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先月(2017年1月)

楊耽さんのレビュー一覧

投稿者:楊耽

29 件中 1 件~ 15 件を表示

運命を受け入れると言うこと

24人中、23人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2010年上半期第143回直木賞候補となった「リアル・シンデレラ」以来、三年ぶりの長編小説です。

昭和三十年代。滋賀県の南部に生まれ育った柏木イクが主人公です。
彼女の半生を、日本で放映されたアメリカの連続テレビドラマのタイトルで八つに章立てした連作形式の小説です。
各章のタイトルのドラマが日本で放映された時代を描写しています。
最初の「ララミー牧場」は、一九六〇年からの放映。小説はイク五歳からのスタートです。
最後の「ブラザーズ&シスターズ」は、二〇〇六年からの放映。小説はイクが五十歳になる年で終わります。

長いシベリア抑留で精神を煩った父親は、しばしば癇癪を起こしてイクや母親に当たります。
母親は、家庭運営や子育てをあきらめ、イクに嫌みを言いながら、ただ働きに出て、生きているだけの人です。

人間相手が出来ないイクの父親は、しかしながら不思議と犬の扱いが上手です。
成長するイクのかたわらには、父親の影響で、いつも犬がいました。
その時々に近くにいた犬を伴奏にして物語が進みます。


なぜ、こんな地味な小説に僕は熱中したのか。
これを考えるのが、この小説の味わいだと思います。

一つ思い当たるのは、
自分の置かれた環境を認識し、運命を受け入れる事の大切さです。

若い頃には、自分の育った環境を否定し、挑戦することも構わないと思うのですが、
一生をそのように過ごす人は、ごく少数の天才を除いて、破滅へ進む事になると思うのです。

もう一つは、たとえ歴史に名を残さずとも、
凡庸な自分を受け入れることが出来れば、
新たな幸せが見えてくる
と言うことです。

幸せとは縁遠い生活をしているイクですが、
犬の散歩で知り合った、軽くちゃらちゃら生きているように見えた近所の青年が、
それなりに家庭の事情があり、思うように生きられない中、軽薄だが楽しく生きているように振る舞っていることに気付き、
また、必死に見栄を張って家庭内の問題を取り繕っているように見える大家が、
実は、イクの不幸を理解し、温かく見守ってくれている事に気がつきます。

もしかしたら、一生気付かずにいたかも知れない周囲の人の心遣いに気付く人になっています。

阿刀田高がその著「旧約聖書を知っていますか」(1994/12新潮文庫)で、
「人の上に立つものは、正直者が馬鹿を見ないように気を使わなければならない。しかし、正直者本人は、自分が正直であることに満足するものなので、正直であることが報われなくても取り立てて文句を言わないものだ。」
と言うアレゴリーを用いて、キリスト教の信者は自分の信仰心に満足するため(信仰を持たない人と異なり)聖書のリアリティーの是非や、矛盾を気にしない傾向があることを説明していた事です。

本書「昭和の犬」は、このアレゴリーそのままの小説ではないか。
阿刀田高はアレゴリーを自分の意志を内に秘めた例に用いていますが、
本書の柏木イクは、与えられた環境に対して、不満を述べない形で内に秘めて、人生に於ける平穏に到達しています。

そのように考えると、この小説は
「声に出さない人の気持ちを文章にする」という意味で、文学の王道をゆく小説であると思い至りました。
さらには、平凡な人生を生きる多くの人に、自信を与え、生きる救いになるのではないかと思いました。

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ハルカのように生きることが出来たなら

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ハルカのように人生を送ることができたなら。」と、うらやましく思えた一冊でした。
冒頭の第一章「ハルカ80(エイティ)」で著者自身がモデルと思われる小説家の紹介で上京した現代のハルカが瑞々しく描かれた後、第二章「少女」で舞台は大正時代にもどり、ラストの第十二章「恋人」は一九七六年。ハルカの成長と彼女が築いた家庭、彼女の人生が描かれています。
「ハルカのように人生を送ることが出来たなら。」は、ようやく全編を読み終えての僕の感想です。
僕が、男でありながら、何故彼女をうらやましく思ったか、を考えると、この小説が持つ、特殊な価値が見えてくるような気がします。
本書は、著者が初めて挑戦したモデル小説。でも、そのモデルは、歴史に名を残したり、マスコミを賑わしたような有名人ではなくて、ごく普通の庶民。
信念を持って、目標に邁進したわけでも無く、逆に親の勧めるままに結婚し、時代に翻弄され、ある意味では流された人生と言えなくもないハルカの人生です。
選択肢が多いと言われる現代にあって、なかなか思い通りの職に就けない昨今の世の中。
「こんなはずでは無かった。」と嘆く事も多い、僕の現在。
何か、ハルカの境遇に近いところがあるようにも思えます。
では、何故、ハルカの物語はハッピーエンドを迎え、僕は嘆いているのか。
この本を読み終えた今、僕には答えが見つかったような気がします。
ハルカのように人生を送ることが出来たら、それは幸せと言えるだろうと思う。そして、僕はハルカのようには生きられないだろうと思う。でも、僕は僕なりの人生を送ることで、自分の人生を幸せだった。と言うことが出来るはずだ。と、今は確信を持って言えます。
本書の副題は「So happy life in case of HARUKA」だけれど、この小説を読み終えた僕は、自分自身で「So happy life in casse of me」が描けるような気がしてきました。

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進化って、おもしろいですねぇ

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「利己的な遺伝子」初版刊行から三十年経ちました。今回は趣向を変えて、単純に生物進化の解説です。
ヒトから順に枝分かれした別種の生物との共通の祖先を年代逆順に辿っていきます。
上巻では、最初の合流地点(ランデヴー)1「チンパンジー」の前に、ランデヴー0として、人類の共通祖先を考察しているサービス章があり、第十七合流地点の両生類との共通祖先までを辿ります。

この一冊で特に僕が面白いと感じた五箇所を挙げます。
一つめは、人類の共通祖先を考察したランデヴー0。「ミトコンドリア・イヴ」と言う女性だけをたどっていったところで見つかる共通祖先の存在は広く人口に膾炙されるものですが、「女性だけ」に限らなければ、他にも沢山の共通の祖先(それも、アフリカ以外のところで!)がいることを指摘している点です。言われてみれば、なるほど、その通りですが、言われるまで気が付きませんでした。

二つめは、近年の古生物学の発展の成果から、音声より直立二足歩行が先にあったことを考察して、もしや、チンパンジーとの共通祖先も二足歩行をしていた可能性に言及している点です。この本出版後に提唱された人類骨食説もこれを支持しているように感じられます。骨を食べるときの姿(この本で言及されている直立二足歩行の前適応としての「座る」と言う姿勢)、骨を食べるための行為(手を使って骨を砕くなど)が、ことごとく一致しますよね。手を怪我したチンパンジーはその後の人生を二足歩行で過ごすそうですし、本当に僕たちとチンパンジーの(約六百万年前に生きていた)共通祖先が、もしかしたら二足歩行していた(少なくとも座って、両手で餌を持ち、食べていた)と考えると楽しくなりました。

三つめは、ローラシア獣と合流するランデヴー11。そのなかの鯨偶蹄目の類縁関係です。鯨偶蹄目は、ラクダ、ブタ、ウシ、シカ、カバ、クジラなどを含みますが、カバに最も近縁なのが、同じ四つ足を持つ他の動物ではなく、クジラだと言うことに驚きました。言い換えれば、カバとクジラの仲間は、他のどのローラシア獣より(もちろん、他のどの生物よりも)類縁関係が違いと言うことです。また、この事を著者自身も驚きを以て情熱的に語っていることが面白かったです。
僕たち(霊長類+齧歯類)とローラシア獣類の共通の祖先は、約八千五百万年前に生きていたそうですが、それから約三千百万年間は、まだカバとクジラの祖先は同じで、ようやく五千四百万年前に別の進化の道を歩み始めたと言うことです。これだけの時間があれば、四つ足動物が、魚のように海だけで生活していけるだけの進化をするのですね。また、この四つ足を完全に水中適応するまでの早さについてのドーキンスの理解のしかたを紹介した記述も僕の納得を促してうれしかったです。

四つ目は、アホロートル(両生網トラフサンショウウオの幼形成熟個体(ネオテニー))です。胚発生は、近年に生物学が解明した大きな成果の一つですが、変態についての考察も、進化を解き明かす上で重要な示唆を含むという指摘に開眼した思いです。

五つ目は、ランデヴー17両生類で紹介されるカリフォルニア州セントラル・ヴァレーに住む数種のサンショウウオを紹介した例です。谷の南端に住む二種は全く交雑する事のない別種の二種なのに、それぞれ北端に向かってゆくと、少しずつ色や形が違う交雑可能な種が住んでいて、ついには、谷の北端で繋がる。(それでは、一体「種の違い」はどこで区切れば良いのだ?)これは、僕が種分化を理解する上で、とてもよい手助けでした。実は、明確な種の区別は、全く交雑不可能となるまでの違いが出る、その中間の種が絶滅しない限り不可能だ、と言うことです。
ドーキンスが今までの著書でも、「人権」が今のように定義出来るのは、チンパンジーと人類の中間の種が全て絶滅しているからで、例えば、旧人や猿人、又は、頻度は少ないが交雑が不可能では無い長年交雑することの無かった新人(もしかしたらイエティや雪男)が生きていたら、別の定義や権利の与え方が必要であろう、と言うことを補強しています。もっともイエティは最近ヒグマを指した勘違いであると結論されたそうです。

その他に、ランデヴー10「齧歯類とウサギ類」が、他の哺乳類よりも、僕たち霊長類に近いことや、ランデヴー15「単孔類」で紹介されるカモノハシがクチバシの感覚器官で電気信号を通して(あたかも人間が目を通して)「見る」能力を、独自に進化させた事や、ランデヴー16「蜥形類」でティラノサウルスが、イグアノドンやトリケラトプスよりも鳥類と近縁である事、ダチョウが、他の鳥類とは早くに別れたほとんど独立の鳥類である一方、ドードーなど絶滅した大型走鳥類が鳩の仲間と言うのも驚きで、面白い話題満載の一冊でした。

なんだか、上巻だけで、「おぉ、役に立った。十分。おなかいっぱい」と言いたくなりますが、下巻は、魚類との共通祖先、さらには、昆虫類などと合流する以前の脊椎動物に近縁な他の動物、さらに辿って、菌類や植物、最終的には全生物の共通祖先へまでたどり着きますので、引き続き楽しみに読み進みます。

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紙の本アッコちゃんの時代

2008/12/08 23:11

ワイドショーの向こう側

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

バブル景気(1986/11~1991/2)の時期に、地上げ王、音楽プロデューサーの愛人として生きた女性の物語です。
バブル景気を内側から描写した小説としては、同じ著者の「ロストワールド」(角川文庫2002/6/25)に続いての第二弾という事になりますが、「ロストワールド」が主に華やかなバブル期を知った女性のその後の歩みを描いているのに対し、本作「アッコちゃんの時代」は、ずばり、
「いかにして、六本木デビューをしたか。」
「いかにして、地上げ王の愛人になったか。」
「いかにして、音楽プロデューサーと知り合ったか。」
など、具体的に彼女の華やかな道のりを語ります。

主人公「アッコちゃん」には、モデルとなった女性がいるそうですが、僕はこの小説をフィクションとして読みました。ワイドショーの話題になるような人の典型例を、実在の人物に代表させて描いたフィクションとして読みました。
そして、アッコちゃんと友達になったような親しさで、彼女の人となりに触れられたような気分が味わえ、大変愉快に読みました。

妻子がいる大金持ちの愛人になる人は「魔性の女」と言われます。彼女は、テレビのワイドショーや僕が通勤電車の車内吊り広告で見かける女性週刊誌で「悪役」として取材記事が載ります。
これらの取材記事には、ときより、心理学者の分析や、関係者の証言が付け加えられますが、それらは番組や雑誌の取材方針に沿って、彼女らを特殊な人間として、解説を加えているだけのように感じられます。魔性の女と言われるからには、魅力的な人物なのだろうと僕は思うのですが、テレビや雑誌は、そんな彼女の魅力を語ってくれません。「本当はどんな人なのだろう。」僕の好奇心を満足させません。
テレビや雑誌のお客様は、視聴者、読者であり、これらは「お客様の望む事を見せる」のがお客様サービス(CS)だ、と僕は理解しています。だから、僕のように、具体的に「彼女の人柄を知りたい。」と欲する人の欲求を満足させてくれないのでしょう。また、実在の人物を取材し、事実を報道することを建前としているこれらの記事には、プライバシーの問題もあり、限界があるように感じられます。
この点において、本作「アッコちゃんの時代」は、小説の特性を最大限に生かし、その可能性を広げた側面があるように思います。

エンディングでは、アッコちゃん自身の感慨として結論的なものが語られます。ここまで読んで僕が思ったのは、
まずは、「僕も彼女のように楽しく生きたい。」でした。
テレビの前に座って、テレビに文句を言いながら生きるのでは無く、自分が楽しい事をして生きたいです。
次に、僕みたいな平凡なサラリーマンでも「林真理子に、主人公として描いてもらったらどんなだろう?」でした。
人は、人に理解されることを「よろこび」として感じるそうですが、僕は、この小説に描かれているアッコちゃんは林真理子に理解され、この小説を読んだ読者にも理解され、幸せな人だと思いました。

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僕のやる気に火を付けました

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

東京都立程久保高校に通う二年生の川島みなみが、夏休み直前の七月に突如野球部のマネージャーになり、全国大会出場を決意。
ドラッカーの著書「マネジメント」を読んで、野球部のマネージメントに取り組む、青春小説です。

経営学の聖典とも言える「マネジメント」のエッセンシャル版を具体的な事例にして解説した側面もあるのですが、僕は青春小説として読んで、面白かったです。
「現実味」や「不自然さ」で、吟味すれば、つっこみ処満載なような気もしますが、
小説なのですから、良いではないか。
そんな細かいところにこだわらずに、小説を楽しめば良いでは無いか。
と、読んで、大変満足したわけです。

この物語は、みなみが野球に対して、何かわだかまりを持っていることが序盤で示唆され、読者はそれが何かを読み解いていく形で構成されています。
その彼女のわだかまりは、子どもが大人へと精神的に成長していく感覚なのだと僕は思いました。
例えば、初めての恋愛を経験すると、それまで疑問に感じることもなかった親とのつながりが、それほど大切に思えなくなったり、
「早く就職して、一人暮らしをしたいな。」
と思う事が、思春期を過ぎて、高校生ぐらいになったときに、誰でも感じる、独り立ちへの第一歩だと思いますが、
本書では、みなみが親に対して疎外感を持ち、与えられた家族では無く、自分で勝ち取った友人との関係を大切に思うようになる過程が、瑞々しく感じられました。

また、地区予選に臨んで、勝ち進んでいくクライマックスでの野球部の活躍も、ドラマティックでした。


本書の特色である、野球部の女子マネージャーが経営学を実践する、具体的なマネジメント手法の解説という側面については、
そのスピリットがわかりやすく理解できたと思います。

もちろん「俺の部にもみなみのようなマネージャーがいればな。」と他力本願に思う部分もありますが、
そうではなくて、
部員の一人でも、
会社でならば、イチ担当(平社員)でも、
自分の出来る範囲で、世界を変える事が出来る「マネジメント」があるのだ。
と教えられたような気がします。

この点で、特に印象に残り、僕も実践してみようと思ったのは、
第三章「みなみはマーケティングに取り組んだ」のマーケティング
と、
第四章「みなみは専門家の通訳になろうとした」の通訳
です。
会社勤めで「マーケティング」をしよう、と言うことになれば、顧客の話を聞くことしか思い浮かびませんでしたが、
本書でみなみが部員の話を聞いたように、
会社勤めで、新商品開発のスケジュール管理をしている僕にとっては、エレキやメカの開発をしている人たちの話を聞くことが、マーケティングではないか。と気付いたことが大きな収穫でしたし、
それぞれの専門家として評価され出世した管理職のみなさんが、マネジメントに熱心でなく、技術的な話に熱心な事を、当然の事と理解して、それならば、誰かがそれを通訳する役割を引き受けてマネジメントが出来るようにすれば良いのだ。と気付いたことは、僕自身のやる気になりました。

江戸時代の町人のように、「お上がすることは、なっちゃいねぇ。」と不満を口にしているだけではなく、
自分にも出来ることがあるのだ。
と思う事が出来るようになった、と言うわけです。

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リアル・シンデレラ

2010/05/28 01:45

リアル・シンデレラは、自由を得て

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

童話「シンデレラ」について調べていた編集プロダクションのライターが、「シンデレラは幸せになったのか」と疑問を持つことに端を発するリアリズム小説です。
この疑問に意気投合したプロダクションの社長から、知り合いの女性「倉島泉」を紹介され、取材を始めます。
「幸せになったシンデレラ」とは、本当はこのような人の事を言うのではないか。
物語は、倉島泉の半生を描いています。

僕は、まず、次のような中年の無駄話を聞いて、疑問を持つ人に、この本を薦めたいと思いました。
例えば職場の昼休み、節電のために照明が落とされた事務所で、食後のおじさん二人が世間話をしていたと思ってください。
「今の若者は、車に興味が無いんだってさ。」
「俺たちの時には、学生時代にアルバイトをして、食費を削っても車を手に入れたもんだよな。」
「俺は、割りのいいバイトにありつけなかったから、就職して頭金を貯めて、ローンで4WDのクーペを買ったよ。」
「今は不景気だから、若者は車を買う夢が見られないのかね。」
「そうだな。俺たちは、なんだかんだ言っても、バブル景気を経験しているからな。」
「今の若者はそう言う意味ではかわいそうだよな。」
昼休みに聞こえてきそうな例を考えました。

車に興味のない若者は、かわいそうか。
景気さえ良ければ、今の若者でも車に興味を持つのか。
あえて、「それは違うよ。」と言うほどの事でも無いと思いますが、
このように、自分と価値観が違う人たちに対して、思いこみで哀れみを持つ人に違和感を覚える人がいれば、僕は、彼らにこの「リアル・シンデレラ」を読んでもらいたいと思いました。


僕は、この小説を読み終えた直後に「倉島泉は幸せだったのか。」「幸せになったシンデレラと言って良いのか。」と考えました。
僕が今まで漠然と考えていた幸せ=生活に困らない収入があり、結婚をして、子どもを設け、とりたてて裕福でなくても良いから、子どもが健康に育っている状態など=を基準にすると、倉島泉が幸せを得たとは考えられません。
倉島泉が幸せだったとすれば、彼女の幸せは、僕が今まで考えていたタイプの幸せとは、異なるタイプの幸せであるはずです。
それは、どのような幸せなのか。
それを考えました。

そして、それを考えている時に、上記のような例を想い浮かんだのでした。

若者が車に興味が無い理由は単純には、経済的余裕が無いからかもしれません。
または、別のもの(例えばケータイやPC)に興味があるかもしれません。
理由はどうあれ、それを以ておじさんたちに「かわいそう」と思われるのは違うと思います。
何故、違うのか。
それを考えるのは、倉島泉が幸せな一生を送ったことを即答できないのと同じように思いました。


今日で、読み終えてから五日ほど経ちました。
読み終えてから今日まで、「倉島泉の幸せとは何か?」とぐるぐる考えながら(日中はお仕事して、家に帰れば風呂に入って、飯食って、TV観て、歯を磨いて、寝ていたのですが、)過ごしていました。

そして、本日、ふと思い浮かんだので、ここに本の感想として、思い浮かんだ答えを書きます。


おそらく、それはイマヌエル・カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感なのではないでしょうか。
お金で買える幸福感は、欲望を満たすものであり、満たされた欲望は、自分の自由意志で得たものでは無く、逆に欲望の奴隷として行動した結果です。
自分の家族を得て、子どもが順調に育つのを見守ることからも幸福感が得られますが、その幸福感は、どんな生物にも共通の本能的な欲望に従っているものだと思います。

一方、倉島泉が得た幸せは、自分で願った行動規範に従った結果(物語では貂に願った三つの願いから)得られる幸福感であり、これは、つまり、カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感だと思います。
それは、人間だけが持つ理性による幸福感であり、
好景気の折りに、金で買ったものから得られる幸福や、
不景気でも家族と一緒にいられる幸福とは別の次元のものです。


現在の日本は、残念ながら不景気です。
そして、周囲の国では、戦争が起こりそうな不安があります。

でも、それらとは全く無関係に、僕たちは、幸せになる事が出来る。
リアル・シンデレラ=倉島泉の一生から、僕はその真実を学んだように思いました。


ところで、僕は、努力しても倉島泉のように生きることは出来そうもありません。
それほど、彼女は善人を通り越して聖人のように見えるほどですが、
彼女が得た幸福のように、景気が良くても、悪くても、健康でいても、病んでいても、
幸せになる事は出来るのだ。

この小説から学んだ事は、小さいながらも僕に幸福感をもたらしたように思います。
幸せは、自分の中にありました。
忙しい人や、日々の生活に疲れを感じている人、
普段つまらないなぁ。とぼんやり感じる人にも、是非読んで欲しいと思います。
また、これから社会に出る人、勉学にいそしんでいる皆さんにも読んでもらいたいと思いました。

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人に優しく、と考える

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

要介護の家族を持つ十三人の独白で構成された連作短編集。
『日経ヘルス プルミエ』(日経BP社)の連載を単行本にまとめた一冊です。
各編には独白をする人のプロフィールが示され、あたかも一般人の投書を読むような体裁になっています。この工夫により、僕は親しい人の話を聞くように読むことが出来ました。
読み終えて思うのは、
「実際には、聞く機会の無い話なのだろうな。」
でした。
おそらく、僕が毎日通っている職場にも、この本の語り部のような毎日を送っている人がいるのだろうと想像します。しかし、彼らは、同僚がお盆休みの計画を「スペインに行ってくるんだ。」と明るく話すのに対し「あら、良いわね。行ってらっしゃい。お土産よろしくね。」と同じく明るく返答しながら、心の中では「普段は他の家族に任せている分も盆休みは私が引き受けなくっちゃ。」と、要介護の家族と、他の家族のことを気遣った盆休みの計画を決心し、その決心は、人に話すことなく、日常を過ごしているのだろうと想像するのです。
ですから、僕が実生活を送っていると、この本のような独白を聞く機会は無いのだろうと想像するのです。

そして、僕はこの本を読んでいる間は、ただ彼らの話を聞いて、
「こういう人もいるのだ」
と、理解するのに務めました。

人に優しく、とは誰もが思う事だと思いますが、想像出来ない人の苦労に共感することは出来ず、優しく接することは出来ません。
この一冊は、こういう人もいるのだ。と、僕の理解を一歩進めたような気がします。
先ずは、
「お話を聞かせてくれて、ありがとう。」
これが、僕がこの一冊を読んでの感想でした。

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紙の本ふちなしのかがみ

2009/08/17 02:13

長かった小学校の夏休みを思い出す短編集です

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ミステリの気鋭、辻村深月が放つ初の怪談。5編の短編集です。

「踊り場の花子」は、去年の夏休み、自由研究の宿題で『若草南小学校の花子さん』の研究をしたさゆりのおはなしです。

「ブランコをこぐ足」は、倉崎みのり(小学五年生、十一歳)が校庭のブランコから落下して死亡した事件の取材形式です。

「おとうさん、したいがあるよ」は、県内の寒村に住む認知症を患う祖母を両親と共に訪ねた大学生つつじを襲ったホラーです。

「ふちなしのかがみ」は、親譲りの才能を発揮して、ジャズバーでのセッションをバイトにしている高校生「冬也」と、彼のクラスメイトと共にジャズバーに通う「香奈子」のものがたりです。

「八月の天変地異」は、小学五年生の夏。「自分がこんな目に遭ってるのは、全てキョウスケのせいだ」と恨んでいたシンジが望んだ天変地異のものがたりです。

巧妙なトリックで読者を楽しませる、著者の持ち味は、怪談でも発揮されています。
五編のうち、いくつかは読み終えてみると、怪奇小説ではなく、リアリティー小説であることがわかり、それが恐怖を増長させているように感じられました。(あくまで、僕が読んで、そう思ったので、もし僕のが誤読だったら、リアリティー小説ではありませんので、その点は、読んで確認して下さい。)
また今までの作品(特に「凍りのクジラ」講談社文庫2008/11/14)で取り上げられた「大人として、子どもにどう接するべきなのか」も盛り込んであり、大人にとっては「自分がこの怪談の恐怖の対象にならないか」と心配になる恐怖感もありました。

最後の「八月の天変地異」は新鮮でした。男の子が夏休みに精神的にひとまわり成長するものがたりになっています。

僕も、秘密基地を作って友達と遊んだ、僕の夏休みを思い出しました。
この一遍を読むまでは
「子供の頃は悩みなんて無くて良かったなぁ。」
という漠然とした記憶でしかなかったのですが、実際はそれなりに悩みがある中で、友達とかけずり回って遊んでいたことを思い出しました。

「大人」は、人に言えない過去の過ちを認識し、それを引け目や、恥、傷として抱えながら、外面的には健康に振る舞うものですが、
その傷をいつ認識し始めたかというのは、なかなか記憶に残るものではありません。
「八月の天変地異」はその記憶を呼び覚ますきっかけになりました。

誰にでも、恥ずかしい思い出はいくつかあると思います。
それを無かった事にしてしまうのではなくて、心に秘めながら、それを他人への親切や思いやりの原動力にしていきたい。そういう大人になりたい。と思いました。
シンジくんは、その点をクリアし、立派な大人になる気配が感じられます。

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やっぱり読まなければ意味がない

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

BOOK2を読んでも、やっぱり「読まなければ意味がない」と思いました。
でも、意味がなければ読まないので、ここではその意味を考えてみようと思います。ちなみに、もちろんこれは、同じ著者の「意味がなければスイングはない」がデューク・エリントン楽団の曲「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)」の逆を言ったものであることを念頭に置いて言っているものです。

では「1Q84」を読む意味とは何でしょうか。
読み終えて思うのは、それは、読んだ僕が「想像をする」と言うことです。

まず、物語のその後を想像します。
「1Q84」は最近のテレビドラマや、テレビドラマを元にして作られた劇場公開映画のように、謎や伏線が全て解明されてすっきりするタイプではありません。物語が終わった段階で謎が残りますし、主人公には、しなければならないこと、考えなければならないことがたくさん残っています。では、その後の主人公はどうなるのか、と考えると、それは、読者にゆだねられているように感じられました。つまり、その後については、僕自身が想像するしかないと考えたわけです。
そして、僕は天吾と青豆のその後のハッピーエンドを思い描きました。天吾が病院から帰宅した後、約一年を経て、青豆と再会するハッピーエンドです。
僕が描いた、このハッピーエンドに至るストーリーは非常に簡単です。おそらく文章にすれば数行であらすじを描けるものです。
でも、僕は、ここに至るまで数日掛かかりました。その間「1Q84」を反芻しては、それぞれの意味を考え、自分がどう感じているのかを考え、今までの著者の作品を思い出し、わかっていること、謎として残っていることなどを整理し、不足するところは想像しました。
先ずは、これが、「読まなければ意味がない」と思った理由です。そして、このように想像をかき立てられるところが、この物語を読む意味ではないかと思います。

次に、細かい点になりますが、肯定されるべき主人公の天吾に「それは、反社会的な行為ではないのですか?」と問いたくなる箇所があります。嵐の中のおまじないです。この行為は、もう一方の主人公青豆が戦っている反社会的な人物が為す行為と同一です。
著者は、2000年8月に朝日新聞社刊行した「そうだ、村上さんに聞いてみよう」の中で、読者からの投稿に答えて「僕の小説は反社会的であったことは無い」と力説していたのが印象的ですが「1Q84」では、この記述に限って逸脱していると思いました。
それでは、村上春樹は、方針転換して反社会的な小説を書こうと思って「1Q84」を執筆したのか、と考えれば、もちろんそんな事はないと思います。エピソードだけを取り出して描写すれば、まさに「反社会的」と言える行為が、実際に行う人の立場、状況、環境によって意味が変わってくる、と言うことだと思うのです。もちろん、彼の行動を指して「反社会的ですね。」と非難することは簡単です。でも同時に、単純に非難だけをして済ますことは出来ないだろう、と直感します。では、これをどう考えれば良いのでしょうか。
僕には、答えが出せませんでした。
同じように考えれば、BOOK1の冒頭での青豆の「仕事」についても、考えさせられ、答えを出すことが出来ませんでした。
天吾は嵐の中でおまじないをして、青豆はタフでクールに仕事をします。
そして僕はこの物語を面白く感じて、最後までぐいぐいと牽引されて読み終え、天吾や青豆の行為を認め、その善し悪しは保留することに決めました。

このような、自分自身の「1Q84」の読み方を推し進めて考えると、
僕が茶の間で見るTVから流れる残忍な事件についても、同じような事が言えるのではないかと想像が膨らみます。
読書を逸脱しますが、善悪はそれに対峙する場合には有効ですが、例えば茶の間で見るテレビの中の出来事についてはそれほど有効では無いのかもしれない。と思いました。

天吾のガールフレンドや、小松には月がどう見えるのか。気になり出すと、きりがありません。でも僕は何となく、この「1Q84」には「ねじ巻き取りクロニクル」のように、続編があるようには思えません。それは、ここで書いたように、続編は僕たち読者の想像力にゆだねられていると感じるからです。

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明るい未来を手することができるかどうかは、僕たち次第だと思った

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルの通り、主に、Googleとamazonの成功例を引き合いに、
先ずは、ロングテールと言う言葉の解説から筆を起こし、
インターネットで一極集中が起こっている現状(第1章)、
その背景にあるWeb2.0の世界(第2章)、
各社の成功の背景にある技術と、それが企業努力である戦略的投資によって実現していること
amazon=第3章、
Google=第4章
などを解説/紹介し、
ネットワークの構造をマクロスケールでとらえた科学的分析(第5章)、
個人への影響(第6章)
と続けます。
ユーザーの立場に立ちながら、かつて科学雑誌のライターも経験している著者ならではの、技術分析、科学的側面の解説は見事でした。
たとえば、成功している二社を嫉妬心で「うまいことやりやがって。」と言う内容ならば、こんなに興味をそそられる内容では無かったと思います。
二社はただ単に、変革の時代の波にうまく乗っただけでは無く、多額の資金を投じて、技術革新を先駆けて行い、今まで僕たちが手にすることが無かったサービスを受けられるようにした。これが、成功の秘訣だと理解出来ただけでも、この一冊の価値はあります。
また、すでに出版後三年近く経っていますが、Google、amazonいずれも本国アメリカ版を分析/紹介しており、日本版で最近ようやく導入された技術もあり、僕にとっては新鮮な内容でした。

しかし、本書の真価は、さらに続く最終章にありました。
僕たちは、二十年前の人に「世の中はこんなふうになったよ。」と言えば、すばらしい未来に拍手を送られるであろうインターネットが普及した現代に生きています。その一方で、僕は、この技術革新が切り開く未来が必ずしも明るいものだと単純に楽観出来ず、不安も抱えています。
本書の最終章では、首相の靖国神社参拝問題を例に挙げ、インターネット検索上位の記述内容と、新聞による世論調査の大きなギャップから現実世界に目を向けます。
ここまでで理解したインターネットが普及した現代の特性を合わせて考えると、僕たちは、どう振る舞えば良いのか。
この本の最終章ではそのヒントが与えられたように感じられました。

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紙の本しろばんば 改版

2010/11/13 03:06

理想的な子供時代を過ごす少年の成長物語

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

井上靖の自伝的長編小説で、主人公「伊上洪作」が伊豆湯ヶ島の小学校に通った六年間を主に少年の視点から描いています。

平成の現在、伊豆下田急行の黒船列車に乗ると、その車内に沿革を解説して曰く「開通当時はまだ陸の孤島だった南伊豆へ、第二の黒船として伊豆下田急行がやってきました。」というような記述を目にします。伊豆下田急行の開通は、昭和も戦後の1961年です。
物語は、おそらく大正元年(1912年)からの六年間で、小説の中で少年たちが「ずいどう」と呼ぶ旧天城トンネルがようやく開通(1904年)してから、まだ十年経っていない頃です。
小説の中で軽便鉄道と呼ばれる、現伊豆箱根鉄道駿豆線も修善寺の手前、大仁止まりで、つまり、物語の舞台である湯ヶ島は、半島ゆえに部外者が訪れることも稀な、山深いど田舎と言うわけです。

洪作たちが馬飛ばしを見に行くために歩いた山道を、僕も歩いたことがあります。中学生だった時で、クラスメイト六人、中伊豆と湯ヶ島の宿を予約して行った二泊三日の旅行でした。
初めての子どもだけの泊まりがけの旅行で、うかつにも、なんら観光スポットをチェックしていなかった僕たちは、中伊豆の宿を出た朝に、
「では、次の宿がある湯ヶ島まで歩いて行ってみよう。」
と、洪作たちが歩いたのと同じ山の中を歩いたのでした。
早春の筏場は、新緑に萌え、今は「日本一の棚田」と看板が立っている広い渓谷の山葵の棚田からちょろちょろと流れる清流は手ですくって飲めそうでした。
つまり、ど田舎と言うと、暗いじめじめした印象があったのですが、明るく緑豊かな山と渓谷が、この小説の舞台です。

読み終えて思ったのは
「少年の時に体験すべき事は、山深い村に住んでいても全て体験できるのだ。」
と言うことでした。
それは、例えば、洪作が級友と喧嘩をして怪我をさせてしまった時のエピソードです。
大人としては、「大事ないかな。」「ちゃんと反省してくれるかな。」と気がかりな場面ですが、物語の中では複数の大人が、それぞれに全く違った反応を示します。
同居しているおぬいばあさんは、以前口うるさい洪作の母親への当てつけで「謝っちゃれ。なんでも謝っておけば収まるから。」と洪作に言っていたのを棚に上げ、洪作を家の中にかくまい「誰にも手出しをさせないぞ。」とがんばります。
やってきた祖父は頭ごなしに「ばかもん」と怒鳴りつけ、怪我をさせた相手の家へ謝りに、洪作を引き連れていこうとします。
近所に住む耕作の親友=幸夫の母親が駆けつけ、祖父の肩を持ち「謝らせておくのが無難じゃ。」と、おぬいばあさんをなだめます。
母方の祖母は「あとでおはぎでも甘酒でも作ってやるから、何を言われても悪うございましたと謝ってきなさい。」と言う。
行った先の喧嘩相手の父親は、なんと「喧嘩は子供の仕事だ。いちいち謝っていたら、仕事が手につかないわい。」と、謝罪不要の太っ腹。
学校に行くと、先生には長い説教を食らうのかと思いきや「喧嘩はイカン。今度喧嘩をしたら、もう学校にはおいておけない。」と短い通達のみで授業を始めてしまう。
洪作自身は「大変なことをしてしまった。」としきりに反省し、つまり、健全な少年期の経験となり、以後怪我をさせるような喧嘩はしないようです。

僕の子供時代を思い起こしても「あぁ、あのとき取り返しのつかないことにならなくて良かった。」と言う危険な思い出があります。誰にでも似たような経験があるのでは無いでしょうか。(逆に、「ワタシは子供の頃にそんな悪いことは一切しなかったよ。」と言う大人は信用できないですよね?)
でも、僕には洪作のように、このような貴重な経験に加えて、「大人にはいろんな考え方があるんだなぁ。」と言うような事まで一緒に経験することは出来ませんでした。

必ずしも大人の誰もが模範的なワケではなく、それぞれ癖や個性があり、その中で生きていくことが大人になることなのだ。と、僕の場合は成人してだいぶたったころにぼんやり習得したように思いますが、耕作の場合には、こんな複雑な人間関係を、山深いど田舎で、小学生の時に経験したわけです。

その他、老人をいたわる心が芽生える瞬間や、自主的に学習に取り組み始める瞬間、女性を意識する思春期の萌芽、級友と将来つくべき職業を初めて語る、など、など、など、思いつける限りの全ての「小学生の時に経験すべき事」を経験し、成長していく洪作の物語でした。

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紙の本ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。

2010/07/15 01:52

失われた十年を生きた世代は奇蹟を起こす

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

冒頭で、誰かが、倒れている母親を置き去りにして自宅をあとにするシーンが示されます。どうやら、彼女が母親に害を加えた模様です。
改めて本編=第一章で、失踪した望月チエミを尋ねる、幼なじみのノンフィクションライターの神宮司みずほが登場します。
チエミに何があったのか。今、どうしているのか。
この謎を追いながら物語が進みます。

主人公は、今年三十一歳になる年回り。仮にこの物語が、出版された二〇〇九年のお話しだとすると、一九七八年生まれ。成人式は一九九八年。バブル崩壊不況「失われた十年」のまっただ中に就職する時期を迎えた年代です。
冒頭のシーンでは、母親に対する娘の接し方が、いわゆる家族依存症のように感じられ、特殊な家庭の特殊な事件を扱う小説なのか、と思いました。しかしながら、本編が始まり、みずほが尋ねて回るチエミの同級生や職場の同僚、恩師の取材を読み進むに従い、必ずしもチエミの家庭が特殊ではなく、彼女らの世代=特に地方都市の学校を卒業し、地元で就職した女性に共通な、経済的背景と地域性に縛られた、致し方なさがあることを知りました。
この小説は、以上のようにバブル崩壊不況期に社会に出た団塊ジュニアを先頭とする現在のアラサー世代の実情を、世代の内側から描いている世代の旗手としての役割を果たした側面があると思います。

ただし、この小説の価値は、上記のような同世代への訴求だけに留まらない感動があると思いました。
それは、一種の妖精譚(フェアリーテイル)の類です。おそらく長く文学の主要なテーマでもあった、「身近な人を救う」と言う事を主人公に体現させ、読者に示している感動です。

人が後悔を強く認識する事象の一つに「親しい人を救えなかった。」と言うのがあると思います。例えば目の前で知人が事故にあったり、絶望の中にいることを知りながら自殺を止められなかった事があれば、それは強い後悔の念を起こさせるであろうと思うのです。
この後悔から、「何か救う手だてがあったのでは」と考えます。
ただ、これは多くの人には「後悔」だけで終わってしまうのではないかと思います。僕が今まで生きてきた中で、本当に「助けてほしい」と思ったときに助けてくれる人はいなかったし、誰かを「助けたい」と思ったときには、もう手遅れでした。
でも(僕の読書に偏りすぎかもしれませんが)この小説では違います。
主人公のみずほは、おそらく、チエミが助けを求めていると信じており、それに手を差し伸べて救いたい、と強く願ったのだと思います。そして、困難を克服し、ついにはチエミを救った、と僕は感じました。

この書評のタイトルの「奇蹟を起こす」は、この感動を表現したものです。僕には到底出来るとは思えないことを、小説の中の主人公がやってのけたお話しであると感じたからです。
でも、もしかすると、僕にもみずほのような強い意志と、行動力があれば、誰かを救うことが出来るかもしれない。と考えてしまうのが、著者の意図だとすれば、著者の小説に込めた魂というのは、すさまじいものですね。

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読まなければ意味がない

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

先ほどBOOK1<4月-6月>を読み終えました。BOOK2<7月-9月>はまだ読んでいません。
BOOK1を読んでの僕の感想は「読まなければ意味がない」でした。

物語は1984年4月の東京から始まります。それぞれ接点が無い青豆と天吾の物語です。二人の物語が交互に24章まで語られます。巻末に差し掛かったところで二人の物語につながりが見えてくる仕組みです。
BOOK1については、簡単にはこのような説明が出来ます。ですが、この二人の物語に著者が込めた魂は、物語の構成を説明したのでは意味がない。読んで初めて浮かび上がるものだ、と言うのがBOOK1を読んでの僕の感想です。

僕はストーリー展開「命」みたいな読書をするので、この物語を読み進めるときも「要約」のようなものを頭に構築しながら読んでいました。
しかし、読み始めてしばらくすると、ストーリーの要約には含まれない、登場人物が抱える思い、他者への慈しみが、この物語に著者が込めた魂なのでは無いかと思い始めました。
あくまでも、僕が読んで感じたことなのですが、この本に込められた魂の一つは、これまでの著作にも込められてきたテーマ「大切な人を慈しむと言うことはどういうことか。」であると感じました。恋人同士なら当然感じること、子供に対してならば、親が自然と身に付けているものとして、鋳型にはめられたような言葉で語られる「愛」を否定した上での「慈しみ」または「愛しみ」です。
もう一つは、大人が、子供に接する態度は、如何にあるべきなのか。
この二つについて、著者が魂を込めて紡いた物語が「1Q84」なのでは無いか、と思いました。
もちろん、他にも語るべき要素はありますが、僕はこの二つが印象に残りました。
青豆も、天吾も、親が無く、結婚もせず、もちろん子どもも持たない社会的には孤独な存在です。BOOK1では、二人の空白として暗示される”大切な何か”を、感じることが出来たように思いました。
引き続きBOOK2を読み進みます。

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紙の本太陽の坐る場所

2009/05/10 02:25

和解を描いています

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

頻繁にクラス会を開くF県立藤見高校元三年二組。
物語は、卒業後十年目のクラス会にも欠席した、大ブレイク中の女優=キョウコを話題に、かつての級友が盛り上がる風景から始まります。
「どうしたら、キョウコをクラス会に引っ張り出せるのか。」

高校を卒業してからの十年は、就職し、人によっては結婚し、子どもをもうけます。
つまり、社会学で言う原家族から結婚家族への移行期です。親から与えられていた家庭を離れ、自分自身の家族を作る時期に入る人もいるわけです。
また、そのような同級生を眺めながら、独身生活を謳歌する人も多い時期だと思います。
成功している人もいれば、成功しようとがんばっている人も、平凡に落ち着く人もいます。

第一章「出席番号二十二番」は、半田聡美。
つづいて第二章「出席番号一番」は、里美紗江子。
第三章「出席番号二十七番」水上由希。
第四章「出席番号二番」島津健太。
第五章「出席番号十七番」高間響子。
小説は、五人全員独身者の視点で、それぞれのクラス会への感慨を描写しながら、今の自分を振り返えりつつ進みます。

本書は、また著者の持ち味である、ミステリーの要素もあり、僕も謎を軸に、読書を進めました。その謎とは、プロローグで語られる響子を巡るトラブルが何なのか、です。
しかし、それだけでは終わらないのが、帯に「辻村深月の新境地!」と記されている所以です。
僕は、読了して、それを「和解」だと理解しました。ミステリーですので、抽象的な感想しか書きませんが、その和解とは高校時代に不和となった級友との和解。若さゆえの失敗を悔やむ自分との和解です。
この小説を読んでいる間は、僕自身の失敗を思いだしては後悔を新たにし、今は連絡を取ることもはばかられる、かつては毎日一緒に過ごした級友を思い、次から次へと記憶があふれ出してきて困りました。
でも、読了後は、キョウコのような人を友達である、僕も言うことが出来るはずだと思い、そう思える自分も、かつての高校生であった自分と和解が出来るはずだと思えました。
つまり、カタルシスがあったわけです。

ミステリーの形式を採りながら和解を描き、カタルシスがあるこの小説は、かつて小池真理子がサスペンスの形式を採りながら人の業を描き直木賞を受賞した「恋」を僕に連想させました。

ラストに和解する二人の関係が、真の友情だ、と僕は思います。
後悔をしながらも、それを今の自分を形成するものとして正面から受け止めた彼女への祝福だと感じました。

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すっぴんは事件か?

2008/12/20 11:41

「小悪魔」とは何か?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、WEBちくま
http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/
に連載されていた人気エッセイをまとめた本です。
著者が「この前提は真実なのか?」と疑問に思ったことを、ニュートラルな視点から考察しています。
テーマは、表題の「すっぴん」で外出することは、驚くことか? それ以前に、化粧をした方が綺麗だったり、健康的に見えると言う前提は正しいのか、に始まり、「男っぽい」「女っぽい」の真実、「小悪魔とは?」など男女の事から、映画の受賞内容まで多岐にわたります。
例えば僕も「横縞柄の服の方が痩せて見える」とか、「カレーの具は大きく切った方がおいしい」とか、「そう言うことになっている」事が多いように感じます。でも、僕は「そう言われているけれど、実際は違うのではないかな。」と思うことも多いです。痩せて見えるかどうかは、自分が見た目で判断できるし、カレーの具は自分の好みを考えれば良いのです。でも、「そう言うことになっている」事について「僕はこう感じた」と言っても(せっかく「わかってくれる」と思った友達に話したのに)逆に「なんで、そんな事を疑問に思うの?」と変人扱いされて、口惜しく思った事は一度ではありません。
そんな、悔しい思いを共有出来たような愉快な一冊でした。

さらに、僕が「目から鱗が落ちた!」と感じたのは、第1章「いつも危険日」-男と女のウソ ホント- 第三段「エロ本の男女差」です。女性向け、男性向けエロ本の典型を分析し、キャラ設定の違い、ストーリー展開の違いから、それぞれの社会的立場まで考察しています。求められて応じるのを好む人と、同意の上それぞれ主体的に取り組むのを好む人とがいることを認識すべきだと気付きました。
エロ本を比較して、こういう事に気付く著者の洞察力ってすごいな、と思う一方、僕だって、日常生活で目にしたものや、耳にしたことから、本当はまだまだ「考えればわかること」があるのかもしれない。と思う一冊でした。

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