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よっちゃんさんのレビュー一覧

投稿者:よっちゃん

紙の本カラマーゾフの兄弟 1

2007/09/12 00:02

巻末の訳者による「読書ガイド」は難解なこの作品を理解するうえでとても重宝である。適度な突っ込みだから読者の自由度を束縛することなく、ポイントをついた手引書になっている。そしておそらく訳者の個性的な翻訳姿勢によってこの書はいまや話題のベストセラーとして注目されることになったのだろう。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世界文学の最高峰とまで言われるくらいのドストエフスキー文学は率直に言って難解である。私のレベルではすんなりとは読むことはできない。ドストエフスキーを読むには腹を据えて気合を入れてとりかかる、それがこれまで『罪と罰』『悪霊』をとにもかくにも読み終えた者の心得だ。さらに、できれば訳者を選択し、わかりやすい訳本を選びたい。これは岩波文庫の米川正夫訳『悪霊』にコリゴリして新潮文庫の江川卓訳でようやく読み通せた経験からである。新潮社の原田卓也訳が何年も積読状態にあって、しかし今回の亀田郁夫訳の刊行でこれがわかりやすいとの評判になって、とびついたものだ。

なかなか手に負えない理由の根本に私がロシアを知らないということがある。ロシアの歴史、政治、思想、宗教、文化、社会生活さらに国際的環境の変動などが小説のテーマと深く関わりあっている(いやむしろロシアそのものの縮図を描いているのかもしれない)のだから、ある程度の予備知識が欠かせない。腹を据えて取り掛かるというのはこのお膳立てのことにある。でもそれをやりはじめると、なにか勉強するとか研究するとか、読書する楽しさとは別の机の向かうとの堅苦しい気分になってしまって、小説世界に没頭できなくなるのだ。これは困ったものである。それでも『罪と罰』『悪霊』のときに仕込んだ知識が今回は役に立ちそうな気がしている。

冒頭「著者より」の序文が面白い。
「むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる」
と、ある意味で読みにくさを自覚したうえでの挑戦的な宣告が掲げられている。「公平な判断」をするべきデリケートな資格はないのだが、山登りと同じ、なにがなんでもと、とにかく読んだという達成感をうるために私は読んだ。

ドストエフスキーが難解であることはどうやら小説の仕組みにありそうだと私なりに気づいたことがいくつかある。

第一に挿話がめっぽう面白いところである。登場人物の、あるいは登場人物の語るこれらの挿話はそれ自体のディテールにより時に長大であり、それ自体で重みあるテーマをもった一つの短編小説のように全体にちりばめられている。そこで私は目を奪われてしまう。愚かなことだが、読んでいるうちにプロット全体とのかかわりを見逃してしまうのだ。いつ、どんな状況で、だれがあの話をしたんだっけ?そんなことをしたんだっけ?と。つまりこれが単純な挿話ではなくプロットの重要なパーツであること、全体のなかにすっぽりとおさまるべきものであり、なくてはならないものだということが頭で理解しつつも、あまりにも独自性が強いものだから実際にはわからないままになってしまうことがあるのだ。それだけではなく、全体とはあまり関連性のない本来的挿話も混じりこんでいるのだから私には救いようのないジグソーパズルなのだ。すくなくとも一度読み通しただけではこの嵌め絵の完成作品を見ることはできないだろう。

第二に一つの事実に対して登場人物たちの心理に照らして複数の真実が存在することを語る小説だということである。それはひとえに人間の心の襞を解剖学的な緻密さで広げていく作業の積み重ねで構成されているからである。私が「それではいったい真実はなんだったのか」といらいらしながら作者に問いかけたくなる場面になんども遭遇する。しかも作者ドストエフスキーが客観的に叙述する構成ではなく小説は「わたし」という人物の語りでなっているのだからよけい始末が悪いのだ。
序文「著者より」にこんなくだりがある。
「とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
このくだりは今の漂流する日本に重ね合わせてもいっこうに差し支えないほど意味深長であるがそれはさておき、ドストエフスキー自身「人々に明快さを求めることが、かえっておかしいというべきなのだろう」と明快さをもともと放棄していることである。

第三に心理の複雑性に加え「言葉の多様性」といわれるところである。単純な例で「笑った」と表現されていてもこれが朗笑であるのか冷笑であるのか嘲笑であるのか苦笑であるのか失笑であるのか。その程度なら文章の前後でわかるかもしれないのだが、ある表現がロシアの精神風土を前提にした言葉となればもう降参である。しかもそれを日本語に変換したとなればわかりにくさの責任は訳者にもあると指摘してよい。

さてこの亀山郁夫訳だがうたい文句に「世界の深みにすっと入り込める翻訳をめざして………」とある。わかりやすい翻訳だと感じた。私は「すっと入り込め」た。おそらく「言葉の多様性」という難物がかなり解きほぐれているからだと直感する。翻訳の姿勢!もうひとつのうたい文句「自分の課題として受けとめた今回の亀山郁夫訳は、作者の『二枚舌』を摘出する」つまり亀山郁夫の主観がかなり入り込んだ翻訳にミソがあるようだ。私は亀山郁夫著「『悪霊』神になりたかった男」を読んだことがある。ここでは『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」をつまみ出し翻訳して解説している。それまでなんどか消化不良のまま『悪霊』を読んでいたが初めてこれで目からうろこが落ちた思いだった。にもかかわらずこの著書について批判があることも知った。おそらく彼が現代日本に軸足をおいた彼の視線で翻訳していたからだろう。本著もその姿勢があるから多くの現代人に受け入れやすく、読まれることとなったのではなかろうか。私はその翻訳姿勢を是とする。いろいろな読み方があるべきだし、ドストエフスキーだってそれを望んでいるような気がするからだ。

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紙の本蜩ノ記

2012/01/21 19:27

武士道を描いた作品ではない。武士になれなかった男の生き様を描いて美しい。大人の鑑賞に堪える純愛物語なのかもしれない。なにをよすがに生きるべきかと現代人に問いかける時代小説の傑作。

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

遠望すれば春霞の山々に桜の花びらが舞い、近くは谷川のせせらぎ、カワセミの飛翔、清浄な山間の風景に礫をもつ少年が姿を現す。久々の葉室麟であるが、期待たがわず、この美しい冒頭の情景から引き込まれた。あと三年の後に切腹を命じられている男の至誠を貫く暮らしぶりを象徴して、幕開けにふさわしく、静穏の中に緊張感が漂っている。読み終えて窓を向けば朝空は降る雪に煙り、思わず姿勢をただす、清爽の読後感であった。

蜩(ヒグラシ)、少年期の私には秋に向かう夕暮れに「カナカナカナ」と、ゆく夏を惜しむかのように、物悲しげに聞こえたものだ。そして「蜩の記」、戸田秋谷にとっては日一日を懸命に生きる証としての日暮しを意味する覚書である。

「豊後・羽根藩の奥祐筆・檀野庄三郎は、城内で刃傷沙汰に及んだ末、からくも切腹を免れ、家老により向山村に幽閉中の元郡奉行・戸田秋谷の元へ遣わされる。秋谷は七年前、前藩主の側室と不義密通を犯した廉で、家譜編纂と十年後の切腹を命じられていた。庄三郎には編纂補助と監視、七年前の事件の真相探求の命が課せられる。だが向山村に入った庄三郎は秋谷の清廉さに触れ、その無実を信じるようになり………」

藩主・兼通の側室・お由の方との密通は事実か?まもなく庄三郎はこれがお家の後継者争いにかかる陰謀だったことを知るに至る。だが、秋谷はなぜ真実を語らないのか?藩主に弁明する機会があったにもかかわらず、沈黙のままになぜ悠揚として死を受け入れるのか?庄三郎の視線で読者のまえに次々と謎は拡散していく。
一般に家譜(御家の系譜)は歴代藩主の功績を称揚し、幕府におもねる目的で編纂するものであるが、秋谷の姿勢は違う。歴代の功罪を忠実に叙述し、後世が指針とすべきものとして完成させようとしている。お家を揺るがす隠された重大事実があるようだが、それを秋谷自身は知らない。秋谷の文献検証作業に対し、事実を知られたくないものからの妨害がある。今は亡き藩主・兼通。秋谷の誠実さよく知る彼はなぜ十年もの余命を与えて、家譜編纂を命じたのか?これも秋谷はわからない。
重層的に組み立てられた謎と初代藩主に由来するお家の事情は実に緻密に構成されている。ミステリーとしても本著は読むものを魅了するだろう。

戸田秋谷。学問、武術に秀でた清廉潔白の武士である。檀野庄三郎がそうであったように、周囲の人々は彼の人となりにおのずと感化されていく。人格者である。加えて彼は自分が決断してなした行為から生じた波紋には最後まで責任をとる誠実の人物である。広く善行をなしても、痛みを感ずる少数者は必ず生まれるものだ。彼はその人たちの痛みをわが痛みとして受けとめる。そしてこの物語の背景には支配者階級としての武士同士の権力闘争があり、またかつては武士と農民層の確執があった。一揆、強訴と弾圧である。今は武士と新興商人の癒着によって農民の耕地は失われつつある。そして権力争いに誘発された農民の暴発が起ころうとしている。単なるミステリーの佳作ではない、しっかりとした歴史の骨格をもった大型の時代小説である。

さらに言えば単なる時代小説の傑作ではない。秋谷には幕藩体制の枠を突き破るという発想はなかった。また幕藩体制のためにあった武士道の体現者でもなかった。私には秋谷は武士であって武士では生きられなかった男だと思われてならないのだ。彼の混迷は現代の混迷そのものだから。言動に最後まで責任をとる人物は政治家にはなれないのだ。少数者の痛みを受けとめていたら政治はできないものなのだ。政治だけではない。サラリーマン社会でも同じようなものかもしれない。著者はこの冷酷な現代と重なりあわせるように時代を描いている。だからこそ私たち現代人は秋谷の苦悩する内心に思いを深くするのである。
行間に表れている。秋谷は決して毅然・泰然ではない。事件が起こるたびに自分の過去とのつながりが見えてきて、誠実さのあまりこころは動揺しているのだ。にもかかわらず結果責任を果たすために命を懸ける。
だから
「命を区切られた男の気高く凄絶な覚悟を穏やかな山間の風景に謳い上げる、感涙の時代小説!」
と言うのはそのとおりだった。

戸田秋谷が命をかけてやり遂げようとしたことは何であったのか。命をかけて守ろうとしたものはなんであったか。なぜ残された余生を精一杯生きねばならなかったのか。
一言でいえば、それは、かけがえのないもの、かけがえのないこと、かけがえのない人の存在である。
武士道にあっては礼節、忠義、潔さ、廉恥、信念、志などがよく言われる。秋谷はこういう倫理観に徹した人である。
それ以上に、結果責任を果たすことに己を厳しく律する人であった。これは武士道にはありえない現代的な規範である。
しかし、このような社会性ある倫理や規範を越えて、もっと本源的で人間の生臭さが持つ「愛」が語られる。隣人愛、友愛、親子・夫婦の家族愛。最近はやりの「絆」なんて言うゆるいイメージで定着したそれではない。この物語には秋谷だけでなく、愛のために命を捨てることを恐れぬ人物が多数登場し、そのひとつひとつに涙が止まらなくなるほど胸を打たれるのだ。隣人愛、友愛、家族愛をかけがえのないもとのする秋谷にはもうひとつの愛の形があった。これがあまりにも静かに深く美しい愛であるために、この物語は大人の純愛小説として完成しているのだ。

さて秋谷にとっては命をかけるべき事物はこれほどに多いのであって、突き詰めていけば優先順位がないと自己撞着におちいるはずである。ところがこれをすべて昇華する劇的なラストが大団円で用意されているのだからこの構成力には脱帽する。

もうひとつ死に際の美学というべきものがあった。
ラスト近く秋谷の敬愛する慶泉和尚との会話。
「もはや、この世に未練はござりません」
と秋谷は淡々として心境を語る。
私はこの心境を秋谷らしい美学と思ったのだが
慶泉は思いがけない説教をするのだ。
「まだ覚悟が足らぬようじゃ。………未練がないと申すは、この世に残る者の心を気遣うてはおらぬと言っておるに等しい。この世をいとしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残されたものが行き暮れよう」
なるほどそんなものかもしれない、と私の独り言。

直木賞受賞は当然、葉室麟の最高傑作である。

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紙の本新リア王 下

2005/11/22 16:53

どうやら高村は福澤榮を戦後の本来的保守政治家を総合して割ったような抽象的政治人間として登場させたようだ。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一つの個性が政治へ志向する動機はなにか。政治の舞台を経験し、力を獲ていく過程で彼が感得した政治というものがわれわれ一般の期待する政治とは異質ななにかであること。それなりの見識と国家観をそなえた良識の政治人間がいっぽうで出身地の繁栄の為に利益誘導をすすめる打算の政治人間である二重人格性。さらに一家の繁栄とその次世代への継承といういわば個体としての生存本能もまた政治家のエネルギーでもあるのだ。
「対立と調和と妥協の構図」が重畳的に組み立てられている。
日本国家に対して福澤栄という個体としての政治人間。国家と福澤一家(福澤王国)さらに国家と福澤の基盤である青森県という地方社会の構図がある。加えて福澤一家と榮、地方社会と榮とにある「対立と調和と妥協の構図」が思索的に哲学的に粘っこく描写されている。
個人個人の総和としての家族であり、地域社会であり、国家である。19世紀に絶対的価値観=神の支配から解放された人類は利害がいたるところで衝突する世界にいたったのだがこの総和としての文明の時間的経過を、国家の進歩をだれの手にゆだねるのか。
もうひとつには時間軸を加えた世代間にこの構図をとらえている。私には福澤榮の国家観、政治方法論であれば理解できる。しかし次に控える新世代の新たなニヒリトたちは国家には進むべき目的などはすでにない、政治があるとすれば現状の生産と消費の循環を数値化された効率の尺度でテクニカルに維持するところであるとする。榮と同様にこのエイリアンに異様と不快を感じる私は時代にとりのこされる側にたっているのだろうか。
そして政治とは対極にある仏家・彰之もまたおのれ個体の救済もままならぬまま総体の救済、衆生済度の道はやみにつつまれ、現世地獄の宿怨に悶えつつある。
能動的にこの不条理とかかわろうとするエネルギーの化身、生身の人間・福澤榮をここに放り込んで、高村薫の冷静は榮の口を通して55年体制の現実を、そして民主主義という観念宇宙の実相を語らせる。あふれるばかりの言葉を紡ぎに紡いで織りなした厚手のタペストリーをまえに私は圧倒された。これは紛れもない極上の文学である。
『マークスの山』で警察組織の内側から苦労人・合田はなにをみたか。『レディ・ジョーカー』で大企業の内側から誠実な経営陣にはなにがみえたか。そして良識の政治家・福澤榮がみたものは?
はじめに謎は提起されている。なぜ榮は最果ての津軽にきているのか。金庫番・英世の死はなんであったのか。読者は、はなからこの作品は非ミステリーだと思いこんでいるし、途中では政治ドラマに夢中になっているものだから、忘れかけていた謎がそれこそ怒濤の勢いで下巻の後半にいたり明らかにされる。
そうなのだ。この作品はたしかに『晴子情歌』の続編なのだが、そのまえに高村が生んだ傑作の間違いなくその延長線上にある極上のミステリーといっても差し支えあるまい。「知のラビリンス」と、ある種のミステリーを絶賛することがあるが、この作品にこそふさわしい。大型エンターテイナー、高村薫の復活である。
まだ言い残したことがある。
個人主義が台頭しつつある時代に取り残され、娘たちの裏切りから滅びゆくシェークスピア『リア王』のモチーフは見事に昇華されている。これを含めニーチェありドストエフスキーあり、禅宗があるように、いくつものテーマを重層的にあやどりつつラストには大きな流れを主張する。まさに「全体小説」としての完成品でもあるのだ。
小慈小悲もなき身の凡夫にして衆生利益を追い求めた二人の男のラスト。
「その水のような寄る辺なさに一瞬の寂寞を覚えたに過ぎなかった」
榮は彰之の影に語りかける。
「そして、ああ君が言おうとして言えなかったのはこれか。君もさびしいか」
これは日本人の心にして理解しうる無常観なのだろうか。
私もこの寂しさに胸がつぶれる思いを禁じ得なかった。

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紙の本魂萌え!

2005/06/13 01:04

そして私が先に逝くようであればわが妻にこの書を捧げて口では言えなかった感謝の気持ちとあとは魂萌えしてよろしいとの思いを伝えることにしよう

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いつでも、どこにでも灰色のビジネススーツを着ていくような、まじめで実直だけがとりえの、平凡なサラリーマン、定年退職後、ゴルフと蕎麦打ちを楽しみ、健康診断も欠かさない63歳の隆之。
隆之の性格も好みもよく心得て、家庭を守り子どもを育て、地域と仲良く付き合い、夫を支えてきた59歳の妻・敏子。
私はこの種の組み合わせの夫婦ならもっとも身近にいるのでよく知っている。
戦後の民主教育を受けた世代であるから男女同権をわきまえているが結婚した頃は女房とは家庭を守るべきものであり、稼ぎは男に任せろと当然のように役割が決まっていた時代だ。妻の立場からしてもそれに反発することなく結婚とはそんなものかしらと思い込み受容していた。
この結婚観でどうにか継続している夫婦は私にはよ〜くわかるのだ。
新婚の頃はお茶やお花や料理教室に通ったがいつの間にかやめて、みずから楽しみを見つける気構えも根気もなく、ただ、ときどき数人の同じ年代のお友達といわゆる井戸端会議があるくらいで世間知らずの専業主婦が「私の人生ってなんだったのかしら?」と妙に哲学めいたことをつぶやく。
そんなぼやきの心境だって私は充分にわかるわかる。
だいぶ前から 自分が生んで育て、愛おしくてたまらない存在だった子どもたちがまともな家庭を作れる資格もないのに家を離れ、自分に寄り添わなくなった。ときどき帰ってきては憎たらしいことをいわれ、ここでも「よい母親として家事育児に専念してきた。自分の時間とは何だったのだろう」
と述懐する寂しさでいっぱいの母の心境だって私にはわかりすぎるほどわかるのだ。
おそらく私だけではあるまい。この世代の夫婦なんてみんなこんなもんだと言っても言いすぎにはならないだろう。さらに定年を迎える団塊の世代夫婦は今後急激に増加するのであるからこんな夫婦が日本中にあふれるのだ。
隆之が自宅の風呂場でポックリと逝ってしまう。心臓麻痺だ。これだってありうる。
その隆之にはこれも一般にはありうる話なのだが女がいたことが発覚する。女でなくとも女房にはいえないあるいは誰にも言えない、ちょっとうしろめたい楽しみや表面化しない過失なんてものはバブルに踊って、その崩壊も経験したサラリーマンにはだいたいあるものなのだ。
そして世間知らず、根っからの専業主婦であった敏子。夫に裏切られた貞淑な妻の敏子。手塩にかけた子どもたちに顧みられなくなった母の敏子。
悲しみ、孤独、不安、失望、に打ちひしがれながらも、おそるおそる夫の相手に対し女の熱い戦いを挑み、遺産相続にうるさく口を出す息子にはかわいそうだと思いながらも決然と臨む。それは隆之が死んだことで始まった新しい敏子である。カプセルホテルでの他人との出会い、夫の蕎麦打ち仲間との交流、古い付き合いの女友達の本音も見えてきて、今まで全く知らなかった世界が広がっていく。
59歳の彼女は今、飛翔する。妻でもない母でもない一人だけのたっぷりある時間で新たな人生をきりひらく決意を固める。
新たな生命力が萌える。
どこにでもいるオバちゃん(いやもっと身近にいる方かもしれない)がどこにでもある日常生活の中で、地に足をつけた、だから、カッコイイとは言えないのだが、それでも間違いなくこれは「飛翔」である。そのプロセスは当たり前のようであって読者は次の展開が待ちきれないほど劇的なのだ。そして60歳前後のだれもが共感する熟年女性のうれしい「飛翔」だ。
私には桐野夏生の最高の傑作であった。2007年問題、それは団塊の世代が定年を迎えはじめる問題である。この急増する第二の人生を迎える夫婦の群れ、この問題層にたいする警告でもあり、啓蒙でもある。しかもいやになるほどリアリスティックな示唆である。
敏子の再スタートにおしげなく拍手を送るぞ、応援するぞ。

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紙の本新リア王 上

2005/11/14 00:24

「この雪の昏さなんだろう」「この真闇は人も獣もない原始のように暴力的だ」まるでこの作品を象徴するかのように混迷の深奥から立ち上がる冒頭の第一節である

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

時は1987年11月、場所は雪に埋もれた西津軽、曹洞宗の草庵・普門庵。衆議院議員、自民党田中派の長老格、青森県に君臨する福澤王国の王・榮(75歳)が僧侶となった実子・彰之を訪ねる。
と、物語がスタートするのだけれど、これは前作『晴子情歌』との結節点を整理しておいた方が良さそうだ。
晴子は大正8年(1919年)本郷の左翼系インテリを父に生まれたが15歳にして津軽の寒村に流れる。貧農の生活、鰊漁場の労働の現場を見つめたのち、父を失い県下の名門、野辺地にある衆議院議員福澤勝一郎の本宅の女中として引き取られる。代議士を辞職した勝一郎は実業家としての手腕を発揮し、建設、水産と事業拡大に成功する。
昭和17年(1943年)、晴子22歳は福澤家の三男・淳三とその出征の前夜に形だけの祝言をあげ、淳三が他の女に孕ませた幼子・美奈子を引き取り愛育する。
昭和21年(1944年・終戦の翌年)、すでに妻子のある長男・榮と一夜の情交の結果、彰之を出産。一方、榮は戦後初の選挙で初当選し東京へ戻る。同年、淳三が復員し、屈折した家庭生活が始まる。
彰之はいちど野辺地の常光寺にあずけられている。東京の大学に進学し、全共闘運動に参加しなかったことになんらかのこころの重みを残しつつ、卒業後、昭和43年(1968年)に福澤水産の北転船の漁船員となった。
昭和51年(1976年)晴子57歳、死去。彰之は船を下りて、筒木坂の浜辺の寒風に身をさらして、仏門へ歩むことを予感させる。
『新リア王』の冒頭は血のつながりがある父子とはいえ、因業ただならぬ男同士の初めて交わす対話なのだ。
ところが「対話」というよりもまず榮という政治的人間の半生が「独白」で延々と綴られる。この話し言葉になっていないセリフのとどまることない奔流にまず驚かされた。それは戦後政治のいわゆる55年体制を生きた政治家の半生であるから、実在した政治家が多数登場しあたかも政治事件小説かのような誤解をあたえるほどだ。いっぽうで形而上的、抽象的な国家論、政治形態論、政治思想論、政治人間の解剖的分析論が同じぐらいのボリュームで語られる。さらに彼の周辺に存在する膨大な個性が念入りに描かれているのだ。
どうやら高村は福澤榮を戦後の保守党政治家の実力者、本来的保守政治家を総合して割ったような抽象的政治人間として登場させたようだ。福澤榮はいま時勢が大きく変わりつつあることを直感して不安の淵にある。新しい価値観が生まれつつあるのだがそれが読みきれずに焦燥し疲労している。その不透明感の先には一族とともにあった青森の福澤王国の崩壊があるかもしれない、福澤が自身を投影してきた日本国家像のメルトダウンがあるのかもしれない。
そして仏への道を歩む彰之が語り始める。尋常ならざる修行、心身を苛む苦行の日々のなかでいまだ悟りを得られぬ己への煩悶が告白される。仏教の専門用語が解説抜きで氾濫するのだが、読み手としては、ここは溺れずに大雑把に感覚だけで消化してしまうのが方便であろう。どうやら、彼にとって我執からの解脱がテーマであって、我執からの解脱とは世俗とのしがらみ、核心には「福澤家の血のしがらみ」から解き放たれることがあるようだ。そして彰之も榮と同様に暗闇の深奥で煩悶しているのだ。
上巻では榮のリア王的悲劇への具体的転落はまだ明らかにされていない。そして彰之がなお進もうとする仏への道に立ちふさがる現実的宿怨も不明のままである。
ドストエフスキーは『悪霊』で宗教と革命のふたつを重要な題材として、急速な欧化がもたらした混沌からあらたなロシアを再建させるべく苦悩する精神の咆哮を描写した。そして高村も日本の現状を価値観の混乱した漂流状態にあるとの認識に立って、宗教と政治になにか期待できるものがあるのかないのかを現実的な座標軸で模索しているような気がするのです。

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紙の本蒼穹の昴 1

2006/12/05 00:00

その続編だと思われる『中原の虹』を読む前に再読しておく価値はあった。浅田次郎初期の大傑作。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読んだそのときには心に留まった作品でもエンタテインメント系の長編小説となるとうまいタイミングでもなければ二度読む気にはなれないものですが、この作品の続編にあたる『中原の虹』が目下刊行中とあってまさにタイミング到来、再読しました。1996年に読んだ浅田次郎の初期の作品です。「この物語を書くために私は作家になった」とキャッチコピーはオーバーな表現に思われましたが、そんなことはなかった。この大ロマンの構成の妙に驚かされた記憶があります。
必ずや汝は西太后の財宝をことごとく手中におさめるであろう。中国清朝末期、糞拾いの貧しい農民の少年春児は老婆の予言を信じて宦官になるのですが、宦官になるために「男」を切り落とす浄身はこれほどの凄惨な施術だとは、いやぁ生き地獄のこのくだりはいつまでたっても忘れることはできません。
地獄といえば科挙の試験のすさまじさもこの作品ではリアルでした。
梁文秀、汝は長じて殿に昇り、天子様の傍らにあって天下の政を司ることになろう………とこれも老占い師の予言。文秀は科挙トップ登第を果たすのですが、夢うつつに合格答案の作成に導く奇跡も忘れられないところでした。
物語は「都で袂を分かち、それぞれの志を胸に歩み始めた二人を待ち受ける宿命の覇道」なのですが、彼らの周囲にある脇役たちがいいんですね。そこには男と女の美しい愛の形、兄弟愛、師弟の恩愛、男同士の友情、差別されたものたちの連帯など感動のエピソードが次々に展開されます。登場人物のほとんどが善人なのですね。悪者をあえて挙げるなら、これらの人物群に悲劇をもたらす時の流れなのでしょう。そして逆境にあって運命を切り開いていく勇気を至高のものとして謳いあげている作品なのです。
ところでこの作品の人物造形でもっとも秀逸なのは西太后ですね。漢の呂后、唐の則天武后と並んで中国史上三大悪女といわれたこの烈女、咸豊帝の妃で、世継ぎを生み、咸豊帝の死後に政権を握った。そしてわが子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたり、皇太后として権力を振るい続けた。呂后や則天武后の専横は15年ですが、西太后は47年間と長きに渡って君臨しています。一般的には内憂外患にあえぐ落日の清朝にあって、権力の座を維持するため武力、謀略、暗殺で内外の勢力と綱渡りの糾合を繰り返してきた血も涙もないワルモノの代表です。だが浅田次郎はそうはしなかった。西太后は清の最盛期を築いた乾隆帝の亡霊がその歴史的役割を与えた宿命の人なんです。
帝が政をなし、官が民をしいたげる五千年の歴史、そちは鬼となり修羅となって、国を覆す。そちが未来永劫に悪名を残してこそ、未来永劫この国の民は救われる。夜叉の仮面を被った真の観世音として生きよ。
と、つまり中国が五千年の君主専横政治に終止符を打ち、近代的な民主主義国家に飛翔するための積極的捨石の役割でもって登場させているのです。この発想の豊かさ、その新鮮さ、ドラマチックであります。
洋務派で忠節の士・李鴻章の武力と政治力を背景にした西太后。しかし日清戦争の敗戦後,李鴻章は政治の表舞台から退く。文秀の属する光緒帝派の発言力は増し、98年、康有為ら変法派とともに光緒親政のクーデターが行われた。これに対し宦官のトップランクに立った春児は西太后の信任が厚い。彼女は袁世凱の武力を背景に戊戌政変を起こして新政を失敗させ、変法派を処刑・追放、光緒帝を幽閉して,三たび垂簾政治を始めた。文秀は日本に亡命する。
『蒼穹の昴』はこのあたりで完結しています。
浅田次郎の独創的な歴史デザインにより、歴史小説の趣はありません。帝国主義列強の貪欲な素顔はなく、歴史観を云々する類ではありません。伝奇小説風な華やかな妖しさが全編に流れ、私たちが忘れがちな本物の愛と勇気、義理と人情を浮き彫りした壮大な人間ドラマと言えるでしょう。

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7月4日、広島女児殺害事件に無期懲役の判決。昨年、小学一年生の女児を陵辱し殺害したペルー人は「悪魔が自分の体の中に入って動かした」といっていた

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「神になりたかった男」といえば日本の歴史で思い浮かぶのは魔王・革命児織田信長。最近流行の解釈は信長の野心は天皇の地位の簒奪にあったとか、神の国を造り自らが神としてその国の王たらんとしたなど。普通、人間がなりたいと思う「神」はこのような俗世界を政治機構の頂点で支配する超絶の専制者のことでしょう。ところで『悪霊』の主人公、悪魔的超人スタヴローギンですが、俗世界の専制者になろうとする野心などまるで持たない男です。ピョートルたちがもくろむ革命運動でもピョートルたちからは革命後の政権にあって伝説のイワン皇子のような神的存在になってもらいたいと懇願されるのだが、それを拒否している。
まるで政治世界には無関心なのだ。にもかかわらず亀山郁夫氏がスタヴローギンを「神になりたかった男」としているところが大いに関心をもたされたところです。
ここで亀山郁夫は『悪霊』から「スタヴローギンの告白」だけをつまみだして個性的で刺激的な解釈を試みています。それは私の全く気がつかなかった『悪霊』への視点でした。
「神さまがだれかに相談するなんて考えられません。無言のまま、決定をくだすのが神さまです。そして、ほとんど極限といえる冷静さを自分に要求するのも神さまです。神さまが慌てふためき、うろたえる姿なんて見たくないでしょうし、想像もできません。たとえ恐れや怒りを感じ、左右に少々ぶれることがあっても、最期はぴたりと中心に回帰する。振り子が止まるように。スタヴローギンにはそのように、どこか神の視点から世界全体を眺めおろしているところがあるのです。」
人間の運命を意のままにコントロールしているのが神である。そういう絶対者を人間にたとえてその人格の断面をさらせば、あらゆる事象に、あらゆる人間の行為の結果に無感動であり、つまり喜怒哀楽をもたず、無関心でただ眺めているだけの存在であろう。別の人間から見れば傲慢であり、冷酷であり、血も涙もない無慈悲な存在であるかにみえる。にもかかわらず、圧倒的なカリスマ性を備えていることになる。
亀山郁夫氏は神の本質をこのように切り取って、知力と腕力と類まれなる美貌を備えたスタヴローギンを「神になりたかった男」と定義したわけです。
しかしスタヴローギンは神になれなかった。スタヴローギンが神の視線でいくつもの罪を犯す。彼がきっかけを作って、人の運命をもてあそび、その人がもだえ苦しみ、あるいは精神が壊れていく様を眺めるのです。神の高みに立って彼は「卑しい快楽」を感じていたのです。
それらの行為のすべてがとてつもなく衝撃的なものでした。新潮社版江川卓訳『悪霊』の「告白」を読んでいましたがこれほど汚辱まみれの内容だとは気づきませんでした。一つ一つのエピソードがまさか19世紀のロシアの話だとはおもわれません。この現在の日本で頻発している猟奇的犯罪、サディスト、マゾヒストによる性犯罪。無差別の愉快犯的事件、幼女性愛者による陵辱と殺人、そして幼児虐待の悲惨などあまりにも酷似したそのリアルさに、これは時代を超え、民族を超えたところにある人間の本質的悪魔性なのだと。ここにはドストエフスキー自身の全人格の投影があるといわれる。たしかにドストエフスキーの観察力、人間の心の深奥に潜む恐ろしいものを抉り出す観察力には鬼気迫るものがあります。
この著書はそれ自体ミステリーを読むような謎解きの面白さにあふれています。たとえば彼の犠牲になった少女マトリョーシャの秘密などは著者自身の独自の解釈なのかもしれませんが、上出来のサイコサスペンスです。
なるほど『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」はドストエフスキーの全作品でももっとも危険とされる理由がよくわかりました。

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紙の本火怨 北の燿星アテルイ 上

2002/10/22 10:48

敗北の美学に酔う

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推理小説では「写楽殺人事件」SF伝奇で「総門谷」この二つの作品を読んで作家の力量を感じていました。最近、いささか量産傾向にあるような気がしているが、この歴史小説、「火怨」、文句なしに面白かった。八世紀、東北制覇を狙う朝廷の十万の大軍を迎え撃つ一万五千の蝦夷。真田戦記や三国志などかつて戦記物に興奮した記憶がありますが、智將、勇将が繰り広げる戦闘シーンの連続にゾクゾクし、義侠心、「男の心意気」にうっとりします。これは周りにいる若い人達に読んでもらいたいと思いました。高橋克彦は岩手出身で、その誇りとする強い思いが溢れる作品でした。
蝦夷(エミシ)とは日本古代史上、東北日本に住んだ土着民をさし、政治・文化の中心であった朝廷に従わない(まつろわぬ民)未開・野蛮な人たちであった。先進の軍事力を備えた渡来人・大和朝廷が西日本の先住部族を制覇、東日本もすでにヤマトタケルの時代よりターゲットではあったが、桓武天皇期におよび国家的大事業・大仏建立に要する莫大な金の需要によって黄金の眠る蝦夷地制圧は基本戦略として本格化していく。
土着の部族のなかにはすでに中央との交易によって財をなすものもあり、また農耕するもの、狩猟をなすものと、生活基盤はそれぞれに異なり、大軍を前にしてけっして反攻策に一枚岩ではない。朝廷側もあの手この手の懐柔策を弄し穏健派部族を篭絡しようとする。ここに主戦論を掲げ部族間の統一を実現するのが「アテルイ」と呼ばれる若き族長と参謀「モレ」であった。彼らは陸奥の山岳を堅牢な要塞とし、精鋭のゲリラ部隊を養成、遊撃戦をもってこれを迎え、数次の戦いに圧勝するのである。
ここにあらたに智将・坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、外交を併用したその軍略によって部族間の離反が相次ぎ、形勢は逆転していく。彼は旧来の「蝦夷はヒトではない。オニ、ケダモノである彼らを殲滅、蝦夷地経営を先進民族の直轄とする」大和朝廷の基本戦略を放棄、「降伏」を求めず、「和議」による解決の糸口を模索する。「同盟を誓った蝦夷らはことごとく許されることになった。支配地もこれまでと変わらぬ。朝廷はアテルイらばかりを敵とみなしておる」。
「異民族の平等」「都と対等の国家建設」を夢とするアテルイは武人として信頼にたる敵将の前に腹心らと最後を戦い、この戦さの全責任を背負って投降する。「最初から死ぬと決めてかかったこと。と言うてこれ以上田村麻呂の軍と戦っては敵にも無駄な死傷者を出しまする。『蝦夷の先行きが定まったからには』死ぬのはわれらばかりで充分でござる」。
この数年わが国経済の未曾有の混乱の中で、企業の合従連衡、吸収合併が進み、特に銀行、証券界では以前の会社名は消え去った。巨大外国資本に飲み込まれた企業、グループ化の流れに組み込まれた企業、これら責任者たちの多くがこの局面に真剣に立ち向かい、そして去っていった。その姿を見てきたものにとっては、実に感無量の内容が描かれている。
「結局アテルイの描いた国家建設はならなかったではないか」などとカタイことをおっしゃりなさんな。ここは敗北の美学に酔おうではないか。国内事情、国際事情に思いをはせながら。

坂上田村麻呂が創建したという京都清水寺にはアテルイ・モレの顕彰碑がある。

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紙の本ラブレス

2011/11/06 23:39

時の流れに身をまかせた浮き草の人生、あまりに哀しい昭和女の一生………とお膳立ては古めかしいのだが。「しあわせ」の尺度をひくりがえしてみえてくる生きることの値打ちには、漂流する現代の精神に対する力強いメッセージが込めれれている。

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「馬鹿にしたければ笑えばいい。あたしは、とっても『しあわせ』だった。風呂は週に一度だけ。電気も、ない。酒に溺れる父の暴力による支配。北海道、極貧の、愛のない家。昭和26年。百合江は、奉公先から逃げ出して旅の一座に飛び込む。『歌』が自分の人生を変えてくれると信じて。それが儚い夢であることを知りながら―。他人の価値観では決して計れない、ひとりの女の『幸福な生』。『愛』に裏切られ続けた百合江を支えたものは、何だったのか?」
裏切られ続けた女の一生、この飾り帯にある解説コピーは本著の全体像を端的に説明できています。
家出した少女が旅芸人一座の仲間となり、場末の演芸場、温泉旅館で酔客相手の歌手となる。請われれば旅館の一室でストリップだってやってのける。昭和という時代の風俗がたどられ、演歌を地で行く根なし宿なしの主人公が哀しくて、私は昭和の流行歌をいくつか口ずさんでいました。

水にただよう 浮草におなじさだめと 指をさす
言葉少なに 目をうるませて
俺をみつめて うなづくおまえ
きめた きめた おまえとみちづれに

冒頭、釧路市役所で働く清水小夜子が札幌の従姉妹・杉山理恵から電話で「母・百合江の様子が変だからみてきてくれと」と依頼される。小夜子は母親である清水里美(百合江の妹)を連れて、生活保護を受けている杉山百合江の町営住宅を訪ねる。清水里美は数年ぶりに姉・百合江と会うのだが、部屋には白髪の老人に見守られて、小さな位牌を片手にした百合江が老衰のために意識不明に陥っていた。
ラストを読み終えここに戻れば、登場人物たちそれぞれの抑制された情感がギュッと詰まった秀逸の「序章」だったことに気づかされます。
昭和10年に生まれた百合江の70歳過ぎまでの人生、昭和という時代を貧しく生きた「女の一生」が語られる。

疲弊した農村から職を求めて都市へ、大量の労働力が流れてきて、ようやく定職に就く、なんとか定住の地を得る。サラリーマン層が形成される。都市に流入した新世代が「定住、定職、親子の絆で結ばれた家庭」という「家族像の原型」を再構築していった。昭和をこういう時代としてとらえることができる。

ところで「人生において幸福とはなにか」と大衆小説やドラマが取り上げる時には、大概この家族像の原型を幸福の前提にしている。だから家族が崩壊すると不幸になると。私も含めて一般的にそういう見方が定着しているのではないでしょうか。ところが『ラブレス』はこの常識を覆してみせる斬新な試みがある。百合江の場合は家族の原型こそが不幸を招く元なのです。

物語は百合江中心だが、百合江を含め相互が劇的に干渉しあいつつ里美、理恵、小夜子らの生活姿勢がたくみに織り込まれ、起伏にとんだ絶妙のストーリー構成だ。4人の生活姿勢の違いは家族像の原型に対する距離感にある。「定住、定職で親子の絆で結ばれた家庭」に幸福を求めるのが常識人の里美であり、そんな価値尺度はもたずに漂泊を選択するのが百合江なのだ。
さらに百合江を巡る三人の男たちのこの距離感の相違を鮮明に描くことで、百合江とのかかわりにおいて三様の印象的ドラマを演出している。とにかく著者のストーリーテラーとしての構成力は驚くほど冴え渡っているのです。

牛馬のように働かされ、父親の暴力を無言のままで受け入れていた文盲の母親。豚小屋のような悪臭にまみれ、ごろ寝する粗野な弟たち。そこへ養女に出されていた妹の里美が引き取られ戻ってくる。嫌悪感をあらわにする理知的な美貌の妹の登場。
酒代の借金のかたに奉公に出され、そこの主人から陵辱された百合江、16歳。だが百合江はこの事実をゆすりの種にし、借金をチャラにして旅芸人一座の歌い手に身を投じるのであった。
百合江25歳で一座は解散。その後一座の女形だったギター引きの滝本宗太郎と二人、地方の演芸場、温泉宿、都会の裏通りとその日暮らしの流れ旅が続く。
宗太郎という人物、生活力のない、だらしないまったく魅力の感じられない男である。どうしてこんな奴とベタベタしているのかと腹が立ってくるのは、わたくし男目線でしょう。籍を入れないまま「綾子」が生まれる。
妹・里美のおせっかいで、役場勤めの高城春一と結婚するのが28~29歳。二人の間(?)に理恵が生まれ、百合江は始めて「家庭生活の原型」を体験するのだが、決定的な絶望だけが残る結果となる。ここで彼と彼の母親から凄まじい暴力と苛めを加えられるのだ。男性の作家ではとうてい描けないような母性そのものをズタズタにする二重三重の破壊行為に、男の私は読んでいて戦慄を覚えました。
三人目の男は旅行会社に勤務する石黒。春一と結婚、温泉旅館に仲居として働く百合江を支え、お互いに惹かれ関係を持つ仲だが、結婚はしないで別れる。石黒は百合江の理解者であるがために、彼女は漂泊の人であり結婚という形に幸福を求める女性ではないことを知っているからだ。

余談だが、私はあの「フーテンの寅さん」を思い浮かべたのです。おいちゃん・おばちゃんの団子屋とさくらの家庭、幸せな暮らしを見て寅さんは立ち尽くしています。そして寅さんはあれだけ女性たちに惚れられながらなぜ結婚しなかったのだろうか。特にドサ回りの三流歌手・リリーとは結婚してもよかったと思った時期がありました。本著はその理由をはっきりさせてくれました。結婚したら壊れる愛だった。流浪のままでいるからこそ、お互いがなくてはならない存在であって、愛を確信し続けられる二人だったのです。

平易な文体に情感があふれる。登場人物のそれぞれの個性が際立つ。何よりも構成が絶妙である。愛とはなにか、結婚とはなにか、幸福とはなにか。家族とはなにか。これまでの価値尺度を完璧にひっくり返して問い直したところの新鮮さは衝撃的でした。

さすらう日々の過酷さは古くからある上出来の人情話風で涙に目がくもったが、よくよく焦点をあわせれば、その背後から見えてくるこの女性像にまた別な涙が零れ落ちました。私の涙腺はいくつあるのだろうか。

絶妙な語り口に乗せられて 百合江の生き様に寄せた思いを長々と述べてきましたが、百合江の歳に手が届きそうな私だからでしょうか、実はまったく異質な感動を受けているのです。私の心を激しく揺さぶったのは百合江の人生の有り様ではない。その死に際にあったことです。なんだかんだと理屈をつけてもこれは不幸な人生だったのだ。にもかかわらず死に際の彼女の内心には俗人にはおよびもつかない気高さがありました。
いくつものかくされた謎がラストで読者の前に氷解する。文脈では必ずしも百合江がこれら「事実」を知っていたかは明らかではない。でも私には彼女はそこにあった「真実」のすべてを感じ取っていたのだと思われるのです。そのうえで、この世に未練も悔恨も残さず、沈黙のままに、ただ自分の人生が充実したものだったことを確信して去っていく。彼女を知る人たちの胸に忘れがたい存在感をとどめながら。そこには単なる気高さというよりも、宗教的雰囲気をおびた清浄さが立ち昇っている。
そして、漂泊の人生ではない普通の人生であっても、この死に様には惹かれるところがある。



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紙の本黒い画集 改版

2009/12/13 21:55

わが少年期における『黒い画集』への思い

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今年は松本清張生誕100年だそうだ。太宰治とおなじなのだが、清張のデビューが遅かったためか、あるいは太宰は早世し、生存中のその人をあまり知らなかったせいか、私が物心ついて大人の小説を読むようになったころからは清張作品とのつきあいが深かったためか、太宰のほうがはるかに古い人とのイメージがある。

このところ続けざまにNHKが放映したドラマ『天城越え』と映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』をみた。『黒い画集』は私と清張の初めての接点であり、当時の頃が懐かしく思い出された。

『黒い画集』は昭和33年、僕が中学生のときに週刊朝日に連載されたものです。中学になって東京住まいとなった田舎ものの少年には「恋愛」とか「恋人」という言葉を見聞きするだけでも恥ずかしさが先にたつようなうぶなところがあったのです。そうした情報が家庭に入ってきて家族がこだわりなく話題にできる時代ではなかったのです。週刊誌も限られた出版社のもので、その中でも週刊朝日は「健全」であったのでしょう、我が家の定期購読誌の座を占めていました。

そこに登場した『黒い画集』にはびっくりした。突如、公開情報として「大人の世界」の扉が僕の前にひらかれたのですから。ショッキングでした。興奮しました。とにかく「愛憎」「情欲」「嫉妬」「物欲」「出世欲」など、なまなましい情念・欲望の世界。中学生にはひどく刺激的であったことを記憶しています。家庭とは別な場所でこっそり読みたくなる、そんな純な少年でしたから。
周辺にあった横溝正史や江戸川乱歩とはまったく異質で、リアリティを備えた風俗を描いていることはすぐに感づきました。図書館などというものがなくて図書館に代わるものは貸し本屋。「眼の壁」「点と線」それから水上勉、黒岩重吾いわゆる後に社会派と呼ばれた初期ミステリー黄金時代はこの頃から始まっていたのです。高校になってからですが貸し本屋にはずいぶんと通ったものです。

週刊朝日連載順は次の通り。
「遭難」「証言」「坂道の家」「失踪」「寒流」「紐」次に「凶器」「濁った陽」最後が「草」
なお名作『天城越え』はこの連載には入っていません。

いつの頃だったろうか私の父が清張と飲んだときの話を聞いたことがあります。『黒い画集』を執筆していた頃の清張は文字通り赤貧だったようだ。「金が入ることが嬉しかった。いくら稼げたかを勘定していた。だが入りすぎてきて今はいくら稼いでいるのか分からない」と。

どこかで見たか聞いたか、こんな話の記憶もあります。
『黒い画集』の連載にあたり、週刊朝日は後に巨人といわれるこの売り出し中の貧乏作家に無理な注文をつけたらしい。
「一回原稿用紙で15枚、一編が2~3回で終了し、しかもそれぞれが珠玉の小品であること」
清張先生もやむをえず妥協したが、結局注文にあったボリュームの作品は「証言」「凶器」だけで、ほとんどが中篇になってしまったのだそうです。
内容的にもこの連載された作品群はたしかに玉石混交ですね。
当時の少年に鮮烈なイメージを残した作品の数は少ない。
『遭難』、これは傑作だと思った記憶があります。あの当時の文壇の大御所・井上靖の『氷壁』、「ナイロンザイルは切れたのか」が話題になって、この向こうを張ったところの山岳ミステリー。山岳ミステリーの嚆矢といえる作品でしょう。
『坂道の家』これは男女の情交シーンがひどく刺激的で読んではいけないものを読んでいるうしろめたい思いを覚えています。
『証言』は名作だった、とイメージするのは錯覚でしょうね。『証言』は短すぎて、この錯覚はきっと先日見た映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(昭和35年の作品で高校生で見ている)の記憶と重なってしまった結果でしょう。橋本忍の脚本がはるかに優れているといえます。
『寒流』もテーマがいいものだから連載中は面白く読んでいましたが竜頭蛇尾、ラストがいかにも尻切れトンボの感を残しました。週刊朝日の注文条項を思い出した先生が面倒くさくなったのじゃぁないだろうか。
『天城越え』といえば石川さゆりではありません。『天城越え』といえば清張のあるジャンルの傑作中編小説のひとつでしょう。少年が天城峠で美しい女性と出会い好意を抱く。少年は娼婦である彼女が客を取るところをかいま見る。そして……と、この作品、底辺に生きるものの窮境でみせるやさしさを描き、一連の『黒い画集』短編とは趣を異にしています。実はこれは週刊朝日の連載ではありません。サンデー毎日の特集号に掲載された独立した中編小説でして、従って完成度の高い傑作なのでしょう。

回顧譚に終始したがとにかく『黒い画集』はあの時代を反映した清張の代表作である。あの時代は軍国の戦前からもはや戦後でもなくなっていた。国家主導による復興産業政策は限界をむかえた。長きに渡り国家統制化で窒息していた経済主体は自由へと解放される。本格的な経済合理主義、利潤こそ正義の時代が始まろうとしていた。個人も企業もその欲望がダイナミックにふくれあがる時代のはじまりだった。欲望追求のその先には破滅があるかも知れない。
この破滅の構図を黒の濃淡だけで描く硬質の鉛筆画、この細密な画集が『黒い画集』であった。
だが、欲望を追求しそこで成功を収めることだってできるのだ。
これが今からの時代なのだと。
そして日本人のがむしゃらな疾走が始まった。

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紙の本太陽を曳く馬 上

2009/09/26 18:56

『晴子情歌』は母・晴子と福澤彰之の対話であった。『新リア王』は父・榮と彰之の対話であった。そして『太陽を曳く馬』では子・秋道と彰之の対話があり、三部作の一貫して中心人物であった福澤彰之が歩んできたところの究極に見えたものがある。さらに実に巧妙な仕組みだと感心させられるのだが、あの合田雄一郎の復活であった。

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『太陽を曳く馬』が彰之の人生の集大成である以上『晴子情歌』と『新リア王』に登場した彰之を理解しその延長に位置づけるのが本来の読み方だろうと思われる。実際、『晴子情歌』『新リア王』を読んでいた時には見過ごしていた事柄が『太陽を曳く馬』のための重要な伏線として構成されていたことに気がつく。

そこで『晴子情歌』『新リア王』にある『太陽を曳く馬』との結節点のポイントを整理してみた。

晴子は青森の旧家福澤家の三男.淳三が出征する前夜に婚姻。淳三が出征中に長男・福澤榮(帝大卒、地方財閥の主、自民党の有力な政治家)の好色に一夜限りの情を通じたことから彰之を出産する(昭和21年<1946年>『晴子情歌』)彰之は私とほぼ同年代の人物であるから彼の人生の背景は理解しやすい。
彰之は東大在学中に複数の女性とつきあうが杉田初江との関係は深く、強引な別れ方をしてその後ずっとつきまとわれることになる。初江との間に秋道が誕生しているが(昭和43年9月<1968年>『晴子情歌』)彰之がその事実を知るのは昭和51年<1976年>のことであった(『晴子情歌』)。(彰之は母晴子に初江と同様の官能を覚える屈折した自分に気づいている。また彰之は「福沢榮・晴子・彰之の相関=彰之・初江・秋道の相関」として不穏な血の相似性を予感しているところがあると私には思われる。)
(欲望の人であった福澤榮の血を引いた彰之はその世俗をたって、煩悩からの解放のために仏門に入ったのだと私は思うのだが………)
以下『新リア王』
1983年、金沢大乗寺で修行中の彰之を初江が探し当てる。初江は結婚しており、夫の板橋の実家で秋道とともに暮らしていた。この間、10代の秋道はたえまない粗暴行為で矯正施設、教護施設での生活を繰り返している。また彰之は板橋の実家を訪ねており、そこで秋道が義父より虐待を受けていたこと聞く。
1983年、故郷青森の普門庵の仮住職に就き初江の共同生活が始まる。
1983年、教護院の秋道(15歳)は都内で傷害事件をおこし、逮捕される。少年院へ。
1986年7月、 初江、失踪する
1986年10月、彰之は秋道と養子縁組する。
1986年11月から、秋道、普門庵で共同生活。暴走族仲間のたまり場、シンナー、暴力沙汰の日々。
「一言で申せば反社会のために生まれてきた生き物でしょうか、小学生のとき学校で飼っているウサギの耳を切り取ったそうで、親の目にも実に若々しい顔をした悪鬼のようです」
そして彰之は秋道が絵をかくことに夢中になっていることに気づく。
1987年12月、東京北沢署の合田という若い刑事から、杉田初江が餓死したと連絡がある。そして秋道は当地で傷害事件にかかわり、失踪する。

年月にこだわったのはストーリーが登場人物の記憶をやたらに遡り、なかなかついていけないためであり、全体に時の重さが一つのテーマになっているからだ。

そして『太陽を曳く馬』は2001年の秋から始まる。すでに彰之は55歳ということか。

冒頭、思いもかけなかった人物、合田雄一郎が登場する。そして私の知っている刑事・合田雄一郎とはまるで別人に変貌していることに驚かされた。知っているといっても『レディ・ジョーカー』『マークスの山』『照柿』だけ。1959年(昭和34年)生まれであるからここでは42歳の働き盛りであるはずだ。『レディ・ジョーカー』『マークスの山』では警察小説のジャンルにあるいわゆる敏腕刑事であって、これが『照柿』では彼のプライバシー(別れた元妻・貴代子への断ちがたい思いと事件当事者である女との恋愛など)が深いかかわりをみせ、いささか変わったとの印象ではあった。最初の第一節、永劫寺別院を舞台にした末永和哉の事故死(?)の捜査に関連して弁護士から話を聞くシーンなのだが、新宿の高層ビルから彼が見る風景のなんと暗澹たること、ただならぬ陰鬱と倦怠、死をイメージする眩暈と滑落感はいったい何なのだと。わからないということは退屈なスタートなのだ。ところが読み返した時に、ここには彼の今ある彼のすべてが凝縮されている、忘れがたい冒頭なのだと気づかされる。(正直この作品は難解である。しかし、二度読みする価値は充分にある)

全編、まるで独白かのように正確に合田雄一郎の視線で物語は綴られている。この作品は合田雄一郎自身の憂鬱に重きを置いた物語でもあるのだ。彰之が執着する餓死した初江と重なるように雄一郎には貴代子が存在して、その貴代子がこの年の9月11日、世界貿易センタービル崩落の犠牲になっている。また10月には死刑囚である彰之の子・秋道の絞首刑が執行されたばかりなのだ。栄劫寺別院事件の宗教的不可解にのめりこみながら共通ななにかを感じた彼は関わりのあった秋道事件の不可解を追想する。

この世界の根本にある精妙な真理に近づこうとする彰之は、それが言葉では語れないものだとわかっている宗教者の無言にいて、なお現実の混沌に立ち尽くしたままである。おそらくここからは前進することのない彼の人生の到達点である。
事件の真実に近づこうとする雄一郎は溢れあまる言葉でそこを語るのであるが、裁判に至るプロセスでそれが歪められるという冷酷な現実から一歩も進めない。そしてその諦観が彼にとって刑事人生の到達点であった。さらに彼は「自らの死」を甘美に予感しているところさえ見える。
秋道と和哉、ふたりの若い命は死の淵でなにを見たのか。言葉、言葉、言葉と「言葉の奔流」に圧倒されながらこの謎に読者は挑戦することになる。それもこの作品の重要なテーマではある。
そして彰之と雄一郎、このふたりの長い長い人生のラストに著者の深い思索の結晶をみる。『太陽を曳く馬』は三部作の完成というより高村文学の一つの到達点を示す記念碑的作品となるのだろう。


参考
レディ・ジョーカー
マークスの山
晴子情歌
新リア王上
新リア王下

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紙の本罪と罰 1

2009/08/16 18:14

『罪と罰』の世界を身近に感じラスコーリニコフの犯罪を自己流解釈で楽しもう。

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まもなく衆議院選挙だ。日本が羅針盤を失い漂流しはじめてから何年になるか。その間に積もり積もった焦燥感が解消されるどころか、さらにふくれあがるであろうことをだれもが認識している政治的プロセスである。

昭和19年に生まれて40年のサラリーマン人生を金融危機の激動のなかで終えたものの実感なのだが、グローバリゼーション・グローバルスタンダード・新自由主義、その資本運動の法則を絶対的正義だとしたあれこそ、日本人にとっては新たな神の降臨だったのだ。新しい神がその神の国を作り上げる過程は経済活動だけではなく、政治や社会生活、精神活動、価値観の変革を強制するものであり、一方で犠牲者はつきもの、屍の山が築かれることになる。大量殺人も正義とされることがある。本来、救世主こそこの大いなる罪の十字架を背負うべきところ、日本にはそういう偉大な存在が出現しなかったということだろう。自民党、民主党いやどの政党のマニフェストも市場原理主義からの訣別を謳い、バラマキ財政を正義として、今度はあれのアンチテーゼにあたる神の国を作ろうとしているのか。ああ、それではあの時降臨したものは悪魔だったのか。

宗教が世界秩序を作り、人間の歴史に深く関与し、しかも現実に根を下ろしていることは「知っている」だけで、神とか悪魔、極楽や地獄、あるいは死後の世界などとは、まったく無縁で、神仏の救済などは実感することのない私にとって降臨やら救世主うんぬんは言葉の遊びをやっているに過ぎない。しかし、亀山郁夫の著書『「罪と罰」ノート』を片手に『罪と罰』をじっくり読んだら、その後遺症だろう、普段考えもしなかった、こんな突拍子もない発想方法にとりつかれるはめになったのだ。視野が広がったというのはこういうことを指すのではないだろうか。

亀山郁夫には読者を一度、現代日本という座標軸に立たせたうえで、ドストエフスキーのメッセージを受け取ってもらおうとする意図があって、その姿勢が翻訳に投影されているものだから、読者が『罪と罰』の世界を身近に感じ、自分なりに解釈を楽しむには都合のいい訳本になっている。『「罪と罰」ノート』を併読すればなおさらのことである。

1860年代前半にアレクサンドル2世のもとで行われた身分制度の解体や資本主義原理の導入など西洋合理主義の枠組み作りは伝統的なロシア人の思想とは相容れず、偏重する富の蓄積がまた新たな貧困層を生み出すなど社会的不安と混乱をもたらした。このような世相を背景に、困窮のうちに中退した元学生のラスコーリニコフはこの新しい世界を拒否し隔絶していった。かなり重症の鬱病であった彼はこの世界への憎悪をつのらせるだけで抜け道を見出せない。また神を否定する彼には宗教に救いを求める観念はない。だからといって自ら別な世界を築き上げようとする志もない。そしてシラミのように存在しているだけの自分を嫌悪している。他人に対して傲慢でありながら弱いものへはひとかたならぬやさしさをもつ分裂した人格。
この彼が金貸しの老婆を殺害し、金品を強奪することを思いつく。思いつきは思いつきにとどまらず、紆余曲折の精神的葛藤のすえようやく決意にいたる。そして用意周到のはずだったのだが、結局はまるでずさんで不完全な犯行に追い込まれる。これが今回、第一部を先入観抜きにして、読んだ私の印象だった。そして疑問。閉塞した精神状態は共感できるのだが、なぜこれが一足飛びに殺人へと短絡するのだろうか?

親殺し、子殺し。ドメスティックバイオレンス。変質者による幼児への性犯罪。「だれでもいいから殺したかった」と供述する現代の無差別殺人者たち。「なぜ人を殺してはいけないんですか」とうそぶく少年たち。抑圧が短絡的に暴力へ移行するキレタ症候群。そして今でも根深くある若者たちのカルト願望。
これら最近の理解しがたい狂気の周囲にはラスコーリニコフの犯罪、その罪と罰と贖罪の様相に近接したところがありそうな気がする。昨年読んだ平野啓一郎『決壊』が描いた犯罪がそうであった。今回よいタイミングで『罪と罰』を読んだと思う。これから読む高村薫『太陽を曳く馬』、さらに村上春樹『1Q84』がこれでいっそう楽しめそうな気配がしている。

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紙の本『罪と罰』ノート

2009/08/10 00:19

光文社文庫『罪と罰』3分冊には巻末に訳者の解説があってそれは理解を深めるのに大いに役に立った。しかし本著はむしろ私の理解を混乱させた。しかし読む価値はあった。

9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

亀山郁夫氏の著書ではじめに読んだのは『「悪霊」神になりたかった男』だった。亀山氏の個性が語る神のイメージには、信仰心を持たない私にとって曖昧さがなく、つまりわかりやすく、共感できたところで『悪霊』の理解が進んだのだと思っている。
『「悪霊」神になりたかった男』の一節、9.11のツインタワー崩壊をテレビで見ていた氏は「『悪霊』の一節に思いをはせ、『神は死んだ』と感じ、テレビを見ているわれわれ全員が神になった、という奇妙な錯覚に囚われたものだった。」と述懐している。
われわれ全員が神になったとは?
「世界を単に見る対象として突き放す神のまなざし、そして傲慢さこそ被造物たる人間がもっとも恐れるべきことであり、テロリズムの罪の深さは実はテロリストではなくテロルの恐ろしさをテレビの画面越しに見ている私たちにあるのではないか」と述べている。
氏のイメージする神。人間の営みに悲哀の感情を持たず、突き放して黙過する傲慢な存在なのかと自分なりに解釈し、神になりたかったスタヴローギンを理解したのだった。
読むものがどのように神をイメージするか。ドストエフスキーのメッセージの受け止め方が大きくぶれることになる………。
今般光文社文庫で亀山訳の『罪と罰』にチャレンジするには本著『「罪と罰」ノート』を片手に分析的に読むのもまた読書の楽しみ方の一つではないだろうか。
『罪と罰』の舞台、ペテルブルグという都市がまず解説されている。西欧の合理主義文明への開放の扉として建設された人工の都市。ロシアの伝統文化に背を向け、ひたすらヨーロッパを模倣する為政者の狂気。身分制度から解放された自由な農民が流浪の民となって押し寄せてきた都市。絶望的な貧困。犯罪と売春とアル中。悪循環から抜け出せない人々に蔓延する閉塞感、精神のゆがみ、そして醸成される狂気。
亀山郁夫はラスコーリニコフの犯罪には漂流する現代日本を重ね合わせたらいかがですかと、誘いをしている。このたくらみにまんまと乗ろうではないか。
「『罪と罰』を事前の物語として読むか、事後の物語として読むか、で根本から意味が変わる」と言う氏の指摘にもハッとさせられた。言われてみれば前回読んだときには法の正義と神の真理に背を向けたラスコーリニコフがどうして立ち直れるのか(事後の物語)に関心があって、なぜ人殺しをしたのか(事前の物語)については単純に、彼の犯罪論であるナポレオン主義と片付けていた。本著ではむしろ事前の物語=犯罪の動機にウェイトを置いた詳細な分析と解説がなされている。
第一にドストエフスキー研究家たちの所論を分析している。
第二に前記したようなロシアの政治・経済・社会等環境について。そこから生まれているさまざまな反体制の思想について。宗教観について。
第三にラスコーリニコフの生活環境と鬱病について。そして家族愛について。
第四に氏はドストエフスキー自身がラスコーリニコフになにを託そうとしているかを推定する。このためにドストエフスキーの半生をつまびらかにたどり、この作品に投影された彼の内心の風景を絵解きしなければならなかった。さらには完成された最終稿の前段階にあったドストエフスキーの二つの草稿や編集者等とのやりとりからも氏は絞り込むような類推をする。
私にはラスコーリニコフの犯罪動機は複雑極まりなく重なり合ったものでこれだと断定できるシロモノではないという印象が残る。
次に第五だがこれは氏の独創的なあるいは冒険的なアプローチがあった。この著述の眼目はむしろこの第五の視点に他ならない

実は2005年に刊行された氏の著作『「悪霊」神になりたかった男』の中で『罪と罰』について氏が自信を持って解説することはできない心境を語る次のようなくだりがある。
「『罪と罰』は19世紀の小説とはとても思えない現代的なテーマで満たされ、私たちの深層に息づく様々な矛盾を照らし出しています。………。今の私にはそうした彼の(ラスコーリニコフの)若々しい思いあがりや、追い詰められた心境や、一人の娼婦をとおして得られる愛の世界にシンクロし、それについて何かを語るという勇気が出てこないのです。」

時を経て今、現代日本人である氏はそのまま「ラスコーリニコフに同期する」ことに、それを不可能と感じながらも、あえてチャレンジしたのではないだろうか。
殺人者が「だれでもいいから殺したかった」と供述する不可解な事件が社会現象化しているのが現代であり、この現代からラスコーリニコフを見つめる。こんなことを氏は書いているわけではないのだが、私には亀山郁夫の脳裏にはこのイメージがあったに違いないと思われるのである。

そして第五の視点から導き出したラスコーリニコフの犯行動機(「究極の動機」)を「純粋意志」と結論付けている。だが、私には理解できない。
ラスコーリニコフがソーニャに五つの犯行の動機を告白するくだりだがその中で「ぼくはただ殺したかったのだ、自分のために殺したんだ」というセリフがいちばん近いのだと指摘し、「棺のような屋根裏部屋の内側であえてとどまりつづけることでラスコーリニコフは自分の憎悪がおのずから蓄積され、発酵することを待っていたことになる。動機は思想のなかにではなく、意志力そのものに潜んでいた。『あえて、する』(要するに一歩踏み出すという意志力)という行為そのもののなかに潜んでいたといってよい。」
とこう説明されても私にはわからないのである。
巻末の「あとがき」で著者は「それこそ(純粋意志)は大地の深みに入り込もうとする人間の素朴な心をどこまでも疎外する傲慢さだった。」と述べている一節にむしろわかりやすさがあるのだが、これを本文に書けなかったのはなぜか。

ラスコーリニコフの犯罪動機には神の存在あるいは不存在が大きくかかわることになる。
「『罪と罰』の理解は神を信じる立場と信じない立場とでは百八十度異なる」と氏は語っている。ドストエフスキー自身はどういう立場で神と向きあっていたのか?さらに解説者である亀山郁夫氏自身は神をどういう存在として捉えているのだろうか?ラスコーリニコフの神は氏が『悪霊』でイメージした神とは違ってきているように思われた。ところが亀山郁夫氏が今観念している神について、読者が理解できるところまで語ることができてはいない。

本著にはこれまでの『罪と罰』解説本とはまるで異質なところがある。あえて極論を申し上げる。「だれでもいいから殺したかった」犯罪者が群れる現代日本。著者はラスコーリニコフを、時空を超えたこの日本に立たせたのだ。どこか類似性があることを感じていた著者は、今の日本でラスコーリニコフの犯罪は成立するだろうかと著者自身に問いかけたのだ。本著は『罪と罰』を解説することを通じて、病める現代日本、そのさまよえる精神構造の深層を探ろうとしているものである。未完成なままに(私にはそう思われる)発表されているこの若々しいアプローチがすばらしい。

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『カラマーゾフの兄弟』に圧倒された1ヶ月だった。自分なりに咀嚼したつもりで読んだが、これからも何度か読むことになるだろう。そのときはまた別の感じ方をすることだろう。自分の生きてきた軌跡の長さに比例した奥行きの深さを見いだせる、なるほど最高峰と言われる文学作品だった。

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ドストエフスキーの描く少年・少女だが、どれもこれも子どもらしさがない、かわいらしさがない、ひとことでいえばこわい。読んだ作品ではじめに印象的だった子どもは『悪霊』の少女マトリョーシャだった。亀山郁夫の『『悪霊』神になりたかった男』は亀山が『悪霊』から「スタヴローギンの告白」だけを抜粋し翻訳して解説している。亀山はマトリョーシャを10歳としている。親から虐待されるのだがその痛みの中に快感をおぼえる人格なのだから驚きだ。スタヴロ-ギン(幼児性愛癖もあるんだな、彼は)は彼女を陵辱する。実は江川卓訳を読んだ限りそんなシーンだとは気がつかないぐらい婉曲な表現だったのだが、亀山訳はやはり婉曲ではあるのだがズバリと本質をあぶりだす翻訳になっていた。彼女はそのあと「神様を殺してしまった」とつぶやき、首をくくって自殺するに至る。「父親殺し」ではなく「神殺し」である。亀山郁夫のこの解説を読めば、なんとも凄まじい、そして高次の自己主張ではないか。
『カラマーゾフの兄弟』にもリーザという少女が登場する。これも薄気味悪い存在なのだが、私には本書5にある亀山の「解題」を読むまでその役割がわからなかった。本当にそうなのかどうか、ここはあらためて読み直したいと思っているひとつのポイントである。

正体不明のリーザはともかく明らかに戦慄を覚える少年が13歳のコーリャだった。すでに「第4部 第10編 少年たち」(ここにも現代に共通する子どもたちのイジメル、イジメラレルのパターンが描かれている)に登場している。恵まれた母子家庭で献身的盲目的な教育ママの愛を一身に受けているが、一歩距離を置いてその母親を観察し、時には疎ましく思いつつも大人びた賢さで上手に折り合いをつけているのだ。彼がアリョーシャに熱弁をふるう。
「ぼくはね(馬鹿な)民衆というのを信じています。いつだって彼らを正等に認めてあげる気でいる、ただし、絶対に甘やかさない。これが必須条件なんです。」
と、これは2~3年前に流行した「仮想的有能感」をもつ「他人を見下す若者たち」にどこか共通するようだ。そして彼は野良犬を徹底的に飴と鞭で飼いならすのであるが、同様のやり方で哀れな少年イリューシャを支配し、少年たちの上に君臨するのである。通りすがりの若者に道端のガチョウを車でひき殺すことができるかと問いかけ、その気にさせて、首をちょん切らせるが、糾弾されると
「けっしてそそのかしてはいない単に基本的な考えを話しただけ、ひとつのありうる計画を話しただけ」
と邪悪の化身さながらに他人の運命をもてあそんでその成り行きを観察しているのだ。これはまさに『悪霊』のスタヴローギンに他ならない。また「審問官」を語り、スメルジャコフのあの行為を期待しているイワンの邪心でもある。

そのコーリャが様変わりする。マイナスのベクトルからプラスのベクトルへ。この作品にはたびたび驚かされたものだが………、この大きな振れによって「最終章 イリューシャの葬儀。石のそばの挨拶」は大長編のラストにふさわしい
盛り上がりをみせる。そこには死にゆくイリューシャの美しさがある。(このかわいそうなイリューシャがただひとり、純真な子どもとして登場している)その死の尊厳にうたれたのか?コーリャは奇蹟とも言える覚醒を果たすのである。ここまでいやおうなく分析的に読まざるをえなかった私も理屈をこえたなんともいいようのない感動で胸が熱くなる瞬間があった。
ただし、第3部で述べたアリョーシャの再生と同質で、やはり異様な狂気をはらんだなにかであるとの思いは消えず、このエンディング、手放しに満ち足りた心で読み終えるほど単純ではない。

第5分冊の亀山郁夫の「解題」について
すばらしい解説だった。なるほどそうであったのかと多くの疑問が解消されていく。やはりそうだったのかと自分の解釈が一致して安堵するところもある。そうじゃないのではないかと首をひねるところだってある。また亀山氏にも解釈しきれないままに残されたこともある。ひと通り読み終えた読者がこの「解題」と一体になって読後感を味わえるのだ。
氏はドストエフスキーの作品を抜本から消化し、ドストエフスキーの人物を徹底的に分析していくなかで『カラマーゾフの兄弟』について氏独自のイメージを見出したのだろう。「解題」のエッセンスはそのイメージの結晶なのではないだろうか。そしてこの結晶に向けて丁寧に具体的な翻訳作業を進めたのではないか。さらに言えばそのイメージには漂流する現代の日本と重なるところが多くあったに違いない。なぜ今この著作がわかりやすいカラマーゾフとして多くの日本人にうけいれられたのか、その鍵はこのあたりに潜んでいる。

「日本のどこかで、だれかが、どの時間帯であっても、常に切れ目なく………それこそ夢中になって『カラマーゾフの兄弟』を話し合うような時代が訪れてほしい」
と夢をみる氏の熱い思いが全編を貫いている。

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紙の本母の遺産 新聞小説

2012/05/01 11:13

家族の絆にここまで厳しくメスをいれ、しかも優しいまなざしが一貫してある。老人が読むべき第一級の純文学だ。ところでいま、やさしく暖かい「絆」という言葉が万人の心を癒す呪文のように浸透しつつある。「絆」は絶対不可侵の価値観のように、「絆を深めよう」と一人歩きし始めた。「深めよう」とスローガン化された「絆」。それはあまりにも浪漫的に過ぎる「絆」である。

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『母の遺産 新聞小説』は家族の物語であるが、絆という言葉は使われていない。だがある意味で「絆」を描いている。絆とは家族・友人あるいは地域社会の構成員などを離れがたくつなぎとめているものであるが、それは美しいもの、癒されるもの、やさしいもの、ロマンティックなものとは限らないのだ。「絆(ハン)」には馬の足にからめてしばるひも、人を束縛する義理・人情、しばって自由に行動できなくするなどの意味がある。要は、ロマンティックな「絆」の根源には、個性を剥奪し個を不幸に陥れる「束縛」があるからである。
水村美苗はこの作品で特に母の娘へ過大な期待と娘のその束縛からの離反、両者の葛藤を冷酷とまで思える細密描写で描き出している。しかし、やがて作者の隠された意図がベールを一枚一枚剥いでいくように見えてくる。隠されたものは、「愛」という西洋風の言葉よりも、むしろ「絆」の二面性を包含する、日本古来の「縁(えにし)」という語感がピタリとおさまる真実なのだ。
「家の中は綿埃だらけで、洗濯物も溜まりに溜まり、生え際に出てきた白髪をヘナで染める時間もなく、もう疲労で朦朧として生きているのに母は死なない。若い女と同棲している夫がいて、その夫とのことを考えねばならないのに、母は死なない。ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」
わたしは糖尿病で長患いをした父を送り、いま、妻の献身に救われながら94歳の母を老人ホームに預けている。「頑張って長生きして欲しい」と本人にも他人にも言っている。だが、そのような美しい小説風よりも、この「いつになったら死んでくれるの」のほうが、ずっしりとした重みをもって迫ってくるのだ。

『母の遺産 新聞小説』は、女であり、妻であり、あるいは母である女性たち三代にわたるそれぞれの「女の一生」ともいえるスケールなので、波乱万丈の展開があるように錯覚させるところがあるのだが、実はどこにでもありえそうな家族のもつれあいを描いていることに気づかされる。「どこにでもありえそうな」と感じるのはおそらくわたしがこれまで生きてきた時の流れをたどり、自分の知る家族というものを見つめなおすときに、登場人物それぞれを等身大にリアルにとらえることができるからなのだ。平易な文章でもって奥深いところにある家族関係の真実を語っているのだ。いたるところにわたしの経験した事実があり、痛いほど共感する家族間の気持ちの揺らぎが語られる。
読後、わたしが何を感じたのかを整理して言い表すことができないほど、この作品は家族にある光と影、重要ないろいろななにかを語っている。
三人称が使われるが語り手は現代に生きる50台半ばの主婦・美津紀。わたしよりは10歳ほど若い世代とはいえ、たとえば彼女が明治期の祖母を語るのは著者・水村美苗の視線であり、著者は61歳とわたしと同時代の人と言えよう。年代ものの人が己の来し方を振り返りつつ本音で語る人生論に若い人が夢や希望を託するのは間違いである。年代ものの人にとって、過去は消えないものの、ただ過ぎ行くものであり、未来を展望できる猶予はない。年寄は、思い通りにならなかったことなどすべてを飲み込んで、忘れられない過ぎ去った人生をただ感傷するだけなのだ。そこには若い人にむける気負ったお説教はない。だから世に無責任で向き合っている同年代の読者であれば、無防備に共感を深いところまで覚えることができるのだと思う。それが家族というものだ………と。
美津紀は新たな出発を決意することになるが、それは50台半ばという、まだどこかに残っている若さと経済力ゆえであろう。

美津紀が20歳代のパリ留学で今の夫にのぼせ上がるのだが、50台半ばになった今夫の浮気が露見する。そして当時を回顧するところでジャンソンを引き合いにする。
記憶にとどめておきたい文辞はたくさんあったが特にここは印象的だった。
「シャンソンの歌詞が『人生の知恵』の宝庫なのは、人の知るところである。今の世の流行り歌は、若者を相手に、ひたすら若者の世界を歌う。流行り歌に瞬時に大群で飛びつく若者こそ、歌という商品の消費の王者だから、当然である。それにひきかえ、一時代前のシャンソンは、若さに一歩距離を置き、若さとはどういうものか、そして、いくら抗おうとその若さがすぐ消えてしまうものであるのを教える。その悲哀こそが人生の妙であると教え、人生を謳いあげる。すでに人生を生きた人のための歌であった。すくなくとも美津紀にはそう思えた。年を重ねるほどその思いは強くなった。若い時、『娘っこ』はのぼせ上がる。」
シャンソンといまどきの若者音楽の違いは言うまでもなく、老いと若さを鮮やかに対比している。若さでのぼせ上がった自分を揶揄しながら、決してその軽率を後悔していない。シャンソンとは何かを語る人のように達観した心境で、自分の過ちを「人生の妙」として見つめている。それは自分を許し、夫を許すことにつながるのだが、老いつつある女性がやがて訪れる死を淡々として迎えるためのたくましい心の構えであろう。
この作品はわれわれの世代が面白く読んで、感慨を共有することができる珠玉の通俗小説である。いかにも女性らしい感性で、あるときはキラキラとあるときは残酷に、少女の、恋する女の、オバサンの微妙な心理が描かれているから、これは夫婦で読みたい本である。お互いに身につまされる共通の話題が満載だから、しばしの間だけでも、かつての円滑だったコミュニケーションが復活すること間違いなし。これに刺激を受けて「新たな出発」に踏みだそうとする奥さんであるならば、それがわたしの奥さんでないならば、わたしは惜しみなく拍手をおくりたい。

「尾崎紅葉の『金色夜叉』から百余年、もし日本に新聞小説というものさえなければ、母も、私たちも、生を受けることはなかった。」
飾り帯のこのコピーはなぞめいていて魅力的である。
「時は百十年以上前の、明治三十年。『讀賣新聞』で尾崎紅葉の『金色夜叉』が始まった。連載が始まるや否や日本中の女の紅涙を絞り、興奮の坩堝に投げ入れた。祖母の人生は『金色夜叉』ですっかり狂ってしまったが、あの新聞小説は祖母のような悲劇をあちこちで生み出したのではないか。新聞小説といえば『金色夜叉』。『金色夜叉』がそのように日本近代文学史に名を残すようになったのは、このメロドラマティック極まりない作品が当時新聞小説以外に小説を読むこと以外に小説を読むこともなかった女たちに与えた影響の大きさゆえである。」
夢、憧れ、ロマンスには現実の残酷さを気づかせないものがある。鴫沢宮を自分自身と同一視した祖母。祖母の子である母の生きかたはボヴァリー夫人そのものであった。その子・美津紀もまた現実とはどこか開きのある夢を見ていたのだ。美津紀はそれに気がついた。

水村美苗の知的たくらみはさらに広大な問題提起を投げかけている。日本近代文学の成立プロセスにも言及する。さらに明治という時代はなんであったのかのかと、著者は豊かな知見でとらえ、現代人へのメッセージを込めるのだ。深い感銘を受ける「純文学」の傑作である。

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