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先月(2017年8月)

ポルチェスと現代思想さんのレビュー一覧

投稿者:ポルチェスと現代思想

5 件中 1 件~ 5 件を表示

「BIGISSUEって雑誌を知っていますか?」

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は2003年より主に大阪と東京で、ホームレスの「支援」を目的に発刊された雑誌『BIG ISSUE』にまつわるルポタージュであり、良質のドキュメントである。去る12月上旬、私の仕事場である練馬区の某大学の正門前で『BIG ISSUE』が販売されていた。
 『BIG ISSUE』について雑誌そのものをご覧になったことがない人に簡単に説明すれば(本当はほとんど知識はないのだが)、一部200円。硬派な社会問題を扱った記事や、アーティストのインタビュー記事が載っていたりする。私もだいぶ前にダイドが表紙に載っていた号を買った。そのほかに表紙を飾るのは矢井田瞳、メグ・ライアン、ビョーク、ジョージ・マイケル、ブラッド・ピットなど主にアメリカ・ヨーロッパで絶大なる人気をもつアーティスト、ミュージシャン、俳優など。雑誌そのものはホームレスの自立支援を目的としているため、200円のうち110円が販売員の収入になり、それを元手に新しく雑誌を仕入れたり、生活費に充てたりするシステムになっている。大本の発祥は英国のロンドン、1990年代前半に一企業家の呼びかけにより始まった。

 著者である櫛田佳代は1976年生まれで、本作がデビュー作。2004年の春に渋谷で英会話学校に行くちょっと前に変わった雑誌を見かけたことから、日本における『BIG ISSUE』の関係者や販売員の人たちの語りを収集している。
 彼女の基本的なスタンスは、社会問題についての意識にあふれたそれとは異なり、初期には販売員であるホームレスに「話しかけづらい」感情を持っていたり、取材を通じて自身の偏見を再認識するもので、何かを書きたいときに偶然、おもしろい現象を見つけて、それにどっぷり浸かっている。時折、彼女は泣いたり、笑ったり、とまどったりする。その一つ一つのしぐさを読み進めていくうちに、読み手である私もその場面に一緒にいるような錯覚を抱いてしまう。だが、単純に主観的なレポートだけでなく、ホームレスたちの集住地域(大阪の「釜ヶ崎」←この地名は現存の地図にはないが、周囲の人々の心的地図にはマッピングされている)の社会的背景や、販売方法やシステムの大阪と東京の比較、販売員ではない事務局の人たちの語り、販売員の生活状況(収入、支出の内訳、寝泊まりしている場所)、ホームレスを取り巻く社会(家を借りる時の問題や、他の業種との関係性)なども丁寧に記述している。その意味で、『BIG ISSUE』という媒体やその販売員たちから観た現代日本のさまざまな諸相を明らかにしている。
 課題を挙げるなら、販売員であるホームレスはすべて男性で、これはジェンダー的に言えば、つっこみどころ。実際に池袋西口公園には女性のホームレスの姿もある。そして『BIG ISSUE』の販売員は私の知っている限り男性だけ。女性の視点でどのようなことができるのかは今後に期待したい。また、これは無い物ねだりかもしれないが、『BIG ISSUE』が帰るのは日本においてごく限られているということだ。この本を手に取ったとしても、具体的な東京・大阪ローカルの話は思い浮かびにくいのではないだろうか? それはまさしく、「ホームレス」と呼ばれる人々が都市部に集中しているからに他ならないのだが。

 でも上記の課題を差し引いても、この本ははっきり言って、オススメ!! 著者と同じようにはじめに偏見があっても是非読んでほしい。べつに偏見を直そうという意図よりも、偏見が明らかになり、それとどう向き合うのかその著者の姿を追いかけるだけでもこの本は価値があります。

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紙の本LAST

2003/11/15 03:35

場所と時間、その世界で動いている人々の肖像

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個人的なことからはじめたほうがいいかもしれない。ネタバレ覚悟でね。
「ラストシュート」の衝撃を一年前(2002年)の夏、ハワイ州立大学の図書館で受けた。エアコンの効いた図書館と熱帯気候だけど快適なハワイ、そして「ラストシュート」で描かれるベトナム、すべてが違うようだけどつながりがあるような気がしていた(そして忘れていた)。4年前(1997年)の夏、私はカンボジアで「性を売る」十代前半(もしかしたらそれ以下?)の少女と会話をして、そして見ていた。それは「ラストシュート」というフィクション以前にノンフィクションの現実を私が見ていたということしれない。

石田衣良の物語の特徴のひとつといえるものは、舞台に選ばれる場所が極めて物語の屋台骨を形成しているということだ。もしかしたら主人公を含むキャラクターや取り上げられている社会問題よりも、その場所の「空気」・雰囲気というものが重要であり、物語のベース音を奏でていないのではないかと思うのである。人間はその特性よりも場所や時間によって行動を規制されるのではないか? そう思う人は少数ではないと思う。
石田衣良の一連の物語で一番のキータームは都市であったり、郊外であったり、特定の街であることは周知だろう。著者の書き方のスタイルは社会学者のアンソニー・ギデンスがいう「場所性」や「時間性」というキータームを無視して、その人の行動は把握できないということになるにつながるのではないか(たとえば風呂場では裸になるけど、玄関先で裸になる人はいないでしょ? 一部例外あり。具体的には「ラストバトル」の看板持ちが誰もいない山奥でそういう行動しないということかも)。

個々のキャラクター、状況設定もさることながら、その人物が行動する場所という視点で物語をみると『LAST』の7つの物語は絶対的に共通点はない。出会い系サイトで障害者に出会いの女性いる郊外、産業の空洞化という荒波を受ける下町、都市の掃きだめであるホームレス居住地区、都心だが空洞化されぽっかり空いているテレフォンクラブ、テーマパークのようなお台場、外国人がすむ街・新宿、幼女売春が日常的な東南アジアなどなど。

私たちはいつも「私たち」であるはずがない。そしてそれは私たちが「いつ」と「どこ」という問いを必ず持っている含んでいる。7人の主人公と対比される人物は端に小説の物語ではなく、ある場所とある時間においてそこに存在するのだ。

結末は著者の想像するある意味楽観的な物語ではないかもしれない。だが私たちは7つの物語の場所にある日突然放り込まれたとした、彼ら彼女らの物語を自画像として見つめることがあるのだ。

日本人としての私たちが東南アジアで売春行為をする可能性すら考えるほど、この作品は虚構のリアリティーを私たちに突きつける。出会い系サイトでだれかに連絡することも、駅前で看板持ちをすることも、障害者になるということも、公園で寝泊まりすることも。マスメディアでさまざまな情報がながされるなかリアリティーの「宝石」と私たち自身の肖像画が曖昧になっている。「小説」という作り上げられたリアリティーに真摯に向き合う想像力と、物語を読む「読み手」にこそ、虚構を超えた現実を認識する実践が求められる。

この物語は読んであとでも物語も、現実も、完結しない。少女は今日も売春し、街金の金利は上がる。自殺率は交通事故の約3倍という「現実」は現実にあるのだから。

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紙の本風音

2004/07/17 12:13

風景に内在する記憶

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まず、本作品の背景について
本サイトの「風音」の内容紹介のページにあるように、本作品は映画「風音 the crying wind」の原作である。だが作者による「あとがき」にあるように本作品は映画化された脚本を元に再構成(再執筆)された作品として位置づけた方がよい。原作は19年前に発表された「風音」である。
私は残念ながら短編版の「風音」は未読。機会をみて読み比べしてみたい。

本作品について
物語は沖縄のある村に二組の訪問者が訪れることで始まる。
一組目はかつて村を離れ東京で生活した女性で、小学生の息子を連れて実家に戻る。詳細は略すが、生まれ故郷で生きていこうと決めた女性である。
二組目は特攻部隊でなくなったとされる、かつて恋仲だった男性の遺品や遺骨を求めて旅する老齢の女性。
物語は二組のエピソードを基軸に、村の外れに残る風葬場を主な舞台に展開される。そこには、かつて戦場であった土地や海にまつわる語りがあり、生まれ育った者、語りの中で現れすでになくなってしまった者のエピソードが巧みに織り交ぜられている。

少年たちにとっては遊び場であり、根性試しの場所である風葬場は、
訪れる者にとっては自らの記憶や想いを確認する場所であり、
そこで生きていく者にとっては、自らの一生を問い返す場所でもある。

沖縄の青い海やサトウキビ畑はごくありふれた風景であり、
観光客用にアレンジされて切り取られた「風景」でもある。
そしてそこにはいつまでも見る者が何かを想起させる記憶を持つ「風景」でもある。

生まれ、生き続ける人たちが思い続けるのは、風景として、当たり前のなかに存在する場所に内在している記憶や想い出といかに向き合うのか、という問いのような気がした。

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紙の本蹴りたい背中

2004/03/09 14:01

人間の相関関係とその強弱を描く力作

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人間は人間と出会ったと、どのようにコミュニケートし、関係を維持・切断するのだろうか?
綿矢りさ著『蹴りたい背中』の主題はこの一点に集約できるかもしれない。

人間は時には拙い言葉で感動する。また時には軽い冗談のつもりで発した言葉で、自分自身また他人を傷つける。
人間は「ひとつのブラックボックスだ。本人ですら自分自身の中身がどうなっているか知らない。もちろん他人の中身も知らない。互いに決して知ることのできない『箱』の中身を説明するために、必死にコミュニケートするのだ」と、何かでこのことを知ったとき、妙に納得できた。

本書に登場する人物はすべて、見ることのできないブラックボックス間の関係性をうまくごまかしたり、悩み、もがき、いとおしく思っている。
そしてその相関関係と強弱(「溝」が適切?)を見事に描いた作品である。

主人公「ハツ」は、クラスメイトとほとんど交流を持たずにクラス全体の相関図を描き、その中に自身の位置も対象化する高校生。他人と関わりたくないという意識にもかかわらず、中学時代からの友人「絹代」との関係が壊れていくのをどこかで恐れている。
相手役はクラスメイトの「にな川」。彼もまたクラスでは浮いた、オタク少年。「にな川」の世界は家庭からも学校からも等しく距離おき、正方形の自室でマスメディアによって偶像化されたファッションモデルで構築され、閉じられている。
二人の微妙な関係性はそのファッションモデルによって維持され、少しずつねじれていく。
大量に生産され消費される情報を収集する「にな川」と、中学時代に偶然会ったことのある「ハツ」の間の溝は埋まるようで歴然と存在し続ける。
そしてライブハウスでリアルなモデルとの出会いと、その後の失望感。
「蹴られる」や「見つめる」という行為によってねじれて結ばれる「ハツ」と「にな川」、高校に入りそれぞれの世界を持つことで関係が変化する「ハツ」と「絹代」。その他多くの人間関係。

本書の登場人物は相手と直接向き合うことなく「箱」の中身を知ろうとする心情が随所にちりばめられている。
夏の蒸し暑い一夜を過ごした3人は、これから迎える秋をどのように過ごすのか。その微妙で揺れ動く関係をぼんやりと考えてみる。
もしかしたら、私も「蹴られる」ことはなかったけど、そんな人間関係がこれまでにあったのかな?と読後、不思議な虚脱感と安堵感が満ちてきた。

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買う前に一度手にとって吟味すべき本!

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本書は2点の欠点を持ち、駄作です!

1.タイトルと内容の整合性
 タイトルは「AV産業」であるが、そのことにふれているのは前半部分のみ。
「AV産業」である以上、制作サイド(プロデューサー・監督・出演者(男優・女優すべて))さらに、営業サイド(小売店・ビデオショップ関係者・取次関係者など)、他メディア媒体(宣伝媒体など)、ユーザー(消費者)などを丁寧に追ってはじめて成立するのではないだろうか? この点は都合のいいように削除している。

2.著者自身が男性と同様に、AVを欲望の対象で観ていることに無自覚
 後半部分の主張は、AV女優は作品内で何らかの精神的・肉体的苦痛を負わされ、制作サイドはそれを容認し、消費者はそのまま受容し、性犯罪に走る。ゆがんだジェンダーバイアスが世の中にはびこる要因のひとつとして、アダルトビデオがあるのだ。もちろん、本書で使われる資料は、著者の思想・主義に適応する形で修正・改竄されている。これでは欲望のために観ている男性視聴者と同じです。
 著者はAVに関するものもその他の文献も、ちゃんと読んでいるのか疑問。アンケート調査も男女100人(回収率50%)で、全体的なことを語るのもいい加減。

 著者は一体、AVを真剣に観たのでしょうか? このような本が出されることでさらなる偏見・差別が助長されることにならないか心配です。

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