サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. coil-tgさんのレビュー一覧

coil-tgさんのレビュー一覧

投稿者:coil-tg

紙の本新宿

2002/09/07 18:37

新宿、炎上

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1960年代後半、時代は政治の熱に浮かされ、多くの学生が権力へ反旗を翻していた。新宿はそんな現場として、いわば主戦場の舞台だった。劇作家寺山修司はそんな新宿を「ネオンの荒野」と表していた。そこには一種の理想があった。自分たちが時代を変えるをことが出来るのではないかという、あまりにもナイーブな思い込みがあった。しかし、それがあまりにも無力であったことに当人たちは気付いた。そして時代は、高度経済へ向けて邁進していった。

写真家森山大道は、この時代もっとも影響力のあった人物だった。森山が撮る写真は時代のムードと波長が合い、多くの人々から支持を得ていた。しかし、森山は政治的なことは嫌い、闘争の現場に対してカメラを向けることはなかったという。唯一の例外は1968年の10.28新宿闘争の夜だけだという。後に森山は「あのときだけ、都民は市民になった」と述べている。

あれから30年、人々が理想をもって権力に立ち向かうことなど、勿論ない。新宿という都市は熟成し、文化は飽和点に達して、汲めども尽きぬ欲望が渦巻いている。だが、時代の空気は明らかに不穏さを孕んでいる。だが、大概の人は気付かない。市民は知らず知らずのうちに飼いならされているのだ。

森山大道は写真家という現場にたつ人間として、そんな時代の空気を敏感に感じ取ったのだろう。「新宿」は最近の森山大道にしては珍しくアグレッシブにアプローチしている。近年の「hysteric」に代表されるようなモダニズムを彷彿させる叙事的な作風も随所に見られるが、ブレ、夜、ノーファインダーといった1960年代に用いた方法を多く取り入れている。これは単なる懐古趣味ではない。タフな新宿に対しては、攻撃的な姿勢ではなければ、とうてい捕まえることは出来ないと感じたのだろう。そして、結果的に600ページという大長編の本となってしまった。

モノクロームの荒れた粒状の中で再現された新宿は、実際の新宿以上に、真の「新宿」の姿を露呈している。そして、新宿という荒野は、30年前以上に燃え上がり、荒廃しきっている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

旅はすでに始まっている

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

尾仲浩二氏、初のカラー写真集であり、最初の東京写真集でもある。
尾仲氏はこの作品集以前に、「背立あわだち草」(蒼穹舎)「DISTANCE」(モール)といったモノクロで撮った作品集があったが、何れもいずことも知れぬ地方を捉えた所謂「旅モノ」写真を中心にまとめたものであった。初の東京写真と知ったとき、ちょっと意外にも思ったが、そういえば、そうだなと妙な納得をした。

東京は多くの写真家が被写体として取り上げ、そして、写真を始める人にもっとも多く撮られる現場として、写真を撮る者にとっては無視できない場としてその存在を誇示している。そんな誰もが挑む東京に対して、全編カラーという形でアプローチしてきたことに、ちょっと新鮮な印象を受けた。原色を生々しく炙りだされた東京は、都内や東京近郊に住む者から見たら、それはキッチュなものに映るであろう。東京にこんなに色があったのかと、今さらながらに気付かせる。都市は彩られ、そして装飾されている。都市の色は人間の欲望を端的に表している。

東京とはあまり馴染みのない人が見たら、どのような印象を抱くだろうか? 情報が氾濫し、ニューヨークにもパリにも境界がなくたった現在、東京の持つ猥雑さはさほど刺激的ではなかろう。だが、尾仲氏の写真を通して見る東京は多分、従来のメディアを通して見知っている東京とは印象を異にするであろう。それはどこから起因するか?尾仲氏は東京に対しても、「背立〜」「DISTANCE」同様、旅人の視線で捉えているからだろう。

かつて作家ヘンリー・ミラーは「玄関を出た瞬間、旅は始まっている」と言った。見知らぬ土地に行かなくとも、旅は日常の中にある。非日常的な旅を一旦止めて、日常という旅に尾仲氏は眼を向けた。

東京を旅人として歩き始めた尾仲氏は、「色」を伴うことでその視点をますます強くしていったのかもしれない。ここで展開されている東京は日常では伺うことのできない、旅人の視線からしか得られない東京の姿が展開している。それはまさしく旅の記録である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

錯視という名のノイズ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 写真が既にあるモノしか捉えることができないというのが、前提としてあるのはわかりきったことだが、改めて印画紙に写しだされた風景をみると、果たして、ここに写し出された風景は本当に実在するのか? と思うことがある。赤の他人が聞いたら、こいつどうかしているんじゃないかと、言われそうだが、そうした意見の方が正しいことはわかっている。しかし、それは私たちが生きている世界に対して、一点の疑いも持たず、ただ流れ行く日々を甘受しているだけに過ぎない。ある意味、それは利口な生き方だが、世界は多くの人間が思っている以上に平穏ではなく、目に見えない不穏が漂っている。

 金村修氏の写真を見るたびに、果たしてこれは現実かと疑問を持つ。世界がこれほどまでに腐敗していたかと信じられない気持ちにさせられる。しかし、写真は眼の前に現存するものしか撮ることが出来ないのだから、金村氏が撮り続けてきた世界はまぎれもない現実だ。だとしたら、余計に愕然とせざるを得ない。世界は我々の手に負えない状況に陥っている。

 ある日、街を歩いていたら、ある種の既視感に襲われた。そこはよく歩く場所だ。何故そんなところで既視感を感じたのか、釈然としないでいると、ふと思い出した。それは金村氏が捉えた場所だった。その場所を現実の空間ではなく、平面に置き換えられた写真の中でも体験していたのだ。あたりを見回すと、日常が何の変わりもなく進行し、様々な音が反響し合っている。そういえば、金村氏は写真以前に音楽をやっていたなと思い出した。金村氏は現実の事物を感覚しながらも、同時に錯綜する音の群れをも感覚しながらシャッターを押しているのではないかと考えながら、その場を去った。

 金村氏は聴感覚のメディアから視感覚のメディアへと移行した。
 その感性は写真の中にも表れているように思う。金村氏はメロディもコード進行も無視したただ音がひたすらに鳴っている、そんな空間を捉えている。それは、楽譜に起こすことできないノイズだ。普通の人の耳では耐えられないほどのノイズだ。しかし、人々はそんなノイズまみれの日常を通り過ぎている。それも、何の疑いも持たずに。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する