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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

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    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

yama-aさんのレビュー一覧

投稿者:yama-a

339 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本日本語語感の辞典

2010/12/16 00:50

引くのではなく読んでみよう(もちろん引いても良いけど)

47人中、47人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 収録語数は約1万語──国語の辞書としては如何にも貧弱である。にも拘わらず僕がこれを買い入れたのは、この辞書を引こうと思ったからではなく、これを読もうと思ったからである。直感的に、これは読んで面白い本だろうという気がしたからである。
 言葉というものは、ひたすら実用を追い求めていると実はあまり身につかないものである。必要なときに必要な意味を確かめるのではなく、ただ何の必要もなくそぞろ読むのが多分この本の正しい使い方なのではないかと思ったのである。
 果たして現物が届いて座右に置いてみると、思ったよりも引き甲斐のある辞書ではないか。考えて見ればそりゃそうである。一口に1万語と言ってしまうと少ないように思えても、類義語がない単語は最初から除外される訳で、ニュアンスに迷う例は意外に網羅されているのである。
 例えば「アメリカをはじめ、イギリスやフランスなど多くの先進国が」などという場合の「はじめ」であるが、僕はいつも「初め」なのか「始め」なのか迷った挙句平仮名で「はじめ」と書いていた。試しにこれを引いてみると、「初め」は時に関する静的なイメージ、「始め」は事に関する動的なイメージという解説がそれぞれにあり、上記例文のような用法は「始め」の項に含めた上で、「いくつかのうちの主なものをさす用法では仮名書きが多い」と書いてある。
 なあんだ、これで良かったんじゃないか、となる。
 例えば「解き放す」と書いていて、あれ?「解き放つ」が正しいのか?などと考え始めると解らなくなってしまうことがある。試しにこの2つを引いてみると、基本的に同じ意味で、どちらも間違いではないが、「『解き放つ』のほうがやや古風で大げさな感じがある」とある。
 なあんだ、どっちでも良かったんじゃないか、となる。
 そういう風に引くと時々そういうヒットに出くわす。ただ、毎回ではない。あれ?載ってない、ということも決して少なくない。それで良いのではないだろうか。やっぱり僕は座右においてそぞろ読み、である。
 近頃こういう言葉の微妙なあやと言うかニュアンスと言うか、そういうものの違いを嗅ぎ分けられる云々以前に、そういう細かいことに全く何の興味のない人ばかりになってきて、僕としては心底淋しい限りであったのだが、そんな中この本とは良いお友だちになれそうな気がする。そう、先生ではなく良いお友だち──これはそういう辞書である。
 ちなみに、上記の「言葉のあや」の「あや」の漢字として「文」「綾」「彩」のどれが適切なのかはこの辞書には載っていない。別に嘆くことはない。他を当たれば良いのである。いろんなところを当たれば当たるほど、いろんなことが身についてくるはずである。 これはそういう書物である。そして、所詮そういう網羅性にやや欠ける書物であるということを認めた上で、この辞書を編んだ中村明氏のご苦労に思いを馳せると頭が下がる思いである。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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蘊蓄を書いて嫌味になってしまうか面白いと言われるかは、ひとえに書く人の文章能力と人柄によるのである。この著者にはそれが両方備わっていたようだ。

19人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 多分不遜に聞こえるだろうけれど、僕は「ことば」については割合明るい方だと思っているので、読む前は「タイトルに反して結構知っていることが一杯書いてある今更ながらの本なんだろうなあ」と思っていた。いわゆる「日本語ブーム」には辟易気味なので普段なら手に取らない本なのだが、どうも評判が良いのでついつい買ってしまい一気に読み終えた。
 で、最初に感じていた疑念に関して言うと、意外に知らないことのほうが多かった。しかし、この本のポイントは、そういう知らないことがどれほどたくさん書いてあるかではなくて、どれほど面白く書いてあるかなのである。
 著者が教えている日本語学校の生徒たち(もちろん全員外人)が次から次へと繰り出してくる間違った日本語は、それぞれ面白く脚色したものでも何でもなく実際にあったことをそのまま書いてあるだけなのだが、これが読んでいて相当に面白い。日本人では到底思いつかないことばかりで、そういう発想のギャップの面白さこそがこの本の中心的な魅力になっている。
 そして、そんなエピソードの紹介に加えて、著者が外国人に教えるためにやむなく身に付けた日本語の蘊蓄が解説として続くのだが、蘊蓄を書いて嫌味になってしまうか面白いと言われるかは、ひとえに書く人の文章能力と人柄によるのである。この著者にはそれが両方備わっていたと見えて、読んでいてとても面白いし、日本語についてさらに考えるきっかけにもなる。かと言って薬臭かったり偉そうだったりもせず、あくまで暇つぶしの読み物ですよーという感じが漂っていて、これは非常に正しく楽しい「日本語本」であった。蘊蓄の類も日本史や国民性比較あたりに留まらず、花札やらゲーム機まで飛び出してくる、この広がりが笑えるのである。
 多分まだまだネタがあるのではないだろうか? うむ、続編が出たらきっと買っちゃうだろうなと思う。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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『羊をめぐる冒険』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の間

19人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

(BOOK1-2通じての書評です)デビュー作の『風の歌を聴け』以来30年間、初版発行とほぼ同じタイミングで少なくとも長編は全て読んできた。その僕が思ったのは、おいおい、これは面白いぞ、ということだった。
 ここのところの村上の小説の中では飛び抜けて面白いし、ここ数年の日本文学の中でも相当面白いほうではないかと思う。もちろん面白いということが小説の評価の全てではない。ただ、言うまでもないが、それはとても大きな要素なのである。
 『海辺のカフカ』あたりから、僕はどうも春樹が面白くなくなってきたという感じを持っていた。年を取って来ていろんなものを意識し過ぎているのではないか、メッセージはもっとぼやけても良いから、昔のような疾走感のあるストーリーはもう書けないのか、などと思ってきた。今回は久しぶりにストーリーが疾走し、うねり、その中で登場人物の血液が脈動しているのが感じられる。読者は引きずりまわされて、その後どうなるのか知りたくて本を置けなくなってしまう。──こういう感覚は『ねじまき鳥クロニクル』以来ではないだろうか。
 天吾を主人公にした章と青豆を主人公にした章が交互に出てくる。当面この2つの章には全く繋がりが見えない。──こういう構成を見て、村上ファンなら誰でも『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出すだろう。あの当時、ああいう構成は非常に新しかった。村上春樹が初めて試みた章構成なのか、それとも誰かの真似をしたのかは知らないが、ああいう構成があれほど巧く機能した例はなかったのではないか。特に最後の最後で2つの章立てがああいう風に交錯して来るのか、という驚きがあった。
 もちろん『1Q84』は『世界の終わり』の続編でも、それをなぞったものでもない。そもそも今ではそんな構成は多くの小説で採用されていて珍しいことでも何でもないし、ここでも単に似たような構成を取っているだけで、行きつくところは自ずから違っている。
 でも、久しぶりに村上春樹らしい小説だなあという気がする。
 タイトルの年号に使われているQというアルファベットが何を意味するのかは小説を読んでもらえば良いが、これはジョージ・オーウェルの『1984年』を踏まえているだけではないと僕は感じている。1984年という年は村上春樹が『羊をめぐる冒険』を書き上げて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を刊行するまでの間に当たる。
 本当にその頃の村上春樹を想起させる作品なのである。ただ、必ずしも昔の村上春樹が帰って来たという感じでもではなくて、ただ村上春樹らしさが全開なのである。
 二日酔いで具合の悪い青豆がベッドで天井を見ながら過ごし、「天井には面白いところはひとつもなかったが、文句は言えない。天井は人を面白がらせるためにそこについているわけではない」と思うところ(BOOK1 p.280)とか、電話口で沈黙した天吾に小松が「おい、そこにいるのか?」と呼びかけるところ(BOOK1 p.358 明らかに Are you there? という英語の和訳である)とか。父親が入っている療養所を訪れた天吾に対して父親は「遠くの丘に蛮族ののろしが上がるのを見逃すまいとしている警備兵のように」何も言わない。「天吾はためしに父親の視線が注がれているあたりに目をやった。しかし、のろしらしきものは見えなかった」(BOOK2 p.202)とか、ふかえりについての描写で「ついさっき作り上げられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのような、小振りなピンクの一対の耳がそこにあった」(BOOK2 p.255)とか。──長年の読者はどうしてもそういうミニマルなところに喜んでしまう悪癖があるのだが、もっとトータルな部分でももちろん村上春樹らしさは全開である(ただし、これから読む人のために詳しくは書かないことにする)。
 セックスに関する描写がいつもより多いような気がして、はて、村上春樹っていつもこんなに性を描いていたっけ、と考えてみるがよく思い出せない。それよりも、これを読んだフェミニスト団体が「男性にとって都合の良い女性像である」とか「幼児ポルノを助長する描写である」などと怒り出さないか、意地の悪い社会学者や心理学者たちが「これが村上春樹の抑圧された性的嗜好である」などとお門違いの批判を展開しやしないだろうか、と読んでいてひやひやしたりもした。
 さて、今回はわざと取りとめもないことばかりを書いてみたのだが、さすがに散漫になって来たので、僕が読んでいてふと思ったことを書いてみる。それは「権威を無力化すると世界は相対化する。それが良いことであるか悪いことであるかに拘わらず」ということ。
 この小説は今まで村上春樹を読んだことがないどころか、そもそも小説というものを普段読まない人までもが手にしているという。とても良いことだと思う。どうです? 1000ページの大著であっても、面白ければあっと言う間でしょう? そして、何を感じたのか、何が読み取れたのか、自分自身で整理してみてください。村上春樹が何を書きたかったのかなんてことは考える必要がないから。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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何のためにそれを習っているのかを、習い始めるときには言えない

18人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自分の読んだ本を他人に薦めることなど滅多にしない僕がほんの30ページほど読んだところで早くも(雇用関係の仕事に就いている)妻に薦めていた。それほど全てが腑に落ちる本だった。見事な論理展開で文字通り正鵠を得た指摘であり、スリリングでショッキングで、おまけに示唆に満ちている。
 若者は何故学ばない/働かないか? それは彼らの怠惰のなせる業ではない。もし単なる怠惰であるなら「『うっかり教師の話を最後まで聴いてしまった』ということがあっていいはずだ」(67ページ)と著者は言う。それはむしろ自らが主体的に選び取った生き方なのである。なぜそんな生き方を選び取るかと言えば、彼らは物心ついた時に労働主体としてではなく消費主体として社会に登場したからであり、市場原理に従えば自分から努力して学ばないという生き方はある種必然性を帯びてくるのである。だからこそ、彼らは学校で「先生、これを勉強すると何の役に立つんですか」という問いを平然とぶつける。しかし、筆者が言うには「何のためにそれを習っているのかを、習い始めるときには言えない」のが学び本来の特質なのである。
 第1章「学びからの逃走」で学ばない若者の心理を分析した後、第2章「リスク社会の弱者たち」を経て第3章「労働からの逃走」で今度はニートなど働かない若者たちを総括している。
 僕のこの文章では相当割愛してしまっているので、どこがそんなに見事な分析なのか解りにくいと思うが、目次から副題を抜粋しただけでもこの書物の卓越性が窺い知れる。
 「学力低下は自覚されない/教育サービスの買い手/不快という貨幣/未来を売り払う子どもたち/リスクヘッジを忘れた日本人/自己決定する弱者たち/実学志向/「学びかた」を学ぶ/家族と親密圏/余計なコミュニケーションが人を育てる」等々。
 僕は今日に至るまで、「徹底して成熟した個人主義」を人生の指針として生きてきた。この本を読んで、その指針に少しヒビが入った気がする。日本の未来のために自分は何をすべきかということを強く意識させてくれる本である。
 僕より1ヶ月半前に書評を投稿しておられる鳥居くーろんさんの結びの文章の「その第一歩として……そうだな、草むしりからはじめようか」という表現に妙に親近感を覚えてしまった。そう、まずは身の周りの小さなことからだね。
by yama-a 賢い言葉のWeb

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、「無料にすることによって売れる」という逆説が実は紛れもない現実なのである。

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ロングテール』は僕が今までに読んだ Web 関連のマーケティング論の中では抜きん出て面白く説得力のある書物であった。そして、同じ著者によるこの本も、前作ほどのインパクトはないものの、論点はしっかりしており、真摯な調べ方をしているのが伝わってくるし、立ち位置も非常に好感が持てる。
 出版界の人間がこういう本を書くと往々にしてインターネットに対する偏見と憎悪だけが前面に出たものになりがちなのであるが、さすがに『ワイアード』編集長である。時流を正しく見抜いている。
 ここでは内容についてはあまり深く触れないでおく。要はロングテールの次はフリーなのだ。そして原題"FREE"には"THE FUTURE OF THE RADICAL PRICE"という副題がついている。そう、確かにフリー(無料)と言うよりも、急進的/過激な価格(の変動)と言った方が論旨が伝わるかも知れない。
 著者はフリーについては4つに分類しているが、その中でも特に強調しているのが「フリーミアム」である。どうやらこれはフリーとプレミアムの造語らしく、一般の利用者に対しては無料でソフトウェアやサービスを提供し、一部のコアな人たちにプレミアム・バージョンを販売することによって、その売上で全体を賄うという企業モデルである。
 そして、この本を読んでいて面白いのは、筆者がなかなか筆の立つ人であるからである。
 「インターネットとは、民主化された生産ツール(コンピュータ)と民主化された流通ツール(ネットワーク)が合体したもので」(231ページ)、「近年の傾向を見ると、テレビの視聴時間はすでにピークを過ぎている。人々は同じ画面でも、消費するだけでなく生産もできるコンピュータの画面を選ぶことが増えているのだ」(250-251ページ)等々、読んでいるとなるほどと頷いてしまう箇所も少なくない。
 ともかく、ここで展開されているのは、「無料にすることによって売れる」という逆説が実は紛れもない現実なのであるという主張である。しかし、彼はこう続ける:「フリーは魔法の弾丸ではない。無料で差し出すだけでは金持にはなれない。フリーによって得た評判や注目を、どのように金銭に変えるかを創造的に考えなければならない」(310-311ページ)と。
 そして、彼こそはそういうことを最初に創造的に考えた人物であると言って良いのではないだろうか。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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否定できない共感がある

15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕が惹かれたのは『バカと暇人』という扇情的で挑発的なタイトルではなく、『現場からのネット敗北宣言』というサブタイトルのほうだった。そこには「対岸の火事」でも「傍目八目」でもない、言わば膝までぬかるみに浸かってしまった現場的な悲痛な叫びが感じられる。高みからでも遠くからでもなく、斜に構えるのでも卑屈になるのでもなく、全ての現象の渦中にあって身を以て獲得した実感が込められている。──僕はそこに共感してこの本を手に取り、読み終えてやはり否定できない共感がある。
 この本は全てのウェブ万能論的な言説に対する異論であり、「はじめに」のパートでは象徴的に『ウェブ進化論』(梅田望夫・著)が槍玉に挙げられている。
 そして、当の梅田望夫氏がこの本を読んで「彼の書き方はフェアだなという感じはちょっとしたんですね。そう言われればそういう切り分け方はあるんだろうなと思った」(ITmediaのインタビュー)となまじ否定的でもないことを言っているように、どうしようもなく痛いところを突いているのである。多くを語らないままウェブ評論的な仕事から手を引いてしまった梅田氏は、まさにこの本にあるような障壁にぶち当たってしまったのではないだろうかと想像がつく。
 しかし、よく読めば著者は『ウェブ進化論』的なる考えを全面否定し、梅田望夫的なる営みを徹底罵倒しようとしているのではない。ここら辺りがこの著者の偉いところであり、何故それができるかと言えば彼が長らく「現場」に腰を据えて自分の眼で見て自分で考えて乗りきって来たからである。
 著者は言う:「もちろん、知的で生産性のあるコミュニティは存在するし、ネットを使ってさまざまなものを生み出している人はいる。だが、多くの人にとってネットは単に暇つぶしの多様化をもたらしただけだろう」(241ページ)と。
 これはこんな風に言い換えることだって可能ではある:「もちろん、多くの人にとってネットは単に暇つぶしの多様化をもたらしただけかもしれない。だが、知的で生産性のあるコミュニティは存在するし、ネットを使ってさまざまなものを生み出している人がいるのも確かである」と。しかし、そういう語順で語る気にはどうしてもなれないところに、ウェブの持つどうしようもない暗黒があるのである。
 できれば『ウェブ進化論』とセットで読むのが良いと思う。あれもなかなかポイントを突いた名著であると思う。そして、この本はそれに対する反面の真理である。あくまで「半面」の真理でしかないが、どうしても拭い去ることのできない「半面」なのである。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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紙の本『坊っちゃん』の時代 第1部

2009/08/26 23:01

この時代のこの国の「エリト」のあり方

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 手塚治虫賞を獲ったほどの作品だから僕なんぞがとやかく言うこともないのだが、この作品が優れているのは夏目漱石の鬱屈を正しく描いているからだと思う。
 漱石は英国留学中に、英国社会に対する嫌悪感と日本へのホームシックから強迫神経症を病んだ、と一般には言われているし、この本にも凡そそんなことが書かれている。だが、漱石の鬱屈がそれほど簡単に図式的に解いて片づけられるようなものではなく、そこにはその時代特有の、その頃の日本や日本人特有のいろんなことが絡んでいるのだということを、この本は正しく描き出して見せてくれているのである。
 多くの文献に当たって考証されたようであるが、作者自身が明らかにしているように、必ずしもここに書いてある全てが真実と言う訳でもなさそうだ。しかし、それにしても、漱石の同時代及び周辺にはこれだけ有名かつ傑出した人物が集い、ともに語っていたのかと思うと驚きを禁じ得ない。
 正岡子規や森鴎外と交流があったことぐらいは知っているが、漱石がラフカディオ・ハーンの後任教授であったとか、一介の車夫から後の労働運動家・荒畑寒村までが夏目亭に出入りしていたとか、伊藤博文暗殺犯の朝鮮人ともすれ違っていたとか、弟子の森田草平と平塚雷鳥が一時恋愛関係にあったとか、次から次に語られるエピソードを読んで世間の狭さにびっくりというか、まさにこういう交友関係こそがこの作中で言われている「エリト」のあり方だったのだろうと思う。そして、そういうところが作者の言う「明治人は現代人よりもある意味では多忙であった」ということなのではないだろうか。
 ものを調べて作品に著わすに当たって決定的に問われるのは観察力でも分析力でもない。あるいは最終的に要求される表現力が鍵となるのでもない。枢要なのは、観察して、分析したあとで、それを再構築する能力である。そして、きっちりと再構築されたものだけが初めて表現力の試練を受けることになるのである。
 再構築するとは、どんなに大きな要素であってもあくまで部分でしかないものをバラバラに描くのではなく、正しく全体を描くことである。とは言え、全体は決して描き切ることのできるものではない。だからこそ、その描き切ることのできない全体に近づくために、何を捨て何を採るのか、そして、選んだものをどう繋げるのか、つまりその再構築の方法自体が問われるのである。
 当然再構築する際に落としてしまった部分が問題にされることもある。この本で言えば漱石の家族のことがごっそりと抜けている(これは従来の研究でありえなかったことではないだろうか?) しかし、全てを採る紙面はなかったのだろう。これはこれでこの本の個性になっているし、そのことによってこの本が描いている時代性の色鮮やかさは少しも褪せたりしてはいない。いや、全体として鬱屈を描いているのだから「色鮮やかさ」でもないのかもしれない。人を描いているようで時代の色が見えてくる本であった。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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紙の本阪急電車

2008/03/31 22:16

「西北」と書いてルビも振っていないところが何ヶ所かあるのだが、一般人にはこれは「にしきた」とは読めるはずがない。

15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かの有名な図書館シリーズも、賞を獲った『塩の街』もなんとなく読む気にならなかった。でも、このタイトルと表紙を見たらこの作品は読まずにいられないのである。何故なら僕は幼少のみぎりから阪急宝塚沿線で育ち、その後10年ばかり東京に行っていたが、関西に戻ってからはまた阪急神戸線で通勤する生活を続けているから。あのあずき色の列車には思い出も思い入れも尽きないものがある。
 読み始めて思ったのは、あ、随分テクニックのある、巧い作家なんだなあということ。「巧くない作家」なんてまるっきりの形容矛盾だと思うのだが、近年は現実にたまにそういう作家に出会うから始末に負えない。そういう作家がいると「巧い」ということが作家の売りになったりするのも困ったもんだ。
 ま、何はともあれ、この作家は大変巧い。設定のしかたも筋の作り方も、人物の造形も台詞も。読んでいて特に感じたのは、女の子のこういう反応、よく書けるもんだ、ということ。ところが僕が男だと信じていたこの作家は実は女性で、しかし、桜庭一樹みたいに男の名前で書いている女流ではなく、有川浩もアリカワヒロシではなくアリカワヒロと読むそうな。
 なあんだ、そうか、やっぱり女性じゃなきゃ書けないよね、と逆に大いに納得した。
 阪急の中でも短い支線を除けば一番地味な今津線を、宝塚から西宮北口まで行ってまた宝塚に戻る1駅ごとに章を設け、それぞれの章で主人公は異なるのだが他の章の主人公たちと少しずつオーバーラップして行くというこの章立てが「なかなか考えたな」という感じ。粋だ。
 で、恋愛メインと言って良い構成なのだが、この恋愛が、破局を迎える恋愛を含めて、いずれもなかなかいい恋愛ばかりなのだ。そして、若い読者は恋愛にばかり目が行くかも知れないが、ここには「胸のすく」ような話がたくさん登場する。不心得な奴らをやっつける話。不心得な奴らって誰かと言えば、ある章では若い男だし、ある章ではおばさんたちだったりで、決して特定の年齢や性別で切り分けようとはしてない。そして、そういう不心得な奴らをやっつける奴らも決して完璧ではない欠点のある人間として描かれている。そういう意味で視点がとても公平で、この公平さに再度「胸がすく」のである。
 寝盗られた男の結婚式に純白のドレスで乗り込んで行く勇ましいお姉さんの話があるかと思えば、小説の中で何組か素敵なカップルができあがるし、お互いに親友になりそうな女たちも描かれていたり、また単なる行きずりなのになんだか心温まるエピソードもある。
 これは映画化の話が引く手あまただろうなあ。当然阪急電車の全面協力の下にロケ撮影をしてほしいものだ。ああ、情景が目に浮かぶ。あの役にはこの俳優かなあなんて想像も広がる。
 これはそういう作品である。
 言うまでもないが、作者は実際にこの今津線沿線に住んでいるらしく、だからこそ描写は鮮明で、そして何よりもこの路線に対する愛情に満ち溢れている。だから、読後感はすこぶる爽やかである。とても良い連作短編を読ませてもらった、と何故か感謝の気持ちまで生まれてくる。
 難点をただひとつだけ。「西北」と書いてルビも振っていないところが何ヶ所かあるのだが、一般人にはこれは「にしきた」とは読めるはずがない。まず間違いなく「せいほく」と読むだろうし、それが「西宮北口」の略であると分かるのは恐らく阪神間の人間だけであろう。これも愛着の表れであろうとは思うが、全国の読者のために全個所にルビを振っておきましょう。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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良書!ただし、入門書ではないので注意

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 これはなかなかの良書である。ただし、「インターネットのことを全然知らないからこれでも読んで勉強するか」という人には少し敷居が高いだろう。日頃ネットに接していればいるほど、ここに書いてあることに実感として共鳴できるのではないだろうか。
 この何年かで僕が痛切に感じていることは検索技術の進化がウェブの世界を激変させたということ。著者はこのことを充分認識した上で、さらに大きな要素をいくつか加えて、ウェブの世界の過去・現在・未来を解き明かしている。
 序章で述べられている、1990年代半ばから現在に至る「三大潮流」は、1)インターネット、2)チープ革命、3)オープンソース、である。そして、第4章では「総表現社会=チープ革命×検索エンジン×自動秩序形成システム」という方程式で今後の社会を総括しようとしている。これだけを読んでも多分何のことか解らないだろう。でも実際に読んでみればかなり納得できるはずだ。普段ネットに接していればいるほど、その納得は深いものになるのではないかと思う。ただし、逆に言うと、著者が文中で何度か指摘しているように、旧来の「エスタブリッシュメント」に属する人たち、「ネットのこちら側」にいる人たちにとっては、ひょっとすると全く説得力のない空論に聞こえるのかもしれない。
 この著者の偉いところは単に分析や解説を述べるのではなく、ちゃんとビジョンを提示しているところである。そして、見事に系統立ち、思想性に溢れ、鋭い洞察力に基づく文言の一つ一つを支えているのは、著者の「ウェブの現場体験」に拠るのだと思う。さすがにIT分野の知的リーダーと称されるだけのことはある。僕自身はかなり的確な世界観であると思うし、預言の書としても現状で考えられる最高水準のものではないかと感じた。
 単なる読み物としても良質のエンタテインメントだと思う。ただし、冒頭で述べたように、入門書ではないので、念のため。
by yama-a 賢い言葉のWeb

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紙の本猫を抱いて象と泳ぐ

2009/05/11 23:07

チェス盤の下の匿名の美しさ

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 美しいものを見出すのが本当に巧い作家だと思う──数式、ブラフマンなる小動物、カバに乗った少女、そして今回はチェス。──そういうものを見つける作業も文学が求められる使命のひとつなんだなあとつくづく思う。
 今回の特徴はいつもに増して無国籍だということ。読んでいて、あれ、これはどこの国なんだろうか、と惑わされる。デパートの屋上に遊園地があったり食堂にお子様ランチがあったりするのは日本に決まっていると思うのだが、しかしどこか日本っぽくない。
 『ミーナの行進』における「芦屋」のような地名も出てこないし、登場人物の名前が一切語られない(主人公のリトル・アリョーヒンを始めとして全員があだ名か役職名で呼ばれている)ので、なおさら場所を特定するヒントが得られない。登場人物の眼や髪の色についての描写もないからやっぱりどこの国の人間だか分からない。
 だいいち、いつの時代であれ日本だったらこんなにチェスが盛んで、ここまで深くチェスが理解されているわけがないという気がしてくる。じゃあ、どこなのか?
 そもそも小川洋子の作品は無国籍と言うよりも多国籍、いや、むしろ重国籍とでも言うべきいくつかの国籍が溶け合ったような舞台になっていることが多いのだが、今回の場合は言うならば「国籍の匿名性」みたいなものを強く感じさせられた。つまり、作者が意図的に国籍を秘匿して、どこの国だか判らないように書いているような作為を感じるのである。
 そして、そのことに思い当たった時に、それがそのままこの主人公リトル・アリョーヒンの匿名性に繋がっているのだということに気づいた。いやはや、この作家はいつも見えない糸で作品を織りなしているのだ。改めて感心した。
 リトル・アリョーヒンは伝説のチェス・プレーヤーのアリョーヒンになぞらえて作られた人形“リトル・アリョーヒン”の中に入り、レバーを操作してチェスを差す。その時のリトル・アリョーヒンは完全に匿名の存在になる。それはチェスという競技がプレーヤーの名前など必要としていないからである。そして、そういう設定を使って、著者はチェスが何と美しいゲームであるかを見事に書き尽くして見せる。しかし、ひとえにチェスの美しさだけを描きだそうとして作られた小説に見せかけて、実は人間の美しさについてひっそりと静かに書き遺しているのである。とても良い話である。
 ちょっと敵わないなあ、という気がする。
 そして「猫を抱いて象と泳ぐ」というタイトルも秀逸。
 これからの読む方に対して、書評であまり予備知識を与えたくない。予備知識も先入観もゼロの状態で、想像力をフル回転させながら、あなたもチェス盤の下で猫を抱いて象と泳いでみてほしい。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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著者自身はそのことに気づいているのだろうか? 僕にはその構造が一番面白かった。

16人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本語ブームに乗ってその延長上でもうちょっと高尚な本でも読んでみるか──そんな調子でこの本を手に取った人は苦い思いをするだろう。これはそういう本ではない。読者に向けてのエンタテインメントの要素はどこにもない。
 冒頭で謎を投げかけておいてそれを小出しに解いて行くとか、とりあえず何かキャッチーなフレーズでガサッと読者の心を鷲掴みにしてから書き進めるとか、著者にそんな気はさらさらないのである。唯一惹句と言えるのは「日本語が亡びる」というそのタイトルくらいのものである。
 だから、最初は読んでいてもちっとも面白くない。著者は読者にサービスする気などなく、独自の日本語論を展開するに先だって必要となる前提を、帰国子女として、あるいは作家としての自己の経験から書き起こして、丁寧に丁寧に洗って行く。この本の土台となる部分であるから、きわめて丁寧に、必然的にゆっくりゆっくり前提や背景や事実関係が洗い出される。言葉というものに強い興味を抱いている読者なら別に退屈で読めないようなことはないだろう。だが、それほど発見も驚きもないことが長々と書いてある。だから、読むのを投げだすほどではないが、かといって面白くもないのである。もしもそれが言葉自体にはそれほど興味のない読者であったなら多分早くも二章で読むのをやめるだろう。
 三章までそんな感じで世界(の言語)と日本(語)の歴史と現状がどんどん掘り下げられて行き、四章から漱石や福翁などが引き合いに出されるに至って、知らないうちに読んでいるのが面白くなってきたと思ったら、五章で『三四郎』が取り上げられるや俄かに圧倒的な面白さになる。これは確かに漱石を引き合いに出した日本語論ではあるが、これ自体が独立した夏目漱石論であると言っても充分通用する。
 六章以降は再び言葉の世界史に戻り、アリストテレスから明治維新、インターネットまで時代を行きつ戻りつしながら、いよいよ論は核心に触れてくる。
 英語が<普遍語>として幅を利かせる時代を迎えて、政府は英語教育に力を入れるべきだというのは誤りである。今こそ日本語教育に力を入れ、国民に<読まれるべき言葉>を教えなければならない。──そんな風に下手にまとめてしまうと、この本が言っていることの本質は見事に失われてしまう。この著者の卓越した視点を知るためには、あくまで著者の敷いたレールの上をひとつずつ検証しながら歩む必要があるのである。そうやって文意を追ってくると、初めて著者が「日本語が亡びる」と書いた意味が解ってくる。──これはこの本を売らんがためのキャッチーなタイトルなどではなかったのである。これは著者の危機感に他ならなかったのである。飢餓感でさえあるのかもしれない。
 この本はどれだけ理解されるのだろう? 今の日本人がこれを読んでも、その面白さが解らないばかりではなく、書いてあることの意味が読み取れない人も少なくないのではないかという気がする。僕が思うに、「英語の世紀」が永遠に続きそうな時代に突入した今、必要なことはまず水村が言うように日本語に関して正しい教育をすることではない。多くの日本人がまず身につけるべきなのは、この水村のような論理的思考力なのではないかと思う。
 米国で古い日本の小説を読みながら少女時代を過ごしたという著者が日本語の魅力を語り、日本人と日本語のあるべき姿を説いた本ではあるが、その論を進める上で裏打ちとなっているのは紛れもなく近代西洋の論理性でなのある。伝統的な日本語の素晴らしさを知り、英語の洪水の中で日本語が亡びてしまうのを防ごうと腐心している──その著者が則って論を進めるのは近代西洋の考え方なのである。
 著者自身はそのことに気づいているのだろうか? 僕にはぐるりと廻ったその構造が一番面白かった。

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紙の本他人を見下す若者たち

2006/05/28 23:27

何よりも立派だなあと思うのはこの著者が「では、どうすれば良いか」を書いていること

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 最近の日本人、特に若者たちの行動パタンが変わってきた。彼らは社会生活が苦手で、他人からマイナスの評価を受けることを極端に恐れ、自らの成功体験によって自信を持つのではなく、(そんな体験は全くないので)先手を打って他人を貶めることによって謂れのない自己肯定に至っている。このことによって今の若者はキレやすく攻撃性に満ちた存在になってしまっているのである──この本の趣旨を私がまとめると、まあ、そんなところである。
 そして、著者はこの「他社軽視を通じて生じる偽りのプライド」を「仮想的有能感」と名づけ、さらに既存の概念である「自尊感情」と有能感とをクロス集計することによって有能感を4タイプに分類し、若者たちに多い「仮想型有能感」を深く掘り下げる一方で、逆に自らの成功体験により自信過剰に陥ってしまって周りを滅多切りにする「全能型有能感」が中年以上に増えているという現象も指摘している。
 この本は、読んでいて別に難しいことはないが、書き方としてはむしろ学術論文に近く、そういうタイプの文章が苦手な人は、例えばこの書評欄に載っているサマリーを読むだけにしておいたほうが良いかもしれない。ただ、それさえ気にならなければ大変読み応えのある論説である。この「仮想的有能感」という概念は近年著者が唱え始めたものであり、社会心理学の世界で定説となっているものではない。従って時系列データの蓄積がなされていない中、著者はいくつかの実証データと推論を交えて論を展開している。もう少し豊富に化学的裏づけがあればもっと説得力があるのにという気もするが、しかし、印象としてはまことに見事な世評である。そして、何よりも立派だなあと思うのは、この著者は単なる分析に終始するのではなく、自分なりに「では、どうすれば良いか」を書いていることである。彼の言う「では、どうすれば良いか」は公平に見てやや月次な感じもする。ただ、そういう地道なことでしか、この嘆くべき現状は改善されないのかもしれない。
 1人でも多くの親や教育関係者に読んでもらいたい。私はそのいずれでもないので、自身を分析しながら、自分がこの本で言う何に当たるかを考えながら読んだ。そういう読み方も必要だろう。
by yama-a 賢い言葉のWeb

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でも、そこには泥水をかき回したような余韻が残っている。

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 僕は恩田陸の作品の中ではとりわけこういう作品が好きだ。あまり何も起こらない話。『黒と茶の幻想』とか『夜のピクニック』とか・・・。いや、そう言うと「決して何も起こらない訳ではない」と反論されそうだが、まあ、言うなればストーリーの展開で引っ張って行こうとせず、叙述そのもので引っ張って行ける小説。そして、それは恩田陸ほどの筆致がなければ決して書けない小説であり、僕はそういう「あまり何も起こらない小説」を書こうとする発想と勇気と力に脱帽するのである。
 この小説も何がどうしてどうなるという話ではない。3部構成になっていて、高校時代の同級生である楡崎彩音、戸崎衛、箱崎一のザキザキ・トリオがひとりずつ語る形になっている。
 彩音は小説家になっている。衛は大学時代こそ人気ジャズバンドのベーシストだったが、卒業後はあっさりと鉄鋼メーカーに勤める。一は逆にシネマ研究会の末端の部員から大手証券会社に就職し、不動産系の金融会社に転職したのち映画監督になる。
 その辺の経緯がゆっくりゆっくり語られて少しずつ少しずつ明かされて行く。特に彩音の第一部は持って回った話の連続で読んでいてまどろっこしくなるほど。でも、それは必要な回り道なのである。
 不必要な読み込みなのだけれど、読んでいるとどうしても恩田陸の自伝的な小説であるような気がしてくる。彩音が小説家になっているということが一番大きな要素なのだけれど、この小説の舞台は固有名詞こそ出てこないがどう見ても早稲田大学と早稲田通りであるし、在学中にジャズをやっていたことや、一旦一般企業に就職したという衛や一の章で語られる設定もまた恩田陸の分身であるように思えてくるのである。
 ただ、そういう設定がどれほど恩田陸自身のものであるかには意味はなく、この雰囲気、この心理状態、この心象風景──それらを産み出したものが恩田陸であるというところに意味があるような気がする。それがどんな意味だかはよく解らない。
 ただともかく、ここで語られる、あまり意味や位置づけが明確になっていないエピソードの積み重ねがすごいのである。ぼんやりとしたものがいくつ積み重なっても、そこにくっきりとした像が浮かび上がる訳ではない。でも、確実に質量は増すのである。
 そして、何が起こるでもなく、それぞれの部が終わって行き、気がつくと小説自体も終わっている。なんだったんだ、このストーリーは? でも、そこには泥水をかき回したような余韻が残っている。
 これはある種いつもの恩田陸の手法である。しかし、僕にとっては恩田陸の小説で初めて「どうだ、巧いだろう」感の残らない小説だった。いや、別に恩田陸がいつもいつも「どうだ、巧いだろう」と思いながら小説を書いていると言いたい訳ではない。それは恩田陸の問題ではなく、それを読んでいる僕の感性の問題なのかもしれない。ただ、いずれにしても、僕は珍しくこの小説では「どうだ、巧いだろう」という感じを受けなかったのである。そして、遂に恩田陸はそういう境地にまで達してしまったのか、と、ことさら溜息をついたのであった。
 これは他の誰にも書けない小説であると思う。

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紙の本真鶴

2007/03/29 23:39

全体を全体として捉える者にしか、この感慨は伝わらないだろう。

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最近つくづく思うのは、人はとかく安易に、全体から特徴的なひとつの要素を抽出して、その抽出した一部分でもって全体を代表してしまいがちだ、ということである。そういう傾向は「なんのかんの言っても要するにこういうことだろ」とか「世の中所詮は金だ」みたいな言い方に表れてくる。
 我々がこの「特異な才能」をどこで身につけてしまったかと言えば、それは小中学校の国語の時間に何度となく繰り返された「作者がこの文章で言いたかったことは何でしょう」「200文字以内にまとめなさい」という問いに答える訓練によるのではないかと思う。しかし、そういう思考回路には明らかに無理があるし害悪がある。
 たとえば、この『真鶴』という小説を読んで、「作者が言いたかったことは何か」「200字以内でまとめろ」と言われても、読者には到底できることではない。そして、恐らく作者にもできないのではないだろうか? これだけのことを言おうとすればこれだけの文章が要るのであり、これだけの文章を読めばそれに相応しい量の化学反応が起きてしまうのである。
 この小説を手短にまとめようとしてそれが果たせないのは、一義的にはこの小説がなんだか解らない小説だからである。でも、ただそれだけに留まらないのは、この小説が「なんだか解らない」と同時に「なんだか解るような気がする」小説だからである。
 主人公の京と2人の男。ひとりは謎の失踪を遂げてしまった夫・礼で、もうひとりはその後に関係ができた妻子のある男・青茲。ひとりは過去の存在でひとりは現在の存在。そこに京の16歳になる娘・百(もも)の若さと、京の実母の老い行く姿が重ねられる。そして、亡霊なのか幻覚なのか定かではない、京に「ついてくるもの」。自分でも理由がはっきりしないのに熱に浮かされたように何度も真鶴を訪れてしまう京。──謎は最後まで解き明かされない。
 ただ、溜息が出るほど豊かな語彙で綴られた、自分では絶対に思いつかないだろうとは思うのだが読めば無性に懐かしく感じてしまう言葉たちに包まれた物語がある。
 京の愛も、嫌悪も、我がままも自制心も、恐怖感も諦念も、どれを取っても短く要約できるものではない。それはこの小説を読んでみないと解らない。全体を全体として捉える者にしか、この感慨は伝わらないだろう。
 現代人はもっとこういう小説を読まなければならないのではないかと思った。ともかく巧い。
by yama-a 賢い言葉のWeb

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紙の本東京奇譚集

2005/10/11 22:42

村上の全作品の外側を共通に覆っている嘘っぽさに気がついた

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 冒頭に収められている『偶然の旅人』は「僕=村上」が一人称で語ることを宣言して始まる。
 村上が言うには、「不思議な出来事」が「僕の人生にはしばしば起こった」のだが、「しかし僕がその手の体験談を座談の場で持ち出しても」「おおかたの場合、『ふうん、そんなこともあるんですね』あたりの生ぬるい感想で、場が閉じてしまう」のだそうだ。
 そんな風に書き始められると、この後に続く話が如何にも村上自身のドキュメンタリーであるかのような印象を与えてしまう。確かにそこに書かれているエピソードは実際にドキュメンタリーであってもおかしくない程度の「不思議な出来事」ではある。しかし、どうもなんだか嘘っぽいのである。
 それで僕ははたと気づいたのである。この嘘っぽさこそが村上春樹なのだということに。今まではフィクションであることを前提として読んでいたので気づかなかったのだが、これは事実ですよと書かれて初めて、村上の全作品の外側を共通に覆っている嘘っぽさに気がついたのである。
 奇想天外な話を書いても実際にありそうな話を書いても、どちらの場合も村上の文章はどこか微妙に嘘っぽい。が、嘘そのものではない。いや、嘘臭くてもインチキ臭くないのである。それどころか、上辺は嘘っぽいのに深いところでどこかリアルなのである。だからこそ僕らは村上ワールドに強く惹き込まれてしまうのである。実はそれこそが村上春樹のからくりなのである。
 『偶然の旅人』における村上自身のエピソードは実は「枕」に過ぎず、彼の知人であるゲイの調律師の話がメインの物語である。もうその辺りからは読者にそんなからくりを微塵も感じさせない、いつもの村上話芸が繰り広げられる。
 その後に『ハナレイ・ベイ』『どこであれそれが見つかりそうな場所で』『日々移動する腎臓の形をした石』『品川猿』という4つの短編が続く。本全体のタイトルが示すように、いずれも東京を舞台にした奇譚である(もっとも『ハナレイ・ベイ』は舞台の半分以上がハワイであるが)。ただ、その東京は、村上作品の中の東京がいつもそうであるように、「東京のどこか」ではなく「東京のどこでもない場所」なのである。
 いつもの翻訳調の日本語によるタイトルを見ただけで興味をそそられる。これは古くからの村上ファンが充分に彼の魅力を再確認できる、なかなかのご馳走である。
by yama-a 賢い言葉のWeb

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