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ヨネさんのレビュー一覧

投稿者:ヨネ

11 件中 1 件~ 11 件を表示

危機におかれた「経験」のためにかかれた本

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

断定からはじめます.この本の主題は,広い意味でのひとびとの間の交際と,それがおこなわれる空間にあります.

ひとびとの交際は,あるときには言葉を介しているし,またあるときには物を介しておこります.交際をなかだちするものとしての言葉にそくして交際そのことの質・あり方を考察した文章がたとえば「考える言葉」であり,また,ひとびとの活動の痕跡であり徴候となっている物に照準した文章がたとえば「小さなものの諸形態」です.

言葉にこだわるフィロロジストがいたり,物に執心している好事家がいます.ここで2つ挙げた文章において,しかし市村さんは言葉に淫しても物に拘泥してもいません.ここに要点があります.かならずしもフィロロジストは言葉のおかれた交際の場・動態に関心をもたないし,好事家もまた物が告げるひとびとの歴史や現在の徴候に目を凝らしはしません.くりかえすと,市村さんが考え続けていること・記録にとどめようとしていることは,交際とその空間です.

ここで「経験」が決定的な要因として浮上してきます.この本のいたるところに「経験」の2文字がみつかりますが,なぜそうも繰り返してこのキータームがあらわれるのかというと,それは,おおよそ,こういう具合です.

あるとき・ある場所でなにかを経験する.そうしたことの連続があっていまに到っているときに,過去の「経験」がほかの誰にもそういうものとして認知されない状態にあって,じぶんが確かに「いる」という手ごたえがありうるかというと,どうもそういうことはありそうにない.

とっても身近なところでは,「愚痴をこぼす」というふるまいが身の回りにたくさんみられることが,このことをうらづけています.愚痴のなかで話されていることがらは,たいてい.この世界の片隅の,どうしようもなく些細な事だけれども,でもそのことが「わかってもらえない」ことは,どうしようもなく耐えがたく感じられる──だから,愚痴の声はたえることがないわけです.

経験がほかのだれにもそういうものとして認知されないこと.そのいたたまれなさの感覚から,他者の経験をその異質さをそこなわず汲み取ろうという志向がうまれることがあります.そして,まさにこの志向がこの本の基調になっています.

経験が聞き届けられうるとすれば,それは,ひとびとの交際("society"!)のなかをおいて他にはありません.ここで,経験と交際とがつながっています.交際とその空間は,経験がじゅうぶんに経験としてなりたつための条件なわけです.

この前提からすれば,自分の経験がじぶんの内側だけで完結することは実際上ありえないわけで,市村さんは,こんなふうに書いています:

《自己とは他者が棲息する場所なのだ.他者を抱え込み,あるいは他者性に貫かれていればこそ,この自己は「内面性」という名のもとに閉塞してしまうことはない.自己とは他者の意識である,というだけでは充分ではない.それはたえず他者へとひらかれているだけでなく,時あればあくがれ出てしまう運動状態のもとにある.その魂は内面として所有しうるどころか,自己の統制を越えて「我にもあらず」動きだすのである.何ごとかの夢を「持つ」のではなく,「夢に見る」という古代人の決定的な経験が教えるのは,そこに生成するヴィジョンをつうじて,いわば他者性と相互性,さらには共同性への回路をもつ魂のこのような運動なのである.》〔p.198〕

「魂」といったことばの字面の刺激に反応して,オカルトとかニューエイジのたぐいだと即断するのはまちがいです.自己の経験と交際とがわかちがたくむすびついているところがいわくいいがたいから,そこを「魂」といっているわけです.そして,それじたいは全く客体的ななにかです.


【 garden B 】

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この「じとーっ」としたものは

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「黄色い楕円」はついてないけど,えっちまんがです.一話に少なくともひとつ,そういうシーンがついてきます.もとの掲載誌がそういう雑誌で,これが仕様です.で,その仕様どおりのまんが,ただ「ソレ」だけのまんがは,「あたまわるい」(作家さんが,じゃなくて,お話が,ですよ).とはいえ,それはそれで職人的な「いい仕事」だったりします.でも,まんがとしては概してあまりおもしろくないものですね.

 ところで,そういう仕様のなかでなお,いろんな要素をもりこむ作家さんがいます.三浦さんも,そういうひとりのようです.

 さて,この『おつきさまのかえりみち』,なんというか,「陰鬱星菫派」とでもなづけたいようなふんいきです.〈あかぬけない〉女の子と,〈田舎〉・〈僻地〉・〈隔離施設〉・〈廃墟〉の舞台イメージで,じとーっと停滞・閉塞した時間をつくってます.そこに「純粋な感情」とか「こわれやすさ」がうきあがる話が展開されて,星菫派っぽい叙情感ができているみたいです.

 画面がじとーっとしてるのは,たぶん,焦点/ぼけの対比がなくて均等に細部までかきこまれているから.ふつう,焦点のところは細かく・明瞭に描かれ,逆に,ぼけのところはおおまかに・ぼんやり描かれます.そこが,このまんがでは,画面の全体が,細かく・明瞭です.これは,ぜんぶをじっくりみている画面ということで,これは,視線のおそさ・注視の表現になります.それで,「じとーっ」.

 結論.えー,とてもえっちだと思います.


garden B

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紙の本横書き登場 日本語表記の近代

2004/01/13 02:14

偶然のなかの書記,唯物論的な偶然──を資料の駆使してえがいたすごいお仕事

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本語で書くときって,タテにもヨコにも書けますね.これは,日本語が身についている人なら,どっちの方向でも読んでくれるって安心しているから.それどころか,公式な書類をつくるのにも,どっちを採用してもいいから,権威的にもオッケーですね.

タテ/ヨコに書く習慣がいきわたっていることに信頼感があるから,どっちで書いていいよな,「書くことができる」と思ってるわけです.でも,たとえば英語のレポート出してね,なんてときには,タテに書くわけにはいかない.文字をタテにならべるのはできても,たぶん,そんなのは受け付けてもらえないし,そもそも,ぼくじしん,そんなの疲れるからやりたくないですし.くりかえすと,ことばをある方向で書ける,ということは,そういう信頼感や習慣があってのことです.

屋名池さんが出したこの本は,そういう信頼感と習慣がどんなふうに形成されてきたのかを,資料を駆使して説明しているお仕事です.とても理論的な仕事.理論的だってというのは,2つのちがった意味においてです.

第一に,日本語の書記の研究から,「書字方向」・「行」といった単位をとりだして,その概念をぴしっと明瞭にしたこと.こういう単位は,一般的にみられるもので,喫茶店のメニューにも,ヘーゲルの手稿にも,ひとしく当てはめうる.こういう単位をとりだしておくのは,とても大事.たとえば,ことばを横書きするっていうのは,たんに「文字」を横並びにアレンジするってことじゃない.文字がヨコにならんでいても,一列だったら「一字ずつのタテ書き」ってことがあります.

《一行しかなければ,右横書きは一行一字の縦書きと見分けがつかない.二行以上であっても,行変わりの部分が意味の切れ目でもあるものは,一行一字の縦書きのブロックを複数上下に配置したものとも見られる.》

こうして,「行」という単位が,書記行為にとって有意味な単位としてとりだされるわけです.

「理論的」だという第二のわけは,ことばをある方向で書くという習慣が,ある歴史的な「交渉」のなかで形成されてきた過程をとりだして描いたこと.資料がしめすかぎり,日本語の書記には,いろんな書記方向があった.それらの書記方向が錯綜しているのが,ある時期までの日本語の風景だったわけです.もともとは縦書きしかなかったところへ,「外国語」との接触から,横書きが現れます.

その過程を要約して,屋名池さんはこういいます.

《日本語における横書きは──右横書きも,左横書きも──横書きする外国語の文字との関わりから生じたもの》

いま,ぼくたちは縦書きなら右から左へ改行してつづけ,横書きは左から右へつづっていきます.けれど,こうしておさまりがついたのは,いろんな偶然の作用があってのことで,もしかすると,ほかの書字方向のほうがドミナントになっていたかもしれません.

《日本語に新しい書字方向が生じたのは,当時の日本の社会にそれを受け入れる社会的条件がたまたま備わっていたからだ.そういう意味で,日本語における横書きの成立は,時間と空間の条件に制約された一回性の歴史的な事件だったのである.》

それに,屋名池さんによれば,これまで主だっていた縦書きが,横書きの優位に取って代わりつつあるといいます.

このような交渉の歴史は,同時に,文字についての歴史主義的な意味づけにおおわれた過程でもありました.たとえば,「右横書き」は「伝統的」で,「左横書き」は「欧米の模倣・モダン」〔「駅名標事件」〕といったように,伝統/モダンの対立に重ねあわされたりした(でも,右横書きだって,一時期には,オランダ語のスタイルをまねっこしてみる異国趣味の産物としてあったんだけど〔第5章〕).そして,こうした歴史主義の言説をも要因として,歴史はつづいていくわけです.

garden B

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紙の本教えることの復権

2003/05/18 23:32

教育のテルミドール反動に抗して「教えること」を復権する(ババーン)

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

3点にわけて,この本を紹介します.1)この本が置かれている文脈,2)内容の構成,3)とくに感心したところ.

この本が置かれている文脈について.
題名に「教えること」ってあります.まず,そこから話をおこしますね.「教える」っていうことばを聞くと,なんだか一方的に相手へ知識を詰め込むばかりのことのように思えてしまう.たとえば,歴史の年号をどんどん暗記させる,みたいなのが,典型的なイメージでしょうか.

もし,「教える」イコール詰め込みだとすると,みんなが「詰めこみ教育はよくない」って考えるようになったとき,じゃ,教えるのはよくないよね,となってしまう.実際,小・中学校では,その傾向がつよまった.そして,結果としては,学力のさらなる低下が経験的にみえるかたちであらわれた.すると,こんな意見がでてくる──「子どもの主体性を尊重するだなんて甘いことをいうから,こうなるんだ,きびしく詰めこまないとダメだって,わかっただろ.だから,教育の方針をもとにもどそうじゃないか……」. こういうのを「反動」っていうんでしたっけ.一方の極から反対の極にとんでしまう.

ここでみなくちゃいけないのは,「教えることイコール詰めこみ」っていう前提の正しさだ.「教えること」は,具体的にどういう行為に分解できるのか,また,どんなノウハウがあるのか.これを考えるためには,すぐれた教師に話を聞いてみるのがいい.

大村はまさんは,長年にわたって国語教育にたずさわってきた.だから,そのインタヴューの適任者だ.その大村さんを囲んだ対談を中心にして,この本は構成されている.まず,冒頭で,「大村はま国語教室」が,ぼくたち読者に紹介される.それから,言葉や文化が学ぶに値するって話をして,じゃ,その国語教室の実践はどんなものか,という対談がはじまる.で,本の最後に,論考「教えることの復権をめざして」がおかれて,教育社会学者の苅谷剛彦さんが,「教えること」をあらためて具体的に分解する.そして,「教えること」っていうミクロな行為を,社会っていうマクロに関連づける.──こうして本の構成をみると,話が堅実に組み立てられているのがわかる.対談の本って,しばしば,脈絡もなく話が右往左往する.まっすぐ「教えること」の考察に向かっているこの堅実な構成は,地味ながらも大事な長所だ.

内容のすばらしいところについて.
インタヴューのなかの話は,具体的で,現場=教室のディテールがつたわってきます.しかも,たんに細かいだけじゃない.大村さんの話には,いつも,なんのためにこういうことをしたのか,そして,やってみたらどうなったのか,という筋道がある.目的−手段−結果の関連をいつも考えている.たとえば,国語の長文読解力をつけるという目的は,どうすれば達成できるんだろう.そのためには,ひとりの生徒の読解力について,なにがネックになっているのかを知らなくてはいけない.そのために,テストを組み立てる.すると,「読解の病気」(p.116) がみえる.そのネックになっているクセをなおして,読解力がすこしよくなる──これって基本だけれど,学校ではかならずしも踏襲されてない.さらに大村さんは,こうした手段について,工夫を凝らしています.

そして,そうやって成長する言葉の力は,

《心が相手に間違いなく伝わるように音にしたり文字にしたりできる技術だと考えればいいわけね.〔中略〕自分の気持ちがそっくり素直に言えてそれがすーっと相手の人に伝わっていく,そういう人が集まって話し合ったときに民主国家の基盤ができるということでしょう.それで私は一生懸命になって話し合いの指導に心を砕くようになるわけ》(p.72)

大村さんの口から出たこの言葉は,かじかんでない.これは近頃ではちょっとすごいと思う.言葉の共和国の,ちゃんとした保守主義者──そんな感じの一言です.

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和みトリップ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 動物病院ではたらく女の子のはなし.かわいい女の子のちょっといい話で,読者を和みトリップさせます.そういうまんがはたくさんあるけれど,そのなかでぬきんでています.

読者をおびやかす要素ゼロ.これが隠し味みたいです.たんに絵柄がかわいい,ストーリーがほのぼのしてる,というだけじゃなくて,それらを「あたたかく見守る立場」に読者を安んじさせます.安全で優位な立場です.まんがのなかで主人公たちの日常が描かれるわけですけど,そのなかの一人物に読者が感情移入する,というよりは,物語のそとから主人公とその日常を見守る視点から作品をみる,というかたちです.いわば,物語接待.

だから,まず第一に,想定されるメイン読者であるティーンエイジャー男性にあたるキャラクターはでてきません(すくなくとも,一巻の時点では).そのため,どういうかたちでも物語の世界の内側に彼が身をおくことはなくなります.これは,「あたたかく見守る立場」を安定させます.また第二に,各エピソードは,かぎりなく変化のとぼしい無事な時間を描くことがおおく,また,なにかが起こったとしても,かんたんに展開がみとおせます.だから,あたたかく見守るだけの余地(優位)が,読者に与えられます.

動物が「写実的」に描かれているのは,関わる相手が思うようにはままならない「生き物」だってことをあらわしています.これは,技術の制約でそうなったというのではなくて,たとえば82・83頁のコラムには女の子と同じタッチのものがありますから,選択された描き方だと思います.これを,女の子と同じタッチで描くと,マスコット(「ケロちゃん」)になります.このおかげで,動物病院に「らしさ」がでています.それにしても,どういう構図でもくずれずにかける画力は,本当にすごいですね.

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「少しちがうこと」

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 にがい終わり方です.ここには,べたな成長物語のようでいて「成長」なんて考えの平板さからズレるところがあります.「自分探し」でもありません.そういうのとは少しちがうこと.七華がいう

  「みんながのぞんでいるのはあの子であって私ではないわ 」

ってセリフが,その一端です.

 ご存知でない方に紹介すると,これはいわゆる多重人格(の通念)を仕掛けにつかった物語です.主人公の霧里七華があるとき6歳の人格とのスイッチがおこって,さてそれから…,という話.

「あの子」=「ななか(6歳)」の人格は,素直でみんなに好かれていて,「七華(17歳)」の人格とはまるで正反対だけれど,「七華」当人にしてみれば,「ななか」はかつてそうだった自分なのだし,またいま現在はじぶんと入れ替わっていて,みんなにとっての霧里七華は「ななか」だったりする.だから,「七華」にしてみれば,「ななか」は,かつてそうであったし・そうでありうるはずの人格という近しさをもっている.

 だけど,「七華」は,じぶんが絶対的に「ななか」じゃないってことを知ってる.そして,好きな稔二が気にしているのは「ななか」で,自分は稔二に選ばれない.クラスのみんなに受け入れられているのも「ななか」.その「ななか」が消えてしまうとき,だからみんなが求めている「ななか」を演じてもみるけれど,それもちがうってことになる.

 ここで七華がおかれている立場を前もって示していたのが,七華の義理の母親の立場です.七華の父親=自分の夫や七華が,いまでも前の妻・前の母親を忘れられずにいること,「母親」や「妻」としては同じだけど自分はその代わりになれないってことを,彼女は知っています.

  「私はそれを承知で霧里五十鈴になったのよ」

そのうえで,七華に「お母さん」と呼んでもらえるかどうかわかんないけれど,でも,みとめられるかどうかっていう立場にたつこと.「私はできればあなたたちの中にいるお母さんとも仲良くしていきたいの 」──これって,さいごに七華のおもむく立場と同じです.「ななか」が消えてゆくのがはっきりしたとき,稔二は

  「あいつ 〔=ななか〕はおまえに…おまえの中に帰るんだ 」

と言うけれど,そんなのはぜんぜんちがうって七華はわかってる.だから,そのすぐあとのコマで泣くんですよね.

 『ななか6/17』は,ハートフルな和みものっぽいかんじではじまったけれど,「ななか」という萌えキャラ(!)の解決のされ方がすごくビターです.この「少しちがうこと」に,このシリーズのよさがあります.


garden B

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紙の本ヴァーチャル日本語役割語の謎

2003/06/09 00:58

日本語を知って,「正しい日本語」をこえる

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「わたくし,軽井沢でテニスをしてきましたの」というと,〈お嬢様〉っぽく聞える.これは,代名詞「わたくし」と,文末表現「の」のせいだ.だから,それぞれ「おれ」・「よ」に取り替えると,「おれ,軽井沢でテニスをしてきましたよ」と,〈男性〉ぽいものにかわる.述べている事実は同じものだれど,思い浮かぶ人物像がべつものになる.でも,こういうお嬢様な話し方をほんとにするひとは,いない.また,まんがにでてくる博士は,どういうわけか「そうじゃ,わしが山田じゃ」みたいな話し方をする.でも,これは現実にいる博士の話し方を反映したものじゃない.

なのに,これらは,いかにもお嬢様や博士なものにきこえる.ということは,ぼくたちがこうした表現から思い浮かべているのは,実態とは別の紋切り型,「ステレオタイプ」としての〈お嬢様〉・〈博士〉だってことだ.こういうふうに話し手の人物像にかかわる「役割語」とステレオタイプとの関連がどんなもので,どう形成されてきたのかっていうのが,この本の主題だ.

ところで,ステレオタイプと役割語との結びつきそのものは,たとえばまんがの読者ならだれでも知っていることだし,ふだんの生活でも,友達とは「おれ」で職場では「わたし」というように意識してもいる.だから,テーマそのものは,べつだん新しい発見じゃない.金水さんが一線を画しているのは,標準語を,役割語のひとつとして捉え返したことだ.

ここでいう標準語とは,ぼくたちが現に極東の島国で話している「共通語」ではなくって,それを話すように教育されている言語のこと.その訓練は,学校教育やマス・メディアをとおして,おこなわれてきた.ぼくたちは,〈標準語〉を話す人物像に自己同一化するように,訓練されてきた.

で,その標準語は,役割語としては,〈ヒーロー〉のことばなんだと,金水さんはいう.〈ヒーロー〉とは,物語の中で,聞き手・受け手が自己同一化する存在のこと.だから,〈ヒーロー〉は,受容する側にとって,同一化しやすい条件をみたしていないといけない.言語の面では,それは標準語の使用だ.なぜなら,標準語は,《他の役割語の基準となるような,特殊な役割語》であり,標準語の使用は,その人物の性格やステータスについて,ポジティヴにはなにも示唆しないからだ.もっとも,金水さんがみずからいうように,〈ヒーロー〉ならかならず標準語を使うわけじゃないし,標準語を話すなら〈ヒーロー〉であるっていうのでも,もちろん,ない.ただ,標準語を用いうる場合には,ヒーローは標準語を話すし,それに関連して,「博士語」や「お嬢様語」といった非標準語を話す人物は,自動的に,脇役や背景の要素に配置される.受容者にとって,自己同一化すべきでないものとして,マークされるからだ.ぼくたちは,さらに,いろんな役割に同一化するように促されつつ生活している.

役割語があるってことは,ひとつの文を口に出すのにも役割の選択を意識しなきゃいけないってことだ.だって,たとえば自分の名前を伝えるときでも,「ぼくの名前は」か「オレの名前は」か「私の名前」か,どれかひとつを選ぶしかないし,文末も「です」とか「だ」とかイロイロあるなかの1つを使う.そして,それが同時に役割語の選択になっているのだから.役割語がなくてもステレオタイプや役割は成立するけれど,毎日使う言語に役割語があることで,役割の選択がなんどもくりかえされる.そのなかには,不本意なものもあるだろう.また,《役割語の使用の中に,偏見や差別が自然に忍び込んでくる》ことも,ときにある.そのとき,役割語とステレオタイプについて語る道具がそろっていれば,なにがまずいのかを腑分けできる.この本のよさは,そのリテラシーに貢献しているところにある.


garden B

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もちろん面白い,けど.

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 職場モノの4コマまんが.

 朝倉さん,もはや「モテモテなひと」キャラが確定しています.朝倉さんの「モテモテ」・「仕事バツグン」・「天然ボケ(恋愛限定)」でネタの基本ができてます.で,「仕事バリバリ」の部分が,初期だと朝倉さんのテキパキした男勝りの仕事振りで描写されていたんだけれど,ある時期からは細かい気配りをとおして描写されるように変化しました.「モテモテ」がクローズアップされるようになった時期は,これと重なります.いわゆるアレです,かわいい女性になったわけです.そして当然,キャラとしての「天然ボケ(恋愛限定)」がこれにともないます.

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今風なおもしろさの反面にあるのは

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 キャラどうしが仲良くじゃれあうまんが.そのじゃれあいのテンポとかデフォルメのしかたに芸風をだしています.で,この芸が今風に上手なんですね.なお,主人公がツッコミのひとで,あとの残りがボケのひと.それでいて,話をうごかしているのは,基本的にボケのひとで,主人公は巻き込まれたりツッコんだりするスタンスです.

 ちょっと気がついたことを書きます.この主人公って,どういうわけか,相手のコトをみとめてあげる立場にずっといます.で,逆に,みとめてもらえるかどうかっていう立場には,まるで立たないんですね.2つ例を挙げます:

・たとえば,悪魔のミルキィとの関係が,いちおう,このまんがの柱だけれど,主人公はミルキィの下僕に「なってやる 」(1巻p.30) のだし,「見捨てない 」(p92) って言ってあげてたりする.でも,ミルキィのほうでは,そういう局面はない.

・ほかのキャラとの場合でも,たとえばアーテリーが,自分はいらない子じゃないかって落ち込めば,主人公はなぐさめてあげるほうに回っています.

 というわけで,このまんがに「和み」が感じられるとしたら,それは,相手をみとめてあげる立場にいつづけることの気楽さによるんじゃないかって思います.一巻の作者コメントに「無軌道ほんのりハートフルマンガ 」ってあります.話の展開やキャラの言動は,このフレーズどおりです.でも,そういう「ほんのり」や「ハートフル」の裏地に,はっきりと軌道をもってゆるがないものがあるのも,もうひとつのことです.主人公はやたらと,えらそーだったりシニカルだったりクールだったりしてるけど,それって,こういう構図のなかで見直してみると,なんだかな,です.


garden B

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読み物としてはわるくないけど,実践にはイマイチ

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 文体論学者による英語指南書.

 でも,フタをあけてみると,なんだか散漫.しかも権威主義くさいです.著名人や文学者から英語のよくできたひとを選び出してきて,「エライひとはこうやって英語ができるようになったんだ.見てみなよ,こんな英語,キミには言えも書けもしないでしょ.この人はこうやって英語をモノにしたの.だから,シンドくてもこのやり方をしなさいね」というトークをくりかえします.すすめているやり方のひとつひとつにはこれという異存はないけど,これじゃ指南にならないですよ.

 とくに,「名文」を暗誦しなさいという第6章には首をかしげます.作家の文章をいくつか抜き出してきて和訳をつけて,チョロチョロっと豆知識を披露しておしまいです.断片的にはその「名文」の分析があるけれど,つぎの2つのことがないので,学習者にとっては実践的な価値がありません.

・第一に,どういう点で「名文」なのかわかりません.内容・修辞・音調がよい現代語の文章を基準にするというけれど,じっさいに引用している文章のどういうところがそうなのか.内容・修辞・音調の3点について,ちゃんと記述してほしいところです.例文のよしあしがひとつひとつわかるくらいのひとなら,もはや指南の必要はないわけです.文体論学者としてのウデはそこにふるうべきであって,

 《間投詞(専門的に言うと談話標識)》(p.78)

とか

 《(専門的に言うと認知的)隠喩》(p.74)

とか,ジャーゴンをムダにつかうのにふるうべきじゃないと思います.そして,

・第二に,自分で暗誦するのによい文章がどんなものなのか,指針をもてないってこと.結局,「名文」を選ぶ基準がわからないわけです.推奨する暗誦本のリストもあるけれど,こういうふうに「オレについてこい」しか言ってないのは,どうかと思います.

 英語力を高めたい人にハッパをかける本ではあるけれども,手ほどきにはあまりならない本です.


garden B

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もし,この本が楽しく読めたら,ちょっと思い出して欲しいこと

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 書名は「なぜ〜?」という問いかけ文 interrogative になっていますが,ホントは,「怒れ!」という命令文 imperative の方がふさわしい内容です.たとえば本書215頁に《これまでの章で書いてきたことを,スローガン風に整理してみよう》とあって,箇条書きをしてます.で,それらがそろって「〜しろ」・「〜するな」・「〜しよう」です.つまるところ,この本は,全体としてなにをやっているかというと,「〜しろ」というはたらきかけであって,なにかの解明ではありません.

 さて,「なぜ〜?」を書いたものなら,興味がある人の誰もが読めます.「どうしてこうなんだろう」を調べ・考えたものなのだから,それを読むのに大事なのは「わかる」です.誰であれ,その本を読むひとは,分かればいい.書いた人も,「わかった」ことを書きます.でも,「〜しろ」ではそうはいきません.なにかをしなさい・するな,は「誰がするのか」がはっきりしないといけない.そこが「なぜ〜?」と大きくちがう点です.たとえば,教室で「この問題にこたえなさい」って教師がいったら,まず「え,ぼくのこと?」て思いますよね.全編をとおして「〜しろ」といっているこの本でも,やっぱり同じように,「え,誰が?」がはっきりしなくちゃいけない.

 そこで,荷宮さんはしきりに「世代」論をすることになります.3つの世代が分けられてます.第一,「〜しろ」の「え,誰が?」は,「団塊ジュニア」.このひとたちに向けて,命令文が書かれています.第二,その団塊ジュニアの親にあたる「団塊の世代」,第三,その両者の間にはさまれた「くびれの世代」.著者の荷宮さんは,ここに入ります.

 「〜しろ」と言われているのは,団塊ジュニアです.そして,「〜しろ」と言う荷宮さんは,自分をくびれの世代にいれて,もしくはその世代を代表して,書いてます.その結果,こちら vs. あちらの対立ができます.荷宮さんが団塊ジュニアについて,「彼らはこういう世代だ」・「彼らはこんな特徴がある」と書いているとき,「彼ら」の三人称が使われる.これは,くびれの世代にとっての「彼ら」です.つまり,荷宮さんが顔を向けているのは,くびれの世代です.ところで,ぼくはさっき,命令文が差し向けられているのは,団塊ジュニアだって言いました.「あちら」に向けて荷宮さんが命令文を言うのを,「こちら」でくびれの世代が眺める.そういう構図が,この本にはあります.野球の観戦にいったときのように,この本は読者を世代=陣営別の座席にナヴィゲートします.

「あのぅ,ところで,団塊の世代は?」──ここに核心があります.団塊の世代は,命令文を差し向けられる「あちら」でもなく,差し向ける「こちら」でもなく,ハナシの埒外に置かれます.そして,いまの世の中のよくないことは,埒外の彼らおじさんのせいだって言われています(そのいわれナシとはしませんが).こうして悪役をつくり,話のそとにうっちゃっておいて,あちらの年下にアジり,こちらの同輩にその身振りを観覧させる.これこそ,この本がつくりあげる劇場です.いまの情況に目を凝らして解明するのではなく,むしろ劇場をかりそめに作り上げて,そこにひとびとをグループわけして座らせること.それを荷宮さんが意図したかどうかは,どうでもいいことです.世代論をはじめるとき,劇場のようなこの構図をさけることは難しくなるのでしょう.

 荷宮さんのいうひとつひとつのことには同感するときもあるし,最後の12カ条はそのとおりだって思う.でも,それはそれとして,世代論のまずさにも注意して欲しい,とぼくは思います.だから,★みっつ.


garden B

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