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  3. こちゃまるさんのレビュー一覧

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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

こちゃまるさんのレビュー一覧

投稿者:こちゃまる

22 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ちょっとネコぼけ

2006/09/28 11:53

ネコのきもちネコへのきもち

14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 縁側で日向ぼっこをしていると猫が擦り寄ってくることがある。にゃうにゃうと何やら訴えることがある様子なのでなんだと訊き返してみたところ猫は首のあたりを足に擦り付けてきた。猫が首のあたりを擦り付ける動作は縄張りの主張とお気に入りの確認らしいが、お気に入りを手放すことはないだろうからいずれにしても『自分のだ』と主張をしていることではあるだろう。再びなんだと訊いてみると猫はにゃうにゃうと返事をする。足下で香箱を組んで応えた猫がどういう気持ちなのかは分からないし、足下に陣取った猫の背中をどういう気持ちで撫でているのか分かることもない。それでも首をかしげて猫を見ると目をやわらかく閉じて喉をごろごろと鳴らしているので思わずにんまりとしてしまう。
 猫と人間がどう関わってきたか、それを考えると話は古代エジプト・ペルシアまで容易に飛んでしまう。その膨大な量の情報を集約し一つの論を導き出す作業は大切なことであるし、導かれた論を演繹的に活用して他者とのコミュニケーションの確立や住環境における精神充足分析の手助けとすることは実に有益なことであるだろう。人間の住が自然を切り取ることで成り立つという前提のもと人間の住を思考する、その思考がどんなに深遠に巡らされていたとしても足下の猫が腹を突き出して寝返りを打てば野性の喪失に眉をしかめるしかない。それでも大丈夫かと声をかけ腹を撫でなどして猫にしっぽを巻きつけられると思わずにんまりとしてしまう。
 『ネコが幸せになれば人が幸せになり、地球が幸せになる。』とは本書の帯にある言葉だ。猫には猫の社会があり、人には人の社会がある。それらは決して交わるものではないが猫の社会と人の社会は同じ世界においてしか存在できない。人が己を省みるとき他者を以って鑑とせねばならないように、人の社会も省みるときには他の社会を鑑とする必要があるだろう。幸福の追求が社会の性質として存在する以上、そこから逃れることはできはしない。本書にちりばめられた猫の社会を見て温かな気持ちになるのならばそれは紛れもない幸せなのだ。足下の猫はいつのまにか起きていて前に後ろに伸びをしてからにゃうにゃうと訴える。かわいいぞほらと本書を見せると鼻をひくひくさせ髭を少しそよがせたあと肉球でパンチをされた。餌を皿に入れると猛然と食べだす。溜息ものだ。それでも手に残った本書を開き同じように不躾な猫の写真に目をした途端、思わずにんまりとしてしまうのだ。

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紙の本ピタゴラ装置DVDブック 1

2007/01/17 22:02

すべて明らか

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ピッタリと当てはまる文言なのかどうかは見る人次第でしかないだろう。『映像DVDと解説本で、初めてすべてが明らかになります。』と帯にはあるが、映像を見たところで「不思議だ」と興奮するだけだし、本の解説を読んだところで「なるほど、そういう仕組みか」と頷くだけ。ピタゴラ装置視聴者の叫び「なんでだ!」が明らかにされるかと言われると首を傾げざるをえない。
 多大な労力がかけられているだろうことはDVDを観ているだけでも十分感じるところで、解説本はその労力がどれほどのものだったか、労力の払ったものの声をオブラートに包みながらダイレクトに伝える手段に過ぎない。
 強引に「考える」ことを扱った場合、考えるという動作を能動的に捉えることはできず、受動的で否定的でもある「考えることが嫌かそうでないか」の二択に帰結する。「考えることは嫌じゃない」「じゃあ考えよう」と二段階の工程を経ることは「考えたい」という直接的な動作を回避してしまう。回避するというよりはむしろ触れることができないと言ったほうが正確か。
 乱暴なようだが、否定的な区分こそが行動原理であるといえる。しかられたくない、罰されたくない、見下されたくない、侮られたくない。マジョリティに属するためにマイノリティを回避する仕組みは劣等感という形で深く根付いてしまっている。そして根付いてしまった劣等感は本来外圧的な要因で形成されたものであるにも拘らず、自発的な仕組みで動くものだと勘違いされるようだ。
 水準という世間の尺度は所詮相対的であやふやなものにすぎず、一挙手一投足をそれに左右されるなど馬鹿げたことだ。皆に歩調を合わせることはとても大切なことで疎かにしてはならないだろう。ところが皆に歩調を合わせるために皆の歩調を見てから動くようだとこれは皆の歩調から確実に遅れてしまう。そして遅れるものが増えてしまえば今度はその集団が皆に化けてしまう。合せるために合わせたものは合わなくなってしまい、そのうち何をしていたのかもわからなくなる。
 一定の範囲内における一致した方向性、そんなものが突然生まれるはずもなく、他との摩擦によって自ずとそうなるしか方法はない。理論もイデオロギーも選択された行為の結果から派生したものでしかなく、それが実践を全てカバーするなど荒唐無稽だ。一つの理論に肉を与えるときに百の試行が必要なことは当然で、一の理論の結果を指して『すべて明らか』と銘打つ帯に対し、百の試作を見せる解説本の内容は違う意味での『すべて明らか』を感じさせるものであり、手放しの賞賛を贈るにふさわしい。
 小さな子供のみならず大人にも幅広く楽しみを与えるピタゴラ装置。子供と一緒に視聴していて「あれ作って!」と言われ、たじろいだ方も数多くいらっしゃるかもしれない。本書の解説本は分量の書いてないレシピ本と同じなので、参照しても作り上げるのは難しかろう。ただ、工作って楽しいものなんだ、をより深く味わうためには大雑把な方がいい。そして考えた跡は考える標となってくれる。なんとも素晴らしい本ではないか。最高だ。続刊を切に希望する。

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紙の本江戸東京《奇想》徘徊記

2006/08/12 10:49

知的徘徊のすすめ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 博覧強記の徘徊老人、種村季弘の江戸東京《奇想》徘徊記が文庫でお目見えである。「これをしのぐ『東京本』はおそらくもう出ない。」とは単行本から引き続いて帯で使われた文句であるが、膨大な情報を流麗に読者の頭に注ぎ込むことができるのは確かに種村季弘をおいて他にはあるまい。
 種村季弘は矛盾を矛盾のまま矛盾と感じさせることなく語ることができる稀有の文筆家である。凡そ矛盾というものはそのものの価値内に絶対と相対の混在があるために起こるもので、内部の平面的概念を空間的概念に飛躍させれば二律は背反することなく相対できることがある。そしてこの飛躍という言葉は種村季弘の文章への評にしばしば見られる言葉でもある。知識や情報が知らず知らずに定めてしまう多くの価値、それらをぽーんと飛びこえることで種村季弘は超然と、徘徊するのである。
 その徘徊は空間のみに留まるものではない。昭和はもちろん大正明治そして江戸、平成の連載徘徊は時間をも超える。空間時間を巻き込んでさらに視覚のみならず嗅覚聴覚触覚そして味覚と五感の全てが刺激される本書の筆致に読者は陶然となるだろう。おいおい酔っては本が読めないじゃないか、いやいやそんなことはない。種村季弘もしっかり酔って書いている。
 種村季弘の本は入手困難なものが多い。運良く見つけたとしてもその本は厚く重くおまけに高価だ。本に必要だからそうなるにしても買うにはもちろんのこと読むにも置くにも場所を選ぶ。ところが文庫だと話は変わる。立派な装丁を楽しむということでは弱いが読むのも置くのも単行本に比べれば楽なものだ。そしてこそっと、単行本より読みやすいと付け加えよう。私見で比較を語るのは僭越とは思うものの、文庫化に際して苦い思いを数多く味わった読者としては声を大にしてこれを誉めたい。あ、声を大にしてはあまり宜しくない。こそっとね、こそっと。
 徘徊とは無目的になされる行動。道しるべがあってはおかしいものなのかもしれない。ただ、当てのない旅にも切符や旅券は必要だ。本書をお供に携えてぶらり徘徊を楽しんでみてはいかがだろう。

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紙の本とうさんはタツノオトシゴ

2010/07/19 08:55

子を育てること

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 誰が笛を吹いているのか『イクメン』なる不細工な字面と響きを持つ言葉が散見されるようになった。金の臭いでもするのかと、つい、いぶかしんでしまう痛々しい必死さがそこにはある。被雇用者の方が圧倒的に多い中、育児休業の取得率の向上をメインの方策に据えざるを得ないのは理解できなくもないが、育児休業を取得しさえすればそれで良いかのような言い様にはどうにも首が傾いでしまうのだ。父子家庭とは言わずとも、自営業や自由業で二十四時間子育て従事な父親からすると「馬鹿か」の一言しか出てこないと思うのだが、マイノリティは無いものとして扱われるのが常なのでそこは涙をのまねばならないのだろう。馬鹿じゃねえの。
 さて『育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律』の定めでは子が一歳六カ月になるまでが原則として育児休業の認められる部分であるが、はたして子は一歳六カ月で一人である程度のことができるようになるのだろうか。乳離れはしたとしても離乳食の完了は健康状態によって微妙なところだし、トイレトレーニングはおろか、歩くことだってできるようになったばかりの頃ではないか。そこで『子育てを完了』したとしてしまうが如きアリバイを無駄に与えてしまうのはどうだろう。女性の社会進出と男性の育児参加を同列で扱うのはいささか乱暴だとは思うものの、両者から漂ってくる同じ臭いは喧伝の手法によるところかそれとも何かべつの理由があるのだろうか。どうにも歪で、不全だ。「それいいな、ちょっとやらせてみてよ」と人のおもちゃを使いたがって、貸し与えたら壊してしまった、そんな幼稚さも声高に叫ばれているものにはべったり塗りたくられている。
 頭でっかちに『段階的な成長』なんてものを考えたがる人達は『段を上った景色』を想定していないのではないかと思えてならない。アニメや漫画じゃないのだから人は高みに登れば足が竦む。もしくは満足する。「ゴールまで走り抜くに決まっているではないか」と言うかもしれないが、その『ゴール』なんて恣意的に決めたものでしかなかろうに。他にやらなければいけないことがわんさとある中で、無駄とも思える修行めいた専心は片手落ちの誹りを免れない。趣味の子育て。素晴らしいね。そんなに『良い子』が続く子供は誰でも欲しかろう。『子がいる』から『親になっただけ』の子に依存した親が多い中、それでも親である、あらねばならぬ、と自らを縛りあげる渦からは解放されねばならないのかもしれない。しかし船頭が素人では皆まとめて海の藻くずだ。良い餌になれるならタツノオトシゴは喜んでくれるのかもしれない、けれどおそらく寄りつきもしないか、またいで泳ぎ去ってしまうのではないか。
 タツノオトシゴのとうさんは立派だ。時に身を隠し、時にひらひらと漂って、子を守り、育てる。かあさんは卵を産みつけてさよならであるにもかかわらずだ。かくあらねば、と思う。かくありたい、とも思う。育児嚢から子たちが出ていく様は感動ものだ。そうかお腹が大きいのはとうさんの証だ、メタボなんか胡散臭い金稼ぎのネタでしかなかったんだ。現実を逃避したところで膨らんだ腹には愛おしい子はおらず、憎々しい肉がぶよぶよと詰まっているだけだ。現実を見ろ。そして正対せよ。乱獲に数を減らすタツノオトシゴたちは、この本のとうさんのようにそう諭してくれるだろうか。

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紙の本賃貸宇宙 下

2006/09/11 23:58

感じること

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 賃貸宇宙の文庫版下巻。上巻と同じくこちらも430グラムあり重い。ついうっかり取り落として小指の上に落とすととんでもないことになりそうだ。分冊だから上下巻両方購入しなければならないなんてことはなく内容も下巻のみで十分楽しめるものではあるのだが、上巻の『陽当たりのよさで選ぶこと』との兼ね合いと、これでもかこれでもかと個性を爆発させる部屋を堪能しつくすために上下巻併せての購入をお薦めしたい。
 下巻の部屋ジャンルは『陽当たりをさえぎること』『好きな街に住むこと』『都心の死角を探すこと』『好きな人と住むこと』『たくさんで住むこと』『動物と住むこと』『本と住むこと』『音楽と住むこと』『洋服と住むこと』『ゲームセンターに、おもちゃ箱に住むこと』『部屋をギャラリーにすること』『下宿式のアパートを活用すること』『風呂がなければ作ること』『寮に住むこと』『一軒家に住むこと』『団地に住むこと』『仕事場に住むこと』『土足で暮らすこと』『決して完成させないこと』『そしてどこにも住まないこと』。物欲の一点豪華主義に見えるラインナップは「深くのめり込んだ趣味を持ったとしても世間体は取り繕っておくものだ」というセオリーをいとも容易く打ち砕く。本書の帯に『家賃は安く、ココロザシは高く!』とあるが、高いココロザシとは決して物欲には後ろを見せぬ死して屍拾うものなしという精神のことなのだろうか。考える、けれどわからない。紙面から飛んでくる「わかれ!」の声に打たれる。そうだ、考えず感じればよい。生活なんてそのようなものだ。
 どんなものに住んでようが大事なのはどう住むかであろう。『どこにも住まないこと』で括ることでそれを端的に表しているように思える。文庫版後記には『あたりまえのことだが、建築家は住み手の人生までデザインできない』と書かれてありもする。どう住むかということはその住み手が住み家をどう捉えるかということではあるが、これは住み家がどのようなものかということを常に内包している。機能も様式も広さも良いように設計されたであろう住み家が持っていたイメージは、住み家が自ら変わることができないが故に、住み手がどう使うかで持っていた良いイメージを保っているともいえるのだ。住み手がデザインできるのは与えられた住み家への価値までに及ぶ。これは住み家に限らず外的制約となる全てのものに言えるだろう。その時考えねばならないのはその外的制約の持っていた意図なのではないか、巻末の写真を見ながら漠然とそう感じた。

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紙の本賃貸宇宙 上

2006/09/11 23:56

考えないこと

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 賃貸宇宙の文庫版上巻。A5から文庫にサイズダウンされ上下巻に分冊までされているが、フルカラー462ページは厚さ30ミリ重さ430グラムにもなり携帯には不向き。見開きの写真を良く見ようと目を凝らせば見開き写真の中央には『筑摩書房 賃貸宇宙文庫版 三折』という文字が見え、いかに携帯に不向きであるかをせつなくなるほどの危うさで教えてくれる。ちなみに上下二分冊の文庫ドグラマグラ上巻324ページは厚さ13ミリ重さ170グラムであった。
 メインのコンテンツである部屋写真はジャンル分けがされており、上巻で扱っているのは『片づけないこと』『片付けるなら、徹底的に片づけること』『狭さをおそれないこと』『とにかく安いこと』『好きなものに囲まれること』『部屋なんてどうでもいいと思うこと』『シェアすること』『家具に金を使わないこと』『家具を置かないこと』『部屋を改造すること』『部屋を壊すこと』『都心から離れること』『緑の中に住むこと』『外国人に学ぶこと』『押入れを活用すること』『コタツで全部すますこと』『中2階を使うこと』『ひといろに染めること』『壁にものを貼りつけること』『陽当たりのよさで選ぶこと』。いずれの部屋写真も「可能な限り社会と没交渉にしました」と言わんばかりの部屋が趣味なのか趣味以外のものなのかを爆発させて燦然と輝いているのである。人生に大切なのは覚悟だと理解の範疇を大きく超えたところで読者を唸らせるそのスケールはまさに宇宙。部屋を個人と見做し、賃貸の部屋を借り物の器と捉え、必然と自由とで構成される二元論で無限なる精神活動を讃えるといった穿った見方は意味がないのでやめておいたほうが賢明だろう。
 住人にとって居心地の良い部屋は実に多様で生活や嗜好によってそのありがたみを変えるだろう。そこで部屋写真を挟むように収められた建物の外観が写る風景写真や生活雑貨についてのコラムがいい味を出している。部屋が宇宙であるならばその部屋を取り囲む世界があることを示すことは、どんなに違っているものでも繋がっていることを示しているように思える。そして生活雑貨は部屋を占める小さな一要素だ。小さなものを積み重ねて塊となし居心地の良い生活を作る、その見事なまでのボトムアップは画一的なトップダウンでは薄っぺらいスカスカなものしか作り出せないことを考えさせる。けれど考えたところで居心地はよくならない。だとすると考えずに楽しむ方がよさそうだ。

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基準と基準の狭間と外側

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ゾンネンシュターン、それは私だ』。種村季弘がこれを記したのは1974年池袋西武百貨店で開かれたゾンネンシュターン展のカタログにおいてである。平凡社2005年刊「断片からの世界」に収められたこの言葉は、カタログ序文のタイトルであり、画家を映すものとしてゾンネン(太陽)シュターン(星)があると挙げられた句であるが、本書末にある増補新版のための解説において巖谷國士氏は『そこには種村さん自身の「ゾンネンシュターン、それは私だ」という声も響いていたような気がする』と語っている。そして本書付属の月報『虹色の錬糞術師ゾンネンシュターン』において種村季弘はゾンネンシュターンの話し方について次のように述べた。『何といえばいいのか、ある話題が個別的にそれだけで終らずに、かならず当の話題とは正反対の話題へとひっくり返るのである』。
 博覧強記を謳われた種村季弘の文はまさにこれだ。価値が逆転し逆転が連続、その逆転軸のぶれの分だけ話題が膨らみ多層空間的な文章が紡ぎ上がる。膨大な知識を源泉としながらも軽妙と評される個々の文は吟味されつくしたが故に軽妙とならざるをえず、これもまた本書内の『ゾンネンシュターンの構図や彩色の、この念入りな、馬鹿正直なまでに念入りな作業』との符合を喚起させずにはいられない。そして類似性が感じられれば感じられるほど『ゾンネンシュターンの作品の最大の特徴の一つは、疑いもなく「あらゆる歴史上並びに同時代の様式種から完全に無縁であること」(オト・ビハルジ—メリン『世界の素朴絵画』である』も似てこざるをえない。
 増補新版となった本書の元、1976年の「骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書」についての説明が種村季弘も編集委員を務める「澁澤龍彦全集14」の解題内『マックス・ワルター・スワーンベリ』の項にある。この「澁澤龍彦全集14」には「幻想の彼方へ」が収められており、そこには『ゾンネンシュターン、色鉛筆の預言者』がある。ゾンネンシュターンの絵を解いて澁澤龍彦は『私にはゾンネンシュターンの円環的な世界が、そこで天地創造の行われるべき、一個の子宮の内部のような気がしてならないのである』と説いた。円環を永遠回帰とし、その内的宇宙に人というラベルを貼れば個にして一となる隔絶した世界が無数に生まれることだろう。無数に生まれた世界は無数にある世界として全となり、全となった世界では内的宇宙は殺される。円環が円環であることを知るには外側を知るだけでよいが、それが世界であることを感じるには内と外と両方に在してなければならない。何かと澁澤龍彦と比されることの多い種村季弘だが、最も大きな違いはこの対象への同化の部分にあるのではなかろうか。
 ゾンネンシュターンの語る「道徳」がいかなるものであるかを語ることはゾンネンシュターンを除いては不可能だ。余人に可能なのはせいぜいゾンネンシュターンが語る「道徳」にどのようなものが付随しているかを検視する程度でしかない。道徳が道徳たりうるための道徳を必要とする社会や集団、そこから独立し隔絶した道徳を有するほどに、その道徳は既存のそれと癒着し同化する。その脆く険しい山巓にありて猶『余は社会不適応者だ、と世人は言う。そうだとも!』と叫ぶ精神にこそ『お前ら、哀れにもひからびはてた社会ミイラどもよ、安らかに眠るがいい』と俯瞰した物言いが相応しいのであろう。種村季弘も故人となってしまった。声を聞くことは叶わなくなったが跡を辿ることはできる。辿るしか術のない哀れな者の足元を太陽も星もきっと照らしてくれることだろう。

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壮麗優美な水の畔の英傑達

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 水滸伝の魅力はピカレスクロマンにあると言われる。いわゆるピカレスク小説を為すための定義を満たしているものではないが、北宋という繁栄を極めた時代を社会の矛盾を批判する庶民の視点で描いていることは大いなる共通項ではある。
 水滸伝の物語中、「梁山に集った英傑たちの仲間入りができて光栄だ」というような場面がしばしばでてくる。そこでは義兄弟の契りを交わしたり酒を酌み交わして打ち解けたりと疚しさなぞ一片もないかの如くまっすぐだ。実際のところ梁山泊の好漢たちの多くは人殺しであったり盗人であったりの犯罪者である。この辺りが中国の悪漢小説だと言われる所以になるのだろうが、当の悪漢たちは自らを悪漢だとはちっとも思わず好漢だと称して憚らない。
 えいけつ【英傑】知恵・才能・実行力などにすぐれた人。英雄豪傑。
 あっかん【悪漢】悪いことをする男。わるもの。悪党。
 (@nifty:辞書より引用http://tool.nifty.com/dictionary/)
すぐれたものの定義も悪いとされる行いも体制によって決められるものでしかない。知恵や才能がどれほどあろうとも必要とされなければ知恵が足りないことであり才能がないことである。体制によって定められるすぐれたものは統制がどれだけできるかであり、規格外の知恵や才能は不要なものとされる。そして社会が矛盾を孕んだものであればあるほど、不要なものは悪とされがちなのは歴史が証明するところだろう。
 マスパワーの働くところで傑出したものはその母集団の小ささ故に弱者とならざるを得ず、マスパワーが働くが為に弱者は駆逐される。マスとして機能するのは人の集まりに限るものではない。岩波とちくまで揃えられたところに平凡社ライブラリーを並べなければならないときのやるせなさ。富士見ファンタジアと角川スニーカーで固められた棚に徳間デュアルを投入せねばならないときの悲痛感。省みよう、自分が欲したものは何だったのかを。もし本書がB5変形であることを気に病んで購入を渋っている方がいるようなら、この辺りに思いを馳せて鼻で笑い飛ばしてもらえれば幸いである。
 本書において好漢の掲載順は凡そ登場に倣ったものになっており九紋竜史進に始まり紫髯伯皇甫端で終わる。梁山泊の壱百八の英傑を個別に追うにはまさに相応しい画集だ。製作時期の違いによる色や画材の変化、元絵そのままではなく好漢ごとに切っての掲載等、気になる点がないわけではない。ただ、このような点は制作上での試行錯誤の結果に対する穿った視点でしかなく、例えば大きな元絵をそのまま縮尺して潰れた印刷物を目にしなければならない不幸を考えると気にするのも馬鹿馬鹿しいことだ。壮麗優美な英傑達は水の畔に佇んで涼やかに読者を待ってくれているのだから。

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紙の本マルタ幸せな猫の島

2006/10/21 20:25

猫にあいさつ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 マルタにはマルタ猫協会なるものがある。(National Cat Society of Malta ;http://maltesecats.2kat.net/index.html)NHKの番組『マルタの猫』でも取り上げられたこの協会には50から60匹の猫がいて飢えや傷病から保護されている。番組撮影当時の会長は獣医でもあり、それは手際よく猫の診察をしていた。ここの猫は数が多いことから餌の盛られた盆まで顔を突っ込めないことが良くあるために、隙間に手を伸ばして餌を口まですくって食べることを覚えたらしい。猫も生きるためにちゃんと頭を使う。
 人口約39万人のマルタ共和国にはその倍の猫がいるという。人の中で猫が生きているというより猫の中で人が生きているというようなマルタの人々は猫にとても寛容だと著者は言う。爪傷、泥汚れ、飛び散る糞尿。持ち物にそんなことをされようものなら怒り心頭に発し猫を目の仇にすることが容易に想像されるがマルタでは事情が違うとのこと。皆が皆、猫に寛容であるというわけではなかろうが猫と人との住み分けはちゃんとできているのかもしれない。そうでなければ人の倍もいる猫に囲まれての生活、猫嫌いには苦しいことこの上なかろう。いや生活のことを考えるならばむしろ猫好きのほうが悶え苦しんでしまうのか。
 本書には猫が人を観察しているような写真が多くあるが、マルタに限らず道端の猫を気に留める人なら覚えのある風景だろう。塀の上で香箱を組んでいても、暖かな日差しの当たる階段で寝転がっていても、尻尾をぷんと立ててパトロールしていても、人がある程度近づくと「なあに」と問うような表情を見せる。猫は風景の中にいて人を見る、それを受けて人は猫にあいさつをする。猫さんこんにちは何か変わったことはありますか。猫は鼻を少しゆらすのみで何も答えない。世の中すべて事もなし平らかに和してゆったり幸せ。本書は異国の地においても同じなことを読者にあますことなく伝えてくれる。

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領域の絶対性

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 帯にライトノベルの文字があるものの、やはりこれはSFなのである。それはナポリタンが何料理であるかに近しいもので、迂闊にイタリアンだと分類してしまえば、「ぷ」、と歯がみして身を震わせるに十分な嘲弄を浴びせられるだろう。ナポリタンは和食なのである。「ぼくハンバーグ」「わたしナポリターン」「はっはっは、じゃあパパはカレーの大盛りだな」「まあパパったら」と未だ宇宙とロボットに希望と予算があった時代を懐古して、「懐古、何ぞそれ」なる若者を置き去りにして「最近の若者はなっとらん」と楔形文字から続く繰り言を溜息混じりにぶつぶつ呟く、そんな和食なのである。いや、これでは説明が不十分どころでない、ゴミだらけの宇宙にだって希望はまだあるし、予算もきっとそのうち多分つくだろうつくといいな、なのである。違う。ナポリタンはイタリアンとしては眉唾だが和食としては立派なのである。とても立派な和食なのである。
 これがライトノベルでなくSFであるのは別に、少年に名をもらい戦い続ける少女がいないとか、故郷を目指して旅をする狼耳の少女がいないとか、十万三千冊の書物の記憶を持つ少女がいないとか、そんなところに負うものがあるのではなく、従前の北野勇作氏の作品がSFだからである。帯にもある『売れないSF作家』はともかくも、見返しの著者紹介の筆頭に『SF作家』とあることからも、氏がSF作家として自らを定義づけていることはうかがえるところであり、それは瞠目し侵すべからざるものとして焼きつけねばならないものだと考える。というより、これをラノベ扱いするのはともかくも、SF扱いしないなんてのは、ちょっと無理があるというか定義が狭過ぎてつまらなくないか、と思うわけで。それはそうと北野勇作氏の代表作にして日本屈指のSF作品であるところの『かめくん』が入手困難品としてうらぶれているのは非常に嘆かわしい。なんとかしていただきたい。
 作品は相変わらずのユニークさで、裏表紙に記された紹介文が読み進めるうちに台無しになってしまう、そんな北野勇作ワールドを存分に味わえるものになっている。サラサラしたハンバーグ種、それじゃハンバーグが固まらないというより喩えとして分かりにく過ぎる、手でこねると脂がべっとりついて落とすの大変だよねという話なんだけど、ではべっとりした素麺、それは茹でる水が少なかったり水さらしが不十分だったりしただけの嫌なものだ、ならばクラゲ型の葛餅。そんな北野勇作ワールドなのである。良く分からないものを良く分かるように紹介するのは難しい。読めば分かるかもしれないし読んでも分からないかもしれない。量子読書学。積読厳禁。そんな北野勇作ワールドなのである。
ともあれリメイクで作品が上書きになってしまうとネタとして使い難くなるか、いや「それは旧作の方でござってなデュフフ」と使いやすいのかな。『エヴァンゲリオン』と『ヱヴァンゲリヲン』も別物っぽくなってしまったし。しかし最近はアニソン歌手もインディーズからってことになるのかあ。同人だってインディーズレーベルではあるんだけどさ。境目は薄く低くなってるのかなあ、それとも見えない壁が厚くなってしまってるのかなあ。『自由に情報に接することのできる不自由さ』みたいな雁字搦めに陥らないよう頑張ってほしい。

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紙の本絵巻水滸伝 第5巻 天魁星受難

2007/01/12 20:51

天命を得て宿運に遇う

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 李逵と張順の喧嘩から石秀一行が祝家荘で悶着を起こすまでが収められた絵巻水滸伝第五巻。いよいよ宋江が梁山泊入りを遂げる巻であり、梁山泊がまさに梁山泊として動き始める水滸伝の大転換点である。ただ、この絵巻水滸伝においては宋江の梁山泊入りではなく、李俊ら江州勢が三覇と称されるようになるまでの話が大きく取り上げられている。
 本巻における三覇の覇権確立の話は幇の争いを絡めた武力闘争として描かれている。武力闘争の方はいつもながらの水滸伝で特に目新しいものがあるわけでもなく安心して楽しめる部分だ。そして目新しく面白いのは三覇それぞれを江州に数多くある幇の一つとして描き上げた点。絵巻水滸伝においての幇は幇会と同義とされ、第二巻の用語辞典にて『中国の秘密結社。土地や武術の流派、業界ごとに作られる。乞食が作る丐幇など全国規模の大きな幇会もあり、仲間になればさまざまな庇護が得られる。幇会ごとに入会の儀式や暗号、厳しい掟が定められている。』との説明がある。
 三覇の幇は香港台湾上海などの今日における幇と凡そ同じ、武力をもった私的経済特区を取り仕切る集団とされ、これは言うまでもなく反体制側の集団である。反体制だからといって幇の縄張り内が血生臭いものであるかというとそういうものでもなく、富の集積が体制側の望まない形で行われているだけのことである。そもそも経済圏は政治的な統制を嫌って成立するものであるから驚くようなものでもないだろう。李俊ら三覇がその私的経済特区において捌く主な品物は塩。中国では前漢武帝以降、批判を絶えず受けながらも塩鉄専売が辛亥革命まで続けられており、塩は官に拠らず取引されること自体が罪となる。その罪はたいそう重く犯したものは死刑。つまりそれだけの富を塩取引は生むのである。
 武侠が武侠集団になるには資金が必要で集団が組織化されるなら尚更のこと。宋江が梁山泊入りして梁山泊が組織化された武侠集団として始動する今巻において、その行動の資金源となりうる経済的側面を作品内に取り入れたことは実に素晴らしい。湖北省は岩塩が豊富で長江を上った四川省は昔から製塩が有名であるが、『解州の塩』を選んだところなぞニヤリとする読者も多かろう。残念なのは三覇の話を重厚に描いてしまったせいか、宋江救出のため晁蓋以下梁山泊の好漢たちが刑場に討ち入る場面が華々しさに欠けてしまったところだ。塩の取引制度をあまりに絡めると機構的に過ぎ本筋である英傑達の活躍が曇ってしまうところだが、女性を絡めて上手く浪漫譚に纏めた辺りは見事と手放しで誉めるほかないだけに惜しい。今後の期待大である。

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紙の本絵巻水滸伝 第4巻 清風鎮謀叛

2006/11/06 22:18

流れ流される宋江の傍に

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 絵巻水滸伝第四巻。魯智深一味に武松が加わっての二竜山奪回から李逵と張順が江州の魚河岸にて遭遇するまでが収められており、タイトルにもある清風山の攻防が幹に据えられている。第三巻にて宋江が話の大筋に絡みだしたが本巻でそれはさらに増す。水滸伝が梁山泊に籠った壱百八の豪傑の話であり、その豪傑たちの首領こそ宋江であると告げる展開からは目を離せなくなる。
 ちびで色黒で泣き虫でもある宋江、その人物を追うとやはりちびで色黒で泣き虫であり、どこか間抜けで思考は短絡的、その上ちっとも懲りることがないという迷惑極まりない人物であることがわかる。とことん魅力を感じられないこんな宋江だが、水滸伝の主人公は誰かと問われたとき苦悶の末に宋江だと答えざるを得ない。何故か。それはやはり迷惑極まりない人物であるからなのだろう。
 迷惑をかけるという行為は迷惑をかけられるものがあってはじめて迷惑な行為となる。ものをよく壊す人がいたとする。壊されるものが私有のものであっても家族も使う皿だったりパソコンだったり自動車だったりすれば家族は迷惑だと感じることもあろう。誰も迷惑を被らないようにするには壊されるものが全き私有のものでなければならず、その時はものをよく壊す人がものをよく壊す人だということすら人知れず済むのかもしれない。ただ、ものを全き私有と為すにはありとあらゆるものからの隔絶が必要であり、それは存在するものである以上まずもって無理だ。ものがものとしてあるためには来し方行く末の理から逃れることはできず、人獣木石日月星辰、有象無象がその枠に含まれることとなる。
 宋江は冴えない。華もない。しかし、どのような素晴らしい絵も画布なくば絵であることができぬように、華が華たるためには素地が必要だ。宋江が迷惑極まりない人物であることは甚大な影響力があるということ。水滴が集いて大河と成るように英傑達の個の話は宋江という人物を通すことで水滸伝という群像劇へと紡がれる。中国が二本の大河によってその繁栄を築き上げた国であることを考えると感歎を禁じえない。
 物語の背景の広さ深さを宋江が醸し出す、しかしそれが表れれば表れるほど華々しい豪傑の活躍が霞んでしまうのは困ったことだ。本書で表紙に登場する霹靂火秦明、タイトルにある清風鎮の駐在武官である小李広花栄、水滸伝中にあって一二を争うその驍勇を若干醒め気味に眺めてしまうことになるのは残念でならない。底本では語られることのない女性を絡めた場面進行も、試みは素晴らしいものの夫婦恋人の絡みに重きが偏りがちで通巻では些か食傷だ。それでも水滸伝の世界を広げるべく新たな視点を示していることは素晴らしい。今後に期待したい。

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紙の本絵巻水滸伝 第1巻 伏魔降臨

2006/08/22 20:59

解き放たれた壱百八の魔

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 時は北宋、仁宗皇帝の御代、嘉祐三年三月三日の朝賀における、壱百八の魔が世にでてしまう契機となる奏上は祈祷要請であった。そんな馬鹿なことをと思うものの、対災害ということに科学的アプローチが制限される時代において、祈祷が対災害政策としてある程度認識されたものではあったのだろうと想像する。
 政策を取り決める上で無視できないのが儒教だ。北宋の科挙では皇帝自らが選抜する殿試が加えられ、北宋の強固な中央集権体制下で官僚になるには科挙に合格することが絶対であった。しかも科挙には孟子が必修に定められ儒教的素養がより濃く必要とされるようになる。この上で『子不語怪力乱神』という論語の言葉を考えると、儒教が政治的学問として濃い性質をもつ以上、怪力乱神が政治的タブーとして語られず触れられないものと扱われていたであろうことも想像がつく。
 ここで結果として祈祷は政治的タブーであったことが見えてくる。伏魔之殿から放たれた壱百八の魔は集いて後に愛国の忠臣となるがその元にあるのは反体制の性である。彼らの気骨が真っ直ぐであったおかげで体制側としては一応の面目は保てたわけだが、反体制の集団に助けられた体制という極めて無様な姿を晒したことは間違いない。そもそも端緒の祈祷要請も道教の真人への依頼、政府が民間に援助を請うという間抜けぶりで記されている。この辺りも水滸伝が知識人の苦い顔を誘って通俗小説のレッテルを貼られる所以の一つだろう。
 民衆の生活に根付いた道教に官僚の学問としての儒教を糊塗することでより強く民の力を描きあげているのが水滸伝の大きな魅力であるものの、その部分を注視して読んでしまうと水滸伝のもつ快活さを減ずることになりかねない。水滸伝を読むならやはり英雄豪傑の勇壮華麗な大活躍をこそ目にしたいのであり、その点について言えば本書はまさにうってつけだ。
 ヴィジュアルノベルとの銘に相応しく大迫力の壮麗な絵がふんだんに盛り込まれ読む者の目を捉えて離さない。英雄豪傑の人物像に重きを置く切り口は彼らの活躍を追うに相応しいものといえよう。絵と文が一体となって押し寄せたとき、読者は颶風に巻かれ剣戈の響きを耳にするだろう。
 実にわくわくさせられる本書であるがいくつか難点もある。大きなものとしては筆者による人物への偏愛が見受けられること、字を追うのか音を追うのか半端なままで文が綴られること、初心者が取っ付き易い作りであるにもかかわらず水滸伝好きによる水滸伝本に終始してしまっていること。小さいものとしては致命的な人名誤記、近年的同人作品風のやたら多く加えられた人物相関、バランスの悪さを考えさせられる頻繁な内面描写。これらの難点は個人の趣向によって作用したりしなかったりするものである上、本書のタイトルは『絵巻水滸伝』、絵こそ本書の真髄と考えると些細なこととして切り捨てて構わないものだろう。難点が本書の魅力を滅するかと問われればこう答える他はないのだから。断じて否である、と。

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アマズィーグ

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 Amazigh、「高貴な出自の人」「自由人」という意味らしい。ベルベル人の自称だ。ベルベル(Berber)という呼称が西欧から「言葉の分からない人」「バルバロイ」の押し付けをされているならば、その名称は使いたくなかろうと察して頷けるものだ。もっとも先祖であるバルバル(Barbar)からの由来とも言われている。自称の自己決定性を尊重したくはあれども、やみくもにそれを是としてしまえば言葉の断絶がそこかしこに見られるようになり、名称の「ルーツを示す」部分がごっそり削ぎ落ちてしまうので望ましいとは思えない。妥当な判断を求めたいところだが、言葉には始点があり必ずバイアスがかかるものなので、妥当な判断が妥当であるとの認識は極めて相対的なものにしかならず、さてそれが妥当かというと首を傾げるところであるが、そんなことを考えていると時間ばかりが消費され腹が減る一方なのでほどほどにしておくのがよろしかろうと思うのである。
 モロッコ料理と聞いて思い浮かぶのはクスクスなのだが、やはり最近流行りのタジンに多くのページが割かれている。といっても美味しそうな写真を見たところで、さほどモロッコ料理に親しみのないため、チュニジア料理よりも地中海色が薄いかな、という程度の感想しか抱けない。グラナダのスペイン料理ってどんな感じだったけ、と記憶をたどろうとするも上手く思い出せない。むう。年はとりたくない。
 で、タジンだ。無水調理を売りにするこのタジン、焦げ付きを防ぐためだろう、少量のオリーブオイルが加えられているものの、炊飯器と同じ要領であるため見るだにヘルシーである。ラタトゥイユ、カポナータ、一皿にたくさんの野菜が詰められる美味しい料理は実にありがたいものだ。タジンの名はインドのカリーと似たようなものか、という印象を受けた。割と何でもあり。モロッコにはないのかもしれないが、もやしとニラと豚肉のタジンなんてやってみたい。
 さて本書、写真が美味しそうでレイアウトも素敵だと思うのだが、別のウェブ通販サイトでは意外にも「思っていたより手順が面倒」「他の料理本より値段が高い」「火力の目安がない」「分かりにくい」と酷評されている。著者紹介を見るとさほど料理経験の高い人ではないようなので、「作り手が」「作るままに」レシピを書いたためが故の問題だろう。
 さほど経験がない人同士だとセンスの差がもろに出てしまうため、お互いを理解し合えない事態が往々にして起こる。このセンスの差は大概の場合は競走馬の「早熟」「晩成」みたいなもので、本質的なものに対する優劣ではないのだが、いち早く結果を求めた場合どうしても先に結果を残せるほうが優れていると勘違いされる。「食えるものであれば良い」「どうせ食べるなら美味しいものを」という意識の違いもまた評価に影響が出るため、勘違いしたものはより強固に根付いてしまうのだ。
 著者は経験を伝えようと思ったが、経験を伝えることと経験を語ることは別個のものであり、若い経験者が「なんでこんなこと分かんねえんだよ!」と初心者もしくは部外者に向かって言うが如きの失敗がないとは言い切れない。ただ文句の多くは「本を全部読んでいない」「指示に従わない」という分かりやすい理由によるものなので、筆者にはご愁傷さま、と同情するものだが。しかしレシピ本は家電と同じ仕組みにどうしてもなってしまうなあ。意識のすり合わせが実に難しい。その違いこそが生活なんだろうな。

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紙の本絵巻水滸伝 第2巻 北斗之党

2006/08/26 12:53

梁山は新たな局面へ

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 林冲落草から晁蓋が新首領になるまでを収めた絵巻水滸伝第二巻。勇壮華麗な大迫力の絵巻は読者の目を捕らえて離さない。
 水滸伝において好漢が犯す罪は凡そ殺人か強盗である。その犯罪に手を染めるに至った事情はそれぞれに異なるものの、多くは民の側に身を置く義によって立つ行為であると語られている。義という儒教的概念によって示されるものは反体制の性に根付いたどこか陰のあるものが多い。義民や義賊はその行為が時の政府からしてみれば犯罪でしかないし、義侠や義塾はその存在そのものが反体制と取られてしまう。義士や義兄弟に害はないが義理や義務は鬱陶しさを内包するものであるし、正義を声高に叫ぶものには胡散臭さを感じずにはいられない。義が正しい行いを指す概念ならば正と強調した正義とは一体何だ。
 義賊が窃盗や強盗を働く。他者を虐げて財貨を溜め込んだ役人や商人がその対象となる。虐げられた人々はざまあねえやと快哉を叫ぶだろう。が、その後どうなるだろう。溜め込んだ財貨を盗まれた連中が悔い改めるとはとても思えない。失った分まで搾取するため弱い者をより虐げるだけのことではあるまいか。義賊が講談師によってどれほど民の味方であるように語られようとも良い行いは普遍的ではなく、人の心もまた移りゆくのである。所詮賊は賊であり、どれほど民の側に立ったと言われようとも義賊もまた搾取する側の存在でしかない。だからこそ義賊を主体として物語ったときに包含されたジレンマがピカレスクロマンとなって読者を惹きつけてやまないのだ。
 語られないものを語る、その始元の者にはまさに語ることができない苦労が常に付き従うだろう。本書でもやはり第一巻と同じく、底本であまり語られなかった部分を人物中心の新たな切り口で描くという手法がとられている。語られなかった部分が何故語られなかったのかということを明らかにせず熱を入れて語ってしまう、人によって偏愛としか見えないそれはやはり趣向の範疇に帰結してしまうものだ。
 本書は一九九八年からサイトを通じたウェブ連載で進められてきた。帯の宣伝によるとサイトには二千万のアクセスがあるという。それは紛れもない実績だ。紙媒体の情報が電子化され、近年では電子情報の書籍化が行われるようになった。しかし電子情報の書籍化は残念なことに未だ珍しいとされる類の行為だ。無論母集団の小ささがその珍しさの原因なのだろう。小さい母集団から抽出されるもっと小さい標本が一定の範囲内のものでしかなかった場合、抽出の行為そのものがある制限を内包するものになってしまう。倣うことに安心を覚える行為者には制限に従うことが義に添う行為であり母集団を新たに見ることは義に悖る行為となりかねない。そんな先細りの現場主義を促進させてしまうだけで終わってしまっては余りに惜しい惜しすぎる。水滸伝それ自体も常に時代のスタンダードとしてあるべく版を変えてきたものなのだ。
 本書はいい本だ。美しく見やすい。期待はしている。だからこそもう少し電子情報の書籍化ということについて考えて欲しい。書籍は現物を手に取るか取らないかの二択しか与えない傲慢な産物だ。読者はその傲慢さを望んでいるともいえる。傲るには傲るだけの力が必要だ。傲って他者を軽んずるのは構わない、しかしながら自らを軽んじてしまうことは忌避せねばならないのではなかろうか。

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