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ゴンスさんのレビュー一覧

投稿者:ゴンス

20 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

2002/04/21 00:28

中上部屋

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大家である。作家としての「大」はもちろんのこと、その風貌と言動、全てにおいてスケールの大きな作家である。
 中上が一貫して描いたものは、「風土」と「歴史」、それに「構造主義」である。
 「岬」。これは紀州の、新宮という辺境の地を舞台に家族を描いた物語である。が、ここで云う家族とはいわゆる一家を指す家族ではなく、その「地」そのものを意味するものである。つまり、「地」とは「路地」と呼ばれる地域のことであり、そこでは被差別部落の人々が住んでいるゆえに閉ざされた空間になっているのだ。中上はその空間を利用して、更にはそういう空間ゆえに繰り返される人間模様の構造を壮大に描いたのである。
 中上文学に触れた人は、何を思うのだろうか。

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紙の本杳子・妻隠

2002/04/21 00:23

いざ、頂点へ!

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 古井は純文学の分野において、村上春樹と共に現在の日本文学を支えている作家である。
 「杳子」。時折起こる記憶の喪失と虚脱感に憑かれる主人公、それを見守る彼氏を通してその淵源を辿る物語。
 現実と幻想を行き来しながらも、なお現実に留まっていようとする姿に彼氏が救いの手を求めるものの、結局、その彼女の存在によって彼氏の異常さも浮かび上がってくるという逆説的な構図をとっている。つまり、ここでは彼女の「自己回復」が強調されているのではなく、彼氏の「他者回復」が示されているのである。恐ろしいほどの精神世界の中で。
 作家志望者は一読するべきだろう。ただし、一読して何も感じないのであれば今すぐにでもペンを置いた方がいい。

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紙の本天皇の影法師

2001/11/03 00:46

真実の発掘

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 今や猪瀬直樹はノンフィクション界の「貌」である。なくてはならない存在である。日本の知性だと言っても過言ではない。それは彼の実績、そして鋭利で優れた洞察力が嫌でも裏付けているのだから。
 ところで、話は少し逸れるが人は生きていれば様々な興味にぶつかるものである。当たり前である。が、その興味がたまたまとてつもないものだったらどうだろう。宿命と見るか、もしくは一時の気の迷いと見るか。仮に前者だとしてもはたしてそれを成せるのか。猪瀬直樹は背負ったのである。彼が出会った興味は幸か不幸か〈天皇〉すなわち〈近代〉なのである。常人ならば一刻も早く立ち去ったほうがいいだろうそのテーマを、猪瀬直樹は自らの宿命と課したのである。
 さて、本書はその〈天皇〉に近づくための第一歩である。大正天皇崩御後、いち早く新元号のスクープを報じたのは東京日日新聞の発表による「光文」だった。ところが蓋を開けてみれば「昭和」に、というところからこの物語は始まる。その元号説の謎は一見すると天皇制には関係ないが、しかしその脈絡のなさ、つまり関係あるようで関係のないことこそが〈天皇〉と〈国民〉の関係であるということを示唆しているのである。
 本書を一言で言い表せば歴史に埋もれた真実の「発掘」である。なるほどノンフィクションの役割とは、ある側面で見ればこういうものなのかもしれない、そう思わせてくれた。

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江戸幻想

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江戸時代にはなぜ革命が起きなかったのか。年貢の減免を要求する農民一揆は度々起きていたが、もっと根本的な革命、すなわち「士農工商」に対する下剋上はなぜ起きなかったのか……。
 磯田道史の『武士の家計簿「加賀藩御算用者」幕末維新』は数多ある江戸時代研究所の中でも出色である。見てはならない物を木陰からそっと眺めているような感覚すら味合う。なぜなら本書は、我々が江戸時代に対して抱くイメージを根底から覆しているからだ。
 『江時代は『圧倒的な勝ち組』をつくらないような社会であった。武士は威張っているけれど、しばしば自分の召使いよりも金を持っていない。武士は、身分のために支払う代償(身分費用)が大きく、江戸時代も終わりになると、それほど『お得な身分』ではなくなってきていた。』
 武士の多くは借金を背負い、身分ならではの多額の出費も強いられ、年収も多くはその一家の先祖がいかなる人物だったかによって決められていたという。時代劇では威張っているばかりの武士も、実は窮屈な生活を送っていたというのである。農民が革命を起こして武士の身分を奪取しようとしなかった理由の一つは、このためであろう。
 本書はその実情を、加賀藩の御算用者、今日では言えばさしずめ会計士の家系の家計簿から解き明かしたものだ。会計士が残した家計簿を基に分析・取材しているだけに、論文や調査報道の域に留まらない臨場感あふれる物語にもなっている。

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時代の渦中へ

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 戦争は時として人の運命をあらぬ方へといざなう。だが、それが仕組まれた罠であったらどうだろう。そうとは知らずに死んでいった者以上に、残された家族の心中ははかりきれないだろう。戦争がもたらすそんな悲劇を痛感させられる西木正明の『夢顔さんによろしく』の主人公、近衛文隆は、近衛文麿の嫡男にして細川護熙の伯父という、名門中の名門の跡取りである。
 戦前、プリンストン大学に留学し、その後、上海でも女性スパイと恋に陥るなどして奔放な生活を送っていた文隆。しかし一方で彼には政治的な先見性、交渉力、知識もあった。人脈も豊富だった。それゆえに彼のとりまきの中には、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀美もいた——というところから彼の運命のベクトルは時代のうねりに巻き込まれていく。
 奔放な生活を送っていただけに、文隆は異例の招集となる。そして旧満州で終戦を迎えるが、新妻を日本に残したまま抑留、シベリア各地の収容所を十一年間ものあいだ転々と移されるのである。その間、彼は家族に宛てて検閲に引っかからないよう細工を施し手紙を送る。それが本書のタイトルにもなっている「夢顔さんによろしく」である。家族はその意味不明な言葉が記された手紙を何度も何度も受け取る。それが文隆にとって、獄中から願いを込めた言葉であるとは知らぬままに。はたして「夢顔さんによろしく」とはどんな意味なのか。本書は史実を材にとった、手に汗握るミステリー仕立てのノンフィクション・ノベルである。

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紙の本砂の女

2002/05/11 23:26

シュールな絵画

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『砂の女』というタイトルにはどこか蠱惑的な響きがある。コケティッシュな匂いがする。シュールな香りが漂っている。見てはならないものを木陰からそっと眺めているような気がする。それは例えば全裸の女性が砂にまみれている姿。それは例えば夜な夜な誰もいない公園で砂を口しているグロテスクな女性。それは例えば砂場に埋もれた女性の死体。それは例えば砂場に全裸のまま仰向けになって「ああ、冷たい」と小声漏らす傷を負った女性——そのどれもがあまり日本的な情景とは言えない。そう、言うなれば『砂の女』はシュールレアリスムの絵画なのである。読んではならないのである。
確かに、多くの識者が言うように『砂の女』にはある種の回帰願望もあるのかもしれない。奇しくも本書が刊行されて間もなく、江藤淳が『成熟と喪失』で母の崩壊を謳い、以来、それはあらゆるジャンルで一人歩きするようになった。従って時代意識としても本書はその象徴であったのかもしれない。砂の穴は母という自然への回帰であった、と。
 しかし、繰り返すが本書は読み物ではない。鑑賞するものなのである。
 昔、小学生の頃だったか、かの有名なルネ・マグリットの『恋人たち』を観たことがある。怖かった。迫ってきた。二人の顔は布で覆われているが、まるで僕を見ているようでもあった。『砂の女』もそれと同様に、読者と書物が相互に向き合う一種の絵画なのである。

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紙の本原色の街・驟雨

2002/04/21 00:00

ファインダー

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 吉行は、今で言う風俗雑誌の仕事を経て作家になった人であり、その影響の下に出発した作家である。
 吉行が徹底的に描いたことは娼婦である。が、単に娼婦の人間模様、あるいはその行為を描いたのではなく、娼婦というフィルターを通して「女性」を描いたのである。
 更に、吉行の小説は一見すると思わせぶりで、数多くの娼婦が頻出するにも関わらず、性描写はほとんどない。そこが吉行の巧さであり、それこそが本物のエロティシズムなのである。簡単に云おう。女性の躰に「触れる」行為と、女性を眺める行為、後者が吉行の小説である。
 そしてそれは、「美」や「耽美」なる大袈裟なものに繋がらないからこそ、逆に吉行の小説は輝きを放つのである。
 

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紙の本刺青・秘密 改版

2002/04/16 21:23

美の極致

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自然主義流行の当時、谷崎の小説は軽視されていた。SMやレズビアン、更には盲目の少女と奴隷青年、と。結局のところ、当初は変態扱いされていたのである。
 ところが時代が一気に「売れ筋」を求めたとたん、谷崎は瞬く間に文壇の中心へと躍り出たのである。
 『刺青』。この作品は谷崎の処女作である。題名からして痛々しさを想像させられるが、しかしその肉体的恐怖がいつの間にか耽美なものへと変わっていく点に、読者は圧倒的なまでのカタルシスに遭遇するだろう。
 谷崎の多くの作品は、当時では志賀直哉、あるいは最近では町田康がそうであったように実験小説である。結局、伝統を学び、そして伝統を「壊した」者こそが最後には勝つのだろうか。

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一九七〇年の漂泊

2001/11/03 00:36

漂泊の人

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 はたして、自分とは何者なのか。どこから来てどこへ行こうとしているのか。この問いに答えられる者は誰もない。ともすれば気が狂いそうになるこの人生のテーマは、しかし私達の日常には存在しない。それが当たり前だと言わんばかりの顔で私達は日常生活をやり過ごすのである。
 その問いに、果敢にも自分の青春を費やした者がいる。足立倫行である。本書はその足立氏の自伝的青春ノンフィクションだ。
 六〇年代後半の学生運動華やかなりし頃、二二歳の足立氏はアリゾナ、メキシコ、ロンドン、スペインと足かけ四年にいたる漂白の旅に出る。政治闘争に揺れた日本に、映画製作のバイトにも別れを告げ、更には早稲田大学すらも中退し漂白の道を選んだのである。
 なぜそこまでするのか、と思う人もいるかもしれないが、しかしその問いは足立氏や、あるいは団塊の世代と呼ばれる人達には必要ないのである。なぜならそれがこの時代のノリだからだ。
 この時代、何もせずに過ごすことはそれだけで犯罪的だ——足立氏は本書のなかでそう言っている。なるほど若者達は敏感に時代の空気を感じ取り、真っ正面からそれと対峙していた、そんな時代だからこそ「自分とは何者か」という問いにも意識的だったのかもしれない。時代と対峙することは結局、自分と対峙することだったのである。本書を読んでふらっと旅に出たくなるのは私だけだろうか。

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紙の本東京物語

2007/03/14 20:05

青春の適齢期は

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世に年齢別の名言は多いが、だいたいが20歳までのもので占められている。「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」というポール・ニザンの言葉に代表されるように。
20歳前後には煌めきがある。誰もが思う。これから自分は何者にでもなれるのだと。あふれんばかりの性欲があって、精神も体力も強いから、いくら傷ついても明日を生きる活力は衰えを知らない。そんな時期であるがゆえに名言もまた、生まれやすい。
ところが、30歳前後に関する名言はあまりに聞かない。30歳前後というのは身の回りの環境が変化し出す時期でもある。結婚して子供が出来たり、親が病床に伏したり、社内では責任のある仕事を任されるようになる。だから、「僕は私はこうありたい」という思いは遥か忘却の彼方へ過ぎ去り、嫌でも青春と決別しなくてはならない。
直木賞作家となった奥田英朗の自伝的小説、『東京物語』(集英社文庫)は、30歳前後の男たちの心象風景を、ときに真面目に、ときにユーモアラスに描いた青春小説だ。
主人公は言う。
「たぶん自分は、29歳にもなって、将来は何になろうなどと考えているのだ」。
この言葉。30歳を目前に控えた独身男女の胸に迫ってくるかも。

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四畳半の頃…

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 昨今の大学生の代名詞と言えば何だろう。コンパ、バイト、麻雀、パチンコといったとこだろうか。しかし飽食な世の中にあってそれはむしろ当たり前なことなのかもしれない。
 ところが、だ。前述した大学生の代名詞に「学生運動」という言葉が加えられる時代があった。今から約三〇年ほど前のこと。人はそれを政治の季節と呼んだ。学生運動とも全共闘運動とも呼んだ。一部の学生達がゲバ棒と火炎ビンを手に、ヘルメットとマスクといういでたちでイデオロギーを振り下ろしたのである。結局は内ゲバ(仲間同士の争い、リンチ、なれの果ては殺し合い)という一般市民の論理を越える悲惨きわまりない行為へと突っ走ったが、しかし軽率ながらもある意味魅力的な時代であったといえるだろう。
 さて、その六〇年代後半の最大の山場といえば『東大安田講堂事件』である。本書はそれを焦点にしたノンフィクションだ。著者の佐々淳行氏は、当時、この事件の警視庁の責任者だった人。七二年の『浅間山荘』の際にかの有名な鉄球使用を発案した人でもある。
 したがって、本書は「警察側」の視点のものゆえに、学生運動経験者の作家や評論家が書いたものとは一線を画している。そこがいい。経験者が書いたこの手の本はあまりに感傷に浸りすぎていてつまらないのだ。色あせて見えるのだ。そういった意味で本書は警察という「権力」が、「反乱者」とどう対峙していたかが分かる貴重な一冊である。

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写真が語るとき

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 一枚の写真が、時には饒舌に何かを物語ることもある。それは例えば原稿用紙一〇〇〇枚にも勝るほどの勢いで。本書はまさしくその一枚の写真からすべての物語が始まる、手に汗を握るミステリー小説仕立てのノンフィクションである。
 では、その一枚の写真とは何か。エジプトのスフィンクスを背景に、江戸時代末期のサムライ達が写っているのである。現代人の目からはとても奇妙に見える。珍妙と言ってもいいかもしれない。なかにはパソコンを使って加工しているのでは、と疑う人もいるかもしれないが、その写真は新聞でも大々的に取り上げられているし、撮影日の一八六四年四月四日以来、資料館できちんと保管されているものなのである。
 写真は本書の表紙にもなっている。撮影日も明らかにされている。そのサムライ達一行の、三十四人の経歴も、そこを訪れた理由も多くが明らかにされている。政治家、医者、科学者、兵学者などそれぞれの立場の人がいた。なかには英語もフランス語も話せる人がいたという。「明治維新」の四年前のことである。
 一枚の写真は時には皮肉なものへと変貌する。知らなくていいことを知ってしまう。幸か不幸か歴史に埋もれた事実をも発掘してしまう。そして、勝者が作ってきた歴史を覆す力さえ持っているのだ。
 本書にノンフィクションという概念は関係ない。歴史に埋もれた真実の声なのである。

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父の肖像

2004/12/06 23:22

文芸愛好家からビジネスマンまで

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 今から七年ほど前のブライダルシーズン。慣れない背広を身にまとった僕は赤坂プリンスの建物を飽きずに眺めていた。「飽きずに」というからには理由がある。高級感が漂うその眩い建物の傍らには、ひっそりと、それでいて近代的な趣を残す鹿鳴館のような建物があたかも混入物のごとき目の前に現れたからである。いったいどのようなコンセプトでこのような建物になったのか。一瞬そんな問いが脳裏をよぎったが、従兄弟の結婚披露宴会場で気持ちよくワインを煽っているうちにやがてその疑問も風化していった——。
 ところが、本書『父の肖像』は僕のその疑問を記憶の底からたぐり寄せた。著者の辻井喬は夜な夜な筆をふるう小説家・詩人であるが、浅目覚めるとカフカの『変身』の主人公、グレーゴル・ザムザが巨大な毒虫に変身したように、彼もまた巨大な企業、西武王国の後継者、堤清二に変身する。だからといって本書を西武王国の軌跡と捉えるのは早計であるが、いずれにしても私小説的なスタイルをとっているのは間違いない。
 戦後、西武王国の創始者、堤康次郎は旧皇族の土地を買い漁っていた。敗戦の余波で世間離れした旧皇族の多くも否応なく社会人にならざるを得ない。そこに目をつけた康次郎は旧皇族の土地を買い、更にはその建物を日本の「ブランド」だと位置づけることによって、やがて次々と建てるプリンスホテルのいくつかにその建物の一部を原型のまま残したのである。いわば西武ブランドの原型は旧皇族という日本最古の伝統ブランドでもあるのだ。七年前、従兄弟の結婚式で赤坂プリンスを訪れた際の僕の疑問もこうして氷解していく。
 だが、本書の魅力はそうした堤康次郎にまつわる話だけではない。嫡出子である辻井喬がその父に対して、俺は本当に西武の後継者なのか、それとも作家こそが真の姿なのか、そもそも俺は誰の子供なんだ、と問い続け、自分の中に同居するいくつかの異質な人格と闘う力強さである。
 かたちはどうであれ、人間は親の影響を受けて育つ。わけても、潜在的なものは環境を変えても変わることはないだろう。本書はそうした逃れられない血脈に対する恐怖と畏怖の見本であり、我々の体内に流れる「血」にも一瞬の揺さぶりをかけるだろう。
 ただし、本書はあくまでも小説であるから、西武王国の軌跡や堤康次郎(と思われる)登場人物の言動は注意深く読まねばならないことを最後に付記してきたい。いずれにしても文芸愛好家からビジネスマンまで幅広い読者層に期待される作品であろう。

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紙の本太陽の季節 改版

2002/04/21 00:07

今も昔も

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 昭和31年、事件が起こった。それは、石原慎太郎というストイシズムを醸し出す、かつ世の中を達観する姿勢を示す青年の出現という事件であった。
 『太陽の季節』は文壇だけでなく社会にも大きな一石を投じ、更に石原はそれを楽しんでいたのだから今の都知事としての暴れぶりには納得できるし、同時に物足りなさも感じる。と言えば都庁の職員に怒られるだろうか。
 ともあれ、この作品には石原慎太郎の原点がある。モラルを打破し、自己肯定を貫く主人公。ボクシングを通して肉体的肯定に快楽を見出す主人公。この両者がシンクロした形で、主人公の生き生きとした息吹を伝えている。石原自身と共に。

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ゲームの始まり…

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 あのセンセーショナル事件から、何年が経っただろう。日本中を震撼させ、「うちの子も隣の子ももしかして……」と疑念を抱かせた神戸連続児童殺傷事件から、何年が経っただろうか。
 本書の著者、高山文彦氏は知る人ぞ知る気鋭のノンフィクションライターである。連続児童殺傷事件の記憶がまだ生々しい頃、フリーランスの物書きはこぞってこの事件のおぞましさ、異常さを謳った。が、しかし、今でもそのとき書いた文章に責任を持っているライターがはたして何人いるだろうか。高山文彦氏と社会学者の宮台真司氏だけであろう。
 高山氏は「想像力」と「自分の足」でこの事件の解明にあった。とりわけ事件そのもの対するアプローチではなく、「背景」に迫った点は類型の作品の中でも群を抜いている。
 少年Aの家族の実家を訪ね、その地域の歴史から少年Aが起こした事件の「動機」に迫るという短絡的な方法ではなく、脈々と受け継がれている家族の「歴史」から事件の本質を浮かび上がらせた方法は見事である。関係者の方はさぞかし嫌な思いをしただろう。だが、そこまで執拗に「背景」にこだわった点にこそ高山氏のライターたる所以があることもまた事実である。結局、少年Aに会うことは出来ない。だから距離を遠ざけるしかない、そのボーダレスの苛々は実は高山氏にとってのものではなく、少年Aにとってのものだといういうことを本書は示唆しているのである。

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