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  3. 梶谷懐さんのレビュー一覧

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先月(2017年3月)

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    3月のライオン(1)

    3月のライオン(1)

    羽海野 チカ(著),先崎 学 (将棋監修)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

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    はらぺこあおむし 改訂

    はらぺこあおむし 改訂

    エリック=カール (さく),もり ひさし (やく)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

梶谷懐さんのレビュー一覧

投稿者:梶谷懐

67 件中 1 件~ 15 件を表示

安直な中国叩き本が多いとお嘆きの貴方に

24人中、24人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中国における反日的な動きが日本でも盛んに報道されるようになったここ数年、書店に並ぶ反中・中国叩き本の数もめっきりと増えたが、その多くはおなじみの人たちが劣化コピーのように同じ内容を繰り返している類のもので、いい加減食傷気味の人も多いと思う。そんな人にこの本を「別腹」としてお勧めしたい。
 この本の元になったのは、著者が『サピオ』や『諸君!』などの保守系の雑誌に発表した一連の現地レポートや関係者へのインタビュー記事などだ。それらは、「現場」「当事者」への食い込みの度合いにおいて、発表当時から群を抜いていた。例えば西安寸劇事件や上海の留学生の殴打事件といった今では広く知られた事件について、事件当事者に直接インタビューを行って真相を検証しようとしたのはほとんど著者一人だった。このほかにも本書には、それまで全く素顔が知られていなかった中国の「反日」活動家たちや、かつての中国で盛んに撮影された「抗日」映画で日本兵を演じてきた葛存壮(中国の個性派俳優・葛優の父親)ら往年の名優へのインタヴューなど、貴重な生の情報にあふれている。だが、本書のもつ意義はそれだけにとどまらない。
 著者の水谷さんは、もともと日中関係史を専門とする歴史研究者で、これまで旧日本軍の細菌戦部隊の関係者や、中国共産党の対日本人捕虜工作を担った人々などへの詳細な聞き取りに基づく研究を発表している。これをもって、彼女は以前は「左翼的な研究」を行っていたのに、最近は「転向」して保守系雑誌に書くようになった、という人もいるが、それは皮相な見方である。著者は、この本に掲載されたような反日記事を書く傍ら、以前の仕事の延長上にある地味な論考も発表し続けているからだ。
 実は、一見相容れないように見えるこれら二つの系統の仕事は、お互いそれほどかけ離れたものではない。例えば、著者の以前の仕事に連なる「康大川回想録」(雑誌『東方』に連載)では、国交断絶時代に日中両国の架け橋とならんとし、それゆえ政治の波に翻弄された人物への深い共感がみられる。また本書では、現在のこじれた日中関係の中で立場こそ違えなんとか「対話」の糸口を探そうと懸命になっている人々の肉声が伝わってくる。どちらも、単に語学が堪能なだけではなく、よほど取材対象に信頼されていなければできない仕事だ。これらの仕事を通じ、手堅い実証に裏付けられた「現場主義」によって当事者の「声」を聞き取り、政治的なイデオロギーや立場よりも、あくまでも目の前の「一個人」に寄り添うことを優先する、という著者の姿勢は驚くほど一貫している。

 そんな著者が最近はもっぱら「保守系」メディアに活動の場を求めてきた背景には、冷戦終結後、あらゆる意味で「左右」の枠組み自体が無意味なものになっているにもかかわらず、東アジアの政治的状況をめぐる言論のレベルではいまだにそこから抜け出ることができないという日本の思想・言論的状況がある。中国の現実に対し、「人権」を重視する立場から政府を批判する言説が「保守派」のメディアに載り、それに対し「進歩派」のメディアはむしろ中国政府の立場を擁護する論調を唱える、というねじれた現象はその典型である。巷に中国に関する論評はあふれているようにみえるが、そこにはいわば「政治的オピニオン」と「現場感覚」の深刻な乖離とも言うべき状況が生じているのだ。
 その中で、現場感覚を丁寧に救い上げ、二項対立的な「オピニオン」との齟齬を明らかにした、本書の意義は大きい。それはいわば、現在の中国、および日中関係を映す「鏡」としての役割を果たすものだといえよう。果たして、既存の左右の枠組みにとらえられた人々に、この「鏡」をのぞく勇気があるだろうか。

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『戦争論』より危険な必読書

19人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近はどうも粗製乱造の印象がぬぐえない新書業界だが、これは新書の見本ともいうべきすばらしい本である。まず、日露戦争という「20世紀最初の世界戦争」について、その背景となったロシアの南進政策、イギリスの意図、朝鮮半島をめぐる清国との関係などの複雑な国際関係が最新の成果を踏まえてながらコンパクトにまとめられている。こういった一般向けの良書は今までありそうで少なく、その意味では近現代史の受験の参考書としても役立ちそうである。
が、本書の優れた点はもちろんそれだけではない。特に注目すべきなのは、アジアをめぐる問題を歴史的に考える上で今最も重要だとされている最先端のトピックが、実は日露戦争期の日本と深いつながりを持っていることがさりげなく紹介されていることである。
そういったトピックの一つとしては、まずアジアから日本へのの留学生の問題がある。中国・朝鮮半島あるいは他のアジア諸国から多くの留学生が訪れ、大きな影響を受けた。特に、日露戦争とその勝利は、ナショナリズム、近代的な軍隊、あるいは思想・科学的な概念の輸入。日本はまさに「思想的連鎖の結節点」だったのである。だが、そのような重要な位置をアジアの中で占めながら、その後の日本はそれを結局活かしきれなかった。大量の留学生受け入れが近隣諸国との関係改善につながっていかない現在の日本のことを考えてみても、この時代の経験から学ぶことは多いように思われる。
また、「メディア・広報と戦争」の問題がクローズアップされてきた初めての戦争でもあったという指摘も興味深い。たとえば、このころ欧米ではいわゆる「黄禍論」が急激に勢力を増してきており、日本とロシアとの対峙もともすると「ヨーロッパに挑戦するアジアの新興国日本」という枠組みでとらえられてしまう危険性があった。それを日本の政治家たちがいかに阻止しようと画策したか、という点をめぐる記述は大変面白く、また示唆に富む。
さらに、メディアと戦争、思想連鎖の双方に関わるのが人種論、そしてそれを支えた社会ダーウィニズムをめぐる問題である。日本人や中国人は人種的偏見の対象とされたが、同時に日本や中国の知識人のなかでもアフリカの黒人などを「劣等人種」として差別する言説が吹き荒れた時期でもあった。これはアジアにおける「西洋近代」的思考の受容がもたらした負の側面として、近年注目を集めている問題でもある
この他にも、反戦運動を通じて国際的な左翼運動にも影響与えたことなど、興味深い指摘が多く、、その後のアジアにおける矛盾や重要な動きの萌芽はが全て見られた日露戦争がまさに「20世紀最初の世界戦争」の名にふさわしいということがよくわかる。
山室氏自身は、もちろん近年の日本におけるナショナリズムの台頭には批判的である。しかし、逆説的だが、アジア諸国との軋轢の中で、ナショナルなものの再興を説く側にとっても本書は避けて通れない「教養」の一つだといえるだろう。僕自身これを読んで、思わず「日本はこんなすごい戦争を戦ったんだ」などという感慨にとらわれてしまったからだ。そういう意味で本書は小林よしのりの『戦争論』なんかよりよっぽど「危険な」本かもしれない。

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紙の本靖国問題の原点

2006/09/05 18:53

「靖国問題」のねじれを解く

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小泉首相の「靖国」参拝に賛成の人も、反対の人も、もはやそれが厄介な政治的問題になってしまったことは否定しないだろう。本書の著者である三土さんは、「靖国問題」がこれほどまでにこじれてしまった原因を、靖国神社が日本が近代化の道を歩む中で生み出された国家神道という「宗教であってないようなもの」の矛盾をそのまま体現した存在である、というところに求めている。
 なぜ国家神道が「宗教であってないようなもの」とされたか。三土さんは、そこに日本社会の「公」「私」の関係の特殊性を見る。「公がヨーロッパのように絶対的な価値として規定されず、関係主義的に把握される日本では、社会的な権力者にとっての「私」的な領域が、下々のものにとってはそのまま「公」として認識される、という現象が起きる。その究極のものが、天皇こそが日本全体を包み込む「おおやけ」であり、天皇家の存在は「私」にして全国民の「公」になる、というフィクションである。
 そういった構図のもとで、明治神宮や伊勢神宮などの神道施設は、天皇家が帰依する「私」的な宗教施設であると同時に、庶民にとっての「公」として、すなわち国民を道徳的・心情的に束ねる装置としても機能することになる。もちろん、最終的に他国との総力戦への道を進むことになった戦前期の日本では、そういう国家の「宗教ではない国民道徳」としての側面が最大限に強調され、一種の国民動員装置として機能したわけである。
 日本の敗戦とGHQによる占領は、もちろんこのような国民動員装置としての靖国神社の存続を許さなかった。それではどうするか、といった時に、実は靖国神社の宗教性を排除し、戦没者の追悼という公的施設として存続させる、というもう一つのシナリオもありえたのだという。しかし占領軍側と旧支配層との駆け引きによって結局それは実現せず、靖国を民間の宗教施設として他のキリスト教・仏教などの施設と全く同列におき、その代わり公的施設としての活動に制限を加える—政教分離規定を厳密に適用する—、という道がとられたのだった。

 しかし三土氏によれば、このような「靖国問題」の本質を回避した妥協的な解決方法こそ、後に大きな禍根を残す元凶であった。なまじ靖国神社が民間の一宗教法人として規定されてしまったために、戦前の価値観をそのまま残した遊就館の設置やA級戦犯の合祀など、ポツダム宣言を受け入れることによって始まった戦後日本の歩みを真っ向から否定するような、すなわち公共性の点から問題の多い行為を神社側がとることを許してしまったからだ。
 一方、日本の右傾化を警戒する靖国反対派は、これまでGHQによる戦後改革の趣旨を活かす形で靖国の「公的施設」化を反対する、すなわち政教分離規定の厳格化の観点から首相の靖国公式参拝に反対してきた。しかし、このような現実的な戦略に終始したために、国家による戦没者追悼のあり方を改めて問うような本質的な議論がついぞ靖国反対派の側から提起されることはなかった、と三土さんは厳しい評価を下している。
 本書はこのように宗教と国家の関係にズバッと切り込む鋭い議論を行いながら、日本的なアニミズムや祖先信仰からなんらかの公的追悼を求める声にも十分理解を示す柔軟さも持ち合わせている。筆者の言うように、この問題は時間をかけて「靖国の思想」が解体され、国民の多くが「靖国?なにそれ?」と言う日が来るのを待つしかないのかもしれない。しかし、たぶんそれを待ってくれないのが中国や韓国の世論である。うーん、どうしたものか。

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紙の本ポル・ポト ある悪夢の歴史

2008/02/17 14:12

悪の凡庸さについて:カンボジアのケース

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ポル・ポト。誰もがあの忌まわしい悲劇と結びつけてその名前を覚えていながら、彼が一体どんな人物なのか、自信を持って語ることのできる人はほとんどいないだろう。この分厚い本を読めば、ポル・ポトという人物の具体的な像が浮かんでくるかというと、残念ながら必ずしもそうではない。読後も強く印象に残るようなエピソードや言動といったものがこの人物についてはそもそも乏しいからだ。本書の大部分は、むしろ複雑極まりない第二次世界大戦後のカンボジア国内の政治状況やインドシナ半島を取り巻く国際情勢の解説などに費やされている。

 もちろん、クメール・ルージュが極端に秘密主義だったため、彼の人物を示す資料や関係者の証言も少ないので、さすがの著者もその実像に迫れていない、という可能性もあるだろう。しかし、いくら資料が出てきても例えば毛沢東とか周恩来、あるいはレーニンやスターリンといった、肯定的にせよ否定的にせよとにかく分かりやすくて感情移入しやすい人物像が描かれる可能性はまずない。そう確信させるだけの力がこの本にある。むしろアレントが『イェルサレムのアイヒマン』で提示したような「悪の凡庸さ」こそがカンボジアの独裁者の特質だった、ということを浮かび上がらせることこそ、本書の持つ最大の意義なのかもしれない。

 山形浩生さんの解説でも触れられているように、著者のフィリップ・ショートはクメール・ルージュ政権下のカンボジアで起こったことは「ジェノサイドではない」という立場をとっている。では、「あの悪夢」は一体なんだったのか。ショートは明確な答えを出すのを慎重に避けているけど、誤解を恐れず言ってしまえば、僕のイメージに浦沢直樹の『MONSTER』で描かれたような、どこかの平和な田舎町が憎悪と殺戮の連鎖に巻き込まれていく恐怖に近いように思う。もちろん、カンボジアのケースと『MONSTER』との違いは、おぞましい悲劇を引き起こしたのがヨハンのような特別な存在=モンスターではなく、徹底して「凡庸な理想主義者たち」であったという点だ。もちろん、その背景としてベトナム人への民族的憎悪、農民の都市民に対する憎悪、旧宗主国フランスやアメリカの自己中で非人道的な振る舞い、著者の言うところの「クメール人気質」・・etcなどのさまざまな「火種」があったことも忘れるわけにはいかない。

 筆舌に尽くしがたい歴史的な悲劇が起こったとき、「モンスター」がそれを引き起こした、という解釈をとることは一番安直な方法で、それゆえ大国の政治的利害のために使われやすい。かといって「凡庸な役者」しか登場しないところになぜあれほどとんでもない悲劇が生じるのか、それを説得力のある道筋をつけて描くのはとても難しい。本書は必ずしもその道筋を分かりやすい形で示しているわけではないが、その代わり膨大な資料収集と丹念な実証的記述によって、少なくとも起こったことを「ありのままに」提示し、「モンスター史観」を葬り去るのにかなりの程度成功しているといえるだろう。口で言うのは簡単なことだが、大変な労力と強靭な精神力を要する仕事だと思う。

 本書の記述からは、時にシニカルな冷徹さが感じられるかもしれない。しかし、国際社会が長い間「支援」してきたカンボジアの現政権の首脳がいずれもクメール・ルージュの生き残りであり、「全く無慈悲で人間的な感情を持ち合わせていない」と評される現実に思いをいたせば、このような冷徹さこそが精一杯誠実な態度なのだ、ということが分かるはずである。

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深読みの可能な必読書

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 天安門事件で学生デモの武力弾圧に最後まで反対して失脚した中国の指導者、趙紫陽が晩年に極秘でテープ録音したものをまとめた回想録の邦訳がようやく出た。もっとも話題を集めるのは、やはり天安門事件に関する記述だろうが、個人的には、それ以上に1980年代の経済改革の実施の決定現場における証言が非常に興味深かった。中国経済のテキストでは「市場化経済の導入が決定された」の一言で済まされがちだが、実際には指導者たちの生々しい思惑と駆け引きの末に実行されたということがよくわかる。

 中でも重要だと思われるのが、天安門事件の要因ともなった1988年の価格改革―主要物資の二重価格制の廃止―に関する記述である。
 通説によれば、趙紫陽主導のもとで行われた1988年の価格改革の断行により、物価が急騰した社会不安を招いたことが、市場経済の導入に反対する保守派の格好の攻撃材料となり、趙紫陽が実権を失う最大の要因になったとされる。これに対して趙は、価格改革は財市場におけるゆがんだ需給関係の是正のためにぜひとも必要なものであり、慎重に準備を進めていたので「軟着陸」は可能であったと述べている。問題は、価格改革そのものではなく、その具体的内容が固まらないまま新聞やテレビなどで大々的にその実施が予告されたため、「価格改革によって生活必需品の価格がこんなに上昇する!」という流言が広まり、人々の期待インフレ率が上昇した結果、買いだめや預金の取り崩しなどの行動を政府がコントロールできなくなったことだという。
 また、一旦急上昇した期待インフレ率を沈静化させるためにはすばやく金利を上昇させ金融を引き締める必要があったのだが、李鵬や姚依林などの保守派が金利を上げると生産が落ち込むのではないかと恐れて反対したためそれができなかったのだ、としているのも実に生々しくて面白い。

 さらには、趙と胡耀邦の微妙な関係に関する記述も興味深い。一般には、胡と趙は経済改革の必要についてはほとんど意見を同じくしていたものの、政治の民主化・自由化に関して積極的だった胡耀邦に対して趙はかなり温度差があり、それが1983年の精神汚染一掃キャンペーンなどで結果的に胡の立場を苦しいものに追いやる原因になったとされる。
 しかし、本書の中で趙は、むしろ農村改革が成功に終わった後の1980年代半ば以降の経済改革の進め方について、胡耀邦との間に深刻な路線対立があったことを強調している。趙によれば胡は、農村改革の成功例をそのまま都市の国有改革に当てはめることができるとし、その実施を急ごうとしたのに対し、趙は改革の効率性を重視する立場から、農村と都市の根本的な状況の違いに配慮し、また、地方政府の野放図な要求を抑えるためにも、急激な改革の実施に慎重な見解を示したという。趙は、このときの胡の姿勢を「盲目的な成長至上主義」に陥っていたのだと批判している。こういった両者の立場の違いは、これまで十分認識されてきたといえないのではないか。

 ・・以上、ちょっとマニアックな読み方をしてしまったが、このほかにもいろいろと深読みのできそうな、少しでも現代中国の政治や経済に興味を持つ人間なら、文句なく必読の文献だろう。

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日共はなぜハンガリーを見捨てたか

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本共産党、特に宮本顕治をはじめとした党内の主流派が、ソ連の介入を支持する立場から1956年のハンガリー事件を反革命と断じ、徹底的に冷淡な態度を取ったこと、およびそのような党の姿勢への絶望から多くの離反者、いわゆる新左翼が誕生することになったことはよく知られている。もちろん、現地点からそのような共産党の冷淡さ、ソ連盲従の姿勢を批判することは容易である。

 しかし、問題は必ずしも日共(の主流派)が対ソ盲従であったから、ハンガリー事件を「反革命」と断じるという「誤り」を犯したのだ、というような単純なものではなかった。それは、当時においてもマジャール人たちの抵抗に共感を寄せる勢力が党内においても一定程度存在していた、というだけのことではない。小島氏も指摘しているように、当時日共の思想的支柱であった講座派マルクス主義は、その理論構成上、もともとかなり民族主義的な傾向を強く持っており、だからこそ戦後の反米ナショナリズムの機運の中で知識人層の間に一定の支持基盤を築くことができたという事情があったからである。

 そこで一つの疑問が生じよう。そのように本来民族主義的傾向が強かったはずの講座派マルクス主義に導かれた日共およびその同伴知識人たちが、ハンガリー事件の民族主義的側面―ソ連の衛星国として自主性を奪われていたことに対するマジャール人たちの抵抗―に対して、なぜあれほど冷淡な姿勢を取れたのだろうか?

 小島氏は、講座派が上記のような民族主義的な傾向を強く持ちながらも、「民族」の持つ特殊的・個別的要素を「純粋社会主義」の発展モデルからの単なる「逸脱」「タイムラグ」としてしかみないという、一種の単線史観あるいは「決定論」的姿勢に陥っていったところにその原因を求めている。一般にこのような決定論的な姿勢は、あるべき「理想」に向かって進んでいるはずの実際の人々の固有の動機や苦しみを軽視する傾向がある。ハンガリー事件を「反革命」と断じた日共系の知識人や政治家たちが事件の原因を「マジャール人の民度の低さ・野蛮性」に帰しているのは象徴的であろう。民族の特殊性・個別性を価値多元論の観点から積極的に評価する議論を展開したのは、むしろ津田左右吉や梅棹忠男といった非左翼の知識人であった。

 普遍的な価値観が世界を覆おうとするときに、世界の中で特殊でかけがえのない「われわれ」が、「特殊」さを失わずに、いや「特殊」であるからこそ、普遍的な価値観を体現している(あるいはする資格がある)のだ、と主張すること、それこそが近代的なナショナリズムに特徴的な倒錯に他ならない。それぞれの「特殊性」を相互に承認しているように見えながら、実は普遍的な価値観の実現を目指して常に優等生の座を争っている、というのがこのナショナリズムの本質である。
そのように考えたとき、「理想の社会主義」という普遍主義的なゴールを目指す民族主義者、の典型ともいうべき日本共産党が、そのゴールからから「より大きく落ちこぼれた」マジャール人のナショナリズムに冷淡で、その抵抗に「反革命」のレッテルを張ったことは、むしろ当然のこととして考えられるのではないだろうか。

 自分達が特殊でかけがえのない存在だという認識に立った上で、普遍的な価値観の下での優等生争いに人々を駆り立てようとする勢力は、現在においても後を絶たない。その意味でも、本書が提起した問いは、今なおアクチュアルな意味を失っていないと考えられるのである。

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島耕作も必読!

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつて大きな成長が見込まれた中国の市場に、日本の家電メーカーは品質のよいものさえ作れば売れると信じて意気揚々と乗り込んできた。それらの日本製品は、改革開放路線が始まった80年代には確かに爆発的に売れたのだけど、次第に力をつけてきた中国系メーカーの価格競争についていけず、やがて軒並みシェアを下げていった。
 では家電をはじめとする中国系のメーカーは、なぜそんなにも価格を下げられたのか。この辺は一種のブラックボックスになっていて、これまでにいろんなことが言われていた。やれ人件費が低いからだ、有名メーカーの製品をコピーしているからだ、手抜きで粗悪品をつくっているからだ、などなど。これはどれも一理あるが、決定的な理由とは言いがたい。研究開発費も人件費にせよ、全体のコストからすればわずかなものでしかないからだ。

 著者の丸川さんが本書で提起した、中国製品の安さを説明するためのキーワードは「垂直分裂」だ。これはちょうど「垂直統合」の反対のような動きで、基幹部品の調達をできるだけオープンにし、そこに規模の経済と競争のメリットを働かせコストを大きく引き下げることを狙いとしている。
 例えば、長虹、康佳、TCLといった中国の大手メーカーがつくるブラウン管テレビの大きな特徴は、たとえ同じメーカーの同じ機種であっても異なる複数のメーカーのブラウン管を使用している点にある。分かりやすくいえば、全く同じテレビを買ったはずなのに、買った人によってソニーのブラウン管が使われていたり、松下のブラウン管が使われていたりする、というわけだ。このように、製品の「差別化」や「ブランド力」を犠牲にしてでも、部品調達コストの削減を優先し価格競争力で優位に立とうとするのが「垂直分裂」を通じた中国メーカーの戦略だ、ということになる。

 この「垂直分裂」によるコスト低下の説明が優れているのは、それ自体が中国市場における激しい価格競争の説明にもなっていることだ。つまり、「垂直分裂」が進むことによって、製造コストは確かに下がるが、同時に製品の同質化も進む。するとますます価格競争は激化する。すると、メーカーはさらにコストを下げなければならないので、ますます「垂直分裂」が進みさらに製品の同質化が・・・このようなサイクルを、丸川さんは「同質性の罠」と呼んでいる。
 このような「同質性の罠」と「垂直分裂」とが平行して起こることが、中国市場の一種のダイナミズムをもたらすと同時に、その限界をも規定している。この構図を、豊富な実例をもとにして鮮やかに描き出したのが本書だ。現代中国経済のダイナミズムに何らかの関心を持つ人なら、まず手を取ってみるべき本だろう。

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より公正な世界貿易を求めて

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 WTOというと、1999年のシアトルでの閣僚会議以来、すっかり反グローバリズム運動の攻撃の対象となってしまった感がある。このような反グローバリズムの動きに対する反応としては、ネグリ=ハートの「マルチチュード」論に典型的なように、資本主義に対するオルタナティヴを提供するものとして大きな期待をかけるか、あるいは自由貿易の原則を理解しないばかげたものであると位置づけるか、どちらかに偏りがちだった。しかし、本書でのスティグリッツらの姿勢はそのどちらとも異なる。
 彼らは、基本的に自由貿易は貧しい国にとっても利益をもたらすものだ、という点から出発しながら、しかし現実のグローバル化の経緯を見れば必ずしもそうなっていない、いや、一部の途上国の状況はここ十数年ほどのグローバル化の進展によってむしろ悪化してきたことを指摘し、そこから脱却するためにより「フェアな」ルール作りの必要性を説いているのだ。
 なぜこれまで自由貿易が貧しい途上国に利益をもたらさなかったのか。一言で言えば、自由貿易体制において圧倒的発言力を持つ先進国により自由貿易体制がゆがめられ、途上国に過度の負担を強いてきたからだ。「自国農業の保護」という名目から、途上国の主要輸出物である一次産品への比較的高い関税率が容認される一方、途上国からの非熟練労働力の受け入れにはほとんど注意が払われず、そのかわり知的財産権や海外投資家の権利の保護といった先進国の企業に利害に関わる問題ばかりが優先的に議論され続けた。その結果、途上国間ではWTOのルールに対する不信感が広がり、途上国にとって先進国との貿易と同じくらい大きなウェートを占める途上国間の貿易では関税を引き下げたり貿易規模を拡大する努力がほとんどなされなかった。これでは、途上国が自由貿易による利益を得られなくても当たり前だ。
 このような状況に対してスティグリッツは、自由な貿易はそれを支える公正なルール作りによって初めて可能になるのであり、そのフェアな合意の形成のために途上国・先進国が一緒になって知恵を絞るべきだ、と説く。この、「自由な貿易体制の維持のためにはむしろ各国政府の積極的な協調や介入が必要とされる」という考えは、取引における「情報の不完全性」を重視するスティグリッツが取り組んできた理論的成果にもとずく。この理論的な側面がまとめられた部分は、最新の理論や実証研究の成果に基づいたもので、非常に中身が濃く勉強になる。
 また、この本のもう一つ特筆すべき点は、これまでのWTOの実際のアジェンダや取り決めが、具体的にどのような点で途上国にとって不利益だったのか、またよりフェアな取り決めがなされるにはどのような努力をすればよいのか、といった点が豊富なデータに基づき詳細に述べられていることだ。この点は共著者である若手エコノミスト、チャールトン氏の貢献が大きいだろう。
 確かに現実のグローバル化の進行は、世界中の富の偏在から来る歪みをますます拡大しているように見え、それがさまざまな「反グローバリズム」の主張に一定の説得力を与えることになっている。しかし結局のところ、世界経済を「全ての人にとってより公正な」ものに変えていく可能性は、本書のような正攻法の批判が、アメリカを含めた先進国にどれだけ受け入れられるかどうかにかかっているだろう。

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「中華民族」論を超えて

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 現在の中国の民族問題を語るとき、歴史的な視点からの検討は避けて通れない。この点に関して、従来は、大きく分けて二つのアプローチが主流だった。一つは、近代的な民族自決アプローチ。この立場では、例えばチベットやウイグルといった現在中国からの独立運動がみられる少数民族は、もともと漢民族とは異なる言語・文化・宗教を持つ独自の存在であり、近代的な国民国家システムの中で彼(女)が自治・自決を求めていくのは当然の権利である。それを力で押さえつけている中華帝国、あるいはそれを引き継いだ現在の中国政権はけしからん、ということになる。
 もう一つは「中華民族」アプローチ。中華世界とはもともと近代的な国民国家の枠組みの中には入りきらない、他民族・多文化共存の伝統を持っていたのであって、漢民族政権が一方的に少数民族を搾取・抑圧してきたという見方はあたらない。今後の少数民族問題の解決にあたっても、この伝統的な「中華」の知恵を生かしていけばいい、という考え方だ。有名な費孝通の「中華民族論」をはじめとして、中国国内の専門家の見解はおおむねこれに近いと言っていいだろう。
 だが平野さんは、この二つとも微妙な形で距離を置く。その際に鍵となるのが、清帝国の乾隆帝の時代にその頂点を極めた、「中外一体」「皇清の大一統」という言葉で表現される、独特の統治システムへの注目だ。
 このシステムは、それまでの伝統的な「中華帝国」のように儒教を宗教・道徳的な統治原理とする漢族の相対的な優位を自明なものとするのではなく、いわば異なる固有の凝集力をもった相互に対等の諸民族のグループと、それらを十分に尊重しながらマネージメントしていく存在としての王朝との緩やかなつながりとしてイメージされるものであった。
 その象徴的な例として、平野さんは清皇帝によるチベット仏教の保護に注目する。特に乾隆帝のチベット仏教清朝の姿勢は際立っていて、パンチェン・ラマが皇帝に謁見するため北京を訪れた際など、皇帝があまりに彼を優遇するので、朝鮮からの使者が「儒教をないがしろにするにもほどがある」と憤激したという逸話が残っているほどだった。
 このような清朝における他民族の宗教・習俗への尊重はモンゴルや新疆に対しても見られるものであり、それは確かに他民族共存のモデルと言いうる側面を持っていた。
 しかし、このシステムはもとより諸民族間における何らかの近代的な「合意」や「制度」に支えられたものではなく、清朝皇帝自身の独裁者としての正統性や権力に支えられたという意味で脆弱なものであった。それゆえ、近代になりイギリスを始めとした列強が交易や条約締結のためチベットや新疆などといった地域への清朝の「宗主権」を確認する、という事態を招いた時、このシステムは矛盾を露呈し崩壊するしかなかった。すなわちチベット・新疆・モンゴルは清朝による「宗主権」の確認と強化、という自体に反発し独立志向を強め、また諸民族の自治を尊重し利害を調停するものとしてあったはずの「王朝」の正統性は、むしろ孫文に代表される漢民族中心的な「中華ナショナリズム」に回収されていくのである。
 ともすれば「中華帝国による支配か、諸民族の自決か」という二項対立に陥りがちなこの問題について、近世・近代の中国において「帝国」の統治原理に大きな変化があったことに注目する本書の視点は、現在の民族問題を考える上でも十分示唆に富むと言えるだろう。

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「帰国事業」の謎に迫る

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在日朝鮮人の「帰国事業」の成立過程は今まであまりに謎につつまれてきた。一般的な理解は北朝鮮と朝鮮総連ががっちり手を組んだプロパガンダだった、というものだと思うが、近年では日本赤十字と日本政府が一種の「厄介払い」として事業に積極的に関与する、という側面があったことも指摘されているようだ。そんな中で本書は、新たに公開されたジュネーブ赤十字国際委員会の文書資料を駆使して、帰国者事業が本格的に始まるかなり前の段階から日本赤十字が在日朝鮮人の帰国事業を「立案」し、赤十字の国際委員会や北朝鮮側にも積極的に働きかけてきたという動かせない「事実」を明らかにしている。

だが、単に帰国事業に対する日本政府の関与をことさら取り上げて、朝鮮総連や北朝鮮政府の責任を相対化するだけならば、本書は一種の対抗言論的な、政治パンフレットとしての価値しか持たない本になっていただろう。日本側の積極的な関与が動かない事実であるとしても、次のようなまだいくつもの「謎」が存在するからだ。

・日本赤十字が赤十字国際委員会に北朝鮮の帰国事業について提起するのが1955年。しかし朝鮮総連を中心とした在日朝鮮人社会の中から帰国事業への要望の声が高まり、さらに北朝鮮政府がそれを後押しするようになるのは1958年。このブランクは何を意味するのか?
・赤十字国際委員会は、この事業の「胡散臭さ」「隠された意図」に本当に気がつかなかったのか?
・李承晩政権下の韓国政府が帰国事業に猛反発したことはよく知られている。日本政府、特に反共・親米政権であったはずの岸内閣は、なぜそのような韓国政府ではなく、北朝鮮政府の要求に応えるような政治決定を行ったのか?
・アメリカ政府は、このような日本政府の意思決定に対しなぜ何も言わなかったのか?

 モーリス-スズキ氏は、これらのいくつもの「謎」に対し正面から向き合った上でジグソーパズルのピースをあわせるように説得力のある解釈をつないでいく。その作業の中に彼女が取材を行った実際の帰国者の印象深いエピソードや、研究を進めていく上での個人的な印象や感慨が挿入されており、思わず引き込まれながら読んでしまう。著者自身書いているように、通常このような「実証性」が要求される書物において研究者の個人的な体験や考えの変化がそのまま書き記されるのは異例である。しかしそれはもちろん、このような「政治的に極めてデリケートな」問題において、既存の対立の「磁場」にからみとられることなく自由な立場から語るために必然的に選び取られた「語り口」なのだ。本書で展開された見解はあくまでも現時点での公開資料に基づいた暫定的なものであり、さらなる意欲的な研究によって早晩乗り越えられるべきものであることをわざわざ「あとがき」に記した著者の研究者としての誠実さは疑いを入れない。


 本書において特筆すべきなのは政治の荒波に翻弄される「ふつうの人々」たちへの共感だろう。政治の論理の中で埋没しがちな「ふつうの人々」の生活の論理に常に思いをいたすこと、それだけが政治的に困難な状況において、本書で描かれるような最悪の決定が行われることを抑止するかすかな力となりうる。本書からは、そのような確固たるメッセージを読み取ることができる。

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紙の本日中関係 戦後から新時代へ

2006/09/08 12:20

「日中蜜月」はいかに築かれ、そして溶解したか

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 かつて、日中関係がとても良好な時代があった。
 こんなことを言っても、今の大学生ぐらいの若者にはちょっと想像がつかないかもしれない(なんて書くといかにも自分がおじさんになったようで気分が落ち込むが)。
 サンフランシスコ講話条約締結時、アメリカの圧力により台湾の中華民国政権と国交を結んで以来、日本は長らく中華人民共和国とは正式な国交を持たない時代が続いた。しかし、その間も、中国に対する大きな関心と侵略への贖罪意識を持つ日本の財界人や元軍人、あるいは中国側の「対日工作者」たち(その証言については水谷尚子『「反日」以前』に詳しい)の努力によって、民間の交流のパイプは脈々と築かれてきたのだった。その努力が、米中国交正常化を受けた電撃的な72年の日中共同宣言の締結へと結びついていく。

 もちろん、国交が正常化したからといって両国の間にすぐに「和解」が訪れたわけではない。当時の日本政府の姿勢は中国との関係改善がアジアの国際秩序の安定に役立つ、というプラグマティックなものであり、戦争責任について明確な考えがあったわけではなかった。また、日本から好意的に受け止められた中国政府による賠償放棄も、広く中国国民の支持を得たものであるどころか、実際には毛沢東と周恩来というたった二人の指導者の独断により決定されたのに近かった。それは米中交渉と同じく、悪化する中ソ関係をはじめとした厳しい国際状況の中での政治的判断だった。その賠償放棄が、日本を台湾との断交に踏み切らせるためのカードとして用いられたことも、今では明らかになっている。
 「72年体制」とも呼ばれるこの時期に形作られた日中関係の枠組みは、大平内閣の時代における円借款の開始、および親日的な指導者、胡耀邦の努力などにより80年代にピークを迎える。青少年の相互訪問プログラムなど、両国間の人的交流も進んだ。まさにこの時期には「日中の蜜月時代」が存在したのだ。
 が、周知のようにその後日中関係は悪化の一途をたどっていく。中曽根首相の靖国公式参拝とそれに対する中国側の反発、胡耀邦の失脚、天安門事件による強権の発動、中国の核実験と日本の抗議、中台間の緊張、そして反日デモ・・表面的な事実をならべればこのようになる。
 しかし、両国の関係悪化の根はより深いところにある。中国について言えば、まず挙げられるのが国民の権利意識が高まり、かつてのように一部の指導者が勝手に政治を動かせるような状況ではなくなったこと。このためかつての賠償放棄への国民の不満が、一連の「反日」の動きとして顕在化してきた。次に、冷戦の終結とソ連の崩壊。ソ連という最大の脅威が解体したことで、日本との友好関係を維持することの意義が相対的に弱まったことは否めない。そして、台湾情勢の変化。中台間の対立は、かつての「一つの中国」の正統性争いから、次第に「台湾人」としてのアイデンティティをめぐるものに変化していった。これは当然、台湾とも深い関係を持つ日本と中国との関係にも影響を及ぼす。
 これらはいずれも、かつての「蜜月時代」の枠組みを提供してきた「72年体制」の揺らぎを意味するものである。このようにして高まってきた「反日」の声に反応する形で、日本の国内でも中国・韓国に対する対抗ナショナリズムが力を持つようになる。
 こうしてみると日中関係の将来は決して楽観できるようなものではない。しかし、その問題がどこにあるのか正しく認識されれば、なんとか解決策も探せるに違いない。新たな関係を模索するための出発点として、本書は最適の一冊である。

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紙の本経済学という教養

2004/03/12 02:15

彼らはなぜ「シバキ主義者」となったか

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稲葉さんは、ポストモダン思想の強い影響下にありながら、ポストモダン左翼の現実批判のナイーブさに対して一貫して厳しい立場をとってきた。ただ、これまでは自分の新たな立ち位置について模索中という感じがあって、短い文章ではとても鋭いキレを見せるのに、著作では全体として何を主張したいのか今一つわかりにくいという印象があった。
 本書は、そんな著者が試行錯誤の末、思想的根拠として主流派経済学にたどり着き、その効用を積極的に説いた本といえるだろう。そのため全体的に吹っ切れた印象があって読みやすいだけでなく、従来の持ち味ともいえる左翼・マルクス主義批判も冴えわたっている。ただ、こういった本書の持つ意義はすでにいろんなところで語られているので、ここではあえて本書の重要なポイントである「ケインジアン」に関する理論的な整理のところで感じた若干の疑問点について記しておきたい。

この本の経済学的な眼目は、ケインズの「流動性の罠」を重視する立場からマクロ的な金融政策の必要性を説くこと、そしてそのようなマクロ政策の効果を軽視する「構造改革論」を、「シバキ主義」あるいは「罠にはまった左翼」として批判するところにある。つまり本書では、ケインジアン対マネタリスト、といった伝統的な対立というよりも、ケインズの解釈として「市場の不完全さ」を重視する立場(「実物的ケインジアン」)と「流動性選好説」を重視する立場(「貨幣的ケインジアン」)との対立にその強調点がおかれているのである。
 とりあえず痛烈な批判の対象になっているのは金子勝だが、彼に限らず市場の不完全性と「制度」の重要性を強調する論者に対して著者は全般的に批判的である。その背景には、金子にせよ、青木昌彦にせよ、もともとマル経的な出自を持ち、「日本的な資本主義の異質性」に向き合わざるを得なかったという日本のアカデミズム内での特殊事情がある。彼らはモラリストであるがゆえに「悪人も一緒に救われてしまう」ケインズ主義よりむしろ「シバキ主義」的な構造改革論に組してしまいがちだ、というわけだ。この指摘は彼らだけでなく日本における左翼(あるいは元左翼)全般にあてはまる批判として非常に鋭い。
 ただ、こういった分析は日本の「経済学」論壇の社会思想史的な解釈としては非常に優れているものの、純粋な理論的な追求としては若干の不満が残る。市場の不完全性や「制度」の役割を分析しようとするミクロ的な視点と、流動性選好を重視しマクロ的な金融政策の効用を説く「貨幣的ケインジアン」の視点は本来両立可能なものであると思うからだ。実際、スティグリッツなどはその方向で積極的な理論構築を行っているし、また本家アメリカで「新制度学派」を切り開いてきたきた、コース、ノース、ウィリアムソンといった人々にも、少なくとも金子・青木のように「シバキ主義」に傾きがちだ、という批判は当てはまらないだろう。
 以上のような本書の理論的詰めの弱さについては、筆者も十分に自覚的であり、例えばリフレ政策に対して岩田規久男や野口旭などの「実物的ケインジアン」が賛成しているのに「貨幣的ケインジアン」の代表である小野善康が反対している、という一種の「ねじれ」が生じていることを認めている。

 以上のような疑問点は感じるものの、経済学という一般に「敷居が高い」と思われている学問において「筋金入りの素人」であることを実践して見せたこの本の意義は、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。

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買弁商人としての監査法人

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原題”China Price”に対し『中国貧困絶望工場』という邦題はどうだろうか。原題"China's Great Train" を『チベット侵略鉄道』とした例もあるが、このところの中国関連本は特に売れ行きを伸ばすためか、一時期の「草思社」が盛んに行っていたような過激なタイトルをつける傾向が目立つのは気になるところだ。

 が、その点を除けばこれはすばらしい本である。昨年来、食の安全を含め「中国製の安価な製品の落し穴」を追求するような書物が数多く出版された。その多くは表面的な現象を追いかけるものにとどまっているが、その中でも、本書はその背景に潜む中国社会の構造にかなり深く切り込んでいる点で出色のものであるといってよい。特に、中国における低賃金労働への批判に答えるべく、外国企業が争って導入した労働CRS(企業の社会的責任)の実態に関しては、本書に掲載されているものが僕の知っている限りでは最も詳しいレポートといってもよく、この問題に関心を持つ人にとっては必読だろう。

 中国のように、国内の法制度が整備されておらず、グローバル化によって「搾取工場」に対する非難が強まっているところ-要するに多くの発展途上国-で労働CSRを貫徹させようとすると、どのようなことが起こるか。本書を読めば、「法」と「現実」の間を埋めるようにしていわゆるソーシャル・コンプライアンスを手がける監査法人が雨後の筍のように生まれ、消費者からの批判に弱い多国籍企業の弱みに付け込んで利権をむさぼり、「搾取工場」における労働の実態をより複雑に、より外部から見えにくいものにしている様子がよくわかる。

 それはあたかも、アヘン戦争後に西洋列強から開港を強いられた清朝末期の中国において、伝統的な商習慣とヨーロッパの近代的な商取引とのギャップを媒介する存在として外国語を自在に操る「買弁商人」が跋扈した構図を思い起こさせる。少なくとも先進国における消費者の「搾取工場」への意識の高まりやそれに伴うボイコット運動が、決して、労働者の待遇改善にストレートにつながるものではないことは明記しておくべきだろう。

 もちろん、労働CRS自体は、きちんとした国内法の運用と組み合わされさえすれば、確実に途上国における労働者の待遇改善につながるはずだ。しかし、現実に発展途上国で運用されるCSRの問題点は、その理念が現実の社会で実現されるための精緻なテクノロジーを欠いている点だ。このため、それが現実に実効力を持つためには、しばしば反スウェットショップ運動のような、先進国消費者のモラリズムに過度に訴えかけることになる。

 労働を保護するための法システムが不在であるままグローバリズムに統合された途上国は、労働者の権利保護に関する「例外状態」にあるといってよいだろう。しかし、そこで法システムよりも上位に立つ「主権者」=「例外状態において決断するもの」の地位を、果たして先進国消費者のモラルに支えられたCSRにゆだねてしまってよいのだろうか。そういった難しい問題が、そこには露呈しているように思われる。

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「革命後」の大衆動員

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  本書は、これまでどちらかというと総力戦を説明する概念装置であった「大衆動員」をキーワードとして、毛沢東時代の中国における政治変動、なかんずく文化大革命というきわめて特異な現象の発生を説明しようとした力作である。

 中国革命の初期の段階において、農村での中国共産党の活動が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。しかし、いったん中華人民共和国が成立すると、社会主義国家建設の重点は次第に都市に移っていく。

 そのような人民共和国初期の大衆動員は、「企業丸抱え社会」を通じた都市住民への利益誘導とイデオロギー教育によって共産党政権を磐石にすることを目標に行われた。しかし、そういった「上からの」大衆動員は次第に硬直化し、反右派闘争や大躍進といった、そのイデオロギー的な抑圧性が明らかな政治運動へと帰結していく。中でも大躍進における経済政策の失敗は、そのような共産党指導部を中心とした都市型の大衆動員のメカニズムの存続を危機にさらすものであった。それは官僚組織と一体となった党指導部の正統性に動揺を与えただけでなく、正規工と臨時工・契約工といった労働者内部の対立を先鋭化させ、後者の不満を拡大させるものだったからである。

 本書によれば、大躍進後の中国ではこのような「危機」を打開するため、次第に各職場において外部から派遣されたメンバーによる「工作隊」を組織し、それを既存の組織系統の上におく、というやりかたが大衆動員の手法として用いられるようになった。これは、むしろ革命初期の農村「解放区」における大衆動員の方法が、都市に対しても適用されるようになったことを意味する。そして、文化大革命こそ、そのような「農村タイプの大衆動員」が全面的に展開された事例にほかならなかった。

 このような外部の工作隊を通じた政治活動への動員は、職場内部の人間関係などのしがらみに縛られず行われるために、もともとラジカリズムに傾きやすい性質を持っていた。しかしそれゆえに、それまでの都市に基盤を置いた官僚組織による国家建設を内部から掘り崩すという性格を持つものでもあった。このため、文革期においては、このような大衆動員の方法の変化が、「持てるもの」と「持たざるもの」の間の対立の一層の先鋭化、さらには権力・統治機構の対立(毛沢東派vs.実権派、国務院vs.文革小組)の激化などが絡み合うことによって、従来の大衆動員には見られない社会的大混乱をもたらしたのである。

 さて、「革命における農村と都市」といえば、今年公開され話題になった『CHEチェ 28歳の革命|39歳別れの手紙』の二部作は、このモチーフを克明に描いたものとして非常に示唆的であった。ゲバラらの革命勢力はキューバにおいては都市知識人層と協力関係を結び、農民からは支持されるが、ボリビアではこの両者から完全に孤立する。そこに革命勢力の明暗を分ける鍵があることは、二作を続けてみれば誰でも気づくだろう。
 しかし、たとえ革命が成功したとしても、そこで成立した「社会主義国家」が、農村と都市のバランスをうまく取りながら政治・経済の運営を行っていくことは、はるかに困難がともなう事業である。そのことは、なによりも中国の歴史が証明している。

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いま、「アジア的専制論」を問い直す

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間違いなく、マルクスは中国やインドを、西洋的合理主義とは異質な論理の支配する、言い換えれば『資本論』の分析がそのままでは通用しない特殊な世界として考えていた。マルクスがインドが一旦イギリスの植民地にされたことを、「進歩」として評価していたという話はあまりに有名だ。それを現在の価値基準から、「アジア人蔑視」として批判することはもちろん可能だろう。しかし、ことはそう簡単ではない。

 マルクスにおけるアジアの特殊性の認識を端的に示すのが「アジア的生産様式」という概念である。ただ、このような考え方は、マルクスの理論が本来当てはまらないはずの旧ソ連や中国の共産党にとっては当然非常に都合が悪いわけで、実際に共産党が政権をとってからは、そういう概念自体簡単に言うと「なかったこと」にされた。すなわち、マルクスが「アジア的生産様式」なる用語で把握していた現象は、ことごとく「封建制のなごり」という普遍的・段階論的なものとして読み替えられることになり、前者にこだわった言説は、「アジア的停滞論」として徹底的な批判・排除の対象となった。

 このような立場からすれば、「水力社会」という概念を用いて「アジア的専制」の構造を明らかにしようとしたウィットフォーゲルは、まさに「西洋中心主義によって中国社会を斬る差別主義者」ということになる。実際、現在の中国でウィットフォーゲルの本はほとんど禁書扱いだという。
 また、最近ではこのようなマルクスあるいはマルクス主義内の「西洋中心主義的傾向」を痛烈に批判する左派系の論者も目立ってきた。その中でも有名なのはサイードだが、それに先駆けた存在として竹内好をあげることができるだろう。

 しかし、「アジア的生産様式」という概念、およびウィットフォーゲルという思想家を徹底的に排除したことによって、失われたものもまた大きいのではないか、というのが本書における石井氏の問題意識である。ウィットフォーゲルによる「アジア的専制」に対する仮借のない批判は、それが一旦アジア社会内部の人間によって血肉化されるとき、むしろその主体的変化のための強力な武器となりうるのではないか。石井氏がそう主張する背景には、第二次天安門事件前夜の中国の民主的機運の盛り上がりのなかで、ドキュメンタリー『河殤』のように中国社会の「専制性」を問題とする作品が話題を呼び、また趙紫陽のような開明的指導者自身がなによりも「党支配の専制性の解体」を切実な問題意識として抱いていた、という事実がある。

 しかし、結局学生たちの民主化運動は挫折し、趙紫陽は失脚し、ウィットフォーゲルは読まれなくなり、今の中国国内では「党支配の専制性」批判の代わりに、人々の批判の矛先はあるときは小泉率いる日本に、あるときは腐敗する地方政府に、又あるときは傲慢なCNNや国境なき記者団に向けられているのが実情だ。

 インターナショナルな左翼運動の観点からアジア社会の「専制性」を批判する欧米流の左翼と、その隠れた植民地主義的思考に反発するアジア土着の左翼。この対立の構図は、形を超えて中国のチベット問題や言論統制などへの対応を通じて顕在化している、といってもいいだろう。その意味では、ウィットフォーゲルの思想は、今こそアクチュアルな意味を持っているといえるのかもしれない。その意味で、本書は一見地味な思想研究のようにみえて、実にタイムリーな、読み応えのある本だった。

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