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  3. 国見弥一さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

国見弥一さんのレビュー一覧

投稿者:国見弥一

7 件中 1 件~ 7 件を表示

生命は神秘の産物ではなく、アルゴリズムの極であるからこそ多様で豊かなのだ。その生命現象の奇跡を睡眠から分析してみたい。

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 以下の一文は、眠りに絡む本文の記述へのデネットによる注である:

(略)ある人間は眠るのが大好きだと言う。「この週末は何するつもり?」
「眠るの。あー、なんてすてきなことか!」
他の人間には、こうした態度はほとんど理解不能である。「母なる自然」は、相応の状況においては、どちらの態度も異端視しない。

 本書には、本文だけではなく、注釈にも見逃せない記述が豊富にある。そのどの一文も瞑想を誘う意味深な記述なのだ。
 そもそも植物のほうが進化的にも始原に近い。そこからある時、動物が分化したわけである。動物は、文字通り動くことを選んだのだ。餌を移動することで獲得することを選んだわけである。 
 一方、植物は、大地に根ざすことを選びつづけている。一見すると消極的で他力本願的な生き方に見えるが、しかし、動かざる性(生)の形を取りつづけることは、それはそれで潔い生き方なのだ。
 そして、動物は、そもそも、植物の面を多分に残しているのである。一日の三分の一、つまりは人生の三分の一を睡眠に費やすことは、無駄とか役に立たない(なんの役に立つのか分からない)ということではなく、まさに生命は、必要に迫られない限りは、眠ることをこそ至上の喜びとしている。
 乃至は、眠るために生き活動しているとさえ、言えないこともない。
 しかし、そうはいっても、動物は、動くことの中に、あるいは動くことで初めて快感を得る宿業を得てしまっている。特に人間はそうだろう。多くの哺乳動物も、知的快感を覚えているのかどうかは、小生には判断できないが、遊び戯れることにこの上ない喜びを感じているように見える。
 禁断の木の実を食べたことの意味というのは、パラダイスの中の林檎を食べたことというより、まさに森(パラダイス)に止まり、その中に抱かれて憩い安らぐことから、彷徨い出ること、自ら離れた何かに向かっていくこと、その営為の中に何か快楽の種を求めたということ、そのことにこそ深い意味があるように思われる。
 人間も、性も含めて、せっせと互いに汗して結合状態の形を変えて精神的肉体的に摩擦しあうことの中に喜びを得てしまったのだ。つまり、離れた状態にあるお互いが、原初の雌雄が合体した状態への刹那の回帰の試みをすることが、どんな営為よりも根源的な喜びに繋がる、そういう宿業を背負っているわけである。
 さて、眠ることの快楽を躊躇うことなく享受したい。眠気を我慢して活動するなど、論外だ。目覚めた時に活動すればいいことだ。いずれにしても目覚めるように動物は出来ているのだから。
 ちょっと余談になるが、セミなどで、長い冬眠などから醒めて地上にやっと顔を出したと思ったら、ほんの数日か数週間で死んでしまう。なんて、憐れな生なんだろう、なんて、可哀想に思ったりする向きがある。
 そうだろうか。もしかしたら長い長い地中での生活こそが、安逸の限りを貪る至上の時を享受していたのではないか。地上へ出て、ミンミンと鳴くのも、実は眠眠(みんみん)と鳴いているのではないか。もう一度、地中での惰眠を取り戻したい、けれど、その夢は叶わない、と、眠りの時を恋しがって、地上の生を憂く感じて、鳴いているのではないのか。
 そんな夢想も浮かぶのだ。
 いずれにしても眠りは単なる擬似的な死といった、マイナスの評価をすることだけは、避けたいものである。
 いよいよ春眠暁を覚えずの季節の到来である。大いに眠ることを楽しもう。

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紙の本体は全部知っている

2003/03/14 19:07

『体は全部知っている』雑感

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 さて、吉本ばななに戻ろう。小生は彼女の小説作品を読んでピンと来たことが
なかった。縁のない世界、あるいは住む世界が違うのだろうとも思うしかなかっ
た。分からないのは、女性が自立し、あくまで自分の側を世界を感じ描く中心と
為した場合、その世界を描き感じる基準点が違うための戸惑いなのだろうかと思
ってみた。 
 あるいは、古典などを中心とした読書によって、多くは男性中心の世界観で成
り立っていた仰々しい深刻ぶった世界で育まれた文学観とはまるで発想の根の違
う感覚で描くが故に、分かろうとすること自体が、見当違いの努力に過ぎないの
かもしれないと思ってもみた。
 その点、今回の短篇集は少し自分を安心させてくれた。
 尤も、相変わらず、小生が(勝手に)文学に求めているものとは違う世界があ
る。癒しに満ちたような優しげな世界がある。それはそれでいいけれど、そんな
ものは俺は求めていないよ、と不満タラタラな自分がいる。この自分が置いてき
ぼりを食らっている、という感は依然として否めない。
 ただ、敢えて、彼女の短篇集で示される世界観を理屈っぽく纏めるなら、タイ
トルにあらわされるように「体が全部を知っている」ということになる。
 昔、女性を蔑視する表現に「男は頭で考え、女は子宮で考える」というのがあ
った。男はともかく、女性の中でもこの認識に妙に納得する人がいるから、おい
おい、それでいいのかよと勝手ながら思ったりもする。
 が、この「男は頭で」を男は一般性と抽象性の方向に引き摺られがちであり、
つい政治や権力争いに現(うつつ)を抜かしがちであり、一方、女性は、男性中
心の世界で生きる上で選択の余地が狭かったり(結婚でも男性からの働きかけを
待つ、昔のことだが)、出世という点でも結婚し出産という大仕事などを抱えて、
現実に自分の生きる身の回りの生活を安心と安全の観点から確保したい、するし
かないという事情があったのだ、と理解することは可能かもしれない。
 特に定期的な月よりの使者は、常に地上を歩くことを、地上を人(女)は歩い
ているのだということを思い知らされる(あるいは安堵させられる。そのことで
生命の継承の上で自分が掛け替えのないものと知ることができる、云々)。
 女性は体がシグナルを送ってくる。体調という曖昧な、しかし、生活の基調を
彩る物質的肉体的条件がいかに人間の思考や感覚を左右しているかを常に実感さ
せられるのが(その他、化粧することが女性に齎すリアリティなど)女性なので
はないか。
(男性だって実はそうなのだ。それを性欲の捌け口を、既にあるその手の場所に
求めることで、目先を誤魔化すことが可能になっているだけだろう。)
 抽象性に漂うわけにはいかない。ないしは、。肉と血とが体を支え体の中を流
れている、そんな生々しい実感の伴う抽象性を生きる。
 悲しいから涙を流すのではなく、涙を流すから悲しいのだという言葉がある。
悲しいはずの状況だから泣くのではなく、泣いて初めて自分は実は悲しいのだ、
何か分からないけれど、言葉にならない嘆きの淵に彷徨っているのだと知る。
 人間は、本当は、在る。肉体を伴って在る。行為の途上にある。怒ったり悲し
んだりする。退屈だったり、安楽だったりする。それは実感としてある。その実
感を衒わず包み隠さず認めること、これは実は極めてエゴイスト的だが(そのよ
うに人には受け取られがちなのだし)、勇気の要ることでもある。
 実感から始めること、肉体としての自分を生きること、目にし耳にし肌に感じ
漂う匂いの海を離れないこと。

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南洋通信

2003/03/17 00:50

南洋の地から日本にいる妻子を思う中島敦の熱い思いが伝わる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「中島敦は,昭和16年6月パラオ南洋庁国語編修書記に任ぜられ、日本政府の
皇民化教育の方針に添った日本語教科書編纂のためにこれらの島々をめぐる旅に
出発し」た。
 『南洋通信』は、その際、中島敦が国の妻や息子達に贈った手紙や葉書などの
通信を纏めたものだ。
 本書で少し残念なのは、中島敦はただ、葉書を書いたのではなく、彼自らが
描いた絵で絵葉書に仕立てている。その絵がまるで見られないことだ。文庫本の
限界なのかもしれないが、ちょっとというより、かなり残念であった。
 小生は、たまたま県立神奈川近代文学館で開催されていた『中島敦展』を見て
きて、その中で展示されていた中島敦自筆の絵葉書を見る機会を得ている。
 その葉書には子供たちのために自筆の絵を添えたり、漢字をあまり使わないよ
うにするなどの気遣いが見られる。家族への思いが、熱く感じられる展示物だっ
たのだ。それだけに一つでもいいから、その絵を掲載して欲しかったのである。

 中島敦の南洋庁への赴任は、帝国海軍の膨張主義のもとでの一つの小さな逸話
に過ぎないのだろうが、しかし、一個の人間として作家としての中島敦の熱い思
いが垣間見えるのだ。
 彼は一旦は南洋で喘息が回復することを期待したし、少しは症状の緩和も見ら
れたのだが、やはり望みは断たれ、赴任した昭和十六年(敦三十一歳)の翌昭和
十七年に辞任し、その年に没している。
 その間もない死のことを敦は強く予感しつつ、しかし回復への期待を捨てられ
るはずもなく、南洋の地で家族から離れて暮らしていたのだ。

 本書『南洋通信』での収穫の一つに、「南洋譚」や「環礁−ミクロネシヤ巡島
記抄」という一文を見出したことだ。特に後者は、素晴らしい紀行文だ。独り身
の小生には、南洋通信での中島敦の身内への思いの熱さには、何処か忸怩たる思
いで読んでいることがあった。
 一方、「環礁−ミクロネシヤ巡島記抄」については、ひたすらに中島敦の叙述
の手腕に素直に従っていけばいい。まるで南洋の海の波間に身を任せ漂うように。
 中には南洋の混血美人との危うい、何処か幻想的な場面もあったりして(その
部分は読者自らが探し出して欲しい)。
 せっかくなので、その中から若干を(必ずしも一番印象的な文章というより、
哲学趣味のある小生だから尚更感じた部分を)抜書きしてみたい:

 汽船(ふね)は此の島を夜半に発つ。それ迄汐を待つのである。
 私は甲板に出て欄干(てすり)に凭った。島の方角を見ると、闇の中に、
ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。
帆柱や策綱(つな)の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えて
いた。ふと、古代希臘(ギリシャ)の或る神秘家の言った「天体の妙なる
諧音」のことが頭に浮かんだ。賢い其の古代人は斯う説いたのである。我
々を取巻く天体の無数の星共は常に巨大な音響——それも、調和的な宇宙
の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音——を立てて回転しつつあ
るのだが、地上の我々は太処よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験
できないので、竟(つい)に其の妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいる
のだ、と。先刻(さっき)夕方の浜辺で島民共の死絶えた後の此の島を思
い描いたように、今、私は、人類の絶えて了ったあとの・誰も見る者も無
い・暗い天体の整然たる運転を——ピタゴラスの云う・巨大な音響を発し
つつ回転する無数の球体共の様子を想像して見た。
 何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来る
ようであった。
    (p.156-7、一部、漢字がパソコンの都合で正しく表記できない)

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南の空での死闘。数多くの戦友の死。それでいて南の海はあまりに美しい。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 筆者である本間猛氏は、第九期乙種飛行予科練習生の一人だった。その卒
業生191名中、戦死者167名、戦死率は87%に達する。大半はソロモ
ンの海空戦に散っている。
 また、生存者のうち20数名は戦傷病者となったために生存したのであっ
て、筆者のように第一線で戦いつつも五体満足で生還したのは数名に過ぎな
いのである。
 彼は飛行艇を専修し、六分儀を使った航法測定などを受け持っている。戦
地で敵情を飛行艇などから探ったのである。幾度も戦火を掻い潜り、あるい
は敵機の攻撃に見舞われ、さらには飛行機の不調で洋上に、時には整備もさ
れていない滑走路に不時着した経験など、死と隣り合わせで戦ってきたので
ある。
 そういう意味で、本書は、タイトル通りの戦記物の本と云っていい。
 しかし、小生は筆者の記憶の確かさと文筆の達者さに驚いた。単なる戦記
物に止まる本ではないのだ。実に文章が活きている。
 さて、繰り返しになるが、筆者の記憶力は素晴らしい。同時に、「まえが
き」にもあるように、昭和16、7年当時は日記をつけていたこともあり、
本書の記述はまさに戦地の厳しさと戦友同士の友情と時には馬鹿騒ぎをする
軍人達の日々がきめ細かく活写されているのだ。
 今が戦争中とは思えないような太平洋上の空の、あるいは島々での麗らか
な日々、しかし、一寸先に待つ地獄。爆撃や機銃掃射を受けても、死ぬ人間
がいると思えば、ちょっとしたはずみで逃げ込んだ先が爆弾の投下地点から
外れて助かったり。
 本書には圧巻と云える記述が随所にある。「六分儀を使った航法測定など
を受け持っている」と先述したが、日本本土(房総)から数千キロも推測航
法(!)で目的地(サイパン)へ飛行艇を導くなど、素人の小生は呆気に取
られるばかりだ。
 あるいは島の食糧倉庫などでの分隊同士でのハエやネズミ捕り競争などは、
目的は食糧の損失を守るためであり、疫病を防ぐためなど切実なのだが、し
かし、その競争の真剣味が滑稽でもあり、感心したりと実に面白い。
 これは読んでもらうしか、面白さは分からないだろう。
 戦闘場面の記述は云うに及ばない。
 美しいのは、飛行機が雲の上を海の上を飛ぶ眺めを描く部分である。
 なんといっても悲惨なのは、戦局がいよいよ敗色濃厚と成る辺りからだろ
う。筆者は幾度も訓練を受けたばかりの若者が二度と帰ることのない特攻へ
と飛び立つ機会に遭遇している。天皇陛下万歳だったり、靖国で会おうが合
言葉だったりして、若者たちが次々と「散華」していくのだ。
 小生には、しかし、この「散華」だけには、最後まで馴染めなかった。死
を美化しているように感じられてならないのだ。なるほどお国のために死地
に赴いたのだから、その魂を癒したいと思う気持は熱いものがあるのだろう。
 けれど、それでは実際には戦略もなければ戦術もない戦いで死ぬという日
本軍の愚挙(筆者自身、幾度も軍部の戦略のなさを嘆いている)をも美化し
てしまうことになるのではないか。
 日本の国のために尊い命を投げ出していった若者たち。その命と残された
家族らのことを思うと、犠牲になられた方々の冥福は、「散華」とか「玉砕」
(これなど、日本軍当局の無策ぶりの典型ではないのか)といった表現を採
るのでは、むしろ魂が安らがないのではないかと思えてならないのだ。

 最後に余談だが、筆者の紹介があまりにも不親切なのではないか。安易に
過ぎるのではないか。せっかくの素晴らしい本なのに。
 いずれにしても、本書の御一読を勧めるものである。

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紙の本脳が語る科学

2003/03/17 16:09

普通は嫌がる人間の死体。その解剖に携わってきた人間ならではの、虚飾を剥ぎ取った、身も蓋もない、だからこそユニーク極まる発想の詰まった対談集!

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 養老孟司氏の著書や対談の面白さは、つとに知られているところだろう。
 実際、この対談集でも対談の相手は、中沢新一、佐藤文隆(小生の愛読書を何点も提供してくれている)、多田富雄(『免疫の意味論』など、啓発される著作を出されている免疫学者だ)、中川志郎(動物園の園長だった人)、山口昌男(人類学者、昔は少しは読んだものだ)etc.と多彩だ。
 いずれの対談も面白い。
 が、小生が特に推称したいのは、『千と千尋の神隠し』などのヒット映画作品を連発している宮崎駿氏との対談だ。但し、本書に収録されている対談は98年2月に公表されたもので、『もののけ姫』がヒットしたことを契機に行われたもの。
 でも、宮崎駿氏の発想法が伺えて、面白かった。
 対談の末尾は、以下のようになっている。

宮崎:本当にその通りですね。先はどうなるかわからない。それこそが生きているってことですね。まあ、人生をそうたいしたことは起こらないって決めて生きれば、ずいぶん気がラクですよ。それでも生きるに値することってあるんです。ワクワクすることも出てくる。そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。これまでだって、先なんか見えてた試しないじゃない。
━━ なんだか希望が湧いてくるような、捨て鉢なような、面白い結論になってきましたね。(笑)
養老:どうしてどうして、「お先真っ暗」でいいじゃないですか。だからこの世は面白いんですよ。

 何故にこんな結論に至ったのかは、本文に当たって欲しい。
 そうなんだね。昔も今も、お先が真っ暗だったのは、変わらないんだろう。ただ、現代は、妙に安全と安心を求めすぎるから、先が見えないって憤懣を社会や国に対してぶつけたくなるわけだ。でも、本当は先が見えないから、いつ死ぬとも、いつどんないいことが(あるいは悪いことが)あるかどうか分からないから、生きていられるんだろう。
 それにしても養老孟司氏とか三木成夫とか、解剖学者の本や発想って、どうしてこんなに面白いんだろう。
 関係ないけど、本書の中にも引用されていたヒポクラテスの本(岩波文庫)を何十年ぶりかで繙いてみようっと。
 余談ついでに、世のお医者さんたちも、ヒポクラテスの誓いをもう一度、想い起こして欲しいなと思ったりした。

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紙の本AV女優 2 おんなのこ

2003/03/14 19:14

『AV女優2』を読んで

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 永沢光雄氏著『AV女優』の第二段である。
 AV女優たちへの永沢氏の話の聞き方は、多分、上手いのだろう。あるいは話を聞き出すコツを心得ているのか。時には結構、えげつない内容になりがちなのに(実際、抑え気味なんだろうけど)本書全体を通じて、女優達に対する愛情を永沢氏に感じる。

 彼自身は、若い頃は(多分、今も)女の子にはもてなかったし、派手な女性関係に発展することもなかったという。案外と男として地味なほうなのかもしれない。そう、彼自身は彼女達の凄すぎる人生や人生観に圧倒され、心のうちでは嘆いているのである。こんな人生があっていいのか。こんな可愛い子が、こんな風でいいのだろうかと、オロオロしているのである。半分、親か兄の気分なのだ。
 そんなインタヴューアーの姿勢が感じられるから、好感を持って読める、ということも大きい。

 感じるのは、『2』になって幾分、家庭事情というか社会的背景において荒んだものを感じた。社会がその刃を剥き出しで彼女達(男の子だって時には同じ)に突き立てられているように感じたのだ。彼女等を守るクッション的な装置が社会になくなったのかもしれない。経済的な苦境は人間に余裕を失わせる。笑いもコミュニケーションの余裕もない。癒しの余地がないのだ。
 それでいて、カネを稼ごうと思ったら、世間体や常識的価値観に囚われない限り、若い女の子には呆れるほどに稼ぐ場がある。男の子は、愚連て落ちても、カネが自由になる女達が買うケースは少ない。が、女の子は、落ちるとなったら、止めどがないのだ。これが最低という次元がない。女の子を消費しようという装置や機会が無数に口を開けて待っている。

 さて、小生は勝手に彼女達を堕ちていると見なすかのような表現を無意識に取っている。が、価値観が揺らいでいる今日において、彼女達がAVビデオに出ること、裸の写真を売ること、一部の女性とはいえ、体を売ることは、悪なのか? 大人が買うのは、あるいはカネを出さなくても女の子を抱くのは悪いことなのか? では、同年代同氏だったら、どんなに若い子同士でも構わないのか? 小学生同士でも?
 そのどれかが悪いとして、その根拠は。きちんと子供達に説明できる?ソープや風俗で働くことは、職業に貴賎はないといいつつ、社会通念的には低く(悪く)見られている。風俗でオシッコや時にはウ○コを処理するのは悪
いこと。介護だと為すべき必要不可欠のこと。家庭や恋人同士の愛では処理し切れない性欲を処理するのは風俗の役目。性欲は人間が生きていく上で必要不可欠(絶対にではないにしても)。だけど、風俗に足を運ぶのは、表向きは何処か後ろめたくて、できれば公にはその話題には触れないがいい…。

 それでいて、今、現代は、欲望を抑える社会通念が揺らいでいる。パンドラの箱の蓋が開いてしまって、そのグズグズになった何が正しいのか、何を守るべきなのか分からない中で、頼るべき寄る辺もなく、海図も無しに若い人たちは荒波を渡っていく。結構、楽しげに、それとも牙を剥く欲望の際限の無さに圧倒されつつ。
 欲望を抑える装置が無くなったら、若くて欲望の滾る若い子(若い子に限る必要はないだろうが)は、どこまでも、ぶっ飛んでいくのだろう。糸の切れた凧のように。風に吹かれて地上(つまり旧弊ではあっても建前であっても道徳や倫理の寄る辺があった次元)を離れて、空をフワフワと舞って、それでやっぱり自由なのだろうか。

 風に舞う。外見からすると自由で彼らは気侭なように見える。けれど、風だって気侭なのだ。何処へ彼らを運ぼうと風だって分からない。大人が己を自制する術(すべ)を失って苦労するのは、やはり子供達なのだ。
 それでも、子供達は、案外、自由に泳いでいる…のだろうか。

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紙の本ヴァイブレータ

2003/03/14 19:00

赤坂真理著『ヴァイブレータ』あれこれ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小生にとっては赤坂真理女史の小説を読むのは本書で二作目となる。前作は、『ヴァニーユ』だった。
 『ヴァイブレータ』は、「主人公を悩ます、コントロール下にない内なる声からはじまる」それは、主人公の女性のうちにあってヴァイブレータするもの、勝手に振動するものなのだ。
 ヴァイブレーターというのは、性的遊戯の道具だが、止めようと思えば、スイッチをオフにすれば止められる(尤も、それは自分で自慰などのために使っている場合の話で、男性ないし相方が主導権を握っている場合、蜿蜒と使われ続け、しまいにはもっとエスカレートするらしいのだが、どこまで上昇気流に乗るのかは定かではい)。
 が、主人公であるライターの中で振動しつづけるヴァイブレータは、勝手に蠢き回り、彼女を苦しめ続ける…、それは赤坂女史なりの時代を象徴させよう、そして小説を印象付けようとする工夫なのだろう。
 さて、肝心の中身だが、小生は失望した。主人公の女性は、ライターであり、女性として知識人の端くれなのだ。その女性が、コンビニで知り合った男のトラックに乗り込み、長いドライブの道連れとなるのだ。けれど、一種のロードノベル…というものでもない。
 主人公は普段の仕事中心の生活では出会うことのないタイプの人間に出会い、目くるめくセックスを堪能し、ヤクザ崩れでもある男(そのように男は匂わす)を通じて彼女には異質な世界との遭遇に心ときめくのである。
 潤いを忘れ時間に追われる日々の中で、次第に自分を支配するかのように蠢くヴァイブレータに酒と過食と嘔吐とで辛うじて生き凌ぐしかなくなってしまった自分を、その男との出会いを通じて自分を開放していくという話なのである。
 やりたいことをやる、それが世間に犯罪と呼ばれることであっても、暴力や薬物の使用を含めてやるという男に、自然と本能の滾りの匂いを嗅ぐ。
 なんだか、トラックドライバーというのは、みんなそんなヤンキー上がりの人間ばかりだという世間的偏見、知識なり教養とは無縁の人間達に過ぎないという差別感が根底に、それこそ無意識の形で彼女(願わくは、小説の中に描かれる主人公だけであって欲しいのだが)の心を占有しているように思えてならない。
 だからこそ、会ったばかりの見知らぬ男であっても平気で普段は決してしないようなアバンチュールめいた行為を心置きなくやってのけられるのではないか、そんな懸念を抱いてしまう。
 冒頭に示したサイトでも書かれているように、「言葉と身体のズレという、この作家の追う主題は、充分に魅力的だし、それを描く切迫感や皮膚感覚のすばらしさは、なかなか他に見あたらない資質」という点は同感である。
 そして、「優しい男、理解してくれる男、という一見便利そうな項目に逃げない物語作りが出来るようになれば、大きな期待が持てる作家だろう」という指摘にも賛同する。
 設定の特異さを創意する点と、赤坂氏の独特の資質は可能性を感じさせる。が、あくまで可能性である。
 文庫版には作家の高橋源一郎氏の手になる解説がある。彼は明治以降の百年の文学は、「男の言葉」によって表現された時代感覚に満ちていた。樋口一葉を除いては。彼女がもっと長生きすれば、他の可能性が切り拓かれたかもしれない。今こそ、「女の言葉」で文学が書かれるべきある。過去の「百年の孤独」が今こそ、赤坂真理氏によって打破されたと述べている。
 そりゃ、言いすぎだろう。打破されるかもしれないというのなら、小さく手を上げてもいいけれど。
 本書が発表されたのは99年の1月。ということはその前年には書かれたということか。その頃から4年ないし5年を経過している。可能性を現実性に彼女は既に変えているのだろうか。

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