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  3. かわうそ亭さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

かわうそ亭さんのレビュー一覧

投稿者:かわうそ亭

25 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本源氏物語 第1巻 桐壺〜賢木

2011/08/30 15:30

源氏物語のポリフォニー

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大塚ひかり全訳の『源氏物語』(ちくま文庫)を、ところどころ山岸徳平校注の岩波文庫版で原文をたしかめながら読む。まずは第1巻、桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木までの十帖。
わたしは大塚ひかりという人のことはまるで何にも知らなかったのだけれど、本屋で時間つぶしをしているときに(最近は立ち読みではなくて座って読めるからありがたい)ふと手に取って読み出したら、これがじつに面白くて、待ち合わせの時間が来て本棚に戻すのが残念で思わず買ってしまったのであります。わたしにしてはめずらしい。

ところで、この全訳に対しては、あんなものをと眉をひそめるむきがあるかもしれない。
よく知りもしないくせになんでそんなことを言うかというと、巻末に著者の作品目録が載っているのだが、これがタイトルからして『カラダで感じる源氏物語』と『源氏の男はみんなサイテー』という挑発的なシロモノなんだなあ。ちょっと、前者を引用する。解説はどうやら古谷野敦らしい。

「エロ本として今なお十分使える『源氏物語』。リアリティを感じる理由、エロス表現の魅力をあまさず暴き出す気鋭の古典エッセイ。」

なんだかなあ、でしょ。(笑)
源氏を読もうなんて、せっかく殊勝な心がけであるならば、大谷崎もあるし円地文子でも、あんたの好きな田辺聖子だってあるじゃない、てなもんでありますよね。
なんで大塚ひかりなんて聞いたこともない(もちろんわたしが知らなかっただけ)人の全訳なのさ、ト。

答えは、だっておもしろいんだもの、ってことになるかなあ。
いまでこそ源氏物語は、世界最古の文学作品として、日本文化の精髄、ハイカルチャーの代表選手みたいに扱われているけれど、もともとあれは誨淫導欲の書で、ために紫式部は地獄に落とされたという説話もあったくらいなのである。淫蕩な要素を滅菌消毒してしまっては、その面白さは台無しである。
だから、この挑発的な本は、古来、堂上貴族やその姫君たちがカラダで堪能してきた読み筋を、ぶっちゃけこんな感じなのよね、と教えてくれるような破壊力がある。(ような気がする)

その仕掛けのひとつは、「ひかりナビ」という解説だろう。
本文の区切りのいいところで、そこまでの話をまとめたり伏線を張ったり、出典や言外の意味、ときには定まっていない専門家たちの解釈を紹介したりして、ちょうどいいリズムで読めるんだな。若い姫君に女官が、源氏を語りながら、ときどき、「姫、ここはこういう意味なのでございますよ」なんて解説し始めるような塩梅で、おそらく源氏というのは、本文のヴォイス、登場人物それぞれのヴォイス、そして主人に語って聞かせている当の読み手のヴォイス、そういう多声的な語りが、聞き手である「読者」の体に沁み込むようなものだったのではないかしらん。そんなことを読者に納得させるよい本だと思うなあ。

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紙の本Harry Potter and the deathly hallows 1st ed.

2007/08/04 23:52

最終巻は深い満足とともに

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ハリー・ポッター全シリーズの完結篇である本書については、発売前からとかくの噂がありました。著者のJ.K.ローリングが、“there are deaths, more deaths, coming”なんて不穏なことをBBCのインタビューのなかで言っていたことから、いろいろなセオリーが繰り出されることになったのですね。
実際このシリーズでは、主人公であるハリーにとってかけがえのない登場人物の死が、繰り返されることに多くの読者はとまどいに似た気持ちを持っていました。

“I want these books to be a world where my children can escape to.”

ある母親が著者に切々と綴った手紙の一節を、ローリング自身が語っていますが、この願いは多くの読者に共通する思いかもしれません。この母親の言葉が著者にとって重いものであったからこそ、わざわざインタビュー(これは上記のものとは別ですが)のなかで彼女はあえてこれを紹介したのだと思います。

では今回の最終巻で、ハリーたちにいったい何が起きるのか。

もちろんわたしは、この巻に書かれている内容のほんのわずかなヒントであっても、ここで語る気は一切ありません。また、ほんとうのファンは、それを聞きたいとも思わない筈です。すべて自分で確かめたいと思うでしょう。
ただひとつだけ、ここで言ってもよいとわたしが考えるのは次のことです。
二年間、待ちこがれた完結編が手元に届き、一喜一憂しながら読み進め、最後の頁を終えたとき、わたしは、深い満足とともにこう呟きました。
「そう、これでいいんだよ」と。

発売の前の段階から『Harry Potter and the Deathly Hallows』は、商業的な意味ではすでに成功を約束されていました。
ハリー・ポッターという名前のビッグビジネスが、著者のコントロールをはるかに超えてびゅんびゅんと世界中を駆け巡っていました。
もちろんそれも現代の「マジック」のひとつかも知れませんが、もはやここまで天文学的な富を得てしまった作家にとって、さらにもうひとつの商業的な成功はさほど意味のあるものではなかったでしょう。

だから著者にとって重要だったのは、おそらく何かを伝えるべきだという思いだったとわたしは思います。
こんな風に考えてみてはどうでしょう。
世界中で何千万人という子どもたちが、そして同じくらいの大人たちが、あなたの語るオハナシに夢中で耳を傾けてくれることがわかっています。
そんなとき、あなたはなにか良きものをそのオハナシの芯に入れたいとは思わないでしょうか。

では、本書でJ.K.ローリングが子どもたちに(あるいは大人たちに)伝えるべきだと信じたのは一体なんだったのでしょう。
わたしはそれは「死ぬことを恐がりすぎてはだめ」ということではないかと思います。
本書とはまったく離れてしまいますが、遺伝子工学の今後の発達を考えたときに、人間は(誰もがではなくて、特定の力を得た人間はということですけれど)死を乗り越えるという誘惑にひかれるような気がします。第六巻であきらかになったヴォルデモート卿の「ホークラックス」というのはその喩えではないかとわたしは思います。
そして著者はそれを直感的に邪悪なものとして退けているのではないでしょうか。
人はかならず死んで行く。
かなしいことですが、それはまた美しいことでもある。
それを彼女は伝えるべきだと信じたのだとわたしは思う。

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中国=文化と思想

2001/11/11 20:39

中国人とはなにか

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 林語堂は1895年に中国福建省に生まれた作家、学者。1920年代にハーバード大学、ドイツのイエナ大学、ライプチヒ大学に学び、帰国後北京大学の英文科教授をつとめたという教養人です。しかし、20世紀の中国というのは前半は日本の帝国主義に蹂躪され、後半は国共内戦から大躍進(という名の大停滞)と文化大革命でインテリにとっては酷い時代でしたから、この漢洋の教養を兼ね備えた人物も多くの著作を発表できたのはアメリカ合衆国でした。(林語堂は1936年に渡米しコロンビア大学で教鞭をとっていたようです)当然、著作の多くは英文で書かれました。本書もそうした英文で書かれた、中国文化を欧米人に説明する著作のひとつですが、いま読んでも、その基本的な枠組みはなんら変化していないことに新鮮な驚きを覚えます。
 たとえば、中国人にとって大事なのは家族であって、社会やら公共の精神なんぞというものはおよそ意味をもたないということ。あるいは、イギリス人にとっては、政治家や官僚というものは、まず悪事をなすものであるという前提で、それをいかに防ぐかを、法治という制度で保証しているが、これに対して、中国人は政治家や官僚というものは、すべからく人文精神に富んだ聖人君子であるという前提で(イギリス人が性悪説のフィクションなら中国人は性善説のフィクションなのね)法治に対して人治という考えを正統な政治哲学にしてしまった、と説明しています。政治思想としては、中国式は明らかに非実用的な仮定なのですが、これらはすべてもとをただせば孔子に行きつくというのが、林語堂の見立てなのです。たしかに納得できる説明です。
 また、かりに将来中国が共産主義化することがあっても、中国人の心性からしてそれはやがて骨抜きになり、中国文化のなかに呑み込まれることは間違いないと、1935年の時点で断言していますが、これもどうやらあたっているように思えます。
 林語堂は結局、中国には帰国できませんでした。1960年に台湾に居を構え、1976年に香港で亡くなりました。82年の生涯でした。

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紙の本詩は友人を数える方法

2003/09/12 18:18

風景の細部のイメージ喚起力

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

詩集と共に広大な北米大陸をクルマでくまなく往還する。
ブルーリッジ・マウンテン、シェナンドウ・リバー、レイク・ミシガン、ツーソン・アリゾナ…、さまざまな歌で覚えた地名が登場する。

濃い霧、冷たい雨、深い闇、強烈な牛の匂い、ハナミズキの白い十字の花弁、アーミッシュの村、無人となったシェーカー教徒の町、無名の人々、無名の詩人──。
長田さんの文章は、なんの前置きもなく始まる。

なぜ旅をしているのか、どこを目指しているのか、どんなルートでインターステートを、カントリーロードを走ってきたのか、そんなことは、まるで取るに足らない些事だといわんばかり。しかし、通りすがりに目にした老いた女と男、「シカゴ」と行き先を手書きしたヒッチハイカーの悲痛な目、南部の田舎道、挨拶も返さず無言で並走してくる白人ドライバーとそのトラックの後部窓に掛けられた銃、バックミラーの視界ぎりぎりに姿をみせて郡の境界まで追尾するパトカーなど、細部の描写はおそろしく力強い。

文章に入れ子にされたアメリカの詩が美しい。芭蕉がここでは頭にあったはず。

とくに印象にのこったのは、ルッケンバックという地図にもない人口三人の町を描いた「ベイシックス・オブ・ラブ」という章だった。「ここにくれば、すくなくとも数時間は、じぶんはこの世でたいした価値がないという、こころの奥の苦い思いをわすれることができる」。ビヤハウスの鴨居には次の言葉が打ちつけられている。

Everybody's Somebody in Luckenbach.

かわうそ亭

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精巧な時計の存在は時計職人の存在を証拠立てる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 むかしからつらいとき悲しいときは夜空を見上げなさいと言われる。そうやって無限無窮の宇宙に思いをめぐらせると、いまの自分の悩みや悲しみなど、あまりに矮小でばかばかしくなり、もうどうでもいいやと思えてくる…。古来から伝わる人間の知恵のひとつですね。実際、そういう経験をした人はきっと多いだろう。
 この本の読後感はまさにそれである。
 われわれの宇宙がどのようにできたのかという謎の解明と、「わたくし」とは一体なんであるのかという謎の解明が、本来別々のことではなくて、ビッグバンから始まったこの宇宙の時間と空間を通じて、実は同じひとつの主題として探求されるべき謎であったというのが、この本が伝えようとしていることだと思う。
 宇宙物理学者が語るビッグバンの話。分子生物学者が語る生命の誕生と進化の過程。古生物学者が語る人類の誕生。わからないことはわからない。でも、いまわかっているのはこういうことなんだよ、という言い方で三人の碩学が語る物語を聞きながらぼくらはなぜかこころ癒される。たとえばこんな箇所だ。

 「死は生と同じほど重要なもので、自然が発展しつづけるのに必要な原子、分子、無機塩などを再循環させる働きをします。宇宙にある原子の総数はビッグバン以来一定なので、死によって原子の大がかりなりサイクルが行われ、新たな生命の蘇りが可能になっているのです」

 科学は次々に新しい知の地平を切り拓く。しかし、そうすればそうするほど、そこで語られる驚異の物語はなんと世界中の神話のイメージに近づくのだろう。本書のなかでも語られる、精巧な時計の存在は時計職人の存在を証拠立てるというヴォルテールの警句は、もちろん神についての記述だが、宇宙、生命、知性体という壮大な叙事詩のなかでは、どうしても思いはそこに至るのだ。
 宇宙は150億年をかけて自分自身を認識する知性を生んだ。しかし、この宇宙の始まりは無であった。
 それは、なんだかひとりの人間の姿そのものに似ている。

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紙の本胡蝶の夢 新装版

2001/11/08 22:45

歴史のうねりに身をゆだねて

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 幕末から明治維新の時代は面白い。もちろん多くの人が命を落とし、無数の悲劇が生まれた時代だが、同時に革命期の生き生きした人間像がこのときほど日本史のなかで輝いたときはなかったように思う。
 この『胡蝶の夢』が扱うのは、その中でもやや変わった「地点」である。主人公の一人、松本良順(のちに明治新政府の軍医総監として名をはせた人物)は幕府の奥御医師として将軍の脈をとる立場の人間だが、幕末の動乱のなかで、たとえば徳川慶喜に仕えるということは、まあ台風の目のなかにいるようなもの。必ずしも、国事に奔走して命のやりとりを日常とした志士たちのような危うさ過激さはないけれど、その分、歴史のうねりを正確に見ながら自分の運命を大きなものに委ねたとは言えるかも知れない。
 この本で司馬遼太郎が描こうとしたのは、日本人にとっては、あまりに当たり前の「空気」の研究なのだが、これを手短かに説明することはむつかしい。ここでは我々の「いじめ」の原形が江戸幕藩体制に淵源をもつのだとだけ言っておく。
 いじめの対象がもうひとりの主人公格の伊之助だが、記憶力の化け物のような語学天才の姿は激動期のまばゆい輝きとも、生まれる場所を誤った不幸とも思えていつまでも深い余韻を残す。
 じっくり読みたい大人の小説。

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紙の本Harry Potter and the half‐blood prince 1st American ed.

2005/08/17 15:25

おそらくシリーズ・ベスト

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ハリー・ポッター・シリーズは周知のように各巻がハリーの誕生日前の夏から始まり(かれの誕生日は7月31日、ホグワーツ魔法魔術学校の新学期は毎年9月1日である)、そして1学年が終わって子供たちが帰省する6月の第3週で終わるようにできている。したがって、今回ハリーは冒頭で16歳を迎え、6年生に進級したことになる。
シリーズものというのはたとえば映画「フーテンの寅さん」のように、きまったパターンというものがあって、もちろんこれがマンネリにつながりもするのだが、ハマッた人にはこれがないとものたりないということになる。寅さんで言えば、毎回、せっかく柴又に帰ってきた寅さんが馬鹿なことをしでかしてまたおいちゃんの店を飛び出していくというのがオープニングのお約束。そういえばハリポタも毎回叔父さんの家からオハナシが始まるな。
ホグワーツ魔法魔術学校の課業や行事も毎年変わることはない。
新学期早々の9月第2週からはじまるクィディッチの寮代表選手選抜。ハローウィンのお祭りが10月末。週末のホグズミードでの息抜きは本当に楽しそうだ。クィディッチの最初の寮対抗試合が始まるのは11月。そして12月は前期が終わりクリスマス休暇に入る。ハリーは例年通りウィズリー一家とともに過ごすことになる筈だ。1月、生徒たちが学校に戻り、やがて2月のイースター休暇。3月1日はロンの誕生日。春の訪れる美しい4月はたいていおだやかに過ぎ、5月の終わりにクィディッチの最終戦で優勝チームが決定すると、6月からはとうとう試験が始まる。そして終業式、生徒たちはホグワーツ特急でキングズクロス駅の「Platform Nine and Three Quarters」に向けて出発する。
これがハリー・ポッター世界の「歳時記」で、基本的な枠組みは本書まで続いている。うつくしく閉じた世界。いつまでもどこまでも続いてほしいと願いながら、読者はそれがかなわない夢であることを知っている。子供から大人になるまでの時間が、はかなく過ぎて二度と戻ってこないことを知っているように……
だが、本書はそれだけではない悲しみに満ちている。
本書に限ったことではないが、このシリーズは物語の中身にふれることがむつかしい。とくに今回は最終巻となるはずの次回作の前編のような位置づけでもあり、どんなストーリーなのかちょっとしたヒントだけでも読者の楽しみを奪う恐れがあるような気がする。だから、中身の話はいっさいなしだ。ただひとつ、わたしの見るところでは、これまでの6作のなかでも、おそらくベストのひとつではないかと思う。
ここまでハリーの成長を見守ってきた愛読者は、悲しみの中にも、勁い主人公たちの決意にきっと勇気づけられることだろう。
かわうそ亭

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ブリージング・レッスン

2003/09/19 16:45

中年はつらいよ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある年代になると、自分の人生というものが、かつて思い描いたような輝かしいものには決してなりそうにないことが次第にわかってくる。
深い失望と傷心とを押し隠し、なんとか快活を装って生きていくのがぼくら中年というものだが、こういう人生の機微は万国共通のものらしい。

本書は一種のロード・ムービーのような構成で、アメリカの中年夫婦の一日を描いている。高校時代の友人の葬式のためにクルマで出かけた夫婦が、行く先々で出会う人々と交わす会話や、さまざな形で挿入される過去の回想によって、だんだんとこのふたりの人生が見えてくるという仕掛け。

読者はなんともさえない人たちだなぁ、と思いつつ、まあ、おれも一緒だけどさ、という苦笑を浮べることになるのだ。
じつにいい小説だ。

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愛すべきアウトロー、ネッド・ケリーを紹介しよう

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 エドワード・ケリー、通称ネッド・ケリーは1854年に豪州ヴィクトリア植民地に生まれた。
 オーストラリアは、いまにいたるまで実質的には移民によって成り立っている国だが、この当時はごく大雑把に言えば、植民地の統治機構と組んだ大規模農場の金持ちが一方におり、他方には流刑囚を先祖にもつ植民地人の貧乏人がいた。そして、金持ちは法律を後ろ盾によい土地をどんどん手に入れてますます金持ちになり、貧乏人は法律によっていつも不利な条件を課されて荒れた土地に追いやられ、そして食い詰めて、せっかく開墾してなんとかまともにした土地ややっと育て上げた家畜を金持ちに取り上げられるのだった。まあ、基本的にはいまだって世の中の仕組みは同じなのだが、当時はこれがむき出しの露骨さであったから、貧乏人の境遇たるやいまでは信じがたいほどの惨めさであった。

 そこでネッド・ケリーである。
  彼の父親はアイルランドの流刑囚。母親の一族も同様で、なにをやろうとしても警官がやってきて嫌がらせをする。貧窮家庭のネッドは学校でも教師の差別待遇に堪えるしかない。次々に生まれる幼い子供たちを抱え、餓えて極貧生活にあえぐ両親。なんとか母ちゃんを喜ばせようと、よその子牛をこっそり屠殺したネッドだが、結局それが父親の犯行とされて父は監獄へ。長男として一家を支えるために必死で働くネッド、このときわずか十二歳。まったく涙がでるようなけなげさ。
 だが、もちろん、世の中そんなに甘くはない。結局、ネッドは愛する母ちゃんに、まるで売られるように(もちろん母ちゃんだってネッドを愛しているのだが)ブッシュ・レンジャーのハリー・パワーの手下にさせられてしまうのである。オーストラリアのブッシュ・レンジャーは、大草原の山賊である。これを要するにアウトローと称する。

 さて少年時代に山賊の弟子となったものの、なんとか懲役を終えて青年となったネッドの望みはささやかなものである。母ちゃんと妹弟たちが真っ当な暮らしができるようにすること。わずかにこれだけ。ところが、いろいろあって、そんなささやかな望みさえかなわない。それどころか、官憲の嫌がらせやらなにやらで、とるにたらないような事件からネッドは逃亡者となり、みせしめのように母親が刑務所にぶち込まれてしまう。貧乏人には、法も味方してくれない。ならば、正しいのはどっちか、どちらが本当に公正なのか、とことん争ってやろうとネッドは決意する。
 こうして、ネッドはオーストラリア植民政府で最大のお尋ね者になっていくのであります。

  いやあ、面白い小説だ。 ほとんど、全編がネッド自身が、生まれてきた娘にあてて逃亡中に書いている手紙(いろいろな紙をつかって書いた)という仕掛けになっており、訳者によれば、学校にろくに行けなかったネッドが一所懸命書いた文章なので文法も綴りもかなり破格な文体らしい。ところが、この文章がまた泣かせるのである。
 たとえば、後半で恋人が自分の子をみごもったことを知ったときの一節。

「おまえが生まれるとわかったそのしゅんかんからおまえはおれの未来になった。おまえはおれの生きがいになったのだ。」(395頁)

 なんてところを読むと、どんな男だって、ネッドの背中を黙って叩いてやりたくなるんじゃないだろうか。
 もちろん、この娘にあてて書いた手紙という仕掛け自体が虚構なわけだが、こういう手紙がいまに伝わった経緯が最後の方に出てきて、このあたりのストーリーは巧いなあと感心する。とくに、最後の方で出てくるシェイクスピア(『ヘンリー五世』)も、英語圏の文学の伝統をきちんと物語に流し込むはたらきをはたしていて、小説を読む喜びを満喫させてくれるのだった。

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天才と凡才、小説書きの業

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 放蕩のかぎりをつくして武具修繕の家を勘当され、妻子かかえて極貧の井原西鶴。唯一の志は西山宗因の跡目を継いで、あれが談林の大宗匠よと人に呼ばれることだが、昼夜ぶっ通しの天下矢数大願四千句の興行をしても俳壇での声望は一向に上がらない。江戸では松尾桃青という聞いたこともない男が宗因宗匠から江戸談林はお前に任すと言われながら、それをやんわり断り芭蕉と名を改め風雅の道をきわめんと一派を興したなんどという風の便り。

 西鶴の心はさわぐ。風雅の道がなんぼのもんじゃい。

 これからは仮名草紙が世に囃される、金に困ってるなら戯作やりなはれ、それなら金は出しまひょと書肆には言われるが、そんな女子供の戯れごとに手を染めるようでは談林の爪弾きになる、あくまでわいは俳諧で身を立てるのや、仮名草紙の戯作者風情まで身を落せるかと西鶴昂然と言い放つ…

 いやあ、これは面白かった。戯作を軽蔑しているくせに書き出せばそれに心血注がずにいられぬ天才、西鶴の小説家根性。この西鶴に師事して、その圧倒的な文学的才能に嫉妬と憎悪にどす黒く塗りこめられながら、才能もないのに文学を志さずにいられぬ北条団水の業を描いてこれは出色の作品だろう。


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まるで推理小説を読むような

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 花衣ぬぐやまつはるひもいろいろ
 谺して山時鳥ほしいまま
 足袋つぐやノラともならず教師妻

 多少なりとも俳句に親しんだほどの人で、これらの句を知らないということはまず考えられません。それほど杉田久女という俳人は何十年に一人という逸材には違いないのですが、しかし、俳句愛好者の間での久女のイメージはどんなものでしょうか。
 ホトトギスを舞台に素晴らしく印象的な句を詠みながら、その奇矯な振舞いから虚子に疎まれ、最期にはホトトギスから除名された女流俳人、といった感じでしょうか。

 じつは杉田久女については、松本清張と吉屋信子がそれぞれ『菊枕』と『底のぬけた柄杓』という久女をモデルにした作品を発表していて(ぼく自身はどちらも未見ですが)これによってそのイメージが決定付けられたという面があるようです。なにしろ、どちらも大物ですからね。ところが、これらの作品があくまで事実に基づいた評伝であればいいのですが、たまたまどちらも小説としてのテーマを追求するために、かなり事実関係については虚構に満ちていて、ために久女のイメージはずいぶん歪められていると、田辺聖子さんは書いておられます。

 本書が驚くほどスリリングなのは、こうした虚構がなぜ流布し、いつのまにか定着したのかということを、明解にしかも遠慮なく書いているからだと思います。誰が久女を追込み、その精神をずたずたにしたのか、本書は一種の推理小説仕立ての名誉回復劇でもあるかのようです。俳句の世界に親炙した人は、おそらく、おおよその筋道が見えていると思いますが、ここでは推理小説ではないけれどネタバレは避けておきます。
 第十五章における田辺さんの、静かで澄明ですが、しかし揺るぎ無い「瞋恚」にぼくはこころをゆさぶられました。

 本書は、1986年の女流文学賞受賞作品です。

 かわうそ亭

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紙の本ダンス・ミー・アウトサイド

2001/12/27 17:42

泣き笑いの哀切

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 W・P・キンセラといえば、ああ映画フィールド・オブ・ドリームの原作者か、と思い当たる人もきっと多いだろう。例によって映画と小説は微妙なところで違っていたけれど、あの映画のもとになった『シューレス・ジョー』(文春文庫)はとても面白い小説だった。だから、ぼくもこの作家のことを「野球小説」の名手として頭の引き出しにしまっていたのだ。
 ところが、たまたま本書を読んでみて、この作家のもうひとつの代表作が本書をはじめとする「インディアンもの」であることをいまさらながら知ったのだった。
 キンセラはもともとカナダのアルバータ州出身である。本書はそのアルバータ州のインディアン居留地に暮らす若者サイラス・アーミンスキンを主人公にした連作短編集。もちろんキンセラは白人でインディアン居留地に住む人々と人種的には関係はないけれど(いや、もうすこし露骨に書けば、いかに望むまいとしてもかれらの抑圧者の側の人間だ)、それにしてはずいぶん遠慮のない、思い切った書き方だと思う(読めば言わんとすることはすぐに了解できるはずだ)。

 「泣き笑い」という言葉がある。泣いたり笑ったりという意味と、泣いていながら笑うというふたつの意味がある。悲しいから泣く、嬉しいから笑う。そういうわかりやすい気持とはまた別に、不思議なことにぼくらは自分の力ではどうしようもない現実(あるいは歴史)に対しては、おかしくも嬉しくもないのに笑ってしまうことがある。いや、笑うしかないのである。しかし、その笑いの裏には苦い涙がある。笑っていながら、はたして自分は笑っているのだろうか、それとも泣いているのだろうかと自問するような感情があるのだ。本書でキンセラが描いているのはまさにそういう「泣き笑い」のストーリー。表面的には、サイラスを中心にしたインディアンたちが巻き起こすどたばた喜劇であっても、その底にはやりきれないような哀切がある。
 ぼくは本書を読みながら、ポリティカル・コレクトを振り回す賢しらな人権家のうさんくささや厭らしさとは対局にある優しさを感じて、心がゆたかにほぐれてくるような気持ちを味わっていた。

 キンセラのインディアン小説を最初に紹介したのは村上春樹だった(「モカシン電報」)と訳者のあとがきにあった。さすがと言うべきだろう。

かわうそ亭

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紙の本ロウフィールド館の惨劇

2001/11/17 19:18

最初の1行、最後の1行。ミステリの技巧。

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 よくできた本格ミステリの醍醐味は、たとえばこんなものだ。
 不思議で魅力的な謎の提示。深い霧のなかをさまようような展開。ラストのぎりぎりまで二転三転する推理。そしてできることならば、ラストの1行ですべての真相が明らかにされ、それまでまるで無秩序に見えていた伏線が一気につながって全体像を明らかにする唖然とするような技巧……

 本書はしかしこうしたミステリへの願望、思い込みに冷や水を浴びせる。なぜならば、小説の冒頭の1行に、犯人とその動機が記されているからだ。「ああ、いわゆる倒叙ものね?」というと、まあ、あながち間違いではないのだが、ぼくの見方ではそれとも微妙に違うような気がする。

 ということで、以下はまったくの評者の空想です。

 ある日、ルース・レンデル女史は嫌みな文芸評論家と賭けをする羽目になる。それはくだんの評論家がパーティでこんなことを言ったのがきっかけだった。
 「ああ、ミステリね。まあ、ひまつぶしとしてはいいですが、あんなものはまともな文芸とは言えませんな。一流の作家が身を入れて書くようなものじゃない」
 「あら、そうとばかりは言えないと思いますけど」
 「いや、いや、あなたはそうおっしゃるが、しょせんミステリなんて最後の謎解きだけが重要なわけでしょ」
 「いいえ、そんなことはありませんよ」
 「じゃあ、たとえば、最初に犯人とその動機を明らかにして、ミステリという様式をくずさず、しかも読み物として面白く、最後まで一気に読ませる、そんな作品が可能なものでしょうかね」
 「もちろん」
 「まさか、はっはっは」
 「──賭けますか?」

 空想にすぎないが、ありそうな話ではあるまいか。そして、賭けに勝ったのは、もちろんレンデル女史である。これを疑う人は本書を読まれたし。

かわうそ亭

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紙の本司馬遼太郎全講演 3巻セット

2001/11/08 22:37

わたしはわたしの義務を果たした

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 司馬遼太郎の小説を読むときの愉しみのひとつは、かれがいったん筆をとめて、ここで少しばかり雑談をしよう、とばかりにいろいろな史実やときにはゴシップを、ページの余白に書き連ねるように語る箇所にある、とぼくはつねづね考えていた。講演集というのは、言ってみればこの余白の一番おいしいところだけを集めたようなものなので、司馬遼太郎ファンならずとも、この三巻の講演集はまさに舌なめずりしたくなるようなご馳走なのである。本書には約100の講演が収録されている。もちろん同じ事件や人物を取り上げたものもあるが、同じ話を繰り返しているわけではないところがすごい。
 晩年にちかい1994年、東京の海上自衛隊幹部学校での講演で、聴衆から今後書きたい題材は何かと聞かれたときに、司馬は「duty」ということをイギリス海軍とスペイン無敵艦隊に絡めて説明し、最後にこう言ってしめくくる。「まあそういうことであります。私がもう小説を書かないのは、私は私の義務を果たした(笑)」。
 かれが立派に義務をはたしたことを疑う者はいないだろう。ゆっくりした速度で通読を薦める。

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征服者と被征服者のねじれ

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 チカノ(chinano)という言葉があります。メキシコ系アメリカ人という意味で、もともとは差別的な語感をもっていたらしいのですが、いまではかれら自身が誇りをこめて自らをチカノと呼び、チカノ・アート、チカノ文学というジャンルが商業的にも成立するようになっているといいます。本書はそのチカノ文学の父と呼ばれる作家の処女作です。
 本書の舞台はニューメキシコ州のグアダルーペ周辺の田舎町、第2次世界大戦で日本が敗北する前後の数年間。ひとりの少年がいくつかの暴力的な死や宗教上の疑問という試練のなかで成長して行く姿が、かれの祖母ウルティマとの交流を軸にじっくりと描かれています。
 本書を読むまで、このメキシコ系の人々のことは、よくて善良なお人よし、悪くすると悪徳代官のメキシコ人版程度の浅薄な見方しかしていなかったことにあらためて気づきます。しかしながら、当然かれらの民族的なアイデンティティは複雑で、主人公アントニオの家系がそれを、あますことなく示しています。
 まず父方のマレス家(「海」という意味)は遥かな海を渡って新大陸にやってきたスペインの冒険者、 征服者(コンキスタドール)の末裔であることをなにより誇りにしている一族です。ヌエボメヒコ(ニューメキシコ)の大草原を風のように駆けぬけるカウボーイであるバケーロを一族の生業とし、自由と荒々しい男の矜持がその持ち味です。一方で、母方のルナ家(意味はもちろん「月」)は、おそらくは、原住民の血を身体に取りこんだという意識から大地に根ざし自然と共生しようという農夫の生き方を選んでいるんですね。しかし、哀しいことにバンケーロの生き方は、ニューメキシコ州が合衆国のものになった昔からすでに敗北者の生き方になっています。アントニオの父は、自由なバンケーロ時代のみを追想する酒浸りの工事人夫として町に住むようになる。
 アントニオは、この両親のまったく相反した価値観、いやもう少し踏み込んで言うと「血」そのものによって引き裂かれています。しかし、さらに面白いのはここに信仰が絡んでくるからなんですね。というのは、カソリックというのはもちろんヨーロッパから海を越えてやって来たものですが、それが頑迷なまでに染みついているのは農夫の生き方を選んでいるルナ家の方なんですね。アントニオの母親の最大の夢はかれがカソリック教会の神父になることです。反対にマレス家の人々にとってはカソリックというのは、まあ一応尊重はするけれど、それが全てではないと思っています。むしろ反対にマレス家の守護神ともいうべきアントニオの祖母ウルティマは、土着の精霊と意識を通わせ、善なる存在として人間の悪と戦う呪術師、魔法使いなのです。
 つまり、すこし乱暴に単純化すると、征服者は一緒に持ってきたカソリックという宗教を原住民に強制しそれに成功しながら、逆にかれら自身は土着の神々を信じるようになったわけですね。ここにある「ねじれ」はかれらチカノの自己規定におそらく大きな示唆を与えているように思います。アントニオからみるとカソリックというのはあまりに偽善的で、ときに無力です。善が悪に打ち勝つべきと少年は思っても、現実には神はいったいどこにいるのか、と思うような出来事が襲いかかる。そのなかで、大地の精霊と一体になって人間の尊厳を守り抜こうとする祖母ウルティマがなにを少年に与えてくれたのか。
 たぶん、引き裂かれた自己をふたたび取り戻すことためには、征服者と被征服者の両方を自分のなかで再び生かす方法を見つけることが必要なのだよ、ということなのでしょう。民族的な征服という非人間的な行為を歴史の傍観者として糾弾するような気楽な立場にチカノたちがいないことは明白です。おそらく何千年前、何万年前と繰り返されてきた人類の書き記されていない歴史をかれらはいまも生きているのだという気がしてなりません。

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