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先月(2017年8月)

ミホさんのレビュー一覧

投稿者:ミホ

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本宗教なんかこわくない!

2003/03/23 01:29

自分の頭で考えることの重要性を述べる、生きるために読む書

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「イデオロギーとは宗教のようなもの」と橋本は言う。そしてすべての宗教/イデオロギーが危険なのではなく、危険な宗教/イデオロギーは危険だ、ただそれだけのことえある。橋本治は、この当たり前のことが理解されていないと嘆く。

日本人は宗教が苦手である理由も、橋本は明快に説明してくれる。

日本で初めて宗教(仏教)を弾圧した織田信長の登場以来、日本では宗教が力を失った。儒教は人間関係の道徳を説く現実に即したismだ。かたや仏教は、江戸時代、寺と檀家という、町の役場と住民の関係と重なる現実の支配制度として使われた。つまり宗教としての超現実性を失ってしまったのだ。明治以降戦中までの神道についてはどうか。徳川時代に体制に組み込まれた仏教を敵とみて、「廃仏毀釈」して、支配的になったのは天皇家の信仰、神道だった。仏教を、日常・土俗的なものとしてしか捉えていなかった国民に、神道が広がったのは「免疫のない人間にエボラ出血熱が広がるようなものだった」という喩えは言い得て妙すぎる。

橋本曰く、宗教には2種類あって、社会を維持するための宗教と、個人の内面に働きかける宗教がある。上は前者の宗教についてのことだ。

じゃあ、個人の内面に働きかける方はどうかというと、日本ではこちらがすっぽり抜け落ちたまま、近代を迎えてしまった。個人の内面に働きかけるとは、私とは、世界とは何かと自分の頭で考えるようし向けることなのだが、日本人はこれがとっても苦手。孤独に耐えて自分で結論を出すまで至らない。手近なismを信じてしまう。多くの大人にとっては会社教であり、ある若者たちにとってはオウムである。この“宗教”においては教えの定めにただ身を委ねればいい。社会安定維持型の宗教だ。不幸にも、日本ではこちらばかりがはびこった。

内面に働きかける宗教とは何か。仏教とキリスト教だ、と橋本は言う。キリスト教を切り捨てて成立したのが西欧の近代であり、欧米で信仰をもつということは、自分で考えて信仰を選び取った、ということである。仏教は、そのように日本では受け取られていないが、その起こりは「自らがみずからであることを獲得していくための思想」だったというのが橋本の見解だ。

「自分の頭で分かったことが確かな真実であるということを決定するのは、自分自身以外にはない」というのがブッダの悟りだった。だから、誰が決めたのか分からない「輪廻転生」などという宇宙の法則を無条件に肯定している限り、自分の人生は自分自身のものだ、という事実は訪れない。仏教はだから神よりも、真を得た人間=ブッダを上に置く。仏教は、個人崇拝ではなく、生きるための思想なのである。

仏教を信じろ、と橋本治は言うわけではない。自分の頭で考えろ、と言うために、宗教なりオウムなりを持ち出して、私たちに考えさせようとしているわけだ。自分の頭で考えるには、孤独に耐えなければならない。自分の頭で考える子供は、学校になんか馴染めないだろう。会社からも排除されてしまうだろう。それでも、家に引きこもっていてはその孤独な作業は続けられない、というのが橋本治の考えだ。

家族がいかに居心地が良くても、家族は閉鎖された集団の一つにすぎない。家族の外にノーマルな人間関係がなければ、人間は家の外へ出て行けない。ありふれた、ノーマルな人間関係を作りやすいのは労働の場所だ。会社ismにどっぷりつかるのでない、労働の場所に自分の居場所を作ること。それがないと、自分の頭で考える作業を続けることは出来ない。

パラドキシカルだけども、極めて現実的な、生きるための方法論だ。この本を必要としているのは、教養としての宗教を学びたい大人ではない。世界に違和感を覚えている若い人ではないか。

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自分はどっちなんだろうと考えながら読むことの面白さと危うさ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ひきこもり系とじぶん探し系。
2つの分類が静的なものではなく、共存していたり、移行したりするものだと著者が指摘するとおり、そういうものだと置いた上で読まないと、新たな「自分探し」の枠組み、道具となりかねない。

構成自体にそのような危うさを内包しながらも、数々の指摘はすぐれて刺激的だ。

「ひきこもりの人はほんとうに宗教にはいかない」

じぶん探し系はじぶんを探しているようで、結果としてその行動からはじぶんを空虚にできるものを探している。だから空しさの同一体験みたいなものにはまりやすい。方や、引きこもりの人はじぶんが空しいことをよく分かっている。

ひきこもりの人は、じぶんが空虚だという思いに苦しめられているものの、ある意味でそれに満足し、じぶんという空虚さのイメージをひきこもることで埋められると錯覚する。

じぶん探しの人がなぜじぶんを空虚にしたいと思うのか。それは本書から私が読み取るところによれば、彼らが、過去の体験や、あふれる現代的な情報、他者とのコミュニケーション力といった自らをとりまく「じぶん的なもの」の取り込みで一杯になっているからだろう。

「じぶんの価値基準をいちばんはっきりさせてくれるものは「敵」の存在である」

でも今は敵が見えない時代。じゃあなにが敵かというと、「同一性」そのものが敵ではないか、と著者。教師がいかにも教師然と、医者がいかにも医者らしくふるまう等々。同一性を、じぶんを守る保護膜として利用しているうちは、いまの若者と対話することなど不可能、という言葉は、大企業人、親、学校、などなど制度の枠組みに同一性を求めて疑わない人全てに聞かせて差し上げたい。

「キャラとペルソナの違い」
私にとってはこの本の真骨頂はこの指摘にあった。

ペルソナとは欧米型の主体のイメージ。主体は欠如を抱えている空虚なものだ。だから人は、対人関係に応じて仮面(ペルソナ)を使い分ける。だから単一の主体とペルソナは一対多の関係にある。かたや「キャラ」とは、主体がいつでもそれに「なる」ことができる記号だ。キャラは対人関係の文脈において、その都度生成されるから、総合的な人格というより、場の雰囲気の中の位置のようなものとなる。だからある場で「いけてないキャラ」「キャラがかぶる」状態に陥ることを、日本人はおそれる。主体とキャラは多対多なのである。

単一な主体からうまれるペルソナは、取り替えがきくけれど、キャラは場の文脈からライブ的に生まれるのだから、じぶんでコントロールできない。

じぶん探し系の人は、じぶんのキャラ化に成功し(だからじぶんをとりまく状況についてはいくらでもはなせるが、じぶんについては話せない)、ひきこもりは失敗した人なのではと、著者は指摘している。

読めば読むほど、ひきこもりは「人間存在」を曖昧ながらも理解しようとした上で、現状には適応できずに苦しむ、人として正しい生き方を貫いているように思えてくる。「ひきこもれ」といった吉本隆明氏の最近の語りおろしのような言説が、だから出てくるわけだが、それは本書でマトリクス化されている、ひきこもり「系」、じぶん探し「系」の成功者(作家、芸能人)には届く言葉かもしれないが、今、部屋からでていけない若い人に届く言葉とは思えない。「新しい、若者の潮流」であるのはいいとして、そこから先は自ら、世界と折り合いを付けるしかないのか。「潮流」である、という認識をこの本から与えられたなら、折り合いを付けるための小さなステップとなるのかもしれない。

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紙の本ユング心理学と仏教

2003/03/24 00:00

“奥深い”非科学の世界

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ユング派の心理学がいかに変幻自在に、いろんな思想と融合し「応用」しやすいものなのかを知るには恰好の書だ。

「西洋近代の自我は自我の多様なあり方のなかの一つであり、その強力さは認めるとしてもそれを唯一の正しいあり方とは考えることはできない」「その多様な自我のあり方を具体的に示し、それらと近代自我の比較を行う」ことが30年間の河合氏の仕事であるという。ユングの考えに基づいて心理療法にあたっているつもりでも、河合氏自身の自我が欧米人とは異なっているために、仏教的考え方に接近するところがある、という。

どういうことなのだろう。

西洋近代の個性は、まず青年期にegoを確立するのが前提である。確立されたegoは、主体的判断と責任によって、その欲求に従いながら個性を伸ばしていく。ユングは「個性化の過程」という画期的な考え方を提示したが、それさえ、まずegoを確立するのが前提にあるという部分は変わらない。

かたや仏教における人間は、あくまで関係性の中に存在している。他との関係性の中に、個別性が見いだされると考える。だから、ユング心理学を日本人向けに解釈するのに仏教の引用が有用だ、と河合氏は考えている。

心の深層、普遍的無意識の層は元型に満ちているとユングは考える。そこでは子供元型、母元型、父元型などすべてが共存している、つまり生まれてから死に至るまで全てのありようが同時に共存している、と。近代科学(ここで河合が上げるのは実験心理学者)では人間の発達は直線的に遂げられると明確に示すが、ユングの考え方では、すべてが共存しているのだから、はじめから終わりまでが不変である。それは仏教と通じる考え方であることを、河合氏は、「華厳経」のなかの菩薩が仏になる段階を説いた部分から読み解いている。華厳経には、段階的変化はなかった。また禅の修行の階梯を描いた牧牛図からは、牛を追う若者を「自我」、牛や若者を取り巻く周囲を「自己」となぞらえ、ユング心理学的に読み解いている。

臨床経験に基づいて築いた河合思想である。一つの見方としては面白いのかもしれない。ユングもフロイトも、無意識や夢を用いて人間を分析する態度について、似非科学との非難を浴びてきた。それを彼らは、臨床経験に基づいた理論であるという一点にて、科学であると主張してきた。河合氏も、自らの思想について、そう考えているのだろう。

しかし仏教の様々な要素から、ユング的に読み取れる部分、日本人相手の心理療法に応用できる部分を引用するその手法は、文学の解釈そのものだ。もちろん臨床的にはこれが有用なのであれば、それが科学的であろうがなかろうが、有用だった人にとってはありがたいことだ。治療への有用性の部分については、私は判断保留だ。けれども、自分なら変幻自在の文学的解釈を自分の夢や作った箱庭から引き出してもらって、納得できるとは思えない。

1950年代に米の臨床心理学者C.A.ロジャースの理論が日本に入ってきたときに、それを日本人がこぞって取り入れたことについての指摘は興味深い。日本の芸能では、芸を身につけさせるときに、ひたすら「型」を体に覚え込ませる「易行」の方法をとる。ロジャースの「非指示的カウンセリング」が日本に提示された時、日本人が、「非指示」という「型」さえみにつければだれもがカウンセラーになれると考えて、自我を否定するように型を自らたたき込んだ。それではクライエントはよくなってもカウンセラーの「私が死んでしまう」とそのあり方に根本的に疑問を覚え、河合氏は、ユング心理学へつながったというのだ。そしてまた、仏教的な自他あいまいな自我をいきる日本人向けのユング心理学を提示しているのは、皮肉ではないのだろうか。

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実は「我思う故に我在り」の人なのかも

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

幼少期の家族の思い出、宗教との付き合い方から、フロイトとの出会いと別れ、夢分析の変容、そして「集合的無意識」の概念へたどり着き、それを熟成させるまでの思索の過程を、ユングが語り下ろしたのが本書。死後の出版を約束に、秘密裏にインタビューは行われたという。1人の極めて独創的な思想家の誕生と成長の様子を眺めるという意味では、ユング心理学に関心のない向きにも楽しめる部分はある。特に、フロイトの理論(抑圧の機制という考えを、夢に応用したこと)に一時は傾倒し、フロイトから息子のように認められながらも、しばらくは自分に自信がなく、また遠慮してしまって、批判ができなかったあたりは、いずこも同じゅうに、と思えて可笑しい。たとえばどのような病状でも、あるいは文化論においてまで「性欲の抑圧」を強引にみてとろうとする態度、また2人で互いに夢を分析しあう時にはユングの夢を「死への欲動」と絡めて分析し、それがユングにとっては類型的で無理のあるものとしか思えない。そうであっても、恩がある人にはなかなか反旗を翻せなかった。最後は、ユングはフロイトを神経症にかかっているとみなし、フロイトはユングを「神秘論者だ」と非難して、2人は袂を分かった。篠陰から解き放たれたユングは、独自の道を展開し始める。

集合的無意識とは、古代から人間が無意識の中に生かし続け、蓄積してきた領域で、心の基礎ともユングがみるようになった部分である。本能や元型はここに入る。個人的に獲得された部分は個人的無意識と呼ぶ。この集合的無意識こそが、共時性(にたようなことが関係のないはずの場所で同じ時に起こること)やオカルト的な現象(透視能力のある人やこっくりさんのような「実験」)を可能にしているのではないか、とユングはみている。「神秘主義者」と呼ばれる所以である。無意識は意識にあがらないもので、言葉で説明可能な領域ではない、でもあるんだ、それが私の説なんだ、という。証明はできないけれど、こう考えないと、説明できない事項って世の中で起きているでしょう、という論法だ。

もっともそこに至るまでの精神の作業は、地道で孤独だ。人を分析する前に、まず自らを分析しなければ、とユングは自分の夢について、ああだこうだと分析し、意味を見いだそうとする。関連づける意味をどこに求めたかというと、神話であり、宗教であり、歴史であり、錬金術師の作業にである。共通する性質を見いだし、集合的無意識の概念でそれらをくくる。でも人間としてはきちんと現実的でもある。大学教授であり、子供を育てる親としての実生活という足場がないと、無意識の探索だけが日常生活の全てとなってしまうと、正気ではいられなくなる、と考えていた。精神作業だけが生活となってしまい、狂気の世界へいってしまったニーチェのようになる、と。考えてみれば、フロイト師匠に長年にわたって気を遣うあたりにも、現実世界で生きる人として成熟していた人なんだということは伺えるのだけれど。要するに破天荒な天才というより、意外に、バランス感覚を持ち合わせた努力の人なのかもしれない。

面白かったのは、死後の生命についての部分。インドの、カルマの考え方にであい、西洋と東洋の死生観は集合的無意識を共有するのかどうか、迷う。仏教の輪廻転生、再生の観念と、西洋の、始めと目標をもった進化的宇宙論。私の問い、仕事は不完全で終わるが、世界がさらに先の答えを必要としたときに、私が、または私のカルマをもった人が再生するのかもしれない。でもこれ以上は立ち入れない、というにとどめる。集合的無意識の考え方は仏教と相容れる部分をもつということが分かる。日本でユング心理学が流行する訳でもある。自伝はあまたあるどの「ユング本」より先に読むべき教科書だ。

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「甘え」の構造 第3版

2003/03/26 15:10

甘えと自由の共存はないのか

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「自分を輔弼してくれる人がほしい。対外的には僕が責任を持つのですが、しかし実際には僕に助言と承認を与えてくれる人です」

土居は青年患者のこの一言によって、「自分の内的欲求を表現するとともに、同時に天皇の地位の心理的意味についても解明している」と気付かされたという。
つまり、諸事万般を周囲が取りはからってくれる、いわば赤ん坊と同じ状態でいながら日本最高の地位にある天皇は、幼児的依存を純粋に体現した存在だ。

日本で、社会的地位を有する人間は、この幼児的依存に依れる存在であるというこの指摘。まさに日本の社会を動かす政官財の幹部たちの「甘え」が、この国の、有事にあっても物言わず、経営不振でも責任を取らず、組織防衛のためなら奇妙な理論を振りかざす、現在の体たらくの正体だと確信した。

日本的な甘えの世界を否定的にみるのではない、甘えはそれが機能しないと精神的な成長も妨げる、というのが土居の考えだ。

西洋人は「自由」が、実のところは近代賛美の空虚なスローガンにすぎなかったと反省に傾いているとも見ている。「神は自ら助くる者を助く」という諺は、ユダヤ・キリスト教の伝統とは無関係で、1640年のGeorge HerbertのOutlandish Proverbsに初めてでてくるもので、万人が万人的である世に置ける自立自衛を促すための、社会的背景があった、という逸話を挙げて説明している。

この著がでてから30年。日本は今、土居の指摘した「甘えだけが横溢する社会」から、変わらず甘え続けることが許される層と、甘えが許されない層に、二分されつつあるような気がする。

前者は、前述した社会的地位の保証された人々。「保証」という言い方はおかしいかもしれない。政治家は何が何でもその地位にしがみつくべく、理念をはなから忘れてしまっている。公的資金を投入されても平然とその職に居座る銀行経営者などは、保証されるべきでない地位を私物化する、厚顔無恥な存在だ。

かたや甘えが許されない層とは、突如、組織人から個人への変換を強引に迫られるリストラ会社員であり、未成熟な親に産み落とされた子供たちがその代表だ。甘えたくても、甘える相手が、対象を失ってしまった人々だ。

甘えが横溢していた時代は、それでもまだ、よかった、と振り返って思考を休めてしまったのでは、今、本書を読み返す意味はない。前者の甘えの根を絶ち、甘えの対象を失った個人は、別の対象を見いだすなりの方法で精神的経済的安寧を得ることはできるのか。いや、前者の根を断つには、まず個の自立、甘え構造からの出立が不可欠なのか。

自由と甘えのほどよいさじ加減を計ることは可能なのではないか、というのが私の課題である。

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