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la_repriseさんのレビュー一覧

投稿者:la_reprise

15 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ロリータ

2006/11/15 22:12

文庫版でロリータを読む

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

若島正氏による待望の『ロリータ』新訳がハードカバーで刊行されてからまだ1年も経たないのに、もう文庫版が発売された。それも若島氏による比較的詳細な註釈が付けられている。ハードカバーを約1年前発売当初に購入した者としては釈然としない思いもあるが、より入手しやすい形でナボコフの傑作が発売されること自体は望ましいだろう。
あらためて文庫で『ロリータ』を読み直してみると、初めて読んだときには全く気づかなかったような細部にまでナボコフが気を配り伏線を張りながら書いていることを発見してとても驚かされるばかりだ。実際、「訳者あとがき」で若島氏も読者に註釈とともに2度『ロリータ』を読むことを勧めている。例えば、本書の後半部分で重要な役割を果たす「クィルティ」という登場人物が様々な形で何度も暗示されていることが再読によって非常によく分かる。
この点だけを見ても、ナボコフがどれだけ小説の細部に気を使い全体の構成を把握したうえで作品を書いているかに驚きを覚える。『ロリータ』は他にも様々な箇所や方法で様々な工夫が凝らされていて1度ばかりか何度もの再読が求められる作品である。
扱っている題材が題材だけあっていろいろ誤解を受けることも多い作品ではあるが、『ロリータ』はまず文学作品として紛うことなき傑作である。ハードカバー版はほとんど註釈も付いていなくてとても不親切であったが、今回の文庫版には訳者による註釈が付属しているのでそれを参考にしながら読むことによって作品をよりよく味わうことができるだろうしその素晴らしさがさらに理解できるだろう。『ロリータ』のように何度もの再読に耐えそのたびに新たなる発見がある作品こそ、まさに「古典」と呼べる作品ではないだろうか。

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紙の本ねじの回転 デイジー・ミラー

2005/10/27 19:41

ジェイムズの新しさ

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、アメリカ出身の大作家ヘンリー・ジェイムズによる代表的な二つの中編「デイジー・ミラー」「ねじの回転」を収めたものである。「デイジー・ミラー」(1878)はジェイムズが35歳のときの作品、「ねじの回転」(1898)は55歳のときの作品であり、時期的に20年ほど離れたものである。
 「デイジー・ミラー」はスイスのヴェヴェーとイタリアのローマが舞台となっている。長年ジュネーブに住んでいるアメリカ人青年ウィンターボーンがヴェヴェーの豪奢なホテルでアメリカから来た若い女性デイジー・ミラーと出会う。デイジーはとても美しく魅力的な女性であるが男性に対して奔放な性格であり、ウィンターボーンは彼女に魅力と反発を感じながら翻弄されていく。
 「ねじの回転」はその大部分をイギリスの女家庭教師の手記が占めている。住み込み家庭教師の広告に応募した彼女は、ハンサムな独身の紳士である広告主に魅かれたこともあってその仕事を引き受ける。住み込み先の家にはえも言われぬほど美しい兄妹がいて彼女は自分の仕事に満足していた。しかし、その家で彼女は昔そこにいた女家庭教師と下男の幽霊をしばしば目撃し、その幽霊が兄妹に悪影響を与えていると信じるようになる。
 20年もの期間をおいて書かれた両作ではあるが、その根幹において共通点を見出すことができる。「デイジー・ミラー」ではデイジーが、「ねじの回転」ではフローラとマイルズの兄妹が、当初無邪気さや無垢を体現しているように見える。デイジーは周りの保守的な眼も気にすることなく独身の男性と一緒に大通りを歩くなど、自由奔放に振舞う。フローラとマイルズははっとするほど美しく、素直で純粋無垢な姿を見せる。しかし、どちらの作品でも主人公(ウィンターボーンと女家庭教師)は次第にその無邪気さに不信感を持ち、もしかするとその純真無垢は装われたものなのではないかと疑問に思い始める。悪意をもった表面的な無邪気さなのか、ただ無邪気さに悪意を読み込んでしまっているだけなのか、両作の主人公も我々読者もどちらか分からなくなってくる。
 このような共通点をもつ二つの作品ではあるが、「ねじの回転」のほうが20年後に書かれたせいもあってかさらに複雑さを増している。その大きな特徴のひとつは『ねじの回転』の大部分が女家庭教師の視点から彼女の手記という形で書かれているということだ。つまり、読者はこの幽霊事件という不思議な出来事を女家庭教師の意識を通してのみ発見していくので、彼女が語っていることは本当なのか嘘なのか、彼女は正気を保っているのか狂気に陥っているのか、我々は判断することができない。その点においてジェイムズも巧妙で、どちらが正しいのかはっきりとした言質を与えることは決してない。
 一世紀以上前の作品ということもあり、物語の舞台や風俗においてどちらの作品も古さを感じさせる部分はあるかもしれない。しかし、そのような物語設定の古臭い部分は作品にとって重要ではないだろう。むしろ着目すべきは作品の持つ複雑さであり曖昧さである。その点においてこそ「デイジー・ミラー」も「ねじの回転」も決定的に新しいのであり、現代文学につながる面を持っている。過去の作品に新しさを見出すこと。いま現代において古典を読む意義とはまさにそこにあるのではないだろうか?

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紙の本移民たち 四つの長い物語

2005/10/12 22:10

鈍磨する記憶

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『移民たち 四つの長い物語』は白水社の瞠目すべき「ゼーバルト・コレクション」の第一弾として刊行された。ドイツでは1992年に、たった四つしかないゼーバルトの散文作品のなかで二番目に上梓されたものだ。ゼーバルトの作品としては初めて英訳され、かの故スーザン・ソンタグにも絶賛された。日本で2003年に刊行された『アウステルリッツ』のように『移民たち』もまた非常に美しいモノクロ写真が小説内に散りばめられている。そして『アウステルリッツ』にも劣らぬ傑作である。
 『移民たち』はひとつの長編小説ではなく、長さがまちまちの四つの短編(から中編)の小説が集まったものだ。だが、この作品は関連のない物語を集めた短編集というよりいわゆる連作だと言ったほうが良いだろう。四つの短編ではそれぞれ「ドクター・ヘンリー・セルウィン」、「パウル・ベライター」、「アンブロース・アーデルヴァルト」、「マックス・アウラッハ」という四人の移民たちの物語が語られている。ゼーバルト自身を思わせる語り手の「私」が様々な形で彼ら各々に出会い、彼らが内に秘めたる辛い記憶を持っていることに気づく。そして「私」そして我々読者は、本人もしくは彼らに親しい者によってその記憶が静かに物語られるのを聞くことになるのだ。
 『アウステルリッツ』のようにこの作品でも記憶がテーマになっている。ここで記憶とは決してコンピューターからデータを取り出すように何の苦労もなく想起されるものではない。四人の移民たちが持つ記憶は一瞬思い起こすだけでも苦しみを伴うのであり、苦しさのため時にはそのような記憶を持っていたことさえ彼らは忘却してしまっているのだ。移民たちの中のひとり、アンブロース・アーデルヴァルトは次のように自分の覚書に記している。
 記憶とは鈍磨の一種だろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだ———時の無限のつらなりをふり返るというより、あたかも、天を衝いてそびえている摩天楼のはるかな高みから、地の底を見下ろしているかのように。(p.157)
 マックス・アウラッハのアトリエの床に日一日と柔らかな塵が降り積もっていくように、記憶もまたはるか地の底で苦しみと慎みという塵に静かに覆われその姿が鈍磨されていくのだ。そうした記憶の結晶のひとつがこの作品を美しく飾っているいくつものモノクロ写真だと言ってよいのではないだろうか? 時の経過のため荒んでいる墓地、荒れ果てたテニスコート、かつて豪華さを誇った高級ホテル、昔旅行のときにつけた覚書帳の擦り切れた表紙、といった写真はまるで時間が経つにつれて塵やほこりを被ったかのように鈍い光を放っている。
 『移民たち』の四つの物語は記憶を秘めた移民を主人公としているという以外にも互いに密接に関連している。それぞれの物語の枠を超えていくつかのイメージが反復される。さらに、様々な関連性をもったイメージ同士が照応し互いを照らしあう。それらのイメージを探り当てその上に積もった塵をそっと拭い去るためにもこの作品は一読だけでなく更なる再読を我々読者に求めるのかもしれない。

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ボディ・アーティスト

2005/10/23 17:38

奇跡的に美しく危うい小品

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ミシミシと軋む音を耳にしながら薄く氷の張った湖の上を割らないようにそろりそろりと歩いていく感触。ドン・デリーロの『ボディ・アーティスト』を読む体験はまさにこのような感覚とともにあるのではないだろうか? あえて表面に張った氷をどんどんと削って研ぎ澄ましていきその上をそっと進んで行く。少しでも気を抜いてしまえばいつでも氷は割れて世界は崩壊してしまうかもしれない。そんな危うい感触がこの作品には満ち満ちている。
 ドン・デリーロはニューヨーク生まれのイタリア系アメリカ人の作家。ノーベル文学賞の候補にも挙がったという噂があるほどのアメリカを代表する作家である。『アンダーワールド』などの大作で知られるデリーロがアメリカで2001年に邦訳で150ページ余りの中編小説を発表した。それがこの『ボディ・アーティスト』である。主人公であるパフォーマンス・アーティストのローレンは映画監督の夫レイとともに海辺の家に住んでいる。ある朝、車に乗って出かけていったレイはニューヨークにある元妻のアパートで突然自殺してしまう。夫の自殺の衝撃に浸ったままのローレンは家の中に正体不明の青年が隠れているのを見つける。「タトル先生」と彼女によって名づけられたその男は言葉や時間の脱臼した世界にひとり生きていて、かつてのローレンやレイの会話を不意にテープレコーダーのように繰り返したりする。
 まずこの作品で特筆すべきは文章に漂う緊張感でありその研ぎ澄まされた美しさである。余計な説明や描写は一切削り取られていて文ひとつひとつが硬質の美しさを保っている。本書の帯で浅田彰氏が「無駄のない正確な文章は既にして詩である」と言っているのは素直に首肯できることであろう。さらに、それぞれ文と文の間、段落と段落の間には滑らかな接続が欠けているせいもあってズレやひずみが介在している。そのズレが小説世界の不安定さを浮かび上がらせ、作品を読み進めていく読者の心にも不安や危うさといった感情を呼び起こしていくのである。例えば次のような文章。
「ラジオの声は天気予報を伝えていたが、彼女はそれを聞き逃した。それが終わるまで、天気予報だと気づかなかった。
 彼は頭を後ろにそらし、左右にゆっくりと動かした。首筋の凝りをほぐすために。
 彼女はイチジクのついた手の指を吸いながら、店で買わなければいけないものは何かと考えていた。
 彼はラジオのスイッチを切った。
 彼女は紅茶をすすり、新聞を読んだ。」(p.25)
 無駄な説明は省かれ、文と文の間にズレや歪みが存在している。統一感に欠けたこの歪んだ世界こそまさに『ボディ・アーティスト』の魅力を形作っていると言ってよいだろう。
 『ボディ・アーティスト』は散文作品でありながらも詩のように研ぎ澄まされた美しい小品である。その文章を日本語に翻訳するというのは難業であるが、上岡伸雄氏の訳文は比較的健闘している。この作品の美しい詩的な文章を味わいつくすには何回も読むことが必要であろう。しかし、『ボディ・アーティスト』はまさにそのような再読に値する傑作であり、時には原書に触れデリーロ自身の文章を読んでみるのも一興であるかもしれない。

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紙の本黒い時計の旅

2005/09/30 21:52

現代アメリカ文学の傑作

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この度スティーヴ・エリクソンの傑作との誉れ高い『黒い時計の旅』が白水社Uブックスが復刊された。以前、福武書店で1990年に刊行されてものの復刊で、原著は1989年に出ている。
 前半部分は「世間で評価されているほどではないかなあ」と思いながら読んでいたのだが、主人公の大男がウィーンに行ったあたりから段々と面白くなってきて最後にはこの作品に引き込まれてしまった。この作品はいわゆる「パラレルワールド」ものであるとよく言われるが、第二次世界大戦でヒトラーが負けずに第三帝国が続いている世界を描いているという点で、確かにそれは間違いであるというわけではない。しかし、普通の「パラレルワールド」ものと違って、この作品はそのようなあり得なかった世界を想像/創造することにマニア的に耽溺するのではなく、「パラレルワールド」と「現実の世界」との複雑な絡み合いと往還にこそその特徴と魅力があるだろう。例えば、次のような魅力的な文章。
 埋葬されたかのように横たわりながら、彼女は三つの瞬間の中に同時に存在している。スーダンの森の落葉の下に埋もれ、ウィーンのアパートのベッドに横たわり、ダヴンホール島の岸辺の手漕ぎボートの底に横たわっている。(中略)雨がアフリカの落葉に、オーストリアの屋根に、ボートに掛けられた防水シートに叩きつける。三つの違った瞬間、彼女が同時に生きている三つの瞬間において、雨はみな同じである。(p.247)
 この「彼女」とは、微妙な差異を含みながら、大男バニングがウィーンのあるアパートの窓辺にいるのを見かけた少女デーニアでもあり、彼が自分のポルノ小説のなかで創り出した女でもあり、ヒトラーが愛し続けた女ゲラでもある。デーニアは「ヒトラーが第二次世界大戦で負けた」「現実の世界」のなかに生きており、バニングは「ヒトラーが大戦で勝利した」「パラレルワールド」に生きている。それら複数の世界が複雑に錯綜した形で展開され、エリクソン独自の特異な幻想力で肉付けされている。そして、「パラレルワールド」と密接に結び付けられた「現実の世界」はもはや我々の日常的なリアリティからどんどん離れて行き現実性を失って幻想に近づいていく。
 現在のアメリカ文学のなかでも、その幻想力、構成力において稀有な作品だと思う。一般的にエリクソンの幻想の力ばかり強調されるきらいはあるが、実際作品を読んで見るとかなり計算されて書かれていることがよく分かる。前半部分には、後から気づく細かい伏線が敷かれていて、後半部分で展開されていたりする。そういった意味でも柴田元幸氏の「魂のポストモダニスト」というエリクソンの形容は当たらずとも遠からずといったところだろうか。

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目白雑録 2

2006/11/17 15:25

金井美恵子の「ひびのあれこれ」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

何気ない日常起こったことについてただとりとめもなく書いているようでいて、その実そこには普段気づきそうで意外に気づくことのない物の見方や、いわゆる「常識」といったようなものによって曇らされてしまった眼には不可能であるような洞察を垣間見ることができるのが金井美恵子のエッセイを読む面白さではないかと思ったりもするのだが、「目白雑録」(と書いて「ひびのあれこれ」と読む)というエッセイ集の第二弾であるこの本のなかでもそのような金井美恵子らしい鋭い洞察を当然いくつも見ることができて、このエッセイ集を気軽な気持ちで読み進めていきながらふとそのような箇所に遭遇するといつも驚きと痛快さを思わず感じるわけで、例えば浅間山噴火で灰を被り売り物にならなく
なってしまったキャベツを通常の半額の百円で売り被害農家の支援をしているというニュースのなかで、そのキャベツを買った主婦が「外側の皮を取れば灰で汚れていないし、少しでも、被害にあった農家の人たちを支援できればねえ」とインタビューで答えるのに金井はいらだち、安いから買ったと言えばいいのに「少しでも支援する」というなら五百円でも千円でも払え、とキツイ一言を述べたあと、青山ブックセンターの倒産騒ぎの際に広がった文化人による支援の輪にもチクリと皮肉を言ってから、「ようするに、支援というのは、ささやかで、決して自分の負担にはならない範囲で出来る何かなのであって、どの場合でも、それをすると、経済的負担はほとんど軽微なうえに、良心は満足、というものなのかもしれない」とさらっと書いているのを読むと、なるほどそうだなあと読者としては思わされるのであり、そのような発言をそこここに見つけることが金井美恵子のエッセイを読むことの楽しみだとあらためて気づかされるわけなのだが、だが楽しみはそれだけではなく、まだスカパーのヨーロッパサッカー中継に
夢中になるのは分からなくもないがアメリカのプロレスWWEにも興味を持ち日本公演にまで行ってしまったりすることや、飼い猫の「トラー」の病気ややんちゃぶりと格闘する金井美恵子の「ひびのあれこれ」を見ることができるのもまたもうひとつの楽しみなのでないかと思ったりもするのだ。

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黒沢清の映画術

2006/10/06 01:52

黒沢清ファンだけでなくすべての映画ファンのための本

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今や「Jホラー」を代表する映画作家として内外で認められてい黒沢清だが、意外に彼の作品群全体に関してはあまり知られていないのではないだろうか? 黒沢清は高校時代に8ミリで映画を撮り始め、大学で有名な「パロディアス・ユニティ」を結成して自主映画を製作し、徐々に商業映画に進出して新作『LOFT』を発表した現在にまで至る。今では傑作『CURE』等のイメージが強いだろうが、それ以前には哀川翔らを主演にしたVシネマを大量に撮っていたりTV映画の演出などもしていた。その頃の話も含めて、幼少の映画体験から最近の作品まで黒沢自身が真摯に語ったインタビュー本がこの『黒沢清の映画術』である。
自主映画時代、Vシネマ時代、『CURE』以降、それぞれについてさまざまなエピソードが語られている。もともと黒沢清はあまり自分自身のことを饒舌にかたるタイプの人ではないので、信頼できるインタビュアーに対して誠実に語っていてこの長大なインタビューは貴重である。さらに、自身の作品に関しても撮影当時の考えや心境が語られていて興味深い。だが、やはりもっとも興味をそそられるのは映画というジャンルについての黒沢清の「原理的」考察が語られた部分であるだろう。例えば、ワンカットで撮ることへのこだわりを語った箇所は黒沢の作品を見たことのある人にとって素直に納得できるものだろう。
「ただ、これは映画を撮る者としては当然のことですが、昔から、あるシーンがワンカットで撮られているかどうかが、とても気になっていました。監督の仕事は、突き詰めればカットの始まりと終りを決めることでしょう。僕はそのカットを不用意に割るべきではないと思っています。それがワンカットであることが重要なのです。」
現在どのくらいの映画作家がこのほどのこだわりをもって映画を作っているだろうか?
他にも物語や心理に対する考え方、「幽霊」の取り扱い方などに関して語られている。そこには映画というジャンルに対する黒沢の信頼が透けて見えている。彼にとって映画とは「原理的に、本当にあったことしか映」らないメディアであって、それこそが小説などの他ジャンルから映画を切り離すものなのである。そのような映画というジャンルにおいて今や海外でもその名を知られるようになった黒沢清をよりよく知るためにもこの『黒沢清の映画術』は欠かせない本であると言って良いだろう。

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紙の本愛人

2005/12/07 20:58

イマージュとしての小説

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

フランスでは1984年に発表されるやいなや、そのスキャンダラスな内容のせいもあってか、たちまちベストセラーとなり、ゴンクール賞まで受賞した作品である。この作品はあるひとつの映像(イマージュ)、さらに複数の映像をめぐって書かれている。小説の冒頭でデュラスは次のように書く。
「わたしはあの映像のことを考える。いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ。これがわたしだとわかる像、自分でもうっとりとしてしまう像。」
デュラスの心のなかに強く刻み込まれたこの映像をきっかけとしてこの作品は語られ始める。それはいったいどんな映像か? まだ15歳の彼女がメコン河の渡し舟に乗り、ひとり手すりに腕をかけて広大な河を静かに眺めている。その船上のすぐそばにはお仕着せを着た運転手つきの黒い大型リムジン。その中からヨーロッパ流の服装をした中国人が彼女をじっと見つめている。そうした映像、デュラスにとってかけがいのないものであるが決して写真に撮られることのなかった映像がこの作品の起源にある。
『愛人 ラマン』を読んでいると、デュラスはあたかも写真や映像を見ながらそれを描写しているような印象を受ける。訳者の清水徹氏によると、実際この小説は、デュラスの人生における写真と自分の映画からのスティルをアルバムにしてそこにデュラスが文章を加えるという企画がきっかけとなって構想されたということだ。この決して写真に撮られることのなかった映像のほかにも、母や兄弟と撮った写真についてデュラスはこの小説のなかで何回も言及している。現実に写真として記録されたどうかは問わず、様々な映像を描写するかのようにこの作品は書かれているのだ。
主人公の人称が一人称の「わたし」と三人称の「彼女」や「娘」との間で揺れ動くのもこのせいだろう。外部にある映像を描写するように書かれるときにはデュラスは他人に言及するように三人称を用い、その映像の内部に自分が入り込んでいるかのように描かれるときには一人称が用いられると言えるのではないか? それに加えて、この作品には現在と過去(そして未来)との間の往還もある。思い起こされる子供時代の出来事、印象的な女たちについての回想、母や兄弟との思い出などが小説内に散りばめられている。あたかも平面の上に時代を異にする映像を並べて、それを眺めながら文章が綴られていくような印象だ。
『愛人 ラマン』はまさに文章によって描かれた映像のアルバムだと言えるだろう。デュラスの心に刻まれた映像、実際に存在する映像がデュラスの流麗な文章によって展開され、「流れゆくエクリチュール」のなかへ注ぎ込まれていく。まるで映画を、それもデュラスの映画を見ているような感じさえしないだろうか? すでにこの作品はジャン=ジャック・アノーによって映画化されているが、デュラス自身によって監督された『愛人 ラマン』をぜひ見たかったというのはおそらく私だけではないだろう。デュラスが写真として存在しない映像を心に思い浮かべていたように、この小説を読みながら、存在しないデュラス監督作品『愛人 ラマン』を想像してみるのも一興ではないだろうか?

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『ロミオとジュリエット』の魅力を解き明かした快著

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近『ハムレット』や『ヴェニスの商人』などシェイクスピア作品の新訳を立て続けに刊行している河合祥一郎氏がみすず書房の「理想の教室」シリーズから『ロミオとジュリエット』をやさしく解説した本書を上梓した。シェイクスピアを全く読んだことのない人でも知っている『ロミオとジュリエット』の物語。この人口に膾炙した作品が気鋭のシェイクスピア学者の手によって見事に解き明かされている。
 本書は大きく三つの部分に分かれていて、「第一回」では『ロミオとジュリエット』における「時間のトリック」が、「第二回」では恋と名誉というテーマが、「第三回」では「韻」などのテクストの形式が分かりやすい口調で語られている。その三回の「講義」を通して強調されているのは、一見単純な悲劇にみえる『ロミオとジュリエット』が手練手管とも言えるようなシェイクスピアの卓越した技巧によって形作られているということである。例えば、「第三回」に登場する、ロミオがジュリエットを「口説いて」、キスをするシーン。若い二人が出会ってからわずか14行の台詞を話しただけでキスをしてしまうのだが、その台詞が見事にソネット形式の韻文となっていること、そのソネットが終わったと同時にロミオとジュリエットがキスをするということが、シェイクスピアになじみのない読者にも分かりやすく説明されている。そして本書を読み通していくと、「第一回」で解説される「時間のトリック」も含めて、『ロミオとジュリエット』、さらにはシェイクスピア作品全体がリアリズム的な整合性や自然らしさに囚われることなく、むしろ矛盾をはらんだ雑多さで成り立っていることに我々読者は気づくことになるのである。
 死をも厭わない悲恋物語と単純に読まれてしまいかねない『ロミオとジュリエット』だが、そこには様々な技巧が施されている。本書はそれを巧みに説き明かしている。同じ河合氏が訳した『新訳 ロミオとジュリエット』(素晴らしい訳だと思う)とともに読まれたとき、『ロミオとジュリエット』という作品の魅力が読者によってさらに実感されることだろう。

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リープ・イヤー

2005/11/10 00:51

ノンフィクションというより小説として現在は読むべきではないだろうか?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書のタイトルである「リープ・イヤー」とはいわゆる「うるう年」のことである。しそしてアメリカ人にとってうるう年とはアメリカ大統領選挙の年でもある。本書はエリクソンが1988年アメリカ大統領選挙を取材した記録が元になっている、一応「ノンフィクション」に分類される作品だ。
 しかし、この作品は作家が選挙を取材したというただのノンフィクションではない。実際、冒頭からいきなり、第三代大統領トーマス・ジェファーソンの奴隷/愛人であったサリー・へミングスがエリクソンに話し掛けるところから始まっている。彼女はこの場面だけではなく、この作品の至るところで取材中のエリクソンの前に現れ、すでに死んでしまったはずの「トーマス」の姿を探し続ける。エリクソンは大統領選候補者や元大統領について考察を加えながらアメリカという国の「深淵」というテーマを追っていく。エリクソンにとってうるう年、そしてうるう日とは深淵を象徴するものである。彼は言う。「うるう年の余分な日という、時が時間の穴をめざして崩れ落ちていく日なら、地面だって崩れ落ちるかもしれない。」エリクソンが惹かれていくのは深淵を抱えた候補者たちだ。例えば、ゲイリー・ハートは大統領になることよりもひとりの美しいブロンドを抱きたいという欲望を優先した。そのような欲望という深淵をもっていた人物の代表格こそ第三代大統領トーマス・ジェファーソンだ。そこに彼の愛人サリーがこの作品に登場しなければならない理由がある。サリーとはまさにそうした深淵を体現する人間なのである。
 『リープ・イヤー』は他のエリクソン作品よりも文体的に静かな印象を与える。彼の小説作品は得意の幻想力でもってぐいぐい押していくような文章だが、『リープ・イヤー』では淡々と自らの考えや事実を綴っていく文章が大部分を占めている。そのような静穏な文体もその魅力のひとつであるのだが、それだけでは終わらない。淡々とした文章がいきなり幻想へと変化してしまう瞬間もまた大きな魅力を形作っているのである。エリクソンは『リープ・イヤー』のなかで世界中で不当に逮捕・監禁されている人々を釈放するよう求める手紙をアムネスティの要請に従い何通も書いている。最初の何通かは丁寧で穏当なものだが、最後の一通は丁重な文体から罵るような文体へといきなり変化していくのだ。
「私はアムネスティ・インターナショナルから、この懇願が告発めいたものにならないよう、閣下や政府、政治組織をそしるものにならないようにと忠告されています。そしてこの手紙で状況を御理解いただければ必ずや心を動かされて不正を正してくださるにちがいないという信頼のもとに訴える方がいいとも勧められています。畜生、これが現状だ、礼儀正しいと思ってくれたかい? 最高権力を握っているというおまえの優越感をくすぐって、一度くらいは人間らしいことをする気にさせたかい? 」
 『リープ・イヤー』は大統領選挙を題材とした「ノンフィクション」作品ではあるが、むしろ小説作品であると考えた方がいいかもしれない。現実の出来事を取り上げているからこそ、その現実をどのように改変するかという点においてエリクソンの小説家としての気概や才能、本能をむしろ彼の小説作品より明確に窺うことができる。十何年も前の大統領選挙を扱った作品であるし、今読むと古びてしまっている部分も多いかもしれない。しかし、小説として読むならば『リープ・イヤー』はいまだに様々な魅力をもった作品であると言えるのではないだろうか?

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紙の本ルビコン・ビーチ

2005/11/05 00:44

エリクソンの幻想力が我々の理解を超えるほど展開された傑作

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『黒い時計の旅』で知られるアメリカの作家スティーヴ・エリクソンの第二作目。原著は1986年に、邦訳は1992年に刊行された。三部構成になっていて、それぞれケール、リュウリン、レイクの物語が語られる。彼らは一様に南米から来た少女「キャサリン」に魅了され、三つの物語は彼女の存在によって繋ぎあわされている。
キャサリンは人々を狂気に至らせるほど美しく、その目は鋭い光を放ち灯台のように船が座礁しないよう助けたりするほどだ。第二部でキャサリンは南米の奥地から「アメリカ」を求めてロサンジェルスにまでやって来る。そこで彼女はリュウリンと出会い、彼の家でハウスキーパーとして働くようになる。彼女には目を開けたまま眠ることができるという特技があって、夢のなかで彼女は時間・空間を越えて様々な場所に出現することができる。例えば、第一部のケールの独房に突然現れたり、ケールの働く図書館の保管庫に出現したりする。第三部では、第一部と第二部で展開されたイメージが再び登場し、キャサリンやケールも現れる。レイクは年老いたケールとイギリスで出会い、ケールと同様キャサリンに魅了されてキャサリンと「西」を求めて列車でルビコン川を越えようとする。
他のエリクソン作品によく見られるように、この作品でも不可逆的であるはずの時間は易々とあらゆる方向に踏破され、空間の物理的な法則を越えて登場人物は色々な場所に出現する。三人の男はキャサリンのイメージに強迫的に付きまとわれ、時空間を超越した存在であるキャサリンを空しく求め続ける。キャサリンこそ浮遊する記号としてこの作品内を漂いその物語を駆動させている。
『ルビコン・ビーチ』はエリクソン作品の中でも最もその幻想力が発揮されている作品のひとつだろう。誇大妄想的な幻想がその物語を綴っていく。実際、この作品を読んでいくなかで意味の分からない言葉や出来事に我々読者はしばしば出会うことになる。特に作品冒頭ではなかなか何が語られているのか分からず途方に暮れることもあるかもしれない。しかし、そのような不可解さを越えて読み進めていくならば、決して判明ではないが途方もなく幻想的で美しい世界が展開されるのを発見することになるだろう。『ルビコン・ビーチ』は確かに読みやすい小説ではないかもしれないが、その分我々の日常的理解を超えた様々な美しいイメージが展開される傑作である。

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ミステリと文学の交錯

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『モーダルな事象』は「本格ミステリ・マスターズ」という新しいシリーズの一冊として刊行された。これまでも奥泉氏はミステリと「純文学」とを交差させるような作品をいくつも上梓してきたが、今回このようなミステリのシリーズから著作を出すということは今まで以上にミステリ小説としての完成度を求められると同時に、「純文学」作家としてはただの謎解きを越えた文学としての部分も期待されるということだ。この作品は果たしてそのような困難な試みは成功しているのだろうか?
 桑幸こと助教授桑潟幸一が勤務する大阪の四流短期大学のすぐ裏の山中で首のない死体が見つかったことから事件は始まる。さらに溝口俊平という無名の童謡作家に関して桑幸と知り合いになった猿渡と名乗る編集者が行方不明となった後、香川県にある楠根島で男の頭部が見つかりそれが実は先の死体の頭部であって猿渡のものであることが判明する。そして東京の出版社が溝口俊平の遺稿集を出版する企画を通じてこの事件に興味をもった北川アキとその元夫の諸橋倫敦が、二人とも大のミステリファンであるということもあって独自にこれらの事件の捜査に乗り出す……
 この作品は基本的に二つのパートに分かれていて、ひとつは北川アキと諸橋倫敦の「元夫婦刑事」が登場する部分である。ミステリ好きの登場人物が素人探偵として捜査をするというのはミステリ小説によくあるパターンであり、ここで奥泉氏はミステリというジャンルを踏襲している。彼らは(偶然や直感に頼る部分はあるものの)主に謎解きという合理的なミステリの部分を担い、現在という時間において事件を解決しようと様々な努力をする。もうひとつは桑幸の視点を通して描かれるパートである。ここではミステリに収まらない、むしろ「純文学」に(さらにSFや伝奇小説にも)属するような幻想のシーンが見事に綴られていく。そしてその幻想は、最初現在の出来事の幻想であったものが過去の恐ろしい幻想へといつの間にか横滑りしたりするなど、溝口俊平の別荘で大戦中に起こった過去の出来事へと主に結びついていく。
 これら二つの異なるジャンルに属すると同時に異なる時間範疇にも属するパートが交互に姿を現し微妙にすれ違いつつ絡み合っていく。それらが華々しく交差するクライマックスを迎えるのは、(ネタバレの可能性のため詳しく言えないが)小説の終盤において同じ一つの章の中で視点が桑幸から北川アキへ、そして北川アキから桑幸、再び桑幸から北川アキへと往還する素晴らしいシーンである。(普段一つの章は単一の視点からしか語られることはない。)そこで桑幸は幻想のなかで現在において知り合いである或る登場人物の子供時代の姿(それは過去に属する)に出会い、その場面に北川アキも間接的にではあるが立ち会うことになる。そのようなシーンが視点を交替しながら同一の章のなかで時間の軛を超えて描かれるのである。
 アトランティスや、ロンギヌス物質、MD世界心霊教会といったSF的ギミックが満載であり駄洒落(実はこの作品の中で重要な意義をもつ)も含めたユーモアにも満ちていて、この作品はその点でも楽しく読める本であることは間違いないだろう。さらに、小説内で起こる殺人事件や溝口俊平などを扱った架空の新聞記事・雑誌記事が様々な文体を駆使して「捏造」されておりそこにも奥泉氏のユーモアと力量を窺うことができる。ここで最初の問いに戻るならば、『モーダルな事象』はミステリと「純文学」を両立させるという困難な試みにまさに成功したと言えるのではないだろうか。

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紙の本フランクリン自伝

2005/11/01 01:52

アメリカ文学の古典中の古典

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『フランクリン自伝』はその名の通り、アメリカ建国の父のひとりベンジャミン・フランクリンが五十三歳までの人生を語った自伝である。だが、ただの著名人の自伝であるというだけではなく、アメリカ文学史を語る上で欠かすことのできない古典中の古典である。

 昔からこの本は立身出世のバイブルや道徳教育の教科書として理解され用いられてきた。おそらくこの傾向は今でも多かれ少なかれ続いているだろう。実際読んでみると、確かに彼がどのように成功していったかや自分の徳を育てていったかが具体的な例を出しながら説明されている。そこで興味深いのは、フランクリンがプラグマティックな態度に徹していているということである。フランクリンは決してただ「勤勉に努力せよ」や「正直に自分の内面に向き合い徳を育てよ」といった抹香臭いお題目を並べるわけではなくその目標に達するための具体的手段を提示する。例えば徳育に関して言えば、フランクリンは節制や誠実といった「十三の徳目」を自分で作り上げ、その実践の仕方も教授する。それ専用の手帳を作りそこに表を描いて、守ることのできなかった徳目にチェックをいれ段々とチェックの数を減らしていくという方法だ。

 さらに、フランクリンにとって道徳とは自分の内面において徳目を守ることだけではなく、むしろその外観、つまり徳目を守っているのを人々に見せることが重要なのである。フランクリンは次のように書いている。
 「商売人としての信用と評判を維持するため、ただ“実際”に勤勉と倹約を心がけるだけでなく、“外観”からも、その反対にみえることがないように気を配った。質素な服を着て、遊び人が集まる盛り場などにはぜったい顔を出さず、魚釣りや狩猟にも出かけることをしなかった。(中略)そしてまた、私は自分が身分相応に商売をやっているということを示すために、ときどき卸売りの店で買いもとめた紙を手押し車にのせ、町の通りをみずから押して帰ることにした。」
自分自身において道徳的であることだけが必ずしも重要なのではなく、自分が道徳的であることを見せるということ。それによって人からの信用や評判も高まり商売もますますうまく行くようになる。フランクリンは道徳においてもプラグマティックであり理神論者として道徳を決して宗教的に捉えることをしなかった。
 この実際家としての側面において『フランクリン自伝』は立身出世のバイブルとして読まれることになったのだろう。道徳でさえもプラグマティックに思考するというのはキリスト教の伝統の強いヨーロッパではなかなか考えにくいことだ。まさにフランクリンはひとつのアメリカ人像の典型であり、トマス・カーライルが形容するように「すべてのヤンキーの父」である。むしろ、フランクリンこそがそのようなアメリカ人像を作り上げた本人であると言ったほうが正確かもしれない。アメリカ文学史の話に戻れば、アメリカ文学とはフランクリン的アメリカ人像に沿って、もしくはそれに抗して、書かれた文学であると言えないだろうか?実際、訳者の渡邊氏が書いているようにマーク・トウェインやハーマン・メルヴィルはフランクリンを激しく批判している。その意味において『フランクリン自伝』はまさにアメリカ文学史における古典中の古典なのである。

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紙の本シティ・オヴ・グラス

2005/10/17 04:46

分身の小説・世界

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アメリカでは1985年に刊行された『シティ・オヴ・グラス』は日本でも人気の高いポール・オースターの実質的処女小説であり、『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』と続く「ニューヨーク三部作」の第一作目である。訳者あとがきにもあるように、刊行当初アメリカでも日本でも一風変わったミステリとして受け止められていた。だが、ミステリ固有の意匠は色々と登場するものの、実際に読んでみるとミステリとは全く異なるジャンルに属する小説であることが分かる。
 ダニエル・クインという、元詩人で今は推理小説を書いている主人公の元に間違い電話が何回も掛かってくる。その電話はポール・オースターという名の探偵宛のもので、クインは最初間違い電話として処理をするのだが3回目に掛かってきた時にはポール・オースターを装って彼は依頼された仕事を引き受けてしまう。そしてクインは探偵ポール・オースターとしてその仕事を始め、次第に仕事にのめり込み狂気へと近づいていくことになる。
 『シティ・オヴ・グラス』には様々な分身たちが登場しこの作品の特異性を形作っている。推理小説を書く時クインはウィリアム・ウィルソンという筆名(もちろん筆名も分身のひとつだ)を使っている。言うまでもなくこの名前はポーの短編小説に由来している。「ウィリアム・ウィルソン」という作品は、ウィリアム・ウィルソンが全く同じ名前と生年月日をもつ人物に影のように付きまとわれるという分身を主題とした短編であった。すでに作品冒頭において著者オースターは分身の主題を提出しているのである。そして、クインに仕事を依頼したのはピーター・スティルマンという名のちょっと変わった人物なのだが、彼の父の名前もまた全く同じである。(その仕事の内容とは実は父ピーターが息子の自分を殺害しようとしているので守って欲しいというものだ。)他にも色々な分身たちが登場する。ここで登場人物たちはもはやそれぞれの固有性を奪われて名前という記号へと還元されているのである。しかし登場人物の分身化がミステリ的な謎を巻き起こすことはなく、こうした分身たちはミステリというジャンルにとって過剰なものとなっている。
 さらに、この作品はミステリの体裁で始まり実際いくつかの謎が提示されるが、ミステリに付きものであるそれらの謎はほとんど解決されることはない。むしろ謎は徐々に増え続けていく。謎は探偵によって解かれることなくそのまま放置され、予想された事件も起こることはない。しかし、それはただ何も起こらずに進んでいくということではなく、様々な細かい出来事はずっと発生しているのである。例えば、父ピーターの散歩コースが描く文字や、クインと父ピーターの会話、作家オースター宅へのクインの訪問とやり取り、さらに執拗なまでのクインの監視。そのような小さな出来事が作品を彩り、解かれることのない謎を呼び起こすのである。それらの出来事を通じてクインは狂気の世界(現実世界の分身である)へと徐々に近づいていくことになる。
 この作品を訳者が主張するように「形而上学的なミステリー」として捉えそこに現代アメリカの象徴を見出すだけではつまらないだろう。この作品固有の運動に目を閉ざすことにもなりかねない。むしろ、この『シティ・オヴ・グラス』という作品では、登場人物が様々な分身によってずらされていき小説世界が現実から狂気へと移行していく過程をじっくりと見ていくことのほうが重要であり作品を楽しむことにつながるだろう。作品内に現実世界の象徴を探し出すのではなくむしろ現実世界からの離反をこそ見るべきなのである。まさにその点にこの作品の美しさが存するのではないだろうか?

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紙の本彷徨う日々

2005/10/21 19:48

「壮大な失敗作」?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『彷徨う日々』は現代アメリカの作家スティーヴ・エリクソンの記念すべき処女作である。原書はアメリカで1985年に発表され、邦訳は1997年に刊行された。物語は基本的には二つの部分に分かれている。カンザスで結婚したローレンとジェイソンはまずサンフランシスコへ、さらにロサンジェルスへと移住する。自転車競技の選手であるジェイソンに女性問題で裏切られ続けたローレンはロスで記憶喪失のミシェルという謎の人物と出会い次第に愛し合うようになる。一方、1900年にパリにあるポン・ヌフ橋に捨てられた双子のひとりであるアドルフは一風変わった娼館へと拾われてその中で娼館のオーナーに秘密で育てられる。アドルフは、そのオーナーと美しい娼婦との娘であるジャニーヌにそこで出会い愛し始めるようになる。
 『彷徨う日々』を「壮大な失敗作」(『愛の見切り発車』所収のエリクソン・インタビュー)と評したのは柴田元幸氏である。もちろん彼はこの作品を完全否定しようとしているのではなく、「すぐれた失敗作」という意味で言っているのだが。柴田氏が具体的にどの部分を指して失敗作と言っているのかは不明だが、この作品には確かに必ずしもうまく行っているとは思えない部分が見受けられる。例えば、ジェイソンとローレンの付かず離れずの関係は少し冗長である印象を受けるし、アドルフとジャニーヌの別離は少々メロドラマティックでさえある。さらに作品の序盤・中盤ではローレンのパートとアドルフのパートがいまひとつうまく絡み合っていない気もする。
 しかし、当然この作品には面白い部分も多々存在していて、中でも印象的なのは記憶喪失となっているミシェルが記憶を断片的に取り戻していく場面だ。パリからヴェネチアへと向かう列車のなかで次第に現実世界(この世界自体すでに虚構であるのだが)がぼやけ始め、彼が車窓から自分の記憶を(さらに自分自身の受胎の場面という、記憶しているはずのない原光景まで)発見していくシーン。昔、母と共にミシェルが住んでいた海辺の家のひとつの部屋で、或るアルファベットの文字を見出すシーン。そのような記憶が直線的な時間の枠を超えてアナクロニックに噴出してくる。これはまさにアドルフの監督した映画『マラーの死』における制作哲学とほぼ同じではないだろうか? 次の文はまるでエリクソン自身の小説を語っているかのようでもある。
「厳密なリアリティは窮屈であり、ある意味で、実感をもたらさず、むしろ幻覚のほうが観客の感情に、より直接的に訴えることができる」(p.117)
 エリクソンの作品では現実は不意に幻覚へと移行していき、リアリティを厳守することは問題となっていない。それはこの「壮大な失敗作」でも見出すことのできる特徴である。
『彷徨う日々』は確かに傑作『黒い時計の旅』と比べると必ずしもうまく行っていると思えない部分の多い「失敗作」であるかもしれない。しかし、この処女作以降の作品をすでに読んだ現在の我々の目から見ると、彼の後の作品へと繋がっていく箇所を色々と発見することができるだろうお。エリクソンの小説においてアナクロニックに噴出してくる記憶や幻想を読むときのように、この『彷徨う日々』もまた『黒い時計の旅』や『アムニジアスコープ』をすでに読んだ現在からアナクロニックな視線によって発見されるべきなのではないだろうか?

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