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レビューアーランキング
先月(2017年6月)

あぐりっぱさんのレビュー一覧

投稿者:あぐりっぱ

9 件中 1 件~ 9 件を表示

情報メディアの系譜学

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 我々の世界観と前近代の人々のそれとの間に大きな断絶があることは、周知の事実であろう。現在、我々はメディアを通して、日本中、世界中で起こった事件に立ち会うことができる。しかし、前近代には、こうした個人の生活世界と、まったく関係のない世界を共有する仕組みはなかった。個人はいわばばらばらの世界を持っていたのだ。近代は、情報メディアによって均質な世界がつくられた時代なのである。

 近年まで、情報メディアの価値を疑う者は、ほとんどいなかった。情報メディアと近代の共犯関係は、それだけ根深かったのである。しかし、情報化社会などという肯定的な表現の裏に、いつも後景に追いやられていたのが、情報のかたよりの問題である。そもそも、「正しい」情報を発信者と受信者が共有するということはありえない。かつて、ヒトラーはメディアを総動員して、「ドイツ国民」と第三帝国という幻想を共有した。もちろん、大東亜共栄圏という幻想もメディアの発信者と受信者の共犯によるものであった。情報のかたよりの危険性は、現在でも変わってはいない。日本という「想像の共同体」は、くりかえし再生産されている。本書は、明治初期の読売新聞の検討を通して、現在に至る情報化社会の抱える難問を、草創期にさかのぼって検討することを謳っている。 

 本書には、興味深い指摘がいくつかある。まず、近代の時間を支配する新暦は、新聞が流通させたという指摘である。また、従来にはなかった読者との「親密な言説の共同体」を生み出して、新聞が啓蒙の役割を果たしたという指摘も興味深い。新聞は、近代の科学的な知識を民衆に授けて、さらに、民衆のなかに国家を植えつけたのだと言う。

 新聞は近代という虚構世界を織り上げたのだ。民衆は虚構世界を植えつけられて、あたかもそれのみが「現実」であるかのように思いこまされる。この明治以来の装置は、現在もまったく変わらず機能している。本書は、現在に至る悪しきパラダイムを、起源にまでさかのぼって指摘するという、文化研究の模範的な適用例と言えよう。 

 しかし、著者は使い古された「系譜学」に依拠しすぎてはいないだろうか。近代になって、国民の意識を持っていなかった無知蒙昧の民衆が、メディアによる啓蒙によって国家を内在させてゆくという筋書きは、かたよりがあるのではないか。また、著者は近世期との連続をまったく無視して、「近代」という断絶点を自明視しているが、この断絶点そのものを疑うことはできないのであろうか。そもそも、著者が「近代」を自明視して、民衆をただ啓蒙されるものと見ているのは、著者に内在している蒙昧から啓蒙へという進歩史観のなせるわざではないのか。もちろん、この時、著者は進歩の最終地点に立っている。文化研究の名を借りたこの進歩史観も、情報メディアがつねに利用して来たものである。

 それでは、本書の可能性はどこにあるだろうか。それは、本書の内破点にある。著者は、新聞が民衆に科学的な「事実」の重要性を啓蒙したと述べているが、一方で、啓蒙に対する民衆の抵抗を指摘してもいるのである。民衆は「虚」を「事実」としたり、「事実」を「虚」としたりして新聞を楽しんでいたと言う。著者は、近代小説の誕生をそこに見るという重要な示唆をしているが、啓蒙の趣旨に合わないためか、深入りを避けている。民衆の読書術と小説の創生を探るという課題が我々に残されたのである。本書は、啓蒙に対しては、その内破を読み取るという接し方の重要性を啓蒙したものだと言えよう。

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紙の本普遍論争 近代の源流としての

2001/08/01 04:48

今新しい、我々の忘却の穴である中世哲学への貴重な導き

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 陳腐な言い方ではあるが、今、中世哲学が新しい。しかし、現実には、かなりの哲学好きでも敬遠して遠ざけるのがこの中世哲学である。忘却の穴、暗黒の中世哲学。なんといっても中世哲学といえばイコール「神学」であり、そんなものは現代とはなんの関係もない。だから無視してしまってよいのでは? という声が聞こえてきそうだ。

 中世哲学のテクストを実際読んでみると、なんとも煩瑣きわまりない。おそらくその読解はデリダやドゥルーズのテクストを読むより、つらい作業となるだろう。神をめぐるはてしない議論が延々くりかえされるのだ。神の存在証明など、このご時世になんの役に立とう? しかもデカルトの神の存在証明の数百倍もそれは煩瑣なのだ。とにかくマニアックなまでに厳密さを目指す中世哲学。中世哲学は「天使が針の先に何匹とまることができるか」などという瑣末なことを論議するものでしかない、という後世の批判はなるほど当たっている。結局、誰もがそんな思いでテクストを閉じることになるのは目に見えている。

 しかし、くどいようだが中世哲学は新しいのである。それを明らかにしてくれたのがこの『普遍論争』なのである。普遍論争は中世哲学のいわば背骨になる重要な論争で、哲学史の教科書では、「普遍」は実際に存在するものなのか、それとも言葉だけの存在なのかを争うものだったとされている。だが、「普遍論争」が哲学史のいうような「普遍」があるかないかの論争だったとしたら、実につまらない。「普遍」概念をめぐる論争とは結局、神についての問いなのであるが、神が実際に存在するわけないではないか。現代人ならほとんどそう思い、神は言葉だけの存在にすぎないとするのが自然ではないかというだろう。
 デカルトの神の存在証明もどちらかというとそういう感じのものだった。哲学史はそして、神は言葉上のものであるとした派に近代化への先鞭を見て、神はすべてに先だって存在するという守旧派…つまり中世哲学の代表の葬送を決めるのであった

 ところが、著者は「普遍論争」はそんな単純なものではないと食ってかかる。『普遍論争』の醍醐味はそこにある。詳しくは読んで頂くしかないが、少しだけ明かすと、「普遍論争」は初めから、神が実際にあるかないかなど問題にしてないのだというのである。そう、それは東浩紀氏の 『存在論的、郵便的』で広く知られるようになった、デリダの否定神学批判に通じる議論なのである。デリダが問題にしているのはすでに目に見える神様ではない。目に見えない神についてどう語るか、なのである。インターネットという技術を手に入れた我々は、目に見える神はもう恐れていない。そう、目に見えない神のようなものについてこそ語らなければならないのである。語り得ない神のようなもの(デリダはそれを「幽霊」ともいった)に、それではどうやって迫ってゆけばよいのか? その格闘の先駆けこそ中世哲学であり、普遍論争であったわけだ。なんとも新しいではないか。『普遍論争』はその貴重な導きとなるわけだ。
 断言できるが、「普遍論争」を著者のような新しい視点で紹介した本は日本語では他にない。あのくどいくどい中世哲学のかなめを、この一冊で初学者は手に入れることができる。この本の巻末には、大部にわたる中世哲学人名事典までついていて、なんともお買い得である。

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亡霊からは逃れることができるだろうか?デリダのハイデガー論

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 デリダの『精神について』、亡霊について、とも訳すことができるこの本は、デリダのハイデガー論である。デリダはこの本で、ハイデガーの「精神」(Geist)=亡霊という概念を取りあげている。
 デリダはフッサール現象学の研究を自らの出発点に置いている。現象学という点では、フッサールの弟子であるハイデガーにも負うところは大きい。デリダ自身、ハイデガーと自分との差異を見極めるのは困難だといっている。そのデリダがはじめて、まとまったハイデガー論を発表したわけである。ハイデガーとデリダはどう対決するのか?
 しかし、これは一風変わったハイデガー論であった。そもそも「精神」はハイデガーの哲学で重要な概念だとは、これまでみなされて来なかった。実際に、ハイデガーは「精神」を正面から扱ったことはない。やはりハイデガーに多くを負って、終生、ハイデガーとの対決に心血を注いだエマニュエル・レヴィナスも、「精神」などという語がハイデガーにあったとは気づかなかったといっている。なぜ、デリダはそのような切り口からハイデガーを読もうと思ったのか?
 「精神」は、ハイデガー自身によって避けられた概念であった。「精神」という言葉はあまりに使い古されている。この言葉につきまとう通俗性が、自らの存在論をけがすことをハイデガーは恐れたのである。しかし、ハイデガーはいつしかこの「精神」という言葉を使うようになってしまう。この経緯はナチス時代を挟んだ大変ドラマチックなものだ。
 ハイデガーの存在論はそもそもが人間中心主義という「精神」につねに汚染されていたのだ。いくらハイデガーが避けようとしても、避けられなかったことであった。汚染から逃れるために「精神」を排除しようとしたのに、ハイデガーはそれをひそかに抱えこまずしては保たれ得ない存在論をつくりあげてしまったのである。純粋さはこの汚染なくしてはなりたち得ないような構造を抱えてしまっているとデリダはいうのである。「精神」(Geist)=亡霊の汚染はまぬかれない。
 デリダのこのハイデガー論はたしかに大胆すぎるところがある。ハイデガーの側からの反証も可能であろう。しかし、純粋と汚染が引き離し得ないこと。デリダは現代のアポリアをハイデガー論によって提示しているのである。それは最終的にはハイデガー自身の問いでもあったわけだ。
  東浩紀氏が 『存在論的、郵便的』で紹介した、デリダの幽霊=亡霊=精神論を深く知りたい人にとって、この「精神について」は格好の書物となろう。

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紙の本パルタイ

2001/08/02 05:01

悪夢を楽しみたい方に。

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 1960年、一人の無名の女子大生の小説が文芸評論家の平野謙に激賞され、女子大生は作家デビューを果たすことになった。大学新聞の小説懸賞という地味なものに当選した「パルタイ」は一躍、文壇という大海で脚光を浴びることになる。倉橋由美子はこの時、二十五歳であった。

 「パルタイ」とはドイツ語で「党」のことである。発表時の1960年といえば、学生運動が盛んになりだした頃であった。「パルタイ」に登場する「党」はもちろん反政府の組織である。「パルタイ」は筋はいたって単純な短い作品だが、面白いのはその描写である。
 倉橋は学生運動を淡々と記述することはしない。すべてを夢のなかで見たような景色に変えてしまうのである。その記述を倉橋は倦怠というオブラートで包んだ。真正面から描かないことによって、その世界は一種異様なものになった。
 当時流行した、サルトルの『嘔吐』やカミュの『異邦人』 をやはり包んでいたアンニュイを伝えるだけではなく、反世界といったものを表現する異様な文体を、倉橋は処女作ですでに手にしていたのである。
 
 現実から浮遊したような、言葉は悪いが寝不足の頭ですべてを夢のように見る視点で、倉橋は「パルタイ」発表後、次々と異様な小説を発表した。その作家出発期の作品を集めたのがこの『パルタイ』である。倉橋は悪夢のような皮肉に満ちた小説を得意としている。『パルタイ』はもちろんであるが、悪夢のつらなりをとくにお好みの向きには『大人のための残酷童話』 、『倉橋由美子の怪奇掌篇』をお勧めしたい。

 近年、1960年ファッションが再流行したことがあった。しかし、学生運動を知らない若い世代に、1960年の学生たちがどんな時代の空気に包まれ、生きていたのかを知るのは(感じるのは?)なかなかむつかしい。『パルタイ』はその一つの点景をみごとに伝えてくれる。白日夢ならではの効果であろう。

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紙の本ナショナリズム

2002/05/20 03:53

不可視の帝国

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 本書の主張を一言に尽くすならば「ナショナリズムは過去のものではない」ということになろう。昨年までは「先進」世界にあっては、こんな主張には何をいまさらという冷笑が浴びせられるのがつねであった。第二次世界大戦はもはや五十年も前のことである。たしかにソ連の崩壊で冷戦が終わると同時に、民族紛争が激化した。しかし、大勢としては第三次世界大戦の危機は避けられたのであり、戦争の火種があるとしても、それは「地方」のことなのだ。もはや世界のグローバル化を阻止するものは存在しない。日本でも国際化がさかんに叫ばれ、国境を越えるのは簡単だという楽観主義がまかりとおっていたのである。「地方」のナショナリズムののろしがあがっていることに気づくことなしに。

 この幻想は昨年九月のニューヨークの大規模テロにより、あっけなく崩壊した。ナショナリズムは滅びてはいなかった。アメリカはオーサマ・ビン・ラーディンというイスラムナショナリズムの「犯人」を掲げて、グローバリズムの回復のためにと打倒を「世界」に呼びかけた。しかし、アメリカの正義であるグローバリズムがしょせんは「地方」ナショナリズムであったことをこれほど露呈した事件はなかった。ナショナリズムはウイルスのように蔓延している。アメリカが「犯人」を具体的な一人を指名したがるのは相手のナショナリズムのわかりにくさにおびえ、これを可視化して処理したかったからに他ならない。

 ナショナリズムは「想像の共同体」である。想像の産物だけに扱いにくいのだ。「想像の共同体」は具体的な土地や民族に結びつけられて可視化される。さらにヒエラルキーの頂点に君主が置かれて、君主は「想像の共同体」をたばねる役割を果たす。ただし留意すべきなのはこの共同体は完全に可視化することはできないということである。可視化しえない美や情感といった装置までも動員していることが近代のナショナリズムの難解さであり、老獪さなのだ。可視化しようとすればそれは別のものにすりかわる。天皇制が戦前とはまったく変わったかに見える戦後の体制においてもそのまま生き延びることができたのは、まさにこのナショナリズムの老獪さゆえだと本書は指摘する。

 本書は江戸時代、明治初期から第二次世界大戦を経て、今日まで生きのびる日本のナショナリズムを、時に応じて変化してきた国体概念の分析によって通覧したものである。とくに丸山真男、和辻哲郎、南原繁、江藤淳といった戦後のオピニオンリーダーの言説にひそむナショナリズムの分析は、現在の日本の混沌とした思想界を見渡す上で重要な座標軸を与えてくれるだろう。大規模テロの一ヶ月後に刊行された本書は、ナショナリズムの復讐劇の連鎖をいかにして「新たな秩序構想」へ導くかという著者の祈りが込められた思索の一成果である。

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デリダ

2001/08/21 01:30

信頼できるデリダ入門書

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 ジャック・デリダというと「脱構築」(デコンストリュクシオン)という言葉をつくったことでよく知られている。フランス現代思想が八十年代に日本で大流行したことがあり、ニューアカブームといわれた。この時、「脱構築」という言葉が、あちこちでファッションのように飛び交っていたのを懐かしく思いだす人も多いのではなかろうか。今でも「脱構築」という言葉は健在で、周知のごとく諸方で使われている。
 しかし今なお、デリダが「脱構築」という造語でわざわざ言おうとしたことは正確に伝わっているとはいいがたい。「脱構築」はデリダの意図を超えて、大学の先生などがしかつめらしく魔法のように使って、学生たちを煙に巻く道具になったりしている。このために、なんだかデリダは胡散臭い哲学者だ、という印象が強くなるのは当然であろう。デリダに向けられる批判はいつもこの胡散臭さに対するものだ。

 残念ながら、デリダは広く知られているわりには読まれてこなかった。デリダを肯定する側も批判する側も魔法使いのように扱ってきたところがある。読んだふりをしている人が多いせいであろう。「脱構築」という言葉だけが先走りして、流行したのはいいものの、盟友のドゥルーズと異なり、デリダはよき紹介者が少なかった。デリダが魔法使いになってしまったのは、なんといっても手ごろなデリダの入門書がなかなかあらわれなかったことが原因である。

 しかし、現在はデリダ哲学のよき案内人に恵まれているといえよう。高橋哲哉氏の「デリダ」、 東浩紀氏の「存在論的、郵便的」の刊行の意義は大きかった。今では、デリダの翻訳も数を増し、三十冊を超えているが、なんといっても難解である。導きがなくてはとうてい歯が立たない。デリダの「脱構築」がこれで胡散臭い魔法ではないことが見えてきたというものだ。

 とはいえ、上の二冊は「研究書」である。難解さは軽減されているものの、著者の見解が前面に出すぎているところもある。初学者にはちょっとつらい。
 この点、上利博規氏のこの本は、丁寧にデリダの初期から最近までの重要著作を年代を追って、忠実に解説してくれている。初学者には実に有用な一冊である。現代フランスの哲学者、デリダがどんな哲学を展開して、どんなことをいっているのか、手軽に知りたいという向きに強くお勧めしたい。

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読者とメディアー日本近代文学の「考古学」

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明治三十年代は印刷業界が躍進を遂げた時期であった。輸入に頼っていたために高価だった洋紙の国内生産が軌道に乗り始め、金型活字産業も爛熟期に入っていた。ハードの完成によって、新聞や雑誌がますます大量に発行され、文化の装置として社会を覆いはじめた。膨張したメディアは、より多くの需要者を必要とした。そこで、メディアは受容を広げるために、これまでになかった読者参加型の文学を作り上げることになる。

読者は文学によって、自己を投機することを覚えてゆく。そして、作家となった読者が再び文学のなかで投機してゆく。こうして文学の生成の場が誕生するのである。本書はメディア空間を通して立ち現れた「文学の考古学」を導き出すことをねらいとしている。これまでの文学史は何々主義の項目を立てて、作家の側からの働きかけばかりを追ってきた。しかし、読者の関与があって、はじめて文学は生成の場を獲得したのである。本書は文学史の補完を目指すと同時に、読者やメディアを軽視してきた文学史を根本から揺らがせるものとなるだろう。

また、本書は、芥川賞をとろうと世間的には無名に等しいままであり、作家になったからといって特別な投機とはみなしようがなくなった現在の文学の疲弊状況を根本に帰って問い直すねらいもある。

だが、この「文学の考古学」はたしかに文学史の闇を照らす試みではあるものの、作品の外部の状況に注視するあまり、作品を圧殺しかねない危険性をはらんでいることには注意を払う必要があるだろう。本書には、作品の過剰を無害なものと化して、新しい文学史のなかに回収してしまうという欲望が垣間見える。もちろん、島崎藤村「家」の分析などで、作品論と文学史の交点の模索が試みられてはいるが、その流れる川のような記述において、諸作品はおおむねあっさりと小船のように流される。流れに抗して、諸作品にあえてこだわってはいけないだろうか。なにがそこでその作品を引き起こしたのかと問うことで、抵抗してはいけないだろうか。その抵抗こそ、投機の内実を問うことにはならないだろうか。

そもそも、投機の場は緊張にはらんでいたはずである。この緊張を表現するには、直線に流れるような文学史の形態はふさわしくない。それは、フーコーの言う「考古学」的な分析にこそふさわしいものであろう。本書が、今後必ず読まれるべき正典となることは疑いないが、それを意図しているように読めてしまうのが残念である。

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紙の本女は何を欲望するか?

2003/05/13 04:29

フェミニズムの無前提な政治的「正しさ」を問い直す

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 近年の「現代思想」のモノローグぶりはどうしたことだろうか。今や、政治的な「正しさ」の合唱に加わらない者は、反動的だと言われかねない始末である。出版界の肝いりで「現代思想」のひさびさのヒット商品となったネグリとハートの『帝国』も、ご多分に漏れず政治的正しさを主張している。『帝国』は来るべき「共産主義的」な「革命」を引き起こすマルチチュードの声の聴取を訴えるが、その声はなぜ「共産主義的」でないといけないのか。たしかに、「ネオコン」に追随する声は「正しい」とは言えないかもしれない。しかし、その声がマルチチュードの声ではないとどうして言えるのか。ネグリとハートの「正しさ」に不平を唱える声は、『帝国』の射程にまったく入っていないのである。

 本書は政治的な「正しさ」のなかでも、フェミニズム理論の「正しさ」に対する宣戦布告である。著者はフェミニズム理論を、本質を女性性に置く家庭回帰志向と生産関係に置くキャリア志向の二つに分け、第一部「言語論」で前者の批判を、第二部「映画論」で後者の批判を試みている。この批判によって明らかになるのは、フェミニズム理論における本質主義の根深さである。著者の両者に対する脱構築の手つきは以下のようなものである。

 たとえば、ショシャーナ・フェルマンはイリガライのように家庭回帰に直結する女性性の称揚はしないが、女性独自の視点と言うものがあるとする。その視点は内実をもたず、男性的なものではないと言う否定辞でのみ示すことができる。しかし、この否定神学的な視点は、絶対的、かつ支配的な本質そのもの以外の何者でもないのではないか。しかも、その本質が女性独自である必然性は、どこにもないのである。

 一方で、デルフィは女性性の根拠となってきたセックスという生物学的差異は、ジェンダーのあとにできたイデオロギーだと主張する。問題なのは、女性性などではなく生産関係の不均衡だと言う。不均衡を訂正することで女性は解放される。もちろん、これはマルクス主義への回帰であり、ジェンダーは資本の運動のなかに回収されてしまう。しかも、 社会主義は永遠に来るべきものでしかなく、そうなるとこの理論は不均衡のなかで優位に立てば良いという、現在の金権万能の弱肉強食社会の追認になるのである。

 著者は、フェミニズム理論は総じて個人の複数性を無視してきたのではないかと問いを投げかける。映画「エイリアン」のあざやかな分析において、筆者は単一の理論に呑まれるだけの作品が駄作であることを指摘している。フェミニズム理論の「過剰適用」は世界を単一の本質に染め上げるだけなのだ。もちろん、だからと言ってマルチチュード複数者という名の本質主義を持ち出すことは解決にはならない。それではどうするか。本書は「読む」と言う行為の自由さに、問いを解決する糸口を見出すのである。

 本書はほぼ同じ枠組で既存のフェミニズム理論を脱臼したジュディス・バトラーへの言及もなく、ややフェミニズム理論の取り上げ方に偏りがあるのが難だが、作品分析という形でのこうした理論批判は、この頃の「現代思想」の閉域への痛烈な批判となりうるであろう。

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文学史にしかけられた起爆剤

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 「私小説」にはお決まりの定義がある。それは「世界にも類を見ない、いかにも日本らしい小説スタイル」というものだ。作者と主人公がほとんど同じという設定の「私小説」では、作中のすべては作者=主人公の心情によってやわらかくくるまれている。日本文化の特徴である「和」をこれほど生かしたものはない。「西洋式」に自我と周囲をはっきりと分けるようなことはしないのだ。明治になって輸入された「近代的自我」は、芭蕉以来の日本文学の「伝統」のなかで独自の発展を遂げた。「私小説」はその輝かしい一成果なのだ。こうした「私小説」につきまとう常套句を切断しようというのが、本書のねらいである。

 「私小説」という言葉はそもそも大正半ばに登場したものであり、日本独自のスタイルという常套句はすでにこの時期に出ている。「私小説」の起源は明治四十年の「蒲団」に置かれるのが常だが、あくまで「私小説」論に合わせて置かれた起源でしかないのであって、起源自体の精察はこれまでなされてはこなかった。明治四十年代の文学は「私小説」論の延長では正確に把握することはできないのではないか。この無理やりな起源設定から「私小説」論のほころびを読みとらなければならない。そこで、著者は〈自己表象テクスト〉という言葉を発明して、明治四十年代の文学を、のちの「私小説」に至る起源という縦軸の拘束から離れて、同時代の文化状況という横軸のなかで考察を行うという戦略を立てたのだ。

 明治三十年代から四十年代にかけて、メディアと読者の相互往還によって、〈自己表象テクスト〉への関心が高まってゆく。読者の青年達はこぞって〈自己表象〉に取りくみはじめるのだ。自己を写すという欲望の異常な高まり。これまでの「私小説」論では「蒲団」が突如、颯爽と登場して、画期的な手法である〈自己表象〉を呈示したようにいわれてきたが、そうではなかったのだ。同時代の文化状況の絡み合いから〈自己表象〉への欲望は発生したのであり、「蒲団」はその潮流に乗ったものだった。

 〈自己表象〉への欲望は広範囲の文化状況から生まれたのであって、それは「自我実現説」をとりいれた明治四十年代の教育の成果でもあったことをこの本は明らかにしている。さらに文学にとどまらず、同時期の絵画においても、青年達の〈自己表象〉への欲望が渦巻いていたことも明らかになった。このように〈自己表象〉という言葉によって、閉塞した「私小説」論の外へ出ることが可能になったわけだ。明治四十年代の青年達は〈自己表象〉を戦略として選択することで言説闘争を行ったが、著者もこの方法に学んでいる。つまり著者は従来の枠組みを離れることで、文学史に言説闘争を招じいれる起爆剤を仕掛けたのだといえよう。

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