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  3. 戸波 周さんのレビュー一覧

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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

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    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

戸波 周さんのレビュー一覧

投稿者:戸波 周

14 件中 1 件~ 14 件を表示

ハードボイルド。アメリカ。

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 本書は、言わずと知れた米国初期ハードボイルドの大家、ダシール・ハメットの連作集「コンチネンタル・オプ」ものの数編をおさめた短編集である。主人公はコンチネンタル探偵社所属の「名無しのオプ(調査員)」(全編とおしてズバリ一人称「おれ」のみ)。小太りの見た目は冴えない中年男だが、危機にのぞんではしたたかさと粘り強さ、そして冷酷さを発揮できる名調査員である。本書にはオプ初登場作である「放火罪および手」や、のちに長編「赤い収穫」(黒澤映画「用心棒」の元ネタになった)へと発展した中篇「血の報酬」など、オプシリーズのなかから「初登場」「連作」「中篇連作」「異色短編」「オプ最後の事件」とバランスよく取り揃えてある。

 この連作集が書かれたのは、急激な工業化と発展によって未曾有の繁栄を現出すると同時に、広がる貧富の差から激烈な犯罪が発生しはじめた、禁酒法とギャングに象徴される1920年代である。全編に暴力と殺人、血まみれた一攫千金の夢が満ちあふれ、しかもそれらをきわめて乾いた描写で放り出してあるハメットの作品に代表される、のちに「ハードボイルド」と総称される小説群がこの時期のアメリカに生まれたのは偶然ではない。こう書いていけば誰もが思い出すのが作家の船戸与一の指摘だろう。

 「ハードボイルドとは、帝国主義下の文学である」。すなわち、急激な工業化と次々に到着する移民労働力のすさまじい搾取、そこから生じる人種の多様化と莫大な貧富の差をかかえた「高度工業化社会と内部植民地を同時にもつ地域」であるアメリカにこそ、この過酷な文学が発生する土壌があったというわけである。事実、ヨーロッパでは「ハードボイルド」ではない探偵小説やスパイ小説がのちのちまで主流であった。明らかに「ハードボイルド」とその過酷な形式がアメリカ文化のものだったこと、やはりヨーロッパ人には違和感(それは「かっこいい」という激しい憧れともなる)があったことを知るには、英国の作家ジョージ・オーウェルが自国の穏健な怪盗紳士小説とアメリカからやってきた過酷なハードボイルドの形式とを対比したみごとな批評「ラフルズとミス・ブランディッシュ」(『オーウェル評論集』岩波文庫に収録)を一読すればわかる。

 本書におさめられた短編集を読み、ハメットの乾いた描写の向こうに透けて見えるのは、そうした「過酷な社会」アメリカが獰猛さを剥き出しにしていた時代だ。そしてそれはもちろん、「過酷な大地」だったかつての西部が剥き出しにしていた獰猛さともつながっていることはお分かりだろう。だが、ハメットの文章には突き放した非情さ、無機質な乾いた描写だけではなく、時としてまったく不釣合いなセンチメンタルさが顔をのぞかせることがある。例えば本書の「銀色の目の女」「血の報酬」のラスト(読んでくれとしか言えぬ)。しかし、ハメットの文体には一見まったく似合わない、中年男がもごもごと愛の言葉を口ごもっているような、そんな不器用なセンチメンタリズムもまた、いっそうハメットの小説世界を引き立てているのだろう。

 ちなみに、いま述べたような「過酷な社会」の条件はこれからのロシアと中国に凄まじいハードボイルド文学を生み出す可能性がある(いや、もうあるのか)。期待大だ。

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紙の本日本兵捕虜は何をしゃべったか

2002/03/22 18:53

戦前日本の限界

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は表題どおり、第二次大戦中捕虜になった日本兵の情報提供と、それを引き出した米軍のたくみな諜報活動とをあつかったものである。日本兵は集団での戦闘中にはおそるべき勇敢さを発揮したが、一転して捕虜となったあとは米軍がおどろくほどよく情報を提供し、協力した。日本軍は兵士に「戦闘」での心得をたたきこむことはよくしたが、敵である米軍の実像や、捕虜にされたあとの対応についてはまったくおろそかであった。よく言われるように、捕まるぐらいなら斬り死にせよという方針があったためである。そのため捕まったことへの過剰な罪悪感と、また虐待されると思い込んでいたのに反して米軍が条約通りの捕虜待遇をしてくれたことへの感激があいまって、日本兵捕虜の大量「転向」を生んだのである。そこには日本的な「世間」の感覚など(玉砕も相互の監視や励ましがあってできたことであり、また捕虜になったあと自分の家族が世間に苛められるのではないかとの過剰な恐れがあった)、その当時の日本社会の性格が色濃くあらわれてもいた。

 日本兵には、全力で戦ったあとで捕虜になることは恥ではなく、捕虜になっても戦争が終わったわけではなく常に脱走の機会をねらうことが義務であるという、ドイツと連合軍双方にみられた粘り強さはなかったのである。このような日本兵捕虜の転向を生んだ、無理な作戦やそれを押し通すためのファナティシズムを徹底した日本軍部の欠陥を責めることはたやすい。

 しかし、戦争を正統な「手続き」とみなして、捕虜下においても権利義務を行使するというヨーロッパ近代の戦争観念が、将校はまだしも日本の貧しい農村出身が多かった兵卒にまで浸透するにいたらなかったことはやむを得なかったであろうし、しかも激しい総力戦の経験を日本が欠いていたこと、ヨーロッパ戦線とことなり太平洋戦争が人種戦争の様相を呈していたことなども考え合わせれば、やはり明治以来積み重なってきた無理がとうとう祟ったと思うしかないのかもしれない。先人が犯した失敗を目くじら立てて追及するよりも、維新以来わずか百年もたたぬうちにいっぱしの帝国主義列強になりあがった日本の躍進がどうしようもなく抱えていった「無理」への同情ある考察が、近代化したはいえ結局は非ヨーロッパである宿命をもつ国民には必要となるだろう。

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紙の本「教養」とは何か

2001/12/11 01:12

生きるための「教養」

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 我々は「教養」を、何か小難しい学説であるとか文学である、となぜか思い込んでいる。そしてそうした「教養」崇拝は、実はなまじ本など読まない人よりも、むしろ多く読書をしてしまう人種にこそ顕著な傾向かもしれない。それは煎じ詰めれば単なる知識の蓄積である。特に明治以後「教養」とはすなわち外来、と決め込んでしまい、さらに戦後も単なる知識蓄積の学校システムで育てられてきた我々日本人にはそうである。 著者はその豊富なヨーロッパ中世史の知識から、このような教養の現状をみつめなおそうとする。そもそも西洋中世において教養とは、職業選択の自由を得た都市民が「私はいかに生きるべきか」と問うたことから始まった。それは真剣な生き方の指針の模索としての作業だったのだ。

 日本には古来から「世間」というものが存在した。それは今も厳然として存在する。だが我々は一度として学校で「世間でいかに生きるべきか」の知識など教えてもらえなかった。西洋直輸入の民主主義のタテマエだけであった。

 阿部氏は、実は日本における教養を、我々の現在における教養を模索しているのである。その試みは本書姉妹編『世間とは何か』から繋がっている。 やたらに本を読んでしまう人は本書を一度読むことをオススメしたい。

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筋肉に担保された正義・権利・公正

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 決闘裁判とは何か。その名のとおり、普通の裁判では決着のつかない問題をなんと当事者間の「決闘」、デュエルで解決してしまおうというとんでもない中世の制度であります。ゲルマン民族の野蛮さよ(笑)。

 しかし、例え身分が違おうが性別が異なろうが、装備と条件にハンデをつけてまで対等に闘わせようとするルールなどはヨーロッパの「フェアプレー」精神のゴツさを見た思いです。それは、身分・性別は違えども決闘リングのなか、すなわち神の前では独立した個人である、という強烈な「個人」の精神の原風景でもあります。とはいえ、野蛮は野蛮、中東の十字軍が行なっていた決闘裁判を見ていた当時の「先進国」、アラブの知識人なんかはもう呆れかえっちゃってます(笑)。こいつらやっぱり蛮族だと(笑)。

 しかしそのエピソードでさらに重要なのは、ヨーロッパ人の野蛮さに嘆息したそのあとでしかし、アラブの知識人は「どうして我々の進んだイスラム文明社会よりも、あんな野蛮な連中の集団のほうがそれぞれの権利が尊重されているように見えるのだろう?」と不思議がっているというところのように思えます。これは、かつて高度文明を築いた中国も実は同じ問題を抱えていたのだと思いますが。先進と後進、文明と野蛮、専制と権利の複雑なパラレル。

 こういう歴史的要素まできっちりと含みこんだ上ではじめて、我々はヨーロッパの思想の長所・短所というものをしっかりと考えられるのではないでしょうか。これはマジで興奮しました。

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紙の本中国任俠伝 正

2002/04/15 13:29

中国文明が生んだハードボイルド

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 「任侠」と言えばいまの言葉では「やくざ」ですが、実際はすこし違います。中国語でも単なるヤクザ、チンピラのたぐいは流氓もしくは流盲(リウマン)。そうではなく、弱きを助け強きをくじく超古典派正当「やくざ」こそ任侠なのです。
 
 著者陳氏は「中国のますらおぶり」を描きたかったと記していますが、わが日本の男道の花道が公に殉ずる武士だとすれば、あちらの男道の華こそまさにこの「侠」なのであります。理想化された武士道が公と私のストイックなタテの間柄とすれば、「侠」は私と私のヨコの関係にあたります。

 才や勇をひっさげた個人が縦横無尽にかけめぐった紀元前の戦国時代には特にこの「侠」が興隆しましたが、「私」どうしの関係が徹底化されたそのビジョンはまさにひとつの美。己を知る者のために死ぬ、頼まれれば死ぬ、理由などいらぬのカッコよさ。かの有名な歴史家司馬遷は、本来なら公の記録からは黙殺されるはずのこれら「侠」に対してその『史記』の一篇をわざわざ捧げています。史記「遊侠列伝」「刺客列伝」がそれにあたります。あたってみたい方は、全篇やさしい日本語訳でよめる岩波文庫の『史記』がおすすめです。

 中国では、何よりも重視される血族などの「私」的なつながりこそが社会で大きな役割を果たしつづけてきました。中国社会のこういう性格が近代化を難しくしているひとつの要因なのでしょうが、「侠」に連なるヤクザの秘密結社である幇や会が社会に持っている影響力は今でも日本のやくざとは比較にならないものがあります。「水滸伝」などにみるように、そのネットワークは内乱をも準備できたのです。

 一時期話題になった新興宗教、「法輪功」もまた中国社会における宗教的な秘密結社(それこそ後漢末の「太平道」以来)の流れをくむもので、当局があれほど恐れるのも中国社会で秘密結社がもちうる影響力の大きさを知り抜いているからなのでしょう。こうしたネットワークの代表格として、『客家』(講談社現代新書)を挙げることもできます。

 少々こじつけのきらいがありましたが、例えば本書にえがかれている「侠」という生きざまをたぐってみることで中国文明のひとつの特徴にまで視線をむけることも不可能ではないと思います。

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「一人前」の思想と自由

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 マーク・トウェインといえば、日本では『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルベリィ・フィンの冒険』などの児童向け冒険小説で知られているように思う。本作『ミシシッピの生活』は、トウェインが十代の半ばか後半で入った蒸気船の水先案内人の修行生活、その後の案内人としての活躍期、そして案内人を辞めてから二十数年経た蒸気船旅行を描いたものである。トウェインは、蒸気船水運が絶頂期だった時代の花形職業だった「水先案内人」を実際に体験したという財産を最大限に生かして、水上から見た勃興期のアメリカを魅力的に描いている。

 「水先案内人」とは何か。それは広大無辺のミシシッピ川の地形をすみずみまで把握しきった川のプロであり、この人なくしては蒸気船の運航は絶対不可能という役割の人間である。しかし一口に地形といっても、北は五大湖付近から南はメキシコ湾口まで注ぐミシシッピ川のそれを把握するというのは並大抵のことではない。また蒸気船は終夜運航していたので、夜はほぼ記憶のみに頼るしかない。川のなかには沈んだ大木や見えにくい砂洲がいくつも存在し、回避するためそれらの位置もおぼえる必要があった。

 見習にはいった少年期のトウェインは、こういったことを「師匠」に怒鳴られ殴られ、もうだめだと弱音を吐きながら叩きこまれていく。かなりの特殊技能を要求される厳しい仕事だったのだ。だがそれだけに「職人気質」的かっこうのよさを漂わせており、当時の子供たちには憧れの職業だった。水先案内人のみならず、蒸気船という存在そのものが非日常的な、ひとびとをどこかわくわくさせるものでもあった。蒸気船がやってくると、それまで眠っていたような街が途端に活気をとりもどした、とトウェインは懐かしそうに回顧している。

 もちろん水先案内人自身もみずからの職業にそれだけの誇りをもっており、本作に登場する案内人たちも大ぼら吹き、借金魔などアクの強い人間が多いもののどこかしら風格がある。それは、完全に独立独行、腕一本で食っている男のゆるがぬ自信と誇りである。とにかく格好いい男たちなのだ。トウェインは水先案内人をこう表現している。「当時の水先案内人はこの世でただひとりの自由・独立の人であった」と。船の所有者である船長でさえ彼に命令することはできなかった。まさにこの水先案内人を通してこそ、トウェインはアメリカのもっとも風通しのよい面、「自由」を描きだしえたのではないか。

 しかしその後の蒸気船商売はといえば、南北戦争以降の統一アメリカの急激な発展、直接には鉄道の勃興が乗客をうばい、一度に大量の貨物を輸送できる曳き舟が貨物部門を壊滅させていった。すなわち、「政府は我々の天職からロマンを奪い、地位と威信を会社が奪った」。案内人を辞めて新聞記者や講演家となり、二十年が経過したトウェインがあちらこちらで目の当たりにするのがこのロマンの残骸である。かつては背筋をしゃんと伸ばし威厳を保っていた案内人たちは老いぼれ、港町はさびれ放題。しかし、それだけの年月と変化をへたのちにトウェインがかつての案内人仲間や故郷の友人と語りあう懐古談もまた味がある。

 リベラルな題目としての「自由」や「民主主義」ではなく、血肉をそなえた骨太な自由の雰囲気を感じるには本書はわるくない一冊である。

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紙の本江戸藩邸物語 戦場から街角へ

2002/03/22 18:47

近代日本を準備した時代

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 本書は「戦場から街角へ」という副題にみるように、江戸初期から中期の転換期にかけて、武士の文化がどう変化していったかを見ていく興味ぶかい概説。
 本書にえがかれている変化は一言でいえば、武士が荒々しい戦闘者から組織の一員たる給与生活者へと到る道筋です。まだまだ戦国の遺風が残る江戸初期の武士は、やれ昨日は勤務外の仕事をしたから疲れただの、どうも朝起きるのが苦手だのと言ってはあたりまえに遅刻欠勤をし、仕事中でさえ勝手に昼寝を重ねるぐうたらかと思えば(このテキトウさは我々がふつうイメージする「武士」とはかなり違っています)、刀の鞘がちょっとかち合っただけで、いきなり路上で殺し合いを始めてしまったりもする大変扱いにくい生き物でした。

 しかし、戦場で命を張るのがまず仕事だった戦国時代が終わり、徳川安定政権のもとで幕府と各藩が組織を整え、ルーチンワークで毎日を組み立てていくようになった新しい時代では武士もそんないい加減では困ります。そこで、組織の側は皆勤賞や遅刻欠勤の罰則などによって武士の時間を細かく管理するようになり、また、以前は鼻先を横切られれば即修羅場を現出した大名行列も、できるかぎり通行人の無礼をガマンするようになります。一方では、大使館として一種の不可侵性をもっていた「藩邸」も、火事への対策などを理由にしてわずかずつですが幕府権力に踏み込まれるようになっていくのです。また武士の私生活においても、主君と家臣というタテの論理を破壊しかねない過激さをもった恋愛=私的関係である「衆道」(ホモセクシュアルですね)も、その過激さにおいて衰弱していくことになります。それらの「時間」や「場所」などの管理化を支えたのは、時計というテクノロジーの積極活用や、各藩の藩邸がひしめく人口過密都市江戸のスムーズな交通と安全を確保するという「都市の論理」、さらには「組織の論理」でもありました。

 そして最後に武士の課題としてたちあらわれるのが、戦で早死にすることがなくなったからには必然的におとずれてくる「老い」の問題です。著者はここで、家人に早寝早起きを強制し(かなり迷惑な主人です)、自らもひたすら長生に精進するほとんど「健康オタク」のごとき旗本、天野長重をとりあげています。しかし偏執的な「健康オタク」に見えるこの天野長重も、その長生き指向は主君に仕える武士という職業倫理と一族を指導する長としての明確な責任に支えられたものでした。彼の長生き指向は現代の「健康オタク」のような単なる自己目的ではなく、武士としての着実な人生設計だったのです。その点に、我々は転換期に人間いかに生きるべきかのひとつのスタイルを見ることもできるでしょう。

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紙の本剣鬼

2001/12/11 01:35

柴錬暗黒面の結晶

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 柴田錬三郎といえば代表作「眠狂四郎」など、ニヒルで孤愁を漂わせた主人公を描くことで知られている。本書に登場する「剣鬼」たちも皆一様に同様の暗い影をまとっており、作者得意の人物造形が凝縮した感が強い。
 だが、大衆小説としてダンディズムや美男が強調された眠狂四郎にくらべ、本書の主役たちが背負っている闇は遥かに濃く、深いものである。そこには一抹の救いもない陰惨ささえ感じさせるが、むしろこの陰が作者の本領ではあるまいか。
 特に中篇「刃士丹後」のミもフタもない陰惨さがオススメだが、ハンセン病を一つのモチーフにしたこの作品、今ならとても活字にならんだろうと思う。主人公が人間ではなくほとんど妖怪のレベルに達している点で、山田風太郎の幾つかの作品や、司馬遼太郎の忍術小説のなかでも短編「最後の伊賀者」に近い鬼気を感じる短編。

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おたく論の結晶か

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 本作は『澁澤龍彦の時代』題されているが、読者は前もって澁澤に関する詳細な知識を要求されはしないし、また澁澤を広く紹介しファン層を開拓しようといういわゆる「入門書」などでもまったくない。著者は澁澤龍彦という「おたく」の先駆者の軌跡を通して、各時代の相を鮮やかに提示してみせる。そしてその作業は、まず何よりも「おたく」的な感性が無視できないほど広がり一般化し、病理さえ呈し始めているこの「現代」という時代への問題意識から始まっていることは見逃せない。さらにいえばそれは、著者自身が「おたく」であるゆえに感じ取ることができたものなのである。おたくによるおたくのための、単なるマニア的情報蓄積を超えた、生き方の模索。その点で、著者の問題意識は他の著作とも通底している。

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紙の本緋色の時代 上

2002/05/10 13:17

ダイナミズムの欠如

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船戸与一と言えば自説の「ハードボイルド=植民地下の文学」論に愚直なまでに忠実な、そして兇暴なほどの直截さで血飛沫と硝煙の冒険小説を書きつづけてきた作家だ。
「帝国主義の断面をえぐりだす」という点で、ラテン・アメリカ、ベトナム、インディアンなど「叛アメリカ史」を生きる分子をこれでもかと言うほどに暴力のるつぼに叩きこんで渾然一体化してみせた『非合法員』から南米三部作、近年ではもっとも有名だった『砂のクロニクル』にいたるまで、その作家性はハッキリとしてる。それこそ兇暴なほどの愚直さ、直截さでそのモチーフは一貫してるのだ。それはアイヌ叛乱をあつかった時代小説、『蝦夷地別件』でもまったく一貫している。そのことを「相も変らぬワンパターン」だとする批判もあったが、当たり前のことだ、その鍛えぬかれた鋼のような「ワンパターン」こそ船戸文学のパワフルさ、兇暴さの源じゃないか。

むろん僕は、船戸文学が「帝国主義下の文学」という原理に則っているからといってその作品を「帝国主義批判」その他、安直な政治プロパガンダで解説しようなんて思わない。どうせ小説は小説じゃないか。しかし、「たかが」冒険小説だという、その「たかが」の虚構性、ウソの部分にこそ船戸文学の圧倒的な凶暴性や熱狂が宿りうるのだ。船戸文学がほとんど叙事詩のような、近代なんぞ無視したバカでかいスケールの想像力を抱えてしまっていることはよく指摘されるが、実際問題、それはコンラッドの「闇の奥」の植民地=フロンティアが人間の限界を壊してしまったあの狂気のスケールのバカでかさと同様、十九世紀の産物が二十世紀に生き残った残滓であって、少なくとも二十一世紀の今日にはほとんど死滅している(植民地的構図が、じゃない。圧倒的な凶暴性とか狂気のスケールがだ)。

そこで最新作『緋色の時代』となる。ソヴィエト崩壊、なし崩し的な市場経済のアンダーグラウンド化に、アフガン植民地戦争の生き残りたる帰還兵がマフィア化して噛んでくる。アメリカ20年代の野放図な資本主義下での犯罪社会を描いたハメット作品の構図に近いところもあり、こりゃ船戸の本領発揮ではないかという気が読む前にはあった。
しかし読後には…失望せざるをえなかった。延々とつづくマフィア間の殺戮。なるほど血飛沫だらけだ、最後にゃ自走砲だのヘリまで動員してる。だがたくさん殺しゃいいってもんじゃないだろう。船戸文学は単なるスプラッタ暴力がウリじゃない、その血飛沫と硝煙の背後にある世界の構図を直撃する「ダイナミズム」があってこそのバイオレンスだったんじゃないのか? そのダイナミズムぬきの殺戮や血飛沫はあまりに単調で眠気をもよおす。いきなりロケットランチャー撃ちゃいいってもんじゃないだろう。

もはや第三世界革命や左翼の図式が無効になったからなのか、この脱力っぷりは? そうじゃないだろう、左翼図式など抜いたところでも、ある状況を規定している社会の、世界の、そして歴史の深い「構図」そのものを見破り、直撃する視線があれば船戸文学のダイナミズムは決して死にはしない。いまのロシアに関しても、その船戸文学の鋭い視線でみぬきうる本質は、必然的に独裁を要求せざるをえないロシア民衆の恐るべきアナーキズム的傾向など、いくらでもあったはずだ。
なるほど、全編にわたって殺戮と血飛沫が展開され、「アナーキー」な状況があったかもしれない。しかしバクーニンなどのロシア・アナキストが体現したようなロシアの本質的要素としてのアナーキーのリアリティを、船戸文学のあのダイナミズムをもって抉りだしただろうか、この殺戮の群れは。それには疑問を呈せざるをえないのだ。コサックなどの歴史的な存在を描こうともしているが、それも不十分だったような気がする。
ダイナミズムの欠如。『緋色の時代』に僕がおぼえてしまった「退屈さ」は結局、それだった。

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革命商人 上

2002/03/22 18:52

志とは

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 本書の舞台は1970年代のチリ、あのサルバドール・アジェンデの社会主義政権からアウグスト・ピノチェトの軍部独裁へといたる激動の時代である。南米共産化を阻止しようとするアメリカの介入工作やピノチェト独裁下での左翼粛清など、血なまぐさい要素が多いこの時期は、スパイ小説や冒険小説にうってつけのようであるが、本書の主役たちはその混乱時代を商売に賭けたわれらが日本の総合商社である。

 これはつねづね思うのだが、国際政治を主題にした小説でアメリカなどのように巨大な軍事的プレゼンスやそれに基づいた世界政策をもたない日本(と日本人)を主役にすえる場合、たいてい仮想の近未来戦争シミュレーションや非現実的な日本人の凄腕エージェントをつくってしまい、ごく基本的なリアリズムの点でいまひとつになってしまうことが多いような気がする。たとえばぼくは船戸与一の冒険小説が好きなのだが、叙事詩のように雄大な構想力をもつその作品で唯一不満なのが日本人の主役がまったく現実離れしていることだったりする(もっとも作品の性質上これはやむを得ないのだろう。等身大の日本人が船戸のパワフルな冒険世界に占める場所などないし、その叙事詩的世界を「リアリズム」の面で切ることじたいがだいたいムリなのである)。

 本書はその点、日本の経済ネットワークを日々支えている商社というあまりに現実的な存在を主役にすえたことで、非常なリアリズムを獲得している。しかしそのリアルさというのは「卑小さ」の謂いではない。登場人物のある者はチリの下層社会に共感を寄せ、「アジェンデを男にしてやりたい」(このセリフがいい!)と社会主義政権への支持を露わにしながらも、その実アジェンデ政権下でのビジネス独占という一発逆転の夢を抱いている。またある者は社会主義政権の登場によってそれまでのビジネスの破綻に直面しながら、第三勢力である軍隊とのコネクションを通じることで危機をのりこえることをもくろんでいる。そしてその過程では、左翼ゲリラの武装資金になりかねないビジネス上のリベートや武器輸出三原則に触れかねない軍との取引など、ゼニカネのからむ生々しい現実が顔をのぞかせる。そのリアルさというのは軍事的な考証の細かさといったたぐいのものではなく、日本の総合商社という存在がそうした激動の情勢下においてあくまで商売に徹して思考し、行動するところであらわれてくるものなのである。ゴルゴのような超人的エージェントの活動や、仮想戦争下での日本といった万に一つの危機的状況ではなく、輸入された食品を食い服を着て日々生きてあるところの我々とつながっているレベルの「国際政治」が見えてくるのだ。

 そして、そのレベルの「国際政治」を描いた本書には紛れもなく本物のロマンがある。空虚なイデオロギー的言辞をあやつることがロマンなのではない(ちなみに、軍事オタクが喋々する「現実主義」もこれとまったく異なるところはないひとつのイデオロギーだけどね)。男は仕事だ、そのゼニカネの現実のなかでいかに志を遂げるかこそがロマンじゃねえかという万古不易の声を、ぼくは勝手に本書から聞き取ったのだった。

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もはや紛争すら娯楽にできるワレワレ先進国民よ!

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 この本はそのタイトルが示す通り、世界の主な紛争地について網羅した奇書である。たしか九十八年頃に最初に書店で見かけたとき、「これは!」という予感に取り付かれて購入した。大変厚い本であったが(ざっと七百ページ以上)、読み始めてすぐに「求めていたのはこれだった」と確信した。通常の戦場ジャーナリストが書いたルポとは違い、「体験ガイド」とある通りに危険地帯での「事故回避術」が事細かに述べられており、誘拐やら賄賂の額の相場といった一見突拍子もないようでいて現実的なアドバイスとなっている。もし「危険地帯」に行くことがあれば参考に出来そうだ。というかこの本の影響で行きたくなる…。

 七百ページという厚さから、この本は一時期ニュースを騒がしたボスニアやらルワンダやらといったメジャーな紛争地から、ブルンジ、ブーゲンビルなどまったく大手メディアの箸にも棒にもかからない世界の隅のローカル紛争地まで網羅することに成功している。誰が行くんだ、こんな所に…という疑問も浮かぶが、彼らは行くのだ。危険な場所であればどこへでも飛んでいくのが著者ペルトン以下の生きがいらしい。自分たちのことを「DPオタク」と呼んではばからない猛者たちなのである(DPとはデンジャラス・プレイシズ、危険な場所。そのまんま)。元傭兵だのフリージャーナリストだの怪しげな男たち。だが彼らの体験談は本物だ。

 基本的にこの本は各国ごとの章に分かれており、その国の地図や交通機関、「ここが危険な場所だ!」などの実際的アドバイスに始まりその国の簡単な歴史、紛争当事者たちの説明を加えて構成されている。そして、全ての国にではないが彼らが実際に旅行した体験記が最後に付されており、これが抱腹絶倒。起こった事実そのものがブラックジョーク、といった感のある話ばかり。

 例えばボスニアの体験談では、フリージャーナリストの主人公が次から次に無茶苦茶な状況に遭遇する。まずはセルビア側の検問に引っかかって嫌がらせを受け(恐ろしいのは、連中の背後にロケット弾で破壊されたBBC放送の取材車が転がっていること。「ジャーナリストだから勘弁して」という言い訳はまったく通じない世界であることを暗示)、続いて辿りついたイスラム側の陣地ではいきなりヒゲ面の屈強な男どもに拘束されてしまう。どう見ても現地人ではなく、遠くアフガニスタンからお越しの義勇兵の皆さんであった。連れ込まれた小屋ではイスラム式異端審問の開始である。「アッラーを信じるか」といった、他人の信仰など無視した容赦ない尋問が浴びせられる。前もってコーランを熟読していた主人公は預言者ムハンマドの言などを引用しつつ、何とか切り抜ける。その後も、防弾仕様もクソも無いただの中古車を駆ってあちこちの陣地を走り回るのだ! スナイパーやらロケット弾に怯えまくりながら…。ドタバタ劇に近い印象さえ覚えるが、紛れも無く実体験である。実体験だからこそ、その状況の支離滅裂ぶりが一層面白いわけだが。

 この本の特徴というのは、各人の体験談の語り口にも見られるようにある種のユーモア精神で状況を描写していることである。この狂った状況が面白くてたまらず、それを目一杯愉しんでいる雰囲気でもある。体験談以外にも各所でその「DPユーモア」が発揮されているのが目に付く。例えばアフガニスタン編の「ここが危険な場所だ!」欄に記されている「全土」の文字。全土…(地雷の数が半端ではないらしい)。またはロシア編の「政府」の項目には…「ないに等しい」。実に痛烈かつ率直。この感覚がなんともいえず愉快である。戦争はもはや娯楽だ!

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紙の本クライシス・フォア

2002/03/20 16:11

リアリズムは分かるが。

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 アンディ・マクナブ、知る人ぞ知る元SASの覆面作家です。さてそのマクナブの小説ですが、最大の武器は何といっても異常なまでのディテールです。これまでの軍生活から獲得されてきたその豊富な経験が、彼の小説には金銀細工のごときディテールとしてちりばめられております。だがそこには重大な欠陥があった。それは………。
 
 <マクナブってディテールしかないんじゃない? 説>。この結論に達したのは『クライシス・フォア』読後でした。しかしこの結論も、第一作『リモート・コントロール』ではまだ疑念にすぎませんでした。それがとうとう…。『クライシス・フォア』は第一作とおなじくディテール絶好調だったのはたしかです。しかし、私に最初の疑惑が湧いたのは小説を三分の二まで読み進めたところでした。主人公ニックが、ターゲットの潜伏している湖岸の家を観測したのち侵入し、ターゲットを連れて森林を逃亡するというストーリー中の一シーンだったのですが、この人このシーンだけで三分の一使っちゃってるよ…。
 たしかにストーリー展開に欠かせないシーンだったのは間違いありません。しかし、重大な伏線が埋め込まれているわけでもなく、単に状況が進行しているだけのアクションシーンにこれだけ費やすのはいくらなんでもやりすぎであることくらいは、私にもわかります。ちなみにこの小説自体、伏線など限りなくゼロに近いです(笑)。ディテールへのこだわりが必然的にかかえてしまう弱点が、ここにあらわれています。
 <やりすぎる男、マクナブ>。お前のディティールは過剰だ。そんなフレーズが頭にうかんだ瞬間から、私はこの小説の行く末にすこしずつ不安感をおぼえはじめました。

 そしてクライマックス、裏切りが、策略が、銃弾が炸裂します。なんてことだ、まさか奴が! ショックを受ける読者(受けねえか)。なぜなんだ!? この問いに、作者がスパッと種明かしをしてみせてくれねば困ります。この『クライシス・フォア』、策略そのものは何となく予想できていたのですが、「敵とその動機」がまったく予想できない組み合わせだったため、私は手に汗にぎってラスト数ページを読んだ私は、ところが、ラストシーンで主人公の上司が言い放ったセリフで目が点になってしまいました。
 「完全にわかるということは、ないんじゃないだろうか?」 おいこら、なんじゃそりゃ。
 
 今にして思えば、前作『リモート・コントロール』から怪しかったのです。前作でも主人公は策略と罠にはめられますが、その敵の動機がやはり曖昧なままでした。その人物がその行動を取る必然性がはっきりしないのです。いきなり裏切りが発生し、そこに陰謀論めいた「状況説明」がくっついていたのでした。大状況を説明したとしても、それに個人がどう影響されていったかの「関わり」を描いてもらわないとドラマになりません。ことに、いかに巧妙なギミックで読者を驚かせ、愉しませるか、を売りにしているスパイ小説や冒険小説ではなおさらです。それを回避する敵前逃亡は指弾されるべきで、マクナブが『クライシス・フォア』でやってしまったのは、まさにそれだったのです。
 
 とはいえ、私はマクナブ作品をまるっきりの駄作とは言い切れません。何度も強調しているディテールの素晴らしさもさることながら、人間の描写にもときに光るものはあります。第一作『リモート・コントロール』ではニックが惨殺された親友の娘と逃亡生活を続けるのですが、この幼い少女と無骨な軍人あがりとの触れ合いの描写はなかなか泣かせますし(ちなみに作者のマクナブにも娘がいます)。とにかく、次回作に期待するのみ!

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アマゾンの皇帝

2001/12/11 01:21

帝国主義・モノカルチャー・そしてパロディ

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 本書は、野放図で大風呂敷な帝国主義の時代が終わる寸前の十九世紀末、落魄した中年スペイン人の主人公がひょんなことからブラジル奥地アクレの欲得ずくのインチキ革命騒動に巻き込まれるさまをパロディ、皮肉満載で意図的に三文芝居にしたてあげた秀作。

 帝国主義がもたらしたモノカルチャー、使い道がない富をただもてあましている愚かな特権階級、一攫千金を求めて人生の大半を無駄に過ごしてきたような冒険者の末裔たち、そしてそれらすべてを飲みこみ消化してしまう巨大なるアマゾンとジャングル。これらの要素が、文化も文明もあったものではなくごった煮になっているラテンアメリカはそれだけでコメディの様相を呈しているといえまいか。

 これはいまはなき冒険者たちに捧げる書でもある。そもそも最初に乗り込んできたスペイン人征服者ピサロの時代から、ラテンアメリカは出たとこ勝負、腕一本の冒険者どもが見果てぬ夢をもとめてさまよう地だった。本書の主人公がスペイン人であるのは、その意味で暗示的である。

 とにかくこいつは抱腹絶倒の「三文小説」であると保証する。

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