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レビューアーランキング
先月(2017年1月)

ニシムラさんのレビュー一覧

投稿者:ニシムラ

4 件中 1 件~ 4 件を表示

数ある入門書のなかでも最良と思います。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世の中には麻雀に限らず、いろんな入門書がありますが、この本は数ある「入門本」のなかでも、かなり優れています。
まず二階堂姉妹というスター性のあるキャラがナビゲートしていること。二人とも有名な麻雀の女流プロで、本当の姉妹なのですが、これから麻雀を覚えていこうとする主に若年層にアピールするカワイイ系の美人です。どうせ読むなら名人ぶったオジサンよりも、身近にしかもあこがれを感じられるアイドル系の女性の方が魅力的なはず。ゴルフだって、中級以上はともかく初心者が習う場合は中島常幸よりも宮里藍の方がいいに決まっています。それと同じです。
構成も良い。なんといっても第一章が「さっそくアガってみよう」。つまり能書きはともかく、とにかくわからなくてもいいからゲームをして、形をつくってあがることが第一というスタンスですね。
活字も大きく、オールカラーでデザイン的にも優れています。イラストも見やすく、牌の大きさがほぼ原寸大というのもイメージしやすい。それになにより各ページに登場する二階堂姉妹の写真や、ときおり挟み込まれるグラビアページが効いています。被写体もいいし、写真の質も良い。これは大事なことです。
麻雀の入り口の段階からそのイメージをさわやかで健康的にしたいという編集側の意図がとてもよく反映されていますし、それが成功しています。そのために難しい点数計算も簡略された表を丸覚えすることでOKとしていて、敷居を低くする努力が全ページに渡って貫かれています。
これから麻雀を覚えたいと思った人にとって最良の入門書であると同時に、麻雀関係の出版物のなかでも上質の書籍であると思います。

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麻雀のイメージを変えようと頑張っている本

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「麻雀国際公式ルール戦術本」が副題。
説明すると、1998年に中国で制定された国際ルールの説明とその戦術を書いた本です。このルールに基づいた世界大会が過去二回行われていて、第一回の優勝者が著者の初音さんです。
麻雀といえば、日本ではサラリーマンのおじさんがネクタイを緩めてタバコを吸いながら仲間と徹夜でやるギャンブルというイメージが強いですが、これはその対極。つまり、若い人がネクタイを締めてきちんと座って対戦者と昼間行う競技なのです。ちなみにダジャレなど、くだらない上段を言いながら、ということもありません。もちろん、いわゆる賭博でもありません。
この本は、戦術本であり、解説書ですから、スキルを磨きたい人、また国際公式ルールに興味をある人がーのために書いた本ですが、もっと大切なのはその奥にある心理。つまり、これまで汚れたイメージがついていた麻雀を、クリーンで世界に通用する競技にしたいという思いです。
競馬はJRAの努力によって、昔ほどダーティーなものではなくなりましたね。テレビコマーシャルに俳優の小林薫、真田広之、明石家さんまなどを続々と起用したり、馬券場をきれいにし、しかも銀座や汐留など立地のいいところにそれをつくって、しかも周辺はいちもおばさんが掃除して、交通整理までやっている。そこまでして、しかも継続して行うことで市民権を得てきた。
パチンコ業界も同様の努力はやっています。
麻雀でも同じこと。若い人が先頭になって国際舞台で活躍することで、より多くの愛好家それも若年の愛好家を増やすこと。そうすれば、きっと昔の阿佐田哲也の時代のような無頼のイメージから脱却できるでしょう。いくらフジテレビで芸能人が麻雀大会をやっても、やはり深夜だし登場するゲストの年齢も高いし、見ていて画面に堪えられない。もっとクリーンで、夢のあるゲームにすることが大切です。
そういう意味では、この著者のような若い女性が(しかしそれを売りにしているわけではない)もっともっと活躍していって欲しいものです。
欲を言えば、戦術本としても、これまでのものとは違う工夫があっても良かったかも。たとえば、戦術に特化してパソコンソフトの解説書「できるシリーズ」みたいに、見開きページ単位で役を分かりやすく説明し、なおかつ初級、中級、上級に分けるとか、あるいはもっと読み物として読者を楽しませるなら、著者が世界で会った人たちやそこの風物についてのエッセイをのせるとか。
それはともかく、今後、麻雀というゲームがもっと市民権を得て拡大していくための第一歩となることが期待できる本です。

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ロンド

2003/10/19 16:33

美術への耽溺は殺人の動機となりうるか。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

刊行から約1年が経過しての書評。したがって、すでに本書が著名な美術家の手によるものであり、それが氏の版画作品にも比せられる技巧的で精緻なミステリに仕上がっていることは重ねて述べるまでもない。

私の興味は、美術品が果たして殺人という最も重大でミステリーを孕む犯罪の動機となるかどうかという問題だった。美術にまつわる犯罪といえば、盗作事件、贋作事件、盗難、発見、美術品を媒介とした贈収賄事件などが相場だ。仮に美術品をめぐって殺人が起きたとしても、それは上記のいずれかの犯罪の付帯的事実、いわばオマケとして偶発的に起きる出来事にすぎない。また小説の中では、絵画がアリバイのトリックに利用されたり、彫刻が隠蔽装置に利用されることはあっても、特に主題として中心的役割を担うことはない。

人は美術品のために犯罪を犯すことはできるか。むしろ美術品そのものが人を操り、殺人にまで至らせることは可能か否か。ミステリー小説という形式の中で、そうした犯人の心理や事件としての不可避性を描出することは可能かどうか、という問題。宗教的観念によるテロ事件、政治的使命感による殺人はありうる。美術がそれ自身、思想や宗教に比せられる観念の集合体であるならば、美術的観念を動機とする殺人はどうなのか。それは、作品を創作するためか、保存するためか、鑑賞するためか。本書の犯人は「ロンド」の死んだ作者にも匹敵する稀有な描画技巧を持った人物である。「ロンド」が死者の舞踏を描いたように、犯人は次々と人を殺害し、それぞれを一枚の作品に仕上げていく。人物は作品を仕上げるために選ばれた人体モデルにしかすぎない。犯人が制作を続け、それを発表しつづける限りそのモデルとなる死者は増えつづける。もしも犯人がなにより死者を描くという行為に耽溺したならば、写実的な技法によってその残忍さを美的な水準にまで高めるという精神の衝動としてその材を得るために殺人を続けたならば、美的観念による殺人と呼べるだろう。そして、美的観念に憑かれた(衝かれた)事件を、美的な観念の糸を解きほぐすことによって推理し、その真相にいたることができるかどうか。作者の意図とは全く関係なく、私が期待したのはこの点だった。残念ながら、その期待は十分に満足させられたとはいえない。しかし美術の豊富な知識と美術界への精通の度合いの高さから考えて、美術品をめぐるミステリーとしては最上級に属することは事実だろうし、今後そのような小説作品がこの作家によって生み出される可能性も期待できる。

それとは別に気になったのは、個々の作中物の描かれ方。作者が過去の名画でなく、「ロンド」という架空の作品(もちろんそのモデルとなる作品はあるが)を登場させなければならなかったのは、それほどの意義と人を幻惑させるほどの作品を現実には見出しえないからだろうか。あるいは自身が画家の立場からでは、自作はもちろん他者の作品を魔術的な存在として描くことはできなかったのか。また、主人公の学芸員が本格的な推理をすることもなく、犯人に翻弄される凡庸な研究者としてしか描かれていないのも、実際の学芸員の姿を実際に知っているからだろうが、それを主人公に据えたのも、世間的には高尚で衒学的と思われている美術の世界が、実際には経済と市場原理を軸に動いている他の分野とさしたる違いはないことを承知で、しかし連続殺人という装置を使って大いなる意味をこの分野に取り戻したいという欲求だろうか。作者の創作動機にまで要らぬ詮索をするのは、ミステリー愛好家というより美術愛好家の悪い癖かもしれない。

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世代・立場の相違というより、「書くこと」の動機の相違でしょう。

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東浩紀と笠井潔の16回に渡る往復書簡をまとめたもの。9・11の事件、それに対する柄谷行人らポストモダン批評家の沈黙、ポストモダニズムがもてはやされた1980年代の状況など、東浩紀の側から提示されるテーマに対して、笠井が直接的に論じないため、第5信の東の書簡以降、対話の決裂の危機を孕みながら展開していく。

さて、両者の議論がかみ合わない原因は、表面的には、現在・目の前に展開している歴史的・社会的な出来事に対して何事かを論じたい東と、それに大きな意味を見出せないでいる笠井との差として現れる。しかし、より深い相違は、両者の「書くこと」の動機の相違ではないか。笠井は抑圧的な教育体制(戦後民主主義)に敵対し、高校を中退、左翼の運動家として60年代を過ごすも、連合赤軍事件に直面して逆にマルクス主義と闘う。それを「書く」という行為で貫いてきた。つまり、彼は自分の視界内に無理やり押し入ってくる「敵」との闘いとして評論なり小説を書き続けてきた。一方、東は私鉄沿線の郊外に住みながら、80年代の「自堕落な」消費文化にどっぷりと浸り、東大大学院まで進んだうえポストモダン系の雑誌で「評論家として」デビューしている。笠井の動機が理不尽で不快な事象との闘いであるのに対し、東の動機は時代を読み解くことであったり世界をよりよくすることだったりする。東の背後には、何か正義感めいたものがあるように思うのだが、それは彼が評論家として社会的に有益な存在でなければならないと考えているからではないかと思われる。あたかも、空虚な自分を埋め合わせるように。

東と同世代の一人(1970年生まれ)としては、『テロルの現象学』の著者に21世紀のテロである9・11について何かを語ってもらいたいし、虚構の設定ではあれ『ユートピアの冒険』で女の子相手に80年代のポストモダニズムの論者を批判した笠井に、柄谷らの言説について率直に若い人向けに語ってほしい。しかし、同時に笠井の熱心な読者として承知していることは、彼は事象を分かりやすく解きほどいて見せてくれる分析家ではなく、テクストや言動の中に隠された観念を嗅ぎ出し、その意味を明らかにする解釈家であるということである。後者には、前者と違って事象に対する強い志向性が必要だ。笠井は文芸評論では快の感情を基に、社会的な評論の場合には不快の感情、つまり敵の存在を基にしているように見える。しかし、9・11は彼には敵に見えていないのではないか。それに対する反応・無反応を示した他の評論家にもさしたる興味もないように思われる。

むしろ笠井から何か意味のある言葉を引き出そうとするならば、それは東自身が笠井にとっての「敵」にならなければいけなかったのでは?
先輩の言葉を拝聴するのではなく、ポストモダンの擁護者なら擁護者として、その批判者・笠井と対決すべきだったのではないか?
読者として期待したのは、これでした。

この第2ラウンドを期待するという意味、ただその一点のみが、本書の面白さではないかと思う。

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