サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 小田中直樹さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年5月)

小田中直樹さんのレビュー一覧

投稿者:小田中直樹

160 件中 1 件~ 15 件を表示

「ウォームハート・アンド・コールドヘッド」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 史上初に近いデフレ・スパイラルを経験しつつある今の日本で、まっとうな処方箋を提示できるとしたら、それは経済学者しかないはずだけど、経済学の評判ってあまり良くない感じがする。つまり、かなりの経済学者は象牙の塔にこもり、アクチュアルな関心を失ってる。政策提言をしてる経済学者だって、理論優先で現実が見えないか、なんだか現実的な動機から理論的じゃない提言を繰り出して、どっちにしろあまり使えないって思われてるんじゃないだろうか。でも、「経済」っていうのはもともと「経世済民」つまり「世をおさめ、民をすくう」って意味だ。つまり、経済学者には「ウォームハート・アンド・コールドヘッド(温かな心と冷静な頭脳)」が求められてるわけだ。

 だから現実的な関心と理論的な誠実さを兼ね備えるっていうのは経済学者の必須要件だけど、実際にはとても難しいことだ。だから、そんな経済学者はとても稀だろう。そして、数年前にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センさんは、その稀な経済学者の一人らしい。しかもセンさんの業績は、狭い意味での経済理論にとどまらない。一方では、発展途上国(地域)の経済発展の途を探求して政策を提言し、様々な国際機関に影響を与えてきた。他方では、経済学を超えて、人間が幸福に生きる条件を探求し、倫理学や政治学や哲学の領域にも越境してきた。この本によって、そんなセンさんの営みの一端に触れられることになったわけだ。

 この本は、とくにアジア諸国の発展を念頭に置いてセンさんがおこなった四つの講演を集めたものだ。具体的には、理想的な経済発展とはどのようなものか、東アジアの経済発展戦略のメリットは何か、自由と経済発展の関係はどうなってるか、民主主義を広めるにはどうすればいいか、といった問題を論じる。これらテーマを見るだけでも、センさんの思想が狭い経済学に留まらないものだってことがわかるだろう。

 この本のメリットは次の二点。

 第一、センさんの仕事は、これまで日本ではそれほど知られてなかった。でも、国連や世界銀行をはじめとする国際機関の政策に影響を与えてきたことを考えると、経済学者じゃない人も、少しはかじっておく必要があるんじゃないだろうか。そんなセンさんの思想に、新書というかたちでアクセスできるようになったことは大きい。この講演集は日本で独自に編まれたものらしいけど、とすると、これは編集サイドの大ヒットだと思う。こういう骨太な企画を見ると、まだまだ新書も捨てたものじゃないって気がしてくる。

 第二、内容については、普通僕らは「経済発展」について、市場経済を導入すればいいとか、経済が発展するためには民主主義や自由権は邪魔になるとか、国内総生産が増えればいいとかって通念を持ってる。でも、センさんによれば、市場経済がちゃんと機能するには、国家をはじめとする様々な制度が必要だ。民主主義や自由権が保証されてなければ、経済は発展しない。経済発展は手段であり、最終的な目標は一人一人が人間らしく生きられるようになること、つまり「人間的発展」にある。こんな風に、広い視野を保っておくのって、とても大切なことだと僕は思う。

 編集上の問題を一つ。この本は講演集だからさらっと読みとばすこともできるけど、広く深いセンさんの思想を本気で理解しようと思ったら、結構大変だろう。この本を読み終わったあと、僕はちょっと消化不良状態だった。だから、もうちょっと解説がほしかった。この本の訳者解説(大石りらさん)は、結構わかりやすいけど、スペースの関係からか急ぎ足気味なのだ。結局、他の本も読まなきゃいけないってことなんだろうか。[ご意見はここまで]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

全数調査の威力

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまや「国民的作家」の一人として、日本史についての僕らの理解に大きな影響力を及ぼしてる司馬遼太郎さんは、戦国時代は明るかったけど江戸時代は暗く、明治時代は最初明るかったけど日露戦争から暗くなった、と述べてる。明治時代の評価は難しいけど、戦国時代が明るかったっていう点については、多分ほとんどの人が同意するだろうし、とくに織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三巨頭は、ほとんど「国民的英雄」って言ってもいいくらいの存在じゃないだろうか。

 しかも、僕なんぞは、NHK大河ドラマのおかげで、「信長」って言えばあの俳優の顔が、「秀吉」っていえばこの俳優の顔が、「家康」って言えばその俳優の顔が、すぐに思い浮かぶ。それは、きっと僕だけじゃないはずだ。

 というわけで、三巨頭についての山ほどあるんだけど、このたびまた信長を扱った本が出た。信長といえば、「うつけ者」から「桶狭間」から「比叡山焼き討ち」から「本能寺」から「人間五十年……」から、その逸話のほとんどは知られてるし、ということは多分研究されてるし、しかも(よく考えると)今から四百年以上も前の人だから資料も多くはないだろうし、新しいことを言うのはなかなか大変なはずだ。それじゃこの本は、一体何が新しいんだろうか。

 この本の著者の谷口さんによると、信長の功績は日本統一を試みたこと、中世から近世への体制変革を主導したこと、この二点にある。このうち後の点については色々と異論があるらしいけど、合戦を重ねて日本統一を進めたことはたしかだ。このように判断したうえで、谷口さんは「信長が行なった合戦を網羅的に紹介し、信長の戦略・戦術についても考察を加えた」(はじめに)。その背景には「信長の合戦全体について書かれたものはほとんどない」(はじめに)という現状がある。

 この本のメリットは次の二つ。

 第一、三十年に及ぶ信長の合戦歴の全貌を明らかにしたうえで、逆に合戦から信長の半生を描き出したこと。前に述べた「うつけ者」やら「桶狭間」やら「比叡山焼き討ち」やら「本能寺」やら「人生五十年」やらが、合戦に明け暮れた信長の半生のなかに、きれいに位置づけられる。こうして(谷口さんは意図しなかったかもしれないけど)合戦が生活だった人物の哀しみまでが感じられるような伝記が出来上がった。

 第二、全ての合戦を調べるっていう「全数調査」を実行して、これまでのような、わりと印象にもとづいた信長像を覆すヒントを提供したこと。たとえば、僕らは、焼き討ちやスピーディで力ずくの電撃戦を好んだ信長を、攻撃的な人物と考えがちだ。でも、焼き討ちをしたのは敵の戦意を失わせるためだった。電撃戦を好んだのは、もちろん性格もあるけど、それが可能だったのは領地が拡大してたからだし、必要だったのは敵が多かったからだ。

 また、僕らは信長を戦上手で負けなしの軍神って考えがちだけど、この本を読むと、戦略ミスもたくさんあったし、負けたこともあったし、ラッキーな戦勝もあったことがわかる。信長は優秀な軍人だったけど、神ではなかったのだ。

 全てを調べるっていうのは、物事の本質を捉えるためには、じつはとても大切なことだ。それによって、あれやこれやの断片的な情報じゃなくて、わかる限り、得られる限りの情報にもとづいた、現時点ではベストのイメージが現れる。それにもとづいた議論が可能になる。この本はそんな意味を持ってる。[ご意見はここに]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

教育改革の幻想

2002/01/31 11:30

教育を「飲み屋談義」から救済しよう

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 教育改革をめぐる論議が盛んだ。でも、教育に関わる各種審議会(教育改革国民会議、中央教育審議会、教育課程審議会)や文部科学省は教育の専門家のはずだから、彼(女)が構想する改革は「改善」をもたらすはずなのに、問題がなくならないのはなぜか。

 そんなことを感じてる人にとって、これは必読の一冊だ。この本は、なぜ僕らが「教育改革」って言葉に弱いのか、いま進んでる教育改革の問題点は何か、僕らはどうすればいいのか、といった問題を論じるのだから。具体的には、現在進行中の教育改革の基本理念を、ゆとり、子供の主体性や意欲や個性を尊重する「新しい学力観」、この二点で捉えたうえで、次のような問題が検討されてる。今までの教育ではゆとりがなかったか。ゆとりの時間は何に使われているか。子供の主体性と意欲と個性をイコールで結んでいいか。

 この本のメリットは次の二点。

 第一、これまでの教育改革に欠けてた「政策評価」、つまり成果を具体的に検証するって観点を取り入れたこと。そして、歴史的な経験とか具体的なデータにもとづいて、これまで実行された教育改革を評価しようと試みたこと。それによってこの本は、「教育はこうあるべきだ」っていう、たしかに必要だけど、下手すると単なる印象論に終わってしまう理想論を離れ、クールにリアルに教育を論じることに成功した。

 しかも、僕らの常識を覆す事実を、この本は次々に明らかにする。たとえば、授業時間を減らしても、テレビとゲームの時間が増えただけだし、とくに勉強しない子供がますます勉強しなくなった。教育内容を減らしても、子供の理解度や学習意欲は上がってない。「新しい学力観」は基本的知識を軽視し、「学ばない主体性」(一九〇頁)をもたらす危険がある、云々。たしかにこういった現場の実態を無視して進められる改革論議は不毛であり、ただの「飲み屋談義」であり、さらには危険でさえあるだろう。

 第二、教育改革を論じるときには、「子供」を大雑把にくくって考えるのではなく、勉強できる子供とできない子供、金持ちの子供と貧乏な子供、といった「階層間格差の視点」(九二頁)が大切だって教えてくれたこと。たしかに各々の子供の背景に応じて教育の機能は変化するはずだから、教育改革はもう少し繊細に論じる必要があるだろう。

 この本のデメリットは次の二点。

 第一、教育改革が進んでるけど成果が出ない原因は「改革の不徹底」か「誤った前提」かという論争について、苅谷さんは「生産的とはいえない」(三七頁)って言いながらも、どちらかといえば「誤った前提」派に近い立場を採る。でも、この本を読んでも「改革の不徹底」派の主張を否定する根拠はみつからない。政策評価と、改革を進めるか否かについての意思決定との間には、もう一つ理屈をはさむことが必要らしい。

 第二、学力と学校外学習時間の関係をめぐる苅谷さんの分析(一二四〜八頁)には疑問が残る。つまり、「できる子」と「できない子」の学習時間の減り方を比べるときは、減った量に差はないのに、減った割合にもとづいて「できない子が勉強しなくなった」って主張する。「まったく勉強しない」子供の増え方を比べるときは、増えた割合に差はないのに、増えた量(ポイント)にもとづいて「できない子が勉強しなくなった」って主張する。これは「結論先にありき」って感じで、いかがなものか。

 教育は誰にとっても身近なので、誰でも一家言ある、とよく言われる。しかも大抵の人は教育、とくに受験競争の敗者だから、教育を改革しようって声に弱い。でも、僕らもクールでリアルに教育を論じたいものだ。[ご意見はここに]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本憲法への招待

2001/12/03 16:20

法律解釈と立場表明

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 社会の問題を論じるとき、僕らはよく「タテマエと本音」って言葉を使う。タテマエは平和主義だけど本音は軍隊が欲しい、タテマエは男女平等だけど本音は男尊女卑、タテマエは「憲法を守る」だけど本音は改憲、などなど。最近も「教育の憲法」っていわれる教育基本法の改正が中央教育審議会に諮問されたけど、タテマエは「学校の再生」だけど本音は「古い教育の復古」だってことは、大抵の人がわかってる。わかってて、やる。そして、わかってて、見守る。でも、これって茶番だし、タテマエと本音が別なのはおかしい。でもでも、タテマエを捨てて本音に一本化するのはもっとおかしい。難しい問題だ。さて、タテマエと本音の問題がもっともはっきり現れるのは、日本国憲法が論じられるときだろう。憲法学者の渋谷さんは、一知半解の憲法談義が続くことに危機感を抱き、「身近な疑問や話題になった社会問題から出発して、憲法の基本的な思想と論理を知ることを目的に」(はじめに)して、この本を書いた。外国人の参政権や学校教科書検定や首相公選制やといった新聞でよく見る話題や、憲法に義務規定が少ない理由は何か、いじめは人権問題か、象徴天皇の意味は何か、地方自治の意義は何かといった問題を切り口に、日本国憲法の思想と歴史と論理を解説する。

 この本のメリットは次の二点にある。第一、素人を相手にしたわかりやすい憲法の入門書を書くっていう、ちょっと見には(大きなテーマだから)簡単そうだけど、じつは(大きなテーマだけに)厄介なしごとを試みたこと。この本は、個別具体的なトピックを扱い、そのなかで日本国憲法の全体像を明らかにし、そのなかで憲法の思想的あるいは歴史的な背景を解説し、そのなかで現代的な憲法の原点にある立憲主義って思想の重要性を再確認するっていう、二段三段構えの構造を採用することによって、この難題に取り組んだ。こんな構造を考えだし、利用するには、結構な時間と手間がかかったことだろう。でも、その甲斐あって、この本は素人にも十分わかるような内容になった。しかも、レベルを下げてないところが偉い。「難しいことをわかりやすく」って、大切なことだ。

 第二、世間にはびこる常識を鮮やかな手並みで料理すること。たとえば、日本国憲法には国民の義務に関わる規定が少ないっていわれるけど、渋谷さんにいわせれば、それは当然で、憲法に義務の規定があるほうがおかしい。日本国憲法は国民に憲法を擁護する義務を課してないっていわれるけど、渋谷さんにいわせれば、それも当然だ。日本国憲法にはプライバシーや環境権の規定がないっていわれるけど、渋谷さんにいわせれば、探せばある。リーダーシップや権力分立の観点から首相公選制を求める声があるけど、渋谷さんにいわせれば、リーダーシップの点でも権力分立の点でも議院内閣制のほうが優れてる。渋谷さんはこんな常識批判を、立憲主義や法の支配や権力分立や社会契約説といった高校の授業で習う概念を使いながら展開する。これってなかなかスリリングだ。

 そんなわけで僕はこの本を楽しみながら読んだけど、不満が一つ。この本で、渋谷さんは、日本国憲法に対する立場をはっきり書いてない。でも、この本の主張から見る限り、渋谷さんの立場はどう見ても護憲論だ。論理的に考えればこうなるっていわれるかもしれないけど、法律の解釈は「きわめて創造的な行為」(二〇〇ページ)だから、憲法を説明するときには必ずその人の立場が入り込む。僕は、今の改憲論と護憲論を比べたら護憲論のほうに親近感があるから、渋谷さんの立場に賛同する。でも、渋谷さんはまず自分の立場をはっきりさせ、そのうえで対立する立場の考え方を紹介し、批判するべきだったと思う。そうすれば、論点がさらにはっきりしたんじゃないだろうか。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本困ったときの情報整理

2001/11/12 10:57

ノウハウを極めて普遍に至る

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょっと前にファイロファクスが流行ったことがある。貧乏な僕にはとても買えない値段だったし、そもそもポケットに入らない手帳は役に立たないって考える前世紀の遺物なので、結局お近付きにはなれなかった。ついでに情報整理本ってジャンルがあるけど、こちらもお近付きになってない。整理するほどの情報がないし、そもそも整理するのが面倒くさいし。それでも文書を書く機会がないわけじゃないので、「ふつうの人が……論文やリポートや企画書を、短時間で作成するために最低限必要な方法」(二〇ページ)を解説したこの本を読んでみた。でも、情報弱者のひがみで「ハウツー本が本当に役に立つのかね」って偏見を持って読みはじめたことをお断わりしとこう。
 この本の著者の東谷さんは政治や経済を専門にするフリーのジャーナリストという、一方で自分の仕事にも情報整理が必要不可欠で、他方で情報整理に関する情報を提供する立場にいる人だ。しかも昔は情報整理に関する雑誌の編集を手がけた。この本では、短期間でレポートを提出しなきゃいけない場合を例にとりながら、東谷さんは次のような問題を考える。まず何をしなきゃいけないか。本、新聞や雑誌の記事、インターネット、取材といった色々な種類の資料があるけど、どんな順番で参照すればいいか。その理由は何か。レポートがオリジナリティのあるものになるにはひらめきが必要だけど、どうすればひらめくか。レポートを書くときには、まず何に注意すればいいか。どんな文体や文章構造を使えばいいか。僕らが陥りやすいミスは何か、などなど。つまり、この本は、何か目的があるとき、どうやって情報を整理すればいいかについて論じるハウツー本なのだ。
 この本のメリットは次の三つだ。第一、情報整理の概念をはっきりと示したこと。東谷さんがいうように、僕らにとって情報を整理することは目的じゃなくて手段だ。その場合、情報整理のゴールは目的を実現する、つまり何かを「算出」することにある。だから情報整理は、情報を集め、処理し、消化し、利用した成果を出すまでの、全ての過程を含む。データを整理するだけで満足するのは「ふつうの人」にはあまり意味がなさそうだから、僕は東谷さんの主張する情報整理のあり方に賛同する。
 第二、実践的で興味深いノウハウに溢れてること。たとえば、実際の日数の半分でスケジュールを立てる。読書する際には本の内容に賛成か反対かを考えながら読む。通説を疑う。人と会話することが大切だ。「ブロック型文章」(四〇ページ)で書く。普段自分がしてないことを指摘されてるみたいで、僕は本当に身にしみた。こんなノウハウを披露できるのも、東谷さんが「作業には期限がある」と「能力には限りがある」(二〇ページ)っていう、ふつうの人の立場に立って情報整理を考えたからだろう。
 第三、この本に書いてあるのは東谷さんの個人のノウハウだけど、それを採用した理由がちゃんと書いてあるため、自己満足に終わらない説得的なハウツー本になったこと。ハウツー本を徹底してくと普遍的なノウハウを考えなきゃいけなくなるし、そのためには論理的な理由付けが必要になる。たとえば、東谷さんは、まず本を参照し、次に新聞と雑誌の記事、インターネット、そして最後に直接取材することを勧めるけど、その背後には東谷さん自身の知識論(知識があって思考や創造が可能になる)、読書論(対話としての読書)、そして情報論(分類と検索のトレードオフ関係、情報の信憑性の大切さ)がある。こういった主張に説得力があって、はじめて提示されたノウハウが他人の役に立つのだ。
 というわけで、僕の偏見は覆された。最後に不満を一つ。せっかく算出までを情報整理に含めたんだから、文章の書き方についても、もう少し詳しくノウハウを披露してほしかった。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本サイバー経済学

2001/11/05 11:06

一粒で三度美味しい

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまどき「サイバー」はないんじゃない、なんて思いながら、それでも読んでみる気になったのは、数学エッセイストでいながら、一人の経済学者との運命の邂逅から経済学を志し、大学院に入りなおしたっていう著者の小島さんの経歴に興味を惹かれたからだ。ついでに、金融工学とかデリバティブとかっていう、数学が必要だから敷居が高そうだけど「超低金利が続く時代を生き抜くためには金融工学だ」って気もする学問について、ちょっと耳学問したいっていう不純な動機もあった。

 この本の目的は、IT化する経済で大きな問題になってきた「リスク制御」の技法であり、金融工学の基本にもなるベイズ・テクノロジーを紹介すること、最新の(経済全体を分析する)マクロ経済学を概説すること、「市場に棲む魔物」(八ページ)の正体を明らかにすること、この三つだ。具体的には次のような問題が論じられる。市場経済の本性については二つの対立する見方(新古典派、ケインズ派)があるが、その違いはどこから来るか。IT化のメリットとデメリットは何か。IT化によってあらゆるリスクが取引されるようになったが、その先端的な技法であるデリバティブとは何か。リスクの取引には「ノイズの制御」(四五ページ)が必要だが、そのために使えるベイズ・テクノロジーとは何か。リスクの取引は投機の一種だが、投機の問題点は何か。投機と密接に関わる現象としてバブルがあるが、バブルを制御する手段は何か。結局「市場に棲む魔物」とは何か。それを分析し、制御するために使える手段として有望なものは何か。

 この本のメリットは以下の三つだ。第一、マクロ経済学やベイズ・テクノロジーの基本をわかりやすく解説したこと。そのわかりやすさは半端じゃない。たとえば、マクロ経済学の一番の問題は「不確かさとは何であるか、それを人間は掌握できるのか」(二二ページ)にあり、結論の先延ばしという方法でこの不確実性に対処するときの手段が貨幣だ。だから僕らが「貨幣愛」(二二九ページ)を持つのは当たり前だけど、でも、そこから市場から最適な効率が失われる危険が出てくる。ベイズ・テクノロジーは確率統計論の一つだけど、まず原因を仮定し、結果の情報を得たあとで、仮定しておいた原因を修正するって手続きをとる。それが着目されてるのは、人間の判断を描写したりデータを利用して制御したりするときに使えるからだ。ほとんど数式を使わずに確率統計論を説明するのって大変だと思うけど、小島さんのキャリアが生かされてると僕は思う。

 第二、不確実性っていう視点からマクロ経済が孕む問題を整理し、その根本にあるのは「個人の合理性だけでは社会は調和しないかもしれない」(八ページ)ことだって指摘したこと。先に書いたように個人は合理的に判断して貨幣愛を持つけど、そのせいでマクロ経済は混乱するかもしれない。個人は多分「選考の完全知」(一四四ページ)を持ってないから、合理的っていっても限界がある。経済成長に役立つ投資と役立たない投機は区別する必要があるけど、実際には難しい。そして、IT化が進むと経済の不確実性は大きくなるから、社会が調和しなくなる可能性が膨らんでくわけだ。個人が合理的に行動しても駄目なときは「自己責任」じゃないっていう小島さんの主張は、僕には説得的だった。

 第三、個人と社会の関係を再検討する糸口として「大数の法則」に着目したこと。この法則自体は高校生でも知ってるだろうし、この点を小島さんが十分に分析してるわけじゃないけど、たしかに、社会にとっては大したことない確率でも、貧乏くじを引く個人が存在するわけだし、その人の不幸が市場を利用して社会に広まれば、もう個人だけの問題じゃないだろう。おっと、べたぼめ書評になったけど、まあいいか。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

思索の力

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九世紀には平和イコール侵略しないことだった。第一次世界大戦後に国際連盟ができると、侵略国を罰することが付け加わった。第二次世界大戦後に国際連合ができると、さらに内戦や人権侵害がないことが付け加わった。そして、国連は内戦や人権侵害を放置する国に武力介入する権利を持った。それじゃ国連じゃない普通の国が武力介入すること、つまり「人道的介入」は可能だろうか。この本の冒頭で、著者の最上さんはこのように問いかける。こう問われて、うーむと唸らない人は、幸せなほど単純だ。だって、イエスと答えれば平和を否定することになるし、ノーと答えれば人権を否定することになるんだから。そう、最上さんがいうように「人道的介入を考えるということは…鋭い緊張関係のなかで重い倫理的課題に向き合い、実践的に平和への道を選び取るということ」(序)なのだ。この本で、最上さんは、そんな人権と平和の狭間にある人道的介入について、歴史、問題点、満たさなければならない要件、一番大切な目的、最近出現してきた考え方を紹介したうえで、人道的介入は認められるか、認められるとすればどのような場合か、どのような形態を取るべきか、といった問題を考察する。

 この本のメリットは次の三点だ。第一、僕らが人道的介入を考えるときに必要な情報を提供したこと。たとえば、ドイツによるズデーテン地方(チェコ)の併合(一九三八年)やアメリカ合衆国のグレナダ侵攻(一九八三年)では、人道的介入が口実として用いられたこと。逆に介入が必要なときになされなかった事例があること。人道的介入は、不介入原則や武力不行使原則といった国際法の根幹に触れること。他方で、現在の国連体制は人権や人道の保障を根幹にするから、人道的介入を全面的に否定はできないこと。最近は、国連平和維持活動のなかから「犠牲者へのアクセス権」(一五二ページ)という考えが登場し、非政府組織から「武力的でなく非武力的であり、国家的でなく市民的である」(一六七ページ)介入や「予防のための介入」(一八二ページ)といった概念が提唱されるなど、新しい動きがみられること。こういった点を知るのは、感覚的で感情的な結論に陥らないために、とても大切なことだと僕は思う。

 第二、人道的介入は可能か、可能ならどうあるべきか、といった問題について、説得的な結論を示したこと。つまり、人道的介入は例外的な場合だけ採ることができる。その根拠は人間の尊厳の尊重であり、判断の基準は被害者の希望であり、目的は加害者の懲罰ではなく被害者の救済、加害者と被害者の和解、そして人権侵害の予防にある。満たさなければならない要件としては、人権侵害が存在すること、他の手段が尽きたこと、人権侵害を止める以外の目的がないこと、必要最小限なこと、人道的な効果が期待できること、国際機関の承認を求める姿勢を失わないこと、できれば複数の国や地域的な国際機関でおこなうこと、などがある。つまり、これからの人道的介入のキーワードは予防、救済、非武力、連帯、市民、和解なのだ。そして(一国平和主義でなく)平和主義を国是とする日本こそが新しい人道的介入のあり方を模索できるという最上さんの主張に、僕は賛同する。

 第三、人道的介入という、難しいから大抵は「あれかこれか」になりがちな論点を例に、二者択一を避け、広い視野を保ち、繊細に、慎重に、実践的に、批判的に考えるプロセスを僕らの目の前で展開したこと。一見ためらいがちで中途半端でどっちつかずにみえる思索のなかから、新しい人道的介入のキーワードが説得的に紡ぎだされてくるのを見るのは、快感であり、驚きであり、壮観ですらある。読みすすめるうちに目の前の霧がすーっと晴れてくような経験をしたのは、いつ以来のことだろうか。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「原発」革命

2001/08/22 16:29

専門家と素人の対話に向けて

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は原発アレルギーだ。僕の住んでるまちの近くには原発ができてほしくない。でも、水力発電はダムを造って村を水に沈めるし、火力発電は大気汚染を引き起こす。省エネルギー生活をすればいいかもしれないけど、生活が便利じゃなくなるのも嫌だ。やっぱり原発しかないんだろうか。ここは専門家に聞いてみるしかない。
 この本の著者の古川さんは原発の専門家だけど、ただの専門馬鹿じゃない。石油や石炭に最終的に取って代わるべきエネルギーは、原子力じゃなくて再生型太陽エネルギーだっていうんだから。ただし、その実用化にはまだ最低数十年はかかるから、その間の〈つなぎ〉が必要だ。古川さんによれば、それは原子力エネルギーしかない。だから、科学者は安くて安全で非軍事的な「より良い原発」(二一ページ)を創り出さなきゃいけない。そして、古川さんは具体的に「革命的な技術体系」(二一ページ)を提案する。
 今ある原発は固体のウランを燃料に用いる大型のものだ。これに対して古川さんは液体のトリウムを燃料に用いる小型の原発を使う「トリウム熔融塩核エネルギー協働システム」を勧める。固体よりは液体(とくにフッ化物熔融塩)のほうが制御しやすくて安全だし、ウランと違ってトリウムは毒性の強いプルトニウムを生まないし、大型発電所よりも小型発電所のほうが重大な事故の危険が少ないのだ。さらに大切なのは、トリウムを利用する原発は放射性廃棄物を燃やすことができる、つまり後腐れがないことだ。だからプルトニウムやウランの使用を全面的に禁止してトリウムを利用する原発に移行し、再生型太陽エネルギーが実用化されたら、今度はそれを縮小廃止しよう。そう古川さんは訴えてる。
 自然科学の最先端にある核科学について、十分な知識を持つ素人は少ないだろう。僕もそうで、高校時代にかじった物理の授業を必死に思い出しながらこの本を読んだけど、やっぱり駄目だった。そんな素人が古川さんの提案を評価するには、一体どうすればいいんだろうか。一つ手がある。自分の立場に都合の悪い事実を隠してないか、自分の立場に対する反論をとりあげて答えてるかをチェックしてみることだ。もちろんこれで十分ってわけじゃないけど、何もしないよりはましだから、ちょっとやってみることにしよう。
 第一、原子力エネルギー一般について。よく原発推進派は〈石油や石炭は有限だから原発が必要〉っていうけど、古川さんは「あらゆる資源は実効的に無限」(二八ページ)って考えていいって主張する。また、原子力エネルギーだって発熱を伴うから、必ずしも環境に優しいとはいえないって断言する。こういった主張は原子力エネルギーを推進する側にとってはマイナスだから、古川さんは自分の立場に都合の悪い事実を隠してないっていえるだろう。上の基準から見るとポイントが高い。
 第二、トリウム熔融塩核エネルギー協働システムについて。古川さんはこのシステムの長所と問題点をリストにしてるけど(一九八ページから)、問題点をはっきり示してることはポイントが高い。そこで出てる問題点は、トリウムを精練するときに高いガンマ線が出ること、一緒に使うベリリウムが有毒なこと、必要な大電流加速器がまだ開発されてないこと、この三点だ。これらの点について古川さんは、ガンマ線やベリリウムの遮蔽はわりと容易にできるし、加速器は開発中だって説明してる。そうすると、次の問題は、素人がこの説明にどれ位の説得力を感じるかになる。でも、僕は説得力の大きさがまったくわからず、判断がつかなかった。さいわい古川さんは「もう一歩踏み込んで、自ら検討してみていただきたい。そしてともに議論を積み上げよう」(二〇五ページ)っていう。この本が専門家と素人が協働するための第一歩になってほしいと僕も思う。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

甘いタイトルに似合わぬ、正統派の比較教育心理学研究の産物

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょっと前から、イギリスは良いぞって主張する本が目に付くようになった。そんなわけで、へそ曲がりな僕は、『イギリスのいい子、日本のいい子』ってタイトルを見ただけで、しばらくこの本を敬遠してたけど、もったいないことをした。比較教育心理学者の佐藤さんは、この本で、イギリス人と日本人の対人関係の違いを説得的に論じてるのだ。
 佐藤さんによると、基本的な対人関係として、日本人は自己抑制(がまん)を重視し、アメリカ人は自己主張を尊重するってよくいわれる。でも、自己主張と自己抑制は対立しあうものじゃない。イギリスみたいに両方とも高いこともある(もちろん両方とも低いこともある)。佐藤さんは、このような対人関係の違いは子供時代のしつけや教育に影響されてるんじゃないかって考えて、日本とイギリスのしつけや教育を比較した。そうすると、イギリスで重視されるのは自発性、能動性、言葉を用いた自己主張、人格の一貫性、他者との距離、ルールの遵守などだったのに対して、日本では協調性、情緒、他者への思いやりなどだったことがわかった。また、日本の母親のしつけには、子供の自己主張について明確なビジョンがない、しからない、という二つの特徴があった。でも、これじゃ子供は自己主張していいか否かわからないし、しかられないので自律しない。自己抑制ばかり強いられてる子供は、限度を超えると極端に攻撃的になるって問題もある。しかも、日本の社会や文化のシステムも、自己主張を求める方向に変化しはじめてる。だから、しつけや教育も、適切な自己主張と適切な自己抑制を組み合わせたイギリス型の対人関係を育む方向に変化する必要がある。そう佐藤さんは結論してる。
 この本のメリットは次の三点だ。第一、専門的な内容なのに読みやすい(読みやすいけど内容がしっかりしてる)こと。これって、新書の理想的なかたちだと思う。第二、しっかりした調査研究にもとづいて、しつけや就学前児童(つまり幼稚園)教育について、はっきりした提言を打ち出してること。とくに〈自己抑制の日本型か、自己主張のアメリカ型か〉っていう二分法を否定したことと、自己主張が強い子供は他者に対する思いやりも強いっていう(日本の通念を打ち破るような)事実を明らかにしたことで、佐藤さんの提言は説得力を増した。第三、日本とイギリスをちゃんと比較してること。二つの国で調査するっていうのは、なかなか大変なことだ。しかも、〈イギリスは日本のモデル〉とか〈二つは全くの別物〉とかいう立場じゃなくて、〈学べるところは学ぼう〉っていう柔軟なスタンスだから、議論に無理がない。
 もちろん不満が残った点もある。三点だけ挙げておこう。第一、イギリス人が自己主張も自己抑制も強い対人関係を築ける理由がはっきり書いてない。これがわからないと、日本人が(自己抑制を弱くすることなく)自己主張を強くするにはどうすればいいかもわからない。この本からは、イギリス人は自己抑制を自己主張の手段とみなしてるっていう重要なヒントが読み取れるけど(七〇、一五〇ページ)、この点についてもう少し論じてほしかった。第二、今の日本の子供が抱えてる問題(いじめ、引きこもり、指示待ち症候群)を自己主張のあり方と関連させて考えてるけど(一七、一八ページ)、ちょっと単純化しすぎてる感じがする。ついでにいうと、この関連があるからといって、自己主張が強くなれば問題は解決するとはいえない。因果関係の存在証明が必要になる。第三、この本は佐藤さんが自分でやった調査を元にしてるけど、それをどこまで一般化できるかって問題をはっきり論じてない。たとえば第四章の元になった調査のサンプル数は二百人弱だけど、これで十分なんだろうか。まあ中心の議論が面白かったからいいけど。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

〈戦争の記憶〉を〈理解する〉

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本の歴史、なかでも戦争をどう記憶するかについて、あちこちで議論が続いてる。教科書問題とか国民国家論とか、色々な次元で色々な話がされてるけど、はっきりいって飽きた。面白くないし、〈だから何なんだ〉って感じ。〈事実と物語〉とか〈自虐的と保守的〉とかって対立軸が出てきて、〈さあどっちだ〉って迫られても、こっちは〈うーん〉って唸るしかない。だって、他にも〈そのとき生きてた人と生まれてない人〉とか〈国民と個人〉とか、色々な対立軸があるし、おまけにそれらが絡みあってるから、すぱっと〈こっち〉って決められないんだ。そんなとき「異なる社会の間での和解と赦しの可能性」を探るために、戦争の記憶の「歴史的・社会的根拠までさかのぼって考える」(一〇、七ページ)っていうこの本を見て、〈ちょっと違うかも〉って思って読んでみた。
 著者の藤原さんによれば、アメリカ合衆国や中国やシンガポールを見ればわかるけど、戦争の記憶は色々だ。でも、どれも〈うそ〉をいってるわけじゃない。戦争の記憶は、そのときその場所の社会のあり方から影響を受けながら〈つくられる〉。おまけに、人々から需要がある。だから、〈どれが正しいか〉は大きな問題じゃない。大切なのは、各々の記憶が〈どんな風につくられたか〉とか〈なぜ人々によって選取られたか〉を〈理解する〉ことなんだ。歴史を振返ってみると、ヨーロッパ諸国はリアリズムで戦争を見てきた。合衆国は、理想主義を掲げて、反戦論と正戦論の間を揺動いてきた。同じく理想主義が強調された戦後の日本では、被害者意識と平和主義とナショナリズムが反戦論に結晶した。こんな各国の経験を比べると、現実には「様々の、正しいかもしれない歴史」(一七一ページ)しかないことがわかる。だから「虚飾やウソを離れて死者を見つめる、静かな視線」(一九五頁)が大切になる。
 この本は、やっぱり他の本と違ってる。それは〈理解する〉って姿勢に徹してるからだ。たとえば、外国の経験を〈理解する〉と、〈そうかなるほど、何だそんなことだったのか〉って気がしてくる。日本の特別なとこと特別じゃないとこが区別できるようになる。日本と合衆国は、〈反戦論と正戦論〉って対立軸では正反対だけど、〈リアリズムと理想主義〉って対立軸では同じだよっていわれて、僕は本当に目から鱗が落ちた。そして、〈世の中そんなに単純じゃない〉ってことがわかったから、〈あっちかこっちか〉って聞かれたときに堂々と〈そんな簡単に決められないよ〉っていえるようになる。戦争の記憶みたいに複雑怪奇な問題を考えながら「異なる社会の間での和解と赦しの可能性」を探るときは、頭と心を柔かくしなきゃいけない。この本は、そのためのヒントを教えてくれる。
 でも、それはあくまでも〈ヒント〉だ。藤原さんは「どう考えるべきか」(一九七ページ)、つまり〈答〉は教えてくれない。強い自我を持ち、〈僕ら〉じゃなくて〈僕〉の視線で、リアルに「それぞれの死者」(一九二ページ)に向合えばいいんじゃないかってほのめかしてるけど、具体的な内容はわかんない。僕らは、自分で答をみつけなきゃいけないんだ。僕の考えを二つ書いとこう。第一、〈リアルな理想主義〉(または〈理想を実現するためのリアリズム〉)を持つこと。理想がないリアリズムはただの現状追認で、現実が変化したとたんにリアリティを失う。リアリティのない理想主義は〈どうせだれも聞いてくれないんだ〉ってニヒリズムを含んでて、理想を失ってる。リアリティと理想って、どっちがなくても駄目な、車の両輪なんだ。第二、〈自分の役に立つか〉を基準にすること。そうしないと地に足が付かないから、足をすくわれちゃうぞ。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本市民科学者として生きる

2001/06/13 12:59

「市民科学者」という「方法」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近では珍しいほど惜しまれつつ死去した高木さんが、病床で、自分の歩んだ道に想いをはせ、未来への希望を語った本。じつは僕は「きっと〈いい性格〉の人だったんだ。だからこんなに惜しまれてるんだ」って思ってた。でも、この本を読んで、それは間違いだって気付いた。彼は「いい性格」じゃない。頑固でへそ曲がりで、近くにいたら「おつきあいしたくない」タイプだ。それでも「惜しまれてる」のはなぜだろう。彼が「やったこと」がすごいからだろうか。彼は、大学をやめ、「原子力資料情報室」を設立し、核兵器や原子力発電所に反対する運動を進めた。安定した職場を去る度胸。でも、それだけなら「ふぅん」で済まされる可能性あり。反体制的な運動に参加する志。でも、運動した人は沢山いる。それじゃ一体何なんだ。
 ヒントはこの本のタイトルにあった。「専門バカ」って言葉があるけど、その典型としてよく批判されるのは昔も今も自然科学者だ。たとえば、理論物理学者に「そんな難しいことが世間の役に立つのか」。原子物理学者に「あんた方の研究が原爆をつくったこと知ってんのか」。高木さんは核化学者だけど、「専門バカ」になるのがいやで悩んだ。「科学と日常生活の関係」って問題に悩んだわけだ。僕は、こんな大問題に悩んだだけでも、彼は誠実だったと思う。でも、高木さんは、悩むだけじゃなくて答を出した。よく「〈科学〉と〈日常生活〉は両立しない」っていうけど、これは嘘。科学しか知らないのは「専門バカ」、日常生活しか知らないのは「素人」。どっちも足りないんだ。日常生活人(市民)は科学を知らなきゃいけないし、科学者は日常生活を知り、市民の力にならなきゃいけない。科学者が狭く深い知識を持ってるのはマイナスじゃない。市民の目の高さを忘れなければ、知は「専門性に裏づけられた想像力と構想力」になる。自分の知を武器に現状を批判し、「理想社会」を実現するために対案を出すって、プラスじゃないか。こんな姿勢を忘れない科学者、つまり「市民科学者」になろう。これが彼の答だった。これってすごい、そして明るい。
 でも、「理想社会」って何だろう。高木さんは「共生、公正、平和、持続可能性」をキーワードに挙げる。「個々の人間が尊重される」ってことだろうか。科学技術が進歩しすぎ、企業が強すぎ、国家の論理がまかり通る、閉塞した今の日本社会。だからこそ、自分で考える自立した人間にならなきゃいけないんだ。ただし、間違っちゃいけない。彼の「理想社会」と最近流行の「自己責任の社会」は違う。自立したら、今度は周囲に目を向け、社会に責任を持ち、ひろく手をつなぎ、「新しい公共性」をつくるってしごとが待ってる。「自己責任」に閉じこもるわけにはいかないんだ。それじゃ、どうやって「理想社会」をつくればいいんだろう。高木さんは最後に「市民科学者」を育てる「学校」をつくった。「自分が持ってる知識」を「次の世代につなぐ」ことを選択したんだ。彼は、自分の力の限界を認識したうえで、「何ができるか」って考えた。しかも、これって「実際に〈新しい公共性〉をつくろうとする」ってことじゃないか。これまたすごい、そして明るい。
 高木さんの死去が惜しまれてるのはなぜか。「いい性格」だからじゃない。「やったこと」はすごいけど、それだけじゃない。「方法」を考えたからだ。「市民科学者」のあり方を考え、「理想社会」への道筋を考え、それを実現するための方策を考える。そして実行する。ここまで来るのに彼は壮絶な苦労をしてるから、「明るい」っていうのは不謹慎かもしれないけど、やっぱりこれってすごい、そして明るい。書評は本の問題点を指摘しきゃならないんだろうけど、みつからない。困ったけどしかたない。というわけで、当然評価は「五つ星」。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本テロ後 世界はどう変わったか

2002/03/04 10:44

日常生活を世界に開くために

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 先日たまたまある専門学校の卒業発表会に列席したら、例の連続航空機テロにインパクトを受け、世界は変わったって考えて、世界平和を祈る詩の本を製作し、それを朗読した学生がいた。社会の出来事に関心を持つのは良いことだし、それについて何か行動を起こす(この場合は詩を作る)のも見上げた心意気だ。でも、僕は、どこか違和感を感じた。本当に連続航空機テロは僕らの日常生活にインパクトを与えたんだろうか。この事件に対して、僕らはどんな態度を採り、どんな行動を起こせばいいんだろうか。

 この本は、一二人の学者が連続航空機テロを論じた小文を編んだアンソロジーだ。著者の皆さんは、テロにも、それに対するアメリカ合衆国の報復にも反対する、いわゆる平和主義の立場を共有してるけど、国際政治学や国際法学や現代思想論といった様々な学問領域に属してるし、この事件を見る視角も微妙に異なる。だから、読み手の関心に応じて好きなように読むことができるし、逆に言えば好きなように読むしかない類の本だ。

 この中で一番はっきりした立場を表明してるのは、西谷修さんと岡真理さんだろう。西谷さんによれば、テロリズムを生んだのは冷戦終了後の合衆国の世界戦略であり、また、今回合衆国が採用した対テロ戦争という戦略は非常事態と検閲と統制を常態化するものだ。岡さんによれば、ニューヨークやパレスティナやアフガニスタンでテロリズムの犠牲になった人々の出来事を「私たちの出来事として思い出すこと」(七三頁)が必要だ。

 二人の主張はわかるし、多分正しいんだろう。でも、三浦俊章さんのレポートを見ると、こういった言葉が合衆国や、その他先進国の人々の耳に届く可能性がどれくらいあるか、僕は疑問になる。杉田聡さんが鋭く指摘するように、最大の問題は、軍を利用して境界線を再確定し、規律化と情報統制を利用して境界線の内部から他者を排除するという「セキュリティの政治」(一四八頁)を各国政府が採用したことではなく、各国の人々がそれを受容するという「草の根のセキュリティ要求」(一四九頁)が広まったことにあるのだ。自分のセキュリティを求める人々に対して、パレスティナの痛みを共有しようって訴えても、その実効性はたかがしれてるに違いない。

 もちろん正論を叫びつづけることは絶対的に必要だ。でも、平和主義を奉じるのであれば、それを実現するための方策についても想いを巡らせることが不可決だろう。その点で興味深い提言をしてるのが、杉田さんの他、坂本義和さん、大澤真幸さん、そして最上敏樹さんの小文だ。杉田さんは、セキュリティを要求してる人々も、いつかは排除される可能性があることに注意を促す。大澤さんは、今回の合衆国の対応を「軍隊が警察として振舞っている」(一七七頁)こと、つまり軍隊の警察化という観点から見ることを主張する。そして、警察機能の強化こそが現代の趨勢であり、また僕らの自由と民主主義の脅威になっていることを強調する。最上さんは、今こそ国際法について論じることが必要だと主張する。国際法の効力には疑問が付けられてるけど、しかし法的であるとは非恣意的であり、一貫性があるということなのだから。

 最初に書いたことだけど、詩の朗読に僕が違和感を感じたのはなぜか。連続航空機テロと自分の日常生活をつなげて考えることは、もちろん大切だろう。でも、問題はつなげ方にある。感覚的に両者をつなげてしまうと、感傷的な平和願望とか「草の根のセキュリティ要求」とかに陥る危険がある。そうじゃなくて、クールに、でもリアルに、自分の日常生活を世界に開くための経路を身に付けること、それが今の僕らに求められてることなんじゃないだろうか。そして、この本はそのためのヒントを与えてくれる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

自衛隊は誰のものか

2002/02/16 10:06

知ることは国民の義務である

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自衛隊って本当に不幸な存在だと思う。湾岸戦争のときには、国連安保理の常任理事国入りをめぐる駆け引きの結果、結局丸腰で紛争地に派遣されることになった。去年は「ショー・ザ・フラッグ」を(意図的に?)誤訳され、どうみても戦闘地域なのに戦闘地域じゃないらしい地域に派遣されそうになった。もっとも僕は自衛隊員じゃないから、自分に関係ないって言えば言えないこともないけど、今度は一般国民の権利に直接関わる有事法制が整備されるらしいから、そろそろ他人事ではなくなってきたようだ。さて、どう考えたらいいんだろうか。

 この本で、著者の植村さんは、自衛隊の歴史を振り返りながら、「自衛隊がどういうものであり、日本国の主権者であるわたしたち国民がそれをどう扱えばいいのか」(一四頁)を論じた。植村さんがこんな作業に取り組んだ背景には、「この国にもっとも欠けているものが公の観念」(一四頁)であり、本来公っていうのは「自分も含めたみんなにかかわること」(一五頁)だから、「知るのは主権者としての国民の権利であるとともに義務でもある」(一六頁)っていう信念がある。

 この本のメリットは次の三点。

 第一、僕みたいな素人が自衛隊の歴史について持ってる(無知の産物としての)一般通念を打破したこと。たとえば、第二次世界大戦後天皇は象徴になったって言われてるけど、しばらくの間は政治に関与してた。自衛隊は最初から軍隊としてつくられたって思われてるけど、その前身の警察予備隊の当初の任務はあくまでも国内の治安維持だった。吉田茂や池田勇人をはじめとする保守主流派は軽軍備と経済成長って路線を採用したって言われてるけど、吉田は最初から再軍備を支持してたし、この路線を確認したって言われてる池田・ロバートソン会談(一九五三年)は失敗に終わってた。岸信介はタカ派で知られてるけど、防衛政策に無関心だった。大きな問題になった「三矢研究」(一九六五年)の最大の問題は、国民主権原理を無視してたことにあった。アジア地域の安全保障の主導権を維持したいアメリカ合衆国にとっては、日本に対するアジア諸国の反感は望ましい、などなど。こういう点を知っておくことは、防衛論議を理解するうえで、きっと役に立つだろう。

 第二、旧社会党などの非武装中立路線は自衛隊の実態を知ろうとしなかったし、自民党などのなしくずし再軍備路線は自衛隊の実態を知らせようとしなかったけど、自衛隊を知り、判断し、意思表示することは意味があるってことを、歴史を遡って明らかにしたこと。たとえば、鳩山一郎の再軍備路線が挫折したのは、世論が反対したからだった。一九六〇年に日米安全保障条約が日本に有利に改定されたのは、反米感情の高揚を合衆国が恐れたからだ。やっぱり知ることは僕らの義務なんだろう。

 第三、よく文民統制が大切だって言われるけど、文民統制もジレンマをはらんでることを示したこと。三木武夫は、文民統制を強化して軍縮を目指し、そのために自主防衛路線を放棄したけど、かわりに対米協力路線を採用し、結局は軍拡のきっかけを作ってしまった。防衛問題って、一筋縄ではゆかないのだろう。

 もちろんこの本には問題もある。歴史叙述の合間に著者の感想が突然はさまってきて、読みにくい。知り、「足を地につけて……自分で考えてみる」(二〇五頁)ことを説くけど、それ以上のことは主張しない。でも、知は力である以上、僕ら一人一人も「主権者として責任を持つために」(一六頁)判断することが必要なのだろう。[ご意見はここまで]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「公正な世界」のマニフェスト

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 去年から、「9・11」って聞くとすぐに「連続航空機テロ」って連想できるようになった。日付を聞いただけで思い出せるような出来事ってそれほど多くはないはずだから、やっぱりあの事件は大きなインパクトを持ってるんだろう。今でも「9・11」を取り扱った本がたくさん出版され、本屋の店頭に並んでる。時流便乗ものから真面目な思索の産物まで種類や質は色々だけど、どういうわけか、僕はどれにも違和感を感じる。

 「9・11」を論じる人は、大抵誰でも、「九月一一日を境に世界は一変した」(序)って前提から出発する。でも、僕の日常生活を見ると、それほど変わってない。だから、本当に何かが変わったのか、一体何が変わったのか、という疑問が湧く。僕らは一体どんな態度をとればいいのか、という疑問も湧く。もっと言うと、何かを変えたい人たちがいて、彼(女)らが「世界は一変した」って叫んでるだけで、それを鵜呑みにしていいのか、という疑問も湧くのだ。僕はただのへそ曲がりなんだろうか。

 もう一つ。日本は(犠牲者は出たけど)「9・11」の直接の標的じゃなかったし、かかわりがあるって言われてるイスラム世界にも縁遠い。そんな空間に生きてる僕らは「9・11」にどう向き合えばいいのか。そんなことを考えながら、僕はこの事件を扱った本を読む(たぶん多くの日本人もそうだろう)。そして、僕が隔靴掻痒なのは、多分これらの本の著者の多くがイスラム世界の「外部」に足場を定めてるからだと思う。ジャーナリストも、国際政治学者も、思想家も、皆そうだ。でも僕は、イスラム世界の「外部」にいるからこそ、イスラム世界の「内部」からの議論を聞きたい。

 これは結構難しい作業だけど、できるとすればイスラム研究者だけだろう。そして、ようやく、日本の第一線のイスラム研究者が正面から「9・11」と向き合った本が出た。この本の独自性は、「世界は一変した」をはじめとする世間の常識を疑うっていう、多分研究者の常識だけど世間の常識じゃない立場から論を進めたこと、イスラム世界の経験豊かな一三人の研究者の手になること、この二点にある。そのうえで、この本は、「9・11」の思想的歴史的な背景は何か、世界各地における「(再)イスラム化」の現状はどうか、「9・11」をどう視ればいいか、といった問題を論じた。

 この本のメリットは次の二つ。

 第一、大切なのは「9・11」が世界を一変させたか否かじゃないって主張したこと。「テロリズム」だって「イスラム復興運動」だって、昔からあったのだ。問題は、世界を一変させたい人々がこの事件をどう利用してるかにある。そして、まさに「非常時体制」化と「監視社会」化が進むアメリカ合衆国の現状を見れば(序)、これが日本を含めた「先進国」の問題でもあることがわかる。まったくもって他人事ではないのだ。

 第二、イスラム世界に関する知識から、これからの世界を考える際の貴重なヒントを導き出したこと。たとえば、「千年王国説」を媒介にした合衆国とユダヤ人との思想的なつながり(第五章)。イスラム教徒が二重基準を厳しく批判する理由(第七章)。パレスチナ問題が世界に紛争を拡大させてきたメカニズム(序)。

 この本は、イランのハタミ大統領(一六八頁)や合衆国の言語学者チョムスキー(『9・11』、文芸春秋)と同じく、「公正」を重視しなきゃいけないって主張する。そしてこの「公正」こそ、じつはイスラム教が重視するものだ。もちろんイスラム世界と付き合うときだけじゃなくて、これからの世界を公正なものにするにはどうすればいいか、それを自分の足元で考えることが、僕らにも可能だし、また必要なんだろう。[ご意見はここに]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本倫理という力

2001/12/27 10:45

そして僕は途方に暮れる

4人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どんな本にも「語り口」があるけど、この本にもある。たとえば「むろん、私は美味いトンカツの重要性について述べているのではない。では、何の重要性について述べているのか。それを簡単に言うことは、どうもたいへん難しい。けれども、大事なことはみな、このように難しいのである」(九ページ)。あるいは「なぜ人を殺してはいけないの?という中学生の質問を、ある文芸雑誌が大特集で取り上げていた……。私が呆れたのは、ここに並んだ意見の例外なしの理屈っぽさである……。みな自分は個性的で鋭利なつもりだが、理屈を言い募ることに個性などはない」(一〇〜一二ページ)。僕は、こういった語り口が大っ嫌いだ。読者や他の人々の存在など最初っから無視したような、自分だけが知の高みにあるような、唯我独尊というか唯我独存というか、だけど他の人々にも認めてもらいたいような、そんな姿勢が、この語り口には表現されてると僕は思う。こんなことをいうと「怖れを知らぬ者」(八ページ)っていわれるかもしれないけど、別に構わないのだ。

 でも、「よく生きる」(一八五ページ)ことについて思索したこの本に中身がないかっていうと、そうじゃない。社会のなかで生きなければならない僕らの心の底に「倫理の原液」(二六ページ)を見出し、そこから僕らが他の人々と取り結ぶ人間関係のあり方を論じてくこの本は、いわくいいがたい説得力にあふれてる。著者の前田さんのメッセージを見てみよう。人間は言葉を持つかぎり独りでいても独りじゃないから、社会の中で生きざるをえない。僕らが道徳を守るのは、守りたいと思うからだ。つまり、自由意志で義務を負うとき、人間は自由になり、そこから倫理が生まれる。そして、よく生きるとは「在るものを愛すること」(一七〇ページ)であり、「自然の必然性」(一八二ページ)を受け入れることなのだ。「個人か集団か」とか、「自由か必然性か」とか、「文明か自然か」とかいった、巷に溢れる二分法を前田さんは軽々と(でもないけど)とびこえ、社会のなかでよく生きようとするときに進むべき途を(文章はぐにゃぐにゃしてるけど、理屈としては)まっすぐに指し示す。僕は倫理にも哲学にも素人で、普段は何も考えずに生活してるけど、自由意志で義務を負うことの大切さというか楽しさというか、そんなものを日常生活で感じることはあるから、いちいち頷きながらこの本を読みおえた。

 でも、この本の中身をそう理解すると、僕は複雑な気分になる。前田さんの立論の基本には、人間は社会的な動物だってことがある。もちろん、倫理っていうのは個人と個人の間に生まれるんだろうから、それは当然のことなのかもしれない。でも、それだったら、どうしてもっと人に届く語り口を採らなかったんだろうか。前田さんの立論は、よく見ると、とてもまっすぐだ。それだったら、どうしてもっとストレートな語り口を採らなかったんだろうか。僕は、本を書くっていうのは一種のコミュニケーションに違いないって思ってる。もちろん筆者と読者が直接話をするわけでもないし、本の執筆っていうのは孤独な作業だろう。でも、それこそ前田さんがいうように、自分の頭のなかに想定読者を設定し、彼(彼女)と対談しながら筆を進めるっていうのが本を書くってことなんじゃないだろうか。そうすると、コミュニケーションしようとしない語り口を持つ本というのは、それだけで問題ありだし、倫理を論じる本としては失格に近いと僕は思うのだ。

 でも、やっぱりこの本はどこか迫力がある。スピノザ、デカルト、カントといった、僕でも名前だけは知ってる大物の思想の参考書としても読めるし、「やむにやまれぬ」っていう前田さんの気持ちも(本当にそう思ってたかは本人しかわからないけど)伝わってくる。というわけで、僕は途方に暮れている。[小田中直樹]

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

160 件中 1 件~ 15 件を表示