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  3. キューティスさんのレビュー一覧

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先月(2017年4月)

キューティスさんのレビュー一覧

投稿者:キューティス

7 件中 1 件~ 7 件を表示

素朴実在論をバカにすることから始まるタイプの哲学への強力な一撃

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書に含まれる議論の中で最も良く知られているのは、7章の「否定主導語」分析だろう。「本当の」「直接」等といった言葉の文法的特徴を明確に指摘し、その点での哲学者たちの無理解を批判する7章の議論は、野矢茂樹氏の本などでも引用されているが、著者オースティンの分析力に感嘆させられる。ここで対象にされている言葉について、訳者後書きでは「哲学の中で重要な位置を占める様々な言葉」と書かれているが、むしろ「哲学で未だに懲りずに乱用されている定番の言葉たち」とでも言うべきか。ちょっとした違いと見過ごしていたら実は「電車」と「電車の運転」ぐらいに違っていたというような、文法に対する無自覚が招く混乱の悲惨さは、ウィトゲンシュタインやライルによっても語られてきたが、本書7章も分析の鋭さで際立っている。

もちろん大抵の哲学者は、オースティンやウィトゲンシュタインの名前ぐらい知っているだろうし、「文法」とか「言語使用の多様性」「カテゴリーミステイク」といったキーワードも知っているだろう。しかしその知識が思考の中に生かされているかどうかは別である。オースティンを過去の人としてほとんどスルーしている人に本書を評価させると、大体以下のようになると思う。
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1.7章の分析について
「本当の」という言葉を使うに当たって「本当でない」が何を意味するかを含めて使用文脈を明確にする必要がある点はオースティンの言うとおりだが、そんなのは当たり前のことで、いかなる言葉でも意味に細心の注意を払うのは常識だ。大体、(染めていない)本当の髪の色とか、(剥製でない)本当の鳥とか、そんな話は哲学とは何の関係もない。

2.オースティンの手法について
日常言語の用法を(金科玉条とまではいわないが)細かく列挙してそれを元に哲学的語法を批判することに何の意味があるのか。日常言語は有用性や費用対効果重視であり、哲学用語は理論的厳密性重視、というように目的が全然違うのだから、哲学で日常用語を一部流用してもそれは理解の便宜を図ったに過ぎず、使用規則を明示すれば何の問題もない。

3.本書本題の「感覚与件」批判について
知覚や観察の理論負荷性はもう常識だし、実在と現象の二元論図式はとっくに時代遅れになっている。物理命題を感覚与件命題に翻訳する「還元主義」もとっくに破綻している。ただ、科学も含め世界についての語り方は目的に応じて多様でありうるが、いずれにせよ言語と世界の接点があるはずで、その1つとして知覚に着目することは自然である。実際、赤を青と言いくるめるような言語は使い物にならない。二元論は存在論的区別の絶対化がいけないのであって、車や机について語ることとその見えや主観的印象について語ることの区別は相対的であっても現に存在するし、「錯覚」という主客ギャップのようなものも存在する。日常言語の知覚表現に含まれるノイズをできるだけ除去し理論的に重要な側面に着目するための暫定的用語があってどうしていけないのか。
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上記のような評価に対して何か反論ができるか考えてみたい。
本書の仮想敵であるエヤーの主張で唯一同感できるのは「言語選択の問題と事実の問題の区別」である。訳者後書きにも「彼らの間の論争はどうしてもすれ違いになってしまう」とあるが、特に哲学論争は主に言語選択の争いであって「事実」で決着ができず、同じ土俵での正面対決は無理である。そういう前提を踏まえて本書を読むべきだ。
本書でオースティンが行っているのは、人間が言語を使っていかに世界に関わっているか、その(巧妙な)ありかたを具体的に記述し見せつけることによって、感覚与件や現れといった理論概念がいかに空虚で存在意義に乏しいものであるかを読者に悟らせることである。その記述の焦点は以下の3点に整理できる。
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1.知覚について語るという言語行為
人間は、ものについて語るだけでなく、ものの見かけや主観的印象についても語る。そのことは、感覚与件のような理論概念の導入を正当化するか?そんなことはない。これは語り方の種類の違いであって、語る対象の違いではない。例えば「猫がいる」と言わずにあえて「猫が見える」と言う場合なぜそうするのか。後者のような言語用法を具体的に分析記述するのが本書4章である。(10章と並んで、特殊英語的言い回しにこだわり過ぎと評判が悪い章だが、論旨理解のためにlookとappearの違いなどは分かる必要はない。)もともと「ものについて語る」という行為において、ものについての情報だけでなく、報告者や状況についての情報も同時におのずから伝達されているが、イレギュラー要因の存在などに対応して必要に応じて語り方の重点を変える様々な表現手法が存在する。そのありかたを具体的に見れば、「2種類の対象」的発想に誘導されずに済む。

2.イレギュラーな知覚を処理する言語行為
感覚与件概念導入の定番が「錯覚論法」だが、オースティンはこれを3章と5章で取り上げ、現に非標準的な知覚がどう語られ処理されているかを個別に確認する。錯覚図形・幻覚・夢・蜃気楼・水面屈折・鏡面反射・見間違い・二重視というようなイレギュラーのパターンは普通の人々に既に良く知られていて、それぞれどういう個人的・状況的要因によって発生するかという知識とセットで理解され、処理されている。「知覚と事実の不一致」という大ざっぱなまとめ方に誘導されないためには、哲学者よりずっと賢く豊かな知覚理解が既にある事を再確認すればよい。

3.証拠について語るという言語行為
何事にも常識に安住せず根拠と説明を求めるのが哲学者の仕事らしい。その線で言えば、感覚与件概念は、経験的知識一般に対する根拠追及の理論的産物である。しかしそこで考えられている「根拠付け」行為は普通の意味での根拠付けとは異なるので、少なくとも初期状態では意味不明である。普通の意味では、ある科学的学説にどういう証拠が必要かは対抗学説にもよるし、ある日常的言明にどういう証拠が必要かは具体的にその場面で現れている不審点や問題点が何かによる。この件は10章で主に扱われているが、カルナップなど登場人物含め論点自体「もう古い」というのが一般的了解かもしれない。しかし哲学者の懐疑論的習性や手口は今でもそんなに変わらないので、この章を十分興味深く読める。感覚与件論固有の話から少し外れるが、私としては、証拠付けや説明は重要ではあるが2次的かつ補助的な言語行為であるという点の理解がポイントだと思う。
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本書については、単に自分が大好きというだけで、大抵の人は全く読む必要もないが、とにかく私のような執念深い哲学アンチにとっては神とでも呼びたくなる本である。

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読むといろんなことを(ネチネチと)言いたくなる。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最初に全般的なことを言うと、ウィトゲンシュタインの解説書として、これ以上のものはなかなかないと思っている。論点を大胆かつ印象的に提示していて、それだけに突込み所も多いのだが。内容が乏しいがゆえに批判しにくいような本とは正反対で、読みがいのある本だ。
具体的に自分が触発された論点を以下に書きます。

1.論理について語ることは可能か
本書では第2部で「論考」を扱っていて、「論考」が苦手な私にもそれなりに楽しく読めた。中でも印象的なのは、「論理については語りえない」とする論考の主張に対する著者の評価である。
著者は、論理学や日常言語による「論理についての語り」が現に存在することを挙げ、論考のウィトゲンシュタインを「安易な神秘主義」として批判している。
さて、読者が補って考えるべきは、後のウィトゲンシュタインならこの論点に対しどう言うかという事である(本書では直接ふれられず、新しい論理概念への移行の経緯が述べられる)。後期ウィトゲンシュタインなら、論理について語ることが可能か不可能かという対立軸は受け入れないだろう。正解は「論理について語るということは、日常的な物事について語ることとは異なる行為である」。具体的に言うと、論理について語るのは、何事かを知らない人に伝えるような通常の語りと違い、否定語など特定の表現連関に相手の注意を向ける行為である。要するに「語る」という言葉の固定的捉え方の拒否がポイントである。
いずれにせよ「論理については語りえない」というのが不適切だったという点で著者は正しい。

2.私的感覚に対する命名は可能か
本書は第4部で「探究」を扱う。著者は「探究」における私的言語批判の最重要根拠として「私的命名の不可能性」を挙げている。著者は、命名は言語を構成する制度であり、私秘的感覚に対する命名は制度外に位置するため命名のパロディでしかありえない、と主張する。
さて、読者としてはどう突っ込む(または補う)べきか。
まず、命名の典型例として著者が「親の子供に対する命名」を挙げるのは誘導しすぎである。「感覚への命名」に対比するなら、例えばいつも駅前で見かける赤い服を着た知らないおじさんがいたとして、その人を仮に「赤服さん」と名付ける、というような例が良かろう。このような暫定的命名やニックネームなどは、子供への命名と比べて「ニセモノの命名」というわけではなく、ゆるやかに関連はあるが異なる行為(別のゲーム)なのである。
私は、私的言語の定義「私以外が理解することが本質的に不可能な言語」というのが正直言って良く分からない。ただ、感覚について、勝手に名前を付けるとか、他人の理解を受け付けにくい形で語る人がいたとしても、(好意的であれば)ある程度は許容することが、それ自体感覚に関する言語的制度に含まれていると思う。

3.感覚表現についての正しい理解
本書第4部で特にいいと思うのは、「痛い」を例にとった感覚語論である。「私は痛かった」は記述であるが、「私は痛い」は記述でなく表出であり、「彼は痛い」は同情である、という対比を通じた記述主義批判は印象的だ。そしてその後段の文章「子供は痛みに関わる様々な場面、役割、表現を次々マスターしてゆく…これが痛み概念なのである。」まさにその通り!と言いたい。このあたりの文章は、本書で最も読む価値のある部分である。ただし読者は、これを踏まえて改めて前段の部分を読み直す必要がある。
つまり、痛み概念をマスターした人が「私は痛い」と言う場合、3人称用法や過去形用法も踏まえ、それらとのゆるやかな連続性を理解して言っている。従って、原初的な表出から拡張して、例えば「私も彼も痛い」とか言えるし、疑問文や条件文も作れる。そのような用法の全体的連関が人間言語の本質に属することは、著者にとっても言うまでもないことだろう。

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紙の本哲学・航海日誌

2004/02/29 17:46

他我問題の呪い?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の野矢さんの(哲学的、という限定不要の)センスの良さと親切さにはいつも感心させられる。本書もその点ではすばらしく、お勧めという点では文句なしである。しかしあえてここで問題にしたいのは、「他我問題」(他人の心を知るとはどういうことか?という哲学の伝統的な問題)に対する著者の、大森荘蔵ゆずりの執念とそれがもたらすものについてである。他我問題は、本書の扱う話題(言語や行為など)の一部にすぎないが、本書が他我問題の問題提起から始まることからもこだわりが感じられる。
著者は大森と同様「内面/外面の二元論」を批判する。そこまでは良い。そして大森の現象主義的な「自我から他我へ」という発想を批判し、独自の考えを提出するのだが、そこで勇み足を犯していると思う。それは「知覚や感覚の非人称性」という主張である。普通に考えると「誰のものでもない知覚」など存在しない。著者はあえて常識に反する主張をしているわけである。そしてその主張を導く本書の知覚・感覚論は、鋭く優れたものである。
著者は見る・聞く・触るなど(いわゆる知覚)がどういうものかを検討し、1.知覚(複数観点からの見えを含みこみ、それゆえ観察可能な「対象」を持つもの) 2.感覚(単眼的で観察対象を持たず、特定の身体に視点が固定されているもの) 3.アスペクト(「として見る」形式で記述される意味相貌)−−以上の3つの側面に分析する。そして「知覚」とは「特定の位置から何が見えるか」、「感覚」とは「特定の身体状態で何を感じるか」というものであって、私/彼の区別から切り離して理解可能な内容しか持たない点でそれらは非人称的である、と主張する。確かにその通りだ。しかし知覚や感覚に帰属主体としての「人」が必要なことに変りはない。「人」とは、文法的には知覚・感覚・感情・思考など一連のこころ系述語が適用可能な対象である。それはこの本のIII章で述べられている「行為者」(意図と行為という枠組みを適用して理解可能な対象)と重なるだろう。
子供は生まれ出て後、世界に様々な対象があることを徐々に知り、その中に「人」という特殊な扱いを要する対象があることを知り、やがて自分が「人」の一例であることを知る(ここでいう対象とはいわゆる「実在」でなくてもよく、著者の言う「現象の根拠なき秩序」と理解しても良い。要するにわれわれの世界に対する根源的理解と態度のありかたを言っている)。このような「人」のカテゴリーとしての根源性を、著者は軽視し過ぎではないか。
「知覚の非人称性」という主張はやはり無理がある。例えば野球選手が飛んできたボールを見分けるというのも知覚であろう。行為者としての人の反応行動能力や熟練と「知覚」とは切り離せないし、注意・関心・慣れといった人の状態も知覚の成立に関与する。
様々な物(対象)の理解が物相互の因果関係の理解を含んでいるように、人というカテゴリーの理解は物と人との因果連関の理解を含んでいる。それは最初にうのみに受け入れることで人間生活が始まるような原初的な世界理解の一部である(もちろんそれを踏まえた上で後から部分的調整のゲームを行うことは可能であるが)。いくら時代遅れの二元論などと言われても、われわれは机や本のような「対象」と、それを見ている「人の状態」を区別して理解している。著者の言うような「知覚の世界」という奇妙な表現は決して使わないが(知覚像を見ている、のではなく、見るということが即ち知覚なのである)。そして対象と知覚の因果関係は、対象の理解を構成する内的・文法的関係である。
そういう理由で、著者の知覚論が行き着いた「知覚因果説批判」は、本書で最も受け入れがたい章である。知覚因果のような基本的な日常語法をミスリーディングとして批判しないと他我問題から脱出できない? そんなに呪いの根は深いのかと考えさせられる。

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紙の本知識の哲学

2003/12/21 16:57

とても感心しました。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、(1)これまでの認識論はどういう問題意識と方法論で行われて
きたか(2)それを踏まえて、これからの認識論はどう作るか、という2つの
パートから構成されています。要約すると、

(1)過去の認識論では、懐疑論への対抗が大きな動機となって、知識の
確実な根拠を心の中や意識の事実に求めようとする「内在的基礎付け
主義」が主流だった。しかしそれは成功していない。
(2)近代個人主義を立ち上げようとしたデカルトの時代と違って、今は
知的分業の時代なのだから、求められる認識論が変るのも当然である。
人間が現にどう知識を獲得しているか、そしてどのように獲得すべきか、
科学その他諸学問の協力による総合的研究がこれからの認識論である。

以上のようなこの本の主張には私は同感ですが、とにかくこの本では
(私の下手な要約と違って)説明は親切で整理も行き届いていて、
内容に賛成できない人にも勉強になるいい本だと思います。

ただ、個人的に気になった点を言うと、懐疑論批判は中途半端に思えます。
懐疑論がさまざまな知識の成立を否定するのに対抗して、著者は
ノージックを参考にしつつ、「知識」のより適切な定義を求めることで
対抗しようとします。
しかし新しい認識論にとって興味深い知識概念は、「生物が世界に適応する
ことを支えるもの」とか、「知的分業の結果蓄積されたもの」とか、
「情報」概念で分析できるような知識概念にシフトしているのです。
従って、懐疑論なんかとりあえずどうでもいいような感じです。
例えば「私は培養槽の中の脳ではない」ということを疑う懐疑論について
「そんなぶっとんだ設定で知ってないことが1つぐらいあっても、それが
何だ。」と言い、この懐疑が他のほとんどの知識に波及しないことの方を
重点的に論じています。確かに著者は一方では、「私には手足が二本ずつ
ある」というような命題について、「知っている」と言えなければならない
はずだ、と言い、懐疑論に負けない知識概念を求めてはいます。
しかし懐疑論が対象にするような命題というのは、知っているかいないか
白黒つけるべき代物なのか。
現代的関心に基づく知識概念と新しい認識論は、それはそれで有意義ですが
懐疑論にひっかかるような人の関心に応える「知識」分析はそれとは
別筋のように思えます。ここはやはり、人間が生活の中で使いこなしている
「知っている」という言葉の働きを明らかにし、懐疑論がそのような言葉の
機能する場を踏み外していることを示すことが必要です。
「知っている」という言葉の使用は、間違いが後で判明した後の処理
(脈絡に応じた訂正・帰責・免責)を含めて機能しているからこそ、
懐疑論の主張は(屁理屈というより)見当外れなのです。

以上のような観点は、本書の関心の範囲から外れているようです。
まあ、著者や大半の読者にとって、知ったことじゃないかもしれませんが。

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「実在」という概念はそんなに魅力的なのか。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、各パートごとに導入とまとめが付いているという大変親切な本であり、今更ありふれた要約も不要と思うので、単刀直入で魅力と問題点を述べたい。
本書の最重要キーワードは、「説明」である。
本書の最初の部分で、著者は次のように書いている。
「科学も哲学も、世界を理解しようという試みである。」
「科学哲学の第一目標は科学を理解することである。」
ここで「理解」とは何か。(主観的な「理解したつもり」との違いは?)
「世界を丸ごと理解する」なんてのは置いといて、例えば地震や遺伝を理解するという場合、その意味は比較的明瞭である。つまりそれは、科学的説明が与えられ、それを受け入れるということであるから。
「科学的説明とは何か」をめぐる議論は本書の最大の読みどころである。
本書は科学方法論ということで、まずオーソドックスに「演繹」と「帰納」の検討から始める。ここで帰納概念は「最良の説明への推論」といったものも含め広く捉えられる。著者は、個別事例の単なる一般化ではまともな帰納にならず、法則も支えられないことを示す。科学理論は個別現象に対して、予測や制御も可能にするような「良い説明」を提供できないといけない。
本書で著者がイチオシと言う「科学理論の意味論的捉え方」は、科学で使われる多様な表象(法則文・数式・図など)による多様な「説明」のありかたを統一的に理解できる点で優れたものであり、これについては私も本書の主張に非常に説得された。
一方、本書の問題点は、科学的説明が説明としての力を持つ根拠の追求の仕方にある。
本書の中ほどで著者は「科学の権威のかなりの部分は、科学の持つ説明能力にある」と言っているが、これはむしろ逆だろう。科学的説明がなぜ自然現象の説明として受け入れられ、人を納得させるかというと、説明に使われる道具立て(質量やエネルギーなどの物理学の基礎概念、元素や物性の知識、数学的技法など)が今までに汎用的に自然現象の説明に使われてきたという歴史的実績の重みがあるからだ。「権威」はその実感が支えている。自然現象の予測・制御が成功し、説明が破綻もしないのは、科学者の長年の絶えざる試行錯誤と努力の成果であるし、膨大な応用とフィードバックの結果である。
確かに、努力が報われる保証はないし、試行錯誤も空回りすることは多い。しかし、科学者の努力が成果を上げ、科学が成功している事実を、さらになんとか説明すべきなのだろうか。
著者はそのために「科学的実在論」にこだわり、擁護しているようである。
著者によると、実在論と反実在論の対立は、現在も科学哲学の最もホットな話題らしい。しかしそれが本当に科学に対する理解や態度を左右するような対立かは疑問だ。
著者の整理では、電子のような観察不可能な理論的対象の実在性が争点らしい。
しかし「実在」という概念は見かけほどしっかりした概念ではない。「認識活動とは独立の世界の側にある事実」などと言い換えてもより明確になるわけではない。むしろ言語的指示の共有や操作という行為に現れる「何かを対象扱いする」という我々の態度が原初的なものであり、科学における電子などはそういう対象である。
哲学の素人は(一見)いい加減に「ある」という言葉を使うが、これは単に習慣や実用性に屈服しているわけではない。哲学者が「本当の意味で」「文字通り」などの強調句で「実在」という語の一用法に特別待遇を与えても、そちらの方が二次的なのだ。
著者は、「帰納は信頼できるはずだ」とか「電子はエーテルの二の舞にならない」という確信(希望?自然な直観?)を守るため「実在」という概念にすがっているように見える。我々人類は、他に生き方を知らない以上、帰納と心中する覚悟は決めている、ということで別にいいじゃないと私個人としては思います。

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大胆かつ内容豊富な言語行為論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

英米分析哲学の世界では「とうに流行遅れ」とされる言語行為論の問題意識を引き継ぎ展開する稀少な本。といっても、特定の学派や学説に関するマニアックな本ではない。逆に、著者自身「これが哲学かどうかはどうでもいい」というように、哲学の専門的枠にとらわれない一般的問題がテーマである。「人間どうしの、主に言語を使用するコミュニケーションはどのようにして行われているのか?」。著者はオースティンから、言語使用を行為として捉える見方とそれを扱う「発語内行為」という概念を引き継ぎ、言語行為(陳述・命令・依頼・約束など)の生成と解釈の過程を分析する。本書は言語行為論の単なる紹介解説本ではなく、(大胆にも)オースティンやサールの理論に対する「三つのドグマ」と題する批判から始まり、それを踏まえて著者自身の言語行為論が提示・展開される。
そもそも理論に対する批判というのは、理論の価値を下げるためではなく、理論の意味を明確にするためのものなので、著者による批判はオースティンファン?の私にとって大歓迎である。しかしそのためにも批判自体へのさらなる批判が必要であり、ここでは最重要の一点に絞って問題を指摘したい。

まず、言語とコミュニケーションを考えるための概念として「発語内行為」がなぜ重要なのか。著者は、言語機能における「表出」と「表明」の違いをまず指摘する。子供が「痛いよ」と泣いて聞き手の情動的反応を誘発するというような「表出」も言語機能の一つではあるが、そのレベルにとどまらず「意図の表明と伝達という行為」に着目することが人間の社会的ありかたを理解する鍵であり、そこに「発語内行為」概念の意義がある。ーーここまでは著者の言う通りだ。問題は、発語内行為を成り立たせる原理についてである。オースティンやサールの標準理論では発語内行為の生成原理は「慣習」であるが、著者はそれをドグマとして批判し、慣習より「意図」概念を中心に発語内行為論を構築する。基本的には「聞き手の特定の反応を意図し、その意図を認知させることによって求める反応を引き出す」というグライス的分析で、著者はさらに意図する反応を大きく行動と信念に分け、その観点から様々な発語内行為を整理し、生成と解釈の仕組みを解明しようとする。
「意図」は確かに発語内行為の重要な要因である。しかし著者がその中心に考えている「執行的意図」が発語媒介効果についての意図であるため、発語内行為と慣習の緊密な関係を見落とす結果を招いている(これはサールがグライス意味論批判で指摘した論点で、この著者にもそのままあてはまる。)確かに、発語内行為は発語媒介的目的を持つ。たとえば、たいていの陳述や主張行為は、そこで表現された内容に対応する信念を聞き手に生じさせることを目的とし、意図している。しかしその目的が果たせなかった場合、説得(発語媒介行為)としては失敗しているが、陳述や主張としては失敗ではない。同様に、真でなかった陳述や従われなかった命令は、発語内行為としては失敗ではない。「いや、失敗だろ。」と思う人がいるかもしれないが、それは発語媒介行為的に理解しているからである。少なくとも、命令が命令として理解されないレベルの失敗とは異なり、従われない命令でも命令行為自体がとにかく成立していることは認められるだろう。このような行為理解の論理的位相を明示するために「発語媒介行為」と区別する形でオースティンが見出したのが「発語内行為」であり、この概念の存在価値はまさにそこにある。
では、発語内行為の成立条件(およびその中に含まれる不可欠な意図)とは何か。それは簡単にいえば、話し手がまさにその発語内行為を行っていることを聞き手に認知させることであり、陳述や命令や約束などを行おうとする意図を内容とともに伝達することである。こう言うと「それだけ?」と思われるかもしれないが、今言ったことが実現するには、例えば「約束」がどういう状況及び発話によって成り立ち、その結果どういう義務や権利が発生するかといった社会的慣習の理解が話し手と聞き手で共有されている必要があり、それゆえに「慣習」は発話内行為の成立原理といっていい概念なのである。著者はときに「哀願」(犬でもできる?)のような例をあげて慣習の必要性を否定するが、それは半ば発語媒介行為的意味合いで理解される行為名だからで、結果的にミスリードである。

ここまで本書の大枠を批判したが、しかし読者としての期待に十分応えてくれた本であることも確かである。本書の魅力の一つは、考える材料となる事例の豊富さにあると思う。例えば、「慣習主義のドグマ」批判の章で「奴隷は主人に命令できないか?」という事例を示し、「奴隷が命令を行う受け入れられた慣習的手続きなど存在しないが、命令自体は明らかに可能だ。おこがましい命令と非難はされても、命令自体は成立している。(従って慣習はそれほど重要でない)」と著者はいうのだが、どうでしょうか?私にはやはり命令は不可能のように思える。たとえば「食べ物をよこせ」というのは命令というより要求だし、本当に奴隷が命令を行うような場面では、もはや奴隷と主人という関係は破棄されていると思える。まあこれは単なる一例だが、読者が自分の言語感覚を頼りに、日常会話の経験を想起しつつ、細かい突っ込みを入れながら本書を読むのがいいだろう。
そうやって言語機能に関する感度を高めることが哲学者に弄ばれないためには最も重要である(←蛇足)

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紙の本シリーズ心の哲学 3 翻訳篇

2006/07/30 11:27

科学は世界観ではない。科学の分をわきまえない物理主義者を批判する

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書収録の5つの論文は、心の哲学の「現代の古典」だそうだ。この中で特にバージの第5論文は、言語実践への観察眼の確かさが光り、単体で星5個に値する。しかしここでは、心の哲学でよく見かける勘違いの典型例として、キムの第1論文を取り上げたい。
「怖くて逃げた」というような心的因果、つまり心的状態が物理的状態を引き起こす因果をどう理解するか。これは心の哲学の重要問題の1つである。科学の描く世界には神経や感覚器や筋肉などが含まれ、それらが因果的に関係付けられることで科学的説明は完結する。それらの他に「心的なもの」など割り込む余地はない。しかし心的因果言明が有意味なのも確かである。キムがこの問題に対し、科学と整合的で日常的直観とも両立する解答として提出するのが「随伴的かつ付随的な因果」である。キムによると、物理的状態と心的状態は、ミクロとマクロ同様の存在論的な依存関係にある。要するに、ミクロ物理的状態が確定すれば、対応する心的状態も自動的に確定するという関係である。心的因果はミクロ物理的因果に還元できるので「因果」と正当に言うことができ、「心的状態に因果的効力はない」(随伴現象説)といった反直観的結論を避けることができるし、非物理的因果を持ち込む必要もない。これが科学と整合的な心の理解だ、というわけである。
しかしこのような、あからさまにいえば「心的なものは物理的なものより存在論的自立性が低い」というような考え方は、科学を受け入れるなら合理的な人間には避けられないものだろうか。
そんなことはない。いわゆる「科学的世界観」は科学という活動のローカルルールに過ぎない。キムは、科学を支える世界観(形而上学的基礎)として、ミクロ的決定論(部分が全体を決定)や因果的決定論(過去が未来を決定)を挙げている。これらが科学研究を導く重要な役割を果たしていることは確かであり、科学研究者集団は研究という脈絡において科学的世界観を受け入れる。そして社会は科学研究者集団を含めて科学を受け入れる。しかし、科学研究の外側にいる人が科学的世界観を受け入れる必要はない。例えば宗教信者が神と科学的世界との矛盾に悩む必要はないし、(悩む人がいるかは別として)いわゆる「意志の自由」についても同様である。
現代人は生まれた時から心身とも科学に依存している。科学に無関心な人も「以前できなかったことが科学によりできるようになる」という露骨な力を無視できない。その意味で我々が科学を受け入れるのは当然だが、世界観として受け入れるのは見当外れなのである。
物理学の、例えば「力」「仕事」といった概念が、日常使う言葉(学力とか)と直接関係はなく、あくまでも科学理論の中で文脈的に定義された概念であることは理解しやすいだろう。しかし実は、時間・空間・同一性・因果といった概念についても同様なのである。「科学が時空の本性を明らかにした」というのは言い過ぎで、科学のなかで理論的に極めて有益な時空概念を開発した、と言う方が適切だ。科学的に否定されたという「絶対時間」は、時間表現の使用を通じて社会的共同活動の同期など重要な機能を果たしているのであり、間違い扱いする必要はない。今問題の因果概念についても同様である。科学的因果概念では法則性の裏付けを重視するが、一方日常的因果概念は、人間における能動・受動という対比の理解と結びつき、人間概念自体を構成するような重要概念である。そういった位置づけを理解していれば、科学的因果概念を真の因果と称して存在論的結論を導いたりせずに済む。
科学の重要性は当然だが「物理的実在が本当の意味での実在である」等と言うのは全く余計な一言だ。キム論文に限らず、科学の位置の正しい理解は、心の哲学の最重要ポイントだと思う。

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