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先月(2017年6月)

さかむけさんのレビュー一覧

投稿者:さかむけ

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本おふろだいすき

2003/07/31 08:31

仮説・明日はどっちだ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

うちの息子はかなりの風呂嫌いで、いいかげん困っている。特に夏場は不衛生であるからして、ずっと入れないわけにはいかない。入浴タイムは毎度毎度ガチンコ勝負である。然るに啓蒙の意味からも本書をときどき読んで聞かせるわけである。今更いうまでもなく本書は、「日本傑作絵本シリーズ」の冠に恥じない傑作である。幻想譚の類であろうそのストーリーは想像力に溢れ、「垢落とし場」を限りなくファンタジックな空間に仕立て上げている。湯船の中から次々と動物が現れ、浴室のキャパシティも際限なく拡がり(なんせ鯨まで登場する)…。動物好きな子どもたちの心をくすぐる、たいへんドリーミーな物語である。しかも絵が秀逸である。動物たちのリアルさは特筆もの(おもちゃのあひるがリアルあひるに人知れず変貌していく描写など、芸が細かい)で、本書のヴァーチャルな側面を支えている。
お風呂って楽しい! と、これを読んで子どもたちが入浴好きになってくれればしめたものである。

評者はしかし、本書の魅力とその効用に最上級の賛辞を贈りながらも、時に読み聞かせに集中できない自分に苛立つ。それは本書を読みながら、シャボン玉のように浮かんだある仮説が脳裏を離れないからである。
それは主人公まこちゃん(その愛称からして本名は「まこと」あるいは「マコーレー」と推測されるが)の母親についてである。母親は声のみの登場で、黒子に徹している。(1)まこちゃんに湯加減どう? と訊き、(2)そろそろ出なさい、と促してタオルで包む(同時に動物たちは湯の中に消え、お風呂は元通りになる)、と二度登場するのみである。つまり(1)フィジカル・コンディションの確認(2)タオル投入(→了)と図式化される母親の役割は、ボクシングでいうところの「セコンド」にほかならない。そして評者の唱える仮説とはつまり、「ボクシングの起源はお風呂」説である。たまたま家の風呂で殴り合っていた兄弟が、これじゃ暑苦しいからとパンツだけ履いて、場所をリングに移して続きをやったのがそもそもの始まりに違いない。この仮説の例証は、意外と容易い。

1.試合前に行われる計量は、各家庭において体重計がたいてい脱衣所に設置されていることの名残りであると考察される。2.KOの際にレフェリーが声に出してカウントするのは、子どものころ親に「10数えてから出なさい」ときつく注意されたため習慣づいてしまったからと考察される。3.スパーリングに使用されるグローブは、あかすり用手袋にその原型を認められるものと考察される。4.そしてセコンドの役割たるや、前述のとおりである。
自分でいうのも大いに照れる話であるが、最早これは仮説の域でない。

例えば姫路城や安土城等の名高い史跡を巡るとき、その建築の勇壮さに見惚れるだけでなく、我々にはそこを舞台に繰り広げられた、あまたの戦争の悲劇こそを子どもたちに語り聞かせる義務がある。そして入浴とは、それと同義の儀式なのである。かつては闘いの場でありながら、現代に至っては憩いの場でしかありえないその空間に、あひるのおもちゃを浮かべつつ静かに身体を浸し、我々は平和の有難味を感慨深く語ることを忘れてはならない。我々がそこで気持ちよく唄う唄は、それが「松の木小唄」であれ「六甲おろし」であれ、常に鎮魂歌なのである。

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紙の本そらまめくんとめだかのこ

2003/07/03 00:32

それを凌駕する二つの理由

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

名作『そらまめくんのベッド』は極めて完成度の高い物語であり、それがゆえに続編の登場には正直驚かされた。すなわち『ぐりとぐら』『バムとケロ』シリーズのように登場時から連続性を予感させる要素は全く認められなかったからである。そして本作を読み聞かせ終えるとともに、新たな名作の誕生という事実を知り、我々は二度驚くこととなるのである。

ストーリーはだいたい次のとおり。長雨のあとで、そらまめくんとそのなかまたちのいつもの遊び場に水たまりができる。その水たまりにめだかが迷い込み困っているのを見て、そらまめくんとそのなかまたちは知恵を絞って、ついにはめだかを彼がかつて棲んでいた小川へと無事送り届ける。といったところである。
これを読み聞かせる親の世代において、はたと気付かれる諸兄も少なくないことであろう。偶然闖入してきた異種生命体を、親切にも元の活動の場に帰還する手助けをする−というこの話は、かのスティーブン・スピルバーグの映画『E.T.』に趣を同じくしているのである。
時系列的にはこの歴史的ヒット作に追随する形で発表された本作を、しかし私は二番煎じと評するつもりなど毛頭なく、むしろそれを凌駕するものでさえあると断言できることを、以下の二点により例証する。

第一点は、敢えて臆面なく苦言するのだが、E.T.なんてホントは居ないじゃん、という決定的事実においてである。宇宙に宇宙人がいることさえも実証されていないのに、このリアリティの欠落しまくりは救い難い。説教部屋行きである。たとえ、両者ともフィクションであるという点を差し引いたとしても、このインチキさによる減点は大きく本作のアドバンテージに寄与している。
第二点は、「友情」についてである。『E.T.』においては、E.T.と少年たちとの間に≪友情関係締結→帰国ほう助→別離≫という涙腺刺激を旨としたレールが周到に敷かれるのに対し、本作では、そらまめくんとそのなかまたちのめだかに対するシンパシーが、しかしフレンドシップにまでは結晶しない。というより、それを醸成するに必要な時間を待たず、救出作戦が大成功したといった方が正しい。無論、友情そのものの素晴らしさをいまさら否定するわけもなく、ここで私がいいたいのは、困っている人を助けてあげるのに理由など要らないじゃん、ただそれのみである。とかく昨今は善行にまでつべこべと理由をつけたがる傾向に著しい。≪誰かが困っている→助けてあげよう≫というプリミティブな動機のみに起因する行動の潔さ、清々しさこそを、我々大人はクールに「人として当たり前の行為」と説くべきである。或いは子どもたちはやがて、遅かれ早かれ、愛とはすべからく無償の愛であるという真実を知るに至る。その日のための緩やかなプレ・レッスンと位置づけてもよい。

なお、今評において悉くそらまめくんに軍配を挙げたことにより、しかしながら『E.T.』の評価自体は不変のものと追記しておく。かつて私なぞは二度鑑賞し、二度目の方がたくさん泣いたと記憶している。今もその輝きは一分たりとも失われていないことを力説したい。スピルバーグ監督についてもまた然りである。タイトルを失念したが(同じくアルファベットの略語だったと記憶するが)、ロボット子どもの登場する長尺SFなどもヒットしていた。「『プライベート・ライアン』以前の彼に駄作なし」といい切ってよかろう。

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紙の本かばくん

2003/07/17 23:43

世界を正しく眺めるための学習

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「かばくん」はただの「絵本」ではない。一編の「詩」である。

本作では「かばくん」にスポットを当てて、とある動物園のとある一日がドキュメンタリー・タッチで描かれている。かばくんは11時ころのっそり起き出し、餌を食べ、友人のかめくんと挨拶を交わし、見物客を眺め…。かばくんの生活のスローなリズムが、時の流れを完全に支配したかのようなゆったりとした佇まいこそが、この絵本の最大の魅力であることに議論の余地はなかろう。我々はそれを現代風に、「癒し系」と表現することさえ可能である。

ここで評者は、本作が「動物園の」カバについて語っていることに敢えてこだわりたい。野生のそれとの間に生態的な差異があるかどうかなどという視点で論じたいのではなく、そもそも動物園とは、を命題としたいのである。

子どもたちは、いや我々は、動物園に一体何を見ているのか。「動物」というこの上なく緩やかな括りを掛けられた寄合所帯において、我々は沢山の動物たちが昼寝をしたり、排泄をしたり、餌を巡って争ったり、生殖行為をしたり、そんな彼らのただの「日常」を見物する。動物園にはこんなにいろいろな動物が居て、こんなふうに暮らしているのかと。そして我々はほどなく、彼らのそんな日常が我々のそれとそう遠いものでないことに思い当たる−すなわち、既に我々はそこに「世界」を眺めているのである。動物園は「世界」を正しく眺めるための、ポータル的空間にほかならないのである。

それでは正しく眺めるとはどういうことか。それは≪彼らの日常=我々の日常≫と認識すると同時に、我々もまた世界の一部に過ぎぬことを理解することである。本作では見物されている主人公のかばくんが、逆に子どもたちの恰好の違いなどを見物しているカットを差し挟むことにより、それが婉曲的に教示されている。

表現形態それ自体が「世界」を表すもの−それすなわち「詩」と定義されよう。

以上の愚評を踏まえ、「的外れ」との批判は承知で敢えて追記するのだが、本作の読み聞かせに臨まれる諸氏には、サブテキストとして『カーヴァーズ・ダズン』に代表されるレイモンド・カーヴァーの諸作をぜひ参照していただきたい。「語呂合わせ」等というイージーな理由からでは決してない。動物園とはまさに「ミニマリズム」を象徴するアトラクションであるどころか、彼の短編には「象」「雉子」「犬を捨てる」など動物の名前を冠したものが極めて多数見受けられるのである(ざっと見渡しただけで3件も!)。それがゆえに、故人がいかに生涯を通じて動物園を愛したかが偲ばれるにとどまらず、本作にこそ彼の遺志が継承されているという思いが消えぬからである。

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紙の本そらまめくんのベッド

2003/06/26 00:41

愛される二つの理由

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

実際にそれを手にとって触ってみて、私と息子は笑いあった。「ふわふわじゃん」。

そらまめの莢の内側の感触に感動した次の瞬間、作者がこの絵本を着想したであろうことは想像に難くない。そして無理のない筋立てで(莢の特性がもたらす偶然のドラマを通過することによる)、この希代の題材を、主人公・そらまめくんの心の成長の物語へと昇華させた作者の物語構成力にも大いに感服するところである。
しかしこの絵本の成功を、「着想の勝利」と結んでしまうのはあまりに性急である。私は以下の二点によってこそ、この絵本が普遍的な支持を得るに至ったと信じて疑わない。

第一点は敢えて「そらまめ」を主人公に据えた、という英断である。食卓、あるいはスーパーの野菜売場において主役級の扱いを受けることなど殆どない「豆類」の、そのなかでも(他の登場人物はえだまめ、グリーンピース、さやえんどう、ピーナッツ)最もポピュラーでないポジションからの大抜擢である。スナック菓子市場への参入を果たしたえだまめ及びさやえんどうや、柿の種とのコラボレーション等で安定的な人気を誇るピーナッツらに比べて、どうしてもそらまめの影の薄さは否めない。それでも彼をフロントに立てた背景にあるのは、つまりは「誰でも主人公になれるんだよ」という作者の温和なメッセージにほかならない。
そして第二点は、そらまめくんにそのベッド(莢)をして「ぼくのたからもの」と言わしめる、作者自身の慎ましやかな人生観である。心地よいベッドで眠る、ただそれだけで幸せな気分になれる−「小さくても確実な幸せ」(今や世界的作家・村上春樹氏の名言)は自分の周囲を見回せば比較的容易に見つけられるはず、と示唆してあげること。それは、夢と現実がこんがらがったヴァーチャル・リアリティ世代にこそ有益ではあるまいか。

上記を過度に意識された上で本書の読み聞かせに臨まれれば幸甚であるが、蛇足と知りつつも、併せて評者は(今や国民的歌手・)中島みゆきのヒット曲「そらまめと君のあいだに」を予めチェックしておくことをお薦めする。「そらまめと君と、似たようなもんじゃない。ていうかそっくりじゃん、君の顔」と唄われるこの名曲を聴き込むことで、究極的にはそらまめくんとの同化を達成されたい。いわば「他人のそら似」である。読み聞かせの王道とはすなわち、その主人公になりきって読むというより寧ろ、その主人公の人生を生きることにある。

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