サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 田中純さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年4月)

田中純さんのレビュー一覧

投稿者:田中純

6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本中味のない人間

2003/02/08 21:22

美学破壊における政治

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 28歳のジョルジョ・アガンベンは、美学の破壊ほど急を要するものはないと言う。「家が火事になってはじめて建築の根幹にかかわる問題が明るみになる」という第一章の言い回しが、この書物では巻末でも反復されている。このような危機の時間意識に浸透されたアガンベンの書物は、近代における芸術の運命を描ききろうとするラジカルで壮大な企てだ。決してバランスのとれた構成とは言えないし、いささか生硬な若書きであることは否めない。美学破壊であるがゆえに、美学的な語彙と議論に強く束縛されてもいる。例えば、アリストテレス、シェリング、マルクス、そしてニーチェまで、ポイエーシスとプラクシスの関係を探る第八章の論述は、主題の巨大さに比べては短すぎ、構成的には長すぎて、いささか中途半端な印象を与える。註で言及されているアレントや、とくにハイデガーの思想の吟味が迂回されている感は否めない。そしてそのことが逆に、ハイデガーの忠実な弟子である若きアガンベンの姿を浮き彫りにしている。

 アガンベンはいまや世界的に著名な政治哲学者である。それゆえ、彼の現在の政治哲学から遡行的に初期の仕事を読み直す、といったアプローチがあってもいいだろう。しかし、「あの」政治哲学者アガンベンの処女作といった事前の過剰なコンテクスト化は、本書の豊かさを殺ぐとともに、度を超した賛美でそれを包んでしまうことになりかねない。むしろ逆に、初期のハイデガー的な構図が現在のアガンベンの思索のなかで乗り越えられているかどうかこそが検討されるべきだろう。

 「中味のない人間」——そのアレゴリーとは、最終章でアガンベンが「カフカによって足止めされたベンヤミンの天使」と呼ぶ、楽園につねにすでにいた歴史の天使である。そしてそれこそ、常態にほかならない非常事態下に置かれた人間の姿なのだ。アガンベンが自らの仕事の「見取図=企投」をこの処女作ですでに正確に描き出していたことは間違いない。わたしにとってこの著者の魅力は、米仏で彼をスター思想家にした部分にではなく、そのアレゴリカルな思考と表現の細部にこそある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

死者たちの都市へ

2004/07/24 11:24

自著を語る

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あとがきなどからの抜粋によって、自著紹介としたい。著者HP

本書で取り上げられるのは、現代における都市の冥界をめぐる政治の諸相である。
政治的暴力や死者たちの慰霊の問題を考えるうえで、都市こそは優れた「方法」である。プロローグでは、古代ローマから現代にいたるパースペクティヴのなかで、この方法がもつ歴史的な時間の厚みについて論じている。
第I部は2001年9月にアメリカ合衆国を襲ったテロを発端として、とくにニューヨーク世界貿易センター跡地の処遇を中心に論じている。マンハッタンに突然開いた死者たちの都市へ通じるこの門を、われわれはどんな護符によって守ればよいのか。失われた命をどのように慰霊することができるのか。そして、こうしたテロとそれに対する武力報復という未曾有の暴力それぞれの歴史的由来と相互関係が、戦場と化した都市の景観の背後に探られてゆく。
第II部は現代都市における死の位相や政治的暴力の様態をより広範に扱っている。そこではまず、死を「生産」する都市アウシュヴィッツ絶滅収容所から届けられた写真のイメージという、死者たちの呼びかけに対する応答の倫理が問われ、医療技術をはじめとするテクノロジーの進展にともない、生と死の輪郭が不分明なものとなった時代における墓地空間(ネクロポリス)の変容が考察される。つづいて、グローバル化する「帝国」に対抗する方法としての都市のモデルが、魑魅魍魎めいた都市イメージのなかに探し求められてゆく。最後に、都市全域に亡霊のように拡散して遍在する警察の暴力と、それを打ち破って国家権力を奪取しようとするクーデターの技術をめぐる分析が、この第II部を締めくくることになる。
一連の考察を通して浮かび上がる、世紀の敷居をまたいだ時代の貌は暗く陰鬱である。本書ではそんな都市の死相を——ヒポクラテスのまなざしをもった歴史家として——読み解こうと努めた。死にかけている都市をさまようことは冥府巡りの旅に似ている。その旅の終わりを告げるエピローグでは、喪われた都市の「おもかげ」へのノスタルジアに、想起を通じた再生の希望を託すことになるだろう。
本書に先立つ著書『都市表象分析I』(INAX出版)でわたしは、「都市表象分析」と名づけた自分の都市論はつねに、都市の廃墟への愛という「暗い幸福」とともにある、と書いた。その思いはいまも変わっていない。都市は訪れた者を巻き込むひとつの巨大な記憶と思考の装置だから、人はその懐に抱かれて愛した都市のようにしか考えることはできないのかもしれない。わたしが最初に自分が愛していることを自覚した街は、まだ壁があった1980年代半ばのベルリンだった。気恥ずかしさを抑えてあえて告白すれば、「ベルリン」という名はそのころ、つぶやくたび、恋人の名のように響いた。
この街を廃墟に似た場所にしていたものが「壁」である。この壁もまた、生と死を分かつひとつの「敷居」にほかならなかった。わたしが都市に向けるまなざしは、結局のところ、この物体化した剥き出しの政治的暴力という「都市の死相」から受けた衝撃に、いまだに深く呪縛されているのである。
そして、この書物そのものもまた、わたしにとってのベルリン同様、愛される極小の都市でありたいと願っているのだが、はて、読者はどんな意想外のパサージュと「おもかげ」をそこに見つけることになるだろうか。
なお、本書に関する追加情報はわたしのサイトで随時公開されている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本都市の詩学 場所の記憶と徴候

2007/12/17 14:09

著者のコメント

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この書物が 「トップ > 科学技術・工学 > 建設・建築 > 衛生工学・都市工学 > 都市計画 > 都市計画一般」という分類になっているのは、内容にふさわしくありません。Cコードが「3010」になっていることが明瞭に示しているように哲学ないし心理学か、芸術、文学などの分類であるべきです。

著者の言葉として、「跋」から引用します。

 「わたしは海にいる夢を見ていた・・・・・・。」
 ポール・ヴァレリーはエッセイ「パリの存在」をそんなふうに書き出している。パリという大都市を語るために、この詩人はまず、海にいる夢から半ば目覚めかけた状態で、部屋の壁越しに聞こえてくる混沌とした物音から生まれる連想を紡いでゆく。海にいる夢の名残を引きずり、無意識と意識のあわいをたゆたいながら、詩人はこの豊かなざわめきに身を沈めることによって、「精神」そのものに似た「パリ」という存在を思考する困難な営みを始めるのである。
 本書もまたそのように、都市を語りながら、同時に、海を夢見ていたのかもしれぬ。雑誌の連載原稿を一書にまとめる改稿の作業を進めながら、わたしは次第にそんな思いを強くしていった。この書物の特権的なトポスとは、水陸の境であり、波打ち際だからである。
 建築家アルド・ロッシ没後十年の命日にあたる今年の九月四日前後、彼の建築を福岡の地に訪ねることを思い立ったのも、そのひとつである門司港ホテルの立つ港という海と都市との境界へと、無意識に招き寄せられていたからだろうか。・・・・・・
「海貝よ/石と白む海の娘/汝は童の心をうち奮わす」――中学生時代のロッシを建築に目覚めさせたのは、レスボス島の古代詩人アルカイオスによるそんな詩の断片だったという。海によって削られた、石のように固い殻をもつ海貝へのときめきが、ロッシ少年をとらえた。彼はそんな貝のなかに、スチールや石、セメントを「殻」とする都市のイメージを見たのである。そして、彼自身の建築もまた、浜辺に打ち寄せられた貝殻のように、冷たく、言葉なく、波打ち際に佇んでいる――。
 わたしはそんな汀(みぎわ)で、ロッシ少年の胸をときめかせた海貝を拾い、幼年時代の谺を聞こうとするベンヤミンのように、虚ろな巻き貝を耳に当てたのである。彼らの経験を追体験するために、ひんやりとしたアンカー石積木を手に握り、ポラロイド・フィルムに街角の風景が徐々に浮かび上がるのをじりじりとして待ち、貝殻や動物の骨、それにアンモナイトの化石や琥珀を集めて並べ、覗き眼鏡で十九世紀の古びたステレオ写真に見入った。あるいは、黄昏れた新宿の雑踏で夕占をしては、歌舞伎町の路上でスナップ写真を撮り、真夏の熱気がむんむんする庭でカマキリや小動物たちを観察した。――児戯に類しよう。いや、児戯そのものなのだ。書物を書くという口実のもとにわたしは、こうしたとりとめもない実験を無器用にあてどなく反復することによって、子供時代のときめきの記憶を呼び覚まそうとしていたのである。・・・・・・
 わたしをこうした作業に熱中させるのは、無限の可能性を秘めた書物という媒体の形式に寄せる絶対的な信頼であるに違いない。子供時代のわたしの特別お気に入りの遊び道具は本だった。文字が読めるようになる以前からそうだった。幼児向けの絵本ばかりではない。どんな書物であれ、そのページをめくる行為を飽きることなく繰り返していた。――だから、これもまたきっと、あの頃の幸福なときめきの余韻なのである。・・・・・・
 そして、今、この書物は、著者の手を離れ、読者のもとへ旅立とうとしている。それが書棚に佇む、灯台に似た存在であってくれることを願う。書物のページとは、読者へと打ち寄せる数百の波だろうか。ならば、本書という波打ち際で、読者はどんな記憶と徴候のシグナルを感知することになるのだろうか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

【著者コメント】英雄の狂気:ハンニバル・レクターとしての歴史家

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イメージの歴史家アビ・ヴァールブルクは、20世紀の知のあり方を決定づけた巨人のひとりです。彼の生涯と業績を本書のようにトータルに論じた書物は、故ゴンブリッチ卿による伝記以外、世界的に見ても、まだないはずです。

 さらに本書は、ゴンブリッチ卿があえて触れなかったヴァールブルクの狂気に踏み込み、そのただなかに燃え上がる知の情念を分析しようとしました。ルネサンスの都市フィレンツェを愛したヴァールブルクは、人肉嗜食の妄想に取り憑かれた病者でもありました。その意味でハンニバル・レクターさえ彷彿とさせるこの知の怪物は、ヨーロッパ文化の歴史の総体を、自分自身の魂という鏡に映し出す霊媒のような歴史家でした。

 その営みの結実が、無数の図像をタロットカードのように用いた、「ムネモシュネ(記憶の女神)」と呼ばれる最晩年のプロジェクトです。このプロジェクトは、ヨーロッパ数千年の歴史を圧縮して上演しようとしている点で、たとえばゴダールの『映画史』を連想させもする、きわめて複雑で錯綜した実験でした。

 ユダヤ人であるがゆえの苦悩と迫害恐怖に始まり、著名な医師ビンスヴァンガーとの間に繰り広げられた秘かな闘争、そして、みずからの精神病との格闘——ヴァールブルクはこうした困難な精神的闘いをくぐり抜けた英雄でした。本書はこの英雄の狂気、「英雄的狂気」の徹底した分析を通して、その核心に潜む「イメージ」という魔物の正体に、ヴァールブルクとともに近づいてゆこうとする試みです。ヴァールブルクにとって「地獄めぐり」になりかねなかったこの道行きに、読者が著者とともに、道連れとなっていただくことを願います。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

自著を語る

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 跋文からの抜粋により、自著紹介に代えたい。著者HP

 この書物は『精神について』と題することもできただろう。「精神(Geist)」とは、しかし同時に、「幽霊」、「亡霊」を意味する。本書は建築家ミース・ファン・デル・ローエにとり憑いた近代という時代の亡霊をめぐって展開されている。近代建築史の多くが超越的な「時代精神」を暗黙の前提にして記述されてきたとするならば、ここではそれを歴史的なコンテクストのなかへと引きずり降ろし、精神/亡霊の出現と回帰がもたらされる構造そのものをミースの建築に探った。
 建築家でも建築史家でもない筆者がミース論を手がけたのは、彼の建築が近代における「表象」の作用を集約的に「表象」する構造をもっているためである。この二重化された表象作用の分析は、建築学や建築史学とは異なるアプローチを要求した。さらに、ミースが生きた時代に民主主義を襲った危機のもとで表象=代表の制度が鋭く問い直された歴史的経緯を背景として、本書では表象作用の次元における建築と政治の関係が重点的に考察されることになった。「均質空間」などと称されてきたものはミースの建築をめぐる政治的幻想にほかならず、本書はこのような幻想を生むメカニズムの究明を含んでいる。こうした作業を通して、ミースが精神/亡霊という不可視なものと格闘しつづけた「戦場」の地形を浮かび上がらせることが、本書の目的とするところであった。それがしかるべき成果を収めているか否かを判断するのは筆者の役割ではない。しかし、本書が主題の設定において、数多い他のミース論と一線を画したものであることは、重ねて強調しておきたい。
 こういった関心の所在やその方法論からして、この『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』は建築史の書物にとどまるものではない、と明確に述べておくべきだろう。むしろたとえばジャック・デリダのハイデガー論『精神について』の隣に並べられたほうが、まだしも場を得たと言えるかもしれない。『精神について』でデリダは、ハイデガーにおいて好きなところとして、彼のテクストを読むときに感じる二つの揺らめきについて語っている。ハイデガーのテクストは恐ろしく危険で、同時にばかに可笑しい。間違いなく重大なのだが、少しばかりコミカルだ。本書をデリダによるハイデガー論の隣に置きたいと思うのは、ハイデガーのこのコミックがミースにも通じるものだからである。ミースの建築は疑いようもなく重大で危険でさえある。しかし、同時にそれはわずかばかりコミカルだ。そんなコミカルさには、パリの名所をガラス扉に反射させて画面に登場させたり、あるいはインテリアが路上から丸見えのガラスの家を舞台にした、ジャック・タチの映画『プレイタイム』を連想させるところがある。このタイトルを「プレイ・タイム」、すなわち「時間を戯れる」と読めば、いかにもミースにふさわしい。
 ハイデガーについてと同様、ミースについてもまた、デリダが言うように、このコミックに敏感であること、彼らの巧みな術策を前にして笑う術を心得ていることが、倫理的ないし政治的な「義務とチャンス」になりうるかもしれない。ミース・ファン・デル・ローエに関する一冊の書物を書き終えた今、私はようやくひと息ついて、笑うことができそうに思う。しかし、その乾いた笑いのあとには再び幻聴のように、エピグラフに掲げたパウル・ツェランの詩句や、ゲオルク・トラークルの「西欧(夕べの国)」にアントン・フォン・ヴェーベルンが作曲した歌の響きが、執拗に甦ってくるのである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本都市表象分析 1

2000/07/23 16:49

自著を語る

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 跋文からの抜粋により、自著紹介に代えたい。著者HP

 夏の終わり、ポルボウの断崖の上、乾いた大地にはサクラソウに似た薄紫色の小さな花が、枯れ草の狭間に咲いていた。地中海を望む白い共同墓地の片隅に、荒削りな岩と黒い石板からなる彼の記念碑を見つける。まだ幼いサボテンが寄り添うようにそのかたわらに育つ。人けのない墓地のなか、手にしていた小石を岩の上に重ねた。遠く列車の音。ダニ・カラヴァンの《パサージュ》、その階段を下り、亀裂の入ったガラスを透かして、砕け散る波を見つめた。

 都市、都市的なるものをめぐって書き継がれてきた一連の論考に書物というかたちを与える前に、私は自分がこの土地——ヴァルター・ベンヤミンの生が唐突に断ち切られた町——にどうしても立たなければならないと思った。本書は彼に献じられたささやかなオマージュである。ベンヤミンが言うように、都市が名もない人々の記憶で埋め尽くされているのだとすれば、都市論はその記憶を歴史的に構築する作業でなければならない。私はこの書物が彼の意志に沿うものであることを願った。そのようなものに現になりえているかどうかはわからない。けれど、ポルボウで私はそうあってほしいと祈り、書物の代わりに石のかけらを記念の岩に捧げたのである。

 都市論を語るとき、ベンヤミンの名を引くことはあまりに常套的な身ぶりになってしまった。にもかかわらず、ベンヤミンにおける「都市」という「方法」がその拡がりにおいて十全に捉えられたとは言いがたい。雑誌『10+1』で本書に収められた論考を連載し始めたとき、私はそんなもどかしい思いに駆られていた。それゆえにこの連載は、現代都市の諸相をめぐる分析であると同時に、ベンヤミンの方法をその分析において活用しながら方法論的に再考するための場となったのである。

 本書のエピローグはそうした方法論的考察の中間的な結論である。私はそこで自分の方法に「都市表象分析」という名を与えた。それが扱おうとしているのは、夢と覚醒、表象と現実、古代と近代、遠さと近さが渦巻くような律動のなかで交錯した世界である。私はその二重化した像を通して都市という廃墟の誕生と死を透かし見ようとした。本書の諸章は、さまざまな両義的形象に導かれるまま、あちらこちらと坑道のように掘り進まれ分岐していったパサージュにほかならない。

 これは何よりもまず都市に寄せる愛と欲望を主題とした書物である。もちろんそれぞれの論考は現代都市の理論的・歴史的分析を志している。しかし、そこでは同時に、この愛と欲望が結晶した奇妙な形象——都市のエンブレム——の蒐集が繰り返されていた。1499年にヴェネツィアで出版されたフランチェスコ・コロンナ作(アルベルティを本当の作者とする説もある)『ポリーフィロの狂恋夢』が、擬人化された都市である恋人ポリアをめぐる主人公ポリーフィロの夢に現われた謎めいた建築物などの叙述と図版によってルネサンスの都市嗜好症を記録していたように、本書はその500年後の世紀転換期における都市をめぐる「狂恋夢」の夢分析として、後期資本主義社会のさまざまな夢の形象を集めたエンブレム・ブックであることを秘かに切望しているのである。そこには私が十代の終わりに読み耽り、この奇書の存在をはじめて教えられた澁澤龍彦のエッセーからの、無意識的な影響があったのかもしれぬ。もとより、玩物喪志は意図するところではないが、都市という夢に酩酊する危険を冒さぬかぎり、形象との遭遇など望むべくもないのである。

追記:デザインの一部をなす帯を外した写真が使われているため、秋山伸氏による装幀が無残に裸にされてしまっている。鈍い銀色に輝くこの書物を是非手にとってみていただきたい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

6 件中 1 件~ 6 件を表示