な論点を指摘している。
 そのなかには、ポール・ヴィリリオやボルヘス、フレデリック・ジェイムソンらの名前が出てくることもあり、作者のようなもっとも若い世代の研究者が、これまでの膨大な漱石研究の上にどのようなポジションに立っているのかを知ることができる、という側面も本書はもっている。
 しかし、『NHK文化セミナー』のテキストという本書の性格上しかたないが、作者の独創的な視点が提出されているわけではない、という点において少々退屈な内容であることは否めない。

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G.スタイナー自伝

2001/01/29 17:22

子どもを物知りにする方法とその結末

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 マルチリンガルかつ博覧強記な男として知られる、1929年生まれのオーストリア系ユダヤ人、ジョージ・スタイナーの「自伝」だ。
 彼のどの著作を繙いても、ギリシア・ローマの古典やシェイクスピアなどに対する自分の素養のなさに愕然とするのだが、それはこの自伝でもあまり変わらずであった。いや、マルチンガルであり博覧強記であることの素晴らしさを、ヨーロッパの先達を引き合いに出しながら説得し、最後には「私に複数の言語が使えたことは無上の幸運だった」というような言葉で締めくくるこの嫌らしさはなんとも言いがたい。
 まあ、子どもの頃のスタイナーが、ロシア語を学びながら息をひきとったという教育パパに、英語とフランス語とドイツ語を均等に読まされ、その要約を書かされ、さらにチェックされる日々を送ったというのだから、日本の義務教育を受けてきた者とは、はなから世界が違うのも当然か。しかも、お母さんや家庭教師も含めて、彼の育った生活環境には、母国語というものは存在しないに等しかったという。
 教育パパは、複数言語とともにスタイナーに「古典に対する崇拝を執拗に教え込」んだ。スタイナーも古典への信頼、とりわけシェイクスピアへの偏愛を隠すところがない。古典に対してスタイナーは「われわれがそれ(古典)を読むよりも、それがわれわれを読む」という持論を述べ、古典に対して人間は、豊かな感受性と直感力をもって取り組むべきだと主張する。また古典は「いかなる最終的な決定不可能性をも逃れる」とし、「すべての理解は原作に到達できない」という。このような言語と、そして必然的に展開される翻訳に関する彼の考え方の開陳は、この本の一つのクライマックスであると言えるだろう。
 しかしスタイナーはそれでも、ロシア語や日本語がわからないことを残念がり、イスラム世界に近づけないことを悔しがったりしている。そして、教育の単純化や平易化を「犯罪行為」と言い切りながら嫌悪感をあらわにするスタイナーにとって、国民国家が制定する国家言語などという代物は、不自然で窮屈な畸形に映ったに違いない。かつて世界は、自分のおかれた言語状況の方がずっと自然だったのだ、というトーンがそこかしこに流れている。しかしそのトーンは、なんだか哀しさを帯びているのも確かだ。
 私がもう一つ面白く読めたのは、自伝にはありがちであるが、彼の交友関係にともなって語られる人物評価であった。ちなみに、本書の原題は『正誤表ーAn Examined Life』である。

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紙の本現代思想のパフォーマンス

2002/05/17 15:12

『サルにも分かる現代思想』??

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 著者の一人である内田樹は、難解な思想書と格闘している大学生をみかねて、彼らにもわかる現代思想の解説本を書こうと思った、と「あとがき」に書いている。それは著者自身が、同じような悪戦苦闘をしてきたことからくる仇討ちの意味もあったようだ。彼ひとりに書名を任せていたら、『サルにも分かる現代思想』となっていた恐れがあるようだが、つまりはそういうことをこの本は目指している。さらに、分解された思想の瑣末な部品を「ああでもないこうでもない」と議論することよりも、その思想を乗りこなして「道具」として活用することを目的としている、とも書かれている。
 たしかに、膨大な思想の集積の要所を抜粋することにより、見通しはよくなってはいるとは思う。それでも、もう少しわかりやすい文体で書けたのではないか、という気もする。少なくとも(今どきの)大学生には、まだ難しく感じられるのではないだろうか。「自称わかりやすい解説本を前にして大学生らが悪戦苦闘…」という、目を背けたい情景が目に浮かばないでもない。
 ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードがそれぞれ、案内編(略歴や位置づけ)と解説編(具体的な著書の解説)、および実践編にわけて解説されているが、「道具」としての切れ味が試される実践編は、文学や映画や演劇からの作品が選ばれている。この部分もかなりややこしい。材料の方は読者がすでに鑑賞済みであることが求められていて、私は結局、途中から実践編を抜かして読むことになってしまった。うろ覚えの『カッコーの巣の上を』などをもう一度見終えてから、再び本書に取り組みたいと思う。そういう意味では、この本はなかなか奥が深く、手強いのである。

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「機内で覚えて現地で使える」かどうかはあなた次第

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 語学書は目的に合わせて買わなければいけない。じっくりと一年かけて読む本と、来週の海外旅行のためにとりあえず読む本とは、内容が異なってくることはいうまでもない。
 でも、まあ、これは基本であり建て前である。実際は、各人の知識や能力は千差万別であるし、何のために語学を習うのかも人それぞれであろう。だから、本屋さんの語学書売り場には、微妙な差異のいろいろな本を比較して、自分にぴったりとあう本を見つけようとする人でいっぱいなわけだ。しかもだいたいの場合において、人は同じお金を払うのならば欲張りな内容を求めようとする傾向にあり、いつもそのことを忘れ失敗する。
 この本の副題は「機内で覚えて現地で使える」とある。このくらいのはったりで、半年くらいの期間をかけてゆっくりと勉強するのにちょうどいい。CDの中味も、適度に日本語を挟んで、あとはスペイン語をどんどん流すというのも聞きやすい。日本語が多すぎたり、初心者なのにスペイン語の速射砲だったりするとうんざりする。
 さらに、新書判の大きさなので、現地に同伴しても邪魔にならないのも、お薦めの理由のひとつ。

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