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  3. みゆの父さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

みゆの父さんのレビュー一覧

投稿者:みゆの父

82 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本魔女の宅急便 その1

2002/06/17 22:41

本の力

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

〈魔女の宅急便〉と聞いただけで、反射的に宮崎駿が描くキャラクターの顔が目にうかび、「落ち込むこともあるけど、私は元気です」という最後の台詞を思い出し、荒井由美「やさしさに包まれたなら」を口ずさんでしまう。そんな人は、きっと僕だけじゃなくて、相当いるはずだ。それくらい映画『魔女の宅急便』は愛されてきた。『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』ほどのメッセージ性はないけれど、爽やかで、柔らかく、万人に愛される作品だったと思う。

その映画に原作があることは何となく知っていたけれど、今度文庫化されたのをきっかけに、実際に読んでみた。もちろん、魔女の少女キキが修行に出て、ある町のパン屋に居候しながら宅急便屋をするというストーリーの大枠は、この本も映画も同じ。ただし、積み重ねられるエピソードは違っている。

でも、この本と映画の違いはそれだけだろうか。この本を読んで、僕はなかなか不思議な体験をした。最初のうちは、映画のあれこれのシーンが頭の中に浮かんできて、まるで映画を追体験しているような感じがした。つまり、この本が映画の原作なのではなく、映画がこの本の原作になっているような印象だったのだ。でも、読み進めていくと、どんどん映画のシーンはフェードアウトし、この本の独自の世界が広がりはじめる。本というメディアが持つ力が威力を発揮しはじめる。

それでは、本が持つ力とは何だろうか。それは、よく言われることかもしれないが、僕ら読者に想像の余地を残していることにある、と僕は思う。映画に出てこない人物が本に出てくると、まず、この人が映画に出ていたらどんな風に描かれていただろうか、という疑問が生まれる。そのうちに、映画のことなんかどうでもよくなり、この人はどんな人だろうか、という疑問に変わる。そして、やがては、主人公キキをはじめとする、映画に出てきた人物までが、どんな人だろうか、という疑問の対象になってくる。こうして、僕らは映画の磁場を逃れ、今度は、この本の磁力に引き寄せられてゆくわけだ。

誰もが経験する(経験した)思春期の一大イベント「ひとりだち」を、魔女が修行で宅急便屋をするというユニークな設定のなかで語るこの本は、じつは様々なメッセージを隠し持っている。そして、それを、ユーモアと優しさに溢れる文章のなかに閉じ込めている。こんな時代にもかかわらず、いや、こんな時代だからこそ、僕も含めて思春期なんぞ遠い昔話になってしまった大人にこそ読んでもらいたい。あのころの、不安と期待が表裏一体をなす〈可能性の世界〉を思い出すために。

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ウェルメイドな推理小説の味わい(難しすぎるけど)

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あんまり売れそうもないけど、学問の凄まじさを感じさせる一冊。マックス・ヴェーバーという20世紀を代表する社会学者の主著を徹底的に解剖し、その問題点を洗い出し、その原因を推理する。そのプロセスは、まさに上質な推理小説の味わい。

出てくる単語は英語、ドイツ語、そして多分ラテン語にギリシャ語にヘブライ語……、と壮絶だし、たとえば山ほどある各国語訳の新約聖書を問答無用で比較対照する、という知的体力には脱帽。難しくてついてゆけないところもあるけど。

唯一残念なのは著者の文章がところどころお下品になること。分析対象のヴェーバーも文章がお下品だったことの反映なのかもしれないけど、でも、ちょっとね。

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「大切なのは世界を変えることである」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

さっぱり変わんない日本(景気回復はどこに行った!)。嬉しくない方向に変わってく世界情勢(平和の配当はどこに行った!)。それでも、世界のあちらこちらでは、そして多分日本のあちらこちらでも、まともな方向に変えようとする努力が積み重ねられてるんだろう。

そんな努力の一つが、メキシコはチアパス地方の先住民運動「サパティスタ運動」だ。日本ではいまいち知られてないけど、インターネットは駆使するし、欧米の著名な政治家を呼んで国際会議はするし、運動のスタイルがお洒落。

この本は、そんなサパティスタ運動を紹介し、分析したもの。言説分析とかいう方法を使ってる部分はよくわかんないし、はっきり言ってつまんないけど、それ以外の部分は、著者の山本さんが運動に寄せる熱意がほとばしってて、熱い。

むかし「哲学者たちは、これまで世界を解釈するだけだった。しかし大切なのは世界を変えることである」という名言があった。でも、哲学者の末裔である今の学者さんたちの中で、世界を変えようとしてる人がどれだけいるだろうか。自分たちに都合の良いように変えようとしてる人はいるかもしれないけど。

というわけで、「あとがき」にある「大学を退職したら、チアパスに居を構え……、文字通りサパティスタと共闘、共生できればと強く思う」(275頁)という文章だけで、買い。こんな学者がいたなんて、日本も捨てたもんじゃない。

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紙の本クルマを捨てて歩く!

2001/10/08 14:40

揺れる親心

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は、車(マイカー)を持ってない。運転免許も持ってない。別に環境問題とか自動車の社会的費用とかを慎重に考慮した結果じゃなくて、学生のころは貧乏生活してたから車を買う金がなかったし、その後はしばらく東京で勤めてたので、車が必要だって思わなかっただけのことだ。結婚して、今のまちに引っ越して、小金もできたし必要も出てきたけど、今度は自動車学校に行くのが面倒くさい。というわけで、僕は車と無縁の生活を送ってきたし、うちにも車はあるけどかみさんの通勤用だ。ところが、娘が生まれて、僕は車についてちょっと真面目に考えるようになった。つまり、一方では「かみさんの不在中に娘に何かあったら困るから、やっぱり免許を取っておこうか」って考えてみたり、他方では「娘が交通事故にあったら悲しいだろうから、やっぱり車が少ない社会がいい」って気もしてきたのだ。こんな二つの考えの間で、今でも僕の気持ちは揺れ動いてる。

 この本で、著者の杉田さんは、「あの」北海道で車のない生活を数十年間続けてきた体験をもとに、車のない生活が個人にもたらすメリットを様々な角度から考えた。それは三つにわけることができるだろう。第一、精神的なもの。他人を傷付けずに生きるっていう、人間の最低限のモラルを取り戻せる。いつ加害者になるかわからないっていう不安がなくなる。歩行者同士は対等な関係だから、相手の身になって考えたり人間関係を良くしたりできる。せかせかした時間の使い方をしなくなり、計画的に一日を過ごすようになる。第二、経済的なもの。車にかかる費用がいらなくなる。無駄な買い物をしなくなる。駐車場がいらなくなる。第三、体力的なもの。体力が付く。そのうち歩くのが快感になってく。こんなに良いことだらけなのだから、車じゃなくて歩行者を優先する方向に、社会の仕組をかえていかなきゃいけない。そのための具体的な方法として、杉田さんは、車止め、ジクザク道路、ハンプ、「横断車道」、貸し自転車、遮断機付き横断歩道などを組み合わせた歩行者優先ゾーンを作り、身近な生活道路を安全にしてくことを勧める。すでにオランダでは「ボンエルフ」って名前で実用化されてるらしいし。

 娘が二歳になって、毎日職場から帰宅した後に散歩に連れ出す係を仰せつかった僕としては、娘の安全を考えると、杉田さんがいうことには大抵同感できる。とくに、車生活の(とくに道徳的な)デメリットを並べ上げるんじゃなくて、歩く生活のメリットを伝えるっていうのは、とても良い方法だと思う。「乗ってはいけない」って叱られるよりは「乗らないほうが楽しいよ」って誘われたほうが、読者も気分がいい。また、車よりも歩行者を優先するための具体的な方策を教えてくれたことも、ポイントが高い。とくに、公共交通機関が、人々を運ぶだけじゃなくて、様々な人々が共有する空間を提供してること、生活にリズムをもたらすこと、ちょっと不便だけどその分子供の自立に役立つことなど、色々な役割を果たしてるっていう指摘は、僕の住んでるまちみたいに公共交通機関がいつも赤字で「廃止しろ」って声が出るところでは、とても大切なものだと思う。

 でも、杉田さんの意見に全面的に賛成してるわけじゃない。まず「クルマは時間泥棒」(四二ページ)って言葉には違和感がある。これって割とよく聞くようになった言葉だけど、どこか実態のないレトリックみたいで、僕は嫌いだ。それから「クルマは強者の論理」(三九ページ)っていうけど、どうしても車が必要な人もいる。うちのかみさんは、車があるから娘を保育所に預けられるし、仕事に行ける。杉田さんは車を捨てれば残業しなくてすむっていうけど、車を捨てたら首になる人も沢山いるだろう。こんな人々に届くメッセージが必要だ。それだったら、僕の動揺も静めてくれるかもしれないし。

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常識が破壊されるのを見る快感

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は親馬鹿だ。「娘に甘い父親」のイメージに「体力不足なのでときどき娘よりも先に寝たり、疲れると、遊ぼうっていう娘の催促を無視して寝たりする」を足すと、ちょうど今の僕になる。二歳の娘よりも寝るっていうのも格好悪いけど、それは措いといて、問題はしつけだ。甘い父親は当然しつけも甘いわけで、娘が食事中に歩き回れば、スプーンと箸を持ってあとを追いかける。テレビやビデオが見たいっていったら、もちろんオーケーして、一緒に見る。そして、あとから「これでいいんだろうか」って反省する。しつけたい気がないわけじゃないけど、娘の自発性を尊重したい気もするし、揺れる親心。その一方で、青少年犯罪をめぐって「近頃の若い者の家庭のしつけはなっとらん」って叫ぶ意見をよく耳にするようになって、僕の混迷は深まるばかりだ。
 この本の著者の広田さんは、家庭の教育力は低下してるっていう「常識」(九ページ)に対する疑問から、明治維新後のしつけの歴史を振り返った。第二次世界大戦前の農村部では、しつけをしてたのは家庭じゃなくて共同体(むら)だった。家庭にとって子供は労働力だったし、子供は放ってても育つと考えられてた。もちろん共同体のしつけには、放任しすぎるとか、余所者は対象から除外するとか、しつけの基準がローカルで閉鎖的だとかっていう問題点があった。大正期の都市部では、サラリーマンなどの新中間層が出現した。彼らは、家庭は子供のしつけの主体であり、子供は教育の対象だって考えた。戦後しばらくはこの二つのしつけ論が共存してたけど、高度成長期に入ると、農村部では青少年流出や農業兼業化や挙家離村が進んで共同体が弱まり、しつけを担えるのは家庭だけになった。一九七〇年代に入ると、都市部でも農村部でも、父兄の富裕化や高学歴化や情報化や少子化が進み、学校に対する家庭の発言力が大きくなった。こうして、共同体にも学校にもしつけを委ねない「教育する家族」が完成した。家庭の教育力が低下したっていう「常識」は間違えてる。こんな常識が広まってる背景には、しつけの全責任を家庭が担うから関心が高まった、しつけは家庭ごとに違う、モラルの基準が世代毎で違う、自主性を重視するしつけや家庭のあり方が孕むディレンマ等等、色々な理由がある。それじゃ僕らが今しなきゃいけないことは何か。それは、広田さんによれば、家庭やしつけのあり方は多様だってことを認識すること、非行としつけの関係を冷静に分析すること、そしてしつけの限度をわきまえること、この三点だ。
 この本のメリットは次の三つだ。第一、世間にはびこる「常識」に疑問を持ったこと。広田さんといえば、「最近は青少年犯罪が凶悪化してる」って主張に疑問を持ち、統計的な手続きを踏んで徹底的に批判したことでも知られてるはずだけど、疑問を持てることってやっぱり一種の才能なんだろう。第二、きちんとした手続きを踏んで、「常識」が正しいかどうかを検証したこと。ここまで丁寧にしつけの歴史を分析されると、「常識」が錯覚や誤解にもとづいてることがよくわかる。第三、「常識」を生み出した原因を考慮したうえで、僕らがしつけに悩まないための処方箋を提示したこと。つまり、しつけには大したことは期待できないって考えること、完璧な親になろうって考えないことが大切なのだ。こう考えると、たしかに気が楽になってくる。肩の力が抜けてくる。
 もちろんこの本には問題点もある。学校としつけの関係の歴史を十分に説いてないこと。提示する処方箋がわりと精神論的で、いまいち具体性に欠けること。でも、いいのだ。僕はこの本を読んだおかげで「親馬鹿でいいんだ」って思えるようになったのだから。もちろん「しつけはやーめた」って考えてるわけじゃないけど。

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無認可保育所は民主主義の学校である

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 かみさんが働くことになり、二歳になる娘は保育所に通わなければならなくなった。学期の途中だったので、公立や認可の保育所は無理。そもそも僕らが住んでるのは、保育施設の充実度では政令指定都市ワーストワンの地位を争ってるようなまちなのだ。というわけで、当然のごとく娘は無認可の保育所に通うことになった。ところが、無認可保育所はピンキリだ。そのなかから一つを選ぶのは大変だけど、実は面白かった。僕らが選んだのは、ぼろぼろの一軒家と、お世辞にも低いとはいえない平均年齢だけどお世辞にも高いとはいえない給料で頑張る保育士と、どたばた走り回る二〇人の子供が印象的な保育所だった。保育所の全体が醸し出すまったりした雰囲気が、僕には捨てがたかった。
 それから四ヶ月。保育所にかかわるのがこんなに面白いとは予想してなかった。もちろん、キャンプとかバザーとかいった公式の行事が楽しいってこともある。でも、それ以上に、たまに娘を迎えにいって他の子供たちと取っ組み合ったり、父母会などの席で保育士や他の父兄たちと育児のあり方を話し合ったり、まちの保育行政の問題点を考えさせられたりと、非公式な場で体験することの一つ一つが新鮮で面白いのだ。娘にとっても保育所が面白ければいいんだけど、こればかりは本人に聞かなきゃわからない。喋れるようになったら聞いてみたいけど、表情から判断する限りでは、今のところ割と楽しんでるようだ。もしもそうじゃなくて、親だけ楽しんでるんだったら、娘よ、すまん。
 というわけで、せっかく楽しむんだったら理論武装もしておきたい。つまり他の保育所の本を読み、そこで紹介された良い点を娘の保育所に提案することだ。もちろん父兄の提案に聞く耳を持たない保育所だったら、はい、さようなら、だけど、そうじゃない保育所にしていくのも父兄の役割だろう。そんな目的を持って僕はこの本を読んだ。
 大阪にあるアトム保育所は独特な育児の方針を持ってる。大きくまとめると二つになるだろうか。第一、子供は意志を持って努力することによって自信を得るから、なるべく子供の自主性に委ねること。「どうしたかったんやと聞いて、その欲しかったという気持ちに共感してやる」(一七六ページ)っていう言葉は、育児してると時々いらいらして、ついつい自分側のペースで進めてしまう僕には、効いた。第二、「お節介の精神」(一三五ページ)をキーワードにして、父兄や保育士同士が本音でぶつかりあおうとすること。そうすると「トラブルはよいこと」(二二一ページ)になる。涙と笑いと怒りのなかで、大人同士の人間関系が深まってくわけだ。父兄にとって保育所がありのままの自分をさらけ出す場になるのは、よく考えるとすごいことだと思う。
 もちろん、こういったアトム保育所のメリットをそのまま僕の娘の保育所に移植することは不可能だし、望ましくもないだろう。でも、ヒントとして覚えておくことは大切だ。いつか役に立つときが来るかもしれないから。また、アトム保育所のやり方にいくつか疑問を感じたことも事実だ。二つだけ挙げておこう。第一、ここの父兄や保育士は一種のコミュニティを作ろうとしてるけど、ノリきれない父兄にとって、コミュニティって疲れるものだ。絆としがらみっていう、二つの側面を持ってるんだから。そういう父兄にノリを強制するのは望ましいんだろうか。おりる余地を残しておかなくていいんだろうか。第二、信頼感があるから何でも言えるわけだけど、何か言わなければ信頼感は生まれない。それでは糸口はどこにあるんだろうか。
 娘の保育所は小学校入学までの一貫制だから、二歳の娘にはまだ沢山の時間がある。僕ができること、そしてしなきゃいけないことは色々沢山ありそうだ。そう、無認可保育所は、今どき珍しい民主主義の学校なのかもしれない。

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愛と勇気と好奇心

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 僕は親馬鹿だ。三六歳で生まれた一人っ子なので仕方ないといえばいえるけど、それはこっちの理屈で、いい迷惑なのは本人(二歳になる娘)だろう。なにせ、音楽にあわせて歌ったり踊ったりするのが好きなばかりに、音楽が好きに違いないって決め付けられ、将来は音楽関係の仕事だって論理が飛び、あげくの果てに(親の趣味と実益が入って)絶対オペラ歌手にするって決められてしまったのだ。一歳半から音楽教室に通い、二歳の誕生日には祖父母からピアノが贈られ、三歳になったらピアノ教室に通う予定だ。もちろんこれは半分本気・半分冗談で、娘が「いやだ」っていったら、この遠大なオペラ歌手化計画は即座に放棄。僕は、好きな仕事をすることはとても大切だ、好きな仕事が出来るように環境を整えてやる(つまり選択の幅を広くキープしておく)のが親の仕事だ、そう思ってる。だから、本人がいやなのにやらせるのは第一の条件に反するから「なし」だし、放っておくのは第二の条件に反するからこれも「なし」だ。
 とにかく、仕事をするんだったら好きな仕事でなくちゃいけない。そんな夢を実現したリナックスの作者トーバルズが書いたってことで、僕はこの本を手に取った。僕はIT弱者だから、この本に対する僕の関心はただ一つ、つまり(娘に好きな仕事をみつけてやるためじゃなくて)娘が好きな仕事をみつけるためのヒントが書いてあるかどうかだ。これって不純な読み方かもしれないけど、「それがぼくには楽しかったから」ってタイトルには、パソコン好きだけじゃなくて、そんな読者も引き付ける力があるような気がする。というわけで一気に一晩で読んでしまった。四つにわけて感想を書いておこう。
 第一、オープンソースって素敵だって感じた。ボランティアで、共同作業で、無償で無料で、改良が自由で、どこか反権威主義っぽいコンセプト。水から空気から人の命に至るまで値段が付いてるこの社会で、こんなコンセプトが放つメッセージは魅力的だ。しかも、このメッセージの背景には哲学がある。人間は、他人からやってほしいことをやり、誇りを持って行動し、楽しまなきゃいけない。人生の意味は、生存すること、社会秩序を維持すること、楽しむこと、このように進化する。オープンソースは「楽しむこと」って段階にフイットしてる。テクノロジーは手段であって目的じゃない。
 第二、仕事は楽しくなくちゃいけないって改めて感じた。仕事の目的は、人間関係を築き、人々から意見や評価をもらうことだ。仕事の原動力は、好奇心と意志と楽しさだ。貪欲はつまらないし、トーバルズもいってるように「絶対によくない」のだ。
 第三、でも、好きな仕事をして生活するのって難しいって感じた。わりと恵まれてたトーバルズも、大学の助手や企業の研究員をしながら、半分は趣味でリナックスを作ってく。もちろん趣味で活躍するうちに仕事の声がかかることはあるだろうけど、はじめの一歩は結構大変だっていうことが、この本を読んで改めてわかった。
 第四、自然体でいるって大切だって感じた。トーバルズは、オープンソースと商用リナックスの関係とか、既存のプログラムとリナックスの関係とか、一部の人々が熱くなる問題に直面しても、「どっちでもいいじゃないか」って自然体を崩さない。これは、いい加減ってみられるかもしれないけど、じつは選択の幅を広くキープしておくっていう態度を反映してるはずだ。
 好きな仕事を楽しくするっていうのは、じつは大変なことだ。でも、沢山の友人や隣人の力を借りながら、一歩一歩夢を実現することは不可能じゃない。そんな勇気をこの本はくれる。働く人には辛い世の中になったけど、僕もいつかこの勇気を娘に伝えたい。

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全面的に、許す

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フランスのクオリティ・ペーパー『ル・モンド』の月刊版(正確にいえば違うけど)にして、日本の月刊オピニオン誌並みの量と質を誇る『ル・モンド・ディプロマティーク』通称『ディプロ』の記事23本の翻訳。その(多分)全ては同紙日本語版サイトで読むことができるらしいけど、やっぱり紙媒体は読むのが楽だから、この企画は全面的に許すぞ。

ちなみに日本で『ディプロ』に相当するのは『世界』だと思うけど、『ディプロ』の発行部数は公称24万部だとか。『世界』の発行部数は知らないけど、日本とフランスの人口比を考えると、いやになってしまう。何でこんなに違うんだろうか。

内容的には世界各地の諸問題を扱ってて、ほとんど「知らなかった」の連続。「医薬品の国際アパルトヘイトって何?」みたいな、日本の三大紙の外国情勢に対する疎さのことを考えると、これまたいやになってしまう。何でこんなに違うんだろうか。

記事のなかでとくに読みごたえがあるのは、ブルデューとサイードかなあ。やっぱりシャープだ。

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必読

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自慢になるかどうかわからないけど、ぼくは若桑みどりさんのファンなのだ。ぼくはジェンダー論も美術史も詳しくないけど、後者の領域に属する若桑さんの『絵画を読む』も『イメージを読む』も、ともにぶっとびの快著だったのを覚えてる。

そして今回の本は、若桑さんが川村学園女子大学で担当している「ジェンダー文化論」の産物。ディズニー・アニメのなかの様々な差別意識をえぐりだすっていうのはわりとよくある話だと思うけど、この本には研究者としての、教育者としての、そして人間としての若桑さんの情熱が溢れてて、感動させられていしまう(こういう授業を受けられる学生は幸せだなあ)。なんと不覚にも涙が出てしまったのは、ぼくが幼い娘を持つ父親だったからか?

若桑さんは「知識だけが女性を解放する」(p.194)と宣言する。まったくその通り。ただし、知識が解放するのは女性だけじゃなくて男性も、なんだけど。

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ここがロドスだ、ここで跳べ

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全共闘世代の評論家・笠井さんと団塊ジュニアの評論家・東さんの往復書簡集だけど、絶品。なんたって、途中で東さんが「もう、やめよう」とまで言い出す。世代の差なのか、思想的立場の違いなのか、これだけかみ合わない(対談ならぬ)対論も珍しい。

中身については、とにもかくにも、ポモ系でサブカル系だと思ってた東さんが次から次へとまっとうな発言をかまして、驚天動地。「東は素朴すぎる」って皮肉られるかもしれないけど、最後は素朴でまっとうなほうが勝つ。それが歴史の法則だって。

これに対して笠井さんは(主敵・社会主義が崩壊したせいで魂を抜かれちゃったのか)押され気味で分が悪い。「ああ、そうですか」って感じで、さっぱり何も迫ってこない。

結局、全共闘世代って、「大文字の政治」と「小文字の日常生活」を対置し、両者の間で右往左往するだけで、両者の間に広がる「小文字の政治」や「大文字の日常生活」に目が行かなかったんじゃないのか? でも、とにかく、ぼくらは「今、ここで」行動するしかない。そこにつながらない言葉は、結局は言葉遊びなんじゃないの? というわけで「ここがロドスだ、ここで跳べ」。そんなことを考えさせてくれる点でも、絶品の一冊だと思う。

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論争の書

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6500円という、さすがに高いハードカバー。「ジョン・ロック=社会契約論=近代思想」っていう高校の政経の知識しかないぼくには、ほとんど未知の世界といってもいい憲法思想史の専門書。なんでこんな本を買ってしまったんだろうか。でも、さすが元ロック少年の著者・愛敬さんだけあって、「はしがき」はお茶目さ爆発。

「母は、初めて活字化された私の論文の題名『ロック立憲主義思想の形成』をみて、不安そうにつぶやいた。『こんな研究していて、先生にしかられないの?』」

それは措いといて、「論争家」としてのロックに魅了された産物だけあって、この本も論争的。「ロック=近代思想家」って説も「ロック=古い思想家」って説も一刀両断にし、そのうえで「自律」と「反伝統主義」って視点からロックの近代性を再構築する。ついでに憲法学や政治思想の大家にケンカを売っとくことも忘れないのは、論争の書として立派。やっぱ高校レベルの知識だけじゃダメかぁ、と反省させられる一冊。

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経済史研究のあるべき姿を示す

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岩波書店から刊行が始まった「世界歴史選書」は、山川出版社「歴史のフロンティア」シリーズが全共闘世代の研究の集大成だとしたら、それに続く世代の歴史研究の新しい息吹をようやくまとまったかたちで提示してくれそうで、ちょっと期待しているのだ。もちろん、ラインナップ全部じゃないけど。

その第1回配本であるこの本は、世界の(金融史というよりも)貨幣史をたどりながら、貨幣数量説を再検討し、貨幣の存立基盤を思索する。貨幣論に走るとなぜ皆ポストモダンチックになるのか、ちょっと不満だけど、経済史研究の側から経済理論に物申そうという姿勢は、経済史の研究として、おしゃれ。

ついでに、個人的には、経済理論を歴史に適用する「新しい経済史研究」に対する違和感の源が何か、ようやくわかってきた。「経済理論から歴史へ」というベクトルは応用経済学のものなのだ。「歴史から経済理論へ」という逆のベクトルに沿って歴史的な事実を経済理論に適用し、経済理論の修正を試みるのが経済史研究の存在意義ではないのだろうか。

まぁいいか。なによりもかによりも、第1章で紹介されてる、オーストリアで18世紀に作られた「マリア・テレジア銀貨」が20世紀始めの紅海沿岸で流通してたという事実には、驚愕の一言(その理由の説明はいまいちだけど)。 ほ、ほんまかいな。

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豪快、逆手取り

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政府の意思決定プロセスの分析に「個人の効用の極大化」仮説を導入して「政府の非効率性」を説いた公共選択学派の路線をさらに突っ走り、「政府は市場とみなせるから、市場が効率的だったら政府も効率的に決まってるじゃん、だから公共選択学派の主張は間違ってるのだ」と決め付けてくれる快著。

もちろんまっとうな政治学の研究書だし、ぼくは政治学の素人だし、本屋で偶然みつけてなぜか買ってしまったという経緯だから、この本の本当の奥深さは全然わからん。でも、好きだなあ、こういう相手の議論を逆手に取ったラディカルで豪快な荒業は。

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力を我らの手に

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翻訳の出版から4年もたってるっていうのに、まったく古くなってない。著者のユヌスさんはマイクロクレジットっていう新しい融資のあり方を考え出し、しかも実際に銀行を作って(この本によれば)成功してきた。そのユヌスさんが半生を語ったこの本には、貧困や銀行や起業のあり方についての新しい考え方が溢れてる。まったくもって、世界は広い。人間ってすごい。

貧しい人を見たら、僕らは助けたくなる。たしかに発展途上国(地域)を旅したら、そんな場面に何度も出会うだろうし、「いい人」ほど「助けたい」と思って寄付(慈善)してしまうんじゃないだろう。でも、ユヌスさんは「それじゃダメだ」っていう。なぜだろうか。

銀行から金を借りるときは担保が必要だ。僕はこれまで、それは当たり前だって思ってきた。しかも、今は「担保価値をちゃんと見抜けないから、不良債権が増える」って理屈で貸し渋りが進んでるし。でも、ユヌスさんは「それは大間違いだ」っていう。なぜだろうか。

起業っていうと、僕らは「ベンチャー企業だから、何か新しい技術やビジネス・モデルを持ってるに違いない」って思ってしまう。そして「既存の重厚長大産業が衰退してるから、これからは起業だ」みたいなセリフが新聞や雑誌のページに踊ってる。そして、僕らもそのセリフを真似てしまう。でも、ユヌスさんは「新しい技術もビジネス・モデルも必要ない」っていう。なぜだろうか。

バングラディシュで始まったマイクロクレジットは、発展途上国(地域)の人々が自力で貧困から脱出するための手段だった。でも、その底に流れてる経済思想は、僕らにとっても、他人事じゃない。嘘だと思ったら、うえの三つの疑問に対する答えを自分で考えてみてほしい。そして、わかんなかったら、この本を読んでみてほしい。きっと「マイクロクレジットが投げかけた問題は、僕らの日常生活にもふかく関わってる」ことがわかるはずだ。

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現代思想の遭難者たち

2002/06/28 12:44

思想即漫画

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こんな本が出てしまっていいのだろうか。史上最強の現代思想解説書。漫画だからって甘く見たら、痛い目に会うだろうけれど、これ一冊あるだけで、何を言っているのかわからない原著を読む必要もないし、これまた何を言っているのか(あまり)わからない専門書を読む必要もないし、これまた何を言っているのか(やっぱり)わからない入門書を読む必要もない。あまたの現代思想家のベールを剥いだソーカル他『知の欺瞞』(岩波書店)に続いて、今度は、あまたの現代思想解説者のベールまで剥がす本が出てしまったわけだ。

考えてみれば、それも当然だろう(多分)。現代とは近代の後、つまりポストモダンだから、現代思想とは近代の後の出現した思考方法だ。その一方で、近代の後に出現した表現方法は、普通はサブ・カルチュアと呼ばれている。その代表が漫画だ。それは、近代を代表する表現方法である本(小説、評論、研究)の〈サブ〉、つまり下に位置づけられてきたけれど、ちょっと考えれば、ポストモダンの思考方法を表現する方法として、これほど適したものはない。つまり、現代思想と漫画は一心同体、表裏一体、絶妙の組み合わせなのだ(多分)。

しかも、現代最強、切れ味抜群、おまけに知識豊富な四コマ漫画家が書いたとあっては、これはもう文句なし。ヴィトゲンシュタインとハーバーマスの一コマ漫画(一五四頁)を見ただけで、二人の思想の違いをわからせてしまうなんて、他の誰ができる芸当だろうか。ついでに、「ポストモダンとかなんとか言っているが、似たような小さなスーパーマーケットが差異化を競っているだけではないのか。フン」(一二六頁)なんて、過激だけれど結構あたっている台詞をジンメルに言わせてしまうなんて、誰が考えつくだろうか。

一刻も早く文庫化して、書を捨てずに町に出られるようにしてほしいものだ。

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