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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

コーチャンさんのレビュー一覧

投稿者:コーチャン

187 件中 1 件~ 15 件を表示

生き証人による貴重な証言

22人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日中戦争のさなかの1937年12月、南京が日本軍に占領される。そのとき陸軍の軍人らが市内で大量の中国市民を暴行し、虐殺したとされているいわゆる「南京事件」。その50年後の1987年に出版された本書は、このような事件が本当にあったかどうかを、当時南京に滞在し、市内の様子を目撃した人たちに尋ね、その証言をつづったものである。証言者は48人。37人は筆者が直接会って話を聞き、11人は書簡や電話を通じて証言を得た人々である。彼らは職業別に、新聞記者、従軍カメラマンや画家、軍人、外交官と分類されている。
 ほとんどが80歳をこえた高齢者の彼らの言葉はどれも明晰・明瞭で、記述内容や論理に矛盾がない。また知らないことははっきり知らないと言い、憶測でものを言うことがない。そんな彼らの証言を読むかぎりの結論は、次のとおりである。
 南京市内で民間人への明らかな虐殺行為を見たものは一人もいない。中国人捕虜の処刑は見た人がいて、何人かはそれが多数であったと言っている。民間人らしき人の処刑現場や死体を見た人もいるが、それは、中国兵が軍服を脱ぎ、民間人になりすました「便衣兵」である可能性も高いと言っている。婦女子の暴行現場を見たものはいない。さらに多くの人が、日本軍によって治安の回復した市内の様子を伝え、中国人もその恩恵にあずかっていたと証言している。
 なるほど、捕虜の処断は国際法上違法である。だが、当時の緊迫した戦況や食糧事情を考えると、それがどれほど非道といえるだろう?また便衣兵への恐怖から、罪もない民間人が殺害された可能性も否定はできない。だが、現在流布されているような民間人への大規模で残虐な殺戮行為は、彼らの誰一人として証言をしていない。これだけの多くの人の誰一人として見たことがないと言っている事件の存在を信じろということは、今の私にはとうていできない。
 これに対して、本書は南京虐殺を否定する立場から集められた証言集だから、虐殺を目撃した、あるいはそれの被害者・加害者であった人々の証言を意図的に無視したものだという反論もあるだろう。私もそれは否定しない。ただ、南京での虐殺を主張する証言には、感情的で事実関係を客観的に伝えていないのも多く、中には当時とても従軍する年齢でなかった人が、南京で暴行をしたと証言しているのもあって、少なくともそういう証言などよりは、本書の証言の方が信頼するに足るというのが、私の見解である。
 本書が世に出た頃、「南京事件」は日本のマスコミにも大きくとりあげられ、それとともに教科書問題が大きな話題となっていた。数千人から三十万人と犠牲者の数もあやふやなこの事件を、多くの歴史教科書が事実として記載し、教科書検定でその削除や修正が求められると、国の内外からは非難があがり、ことに中国政府は内政干渉ともいえる政治的・外交的圧力をわが国に加えた。
 そんな時代状況のもと、真実を主張する機会もなく鬱積する思いを抱いていた南京戦の生き証人たちにこつこつとインタビューすることによって生まれたのが、本書である。この「ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実な誠実なアプローチ」(櫻井よしこ「推薦のことば」)がなければ、その後次々と世を去った人々の声もわれわれに届かなかったであろう。こう考えると、実に貴重な資料を残してくれたと、著者の阿羅氏を称えたい。

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紙の本英文法解説 改訂3版

2012/03/29 10:09

ユーモアあふれる英文の数々

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 職業がら、英文法の参考書はいろいろと見てきたが、この江川泰一郎著『英文法解説』ほど詳細で専門的な、かつウィットに富んだ文法解説書はほかに知らない。受験参考書としてはやや難解ではあるが、一定レベルに達し、学習意欲旺盛な者の知的欲求を満たすには十分に手ごたえのある本格的な文法書といえるだろう。私も、英語教師として問題にぶつかったときにはいつもこの本を参照している。
 本書におけるとりわけ大きな魅力は、ユーモアあふれる英文の数々である。一例をあげると。
 ”Call me a taxi,” said the fat man.
 “Okay,” said the doorman. “You are a taxi, but you look more like a truck to me.”
 (訳)「タクシーを呼んでくれ。」太った男が言った。
 「かしこまりました。」ボーイは言った。「あなたはタクシーですね。でも、私にはトラックに似ているように見えますが。」
 いわゆる5文型を学ばせる箇所に出てくる文章だが、callという動詞には、call O O(OにOを呼ぶ)という第4文型としての用法とcall O C(OをCと呼ぶ)という第5文型としての用法があることを学び、英文読解における「文型」の重要性に気づかせてくれる、なんと教育的な小話だろう。
 また、前置詞+関係代名詞を解説した箇所では、名文家としても知られるイギリスの元首相チャーチルが、ある人の英語について語った警句、“This is the sort of English up with which I will not put.”(これは、私の我慢できない類いの英語である。) を紹介して、次のように述べている。
「これは当然the sort of English I will not put up withとすべきであるが、批評の対象になった英語がup with which I will not put式の不体裁な英語であったのであろう。
 18‐19世紀の模範文法の時代には、前置詞を文の終わりに置いてはいけないという鉄則があったらしく、昔の文法家がまじめな顔で”You must not use a preposition to end a sentence with.”と言ったという伝説がある。」
 最後の文は、「前置詞を文の終わりに置いてはいけない」という文そのものが、前置詞で終わっている皮肉を表している。プッと噴出してしまいそうな逸話や例文をつかった、なんとも愉快な解説文である。
 極めつけは、「完了形」の練習問題に出てくるブラックユーモア。
“No one has ever complained of a parachute not opening.”(いまだかつてパラシュートが開かなかったと文句を言った人はいない。)
 初版1953年という超ロングセラーの本書。このように、一般の学習参考書にはない、英語独特のユーモアとウィットがふんだんに盛り込まれていることも、その人気の一因かもしれない。

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紙の本世に棲む日日 新装版 1

2006/11/08 14:04

長州革命家列伝

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 松陰吉田寅次郎—幕末の黒船来航に始まる動乱の最初期において尊王攘夷を説き、安政の大獄で斬首刑に処せられた長州浪人。彼の弟子で、師のめざした革命運動に一生をささげ、それにかたちをあたえた久坂玄瑞と高杉晋作。明治維新後、近代国家建設の原動力となった伊藤博文、井上馨、山県有朋。近代日本の成立に多大なる影響をおよぼした革命家三代の系譜は、長州藩のそれも松下村塾という小さな私塾に端を発したものであった。司馬遼太郎は、松蔭の幼少時から高杉の死までを描くことによって、長州藩の熱狂とパワーにあふれた革命家列伝ともいうべき物語を完成させた。
 この書物中一番の魅力にあふれる人物は、なんといっても吉田松蔭であろう。狂気ともいえるその徹底した正義の観念は、少年時代に彼が叔父の玉木文之進から受けたすさまじい教育に由来するものであった。汗をぬぐうということさえも、自分一個の快楽を追及した公けに仕えるべき身(吉田家は代々山鹿流兵学師範)にあるまじき行為と、死ぬほど殴られる厳しい教育の中から自己犠牲と天下国家への献身という強靭な精神が育まれた。その一方で、天性の明るさ、屈託のなさ、人を疑うことを知らぬ無邪気さは、母親をはじめとする朗らかな家族の気質に拠るものであった。さらに長州藩がその家風としてきた自由な雰囲気は、臆することなくはっきりと意見をのべる習慣を彼に身につけさせたようである。
 江戸留学の際、無二の親友との旅行に遅れるために、手形の発行を出し渋る藩に見切りをつけ脱藩する...黒船に乗り外国を視察しようとしたが、それが失敗すると国禁を破ったと自首し、獄に入れらる...獄中、囚人仲間と仲良くなり、たがいに勉強を教え合うサークルを作る。(その中の一人は、その後松下村塾で書道を教える。)...松下村塾では、ある日壁塗りをしていた門下生が、漆喰を落とし、下を通っていた松蔭の顔面につけてしまう。松蔭は「師の顔に泥を塗った」と一日中笑い転げた...幕府の取調べに対して、老中を暗殺するつもりであったと、言わなくてもよいことを告白し、そのため最後は刑死する...
 こういった逸話からは、およそ怜悧で現実的な革命家の姿はうかがわれない。そこに見られるのは、友や弟子をいたわり周りのだれからも愛される、明るく正直で純粋な人間の姿である。事実、松蔭は自身が志した尊皇攘夷を推し進めることはなかった。彼がやったことは、その強烈な存在感と人柄でもって後進を率い、育成したことだけである。
 しかし、このような人格的魅力が原動力となって、幕末の日本が躍動し、明治維新という近代日本の礎となった革命を成功に導いたというのもまた事実である。そこには、ヨーロッパ諸国の革命にみられる機械的・物質的な要因だけで割り切れない何かがあるように思われる。正義を求める一個の純真無垢な魂が、高杉、久坂、伊藤といった共鳴者を通じて、最終的に日本全体に大きな震動をあたえた。人々はこの革命の核にある精神性に意識的にせよ、無意識的にせよ共感したのではないか?その精神性とは、端的には国家のために自己を捨て、命を張る愛国心である。
 エドウィン=ライシャワーがその著書『日本史』の中で、日本が列強の脅威にさらされたとき、自国民を裏切ってまで欧米列強の側に立つことを一瞬たりとも考えるような日本人は、ただの一人もいなかった、と述べている。明治維新がナショナリズムの観点から論じられることはあまりないが、維新には欧米侵略に対する日本的ナショナリズムの勝利という側面があったことは否定できない。そしてその幾分かは、松蔭という長州出身の純粋人の精神に根付いたものであるというのは、決して誇張ではあるまい。

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紙の本フェルマーの最終定理

2009/08/31 23:54

ここにもいた、すごい日本人!

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「xのn乗 × yのn乗 = zのn乗」という式において、乗数n=2の場合、x、y、zの整数解は、三平方の定理でおなじみのように容易に見つかる。しかし、nを3以上にすると整数解が存在しない。これが、17世紀の数学者フェルマーが掲げた数々の定理のうち、最後まで証明されていなかった「フェルマーの最終定理」である。フェルマーはある本の片隅にこの定理を書き込み、「私はこの証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と付け加えたという。まったく人をくった男だが、謎を残したまま彼は世を去る。
 以後3世紀ものあいだ、オイラーを始めとした数学者たちがこの定理の証明をこころみるも、どれも失敗に終わる。しかし、1994年ついにアンドリュー・ワイルズというイギリス人がこの難問中の難問を解いた。本書は、フェルマーの最終定理の証明に奮闘した数学者の軌跡を描いた物語である。クライマックスはもちろん、ワイルズがこれを証明するまでのプロセスであるが、古代ギリシアのピタゴラスから始まる数学の歴史とともに、フェルマーの証明に重要な役割を担った数学者の色とりどりの人生も描かれている。副題をつけるとしたら、さしずめ「最終定理をめぐる数学者列伝」といったところか。
 日本人にとって特にうれしい驚きは、谷山豊と志村五郎という2人の日本人による理論がこの証明の重要な契機となった事実であろう。「くたくたに疲れ果て、希望を失っていた」終戦直後の日本の数学界に飛び込んだ谷山と志村は、欧米ではすでに時代遅れであった「モジュラー形式」という分野の研究を始める。二人三脚で研究を続ける彼らはやがて、「すべての楕円方程式はモジュラー形式である」という予想を立てる。のちに「谷山―志村予想」とよばれるこの予想は、これが証明されれば、フェルマーの最終定理が証明されるだけでなく、数学のまったく異なる領域が結びつけられ、数学という学問を飛躍的に前身させるという実に革新的な発想であった。実際、ワイルズはこの予想を証明したことにより、フェルマーの最終定理を証明したのである。
 谷山は31歳の若さで自殺をするが、志村はその後も研究を続け、親友との共同予想にますます確信を強める。そしてついに、彼らの予想がワイルズによって証明される機会を迎える。その感想を求められたときの彼の様子は次のように描かれている。
 「志村は、穏やかに微笑むと、控えめに、しかし威厳をもってさらりとこう述べた。『だから言ったでしょう』」
 ああ、こんなところにも偉大な日本人がいた!戦後の貧しさの中から努力をして、世界から注目をされる研究をおこなう人材が数学の世界からも輩出されていたとは。しかも、賞賛を浴びてもおのれの偉大さをおごることなく、静かに笑って受け答えをする。真の日本人の美徳を備えた人物ではないか。本書はイギリス人が書き、イギリス人が主人公の本であるが、はからずも偉大な同胞の存在をわれわれ日本人に伝えることとなった。
 このほかにも、勝ち目のない相手との決闘の前に、自らがなした数学上の発見を一晩で書き残し、死んでいったフランス人エヴァリスト・ガロワ。女性の学問が認められていなかった時代に、卓越した才能と努力によりフェルマーの最終定理証明に大きな寄与をした女性数学者ソフィー・ジェルマンなど、本書には魅力的な数学者が数多く登場する。彼らに共通するのは数学に対する真摯な情熱である。これは、それを掻き立てる数学という学問そのものの魅力を反映しているのかもしれない。

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生きる力

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ゲゲゲの鬼太郎』の作者水木しげる(本名武良茂)の妻、武良布枝が自分と夫のこれまでの人生をふり返った自伝的エッセイ。いうまでもなく、現在放映中のNHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』の原作である。これを読むと、ドラマが大体において原作に忠実であることに気づかされ、ドラマの感動があながちフィクションでないことに喜びを覚えた。
 島根県安来町に生まれ育った引っ込み思案な女性が、30近くになって嫁いだ先は東京の調布に住む漫画家であった。お見合い後わずか5日で結婚をし、そのまま東京にやって来た彼女を待っていたのは、想像だにしなかった極貧生活であった。
 夫の茂は当時、貸本漫画で生計を立てていたが、斜陽だったこの仕事からはろくな原稿料ももらえなかった。だから生活は常に火の車で、電気代も払えず電気をとめられることもあったし、質屋通いもした。あまりの収入の少なさに税務署から脱税の疑いまでかけられる始末...。
 こんな生活でも、布枝がおとなしく水木についてきたのは、まじめに仕事に打ち込む夫への愛情と尊敬からだった。ある日彼女は、戦争で左腕を失った茂が片手だけで無心に描き続ける姿に胸を打たれる。「精魂こめてマンガを描き続ける水木の後ろ姿に、私は正直、感動しました。これほど集中してひとつのことに打ち込む人間を、私はそれまでに見たことがありませんでした。」
 これ以来、彼女には夫の努力を自分だけが知っているという誇らしい気持ちがめばえる。夫の代わりに出版社に原稿を届けに行き、そこでマンガの悪口を言われたあげく、原稿料も約束の半分しかもらえなかった時には、悔しくて涙が出たという。同時に、夫がどれほどの屈辱に耐えて仕事を続けてきたのかも知った。
 そんな茂も少年マガジンでの連載をきっかけに注目を集める。さらに講談社児童漫画賞の受賞で、その人気が決定的となったとき、布枝は思った。来るべきときが来た!と。これほど努力をしている水木が「世間に認められないまま終わるはずはない。」
 不屈の精神によって成功を勝ち取り、貧乏生活と縁を切った水木にも、その後仕事の依頼が減り、落ち込む次期があった。「いまの人は、目に見えるものしか信じない。オレがいままでやってきたことはムダだったのか。妖怪なんていないのかもしれない」と弱気になる水木を力づけたのは、次女とのなごやかな会話だった。その他さまざまな困難を乗り越えた水木夫妻は、現在ともにしあわせな老後を送っている。
 夫に対するこまやかな愛情が行間にあふれている本書には、水木しげるの人生哲学も妻の目を通して印象的に語られる。中でも心打たれたのが、水木が後年、色紙などに書くようになった言葉と、それを解釈する著者の視点である。
 その言葉とは、「なまけ者になりなさい!」とか「がんばるなかれ!」だという。布枝は、あれほどの努力家である夫が、努力を否定するようなことを書くことには納得がゆかなかったが、今はそれを次のように解釈する。
 水木は戦争を生きのび、貧困を生きのびた。生きる知恵や本能を働かせたからこそ、ここまで生きてこられたのである。くそまじめに努力をするだけだったら、今彼はここにはいないだろう。「生きる力」こそ大切なのだ。
 本書には、水木の好きな作家ゲーテの次のような言葉が挙げられている。
 「精神の意志の力で成功しないような場合には、好機の到来を待つほかない」
 のんびりと時期の到来を待とう―こんな暢気さが、努力を否定するかに見える水木の言葉の真意かもしれない。そしてこれもまた、布枝の言う「生きる力」ではないだろうか。

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紙の本動物農場 おとぎばなし

2009/07/26 23:10

普遍的価値をもつ社会主義国家批判の書

21人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 民衆の解放を唱え成立した社会主義政権は、どれも最終的には指導者個人や党の独裁を生み、民衆を解放するどころか以前よりもひどい搾取と隷属のもとに置き、より多くの不幸と悲惨を生み出した。これは、ロシア革命以来すべての社会主義国家に共通して言える歴史的事実である。
 ジョージ・オーウェルのこのおとぎ話は、そんな社会主義体制への痛烈な批判の書である。主人公は、農場の家畜たち。あるとき彼らは飼い主の人間を追い出し、動物一匹いっぴきがみずからの主人であるような社会の建設をめざして、「動物農場」を建設する。最初は、自由と平等の理想に燃え、共同社会の建設に励む彼らであったが、次第にナポレオンというブタが権力を掌握し...
 この物語で、作者が風刺の対象としたのは、スターリン体制下のソ連だが、そこに描かれた一般的状況は、現在の中国や北朝鮮にも完全にあてはまる。すなわち、民衆の洗脳。熾烈で醜い権力闘争。個人崇拝と恐怖政治...その他あらゆる自由の抑圧、不平等だ。物語では、ブタが支配者に、馬や鳥、羊など他の動物は彼らに指示されて働く存在となってゆくが、ブタの唱える理想を愚鈍なまでに信じて疑わない後者の姿は印象的である。殊に、力持ちの牡馬ボクサーのけなげに働く姿とその残酷な最期には、胸がしめつけられる。現実の社会主義国の支配者も、どれほど多くの無垢な人々を騙し、その誠実さを利用してきたことだろう!
 社会主義が必然的に独裁に向かうプロセスを、本書は実にうまく描いている。彼らはまず、耳に美しく響くイデオロギーを民衆に吹き込む。やがて強い権威をもつようになったこのイデオロギーを通じて、権力者は人心を掌握する。人々は、いつの間にか彼らの言いなりになり、ついには奴隷と変わらない生活を強いられるのだ。
 現代人はいいかげん、階級闘争や発展の概念でわれわれを惑わす社会主義の欺瞞から目を覚ますべきである。どんなに美しい理想も現実の国家を動かす車輪とはなりえないことを、それどころか、その美しい理想こそが詐欺師のようにわれわれを欺き、大きな不幸へと陥れる罠だということを、歴史は十二分に証明しているのだから。
 最近、このような理想を信奉する大昔の小説がブームになっているようだ。しかし、そういうプロパガンダ小説を紹介して、いまだに社会主義を標榜している政党の宣伝に手を貸すよりも、同じように古いが、いまだ価値を失わず、ますます強くわれわれの心にアピールするこの『動物農場』を、私は現代の若者に薦めたい。
 最後に、今回刊行されたこの新たな翻訳には、『出版の自由』と題された序文も掲載されている。これは、作者が戦時中に本書を最初に出版しようとした際、どの出版社からも断られた経緯を述べながら、ソ連寄りの当時のイギリスの知識人を批判した文章だが、現在の日本の知識層へもそのまま向けられるものとして注目したい。以下の文中、「ロシア」や「ソ連」をたとえば「中国」に、「英国」や「イギリス」を「日本」に変えて読んでみよう。
「英国には口やかましい平和主義者があれだけ多くいるというのに、ロシアの軍国主義への崇拝・・・に対して反対の声をあげられずにいる。・・・赤軍がするのであっても戦争はやはり悪である、と言い切った者が、彼らのなかにどれほどいただろうか。ロシア人には自衛権があるようだが、どうやらわが国が同じことをするのは大罪ということになるらしい。この矛盾を説明する方途はただひとつ。すなわち大多数のインテリゲンチャがイギリス人よりもソ連に愛国心をいだいており、そうした連中に迎合したいという、臆病な欲求によるものなのだ。」

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30代独身女性の可憐さ

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 社会の偽善や無理解、疎外感に疲れ、傷つきながらも、まじめに生きている未婚の三十路女たち。ヨガや気の合った友達とのお茶など、ささやかな幸せもある一方、恋愛も結婚もせず、歳をとっていく自分にいいようのない焦りを感じている。このヘタウマ風の漫画は、そんな彼女たちの静かな独り言集である。
 全体にほのぼのとした物語であるが、財産分与など妙に現実的な問題があると思えば、鋭い人間観察と優しい感性にあふれた言葉と絵には、思わず感心し、ホロリとさせられたりもする。
 たとえば、母と祖母三人で暮らすさわ子。たまの休みには兄の家族がやってくるが、彼らは痴呆で寝たきりになった祖母の部屋に顔もださない。さわ子は思う。「わからない人にはあいさつしないでいいって思ってる/わからないのは、いないのと同じ?」
 これを伏線とした最後の方の逸話―拾ってきた子ネコのミーちゃんがいなくなり、必死に探すさわ子と母親。やがて祖母のベッドの中で眠っているのを見つける。さわ子ははっとする。「そうだね、ミーちゃん/おばあちゃんあったかいもんね/おばあちゃんはずーっとあったかいんだよね/変わってないんだ/変わらないんだ/いろんな記憶が/なくなってしまっても/ミーちゃん知ってたんだね/あたりまえみたいに」
 人間である自分たちが、記憶を失った祖母のことをまるで存在しないかのように扱う一方で、ミーちゃんには祖母があたたかいということ、いっしょに寝ていたいと思うほどにあたたかいことは、あたりまえのことだった。自分たち孫もかつてはそれを知っていた。祖母はずっと変わっていない。私たちが勝手にもういないと思い込んでいるだけ。思わず涙ぐむさわ子―ラフな筆づかいだが、気持ちの伝わる絵である。
 本書の紹介文によると、作者の益田ミリは、“ふとした日常のつぶやきを五七五にした「つぶやき川柳」でも知られる”とある。なるほど、さりげない言葉で読者の心をつかむことができるのも道理である。30代の独身女性の心を可憐に感じた一冊であった。

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いろいろな楽しみ方のできる本

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 これは、読者の立場によりいろいろな楽しみ方のできる本である。
 まず『ローマ人の物語』シリーズを読んだことのない人には、入門書として。読んでいる最中という人には、現在読んでいる箇所についての理解を補う参考図書として。すでに全巻読み終えた人には、感動の場面を思い起こすよすがとして、それぞれ楽しむことができる。
 内容も多種多様で楽しい。まずメイン部分では、シリーズ各巻のあらすじ、読みどころを、関係した土地や史跡・史料のカラー写真をふんだんに用いながら、紹介している。
 その合間には、ローマ史上の人物やエピソードから特定のテーマによってベスト5を選ぶ「ローマ人劇場ベストV」という、ユーモラスで軽い読み物が挿入されている。例えば「愛する人はひとり。この女ひとすじ」では、皇帝ティベリウスやティトスの一途で哀しい恋が紹介され、「カエサルのここが好き」では、将軍や政治家としての彼ではなく、プレイボーイで伊達男としての彼が1位となっている。
 本書はまた作者、塩野七生の人と思想についても多くを伝えてくれる。巻頭グラビアでは、彼女とともにローマ市内を漫歩しながら、自宅の書斎などが紹介され、対談やインタビューからは、この作品にかけた彼女の思い入れや苦労、さらには彼女自身の哲学を感じ取ることができる。
 巻末には、非常にわかりやすい初級ラテン語講座もあり、いたれりつくせりの内容である。
 このように、本書が高い資料的価値をもちつつ、気軽に読め、よくまとまっているのは、『ローマ人の物語』自体の質の高さもあるが、やはりこれを企画・編集した新潮社の功によるところが大きいだろう。改めて、この不朽の名作に華を添えた同社の企画・編集能力を、讃えたい。
 長い長い物語の理解と感動をさらに深めるために、全15巻とともにいつも手元におきたい本である。

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最後の泣き笑い

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ローマ人の物語』最終巻が取り扱うのは、テオドシウス帝の死から、帝国の東西分裂、西ローマ帝国の滅亡を経て、6世紀なかばまでの時代である。東ローマ帝国は1453年まで続くが、この国は本来のローマとはまったく異質のものである。というわけで、このシリーズ、泣いても笑ってもこの巻で終わりである。「泣いても笑っても」は誇張ではない。そこには悲哀ばかりではなくある種の感銘やおかしみもあるからだ。
 第1章「最後のローマ人」の主人公は将軍スティリコ。テオドシウスから後継者である2人の息子の面倒を託された彼は、蛮族侵入、反乱、宮廷の腐敗のなか、懸命にローマを立て直そうとする。もっと楽に権力を利用する方法はあったはずだが、前帝との約束を律儀に守り、少年皇帝たちを支え続けた。結局彼は、宮廷内の讒言にあい処刑されてしまう。ゲルマン人を父にもつスティリコが後世「最後のローマ人」と呼ばれるのは、死にゆくローマ社会の中で、彼だけがかつてのローマ人気質をもっていたからであろう。塩野は蛮族と文明人という言葉を躊躇なく使い、両者を分ける一つの基準を「信義」つまり約束を守る態度に求めているが、これは建国当初からローマ人が重視してきた徳目であった。
 余談ながら、本巻での蛮族すなわちゲルマン人の侵入に関して、塩野は「歴史研究者の中にはこの現象を、蛮族の侵攻ではなく民族の大移動であると主張する人がいるが、かくも暴力的に成された場合でも「移動」であろうか」と問いかけている。
 それが実際、どれほど暴力に満ちたものであるかは本書の記述からも窺える。たとえば、ゲルマン人たちは女子供もローマ帝国領内へ侵入したが、これら「か弱き者」による略奪や殺戮の方が、兵士による以上の被害をもたらした。当然彼らのうちには被害者も多かったが、人的被害に対して敏感なのは文明の民だけで、蛮族は同胞の死に対して無頓着である。それがまた彼らの強さの要因でもあった...つまり、老若男女問わぬ無法者集団があらんかぎりの略奪と殺戮をおこなったのが、「ローマ末期の民族大移動」なのであった。
 今も歴史教科書の多くは、この集団的破壊行動を「民族の大移動」と形容している。他方、日本の大陸進出は、インフラ整備など現地にあたえた恩恵を無視し、「侵略」と一方的な表現で呼ぶ。塩野のひと言は、このような矛盾に一石を投じるものとして評価したい。
 さて、スティリコの死後、西ローマ帝国は蛮族の天下となる。二度にわたる首都ローマ劫掠に加え、いたるところでゲルマンの王国ができ、帝国の支配は事実上イタリア半島のみとなる。476年にこの国の息の根をとめたのは、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルであった。しかし意外なようだが、彼が西ローマを滅ぼした者とされるのは、単に彼が自ら皇帝を名乗らなかったためである。しかも滅亡に際して、国内には破壊も混乱もなかった。オドアケルはその後立派な統治を行い、彼を殺して権力の座についたテオドリックもまたそれを踏襲した善政をおこなったという。つまり西ローマ滅亡後のイタリアでは、これら蛮族によって平和が保たれたのである。これを塩野が「蛮族による平和」(パクス・バルバリカ)と呼んでいるのは、おもしろい。
 しかし平和は永遠ではなかった。テオドリックの死後、イタリアは分裂状態となる。ローマの故地イタリアを完全に滅ぼしてしまうのは、皮肉にもこの地を奪還すべく兵を送った東ローマ皇帝ユスティニアヌスであった。彼の夢は一時実現したものの、結局はくじかれ、その後イタリアは正真正銘の蛮族であるゴート族とランゴバルド族に、かわるがわる侵略され、暗黒の時代へと入ってゆくのである。
 最後に泣きごとは書くまい。本書中思わず笑ってしまった箇所を引用して、本シリーズの書評を締めくくりたい。オドアケルによって退位させられた皇帝の名は、ロムルス・アウグストゥス。「西ローマ帝国最後の皇帝は、ローマ建国の祖とともにローマ帝国の祖の名をもつようになった。」

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紙の本ローマ人の物語 9 賢帝の世紀

2007/08/22 15:57

平和についての透徹した視点

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ローマ人の物語』もいよいよ、ローマ帝国の最盛期にして「人類が最も幸福であった時代」(ギボン)、すなわち五賢帝時代に突入する。しかし、本巻の目次を見てだれもが気づき、不思議に思うだろう。ここで扱われているのは、五賢帝の最初の三人、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌスだけである。残りの二人、アントニヌス・ピウスと賢帝中の賢帝マルクス・アウレリウスはどうしたのか?
 『賢帝の世紀』と名づけた本巻に、作者の塩野がこの二人の皇帝についての記述を入れず、一巻はさんだ次の巻(第11巻)にそれを移したのはなぜか?私はこのような構成を、「平和とは何か」に関する透徹した視点の表れと見なしたい。すなわちそれは、平和とは決して手放しで得られるものではなく、不断の努力によって勝ちとられるものという視点である。
 次皇帝への橋渡しをしっかり行った点においてのみ賢帝の名に値するネルヴァは別として、トライアヌス、ハドリアヌス両皇帝は、平和の中にあっても常に国家の防衛という皇帝にとって最大の責務の一つ(その他の責務は国民の食と安全)を怠らず、治世のほとんどを外征、帝国防衛線(リメス)の強化、視察に費やした。殊にハドリアヌスは、その在任中に大きな外憂は存在しなかったものの、常に各地の軍隊を回り、補強すべき箇所があれば直ちに補強させていた。(ハドリアヌス城壁はその典型。)
 その一方で、彼らの私生活にはどちらも美少年たちの影がつきまとったが、ギリシア人とは異なり男色を嫌悪するローマ人には、これらがスキャンダラスにとらえられる。またハドリアヌスは晩年、頑固になり、その奇妙な振る舞いから民衆に嫌われる。死後は、あやうくカリグラ、ネロ、ドミナティウスに続く記録抹殺刑に処せられるところを、アントニヌス・ピウスの懇願でそれをまぬがれた。
 彼らに続くアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウスは、ともに内政を立派にこなし、ローマに善政をほどこし国民から愛された。「ピウス(敬虔なる)」というあだ名からもわかる温厚なアントニヌス、哲人皇帝としても知られ知情意のバランスのとれた人格者マルクス。為政者としても人間としても申し分のない二人であったが、彼らが前二皇帝と大きく異なる点は、帝国防衛への取り組みであった。
 アントニヌス・ピウスは皇帝在任中、ローマをほとんど離れず、帝国防衛線への視察などいっさい行わなかったという。またアントニヌスの婿養子であったマルクスも若い頃に、次期帝位が確約された身でありながら、各地の軍隊を回るなど辺境防衛の実際を学ぼうとはしなかった。親子としてローマ市内にいっしょに住み、多くの子と孫に恵まれた二人のマイホーム主義―自己の責任を果たしたうえでのもので非難すべき態度ではないが―その幸せのかげで彼らが怠っていたものがあるとすれば、それこそ帝国の防衛であり、マルクスが皇帝になった途端に辺境で生じた数々の動揺も、長い平和に安住したこのような怠慢に原因があったのではないか?
 以上、アントニヌスとマルクスに関する議論は、本巻ではなく主に11巻でくりひろげられるものであるが、賢帝と一言でひっくるめられている五人の皇帝のあいだに一線を引き、国家防衛のありかたについて重大な示唆をあたえる塩野の歴史認識とその描写方法には、舌を巻くしかない。本書と第11巻とを読み、平和の時代における二種類の政治姿勢を比べてみることは、平和を享受して60年、「国防=戦争と暴力」としか考えられなくなった我が国の多くの国民にとって、国を守ることの意味を深く考えさせてくれることだろう。そういう点でこれらの二巻は、日本人必読の書!と断言したい。

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人類にとって本当に大切なことを考え直すきっかけに

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 著者の武田邦彦氏は最近、福島第一原発の事故に関しても忌憚なき意見を述べ、今なお話題にのぼる人物である。風評やマスコミの報道により誤って形成されたデマの正体を、科学者の立場から明らかにしているその態度は、2008年発売の本書においてもうかがわれる。
 およそ現在エコロジーと称して国民に課せられた数々の法的、道義的規制のほとんどが、武田氏によれば偽善であり、多くの場合その努力は有害でさえあるという。
 曰く、レジ袋の不使用を勧めるのは企業がエコバッグという商品を購入させるために生み出したデマにすぎず、石油資源の有効利用のためには、むしろレジ袋をどんどん使うべきである。同様に、割り箸も遠慮せずどんどん使うことで林業における木材の無駄が減り、産業の活性化ひいては真の環境保護につながる。
 地球温暖化にいたっては、そのような主張のそもそもの発端がアメリカのアル・ゴア氏のオーバーな警告に満ちた著書や映画にあることを指摘し、彼が温暖化の象徴としてあげているツバルという南太平洋の島における水位の低下がアメリカによる無計画な開発の結果生じた地盤地下によるものだと示唆する。
 武田氏の主張のいくつかは実際、最近になってその真実性が認識されてきている。たとえば彼は、とうもろこし由来の新燃料バイオエタノールは、食べ物を燃やすという倫理にもとる行為によって生み出されたものであり、先進国のエゴのため、発展途上国のさらに多くの人々が飢える原因を作っていると断罪する。そして、それについては最近マスコミでも大いに指摘されている。
 武田氏の語り口はおだやかで、かつ明快である。それでいて、良識の代表のごとく環境保護を訴える人々への批判は辛らつだ。特に、マスコミ、それも公共放送として国民から視聴料を巻き上げ、その金で膨大な電気を消費し、不必要な番組を膨大な量のチャンネルでたれ流すNHKへの批判は聞いていて溜飲が下がるというか、実に痛快だ。
 ―2008年には、とあるテレビ局が地球温暖化を防ごうという大規模な放送をやっていました。番組で多額な年報をもらい、高級車に乗り、豪華な自宅に住み、冷暖房を十分につかっている人が、「江戸時代はロウソクも節約していました、みなさん、慎ましい生活をして温暖化を防ぎましょう」と呼びかけていました。それを見ていて、私は少し気分が悪くなりました。豪華な生活も悪くはありませんが、自分が節約していないのに、他人に節約を呼びかけるのはどうでしょうか。―
 私も、武田氏の言説すべてが正しいと主張するつもりはない。彼の立場を批判する意見にも大いに耳を傾けるべきだろう。しかし、今までのようにエコと叫べば、水戸黄門の紋所さながら国民がひれ伏すというような風潮だけは断ち切らねばならない。そういう意味で本書はだれにとっても、エコロジーとは何か、人類にとって本当に大切なことは何かを考え直すきっかけにはなるはずである。

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紙の本まっ白な噓

2009/06/29 20:22

オチの妙技

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 フレドリック・ブラウンというと、私も『未来世界から来た男』や『スポンサーから一言』といったSFの短編集を中学時代、よく読んだものである。
 そんな懐かしい作家の復刊本が出たことをこのBK1で知り、購入した。(品切れでしばらく待たされるほどの人気!)SF専門の作家とばかり思っていたから、ミステリの短編集であることがまず意外であった。しかも内容的には、トリックあり、完全犯罪あり、どんでん返しあり、とさまざまなスタイルの作品が楽しめた。
 収録17作品のどれも、作者が得意とするオチがきいている。何がオチなのかわからないものもゆっくり読み返すとわかったりして、これもブラウン作品の楽しみ方の一つかもしれないと思った。中には、「むきにくい林檎」や「カイン」のようなぞっとするものもあれば、表題作「まっ白な嘘」のように夫婦間の秘密をユーモラスに描いたものもある。「暗闇の女」は、おもわずニヤリとするオチをもっているだけでなく、そのほほえましいストーリーゆえに、私の一番のお気に入りである。
 それにしても、裏表紙に書かれた紹介文には、だれもが興味を惹かれることだろう。
 ―最後の作品「うしろを見るな」だけは、最後にお読みください。というのは、あなたがお買いになったこの本は、あなたのために特別の製本がしてあるからです―
 言われたとおりこの作品を最後に読み終えたとき、思わずうしろを見なかった人はえらい。(?)

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紙の本ローマ亡き後の地中海世界 上

2009/02/11 02:21

海賊、拉致...現代日本にもかかわる重大問題

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 西ローマ帝国が崩壊し、ゲルマン人の移動がひと段落した8世紀以降、西ヨーロッパの人々を恐怖のどん底におとしいれたのが、地中海の反対側、北アフリカからやってくるイスラムの海賊だった。彼らは聖戦の名のもと、おもにイタリア・フランスの海岸地帯を襲い、キリスト教徒に対する略奪、拉致、殺害を幾世紀にもわたって繰り返した。彼らによって拉致された者たちはほとんどが奴隷となり、悲惨な人生を送った。
 中世の地中海におけるイスラムの海賊については、私も本書を読むまではその存在さえも知らず、彼らの蛮行と被害者の不幸についての記述にはただショックをうけるばかりだった。ローマ人の物語全15巻を書き終えた塩野七生が、西ローマ滅亡後の地中海世界の悲惨をここまでえぐりだした理由は、パクス・ロマーナに象徴される平和と秩序の意味を、その反転としての無秩序と混乱と対比させることで、より鮮明に浮き立たせることにあったのではないかという気がする。
 悲惨な物語はそれでも、数々の感動的な出来事も伝えている。
 シチリアは、海賊のたび重なる攻撃により9世紀にイスラム教徒の手におちるが、それをふたたび、キリスト教徒の手に戻したのは、11世紀にその地を征服したルッジェロ率いるノルマンの騎士たちであった。しかし征服後、彼らはイスラムの住民を一切差別せず、イスラム教徒が異教徒に課したような重税も課さず、完全なる信仰の自由と平等を全住民に保証したという。両シチリア王国として教科書にも登場するノルマン人の国家はこのように、いにしえのローマと同じく宗教的にはすこぶる寛容であった。ノルマン人とは、一般に「ヴァイキング」と呼ばれた中世の典型的な海賊のことなのだから、なおのことおもしろい。のちに第五次十字軍を率いながら、イスラム教徒の血を一滴も流さず、巡礼者の保護など平和的な協定をイスラム側と結んだ神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世も、このシチリア王国で育った人間の一人であった。
 そして、限界状況においてこそキリスト教の愛の精神は真に試され、また強い力でもってそれが発揮されうることの大きな証しともいえるのが、海賊による拉致被害者を救う団体の涙ぐましい活動である。フランス人修道士マタの始めた救出修道会と、スペイン人騎士ノラスコの始めた救出騎士団二つの団体はともに、ヨーロッパ中の教会や信者から寄附を集め、それを身代金として、北アフリカに奴隷としてとらわれている名もない人々を数多く救出した。時には救出者自らが人質となったり、宗教上のいざこざ、航海中の事故(彼ら自身海賊に出会う危険と隣り合わせである!)等で身の危険を伴う仕事を彼らは、ただ苦しんでいるキリスト教徒を救わんがためにおこなった。実際、救出者の多くがこの活動を通じて命を失った。
 この活動には当然ながら、身代金目当ての海賊行為を間接的に助長しているというジレンマがつきまとう。実際、教皇が彼らへの寄附の奨励をやめた時期もあったが、それでも彼らの献身的な救助活動は、その後も長く続けられたという。
 最後に一言。本書で扱われているのは、遠い時代の遠い国の出来事などでは決してない。北朝鮮による拉致被害、ソマリア沖の海賊船被害と、程度の差こそあれ、国民の生命・財産をおびやかす同様の事態に直面している点では、現代の日本も同じである。本書に描かれた悲劇を深刻にとらえるならば、これらの問題に安穏とした態度でのぞむことはもはやできまい。

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紙の本科学の方法

2008/09/30 23:44

哲学的示唆に富む科学論

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「今日われわれは、科学はその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも、そういう感じはしたのである。その時に、自然の深さと、科学の限界とを知っていた人たちが、つぎつぎと、新しい発見をして科学に新分野を拓いてきたのである。科学は、自然と人間との協同作品であるならば、これは永久に変化しつづけ、かつ進化していくべきものであろう。」
 このような言葉で結ばれた本書が出版されたのは、昭和33年。この言葉通り、その後の自然科学は、分子生物学、宇宙科学、情報科学などあらゆる分野でめざましい発展をとげた。そして、今もこの言葉の真実性は失われてはいない。
 タイトルの通り、本書は実験・観察・理論といった科学の方法を素人にもわかるように論じたものである。著者自身はこれを、哲学的な意味での方法論ではないとしているが、それでも哲学的示唆に富む内容となっている。
 たとえば、科学が対象としうるのは再現可能な存在のみという議論に関連して、幽霊が科学の対象とはなりえないことの根拠が論じられる。「再現可能というのは、必要な場合に、必要な手段をとったならば、再びそれを出現させることができるという確信が得られることなのである。幽霊はそれを再現させる方法について、確信が得られない。」なるほど、幽霊の出現が確実に予想できたら、それは幽霊ではなくなってしまうだろう。不確定で神出鬼没な存在だからこそ、われわれは独特の恐怖と神秘とをもってそれを幽霊と認識するのだ。上の記述は、逆に幽霊という現象の本質を開示してくれたような気がした。
 本書ではまた、科学的認識というものを、自然の中に埋もれた「真理」を掘り起こす作業ではなく、むしろ自然と人間の協同作業であるととらえている。すなわち、ニュートンの万有引力の法則であれアインシュタインの相対性理論であれ、あらゆる科学理論は、それ自体絶対的な真理を人間にもたらすものではなく、自然現象を人間の認識に合うよう構築しなおしたものにすぎないというのだ。人間の認識能力が真理そのものを捉えることができないというこの主張は、悲観的な考えに映るかもしれないが、決してそうではないと私は思う。むしろこのような視点こそが、人間を謙虚にし、科学を盲目的に信奉したり、逆に極端な懐疑へと陥ることを防いでくれるものではないか。
 本書でとりあげられる自然科学各分野のさまざまな題材にもまた強く惹きつけられる。たとえば、物質とエネルギーが究極のところでは同一であるという相対性理論から導き出された自然観。生物の科学についても、哲学者ハックスリの議論を援用しながら、生とは死とは何か、あるいは生物における個体とは何かについて考えさせてくれる。特にクラベリナーという奇妙な生物についての話はおもしろく、興味は尽きない。
 しかし、本書において碩学中谷宇吉郎が何よりも示したかったことは、次の問題ではないかという気がする。すなわち、科学は何ができるのか、そして何ができないのか?カントが理性について吟味したように、彼は本書において、科学の可能性と限界とを明らかにした。そして、現代に生きるわれわれに、科学の力を過信したり、その成果に満足することなく、常に謙虚かつ前向きに進むべきだと、教えてくれているような気がする。その意味で本書は、自然科学を志す人だけでなく、広く教養を身につけようとする人にとって必読の書であると思う。

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紙の本スーホの白い馬 モンゴル民話

2006/11/15 13:13

情操教育に最適の本

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 幼少の頃読んだ絵本で、懐かしく思わず買ってしまった。
 スーホはモンゴルの平原を走り回るひつじかいの少年。ある日彼は、母親とはぐれた白い子馬を拾ってきて、それを大事に育てる。やがて白い馬は立派に成長をする。スーホと馬はどこに行くにもいっしょだった。ある日スーホは、この馬とともに地元の競馬に参加し、そして優勝をする。しかし、悪どい殿さまが、スーホから馬を奪い、スーホにも痛い目にあわせる。殿さまのところから逃げ出す白い馬。しかし、スーホのもとに戻ってきたとき、馬は体中に矢を浴びていた...
 この本は、馬頭琴という今日、日本でもよく知られたモンゴルの民俗楽器についての言い伝えを絵本にしたものである。モンゴルの雄大な風景、そこに生きる人間や動物たちのいきいきとした動きが大胆なタッチで描かれている一方、喜び、悲しみ、怒り、安らぎといった感情の変化が繊細に表現されている赤羽末吉画伯の筆はみごとというよりほかない。少年と白馬との悲しくも美しい友情の物語とともに、ページ一杯に広がるこれらの美しい世界は、少年少女の心に鮮やかな印象を残さずにいられないだろう。40年の時を越えてこれを手に取った私自身そうだった。
 美しいものに感動し、他人の感情に共感できる心を子供たちの内に育み、また愛する者を忘れず思い続けることの意味などを教えてくれる、そういう意味で、この遠い異国の遊牧民の物語は、情操教育に最適であろう。母親の腕の中で読み聞かせてあげたい本である。

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