サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 市原健太さんのレビュー一覧

市原健太さんのレビュー一覧

投稿者:市原健太

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本回送電車

2001/08/16 23:21

いつもよりうんと力強い、確信的なエッセイ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小説ともエッセイともつかない、著者自身は雑文などと言うのだけれど、その捉えどころのない文章にいつのまにか引きこまれて、曖昧な気分をずっと続けながらも最後まで読んでしまう。堀江敏幸の文章にはそんなとても不思議な魅力がある。誰もが人の声に掻き消されぬよう大声で怒鳴り合っているような現在の文壇のなかで、彼の立場は控え目でさり気無く、また曖昧な場所にあくまで留まろうとするのだが、そのような文章世界を保ち続けるのはむろん容易なことではない。
 「回送電車主義宣言」という冒頭のエッセイでは著者らしからぬ力強さ、いつにないきっぱりとした口調でその世界を保ち続けようという宣言がなされる。「急ぎの客には何の役にも立たず、しかも役立たずだと思われること自体仕事の意義がある」という回送電車の存在を文壇内の自分の立場になぞらえ、小説・エッセイ・評論というそのそれぞれのあいだに存在しようという決意が語られる。
 著者の文章の本領はその博覧強記からくる題材の幅の広さで、有名どころからマイナーなまで、さまざまな文学作品が一つのエッセイの中に上下の隔てなく並べられる。またそれが時空を関せずに唐突に結び合うのだから始めて読む人は面食らうかもしれない。
 「熊の敷石」で芥川賞を受賞した後、このはじめてのエッセイ集はいつもよりずっと肩の力が抜けていて、時空間のねじれもずっと少なく、著者の自然に近い生活を知ることもできて、初めて読むにはいいのではないだろうか。
 本当にそんなことがあったのかと問い詰められても困るけれど、八十年代に内田百間が流行ったことがある。旺文社文庫が出て、その後河出文庫でも何冊かが出た。先日、その百鬼園先生の阿房列車の旅にいつも随行したヒマラヤ山系こと平山三郎が亡くなったことを知った。このエッセイの中に出てくる「ねじり棒パン」の件、二人で車窓に並んで坐って、ああだこうだと無為なことをいつまでも喋り合っている姿が思い出されて、またそれが堀江敏幸の現在の文章にも繋がっているんだと知り嬉しくなった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本アメン父

2001/04/07 14:24

伝記から逸脱した伝記

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 巻末の著者目録を見ればほんとうにたくさんの本を出していることがわかるのに、そのうち新本で読めるのはほんの僅か。小説としてはこの「アメン父」だけというのはやはりひどすぎるのではないだろうか。保坂和志や堀江敏幸のエッセイのなかで語られる田中小実昌の小説を読もうという若い読者も多いのではないか。誰に言うともなく何とかならないものだろうかと独り言を言ってみる。
 「アメン父」のアメンはアーメンの意。明治時代にアメリカでキリスト教の洗礼を受け、広島・呉に十字架のない一風変わった教会、どの派にも属さない独立教会を開き、終生アメンに刺しつらぬかれて生きた著者の父親の生涯が語られる。生真面目な父親の生涯がコミさんというキャラクター、生真面目さから遥か遠くにある田中小実昌の文体で綴られてゆく。
 しかし酒ばかり飲み、ぶらぶら歩きまわり、屁理屈ばかり言いというおよそ生真面目さの正反対に見える著者の生活が幼少時からこの一風変わった教会の中で培われてきたということ。また不真面目な暮らしのなかに確かに父親の生真面目さが入りこんでいるということ。思春期でのそのような体験が後に哲学への興味につながったことなど、この小説は田中小実昌という、とかく全体像を掴みにくい作家の出自が明かにもなる小説なのだ。
 コミさんの出自と同じくらい父親は魅力的な人物として写る。著者が丹念に描き出す教会の建物や庭の様子、父親とのエピソード。生真面目なくせに軽い、重くなることを嫌いどこか飄々とした父親の姿はやはり著者とつながっている。どこが同じでどこが違うのか。同じだから、また違うからこそ異なった人生を生きる二人の差異が一見だらだらとゆるく書かれているように見える文章のなかに見え隠れし、不思議な緊張感を読むぼくらに強いているのだ。
 「この本は父の伝記でも、ぼくの父へのおもいででもなく、(いまでも)アメンが父をさしつらぬいていることを、なんとか書きたかった」とあとがきで記しているのだが、その「(いまでも)」という言葉のわからなさ、時間の奇妙な捉え方がぼくらのうちに残り続ける。整理して語ることなどぼくにはできないのだが、だからこそ何度も読み返したくなる小説なのだということは間違いない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

これからアイリッシュ・トラッドを聴こうというのなら…

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本の訳者、守安功は自らもリコーダー、ティン・ホイッスルを演奏するミュージシャンでもあり、さまざまなワーク・ショップを開きながらブーム以前から積極的にアイルランド音楽を日本に紹介してきた。また一年の半分をアイルランドで過ごしながら現地のミュージシャンたちとの演奏活動をしながら暮らすという、いわばこのアイルランド音楽の入門書を訳すにはまさににうってつけの人物だ。
 ここ数年アイルランドから名うてのミュージシャンが大挙して来日を果たし、居ながらにして素晴らしい演奏を聴くことができるようになった。伝統的な民俗音楽という地味なジャンルにも関わらず、実際エネルギッシュで親しみやすいライブを体験すればこの音楽にはまってしまった人も多いのではないだろうか。しかしまだまだ情報は少なくて、本気でこの音楽を勉強しようという人は洋書を取寄せて辞書を片手に学ばなくてはならないだろう。
 キアラン・カーソンという詩人が書いた『アイルランド音楽への招待』という素晴らしい本がやはり音楽之友社から出ているのだが、実用書としてはもう一つ格調が高すぎる。この北アイルランド生まれの女性フィドラー(バイオリン弾き)が書いた『アイルランド音楽入門』は各所に妖精譚を挟みながら音楽の成り立ち、ダンス、構造、使われる楽器、以前から今までのさまざまなミュージシャンの紹介など、一通りのアイルランド音楽についての知識がたくさんの図版とともにとてもわかりやすく書かれている。
 僕自身アイリッシュ・トラッドのバンドを二年ほど続けているのだけれど、自分の勉強不足を棚に上げて、この本ではじめて知ったこと、はじめて言葉にできたことがたくさんある。
 まずこの本を読むこと。そこから深奥へと踏み込んでいけば迷うことも少ないし、もっともっと楽しめるのではないだろうか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本装飾の神話学

2001/03/09 02:02

装飾こそが掬い上げるもの

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 鶴岡真弓は日本におけるケルト・ブームを牽引してきた第一人者であると言っていいだろう。たくさんのケルト文化・美術・歴史書の翻訳、「装飾的思考」をはじめとする著作、美術展や雑誌における特集の企画、龍村仁の映画「地球交響曲」への出演、NHKのテレビ講座への出演などさまざまな場所でケルト文化を紹介して来た。彼女がいたおかげでこの国におけるケルト・ブームは一過性の上辺だけをなぞった文化紹介に留まらず、それは四〜五年前よりこの国に細く長く根付き始めたと思う。
 編み物雑誌に連載されたこのエッセイ集はケルト以外にも、さまざまな場所に現れる装飾物を扱っている。螺旋・組紐文様などお馴染のケルト文様から古代ギリシアの陶器装飾、インド・カシミールに起源を持つペイズリー柄、エジプト人が崇拝した聖なる花ロータス、モザイク、グロテスク文様、そしてウィリアム・モリスのテキスタイルやC・R・マッキントッシュのハイ・バック・チェアー、クリムトやミュシャやモネの絵画のなかに現れる装飾たち。
 西洋美術史のなかで今まで軽んじられて来た装飾という行為、大文字の美術の刺身のツマとして扱われて来た装飾というタームに光を当て、それがどのように機能して来たかを解き明かす。またその大文字の美術には掬い取ることのできないものを確かに装飾こそが拾い上げているという論考には考えさせられた。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本生きる歓び

2001/03/09 01:56

生と死の向こう側まで届く言葉

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者にとって新聞小説、「もう一つの季節」以外ほんとうに久しぶりの小説だ。しかし小説を成す二つの中篇はそれぞれ四日、七日間という極短い時間に一気に書き上げられている。その文章はエッセイだとも言えば言えてしまうのだろうが、著者自身が言い張るようにそれはやはり小説に違いない。
 偶然出会った瀕死の仔猫を家に連れ帰って看病するうちに、部屋の中を飛びまわるほど元気を取戻していく猫の様子に「生きる歓び」を見出すこと。田中小実昌という、生活から乖離した哲学的な言葉を使わずにしかし哲学と対峙できるような小説、つまり保坂和志のような小説を一世代前から書き続け著者に大きな影響を与えた作家の死に対する長い長い追悼文。つまりこの小説集では猫の生と作家の死という著者の上に偶然起こった生と死がモチーフに取られている。
 生と死を言葉で表現することがどこまで可能なのか。生きる歓びという言葉や死の向う側という概念をどう言葉で言うことができるのか。一見エッセイとも小説ともつかないゆるいスタイルで書かれた文章の中で、その臨界点を追い越す瞬間、生や死の向う側にまで言葉が届く瞬間をぼくらは幾度か見つけることができるかもしれない。
 著者はさまざまなエッセイ(近著では筑摩書房から「世界を肯定する哲学」)やネット上で自らの小説論や小説作法を積極的に開示している。合わせて読めばその臨界までに迫るスリルが鮮明に浮き上がってくる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

5 件中 1 件~ 5 件を表示