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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

ナガタさんのレビュー一覧

投稿者:ナガタ

14 件中 1 件~ 14 件を表示

発達障害とは何かを分かりやすく解説

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

教えて私の脳みその形

ADHDという言葉はずいぶんあちこちで使われるようになった。じゃあその正体がどこまで分かっているのか、治療は可能なのか、自閉症とかアスペルガー症候群など並べて語られることの多いほかの症状と何が違うのか、といったことまで分かっている人は稀だ。
 本書は「片づけられない女たち」などの翻訳で知られ、アスペルガー症候群との診断をうけたニキリンコ氏と、自らADHD的傾向を持つと自覚して治療に取り組んでいる岡野高明医師の対談形式をとった共著。社会で不適応に苦しんできたニキリンコ氏が、自分が診断を受け、それを受け入れて翻訳者の仕事を見つけるまでの体験を披露しながら、今何がどこまで分かっているのかを岡野医師に問いかける。やりとりを読み進めるうちに、これらの症状の根本にあるとみられている「発達障害」について、読者は見通しよく知ることができる。

 本書で岡野氏が繰り返し強調しているのは、「スペクトラム(連続体)」という見方である。発達障害的な側面はだれもに多かれ少なかれみられるもので、ここから病気、ここからが正常、と明確な区切りがあるわけではない。だから、生物学的にみると同じ程度に発達の問題を抱えている2人がいても、職種や家庭など本人のおかれた社会的状況(厳密さを常に要求される仕事かどうか、家族が寛容であるかどうかなど)によって、その問題に苦しむ人もいれば問題を感じなくてすむ人もいる、ということが起こりうるのだ。
 「発達障害理解のためのモデル(案)」という図が、私には何より、読解の助けになった。スペクトラムという考え方と、1人の人間が一つの診断で割り切れるものではないということが一目瞭然に分かったからだ。ちょっと本文からかいつまんでおこう。
 発達障害とは、子供の成長過程で知的、身体的、心理的、情緒的、運動能力などの面で、その年齢で通常期待されるような発達が見られず、適応上の障害が生じている状態のことを指している。その中の一つ、自閉症の特徴には、対人関係障害、言語やコミュニケーションの障害、反復的・常同的な興味と関心のパターンをもってしまう、他人の心を推し量ることができない、といったものがある。同じく発達障害の表れであるADHDは、不注意、多動性、衝動性という3つの大きな特徴をもつ。それに知能(知能テストではかる知能指数)を加えて、自閉症スペクトラム(軽度から重度)、ADHDスペクトラム(軽度から重度)と知能指数(高IQから低IQ)の3方に広がる立体グラフにしたのが、上記の「モデル」だ。そして岡野氏からみた岡野、ニキ両氏の位置づけを、そのグラフの中に記している。岡野氏のグラフは、ADHD方向に高く伸び(重度ということ)、自閉方向には少ししか張り出していない。ニキ氏はそれが逆。IQについては、岡野氏よりニキ氏が上、と位置づけられている。医師の優しさが、グラフに表れているように思える。
 岡野氏は、ADHDと併発することがある境界性人格障害の症状も、発達障害の観点から治療をすれば、症状がすっかり軽くなることがあるという実例を示している。自殺未遂や手首きりなど、境界性人格障害と診断される人は、医師にさえ見放されることが少なくない。この分野での臨床的研究がさらに進むことを望まずにいられない。

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紙の本Pay day!!!

2003/04/12 17:05

ただ一緒に過ごすことの大切さ

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

山田詠美の小説には、いつも、とても「しっかりした」主人公がでてくる。 今回のロビンとハーモニー、17歳の女の子と男の子の双子もそうだ。

舞台はニューヨークとサウスキャロライナのロックフォート。双子はイタリア系白人の母と、黒人の父の間に生まれた。白人、黒人、どちらの文化にも属していながら属していない。二人の両親が離婚する、という事件から、物語は始まる。

母と共にニューヨークに残るロビン、父の故郷、ロックフォートへ越していったハーモニー。ロビンは17歳の夏、父と兄と一緒に南部で過ごしたい、と母に訴える。ロビンもハーモニーも、恋をする。実は父にも恋人ができていた。同居しているのはアル中の叔父ウィリアム、そして父と叔父の母、双子にとってはおばあちゃん。夏が過ぎ、ロビンがニューヨークに戻ると証券ウーマンの母はテロに巻き込まれ、亡くなる。喪失。出会い。家族それぞれが、家族との、そして恋人とのつながりを手探りする。

主人公が「しっかりしている」という表現が適切かどうか、自信がない。「精神的に自立した」−−。これも近いけれど、ちょっと違う。「強い」という言葉でもない。でも「確かな感じ」が、二人の存在の根っこにある。

自分は自立できていない、妹のロビンと比べれば自分は子供だ、と悩む兄ハーモニー。兄のくせに幼いと思っていたのに自分の進む道、好きなことが何か分かっているのはハーモニーの方だ、と考えるロビン。

年上のバーテンダーとつきあうロビン、30歳のカーディーラーと不倫の恋に落ちるハーモニー。双子であるから相手が気になって仕方ない。思春期まっさかりの男と女でもある。どこからどう大人になるか、成熟へ向かう方法が、男の子と女の子では違う。

でも「相手を取られた」とは思わない。双子には不可侵な絆がある。疑う必要のない確かな絆があるから、父親に恋人ができても、相手がどんな恋人を作ろうと、疎外感は感じない。

母親を失って、双子も父親も壮絶な悲しみに襲われる。その傷を少しずつ乗り越えるために何が必要なのか、この家族はよくしっていた。ケンカしようが反発しあおうが、とにかくいっしょに居るのが一番だということを。

主人公のとても「しっかりしている」感じを書くために、山田詠美は舞台をアメリカにしたのだろう。この感じは、きちんと学校に通っている日本の高校生が主人公では、キツい。でもアメリカ人を登場人物に、日本語で物語るこの小説は、決してウソくさくなんかない。いや、山田詠美の作った舞台の中で、カタカナ名の登場人物たちは、とてもリアルに読む者に迫ってくる。

それは、どの国にあっても、人がなんとかこの世知辛い世界で生き抜くためには、ただ一緒に時間を過ごせる相手が複数(一人ではなく)必要なんだということを、山田詠美がよく知っているからだ。きっと。

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アルネの遺品

2003/04/22 17:38

死を選ぶまでの揺れる気持ちが迫ってくる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 思春期の少年、少女が自ら死を選ぶ時。だれかに自分の決意を気付いてほしいけれど、本当に気付かれてしまっては、彼/彼女の決意は実行に移せなくなる。右へ、左へ大きく揺れながら、ふらっと揺れの勢いに背中を押されて、一歩を踏み出してしまう。その子を失った周囲にしてみれば、腕の中からスルリと抜け落ちて、手の届かない場所へ行かれてしまった、そのような気持ちになる。

 このような、分かったような事を書くのは、私自身、最近、友人になることができたと思っていた親しい少女に、先に逝かれてしまうという体験をしたからである。

 ドイツの作家レンツは、15歳の少年が死を選ぶまでの過程を、とてもリアルに描くことに成功している。

 少年アルネは、一家心中した彼の家族の唯一の生き残りである。父親の親友が、アルネを家族の一員として受け入れることにした。一家には子供が3人いた。長男は親に頼まれたせいもあり、責任感をもって、いつもアルネの見方として接してやっていた。年の功ゆえに、アルネが、外国語習得能力に極めて長け、高い知性を備えていることを素直に認めることもできた。しかし長女、次男はそうではなかった。とりわけ、アルネが密かに思いを寄せた長女が、彼の存在を拒否した、という事実が、少年には重くのしかかった。

 長男といつも遊ぶアルネ。長女、次男は近所の悪ガキたちと、おんぼろ船を改造して海に出る等々、子供らしい無邪気な遊びにふけっている。アルネは仲間に入れてもらいたいと切に願うが、少年少女は残酷だ。船の改造にお金がかかると知ると、ならば自分の貯金をと差し出すアルネ。その瞬間だけ、仲間入りが許される、という構図は、近年、日本の学校社会で子供達が金銭に絡んだいじめを繰り広げるとの現状に、通底する。子供の世界は残酷で、現実的である。

 とはいえアルネは、本当に、孤独だったのか。一家の両親は彼を大事に扱っている。長男という味方もいる。なぜ少年は、死を選ぶほどの孤独感にさいなまれたのか。
 いじめが綿々と発展するうちに、彼の味方であったはずの一家の居候的男性を、アルネは裏切る行為を仲間から強いられてしまう。アルネはその行為の意味を、こう捉えたはずだ。道徳を以て考えれば、大人の側につくべきである。でもたとえ一瞬であっても仲間に入れてもらえるのならば、子供たちのいいなりになるか。

 悲痛なクライマックスは、ぜひ、美しい日本語の手本のような訳文で味わっていただきたい。救いのない結末ではあるが、読めば、作者が主人公を奈落の底に落として物語を終えている訳ではないことが分かる。最後の2段落が、この悲しい物語に救いを与えている。

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紙の本キャラクター小説の作り方

2003/04/18 14:03

生身の人間を描く可能性

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キャラクター小説の「書き方」、ではなく「作り方」であるところからして、筆者の狙いが、小説の書き方の開陳にあるのではないことが分かる。場面を書き込んだカードを使って、組み替えて、筋立てを練るとか、テーブルトークロールプレイングゲームが物語りの世界観を組み立て、かつキャラクターを動かす訓練に適している、といったノウハウ(といっても読むだけで盗めるものではなく、実際に体を動かさないと身に付かない高度さをもつものだが)の教授は、作家志望読者への、付録のようなサービスだ。
 「壊れ易い人間」を、これからの小説はどう描くのか。どう扱っていくのか。筆者のテーマは、この辺にあると私は読んだ。
 死なない人間、壊れない主人公を描くのは、ハリウッド映画の真骨頂だ。映画はもちろん、漫画もミステリーも、人の死は記号的にしか描くことが出来なかった。しかし本国を外国から責められたことのない米国とは違って、日本の手塚治虫以降の漫画は、表現が記号であるから生身の人間の死を描くには限界がある、と自覚しながらも、その努力は避けようとしなかった。キャラクター小説とは、一般的には登場人物を記号として描くことを当然とした小説、と受け止められているけれど、「ゲームのような死」を超えて、死を描く作業は、キャラクター小説にだって可能なはずだ−−たとえば清涼院流水の「1200人分の密室殺人」を描く探偵小説。大量に反復することで逆に記号の固有性を喪失させることに成功している−−と、筆者は考えている。
 私はこう思う。生身の人間の現実には、「死ぬ」「生きている」の中間に、けがをする、病気になる、精神が病んでしまう、という「中途半端」な状態がある。始まりがあって終わりがある物語の中に、この、中途半端な状態は、挿入しにくい。物語はいつか結末をもって終わらなければならないが、現実は、本人の意志で、終わったり続けたりを選べない。
 虚構をいかに巧みに組み立てて、現実感をもって読み手に伝わる表現を獲得するか。
「私小説」のような、本人登場の形での現実を担保に使うのではなく、壊れてしまった人間がきちんと、キャラクターとしての役割を果たす物語。
 あれば読みたいなあと思う。本書のノウハウは、そういう作品を「作る」ためのトレーニングとして、開陳されているはずだ。

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紙の本和解 改版

2003/03/17 00:56

修飾語に頼らず読ませる筆致

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つもったわだかまりをかかえ、断絶してきた父と息子の物語。そろそろ二人の関係をなんとかしたいと思いながらも放置し、互いに年をとってしまった。母に圧されて、息子は不承不承も一通の手紙を書こうとする。しかし、書けない。

理屈ならいくらでも書ける。でもこじれた父子の感情が、理屈を繰りのべたとこ
ろでほどけはしないことなど、重々分かっている。だから父の感情に訴えかける
ような手紙を書きかけてみた。しかしすぐ止めた。

「相手を動かそうと云う不純な気持ちが醜く眼についてとても続けられない」

手紙を書こうとして、書く事の目的、己の意図とまざまざと向かい合った時、このような気持ちになったことのない人がいるだろうか。

結局、主人公は父に本気で謝る気もなかったのに、いざ父を向かい合うと、つい、言葉が1人で走り出すかのように深謝してしまうのだ。

全体が、実に飾らない言葉で綴られている。

謝ってから、父が孫の顔をみに、息子の家を訪ねてきた。3時の電車で帰る父を駅
で見送る場面が圧巻だった。

「笛がなると、皆は「さよなら」と云った。自分は帽子を手にかけて此方を見てい
る父の眼をみながらお辞儀をした。父は、「ああ」と云って少し首を下げたが、そ
れだけでは自分は何だか足りなかった。

自分は顰め面とも泣き面ともつかぬ妙な表情をしながら尚父の眼を見た。すると父
の眼にはある感情が現れた。それが自分の求めているものだった。意識せず求めて
いたものだった。自分は心と心のふれあう快感と亢奮とで益々顰め面とも泣き面と
もつかぬ顔をした−−」

目を見て相手の感情を推し量り、物足りないからさらにじっと見つめたときに、よ
うやく、納得のいく思いに至って感極まった内面世界が、直裁的な言葉だからこそ
強く伝わってくる。

小説家の文体も時代を背負っているといってしまえばそれまでだけれど、私は、音
楽や映像よりも、言葉は時代を突き抜けてもちうる個性を築きやすいと思っている。

現在の日本語は、比喩全盛だ。でも修飾せずに描写するこの大家の文章には、今の小説にない迫力が漲っている。このような文体のバックラッシュがいずれくるのだろうと思わずにいられない。

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紙の本宮本常一のまなざし

2003/03/05 12:42

今も訪れた地に息づく宮本の足跡

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戦前から昭和55年に至るまで、地域の伝承を調べるために全国津々浦々を旅して歩いた民俗学者、宮本常一。佐野眞一は、「旅する巨人」「宮本常一がみた日本」のノンフィクション作品を書いてきた。「旅する巨人」が97年に大宅壮一ノンフィクション賞をとったのを契機に、佐野は、宮本常一のあり方に目を向ける人が、市井の人から霞ヶ関の若手官僚まで「伏流水」のように−−目に見える「ブーム」ではなく−−増え始めた、と実感している。

この本は、佐野が宮本常一を追いかけた取材体験をもとにして講演した講演録、そして宮本自身の講演録を一遍加えたものだ。講演だから、聞いて分かりやすい言葉で、宮本とは何者かが短くまとめられている。政治家が腐敗し、官僚も政治家のいいなりになり、民間企業においても不祥事が相次ぐ今こそ、日本とは、日本人とは何なのかを考えるには、宮本の言葉が必要だ、と佐野は説く。

宮本は、山村や漁村を訪ねる時、彼の師であった渋沢敬三の言葉「調査をするとは、奪うことだから必ずお返しをしなければならないよ」、を身をもって実践していた。たとえば、佐渡の特産品、八珍柿(種なしの柿)は、宮本が地元の人を必死にたきつけて、一緒に作り上げたものだ。今も選果場では80代のお年寄りから若者までが働いている。佐野は、宮本の生きた精神の実りの姿をみて驚嘆している。佐渡出身の太鼓グループ「鼓童」も、宮本がオルガナイザーだったそうだ。メンバーは「地域文化をつくるんだったら、おまえらはちんどん屋になれ」とたきつけられた、と佐野に話している。学者の域に収まらず殖産にも踏み込んでいき、また昭和28年成立の離島振興法にも尽力、苦手なはずの政治でも必要とあらば動き回った。

司馬遼太郎が日本人の中で最も尊敬しているのは、宮本だ、という逸話を佐野は紹介している。小説を書こうにも、高度成長期以前の日本人の日常風俗の記録は宮本常一の手によるものしかない、と気が付いたからだ。

宮本が訪れた各地の人々が今も、宮本がきた日のことを昨日のことのように思い出して話してくれた、という逸話こそが、この本の読みどころだと思う。

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乙女の成熟

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ヤンキーとロリータ。前者は集団の掟に生きる存在で、下はニッカボッカに上はさらし巻、時代を超えて変わらぬ定番アイテムに身を包む、おしゃれとはほど遠い感覚の持ち主だ。かたや後者は、フリフリ、ヒラヒラのスカートに厚底ブーツ、頭に冠のロココ調お姫様ファッションを愛する、孤高の人。どちらも高校生としては極めて少数派だけれど、集団対孤高のメンタリティは180度異なる。

茨城県下妻に引っ越してきたロリータ少女と、地元のレディース・走り屋に所即するヤンキー娘に、通じ合える部分はあるのか。フツーの今時の子として生きられない魂をもった2タイプの少女の出会いと成熟を描く、ちょっと変わった青春譚である。

ロリータ少女は、野ばら文学お約束の、孤独で身勝手で美しいものだけを愛せばいいわと腹をくくった「乙女」の精神の持ち主である。

<だってどんなに最愛の人と巡り会ったとしても、人は1人で生まれ、1人で思考し、1人で最後は死んでいくのです。−−支え合うことによって人という時はできあがる、だから人は1人でなんて生きては行けないのだなんてしかつめらしく語る人達がいますが、それなら私は人でなくてもよい−−ミジンコでいい、プラナリアでいい、そちらの方が寄り添い合ってしか生きられない人間よりも、遙かに生物として自立していると思うのです>
深く険しく孤独を愛し、自分の好きなロリータ服さえあれば他者なんていらない、と考える人だ。

ファッションについて語られるディテールが、2人の距離感を計るものさしになっている。ヤンキーだけれど、ヤンキー特有の集団主義、言い換えれば群集心理に染まりきっていない少女イチゴとロリータ少女は、ファッションを媒介にして、少しずつ、互いへの理解を深めていく。

ヤンキー娘はロリータ少女のパチンコの腕前に敬服し、ロリータ少女はヤンキー娘が一途に族の先輩へ思いを寄せる様子に感心する。互いに一張羅をきて代官山へでかけ、ロリータ少女はヤンキー娘の服への思いの片鱗を知る。ヤンキー娘はロリータ少女の愛するブランドのモデルに、抜擢されてしまう。そしてヤンキー娘が「ケジメ」(リンチのこと、だとか)を受け入れ、族から脱退しようと決意した時、ロリータ少女がケジメの場に、バイクに乗って駆けつける。

そして危機から友人を救った後、帰り道、バイクに乗ってひそかにこう思う。「ロココじゃないけど、こういうのもありかな」と。

今回の野ばらワールドでは、「乙女」の精神は、他者と出会って、成熟という回路を得ることによって生き延びる。これまでのように、他者を殺すことで物語を美しく終えるのでもなく、鱗におおわれ近親相姦という愛の禁断に身を投じるのでもなく。成熟しても、孤高の精神は滅びない。希望の灯る結末は、乙女の精神をもつ者を温かく包むだろう。

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紙の本A2Z

2003/05/03 01:12

考える、語る、考える!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この物語の登場人物は、自分がなぜ、相手に惹かれるのか、どこが好きなのか、をとにかくよく語る。よく考える。物語は情景描写で感情を浮き彫りにする文章ではなく、ストレートな、登場人物が考えてはき出した言葉をベースに、進行する。

35歳の女性編集者夏美と他社の同業者である夫がそれぞれ、年下の恋人と恋におちる。2人は、同じ売れっ子作家を担当し、有力な新人作家の次回作を互いに狙う仕事上のライバルでもある。

夫婦というつながり、その関係より刺激的な恋人との出来事、編集者という職業意識、同業者としての相手への敬意と敵愾心、等々。主人公も夫も、彼らの恋人たちも、事態と状況と関係性の変化の中で揺れながら、自分の考えをきちんとした言葉で紡ぎ上げていく。どろどろとおぞましい感情をたれながすのではなく、相手に伝えることを前提とした登場人物たちの生み出す言葉は、どれも清々しい。

魂の美しい人間を自分の小説で描きたい、と雑誌のインタビューで山田詠美が答えていたのを最近読んだ。今のはやりじゃないかもしれないけれど、といった旨を付け加えて。恨み、劣等感、責任回避など人間の弱さを、仕方のないものとして是認するじめじめした物語よりも、とことん考えて自分の人生の全てを請け負う覚悟をもつ潔さもつ登場人物がいつもでてくる、山田詠美の小説が私は好きだ。それはどんな状況にあっても、思考停止しちゃ、世界は変わらないよ、との作者の思いが行間から伝わってくるからだ。

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紙の本社長失格の幸福論

2003/05/10 12:30

素直であることは才能だ

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倒産という人生をボロボロにされるような大きな失敗から、人は、いかに立ち直ることが出来るのか。メディアによくある「失敗からの再起」物語で語られるほど、現実は直線的に進まない。いきつ、戻りつしながら、ちょっとずつ、再び起きあがる契機をつかんでいく様子が、本書ではつまびらかにされている。

著者・板倉氏がかつて起こしたベンチャー企業は、ネットベンチャーとして日経の1面を飾るニュースを輩出、板倉氏は、社長として金も名声も望むものはなんでも手に入るという輝かしい時期を体験した。

借金は棒引きになり、板倉氏は起業と倒産の体験を「社長失格」という本に現し、その本はとてもよく売れた。取材が、テレビ出演の話が押し寄せた。再び、ちょっとした時代の寵児になってしまった。

「過去の遺産」で食うことを本職にする人は少なくない。けれど板倉氏はそうではなかった。同じ事の繰り返しなんてノーサンキュー、人生にはライブ感が不可欠だ−−と氏がいったわけじゃないけれど、本書からかいま見えるのは、より濃く生きることに対して、きわめてどん欲である著者の生き様だ。

<僕がしたいことは、したいことをする人生だ>。
80年代の糸井重里氏のコピー「ほしいものが、ほしいわ」を想起させる。でも対象が「もの」と「人生」では重さが違う。

無類のパーティー好き、そして女性好きであることが、氏の人生における変化の糸口を与えてきたという。パーティーはなんとなく分かるけれど(たとえば、パーティーで知り合った電通マンが、「社長失格」のテレビ番組化をもちかけてきて、その企画はテレビ東京で放映されたとか)女性との付き合いで、とは。

「広く浅く人と接する」、つまりどっぷり深入りしない対人交流に徹していた氏は、講演などで「リスクテイクなきところに、リターンはない」と訴えてきたのに、ふと気が付くと、なんだ自分は何にもどっぷりはまってない、何のリスクもとってないじゃないか、と愕然とする。そして、ある女性と結婚する。

こうして生き様をさらしてみせる、氏の素直さが、この本の最大の魅力だ。
素直であることは武器である。きっとこの人は、これからもいろんな人を惹きつけ、巻き込んでいくんだろうな。

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「石けんファシズム」とは言い得て妙

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 合成洗剤は粉石鹸より、環境に優しいのか。優しいと思っていた。石けん運動推進派の声を、「買ってはいけない」等々、意図せぬうちに耳に入れていたからだ(今日<5/5>もニュース23で、スローライフを実践する村の女性達が、「合成洗剤で海を汚したくないから」と廃油を使った手作り石けんを作っています、と意気揚々と語る様子を放映していたし)。
横浜国立大助教授の大矢氏は、合成洗剤擁護派だ。氏が、合成洗剤追放論に反対するのは、人体・環境への影響に関して、石けんと合成洗剤を比較し、石けんの方が環境への負荷が少なく、人体への毒性は大きい、と多くの人が印象的にもつイメージが、石けん推進派による間違った情報を元に作られてきたものだ、と考えているからだ。
 本書を読んで、洗剤論争には仕掛け人がいたことを知る。粉石けん会社が自社の社員の死亡事故があった際、尿検査でABSという界面活性剤による肝臓障害の可能性を訴え、自社商品の販促策をとった。尿検査を担当した柳沢文正・文徳という二人の医師が、市民運動と連携を取り合い、合成洗剤有害説のオピニオンリーダーとなった。彼らの発信する情報が、かなり偏っており国際的には通用しないものだったにもかかわらず、日本ではそれが流布した。ABSという界面活性剤は、微生物による分解性(生分解性)が低い。いつまでも消えない下水の泡立ちが社会問題となっていた時代の記憶は私にもはっきり、残っている。これは国際的にも指摘されていた事であり、より生分解性の高いLASという界面活性剤を洗剤メーカーが使うようになり、解決した。柳沢兄弟がさらに主張したのは、ABSの人体への毒性だったが、本書によれば、国際的な学術レベルでは議論の対象にすらなっていなかったが、日本でのみ、「恐い洗剤」といったタイトルの記事や書籍によって広まった。
 合成洗剤反対の消費者運動が大手メーカーの商品改良につながった成果があったことは、大矢氏も認めている。ABSがLASに変わり、1980年代には琵琶湖の富栄養化問題に端を発した有リン洗剤追放運動が実り、洗剤の無リン化が実現した。
 合成洗剤の環境への負荷が減少した今、石けんなら善、合成洗剤は悪、といった善悪二元論で石けん・洗剤問題を考えるのではなく、双方に利点・弱点があることを理解するべきだ、という主張は正論だろう。生分解性の厳密な比較、その洗剤・石けんを作るのに必要なエネルギー、下水道の整備状況など総合的にデータを比較した上で、地域の状況によって使い分けをするのがベストな選択だ、というのが大矢氏の考えだ。石けん推進派であれ無関心派であれ、消費者にそのレベルの情報分析力を望むのは非現実的に思えるが。
 「買ってはいけない」著者らとのテレビ番組対談で体験した、彼らの強引な「洗剤危険説」論といかに冷静に戦うか、といったあたりの苦労談が生々しい。インターネットでも、石けん派から攻撃にあってもめたらしい。同じ著者の「石鹸安全信仰の幻」(文春新書)「合成洗剤と環境問題」(大学教育出版)は、科学的な理解を整然と進めるのに役立つが、読み物としては本書が面白い。

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リトル・バイ・リトル

2003/03/17 00:32

制度に沿わずにいかに生きるか

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暴力を振るう父、その彼と別れてマッサージ店で働きながら子供を養う、強いけれどなぜか能天気な母、母の2人目の夫との間にできた妹。複雑な構成の家族を生きる、浪人生の主人公ふみの物語。

生活能力に欠ける母親とあどけない小学生の妹の世話をするふみは、とてもよくできた、頑張りやの長女なのだが、流行のアダルトチルドレン的な、親や家族への湿った恨み節は抱かない。

父、母のダメさ加減を突き放して眺めながら、マッサージ店で知り合ったキックボクサーの男の子との関係を模索する。

ラブホテルに男の子を誘っておきながら、自分は先に寝てしまう。朝4時に目が覚めて寝ている男の背中をみながらパニックのような感情に襲われる場面など、うまいなあ、とため息をついてしまった。

湿った情念や感情を描くより、乾いた、淡々とした関係性のとりまく世界でいきる様を描ききっている。すごく「今」が描けているなあと思うのだが、主人公のあり方が年配の作家たちに理解されず、受賞を逃したというのはさもありなんと思った。

作者のおおらかな所が出ていると思うのは、井の頭公園で、主人公に男の子が、はじめて襲いかかる場面。

ホテルで寝てしまったのに、初めて二人がセックスするのは、なんと外。主人公は、「まるで野犬が飛びかかってきたようだと思いながら木の枝や落ち葉や虫を飲み込んだ土の上に横たわると、じっとりと湿った柔らかさの中に吸い込まれそうだった」

とその状況を、ごくごく自然に受け入れている。

このおおらかさがあるから、主人公は困難な家庭の状況を、誰を恨むでもなく乗り切る人なのだろう。神経質的な、コミュニケーション不全の恨み節にあふれた物語が溢れる中で、自律した精神の若い主人公の人物像を理解するのに、この場面は説得力があった。

学校、家庭、現代的恋愛のありかた、といった「制度」に沿わずにいかに生きるか。主人公は、この難しい問題への一つの答えを提示してくれている。

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死をそんなに意味で埋め尽くさなくても…

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ある僧侶作家がこの本のいおうとしていることは自分の書く小説と同じだ、と雑誌のインタビューで紹介していたから、手に取ってみた。

昏睡状態にある人(ただし脳に外傷を受けていない人)と同じぐらいの大きさの声で、その人の呼吸、鼓動のリズムに合わせて一緒にうなり声を出すと、彼が言葉を発し始めた。その言葉は次第にはっきりとしてきて、彼の生前からの望みであったけれどかなえられなかった事−−夫婦仲の改善、また自由に他の女性とも親密な関係を結ぶ等々−−を、かなえるためにカウンセリングをする。ミンデルは夢と身体につながりを重視し「夢身体」(ドリームボディ)という概念を作った。なんだか分かりにくい。訳者解説によると、フロイトは夢を自我から排除・抑圧されたものと考え、ユングは夢が先にありそこから日常意識が生じた、とした。ミンデルのプロセスワークは、夢以前にある流れ(ドリーミング、という)エネルギーや働きを想定。そのドリーミングが夢に表れたり身体症状、対人関係に現れる、とする。ミンデルもユング心理学の徒だが、ユング心理学や同じく派生であるトランスパーソナル心理学のように、変性意識状態(意識的でないすべての状態でのこと)の理解にフォーカスをあてるのではなく、この状態に介入してその人の出すシグナルを手がかりにコミュニケーションする手法のことを、自ら、プロセスワークと名付けたのである。

本書には、昏睡状態の人へのプロセスワークの成功事例が紹介されている。ミンデルはほとんどの昏睡状態の人との交流に成功しているらしい。ある種の経験を積んだ人なら、確かにそういうことを起こしうるのかもしれないなとは思う。もし自分の肉親が思いがけずに昏睡状態に陥った時、最後にもう一度話しておきたいことがあったのに、と猛烈に後悔したとしたら、こういうカウンセラーに頼ってその願いを叶えられたら、少しその不幸に対する気持ちは楽になるのかもしれない。

ただ私は昏睡状態になった愛する人と話す手段があると知っておくことよりも、いつ来るかもしれない命の終わりをいつもどこかで意識しながら、今を大事にしたい。昏睡状態の人と対話をしたいと思っているのが、生きている者の願望である限り、その願望をかなえるための「心理学」とは、新しい商業的サービスの類に近いのではないか。死を前に昏睡している人をわざわざ起こさなくても、その人への想いは、生きている者それぞれが胸に秘めて時々思い起こせば、それでいい。

自傷行為をする人は、切っているときは痛くない、と話すのをよく聞く。それは「人の身体的経験は当人の視点(立脚点)によって左右される。ワークや洞察によって、アイデンティティがドリームフィギュア(夢に現れる人や物)に移った場合は、リアルボディの痛みを感じない」という下りで説明できる、とユング派やミンデルの信奉者は思うのかもしれない。でも生物学的に考えれば、例えばだけれども、神経が極度の緊張状態にあって麻痺してしまい、痛みを感じにくくなるものだとか、まったく別の説明も可能なのではないかと思う。

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紙の本ユングオカルトの心理学

2003/05/20 14:22

年と共に失われていく慎重さが読み取れる

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論文(書評含む)は30歳の時から84歳の時までのもの、そして死の前年に受けた短いインタビューが一編。ユングが、心理分析家から“教祖”に変身していく様子を如実に示すという意味では、ナイスな企画の本だと思う。無意識から読み解けば、心霊現象の不思議も分裂病を起こす心の構造も、「あの世」の存在も分かる、という“ユング教”の教祖である。最終章の、訳者による「ユング自伝」を元にしたユングの生涯の要約は、長すぎる「自伝」の要点をコンパクトにまとめてあるのが便利。でも欲を言えば、ユングが年を追うごとに、合理主義的・科学的態度への配慮を失い、慎重でなくなり、暴走していく事について、しっかりした解説が読みたかった。ではユングがどう、変貌していくのかを見てみよう。
第一章「心霊的現象」(30歳)でユングは男女の霊媒8人を調査した。たとえばテーブル・ターニング(1人以上の人がテーブルに手を置きしばらくするとテーブルが動いたり回ったりする。こっくりさんのように、モノに手を置いている、という点がミソ)では、モノが動いている間、霊媒の手の筋肉を触ると、はっきり緊張していた。しかし霊媒自身は、自分に動かしている意識はなく、手が勝手に動かされている、と感じているという。これをユングは「催眠状態」では起こることであり、心の中の無意識がそうさせている、とみる。霊媒とユングがテーブルに手を載せ、ユングの思った数字を霊媒がテーブルの揺れの回数で当てるという「降霊術」の観察では、霊媒は意識の心ではなく、無意識と心を結合させ、微小知覚と推測を結合させてユングの無意識をよみとった、降霊術は超自然的現象ではなく、無意識の心理学的現象なのだという。それでも、多くの心霊論者は信ずるに足らないが、いつか実験と証明により厳密な科学がこの分野を証明するだろう、と記している。
第二章「無意識の心理学」では、亡霊や幻影といった「原始時代から人がみてきた」現象を、心の構造と現代の精神病理と絡めて、図式的に説明してみせる。大まかに言うとこうだ。無意識には(1)自我に属する部分と(2)自我とは結ばれない部分がある。(1)は個人的無意識で、(2)は集合的無意識。そして(1)は魂=複合体であり、(2)は霊=複合体。魂は古代から、常態で人に属しているように考えられてきたが、霊は近くにあってはならないものと思われてきた。(1)が自我と結びつけないと人は神経症になり、(2)が自我と結びついてしまうと霊が見えたり、精神錯乱したり分裂病の症状に陥る。ここでは、まだ自説は仮説であり、科学的な証明は難しいだろうけれどいつか可能になると考えている。しかし第三章「魂と死」第四章「超心理学」からは違う。「宗教的象徴は、無意識的な心の働きが自然に生みだし、何千年も経つうちに植物のように発育した」もので、つまりそれは「霊から生じた」ときっぱり。科学的態度も失われた。「心理的真実は物理的真実に劣らず尊重されるべき」で、「この点に関して合理主義的考えを抱く者は基本的な人間性に敵対している」と断言(第三章)。第四章では霊の現象を「どのように解釈されようと独自に存在しており、それらが紛れもなく無意識の表れであることに疑いの余地はまったくない」。また「この世」(意識的。時間、空間に制限される)と「あの世」(無意識。時空に制限されない)は例えていれば「周波数」が違うだけで同じ宇宙を作っている、プロペラの羽は回転していると見えないけれど、止まると見える。それと同じようなものである−−といった話になる。そしてユングへの批判は「合理主義的偏見」であり、それは人間の理性がなすものでなく「原始的本能」によるものだとする。いつのまにか、心の探索から、世界を自在に読みとくための「理論」作りにユングの研究の目的は変質していたのではないか。

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紙の本ユング錬金術と無意識の心理学

2003/05/16 14:23

解説から読むべき

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心理学の徒ではない私は、訳者・松田氏の解説である最終章「ユングとパラケルスス」に救われた。ルネサンス期である16世紀に医師、錬金術師として特異な活躍をしたパラケルススに、ユングがなぜ興味をもったのかを分かりやすく説明してくれているからだ。

まだ天文学はなく占星術の、化学は登場せず替わりに錬金術が、世の思考を支配していた時代。「中世の錬金術は、神の世界秩序に対して人間が空前の介入を企てる道を切り開いた」とユングはいう。医師がまじないや祈りで患者を治療しようとしていた時代に、パラケルススは自然界の素材から秘薬を取り出すため錬金術に通じる必要がある、と考えた。また金属を変成させる作業の過程で、作業者自身が精神的に変容し、熟成することで、病気の治療に必要な力を体得できると考えた。ユングは、錬金術師が体験する精神変容のプロセスは、無意識の世界を探求する時に彼が変容した体験と重なっていると気づき、パラケルススに着目したのだった。

パラケルススの発想は、不思議なことに、近代を迎える前なのに近代科学的発想を超えようとしているかのようだ。人間の魂は自然と切り離して考えられない、すべての事物には(人間も含めて)「自然の光」が宿されており、それを研究することで人の病を治すことができる。人間の魂の実体を探り、病気の原因となる魂の暗部しよう、人間の自然性(錬金術的思考でつかめる科学的属性)と霊性(魂の暗部など目に見えない不可思議な部分)を合一させなければ、人間とは何かも、世界とは何かも分からない、と彼は考えた。ひたすら自らの無意識の姿を探り(ユング自伝に詳しい)、無意識と意識を近づける試みに生涯を捧げたユングが、中世に、パラケルススのような超近代科学的思考を貫いた人物がいたとしれば、それは感銘をうけるのも当たり前だろう。

モノとモノ、考えと考え、症状と症状を分けて分析するのが近代精神医学であれば、意識できない、また言葉で表現することのできない心の領域の存在を確かめ、それを意識と関連づけようとするユングの思考は、融和的という志向で考えれば仏教的だといえる。融和、合一という作業は、本来は、高度に厳格的な態度をもってのみ、洗練された理論となりうるはずなのだが、今、ユング心理学の周縁には、占いであったり、瞑想集団であったり、仏教由来とかこつけたオカルト的思考の産物が、沢山くっついている。ユングのパラケルスス研究への真摯さとは、方向性が異なっているのではないかと思う。

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