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  3. kamaさんのレビュー一覧

kamaさんのレビュー一覧

投稿者:kama

14 件中 1 件~ 14 件を表示

紙の本戦争中の暮しの記録 保存版

2001/09/15 09:35

伝え続けなければならないもの

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 毎年夏になると、必ず私はこの本を手にとる。
 戦争当時の暮しの様子、小学生だった人たちの疎開体験、東京大空襲に遭遇した人の話など、さまざまな戦争体験であふれている本だ。この本を、私がはじめて手にとったのは、小学校の高学年ぐらいの時。母から渡された。その当時は、暮しの手帖社の特集雑誌だったが、非常に反響が大きかったらしく、昭和43年8月に初版が出てから版を重ね、今私の手元にあるそれは、立派な装丁の保存版になっている。
 この本を私に渡した母の年を、今の私はとうに過ぎてしまったが、この年になってようやく、その時の母の気持ちがすこしわかるようになってきた。わたしの母は、終戦当時ちょうど10歳。食べ物に飢え、両親から引き離されて疎開し、空襲で真っ赤に焼けた故郷の夜空を眺めながらワンワン泣いたことなど、何度も何度も聞かされてきた。「その話もう何度も聞いた。」と言って、反抗期真っ盛りの頃はまともに聞こうとしなかったこともある。
 その私が、今母と同じ事を自分の子供たちにやろうとしている。もちろん、私は戦争を知らない世代なので、おじいちゃんはこうだった、おばあちゃんはこうだった等々、聞いた話を語り継いでいるにすぎないのだが、何度でも話したいのだ。まだ、我が家の子供たちは、いちおう聞いてくれるけれども、そのうちかつての私と同じような反応を示しだすに違いない。それでも、しつこく私は話したい。
 まだ外の世界では、内戦や紛争でひどい状態の地域があちこちにあるが、それを自分とは関係のないこととして、我が子等に思って欲しくないのだ。そういった状況が世界からなくなるようにするには、同じことを二度と引き起こさないようにするにはどうしたらいいのか。何ができるのか。自分のことはかりにかまけて若い時代を送ってしまった我が身に対する反省の念をこめて、いやがられてもソッポをむかれても、私は子供たちに自分の両親の経験を語り継ぎたいと思う。
 為政者の側からの戦争の記録ではない。一般庶民がこのようにあの時代を生きてきたかが、とてもよくわかる本である。子どもは子どもなりに読んで理解するコトができる本である。親という立場にある全ての人たちに、私はこの本を薦めたい。自分自身のためにも、あとに続く全ての人たち、まだ生まれていない子供たちのためにも、決して忘れてはならない事実の記録です。

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紙の本理由

2002/03/01 12:10

家族の光と闇のはざまで

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 少子化はすすみ、結婚年齢はどんどん高くなり、家族の構成人数も少なくなっている昨今。家族崩壊の危機! なんて声もよく聞こえる。家族の絆こそ大事! などと、家族をとりあげたTV番組も多い。そこから聞こえてくるのは「家族っていいよ〜! あったかいよ〜! 楽しいよ〜!」という大合唱。
 へそ曲がりの私といたしましては、「そんなことない!!」と叫びたいところだけれど、なんか袋叩きにあいそうで、あげる声もつい小さくなってしまう。ブツブツと下を向いて、遠慮がちに「そうかもしんないけどさ〜、でもね〜、ヤなところもあるんじゃないかなあ…」と1人ごちている。
 不登校や、ドメスティックヴァイオレンス(家庭内暴力)、少年犯罪の増加などの影には、家族の問題がかくれていることがとても多いのである。政府のオエラ方が、伝統的な家族の良さを強調されるけれども、伝統的な家族の悪さについては何もおっしゃらないのは、アンフェアだと思うのだが、いかがなものだろうか。
 このサスペンスの中には、そういった家族の闇が、毒が、たっぷりと含まれている。「家族こそ一番すばらしい。」という狂信が、逆に家族の闇を掘り起こしてしまう過程が、宮部みゆきならではの細やかな筆致で描かかれていて、読みごたえ十分。
 でも、その一方で、それでも家族に光を見ようとする作者の意図も、はっきりと感じられて、そこがこの小説の大きな魅力だ。
 どんなものにも良い部分と悪い部分がある。家族もまた例外ではない。その光も闇も両方とも愛したい。それは、闇に光をあてて、おぞましいものをピカピカに磨き上げて、漂白して一見きれいにしつらえ直すことではなく、闇は闇のままに、汚くみすぼらしいままに、まるごと受けとって認めてあげることではないだろうか。
 家族から逃げ、家族を完璧に否定した人物が、一番むごたらしく、悲惨な死を迎えるこのお話。私、大好きです。

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ぶつかってGOOD!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もうはるか昔のことになるが、大学を卒業する時、「社会」という大きな鍋の中に投げ込まれて、ぐつぐつ煮えているその中をあっぷあっぷしながら泳いでいく我が身を想像し、とても怖くなったことを覚えている。どうしたらうまく泳ぎきれるのかわからなかったし、もし溺れちゃったらどうしようと思うと、ずっと学生のままでいられたらいいなあ、と切に願った。あの頃の私には、「社会」は巨大で不気味な大鍋のようなものだった。
 もちろん、今でも「社会」が巨大で不気味なのにあまり変わりはないのだけれど、少なくとも若い頃の「大きな煮えたぎった鍋」というイメージはなくなった。「社会」というひとつの物体があるのではなく、無数にいる人間ひとりひとりの集合体が「社会」なのだ、ということがわかってきたからかもしれない。

 ひとりひとりが触れ合い、ぶつかりあいながら動いていくのが「社会」なのであって、あらかじめ「社会」という決まった形があって、その中に人々がはめこまれていくのではないのだ。私達は、まるで玉突きの玉のように跳ね飛ばされたり、ゆるゆると動いてちょこっと触れてみたりなど、いろいろに動いて「社会」という形を自分たちで作っているのだと思う。
 たくさんの玉の中をコロコロ動いているのだから、時には突き飛ばされてひびを入れられたり、へこまされたりすることもあるし、自分の方からぶつかっていって跳ね飛ばしてやったりすることもあるだろう。けれど、ぶつかりあっているうちに、ある一瞬、カチ〜ンととてもいい音がでることがあるのだ。相手と自分がちょうどいい力加減でぶつかって、快い音をたてることができた瞬間! この時の気分といったら、もう最高! 思い切って自分を相手にぶつけてみなければ、そんな音はたてられない。相手とぶつかって、ひびをいれられるのがこわいという若い人の気持ちは、とてもよくわかるのだが、あのカチ〜ンと言う音をぜひ自分で味わってみて欲しいのだ。

 この本の中に出てくる、作者を含めて9人の若い男の子たちは、そうやってあちこちでぶつかって、ひびをいれられて苦しんだり、ぶつかるのが怖くてころがりだすのを躊躇したりしながら生きている。転がり方は周りが決めることじゃない。自分で転がり方を決めればいいんだよ。どう働くかは、自分で作り上げていく事なのだから。

 若い作者は、自分と同世代の人の気持ちをとてもよく聴きとって、その結果、そういった境地に達したように感じられた。彼にインタヴューされた若者たちも、正直に心を開き胸の内を語っている。彼らの若さ、ナイーヴさがとてもいとおしい。だからこそよけいに、思い切ってぶつかって! イイ音だして! その一瞬は、きっと永遠に心に残る。

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紙の本六番目の小夜子

2001/08/17 20:47

戻れなくってかまわないけれど…

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 若い頃がなつかしいとか、あの頃に戻りたいとか、友人知人が言うたびに、いつも心中「私は絶対戻りなくない!!」ってかたくなに思っていました。あの頃の私は自意識過剰のオバケ。いっつもピリピリイライラしているくせに、絶対それを悟られないように意地張って、クールなふりして…。ああ、思い出すだに恥ずかしい。
 それなのに、この本と来たら、読んでいるとやたらに高校時代の出来事が脳裏によみがえってくる。恥ずかしい記憶だと感じながらも、やたらと胸がキュンキュンなるのです。なんでかな〜?
 三年に一度、サヨコと呼ばれる生徒が選ばれるという奇妙なゲームの伝統がある高校に、ある日転校してきた美少女を巡って、この物語は展開します。
 こんなクールで全てに万能な女の子に憧れたっけ。でも一方で、ちょっとドジで可愛い女の子にもなってみたかった。実際には、どちらにもなれず、すねて辛らつな物言いばかりしていたしらけた女子高校生でした。
 二度とあんな恥ずかしい年頃には戻りたくない。本当にそう思っています。けれど、気づいてしまいました。戻りたくたって、もう二度と戻れないのだ、ということを。こんな当たり前のことが、この本を読んだことで、心にグサッと突き刺さってきたのです。つくづくアホな奴、と我が身を笑ってしまうのだけれど、もう二度と戻れないと思うと、荒削りなあの年頃の自分が、なんともいとおしくなってきます。
 この物語が、無気味で恐ろしいサスペンスとしての側面を持ちながらも、なぜか甘酸っぱい雰囲気を漂わせているのは、そんな昔の記憶をはからずもよみがえらせる力を持っているからなのではないでしょうか。
 サヨコのゲームをめぐって、何人かの、なかなか魅力的なキャラクターの持ち主である登場人物たちが織り成す高校生活を、次から次に現れる謎の数々にどきどきしながら、心行くまで味わってください。とてもさわやかな読後感をお約束します。
 でも、それでもやっぱり、私は二度とあの頃に戻りたいとはおもわないんだけどね。

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アンヌの前にアンヌなし、アンヌの後にもアンヌなし

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 30代後半から40代のオジサンオバサンだったら、しらぬ者は無いはずのウルトラセブン。特に、ウルトラ警備隊の伝説の女性隊員アンヌさんことひし美ゆり子さんは、最近再び脚光を浴びて、TVにもよく登場するようになった。もう50代をすぎていらっしゃると思うが、とても美しく年をとられていて、温かみのある笑顔と、柔らかくて明るい声が印象的な女性である。
 この本は、その彼女が、アンヌ誕生からはじまって、ウルトラセブン全49話のエピソード、ご自分の女優としての経歴などを語ったものである。ポートレートや、プライベートな写真も満載。ファンはもちろんのこと、さっぱりとした明るい性格の彼女が、どのようにセブンに関わってきたかがよくわかり、読んでいてとても楽しい本である。ウルトラマンファンだったらまさにお宝モノでしょう。
 それにしても、オジサン達は、なぜにアンヌをこんなにも恋うるのだろう。ウルトラマンシリーズ数々あれど、今もってこんなに愛されているヒロインは彼女をおいて、他にはいない。もちろん、彼女がとてもステキな人だからであることは言うまでも無いんだけど、私は、彼女に代わるヒロインが、前にも後にも誰も現れてこなかったからではないかと、ひそかに思っているのだ。
 今のヒロインは、ナイスバディかもしれないけれど、バービー人形みたいで、触ってもプラスティックのようなさわり心地なのではないかと思わせるものがある。それに反して、アンヌさんは、人肌の温かさやふっくらした感触が感じられ、甘酸っぱい香りまでただよってきそう。男だったら、おそばによりたーい!なんて思うんじゃないだろうか。その当時、性に目覚めかけていた年頃の少年たちにとって、この方のインパクトは相当大きかっただろうなと推察できるのだ。それだけじゃなくて、どんなに傷ついた男でも、暖かく受け止めて、優しくなぐさめてくれそうな包容力もありそう。オジサンたち、彼女のそばで安らぎたくも、癒されたくもなるんだろうなあ。
 しかしながら、最近のヒロインたちはそんなに甘くない。子供達に人気のアニメを見てみるといい。優しくて控えめな女の子達はあまりいない。それどころか、男の子とほぼ対等に渡り合い、彼らを凌ぐ活躍もやってのける凛々しい女の子だらけである(私個人としては、こっちのほうが嬉しいけど)。とにかく、人生に疲れたオジサン達が安らげるヒロインは絶滅しつつあるのだ。
 まさに、アンヌの後にアンヌなし!でも、実際のひし美ゆり子さんは、三人のお子さんと年下の夫君、そしてお母様とともに、凛々しくたくましく明るく強く、どっこい生きてる!カッコイイ人だ!そこんとこ、勘違いしてはいけない。オジサン達!彼女の凛々しい生き方に乾杯。彼女に負けないようにがんばっていこう!

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紙の本非婚家族 3

2001/07/11 08:14

「結婚」という幻想

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ご存知恋愛の教祖、柴門ふみの最新作である。自分と同じ時代の空気を生きてきた同世代の女性漫画家として、私はずっと注目し続けてきた。いつも、作品には親近感を持ち、「そう、そう、そうなのよね!」とうなづきながら読んできたが、この作品からは、親近感というより鋭いナイフで胸を一突きされたような痛みを感じてしまった。
 第三巻の最終ページ。「あたし達…結婚しなきゃ…ずっと仲良しでいられたかもしれないのに…」という独白。男と女が恋愛して最終的にいきつく幸せが結婚という形である、というのは嘘だ。うすうす、そう感じていた。それでも、その結婚という形にしがみついている自分ってなんなのだろう。夫を嫌いではないけれど、子どもを愛しているけれど、家事に追いまわされ、したくもないのにPTAに参加し、したいことに一心不乱になれないこの生活。でも、ここから離れたら、生きていくのは至難であるということも身にしみてわかっている。
 こんな中で自分のやりたいことを追いかけるには、家事、子どもに関わること、老親のことすべてをしっかりやりこなさなければならない。そうでないと認めてもらえない。そんなプレッシャーを背負いながらの毎日は、正直言って、時々爆発しそうになる。
 柴門ふみも、夫(かの「島耕作」生みの親、弘兼憲史氏である)の妻として、二人の子どもの母親として、同じような思いをしてきたのだろうか。毎日の忙しさにまぎれて、とりあえず自分の感情を適当に飼いならして、生きていく日常。ふつふつと休火山の隙間から炎がわきあがってくるのを、押さえ込んでごまかして、見ない不利をしてきたのだろうか。これほどの人でもそうなのだろうか。
 こんな気持ちは夫には話したこともない。話すことで、余計なトラブルをおこしたくないというのはもちろんだが、好きな人の気持ちを乱したくない、嫌われたくない、というのも本当の気持ちだから。
 この作品をよんでいると、こういった普段は無意識に押さえ込んでいる割り切れない感情は、心の鎧を突き破って表面にでてきてしまうのかもしれない。
 「男と女のゴールは結婚ではない、結婚がむしろ男と女の関係を破壊する制度でもあることを、この時すでに、俺は気づいていた。」と、柴門は、主人公の的場洋介に語らせる。彼から離れていった妻、ひかるの涙にぬれたアップと、前述した彼女の独白で、第三巻は終わっている。この話はまだ完結していない。これからの展開を待ちながら、同時にこんなに胸がさわいでしまう自分自身ってなんなのか、振り返ってみる必要を、私は今かんじているところだ。今の幸せを守りたい、と思う一方、一度全部をぶっこわしたいという衝動もある。この気持ちを突き詰めていくと、とんでもないところに行き着いてしまうのではないか。パンドラの箱を開けてしまうのではないかという恐怖から逃れられないでいる。こんなふうに、本作品のこれからの進展を、こわいもの見たさ半分、期待半分で、楽しみにしている私って、なんなんでしょうかね?
 近年になく、読んで動揺してしまったこの作品。夫もち子持ち、そして老親もちの全ての女性たちに読んでみてもらいたい。そして、もし少しでも何かを感じたら、そこから逃げないで一緒に考えてみませんか。1人で考えるのはちょっとこわいから。

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紙の本プラナリア

2001/06/08 20:47

はがせない仮面

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 人は皆、外部の世界に対してそれなりに作り上げた仮面をかぶり、自分を演出しながら生きている。例えば、子供の前では母親の仮面、舅姑の前では嫁の仮面、夫の前では妻の仮面というように。それでも、TPOに応じて、仮面をつけたりはずしたりしながら自分を演じ分けられるぶんには何の問題もない。むしろ、そんな自分を楽しんだりさえできる。困るのは、仮面をつけはずしするのがうまくできなかったり、ある一つの仮面がはりついたままはがせない事態に陥ってしまうということだと思う。自分が仮面をつけていることにすら気付かないということもあるだろう。その仮面さえはずせれば、正直なありのままの自分を外の明るい光の中にさらし、心地よい風をいっぱいあびて、思う存分きれいな空気を吸えるのに、その仮面がはりついているばっかりに、やたら息苦しく落ち着かない。その仮面の正体とは、まだ小さな子供の頃に、知らないうちに親兄弟や回りの環境によってつけられた「哀しい子供」という仮面である。
 この本に登場する主人公達は、皆その仮面をはずさない、もしくははずせないままに大人になってしまった人達である。それでも、周りの人たちとうまく適応して、やっていられるうちはよかったのだが、ある挫折をきっかけに、仮面の存在が邪魔になってか本来の自分を見失い、ボロボロとくずれ落ちていく。
 この短編小説集のタイトルにもなった「プラナリア」のヒロイン春香は、親のずさんな食生活のせいでデブになっていじめられた子供の仮面を、「ネイキッド」の泉水は、成績の良し悪しでしか両親が自分を認めてくれない子供の仮面を、「どこかではないここ」の真穂は、母親に過剰に干渉され、まとわりつかれる子供の仮面を、「囚われ人のジレンマ」の美都は、愛という名のもとに自分を支配する父親に恐怖する子供の仮面を、そして「あいあるあした」の誠(これだけは男性が主人公だが)は、グータラな父のために美容師として苦労した母親を見ながら育った子供の仮面を、はずせないまま大人になってしまった。それら仮面の存在がもしなかったら、彼らはこんなに息苦しい思いをせずにすんだのではないだろうか。ありのままの自分にもっと早く出会えていれば、自分の希望や夢をのびのびと育てていたのではないだろうか。
 しかし、たとえ仮面の存在に気がついたとしても、これをひっぺばすのは容易ではない。はがす時の痛みは大変なものだろう。仮面はもはや、自分の一部分になってしまっているのだから、肉もろともひきはがすしかないだろう。そう思うだけで、仮面に手をかけるなど、とてもこわくてできないかもしれない。こわくてどうしよう、これから先どうやろう、という迷い苦しみを抱えたまま、全ての小説はエンディングを迎える。
 だが、決着がついていないということは、エンディングはそのままスタートにもなりうるということでもあるのだ。ラストで、息子をぶん殴った「どこかではないここ」の真穂にしても、離婚して別れた後も、素直に育った優しい娘が、髪を切ってもらいにやってきてくれる「あいあるあした」の誠も、みんなみんなこれからだ。私は、呪文のように彼らに向かって繰り返す。「仮面をはがせ、仮面をはがせ。はがせば、明るい未来が見える」と。
 ただし、とっても明るい未来、すばらしい光あふれる未来とは、断言いたしかねる。ひとりひとりの努力に期待するしかございません。

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紙の本裏庭

2001/05/25 20:09

天国から最も遠い者たちへ

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 なぜ子供と老人は仲がよいのか?それは、両者がともに天国に近い存在だからだ、という。子供達は、まだ天国からこの地上にやってきて間もない存在として。老人達は、もう少しすれば再び天国に戻っていく存在として、お互いに同じ場を共有する者どおしの連帯感を感じるのだろうか。

 してみると、一番天国から遠いのは、我々中高年世代ということになる。現世の俗にまみれまみれて、アップアップしながらも、けなげにがんばっているというのに、一番天国からは遠いとはねえ…。

 しかし、しかし!両者に挟まって、おろおろとその間をいったりきたりしているのも、やっぱり我々中高年。子供時代は、今まで来た道だし、お年寄りは、未来の自分の姿。なんとなく、両方の事はわかったような気にもなっている。そこに大きな間違いがあるのかもしれない。わかった気になっているだけなのかもしれない。

 この本を読むと、そのとおりだなと思わざるをえなくなる。かつての子供時代の記憶は確かに残っているとはいえ、俗世間の埃にまみれて、ぼやけて変質していることも多いし、知らないうちに今の自分に都合のいいようにねじまげて認知していることもままある。

 わかっているつもりが、気がつくとこどもはすぐそばにいるのに、心はどこにあるのかさっぱりつかめなくなっていたり、お年寄りともギクシャクしてしまうのは、きっとそういうところに原因があるのかもしれない。

 「裏庭」を読んでみて、わかっているつもりの自分に気がついた。子供だった自分がじわじわと心の奥から浮かび上がってきて、とても暖かい、なつかしい気持ちになった。そして、これから年老いていく自分に思いをはせることができた。天国に近い皆に、もうちょっと違った形で手がさしのべられそうである。

 かつて英国人の一家が住んでいた別荘の奥深くにある「裏庭」の世界。そこに誘い込まれた少女、照美。彼女の冒険の旅路を、共に歩みながら、私たちは再び天国に近かった自分を見出すだろう。そんな子供達に心からの共感をしめす老人達からも、これからそんなふうになれたらいいなあと思える未来の自分が想像できるだろう。

 天国が遠いお仲間達に、ぜひこの「裏庭」を読んでもらいたい。子供だった自分にOK! 老い行く自分もOK! 人生のまんまん中を突っ走ってる今の自分にもOKサインが送れるよ。

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紙の本落花流水

2001/04/30 15:32

幻想から解き放たれて

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 まずタイトルを見て、読者はどんなイメージを思い浮かべるだろうか。透明な水の流れに乗って、真紅のつばきの花が、ひとつふたつと流されていく。川の岸辺には緑の木々。花の赤い色とのコントラストが目にしみる。そんなふうに、この小説も流麗で物悲しい、ロマンティックなものなのではないか…。そんなふうに想像するのではないだろうか。
 ところが、この期待はものの見事に裏切られてしまう。一言で言えば、一人の女性の一生をつづったものなのだが、かのモーパッサンのそれとは似ても似つかない。女の一生といえば、不幸な出生や、悲しい運命にもかかわらず、ひたすら耐え、美しくけなげに生き抜くヒロインといった想像をしがちだが、この話に登場する手毬という可愛らしい名前をもつ女性は、確かに不幸な出生ではあるが、耐えるどころか、ふてぶてしく運命に刃向かい、感情のおもむくままに生き、周りの人間をその自分勝手ともいえる生き方に巻き込んでいく。
 作者は、タイトルにおいても、内容においても我々読者の裏をかいてみせたのだろうか。それが、作者の意図するところだったのだろうか。そう信じそうになった私だったが、最後まで読み進むうちに、否!という気持ちになっていった。
 もともと水の流れは、きれいでも澄み切ってもいなかったのだ。それは、人々の生活から出る汚水を含んだ濁った流れで、ごみ芥がところどころに浮かび、そこに落ちる花も、枯れて腐って汚らしくその色を変えており、美しくもなんともなかったのだ。
 不幸に打ち勝って、けなげに生きるなんて絵空事。不幸は不幸を呼び、ひどい仕打ちに苦しんだにもかかわらず、それと同じ事を繰り返して生きていくというほうがむしろ現実に近い。こちらが勝手にありもしない幻想にとらわれていただけだった。それを言いたいがために、作者はこんなきれいなタイトルで、自分の作品を飾ったのではないだろうか。
 もしそうなら、こんなに効果的なタイトルはあるまい。七章からなる本書は、その章ごとに語り手が変わる。ヒロイン自身という章もあれば、ヒロインの初恋の男の子だったり、母親だったりと変化に富んでおり、それがこの話に立体感を与えている。読者は、それぞれの章の語り手に感情移入しながら読み進めることで、ますます深みにはまるという、なんとも巧妙なしかけになっている。山本文緒のストーリーテリングのうまさが如何なく発揮されている小説である。

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紙の本ぐるぐる日記

2001/04/02 16:40

ランディの渦巻きグ〜ルグル

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 田口ランディという大きな渦巻きの求心力はすさまじい。何でも手当たり次第、ひっかかったものを巻き込んでどんどん膨れ上がっていく。彼女の好奇心と、行動力がその渦巻きの原動力。ぐるぐる回りながら、その周辺のさまざまな事象を吸い込んで、巨大化していく。そのうねりに、ほかの渦巻きも呼応するように重なって、いつしか時代をとらえた。今、「癒し」の時代と言われているけれど、彼女はその時代の申し子のようだ(もっとも、本人は、こんなこと言ったら、きっと「ばっかばかしい!」と笑い飛ばすのだろうが)。

 私も、彼女の渦巻きぐるぐるに巻き込まれた一人である。でも不思議だ。こんなに勢いよくまわっているのに、その中心点は、ぽっかりと真空だ。そこは、とても静かで、周りの喧騒が嘘のようなのである、台風の目のように。

 その一見からっぽの場所にはいったいなにがあるのだろう。

 「愛」だ、と思う。彼女の巨大な渦巻きの源には、静かな「愛」がある。その愛は、さまざまな事柄に向けて放出されるけれども、同時に自己にも向かって放たれる。静謐の間をしっかりと確保している。そうでなければ、渦巻きの求心力はこんなにも大きくはならない、と私は思うのだ。そのからっぽを、きっと彼女はとても大事にしているのではないだろうか。

 すっかりメディアに露出して、あちらこちらにひっぱられて、多忙をきわめるようになったであろうランディさん。どうぞ、その渦巻きの中の静けさを大切にして、これからも豊潤なイマジネーションを、私達に提供していってください。そんなこと、言われるまでもないよ、という彼女の声が聞こえるような気がする。

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紙の本iモード事件

2001/03/31 23:04

EビジネスのEは、EmotionalのE

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 軽く読める本、と思って読み始めた。確かに、最初はどんどん読み進めていけた、が、後半から、ぐっとスピードが落ちた。あまりにもおもしろすぎて、読み飛ばしていくのがもったいない。そう思ったから。ひとつの企画が立ち上がって、形をなしていくプロセス。立場の違う人々のぶつかりあい。広報宣伝のやり方などなど、とても臨場感があり、文章もリズミカル。その場の雰囲気がとてもリアルに伝わってくる。

 締め切りが迫ってきたオフィスの中。表に出て食事する余裕すらなく、食べたカップラーメンが、ごみ箱に山と積みあがっている様子。うまくいったという知らせがはいって、自分のデスクから近くの人に知らせたら、それがさざ波のように、オフィス全体に伝わっていくその感じ。目に浮かぶようである。作者は、感性の人だ。周りの状況を、五感全てを動員して吸収し、私達に伝えてくれている。そして同時に、理性の人でもある。メンバー一人一人の個性、能力を冷静に把握して、見事に生かしきる。反発しあう要素があっても、両方の良さを潰すことなく、上質のオーケストラを作り上げ、最終的には、iモードという、今の日本を席巻した大ヒット作品を奏でる。

 コンピューターというと、二進法というわけのわからない数学を元にして作られているという、硬質で、冷たいイメージが私にはあったのだが、作者は、臆することなく、自分なりに理解して、消化して、やわらかく加工して見せてくれた。

 どんな道具でも、使いこなすのは生身の人間だ。やり方さえ間違わなければ、道具に振り回されることなく、上手に自分の支配下に置くことができるのである。そういうことを、松永さんは、理屈じゃなくて、私達の感情に訴えて、教えてくれた。機械音痴で、食わず嫌いの私は、心から、彼女にありがとうと言いたい。

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紙の本シュガーレス・ラヴ

2001/08/07 19:08

あらかじめ用意された挫折を生きる

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 いつも最後に裏切られる小説。山本文緒さんの作品を、そのように位置づけて読んできた私ですが、今度ばかりは違いました。最初のタイトルを見ると、主人公がどんな困難を抱えているのか、すぐにわかるからです。我々読者は、主人公の不幸を承知の上で、読み進めていくのです。彼女達がどんなふうに、どんな思いで、骨粗しょう症や、自律神経失調症などのトラブルに相対しているのか、大体想像通りに展開します。そうなると、終わりはどうなるのかなんとなくわかるような気がしてくるのです。ゆえに、こっぴどい裏切りに会うことは無いのです。あ〜、やっぱりね、といった感じで読み終えるのです。
 山本文緒さんの小説には、完璧なハッピーエンドなどありえません。ありのままの現実を淡々と、なおかつ少々衝撃的に、私たちに見せてくれる。これは、彼女の全ての作品において言えることで、この短編小説集も、その点ははずしておりませんでした。
 どんな人の人生にも、完璧な不幸や、100%の幸福は存在しません。いろんな問題やトラブルを抱えたまま、さまざまなリスクが織り込まれた生を、全ての人は生きているのですから。そのリスクをよきものとするか、悪しきものとするかは、それを生きる人次第。
 この本の中の全ての主人公達は、なんとか自らの不幸を、手のひらに乗せて、ころがすようにして眺めつつ、捨てることのかなわぬソレに、時折ため息などつきながらも持ち続けていくのです。
 彼女達の挫折は、もしかしたら挫折などではなく、むしろ至福なのかもしれないとすら思えてきます。
 あれっ? これって、やっぱり最後で裏切られたということになるのかな? だとしたら、やっぱり山本文緒は、裏切る小説家。恐るべきストーリーテラーです。

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紙の本なぜ仕事するの?

2001/03/07 14:56

「なぜ仕事するの?」をなぜ読んでしまうのだろう?

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 もう一度仕事をしたい(パートじゃなくてね)と思い続けて、4年ほど経った。再就職のための学校にも通ったし、本もしこたま読んだ。やりたいことも見つかったし、すぐに就職には結びつかないながら資格もとった。それなりに、プランはある。けれども、悩む。迷う。家事は手につかず、部屋に埃はたまり、何にもできずに時間がすぎてしまうときは、落ち込む。理屈ではわかっているつもりなのだけど、感情が納得しないのだ。
 そんな時に、本屋で見かけて買ってしまったのがこの本。「就職ジャーナル」「とらばーゆ」の編集長を歴任し、iモード開発の立役者として、押しも押されもせぬ松永真理さんの本読んで、少しは元気になるかなあと期待したのだが…。恐れ多くも感じたことは「なんだ…私とおんなじじゃん。」年齢のことや、結婚のこと、転職のことなどなど、すべて昔私が悩んできたことばっかり。
 たった一つ違ったのは、彼女が、安全よりもリスクとスリルを選び取ったということ。それは、とても大きな分岐点だった。そして、20数年前の働く女性たちのほとんどがとらなかった道だった。今の私がこうなのは、その時安全を選んじゃった報いなんだと、気がついた。そして、今ウジウジしているのは、リスクに向かってジャンプする勇気がなかなかでないからだった。この本を、そのジャンピングボードとして使おうと、どうやら思っていたみたい。この本読んでも、ジャンピングボードは見つかりません。悩みも消えません。答えは自分の中にしかない!改めて悟りました。
 ただ、今の20代、30代の働く女性たちには、この本はどう読まれるのだろうか。私とは、ちょっと違うような気がする。否、違っていて欲しい。「こんなこと、あったりまえじゃん!」と、この本投げ捨てるような女たちが多くなっているとしたら、きっと未来は明るいぞ。

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紙の本群青の夜の羽毛布

2001/03/22 08:28

私が恐怖の母、母は私の恐怖

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 主人公のさとる、妹のみつる、そしてこの二人の母。三人ともが、自分だ。そう感じた。三人とも、私の中の一部分。読み進むと、それにつれて、私の中の分裂した三人の自分が、争い、泣き喚く。傷つけあう。
 冷酷に子供の心をさいなむ母である私が、自分の弱さとこずるさにきちんと向き合えないさとるを罵倒すると、卑屈で弱い娘の私は、声を上げずに涙を流す。そして、それを見ながら、助けるでなく、かといって見捨てるでなく、気をもみながらも、どうしていいかわからず、影では好き勝手なことをしているもう一人の娘。
 子供の心を平気でふみにじる母はこわい。でも、それは私の外からやってくるのではなく、私の中から生まれてくる。どこにもにげられない。時々現れるこの恐怖を、私は無理矢理心の奥底に押し込めて、何とかやり過ごす。このたびに、私の中の娘は深く深く傷ついていく。それらを見ないでいるために、てじかにある快楽に落ち込んで、無為な時間を浪費するのだ。
 こんな気持ちは男の人にはわかるまい。でもね、男達よ。少しはわかりなさい。少なくとも、顔をそむけないほうがいい。そうしないと、いきなり後ろから襲われる。そうなってからじゃ、遅いんだよ。かつて、盲目のフォークシンガー、長谷川きよしは、『男と女の間には、深くて長い河がある』と歌った。たとえ、向こう岸にたどり着けないまでも、船をこいでそばまで行ってみてください。もっともその結果、幻想がボロボロとくずれ落ちても、当方の知った限りではありません。

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