サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 萬遜樹さんのレビュー一覧

萬遜樹さんのレビュー一覧

投稿者:萬遜樹

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本リトル・トリー 普及版

2001/12/08 16:43

「リトル・トリー」による覚醒

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私たちのこの生活とは、実は壮大な虚構だったのではないか。騙され続けてきたのではないか。そして、いまもその術中にあるのではないか…。次々にそんな疑念が湧いてくる。
 「ひとたびこの本を読んでしまうと、もはやもとの自分に引きかえすことはむずかしく、世界を今までと同じ目で見ることはできなくなってしまう」(「『リトル・トリー』を分かち合う喜び」より)。 

         ∴ ∴ ∴

 「経済」とは何か、とは私の永年の問いの一つだ。経済と言えば私たちは、とかく景気だとか貨幣だとかを思い浮かべがちである。しかし本当にそういうものなのか。経済とは元来、生活物資の調達のための仕組みのことにすぎない。決して、株式市場や銀行や国家を、そして「文明」を必須とするものではない。ましてや、生活のすべてではない。

 ここにテネシー州はアパラチア山系に寄り住む、チェロキー・インディアンの一家族がいる。「リトル・トリー」と呼ばれる主人公(孫)とその祖父母の三人である。1930年代を生きた彼らの「感じた」世界は、私たちの「現実」とはたいへん異質なものであった。

 五感と第六感の働かせ方次第では、実は私たちはもう一つ別次元の世界にいることを知る。「現実」や「文明」では視覚がほとんどすべてだ。私たちは真偽や意味を目で見ようとする(しかもテレビや新聞を介してだ)。また、私たちの耳は言語的意味や音楽以外は、ほとんど聞こえていない。触覚に至っては、ほとんど拒否されている。第六感は、あらぬ幽霊やUFOとの遭遇、星占いやくじ運のために行使されている。

 山中や田舎に行けば分かる、というものでもない。自分を「現実」や「文明」から解き放つことが必要だ。すると、何が見えてくるか。いや、それはまず聞こえてくる。そして次に、肌に触れてくる。「現実」や「文明」の音が沈黙するとき、世界が少しだけ開かれる。実に、世界は音から出来ていた。様々な鳥のさえずり、虫の鳴き声、川のせせらぎ、木々のそよぎ、風や雨の音、動物の遠吠え…。そして、世界には様々な風が吹いている。木々の枝葉や草花の葉は、それに音と動きをもって応えている。それは本当は「音」ではなく、世界そのものなのだが。

 風や土、草花の匂いをしっかりと嗅いでから、静かに目を開こう。世界はどんなに優れた映像や絵画より、多様に鮮やかに生き生きと彩られていることを改めて知らされることだろう。食べることができる草木の実も多い。それを口に入れ、世界の豊かさを味わおう。世界がモノではないことに気がつけば、第六感はもう世界と話し始めている。

 そこは「時計」のない世界だ。もちろん、時間はある。時計がない時間がある。時間とは、実は自然の様相のことである。たとえば朝は、暗闇だった空が雲を少しずつピンクに染め上げ、鳥がそれを告げ知らせるように鳴き、先程までとは違う風がそよぐ時間である。耳・肌・鼻・目・舌が、朝の音・空気・匂い・色・味を感じるときが、朝という時間である。一日とはそのようにして体験するものなのである。同様に、季節というものもカレンダーによってではなく、五感によって体験されるものだ。こうして一年という時間が、ようやく私たちの身体の中を行き過ぎることができるのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「文明」批判者としてのエンデ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 映画にもなった『はてしない物語』(ネバー・エンディング・ストーリー)や児童書のベストセラー『モモ』で有名なドイツの作家、ミヒャエル・エンデがいる。この人は、宮沢賢治と同様の意味において「童話作家」ではない。書きたいことを表現すると、どうしても「現実」を離れ、小説とは呼べないものとならざるを得ないのだ。子ども向けの空想物語を書いているつもりなぞはこれっぽっちもないのだが。
 賢治もエンデも、それぞれある世界に「行って来たかのように」描写する。彼らの世界の中で起こった、数々の不思議な出来事を物語る。そこでは、鳥も亀も石も、確かに口をきき、心をもっている。それは、ずっと昔にあった、そしていまも繰り返されている物語、つまり神話なのである。

 賢治の世界観が、法華経的、縄文的、アニミズム的なものを背景にしていることは知られている。賢治が紡ぎ出すのは、そんな神話宇宙に棲む無機物や有機物(生き物)たちの物語である。霊(カミ)的な物語だとも言える。
 では、エンデの世界観とはどんなものなのであろうか。それは「人智学」と呼ばれるルドルフ・シュタイナーによる思想だったのである(そう、彼こそがシュタイナー教育とその学校の生みの親である)。エンデの物語の背後には、シュタイナーの神秘主義思想があることを教えてくれたのは、子安美知子氏の『「モモ」を読む--シュタイナーの世界観を地下水として』(朝日文庫)であった。

 シュタイナーの思想そのものはさて置き、エンデが結局のところ、その神話的物語で強く主張していることは唯一つ、「文明」批判である。特に「アメリカニズム」的な文明への批判であり、現代人のそこからの超克を訴えている。彼の物語には、現代における画一的な価値への収斂、その中で変質してしまい今や人間を襲い奪う「時間」や「経済」などへの批判が込められている。


このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本オウム帝国の正体

2001/12/09 22:20

オウムは一つの巨大なブラック・ビジネスだった

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 忌まわしい事件から六年の月日が流れ、いまでは「オウム」(旧「オウム真理教」、現「アレフ」)の名を聞くことも少ない。多くの人にとっては、信徒の住居転入や子弟の就学問題などで住民トラブルとなり、間歇泉のように時々テレビに登場するのを目にするだけである。あとは、すでに捕縛された「悪魔たち」の過去を裁判が次々に断罪していっているように見える。

 そう、オウム事件は終わったように見える。終わったと願いたい。が、たとえそうだとしても、いかに終わったのか。これが次に発せられねばならない問いだ。裁判は罪を裁いたとしても、それが事件の全貌を暴くものとは限らない。むしろ、秘さねばならないこともこの世にはあるらしい。この本は、こうした疑問への一つの回答書である。

 オウムは一つの巨大なブラック・ビジネスだった。これが本書の結論である。「一つの」というのがポイントだ。巨悪はついに裁かれないし、いまだ露見せぬブラック・ビジネスとしてのプロジェクトが多々ある。それらは現在も進行中であるし、また、いまこの時にも誕生していることだろう。

 裏表を問わず、いまやビジネスはグローバル・ネットワークの時代である。そして仕事はプロジェクトとして進む。各専門家が各専門領域の仕事をこなし、トータルなビジネスを仕上げていく。たとえば、殺しや暴力はやはり軍隊か「007」のような特殊工作員、はたまた暴力団であろう。餅屋は餅屋と言うではないか。

 オウムの犯罪、あるいはその「活動」も、組織活動であり「ビジネス」活動であった。そのグローバル・ネットワークは、1990年代の社会主義が破綻しマフィア資本主義という鵺(ぬえ)となったロシアや、経済苦境に陥った国際孤立の金王朝独裁軍事国家・北朝鮮などを主なパートナーとしていた。

 全財産まるごとの布施、高額のイニシエーションや修行費用、マハーポーシャ・パソコン事業などの収益、それに宗教法人としての減免税特権を得て(1989年)、潤沢な運転資金をもつ「企業組織」となったオウムは、供給側からは上得意客となり熱烈歓迎されていた。

 ビッグ・ビジネスには、ロビイストや仲介役がつきものだ。こういう役を買って出る黒子は、他業界と何ら変わりない。すなわち、内外の政治家と暴力団である。銃器から軍用ヘリなどの武器類、また毒ガスや麻薬などの特殊商品や製造技術は、当然これらのスペシャリストの手を介さずには入手できない。

 つまり、少し前のゼネコンなどと同じメンバーによる「ビジネス」なのだ。見方を変えれば、オウムも哀れなものだ。利権屋たちにたかられた挙げ句、捨てられたのだから。利権屋たち、すなわち巨悪は永遠に出てこない。オウム裁判は、国内事件として、かつ彼ら自身だけによる犯罪として裁かれることに決した。

 1995年、国松警察庁長官はだれに狙撃されたのか。その正確な射撃術は、オウム信者の自衛官や警察官の腕では不可能だ。ロシア武官、あるいは北朝鮮工作員、それか国内暴力団のヒットマン以上の腕が必要だ。オウム・ナンバー2の村井秀夫はだれに刺殺されたか。山口組系暴力団の鉄砲玉によってである。なぜ刺殺されねばならなかったのか。一つは麻薬取引きに関わることで口をすべらせたからだ。1989年、坂本弁護士一家はなぜ殺害されなければならなかったか。起業の原点=宗教法人認可への障害となったためである。では、これをだれが実行したのか…。実はここから、オウム・プロジェクトは始まったのだ。

 トカゲのしっぽは次々と刑死の運命にあるが、内外の利権屋たちは一つも傷ついてはいない。別のオウムが生きているし、オウムそのものも決して死んではいない。「ビジネス」劇の主役は代替可能な「客」ではなく、見えない黒子たちなのであるから、「ビジネス」は永遠に終わることはない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

3 件中 1 件~ 3 件を表示