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先月(2017年6月)

小林浩さんのレビュー一覧

投稿者:小林浩

3 件中 1 件~ 3 件を表示

「9・11」前後の世界を語るためのキーワードはすべてここにあった(後編)

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 本書は10篇の論文から成るが、特に最後の2篇「消滅の政治学」「彼方の戦略」は今なお非常に重要である。いや、重要という以上に、それは一つの「戦慄」そのものである。「9・11」以後においては、ヴィリリオの戦争論とグローバリゼーション論は恐るべき精度を持った予言であったことが分かる。聖戦という亡霊の跳梁、超国家的警察力の台頭、強化された国家安全状態としての内戦、自由世界の防衛という大義、予防的戦争行為の一般化……等々、「9.11」を語るべきすべてのキーワードはすでに本書のうちにある。「テロの時代が到来した」と彼ははっきり述べている。しかし正確に言うならばそれは「予言」というほどの神秘であったのではない。むしろごく当然の帰結をヴィリリオは語ったに過ぎないのだが、それをやはり図星だったと悔やむ政治家は残念ながら多くはないだろう。彼の言葉通り現代人は純粋戦争の只中に生きてきたのであり、今なお純粋戦争は続いている。この戦争は際限なく継続され、止めることができなくなってしまっており、諸国家の政治的経済的命運を否応なく引きずっていく、とヴィリリオは警鐘を鳴らす。純粋戦争の時代における「知の軍事化」に彼は断乎反対する。巷の昨今の「スローライフ」議論と対照させながら本書を読むこともできるかもしれない。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年9月23日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

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進行中の水戦争の実態を暴き、水の独占から水の民主主義への転換を提唱(前篇)

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 断言しておくと、本書は先に刊行された『バイオパイラシー』(緑風出版)とあわせ、現代人必読である。21世紀は「水資源をめぐる争いの世紀」である。これまでクレアの『世界資源戦争』(広済堂出版、2002年)やド・ヴィリエの『ウォーター 世界水戦争』(共同通信社、2002年)などを読んですでに知識のある方も、はじめて読む方にもお奨めしたい。水をめぐる話題は、身近なものから、規模が大きすぎてなかなか認識できない問題まで、現代人の生活全体を覆い、かつ支えている。例えば近年では日本の多くの家庭が、水道水ではなくミネラル・ウォーターを飲料水として常用しはじめていると思われるが、そもそも15年ほど前までなら、まだ「何で水にお金を払わなければならないんだ」という認識が強かったろう。今や世界的に水ビジネスは急成長しており、もはや後戻りができない地点に現代人は立っているということを、本書は様々な国際情勢の分析を通じて教えている。水資源確保に打撃を与える環境問題や政治的経済的な利害をめぐる諸問題を論じ合うために、先月(2003年3月)に京都で行われた「世界水フォーラム」は、実に重大な意義を持つ国際会議だった。しかしその重大性は、米英とその同盟国(間違いなく日本もその「一味」である)によるイラクへの武力行使の開始によって、すっかりマス・メディアの報道では後景に退いてしまった。182の国や地域から24,000名もの参加登録者がいたことや、新たな声明文が発表されたことは「大きなニュース」としては扱われなかった。ともすると今回のフォーラムがすでに「三回目」であることすら、知らない人がいるかもしれない。詳しくはフォーラムのウェブサイトで見ていただくとして、関心がある人もない人も、シヴァが本書で警告した「水戦争」とは無関係ではいられないということだけは知っておく必要がある。

後篇へ続く

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紙の本世界コミュニケーション

2002/12/19 18:02

批判理論とシステム理論を乗り越え、新しい文化の視座を拓く試み

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 現代ドイツ屈指の論客が2001年に刊行した著書の邦訳である。ハーバーマスなどフランクフルト学派による批判理論の有効性の破綻を大胆に宣言し、現代社会を捉え直すための新しい枠組みを提示しようとする野心作だ。ボルツは現代を「世界コミュニケーション」の時代と呼ぶ。「経済がグローバル化し、政治が国家の枠を超え、世界規模のコミュニケーションが日常的現象になっている」のは疑問の余地がない、と。この時代を特徴づけるのは、世界とは「コミュニケーションの及ぶ範囲」であると理解されるということと、知覚の対象から空間の次元が後退し、現在的で一時的な時間が前面に出てくるということである。さらにこの時代には、メディアによる現実操作の魅惑と「技術のフェティシズム」が社会を覆い、世界中を結ぶ「単一世界」が演出される。フランクフルト学派が掲げる「理性」信仰はもはや頼りにならない。ボルツはそう指摘して、ルーマンの社会システム論を援用しつつ、批判理論でもシステム理論でもない、新たな世界像と文化理論を練り上げていく。空間論から時間論およびメディア論への移行。それは例えば隣国フランスのヴィリリオやボードリヤール、レジス・ドブレらが多くを語ってきた分野だが、ドイツでもボルツやキットラーを代表格に、従来の知のあり方を鋭く再審する機運は高い。本書では知のあり方を問う姿勢が、知識社会やユートピア像を問う姿勢ともなり、コミュニケーション技術の加速が変幻させる社会へと接続された人間の新しい身体が、やがて知を変容させていくという、一種の「変容のループ」にたどり着くことになる。このループにおいて哲学もまた変容する。理性や道徳による自己権威化を脱するために、宗教的問いが示唆するものをボルツは再評価しようとするのである。日本人にとってこうした「宗教への回帰」は陳腐なもののように映るかもしれないが、それは甚だしい勘違いだ。宗教的問いとは、「意味」を問うことである。それは、学術的探究が目指す〈真理と非真理との峻別〉や〈倫理的分別〉とは異なる次元を開く問いなのである。「宗教的な問いは、信仰の盲点から学術の盲点へと、注目の視線を移動させる。そうなれば、神とは学術の盲点の一シンボルであることが判るであろう」。そうボルツは述べる。彼が回避しようとしているのは、学術的「神学」であり、神学的なものと宗教的なものの混同ではなかろうか。メディア(論)の究極的進化の彼方に神が立ち現れるわけではない。その意味で、ボルツは単に新しいだけの知の形態を水平的に拡張したいのではなく、知の淵源へと垂直的に掘り進んでもいるのである。ともすれば難解になりがちなあまたの翻訳書と違い、村上氏の翻訳は文脈を活かした読みやすいものとなっていることを、最後にぜひ特記しておきたい。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2002年12月17日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

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