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ヨーダさんのレビュー一覧

投稿者:ヨーダ

16 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本へたも絵のうち

2003/06/01 18:08

偉大なる「ふつう」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は91歳の熊谷氏が記者を前にして語る内容を採録したもので、昭和46年当時の日本経済新聞に「私の履歴書」として連載されたという。
 語り手との信頼関係を築き、相手が十分心を開いていなければ、ここまで「聞き語り」はうまく運ばなかったのではと感じる見事な内容である。担当した記者の名前を知ろうと思って探してみたが、本の中には見つけられず、無署名である。ただ、ふだんの話をまとめて掲載するのも嫌がったという熊谷氏からこれだけ話をひきだした聞き手の力に感じ入ってしまう。
 赤瀬川原平さんは解説で「感受性の浸透圧の、同質の聞き手にめぐり合った」のではないか、と指摘する。そしてこうも書いている「熊谷さんは文章をほとんど書かないけれど、言葉に対しては絵と同じような敏感さを持っていたのだろう。〈略〉論理化できない微妙なニュアンスのところをあれこれ考えるものにとっては、それを単純な論理でまとめられるのが生理的に耐えられない。一言ではいえないことだから、ひょっとしたらその場のタイミングでしゃべっているのに、そんなタイミングを無視して言葉の意味だけでまとめられたんでは、ぜんぜん違うものになってしまうし、そういう粗雑な神経が嫌なのである」と。
 これはそのままマスコミジャーナリズムの取材姿勢を厳しく問いただす言葉とも受けとめられるんじゃないかと思う。記者にコメント発表することを毛嫌いするようになるスポーツ選手の理由もこれに近いものがあるのではないか、と。
 さて画家である熊谷さんは、言葉に対してどんな想いを抱いていたか。探してみると本文中にこうあった。「一般的に、ことばというのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でも一つの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色はだれが見ても青色です。しかしことばの文章となると「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。私は、ほんとうは文章というものは信用していません」。
 なるほど、最終的なところでは信用していないのか。すごい。言葉のもつ意味とその定義性は一面とても便利なものだけど、反面ひとはその意味に捕われすぎて、言葉に振り回され、本質を見失ってしまうこともある。言葉によって世界を正確にとらえようとすることなどはこの画家にとって、とても不遜で胡散くさいものに映っていたのかも。
 では、本職の描くことの力を無邪気に信じていたのか、というと、そうでもないんである。ここがとてもおもしろいところだ。
 「人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし、人はその価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」。
 この肩透かし感、力の抜け具合はいったい何なんだろうという感じである。しかしそうやって言われてもちっとも不快ではないから不思議だ。絵を描く一人間として、そこに執着する自身もかわいそうな存在に含みつつ、そこをどこかで超越している。本人はそう呼ばれることを好まなかったというが、「仙人」と言われたのも、むべなるかなである。このひとの生き方をまねしようとしても決してまねできるものではない。しかし偉大なる「ふつう」を生ききった希有なひととして、「ふつう」軽視の時代風潮のいま、さらに見直されてもいい人物だと思った。 

 *生き方と共に魅力溢れる作品にふれるには、旧居跡に建っている熊谷守一美術館がオススメです。http://plaza10.mbn.or.jp/~kumagai_morikazu/

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紙の本自立日記

2003/01/25 21:48

毒づかずにはいられない現実

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず、著者名が目に飛び込んできた。「辛酸なめ子」。タイトルは「自立日記」。名前とタイトルが同じ級数で何とも言えない汚れをにじませたようなブルー地のカバー左上にそっと白く浮かんでいる。世間の荒波に揉まれ、いろんな辛酸をなめながらひとりの女性が自立していくさまを記した成長日誌なのだろうか、と真に受けたわけではなく、帯に「ブリジッド・ジョーンズよりもみじめな女の3年間」とあり、単純におもしろそうだから手にとってみる(それは自分のみじめさはなかなか笑いとばせないが、人のみじめさなら笑えるかもしれないというほんとうに無責任な理由だった)。ただ、読んでみて「みじめさ」と「卑屈さ」は全く違う種類のものであることに気付かされた。たとえば、2000年六月八日のところはこんな具合に書かれている。
 『仕事でホストクラブに取材に行きました。しかも朝方まで……。疲労しました。ひきこもり気味の身体には刺激が強すぎました。苦手な類の男たちが揃っていました。つまり、すぐ人のことを挙動不審扱いしてきたり、「げんきですかー?」とわざとらしく聞いてきたりするのです。それがあまりにつづくので、自分が特殊学級の生徒になったような気分でした。話題が見つけられないからといって、「あっ、彼女何おどおどしてるの?」とか、ダシに使わないで欲しいです。でも、ベテランのホストが「私たちは夢先案内人です」と言い、年上の女性に「ジルバ踊ろうか」と、井上陽水の曲でおもむろに踊り始めたのには痺れました』。
 僕はここに彼女の好ましい反発とまっとうな感性をみる。状況のみじめさは感じても、決して卑屈にはならない。これは被害妄想でもなんでもなく、「攻撃誘発体質」の人が受けがちな受難だ。いつから、どうしてまじめで普通で平凡であることが、そんなに損な役回りを、辛酸をなめなければならない仕組みになってしまったのだろう。この日記には、こっちだって少しは「毒づかずにいはいられない」現実が確かな観察眼で切り取られている。この世の中がまともでないのか、それとも自分がまともでないだけなのか。ただそう考えていっても結局、両者の境界はにじんだまま、お互い様、結論に辿りつくことはない。
 著者の興味は多岐にわたる。例えば、今はもう解散したSPEEDがかなり好き、英会話スクールに通ってみた、霊障を恐れている、などなど。きっと人それぞれ様々なオブセッション(妄執/わだかまり)を抱えているが、通常生活では大体の人がそこにフタをして見えないようにする。それは開けてみればパンドラの箱のように危険なものでもあるからだ。この本はそういったオブセッションを記すことで、逆にそうしたものを解き放っている彼女の告白記でもある。と同時にこの本は、これまで育ってきた文教一家という環境から逃げ出し、ひとり暮らしという「自立」をかちとり、はい、オメデトウという単純な成長記ではない。
 日記には日付の脇に、その日にあった事件、出来事がひとつずつ記されている。1999年8月9日 国旗・国歌法案が参院特別委で可決され、日の丸・君が代が法制化へ 1999年8月10日宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』が前人未踏の売上げ七百万枚を突破 といったように。「いったい自分はその日、何をしていたんだろう」という思いがよぎる。しかし、その日の記憶は隣接する日ともはや泥のように溶けあってしまっていてどうしても思い出せない。
 著者はこうも書いている。「我に返った時、全てはあとの祭りです。何もかもとり返しがつきません。この日記を出版したこともとり返しのつかなことである気がしてなりません」と。僕たちはとり返しのつかない毎日を重ねていって、その先に何が見えてくるのだろう。酷い現実に翻弄されていく末にあるものとは何だろう。
 

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キャリア創造のために

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 いつでも転職できるように自分と自分の仕事をつくりあげていくこと、どこでも通用する自分の能力をもつこと、究極的には自分で自分を雇えるようになっておくこと。主体的な「キャリア創造」と「エンプロイアビリティ(直訳では雇用される能力)」の強化。著者はこれらが雇用形態が変貌する現代において、雇用不安を払拭する最大の方法であると言う。
 この本がまず優れているところは、「雇う側の企業」(=強者)と「雇われる側の従業員」(=弱者)という対立構造のフレーム(枠組み)に縛られていないことだろう。この対立構造で考えてしまうと、どうしても「どうすれば企業から雇ってもらえる自分になれるのかという視点」に固まってしまい、結局雇用不安からは脱却できなくなるからだ。(ただ実際の就職・転職時には、「どうすれば企業から雇ってもらえる自分になれるのか」という思いから人は自由になるのがなかなか難しい。即効性の幻想を与える「面接の達人」系の本や就職試験突破のマニュアル本が売れるというのも実感としてわかる)
 もちろん企業も決して買い手市場だからと気を緩めてはいられない。雇う側の企業にも、働き手から鋭く求められるものは当然ある。〈エンプロイアビリティの重要性が多くの人々に認識されてくると、働く側が企業を見る目は大きく変化していく。そこで働くことでエンプロイアビリティが高まる企業かどうかということが、非常に大切な視点になる。自分のやりたい仕事ができて、しかも、ひとつの企業の枠を超えて将来がひらけるかどうか〉ということもそう。「他社でも十分通用するだけの専門能力を磨くことができるか」「プロとしてのマインドが磨かれるか」といったことも含めて、当人にとってキャリアビジョンを描けない会社は人材を引き止めておくことができない。
 本書は転職という一選択肢を否定はしない。ただ、それ以外にもいまできうるオプションを考え、環境改善の努力をしたうえでのことか、自分の力をさらに磨くことでいまいる組織でやりたい仕事の実現は不可能なのか、などの視点を提起している。こういった点からも信頼できる書籍だとわかると思う。「自分の人生。自分の仕事」を充実させるために、キャリアということについてもっと射程が長いところから捉えられているのだ。
 〈やりたい仕事を追求していくことができる人ほど、結果的にエンプロイアビリティは高くなる〉という言葉が示すところの条理、道理に勇気づけられながら、仕事と人生に対する自分のスタンスを見定めるために本書を読み進めていくことができた。
 「自立したプロフェッショナル」という理想を目指して、やりたい仕事を追求するしあわせと、自分が行動することによって何かを変えられるという効力感を感じながら仕事をしていきたいと考える者にとって、本書は確かな希望を与えてくれるだろう(まさに『キャリアの教科書』という名に恥じない堂々たる内容で、随所に深みのある言葉が散りばめられている)。
 最後に「マネーの虎」(個人的にはこの番組のコンセプトが自分は好きだ)ではないが、〈ビジョンは、自分が実現させたい未来について相手に知らせ、支援者として夢を共有してもらう最高のツールともなる〉〈あるひとりの人間が自分の未来像として考えたビジョンが、ビジョンに共感した人を巻き込むとき、ビジョンはひとりのものではなくなる。自分ひとりのものでなくなってはじめて自分のビジョンが実現に近づくという逆説が、ビジョンにはある〉といった言葉にも、教えられるところは多いと感じた。

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平易な言葉で語られる強度のある世界

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 インタビューアーに話す形式で語られていて、まずとても読みやすい。
 本書は「ひきこもる」ことで生み出されるものの豊穣さを説く。自分もひきこもり的な気質(気質的ひきこもりとも)で、しかしそこからしか、これまでの考える営為、著作も出発しなかったと。
 で、サブタイトルは「ひとりの時間をもつということ」。著者ならではのユニークな孤独の処方箋が示されていたりして、おもしろい。それは「銭湯」にいったり、「神社のお祭り」などに顔を出すことで「大勢の中の孤独」を味わい安心感をえることだったという。お祭りの人混みのなかを匿名のひとりとして闊歩する(そぞろ歩き、か)若き日の氏の姿が目に浮かんできそうだ。
 そういえば、高校の教科書にあった吉本氏の詩を自分はなぜか気に入っていて、そこにはやはりお祭りがでてきたっけと思いだした。その詩は『佃渡しで』というタイトルで後半部分にこんなふうにある。

 〈これからさきは娘にきこえぬ胸の中でいう〉
 水に囲まれた生活というのは
 いつでもちょつとした砦のような感じで
 夢のなかで掘割はいつもあらわれる
 橋という橋は何のためにあつたか?
 少年が欄干に手をかけ身をのりだして
 悲しみがあれば流すためにあつた

 〈あれが住吉神社だ
 佃祭りをやるところだ
 あれが小学校 ちいさいだろう〉
 これからさきは娘に云えぬ   (以下続く)

 たとえばこういう詩も、きちんと「ひきこもる」ことの所産としてうまれたもの。だから、「ひきこもりの充分な熟考や熟慮なしに成り立つ職業や専門はただの一つもありはしない」とか「いまでもひきこもらなければできないことを大事にして、少しずつ考えたり書いたりしてはいるのです。ぼくが『ひきこもりは正しいんだよ』と言う時に、自分の実感として、少なくとも嘘はついていないという思いがあります」などと著者がいってくれるとき、おおきな説得力をもつ(少なくともこの詩が好きな自分にとっては)。
 いまそういうことで悩んでいる人たちの元にもこの本のメッセージが届くといいなと思う。「少年が欄干に手をかけ身をのりだして 悲しみがあれば流す」ことができるように。
 たしかにいま世の中には「引っ込み思案は駄目で、とにかく社交的になる方がいいんだ」という潜在的な価値観や圧力はあると思う。これらを著者は「引き出し症候群」と呼んでいるけど、「コミュニケーションファシズム」的な傾向(言い過ぎか?)に日本がどんどん染まっていくのは耐え難い。
 で、当人にとっての「ひきこもる」ことが充分必要な時期はある、それを経て、その後で他人の感覚と調和させたりすることがうまくなったり、コミュニケーション力を身につければいいんじゃないか、と。
 また不登校について、学校や教室を支配する「偽の厳粛さ」のくだらなさ、いやらしさ、空虚さに気付く感受性の鋭い子ほど不登校になるというが、これはかなり図星中の図星という実感がある。
 近年増えてきたフリースクールについては、不登校という(同質の)人たちだけでかたまらないこと、閉じないで一般社会との関わりをもつことを前提に、従来の学校と違う理念をもっていて自分に合っているという子どもが自ら選択して入ってこられるならば、全然アリなんじゃないかという姿勢だ。
 個人的にはフリースクールの具体的な理念などについては、「フリースクールのフリーとは責任と表裏一体のものです」という東京、吉祥寺にある上田学園の先生のことばがとても印象深い。
 *民間からのこうした新しいタイプの学びの場をつくろうという動き、子どもたちの現状についてはこの方の著作『骨太の子育て』があるので、こちらをお薦めしたい。

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『ジョゼと虎と魚たち』(田辺聖子著)にみる、〈パラドキシカルメッセージ〉

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 ジョゼとは本名ではない。本名はクミ子という。フランスの小説家、サガンの作品にでてくるヒロインの名からとっている。ジョゼは車椅子で生活している。彼女にもたらされたこれまでの生涯最大の福音は、恒夫の出現だ。その恒夫に自分をジョゼと呼ばせることで(他にそう呼ぶ人はいない)、そしてそんな無茶が聞き入れられることで、クミ子は思い描く好ましいジョゼのイメージになれるかのような幸せに浸れる。
 「なんでクミがジョゼになるねん」「理由なんかない。けどアタイはジョゼいうたほうがぴったし、やねん。クミいう名前、放下(ほか)すわ」

 恒夫の前で、ジョゼはもう完全にジョゼなのだ。世間の目からも、どんな人からも邪魔されないひっそりとした海の底のような場所で、特権的なコードでこのふたりが結びつくために、必要な名前なのだ。

 この若い男女(ジョゼが25歳、恒夫が23歳)の弾むような掛け合い、会話の息遣いがこんなにもダイレクトに届く感じは、客席と舞台が近い小劇場で観ているような気分(一体感)にどこか似ている。頁から立ちあがる声が、読む者の鼓膜を震わす。

 ジョゼはほとんど家と施設の往復しかしていないので世間を知らない。テレビや活字などの間接情報はよく知っている。ジョゼの口からでてくる言葉には、願望と現実が入り交じる。昔、父親に背負っていってもらった野球の試合と施設のロビーのテレビで観た野球の試合がごっちゃになって、記憶の棚に並ぶことになる。

「後半、雨が降ってん。それでお父ちゃんがアタイを背負うて自分の上衣を上からかけてくれはってん」

 実際はこれと違ったのだが、本人は嘘という意識はなく、願望として記憶はジョゼの中で置き換えられている。恒夫はこうしたジョゼの生活史から、彼女が築き上げてきた原則や行動の基準を徐々に理解するようになる。

「そない、やさしいお父ちゃんが居って、クミ、なんで施設へ入ってん」
「うるさい。死ね! 阿呆! そんなこと知るかい」

 しかし当然、ジョゼは憐れまれることを嫌う。
 そしてジョゼがとる恒夫に対する高飛車な態度は、甘えられることを確認するための裏返しであり、恒夫が自分を見放さず、受けとめてくれていることをはかるためでもあった。こうしたほんとうの心の動きとは裏腹の言動や行動をとってしまうことを、ひとは通常、単に「あまのじゃく」、あるいはコミュニケーションの「ねじれ」と呼ぶ。
 同じような関係をどこかでみている。それは『ノルウェイの森』の〈僕〉と緑のやりとりだ。緑は〈僕〉にショートケーキを買って来てと頼むが、買ってきたケーキを窓の外に放り出し、気が変わった、今度はチーズケーキを買ってきてと頼む。仮定だが、こうした理不尽なたとえ話を語る。これを近藤裕子は、「チーズ・ケーキのような緑の病い」の中で〈彼女は相手が犠牲を払い忍耐し続けた量だけ、愛情めいた何かを確かめようとしている〉と指摘した。
 また〈親子関係において基本的信頼感を実感できずに育った(嗜癖者の)クライアントたちは、他者への根深い不信感に囚われている。それゆえ逆説的な言葉「パラドクス語」によってしか自己を表現することができない〉とも。『ジョゼと虎と魚たち』に戻ろう。

「来ていらん! もう来んといて!」
「……ほな、……さいなら」
「なんで帰るのんや! アタイをこない怒らしたままで!」

 恒夫という失いたくない人を得て、本音を吐露し、自ら一歩を踏み出し、パラドキシカルメッセージを解消、克服していく姿勢をこの会話にみてもいいのかもしれない。だからか、最後のシーン、海底にある水族館で想う〈完全無欠な幸福は死そのものだった〉という認識も、その言い当てている感覚の鋭さと同時に、死と幸福というその一見矛盾するものの一致がジョゼの中でなされていることに不思議と違和感はないように思えるのだ。

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紙の本村上春樹スタディーズ 03

2003/08/18 09:26

ひとは村上春樹のテクストに何を揺さぶられるのか?

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 ページを開くと飛び込んでくるのが、『螢』『ノルウェイの森』の舞台となった和敬塾(学生寮)のモノクロ写真だ。作中に出てくる毎朝六時に日の丸が掲揚される中庭のポール、そしてこの中庭を主人公の部屋から望む窓枠に区切られたカット、亡くなった友人の恋人からの連絡を待ったロビーに置いてある電話、右手には新宿、左手には池袋の街が見えた屋上からの眺め。実際村上春樹は上京し大学に入学した当初、この寮に入っている。当時椿山荘では夏、自然界から集めてきた螢を庭園に放す催しを行っていたそうだが、隣にある和敬塾にまで放たれた螢が紛れて飛んできたことは想像に難くない。この螢を寮の同居人(彼に対して「突撃隊」というネーミングはまだされていない)から贈られた〈僕〉が屋上で解き放つ印象的なラストシーンで終わる『螢』。この短編は『ノルウェイの森』の第二、三章の内容にほぼ忠実に受け継がれ、『ノルウェイの森』長篇化の原型となった。

 この論考集では、こうした『螢』から『ノルウェイの森』への長篇化の経緯も含め、『国境の南、太陽の西』、短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』『TVピープル』に関わる考察(17本)を収録している。

 例えば『ノルウェイの森』というテクストに対しても、多様な読みがある。刊行当初に書かれた川村湊の「〈ノルウェイの森〉で目覚めて」は、木が三つ組み合わさってできた「森」という文字に注目し、複数の三角関係をキーワードに展開する。作家自身の言葉「100パーセントの恋愛小説」に触れ、この小説ではむしろ二人きりの二角関係の行き詰まり、100パーセントの恋愛が不可能であることを示しているという。具体的には、キズキ-〈僕〉-直子という三角の一辺がキズキの死によって失われたが、〈僕〉はかつて友人キズキの恋人であった直子を支え、癒していけると信じたことを指す。直子の病がこの三角形の一辺がもぎとられてしまったことの「傷」から始まっているにもかかわらず、残された二人という関係のなかで何とかやっていけると思い誤ってしまったこと、つまりここに描かれる心の病は、対となる関係の挫折を根としているために、恋愛や性愛では決して解決されないという見方だ。そこで近藤裕子は「(確かに主人公の僕は病に共感できるすぐれたこころの深度を持っていたが、一方で)癒し手であるはずの僕がそこに呼び寄せられてくる人々を裏切り続ける物語」でもあると指摘する。これは桜井哲夫が「この小説を一言で定義づけてしまうなら、サイコセラピーないし、カウンセリングの文学だ」といったことに対するアンチテーゼでもある。予めそういった(サイコセラピーやカウンセリングの)可能性が失われたところに成立する物語だとするこうした読み方に同感する一方で、もうひとつの軸、僕と緑との関係においては、対話の可能性が開かれており、人は本当に他者と関わることで救い、癒すことができるのかという問いに両面から迫っていると感じる。

 ただ、こうした決して甘くない認識にもとづいた、むしろしんどい物語として、当時世間は(折しもバブルにわいていた88年、「ノル森現象」とまで呼ばれたという。『広告批評』によるその年のヒット商品1位は「スーパードライ」、2位がノルウェイ)『ノルウェイの森』を受け入れてきたのかというと、果たして疑問だ。大衆にセンセーショナルと認められた受容のコードは、もっと違うところにあったという気がする。では人々はこの物語のどこにフック(取っ掛かり)を感じたのか? 竹田青嗣がこの小説への問いとして「なぜ作家はかくも執拗に、この恋愛小説を内閉した自我を持つ主人公たちの痛手と喪失の物語として編んだのか」という時、この「痛手」と「喪失」を読み取る感性がもしバブルに踊る日本人の中に微かにも保たれていたとするならば、これは現在から振り返るととても皮肉な現象として映らないだろうか。

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日本のキャリア、欧米のキャリア

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 「キャリア」とはいったい何なのか。訳すなら経歴、経験、職業などとなる。世間で言われるように切り開くものなのか、デザインするものなのか、アップさせるものなのか。著者は〈言うなれば、キャリアとは自分が経験してきた仕事の道のようなもの〉だという。しかし現在、この「仕事の道」が見通せない、描けない、途切れてしまうという不安定要素を抱えている人は何も新卒人口という部分に限らず、40代、50代にまで広がっている。この背景には、周知のように日本企業が長期雇用を保証できなくなったことがあげられる。当然、組織と個人の関係にも変化が表れてきた。これはいわば「親子関係」から対等な「契約関係」へ、という流れを必然的に促した。

 では、このように雇用環境が変化する時代、果たしてどんなキャリアをもって成功と呼べるのか。これには〈キャリアの定義とは、実は非常に多様なものであり、何をもって成功とするかは、自分自身で決めることである〉とこたえている。
 「アップ/ダウン」「成功/失敗」という言葉に示されるような「年収」「社会的ステイタス」といった尺度ではなく、もっといろんなキャリアパス(道)があってもいいのではないか。ここにあるのは、真のキャリアアップとは、自分で定義し、作るものだという認識。考える順番として、どうやったらキャリアアップを要領よく成功させられるのかではなく、まず初め根本のところに自分はどう生きたいのか、という思いなり希望があって、キャリアはその達成を助ける一部(手段)なのだということを強調する。

 〈大切なのは、真実のキャリアアップとは、本人が決めることで、本人にしかわからないものであるということだ。この考え方は日本社会ではなかなか理解され難い。世間からどう見られるかを気にするからだ。端的に言って、本人が「自分はこの仕事はキャリアアップになった」と思えばそれはキャリアアップなのである。
 仕事を通して得られた経験、知識、スキル、そしてその広がりが本人の充実感につながり、「去年できなかったことが今年できる」という自覚がキャリアアップなのである。〉

 このように、ひとはどうであれ、本人が満足し充実すればいいではないかという潔さ、シンプルさ、を日本人はもっと働く行動規範として身につけるべきではないかという気がする。
 また、人生のなかで働くということの意味が、ひとつの「職業」という狭い定義のなかでのみ語られることの問題を指摘する。
 欧米の人々なら、転職が日常茶飯事なだけに、職に関してアイデンティティ・クライシスに陥らないためのインフラともいうべきメンタリティをもっているという。だから例えば「たとえ大企業の部長でなくなったとしても、私は私である」というように根っこのところでは揺らぎがない。第3の人生など、次のやり直しがきく社会構造でもある。しかし日本では中高年の自殺が社会問題となるように、過労やリストラなど仕事が原因でポキッといってしまったりする。ここから見えてくるのは、日本と欧米の比較でいうなら、日本人は職に縛られすぎているのかもしれないということ。失業の受けとめ方や認識も違うし、受け皿となる人材、転職市場の成熟度でもおそらく日本は劣っている。転職をはじめいろんなリスクをとって失敗したときのペナルティが高い(敗者復活の道が閉ざされている)というのも日本の特徴のひとつだ。こうしてみると、日本とはそもそも「多様性を認める社会的メンタリティ」がまだ極めて幼い段階にあり、これをいかに築いていくか、という大きな社会的な課題を抱えていることが見えてくる。
 もちろん本書は「21世紀に求められる人材の要件をどうやって身につけていくか」「自分で決めたゴールに向けて、スキルをどうやって集めるか」などキャリアに関する実践的な知恵を公開している点でも有益な内容となっている。

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紙の本国境の南、太陽の西RMX

2003/08/07 13:25

オリジナルが好きな作品だったので、このトリビュートも手に取ることに。まんまとダ・ヴィンチブックスさんの術中にはまっています(笑)。

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 泥酔しているところを僕が介抱したことから目を放せなくなった百合子。彼女は僕に〈わたしは多分、自分の思い出を文字にして文章にして本にして、そして手放してしまっているんだろうな〉と話す。固有の思い出は語られ、活字となり「公」にさらされることによって共有される記憶となる。同時に個人の手を離れた物語へと置き換えられていく。しかし、作家はそのことを自ら望んでいるふしがある。痛々しくも。思い出なんか禿ワシに食われてしまえ、と言うように。自らの思い出が葬送されていくのを眺める主体。その横顔は僕に冷たく凍えているように見えただろうか。〈僕はなんだって良いんだ。百合子さんさえ不幸でなければ〉という思いは、この短編を通じて不変だが、ちょうど中学時代〈島本さんの左足になりたい。もしなれるのならばなんだってする〉と身を焦がしながら夜を過ごしたときの願いと不思議なくらい重なり合っている。百合子との会話が、僕の島本さんとの中学生時代の記憶を喚起する。島本さんは今はもう、どこで何をしているかもわからないけれど〈彼女は唯一の、特別な女の子だった〉ことだけは、むしろ今ありありと感知できるしリアルに迫ってくる。しかし島本さんとの約束はついに全うされることはなかった。
 百合子が書き、発表することで、思い出を希薄化し無にまでしてしまおうとする試みは、堰をきったように思い出が襲ってくるというこころの決壊をむかえて、あえなく破綻する。そこで僕がみせたのは「禿ワシにかわって、僕が全部思い出を食べて消化してあげる。もし思い出といっしょに消化されて、自分が消えちゃうんだとしても君を守る」という覚悟だった。そもそも〈僕の覚悟。彼女の覚悟。それは最初から違うものだった〉のだけれど、お互いを切り結ぶ交点(相互補完)があること、その一事によって救われる。百合子の書いた小説『太陽の西』で最後に到達した認識とは〈「まぼろしでもいい。彼を愛そう」〉という決意だった。そして僕という人間の基底をなしていたのは、音楽準備室で島本さんとナット・キング・コールの『国境の南』を聴いたひそやかな時間(経験)であり、島本さんとの果たされなかった約束だった。国境の南と太陽の西、両者はここでわかちがたく結びつき、僕は現実と過去、ふたりの女性の間(位相)を往きつ戻りつしながら「僕の思い出は僕の思い出に変わりない」という意識から「僕の記憶を全部君にあげるよ。僕という存在は君の妄想(の産物)であっても構わない」という思いにまで変化を遂げていく。ここにいたって自分そのものを相手に捧げ、溶け込ませることにもはや躊躇はない。その積極的な役割の意味を百合子との関係の中に見出す。
 オリジナルとトリビュートになる本作の比較でいうと、僕の設定も違うし、音は似ているが有紀子(オリジナルでの妻)と百合子の状況も違う。ただ左足をひきずって歩く島本さんだけは、オリジナルと最も共通項のある存在として描かれる。オリジナルでの島本さんは「何万年か前に発せられたもういまでは存在しないかもしれない遠い星の光を見ている」ように思われ、「しかしそれはどんなものよりリアルに見える」と僕に言わしめる人である。これはまるで『グレート・ギャツビー』のギャツビーが見る対岸の緑色の光のように、もう手の届かない儚い過去の亡霊のようでもある。島本さんが僕に要求するスタンスは「私には中間的なものは存在しない」というもので、もし私をとるならば、としてこう語られる。「あなたは私を全部とらなくてはならいの。私がひきずってるものや、私の抱え込んでるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部をとってしまうわよ。全部よ。」と。このトリビュートでは、オリジナルでのこうした島本さんの要求を十全にかなえてみせる決意をした《僕》が、百合子との関係において描かれていると読むこともできるかもしれない。

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スキルと思想の間で

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 「仕事」に関して、どうやら世間ではマッチング、相性ということばがキーワードとなっているようだ(検索エンジンで「マッチング」と入力すると人材、雇用に関するものが多くヒットする)。その人と職種(仕事)とのマッチングがはまれば、またとない「天職」となり、その人と会社(企業)とのマッチングがあえば「適職」と感じられ、求職者と面接官とのマッチングがあえば「雇用」がうまれる。
 著者は言わずとしれた勉強法で鳴らす和田秀樹氏だから、さぞかし転職成功のテクニックとスキル(技能)で攻めるのかと思いきや、読んだ感触としては「もっと真剣に自分の人生と仕事について考えよう」というスタンスで、真摯で骨太な内容だったんである。まず序章で「自分と相性が合う会社は必ずある」と言い切ってしまう。いいのか、そんなこと言ってしまって。そんなこと言って、何度も転職を重ねてますますその実感がつかみづらくなっている人はどうするの、どこにそんな根拠があるのという心配が思わず先走ってしまう。「自分と相性が合う会社は必ずある」と言い切ったとき、あらゆる人にむけてその保証はできないのではないか、という点で、これはもはやポジティブな思い込み、ある種の「信念(思想)」だという気がする。論理的ではない。でも、力技かもしれないが、この信念(というか、思い込み)は持っていていいのではないか。自分が会社組織で働き、社会にコミットする意思がある限り、拾う神もどこかにいる、という思いは人を支える最後のラインだと思うから。
 5章の最後で〈世間で人気のある会社に転職できれば、周りから見れば「カッコイイ」が、最終的には自分自身が満足できるかどうかである〉とくる。これはもう掛け値なしに和田氏の痛快な本音、力強い言葉として響いた。このひとことで、これまで述べられてきた小手先の転職スキルと思われかねないものが救われたと思う(自分はこういう覚悟に基づいて企業規模の大小などに動じない自己が築けたらいいなと思う)。
 本書の中心にあるのは、転職するためのスキルである。求心的には自己分析(自分が仕事に求めるものを確かめる等)のスキル提案であり(ちなみに和田氏は「メタ認知による自己の客観的なモニタリング」という表現もしている)、対外(遠心)的には自己表現(プレゼン)のスキル、面接のスキル指南という両面に分類できる。もちろん両者とも社会で生きていくために利益となる「自己実現のためのスキル」に収斂していくものだろう。
 やはりスキル(技能)習得は必要だ、という実感は社会にでると強くなる。世知辛い世間で生き延びるために、よりスマートに快適に世の中を渡るために。さらに言い換えるなら、途中で消耗せずに自分のやりたいことに向けて一点集中のエネルギーを注ぐために。
 そこでもし、スキルを完全に肉体化し、方便化してしまったなら、もっと深く(仕事の)本質や思想にコミットできるのに、と思うのだ(しかし、仕事の本質って何だ?)。だから、まずスキルを身につけようか、ということになる。スキル獲得がアイディアや理想実現のためのブレークスルーになるケースは十分あるのだから(まずスキルありきで手段が目的化してしまう転倒はダメだが、獲得目標のために磨かれるスキルならまったくアリという構造か)。
 和田氏が〈転職先の給料が低くても、そこでいろいろなことを学べて将来開業できれば、それまでの分をすべて取り戻してもお釣りのくる、はるかに大きな金額を手に入れることも可能になる。「三十年後のための、次の十年をどうするか」というような長期的な視野を持って、いかにノウハウを吸収できるか、いかに学べるかということを第一義に転職先を選ぶという手もある〉と言うとき、これはもう小手先のスキルでも何でもなく、すごく頷ける、妥当な職業観だと思うのである。

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紙の本現代日本の詩歌

2003/07/14 10:05

日本の詩は「戦中、戦後」という時代といかに組み合ってきたか。

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 はたして詩の表現領域はどこまで広がっているのか、詩にはなにができて何ができないのか、とかく難解だと敬遠される現代詩はどうしてそのような状況に入り込んだのか、といった疑問にもひとつの了解、納得がもたらされる本だと思う。
 各詩人のもつ特徴をとらえ、その詩が時代の中でどう受けとめられ、詩史の中でどういう試みと達成があったのかをつまびらかにしていく。そしてそれは音数律の面から、喩の性質的な面から、主題や詩の意味内容といった面から著者の深い省察が加えられる。純粋詩から歌謡までにわたる詩が対象となり、取り上げる詩人は、田村隆一から宇多田ヒカルまで縦横に及ぶ。つまり言葉の表現の先端を切りひらき、追求するという詩の一面に目が向けられているだけでなく、多くの人々に強い印象を与え、愛唱される詩とは何かという面からもアプローチがなされている。
 個人的に一番興味がいったのは「戦後を歌うこと」はどういう意味をもっていたのか、ということ。また戦前詩と戦後詩の間に横たわる断絶について知りたいという思いだった。
 〈恥ずかしい、みっともないというのもあるだろうし、政治的に「あれは侵略戦争だったから取り上げるのも嫌だ」という風潮〉を読みとったうえで、戦争詩から戦後詩へ断絶なく移っていったのは『荒地』のグループだったという。「言葉によって現実に拮抗する」ことが可能かどうかはわからないが、それでも言葉によってかろうじて支えられていたのかもしれない懸命な詩人の姿が浮かび上がる。アッツ島玉砕の詩に抵抗の表現を託した秋山清。兵士として戦争を直接に体験し、深い傷となって内向した思い。しかし倫理性に基づく言葉の強い選択性を保って詩の領域を拡大した田村隆一。
 読んでいくうちに、戦後の歪みとしての「分裂と乖離」(この乖離のひとつの証左として〈本来ならば深刻な主観性をもって考えられるべき状況なのに反して、当時の世相が「平和的民主国家の建設」などという景気のいい掛け声ばかりの目立つものだった〉状況も挙げられるだろう)が日本人の精神構造に深く進行、浸透していったことは、この現代にも避けがたく影を落としているという点で、覚え、肝に銘じておいてもいいのではないか、と思うようになった。
 詩歌の解説として特に冴えわたっていると感じた箇所として、塚本邦雄の歌に対する次の解説がある。
〈 平和祭 去年(こぞ)もこの刻牛乳の腐敗舌もて確かめしこと
多くの人々が「平和祭」に集まって大まじめに「平和は大切だ」などといっているけれど、おれは去年も今年もその日は腐りかけた牛乳を飲んでいたよ、というほどの意味である。「平和祭」に象徴される戦後の左翼的な風潮を半分からかっている(略)戦後の多少とも政治的な色彩をもった運動の、当事者にも気付かない腐臭への批判を作品に込めた(略)ある人が平和祭への批判をもっていたとしても、それを腐りかけた牛乳のような全くかけ離れたものを使って表現することは、並の技術ではできない。批判もまた政治的な主張に陥りやすいものだ。〉
 戦後に生まれた己がもつべき、戦争に対する自分なりの認識とは何だろうと改めて考えさせられる。そしてあの戦争で亡くなった人たちを記憶の中から抹殺してはならない、ということも(本書が編まれた意図からは逸脱するのかもしれないが、自分がこの本から一番に受け取ったメッセージである)。
 最後に氏の近著『ひきこもれ』(大和書房)から下記の言葉を引用したい。
〈身近な人が大勢、あの戦争で死にました。(略)そういう人を歴史から抹殺するというか、まるでなかったことのように扱うことだけは、ぼくはしたくないのです。なぜなら、その人たちと同じ立場に、ぼくがいつなってもおかしくなかった。かれらとぼくは、いつでも交換可能だったのです。〉

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紙の本バースデイ・ストーリーズ

2003/03/03 10:07

同時代に生きる11人の感性のごつごつとしたリアルな息遣いが「誕生日」という一本の糸に見事に紡ぎ合わされている。

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氏がこの本を編むきっかけになったのは「ティモシーの誕生日」と「ムーア人」という誕生日をテーマにした二つの優れた作品を立て続けに読んだからだという。その後、残りの作品収集は難航するのだが、この無鉄砲な思いつきとも思える計画を、おそらく楽しみながらものにしてしまうところは、氏の持ち味である、讃岐うどんにも負けぬ腰の強さ、粘り強さが如何なく発揮されているのでは! と思ってしまう。

当たり前だが、「誕生日」というお題目で本を編もうというかけ声がはじめにあって、それぞれの作家がそれにまつわる話を書いたわけではない(例外は、唯一最後に「バースディ・ガール」を書き下ろした、この本の編者であり訳者である村上春樹氏だけ)。

氏が「この10年ぐらいのあいだに発表された、活きのいいコンテンポラリーなもの」を選ぼうとしたのは、どうしてだろう。こう考えることも、ファンにとっては次の作品を期待するうえで、なかなか楽しい材料となる。これらの作品を訳していく過程で氏がどんなインスピレーションを得たか、この仕事中に得たなにかが、次に発表する作品中に伏流水のようにひっそりと流れていくのではないか、ということまで想いを馳せられるからだ。そして、もしあなたが氏のヘビードランカー(?)となるならば、「東京するめクラブ」をはじめとした、あらゆる氏の発表する仕事から目を離せなくなり、チェックを怠れなくなっていく(笑)。

アンソロジーといっても、フリーソウルのコンピレーションアルバムを聴くようにすんなり前の曲から次の曲へとつながっていくという感じではないし、すらすら読みこなせたわけではない。というのは11人の語り口は11様であり、慣れないと非常に読み進めにくい文章があり(「永遠に頭上に」作品がつまらないということではない)、出口の見えない重たい結末(読後感)のため、すぐに次の作品へと読みつぐ気になれないもの(「ダンダン」)もあるからだ。

ただ、逆にそういったすらすらと読み進められない感じが、それだけ同時代に生きる11人の個性、感性のごつごつとしたリアルな息遣いなのだという気がしてくるから不思議だ。

だから本書を編むうえで、「誕生日」を軸としたアンソロジーだとは言っても、振幅の幅は広く、多様性を寛容できる度量ともいうべきものが編者には求められたのでは、という気がしてならない。そう考えると、考え方も感じ方も違う、氏を除くそれぞれ10人の違う方向にとんがっている同時代の個性が、「誕生日」という一本の糸でこの1冊の本の中に見事に収まっているというのはある意味奇跡に近い幸せだ、と言ったら大袈裟だろうか。(このアンソロジーに、今日のアメリカのイラクを巡る緊迫した情勢、9.11以降ますます強まるアメリカの排他的な姿勢に対する警鐘、「政治的な寓意」が込められていると読みとるのは無理があるだろうか)

※ちなみに昔「バイトの達人」(福武文庫)という原田宗典さんが編んだバイトアンソロジーがありましたが、そこには春樹さんの短編「午後の最後の芝生」(芝刈りのバイトをする主人公が登場)が収録されています。これもオススメです。

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紙の本京都スタイル

2003/02/10 09:43

「東京」を相対化するための場所としての「京都」

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「京都」について語った本は数多くあるが、本書は数ある類書とは、趣を異にしている。というのも、西武新宿線で新宿から10分ほどのところに育ち、長じては『アンアン』で東京のおしゃれなお店情報などを集める仕事をするようになった著者、濱田由利さんが、バブル経済崩壊後、「潤沢だったはずの資本は個人にも市民にも、何も潤沢なものを残さずに消えてなくなった。ゆったりとベビーカーを押せる道くらい残してもよかったんじゃないの」と感じる東京を「離れ時」だと考え、東京を「外」から眺めてみる必然性に駆られたところからはじまっているからだ。

まえがき部分に相当する「東京、ありがとう、さようなら」にその想いは存分に語られる。「東京」を相対化するための場所としての「京都」が新鮮だ。

「お仕着せではなく、誰もが自ら関わって風景を作り上げ、文化を醸し出している。そんな街こそが都会」だと著者は、旧き良き新宿を回想しながら言う。この本では、企業主導の演出に踊らされることなく、人は街にどうやって関わり参加していけるのか、自分の生活と呼べるものの足元が脆弱でないと感じられる成熟した街とはどんなところか、といった普段はおざなりにしがちなしかし「生活の手応え」を取り戻すためには極めて大事なテーマが捉え直される。

たとえば、「坪庭」を取り込み、住まいと自然とが共生した町家での暮らしは、今でこそ一部で再評価されているが、戦後主流になったモルタル二階建て、最近の新築に多いサイディング張りの家など、いったいどこの何を手本にして出現してきたのか不明な、住宅メーカー主導でより効率よく採算をとりやすく大量生産された住宅が、今や私たちにとっての当たり前の「住まい」だと刷り込まれてしまっている現実を思い出してみよう。

「いま、東京には闇がない。京都に来る前の私の中にも闇を抱え込む強さはなく、当座の明るさばかりを求めた。その結果、根無し草の自分を自覚することになった。生きるにはスタイルが必要だ。確固としたスタイルがないところには洗練はなく、新しい文化も積み重なっていかない」という言葉が語るところの意味は、東京人にとって重く、深い。

本書で独特の風味と語られている「通圓」のお茶があまりに美味しそうだから、取り寄せて、自分も実際に飲んでみた。玉露の茎が使われている、まったりとしたこの味を、生き方としての「京都」スタイルを思い出すよすがとしたい。

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紙の本「クビ!」論。

2003/07/28 00:10

正しいクビ切り論への共感と仁義なき世界への違和感。「何のために働くのか」という疑問は「何のために生きるのか」「どうやって人生を過ごすのか」という大きな問いかけへとつながっていく。

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 著者は米、仏に本社がある外資系企業の日本支店で1000人を越える社員の指名解雇、つまりクビをきってきた。人呼んでクビキラー。しかし、クビ切りといっては聞こえが悪いが、正しいクビ切りの本質は、「人材の流動化」と「実務の能率化」にある、という。クビ切りが結果的に人と企業お互いのためになるというその意義を感じられるから、この仕事を恥じずに、むしろクビキラーとしての誇りや矜持をもって仕事に臨めるのだ、と。こうしたクビキラーが活躍する、雇用体制が崩壊しつつある現代だからこそ、「働く」ことの意味や本質が問い直され、構築され直すというのは多分ほんとう。
 著者は外資系企業にも問題点があることを明かしてはいるが、こと働くことに関してシステムははっきりしている。端的には、プロとして雇う以上は過程ではなく結果を評価する、結果を出せなかったら辞めていってもらう、逆に結果を出せば即座にpay for performanceを会社に求められる、取りっぱぐれがない、ということ。
 これに対し日本企業の様々な問題点が浮き彫りになる。職人世界に生きていると考えれば、次の現場仕事をさがせばいいだけの話だが、日本企業は切るのみで「解雇と採用のセット」(リシャッフル)の一方である「採用」を機能させていないから、(転職市場も未成熟なために)なかなかそうもいかない。というかそもそも、高度成長期にはあった「終身雇用」や「年功序列型賃金」という保障のもとに、社内でしか通用しない「何でもこなす人材」=ゼネラリストを育て上げてきたから、彼らがグローバルな競争にさらされたとき、個々のプロフェッショナルに歯がたたないという悲劇がおきてしまう。そして〈私には、日本企業の経営者たちが「グローバリズム」の中から、都合よくクビ切りだけをつまみ食いしているとしか思えません〉と手厳しい指摘が「クビキラー」の口からなされてしまうという始末(ただこの著者の梅森さん、リストラや雇用調整の現場から日本の未来を憂いているのであって、悪い人じゃありませんよ)。
 最後にちょっと気になったのが、仁義なきともいうべき世界への違和感。あとがきに、自分が育児休暇をとっていた間、仕事の代行を頼んでいた部下を、自分がもどってきたら、もういらないとばかり上司としてその部下のクビを推挙するというエピソードが示されるが、これはかなりおそろしい(さすがに著者もこの時ばかりは唯一涙したというが)。しかしそういう時にも、人事部長として私情をきって粛々とクビ切りをすすめることが仕事であったそうだ。こういった世界に住んでいると、仁義とは何か、もうよくわからなくなってくるのでは。ここまでくるとモラルはどこに?という思いを強くする。たしかに人は仁義というものに関して殊更美談を好む傾向があるが、これは唾棄されるものでもないだろう。例えば戦国時代の仁義を示すエピソードとして。一一茶会の席で大谷吉継に椀が回ってきた時、彼は癩(ライ)病を煩っていたのだが、その椀のなかに膿が落ちてしまう。続く誰もが、嫌がって飲もうとしないところ、盟友である石田三成がうまそうにこれをすべて飲み干してみせる。これを意気に感じた吉継は敗戦を見越していたにもかかわらず、関ヶ原で三成に力を貸すのを惜しまない一一 (史実かどうかはさておき)自分はこれは単なる美談で済ますというより、ひとの生き方にとって大切な支えとなる仁義やモラルのあり方を示す話だと思うが、これも外資系の働き方の流儀からすると「私情と仕事の混同はプロ意識の欠如」となってしまうのだろうか(比較する時代がおそろしくかけ離れているが、本質は同じでは)。さて。

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SurviveinNY.

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 海外という不慣れな環境で、些細なことでも自分の手で何かを成し遂げたときの喜び。しかしその背景にあった失敗と挫折、押し潰されそうになる不安と現実。それらを乗り越えてつかんだものとは、「なにがあってもやっていける」という自分に対する確かな自信と信頼だった。と、ここまでは海外暮らしエッセイの落とし所だけど、本書はこういった王道、基本をふまえつつ、さらにつっこんだ展開をみせている。

 「観光目的である土地を訪れるのと、実際にそこで生活するのには決定的な違いがある。観光中というのは誰もが非日常的な生活に酔ってハイになった状態 に近いが、実際に生活するには、この酔いから醒めなければならない」とは本文中の言葉だが、まさにその通りだと思う。どっぷりつかっていない旅行者の視点にはそれはそれで別のおもしろさがあるし、名旅行記といったものも世に存在するけれど、その街や土地へのある種、愛憎なかばする気持ち、親身な想いといったものは、そこに暮らした者ならではのものがある。

 帯には「ハゲにもなった、鬱にもなった、ドロボウにも入られた……。でもやっぱり、NYが好き!」とある。読むと、この「好き」という気持ちが導かれるのは、単純な憧れや第一印象ではなく、そういった辛い経験も含めて紆余曲折を経て「それでも〜」ということだとわかって、力強い。しかし、NYでの苦労話が一方的に書かれているわけではなく、そういった経験も自分の中で消化して、笑い飛ばしてしまうたくましさがある。「ユーモアでNYを泳ぎ切る」姿勢と言ってもいいだろうか。

 たしかにニューヨークで日本人が腰を落ち着けて生きていくには、仕事でもビザでも言葉の壁という面でも、立ちはだかるハードな現実は見逃せない(駐在員などの期間限定の人たちは除く)。世界中から成功を求めて野心の強い人が集まる街、生き馬の目を抜く街といった面もある。だからその分、挫折もごろごろしている。ただ、そこでNYという街に呑まれることなく、たくましく生き、しかも楽しく暮らすというワザを体得してやってのけているのが、この本の著者たちなんである。
 「NYという都市のもっているパワー」というのは確かにあるだろう。けれど、「だから何?」というか、NYという場所にいたずらに踊らされることなく、自分を見失わず(ブランド品を買い占めていく日本人観光客を横目で見つつ)、自分をインスパイア(鼓舞)してくれる場所としてNYをいい意味で利用している。

 だから何気ないエッセイと侮ってはいけない。この本に書きつけられた彼女たちの生き様、「ユーモアでNYを泳ぎ切る」姿勢から、NYでのサバイバル哲学といったものまでを読みとることができるはずだから。そして、これは有名人でも何でもなく、この本の読者になるだろう年代層の人たちとそんなに変わらない、あなたの隣にいるかもしれないごく身近な人間から語られている(そこがうれしい)。そこに暮らす者に旺盛な生命力を喚起せずにはおかない街としての等身大でリアルなNY。

 もちろん、NYに鍛えられたのは村上隆(1年間NYに留学経験があり、先日ロックフェラーセンターで大インスタレーションを催したばかり)だけじゃないし、現在鍛えられつつある松井だけでもない(当たり前か)。
 
 著者であるニューヨーク生活向上委員会の3名はそれぞれ、NY在住期間が2年半、6年、10年と異なっており、それぞれのフィルターを通して見つめるNYは、当然だが微妙に違っていて、そのバリエーションがおもしろい。文章のクセ、思考回路の違い、そういったものも含めて20代から30代にかけての3人の女性のリアルがここにはある。
 最後に、本書はニューヨークに行けば夢が叶うという幻想=「NYマジック」への処方箋にもなるだろう。現実と夢の配分を間違えないためにも役立つはずだ。

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中国人のパワーの源泉がわかる!

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 現在、成長軌道にのり経済的にも好調である中国。そんな中、日本には中国を自分たちに取って代わる最大の脅威とみる向きもあるようだ。
 中国のパワーの源泉はいったいどこにあるのか、日本にやってきた新華僑の口からは厳しくも親身な言葉が語られはじめた。
 たとえ深刻な不況下であっても、華僑的な発想でハングリーにがんばれば、必ず道は開けるし、金儲けもできるというメッセージは、彼女の築き上げてきた実績も伴い、説得力をもって私たちに迫ってくる。

 例えばビジネスセンスを磨くために、街で食事をするときにも繁盛している店があれば早速入って、なぜこの店は人気があるのかを探るという。そうやって見れば必ず何かを発見できる。その発見が自分の商売に応用できるのであれば、その食事代金は料理やサービス料として支払ったというだけではなく、プラスアルファのものを得たということ。同じ料金を支払っても、プラスアルファを得る人と得ない人では大きな差が出てくる。
 もしその商売に興味を持ったときには、同じような商品を扱う人気のないお店にも顔を出す。その二つの店を比較すれば、何が繁盛の原因であり、何が不人気の理由であるのかが明確に。比較することで新たな発見ができる。
 友人がやっている単価の安い居酒屋が繁盛しているので、著者も手がけたいと考えているというが、その際、店をどこに開くべきなのか、時間があれば街をふらつくが、これも大事なリサーチになっている。いま注目しているのは品川。東品川には新しい駅が誕生し、大型再開発「品川シーサイドフォレスト」が進められ、大型マンションの建設が進んでいる。この地区には飲食店や居酒屋が少ないので、絶好の立地。著者の弟も今ではラーメン店を経営するまでになったが、彼は新規店を開くときには必ずパンとジュースを買い込んで、ここぞと見込んだ場所に一日中立ち、往来する人にはサラリーマンが多いのか学生なのか、それとも奥さん方なのか、また時間帯別による人の行き来などを調べる。
 そのようなことを繰り返していると、街の人の流れを見ているだけでこの通りならばどのような商売が人気を博すのか、というカンが自然に養われてくるという。
 
 世界中に散らばる華僑のほとんどは、みなゼロから出発するそうだ。しかし彼らは旺盛に働き、タネ銭を稼いで独立しようという気概、意欲に溢れている。彼らの貪欲なまでの商売哲学・手法は不況に喘ぐ日本の特効薬になりうるのではないだろうか。銀座のクラブを経営し、貿易会社を起こすまでになった著者だからこそ語れる金儲けの秘訣が惜しみなく明かされている。

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