サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年6月)

-さんのレビュー一覧

投稿者:-

32 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本死霊 1

2003/02/19 11:53

「日本初の形而上学小説」がついに文庫化された

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 埴谷雄高(1911-1997)の作品はこれまでどれひとつ文庫化されたことがなかった。死後はや五年、まさか彼の代表作『死霊(しれい)』が文庫で読めるようになるとは驚きである。第1巻では第1章から第3章までを収録。全9章だから、予定で行けば3分冊になるのだろう。存在論、革命論、神秘主義、思考実験などのカオス(混沌)とでもいうべきこの前代未聞の小説は、1945年から1995年にかけて断続的に発表され未完に終わった、文字通りのライフワークである。四人の異母兄弟を中心に繰り広げられる、全存在の革命とは何かをめぐるめくるめく5日間の出来事を、極めて美しい詩的表現で書き綴っている。難解であるにも関わらず、そこには哲学的な制約に縛られたアカデミズム臭さはない。学問的伝統の遺産ではなく、あくまでも自分の言葉で表現するという姿勢が(かといってそれは遺産を無視しているというわけではない)、かえって本書を一種の独自の哲学たらしめ、同様に一冊の「美学」たらしめている(じっさい埴谷は東西の哲学的教養においても抜きん出ている)。第3章までの展開はいわば序幕と言える。主人公の三輪与志が自らの生(あるいは死)の出発点に選んだ「自同律の不快」への異様な執着。神出鬼没の行動力で、反社会的な革命理論を滔々と語り続ける首猛夫の企み。本書は冒頭に掲げられた銘のように「悪意と深淵の間に彷徨いつつ/宇宙のごとく/私語する死霊たち」の終わりなき物語なのだ。それは、四人がそれぞれの革命思想を披瀝する独白の世界(あるいは反世界)である。埴谷雄高の本名は、般若豊という。珍しい名前だが、彼は先立った妻との間に子供をもうけなかった。彼の血を継ぐものはいない。『死霊』の世界は、独身者の、とりわけ男性という「子を産まぬ性」の弧絶した叫びに彩られているように思える。

 願わくば、同社の埴谷雄高全集第3巻『死霊』へ本編と一緒に収録された第9章の「結末」の未定稿や「新版への自序」「最新版への自序」、第11巻に収められた断章群、第19巻に収められた未完の第4章の初出稿、さらに最晩年にNHKの特番製作のために語られたロング・インタビューの書籍化『埴谷雄高独白「死霊」の世界』などをすべて合本して、文庫第4巻を編んで欲しいものだ。全集第3巻の解題で白川正芳氏が明かした、第9章以後の衝撃のプロットもぜひ収録して欲しい。ようするに、埴谷の「死霊」プロジェクトの全貌を、こうしてより広い読者に提供するための文庫化のいまこそ、まとめて見せて欲しいのだ。率直に言えば、『死霊』の単行本は、古本屋でよく目にするし、値段も安い(下手をすると文庫より安い)。つまり、従来と同じ内容の文庫化では売行きにも限界があるはずだ。そのあたりを講談社がよくよく勘案してくれればいいと思う。なお、この文庫第1巻には小川国夫氏のあとがきが付されており、深い印象を読む者に残す。第5章「夢魔の世界」(文庫第2巻に収録されるだろう)に出てくる革命集団内部のリンチによる同志の死刑場面について言及しているあたりは、極めて現在的な意義を有する問いかけであると思う。さらに、この紹介文を読んでいる皆さんには、当サイトでも大いに活躍された名物編集者の故・安原顕氏が全集完結に際して寄せたコメントも、ぜひ読んでもらいたい。いかにも氏らしい愛情溢れる一言一言がこれまた印象深く、忘れがたい。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年2月18日分より。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

21世紀の偉大な「抵抗と革命の書」、ここに完訳なる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ついに刊行である。これだけ前評判が高いのは、思想書では本当のところ、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』以来ではないか。実際、ネグリ=ハート組と、ドゥルーズ=ガタリ組をつなぐ線というのもある。ネグリはドゥルーズのスピノザ論やマルクス読解に大きな関心を示してきたし、ドゥルーズの方もネグリのスピノザ論の仏訳版に序文を寄せているほどだ。ガタリとネグリには共著(『自由の新たな空間』朝日出版社、絶版)があるし、ハートには『ドゥルーズの哲学』という著書がある。ドゥルーズ=ガタリがマルクスとフロイトの再読解を軸に、資本主義社会への抵抗線を描いたのが上記の二書であるとすれば、ネグリ=ハートが共産主義の旧弊を打ち破りつつ、世界資本主義へのオルタナティブ(代替案)を提示したのが、この『帝国』である。911以後のグローバルな現実に介入するためのもっとも強力な実践的思想書として『帝国』は出現する。いわゆる「世界新秩序」に異議を申し立てるがゆえに、本書は保守派政治家から危険視されることになるだろう。さらに、西欧政治思想の系譜の斬新な再解釈ゆえに、アカデミックな保守派からも敵視されるだろう。もちろん本書を読む上で、一連の政治経済学書を読み込んでおかなければならないということはない。ドゥルーズ=ガタリの著書がそうであったように、本書もまた、予備知識なしでただちに読まれうることを暗黙の前提としている。ここでは様々な新しい概念が提出されている。中でも世界新秩序の異名である「帝国」、社会変革の民衆的主体である「マルチチュード」などが重要だが、そのほかのもっとも特徴的なもののひとつ「ポッセ」がある。ポッセとは、ラテン語で「力を持つ」という動詞である。かつて西欧ではこのポッセを、エッセ(在る)とノッセ(知る)とともに、重要な価値とみなしていた。こんにち、ネグリ=ハートはこのポッセを、「知と存在をともに編み込む機械」であり、抵抗のシンボルであるとみなしている。このポッセの「力」とは、ゲバルト(暴力)ではない。搾取に抵抗し、民衆の自律的な協働を目指す力である。それゆえに、本書は911以後のあらゆるテロリズム(アメリカの一国主義的な対テロ戦争も含む)の暴力に反対する「力」となり、さらに世界資本主義によるグローバルな抑圧に対抗する、現実主義的な闘いの「力」となるのだ。ヒントが満載の本書は、今日から明日への勇気の糧となる、希望の書である。現代人必読必携だ。

関連書 『現代思想 Vol.31−2 特集=『帝国』を読む』

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年1月28日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「9・11」前後の世界を語るためのキーワードはすべてここにあった(前編)

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 約20年前に刊行された本(原著1984年刊)だが、非常に新鮮だ。同年にヴィリリオは、『クリティカル・スペース』(未訳)と『戦争と映画』(平凡社ライブラリー)も発表しており、訳者の言う通り、「多産な年」だった。私見だが、ヴィリリオは90年代以後の著作より、70年代、80年代の著書の方が、がぜん面白い。なぜだろうか。もちろん日本への輸入のされ方に影響されている部分もあるが、何より彼の理論的基礎がすでにこの1984年でほぼ完成し、見事に花開いているからではないか。特に本書はそのピークになっている。90年代の彼の著書はこの1984年までの成果を基礎として展開している応用篇であると言えようが、激動する時流は彼の文明論的「警告」を陳腐化するほどに荒み、あるいは分散してきた。微細に「いま」を語ろうとすればするほど、彼の思想の大局的真価は擦り切れ、解体し易くなる。しかしそれは彼の立論の枠組みが古くなったからではない。1984年に至るまでのヴィリリオの理論的成果は、「いま」の底流に流れる人間の傲慢さやテクノロジーの危険性を正確に射抜いている。本書が古びないのはそうした底流へのまなざしがあるからである。

 どちらかと言えば自著に序文や緒言といったものを付さないヴィリリオだが、本書巻頭を飾る「緒言」は自伝的な趣きがある。絵画の製作に没頭していた頃の自分を振り返りつつ、静物模写をする自分がやがて、事象を運動において見、かたちやものではない、目に見えぬ「あいだ」を注視するようになり、世界観が変わったと告白している(若い頃、彼は確かジョルジュ・ブラックに師事していた一人のアーティストだったはずだ)。彼独特の認識方法に貫かれた本書は、読者に言い知れぬ知的緊迫感をもたらす。ヴィリリオは現代社会を「速度」という観点から見る。科学技術は社会のあらゆる場面を効率的に「速く」する。これをヴィリリオは「ドロモクラシー(走行体制あるいは速度体制)」と表現している。光学的な速度に収斂していくこの速さは一種の暴力であり、人間の判断力の余地を縮減する。待ったなしの緊張の中、圧倒的な高速度の中で、人間は生ける屍となることを余儀なくされる。「速度の暴力とは皆殺しをする力にほかならない」とヴィリリオは指摘する。速度は純粋状態における戦争(=純粋戦争)であり、宣戦布告なき絶対戦争であり、内外における戦争の常態化である。「実際に戦争をおこすことはできないからひたすら包括的兵站術が準備され、それが本当の世界戦争のかわりになる」。現代人はそうした全世界的な緊急事態に包囲され生きている(死んでいく)のである。

後編につづく

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

イングランド大衆はこうして立ち上がる。畢生の大著の完訳。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イギリス新左翼思想史における一大金字塔の、待望の全訳である。底本は1980年版だが、初版は1963年。当時、著者はまだ38歳だった。5年後には最初の改訂版が廉価なペーパーバックで出版されている。本書は、1790年代から1830年代までの産業革命期のイングランドにおける大衆労働運動の成立過程を描いた大著で、邦訳書では、注や索引を含めると1358頁にもなる。ほとんど『広辞苑』なみの分厚さに、思わず身震いが出る。代表者2名を含めた、翻訳に関わった研究者9名に敬意を表したい。企画から実に16年の歳月を経ての完成である。トムスン(あるいはトンプソンとも表記される)の著書は日本では60年代から何冊か翻訳紹介されてきているが、単独著はすべて品切で、入手が難しい。彼は60年代には新左翼思想の担い手の一人として、80年代には反核運動家として認知されてきたが、どちらかと言えば一般読者からは徐々に忘却されつつあった。そして、90年代におけるカルチュラル・スタディーズの流行とともに、トムスンの名は、リチャード・ホガートやレイモンド・ウィリアムズらとともに、その思想的源流に位置する立役者として遡行的に再認識されるが、すでにその時には単著の邦訳は入手不可能だった。今回の全訳は、そうした延長線上に、流行にも忘却にも左右されぬひとつの壮挙として、出版された。まさしく事件である。

 インテリたちの歴史ではなく、無数の大衆、労働する民衆の不屈の精神の歴史。それが本書の描く主題だ。ふたつの序文(初版と1980年版)と、ひとつのあとがき(1968年版)、そして3部16章立ての本文からなる。政治結社ジャコバン派や、非国教派勢力であるメソジスト教会、機械取り壊しを通じた団体交渉運動ラディズム(ラッダイト運動)といった歴史的潮流をかたちづくる底辺には民衆が、なかんずく労働者がいた。「影響力を誇っているさまざまな正統派の研究の重圧に抗して書く」ことを意識した、とトムスンは述べる。「私は、貧しい靴下編み工や、ラダイトの剪毛工や、「時代遅れ」の手織工や、「空想主義的」な職人や、[異端的神秘主義宗教家の]ジョアンナ・サウスコットにたぶらかされた信奉者さえも、後代の途方もない見下しから救い出そうと努めよう」と彼は決意したのだ。「新しい産業主義にたいする彼らの敵対行為は退嬰的であったかもしれない。彼らの共同社会主義[コミュニタリアン]の理想は幻想であったかもしれない。彼らの叛乱の謀議はむちゃであったかもしれない。しかし、こうした激烈な社会的動乱の時代を生き抜いたのは、彼ら」なのだ。そして、彼らの経験は、今なお進展する高度な産業社会のさなかで民主主義政治のありようを模索する現代人の経験に相通ずるものがある、と著者は指摘する。本書はその大きな影響力ゆえに、熱烈な議論と批判を巻き起こしたが、主な批判には「あとがき(1968年版)」で応答している。トムスンは残念ながら、10年前(1993年)に逝去しているけれども、このたびの完訳書によりいよいよ本格的なトムスン再評価が始まることを信じたい。本書はトムスンの教え子であった無名の労働者学生2名に捧げられている。日本でそうした無名の学び手が購入するには確かに高価な書物だが、恐らく着実に読者層は広がっていくだろう。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年6月3日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本完訳キーワード辞典

2003/06/03 19:03

分かったつもりで使っていた術語をあらためて見直してみる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1983年刊行の原著第2版の完訳である。初版の邦訳『キイワード辞典』(岡崎康一訳、晶文社、1980年)の品切から長い時間が経っていただけに、ようやくこのイギリス・マルクス主義批評の古典的名著が再び読めるようになったことを喜びたい。ウィリアムズは周知の通り、イギリスのニューレフト(新左翼)を牽引した知識人として知られている社会思想家・作家・演劇研究家であり、カルチュラル・スタディーズ(CS)の牙城であるバーミンガム大学現代文化研究所の初代所長R・ホガートや、歴史家のE・P・トムスンと並び、CSの先駆者と見なされている。本書は、世代や家庭環境や社会関係などによっておのずから異なる無意識的な「言葉遣い」の違いに着目し、辞書的権威に依存せず、文化の歴史的動態を反省するためのメモランダムとして、1976年に出版された。この初版では110の最重要術語について、語源から意味の変遷までを解説する。本書の底本である第2版では21の術語が追加された。著者自身の説明によれば、本書は「わたしたちが『文化』と『社会』として分類するさまざまな実践と制度について、英語で行なう、きわめて一般的な議論において共有されている言葉と意味の集合体」である。これらの術語群が「キーワード」と名付けられたのは2つの意味があるという。「ひとつは、これらの言葉がある種の活動とその活動の解釈を連結する重要な言葉になっているという意味」であり、「二つめは、これらがある思想形態において、重要で暗示的な言葉であるという意味」である。本書はもともと彼の著書『文化と社会』(ミネルヴァ書房、品切)の付録として構想されたものだったが、20年以上にわたる収集と研鑚、選択によって一冊の本となったわけである。議論する際に一般的によく使う言葉でも、その意味内容が話者の間でかならずしも同一ではない場合、同じ語彙を使っていながらしばしば話者同士の意味付けの違いによって議論が錯綜してくる、といった事態はしばしば起こるものだ。本書が刊行後数十年を経ても古びないのは、収録された語彙が一過性の流行語ではなく、長い歴史を持つ基本的術語だからであり、それらの言葉の来し方についてじっくりと調査したためだろう。こうした研鑚は生半可にできるものではないし、類書がありそうで無いのはむしろ本書の成果が得がたいものだからである。アルファベット順に配列されており、例えばTで始まる項目なら、taste(趣味・審美眼・味・嗜好)、technology(テクノロジー・科学技術)、theory(理論)、tradition(伝統)といった語彙が収録されている。それぞれの言葉は常に別のキーワードへと参照されており、一種の思考マップとでも言うべき体裁である。ウィリアムズの業績を再評価する丁寧な「訳者あとがき」と、興味深い「参考文献」など、読者の便への配慮もうれしい。必読書である。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2002年9月9日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

英米語圏の論壇が見えてくる、もっとも充実した「9.11」論集

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「9.11」関連書籍が数多く刊行されているにもかかわらず、海外の複数の論調まとめて見ることのできるアンソロジーはさほど多くなかった。中山元編訳『発言』(朝日出版社)や同氏の著書『新しい戦争?』(冬弓舎)はそうした中で貴重な情報源だったが、今回邦訳された『衝突を超えて』は、「9.11」をめぐる英米語圏の論壇をより広範に見渡せる、これまででもっとも充実した論集であると評価できる。執筆陣はいずれも国際政治論の第一線を担う識者ばかりで、アメリカから15名、イギリスから13名、オーストラリアから2名、インドとシンガポールから各1名の、合計32名の論考が読める。フランシス・フクヤマやJ・B・エルシュテイン女史のような対テロ戦争容認派の論考もあれば、チョムスキーやウォーラーステインのような否定派の痛烈な状勢分析もある。ほかにはサスキア・サッセンやベンジャミン・バーバー、フレッド・ハリディやリチャード・フォーク、シセラ・ボクなど、日本でも多かれ少なかれ名の知られている錚々たる論客が名を連ねる。原著は2002年にパルレイヴ社から出版された『衝突する諸世界——テロとグローバル秩序の未来』。「少数派」であるオーストラリアやインド、シンガポールなどのアジア-太平洋地域の論者がもっと多ければとも思うが、戦争の大義が言論界を塗りつぶしてしまったように見えるアメリカの論壇において、毅然とした批判はそこここに実際あるのだということを明示している点で、本書は必読必携の論文集である。

 例えば、対テロ戦争とパレスチナ/イスラエル問題とのリンクを積極的に論じている人物と言えば日本ではまずサイード(本書には登場しない)の名前が浮かぶが、本書ではオックスフォード大学国際関係論教授のアヴィ・シュライムが過去10年間のパレスチナ/イスラエル紛争に対するアメリカの外交政策について冷静に分析した小論が読める。「イスラエルをイスラエルからいかに救うか」、「シオニストの政治目標を破滅的に歪めてきた三五年間の植民地的冒険」からの解放を訴えるシュライムの政治的スタンスはサイードとは若干異なるものの、注目に値するだろう。また、近年『現代思想』誌で論文が邦訳掲載されたジェイムズ・デルデリアン(あるいはダーデリアンとも表記される。論文「国際関係の時(空)間」、『現代思想』2002年1月号「特集=ヴィリリオ」所収、青土社)による論考は、メディアが軍産複合体と娯楽とをネットワーク化することによって市民を囲い込みつつある事態を分析しており、チョムスキー流のプロパガンダ批判とは異なる危機感を読者に思い知らせる。

 ひとくちに戦争反対と言っても、さまざまな論調があり、日本人には微妙に響く主張がないわけではない。政治におけるリアリズムについて論じているイギリスのコリン・グレイは、英米両政府の政治的アドバイザーを務めている国際政治戦略学の教授だそうだが、彼が対テロ戦争を現実的ではないと切って捨てるのはいいとしても、国際政治には警官が必要であるとか、こんにち協調的政治術は不可能だと分析しているのを読むと、たとえそれがグレイ自身の信条を反映したものであろうとなかろうと、そこにアメリカの立場の重要性を強調する限りにおいて、素直には首肯しがたいものがある。前述のシュライムもアメリカの主導性を重視しているのだが、本書は各論者がアメリカをどう見ているか、どう対峙しているかという観点から注意深く読むと、非常に多くの難問が見えてくる。この「難問を露呈させている」という点でまさに本書は貴重なのである。

書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年5月13日分より。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

排除されしものたちの声に耳を傾ける、反帝国的抵抗の書

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 サイード、バーバと並び、アメリカにおけるポストコロニアル研究の第一人者と目されるスピヴァクの思想的中核をなす主著の、待望の完訳である。植民地時代以後の社会を規定する特徴的な文化的思想的ドミナント(支配的潮流)の検証を通じ、グローバリゼーションにおける帝国主義と現地主義(地域主義)の連環の磁場をあばくとともに、マルクス主義的フェミニズムに基づく戦略から、世界の表象と読解と実践的再構成を説く力作である。本書は四つのパートに分かれる。第一章「哲学」のポイントは、スピヴァク特有のマルクス再読解にある。鍵になるのは、サバルタン(グラムシ)の現在への分析と、アジア的生産様式の再評価(アミン)である。サバルタンの現在は男性中心主義を乗り越えを示唆し、アジア的生産様式の再評価は欧米中心主義の超克を指す。男性中心主義や欧米中心主義は、スピヴァクの言うところの「ネイティヴ・インフォーマント(現地生まれの情報提供者)」の視点を排除する点で、根本的に帝国主義そのものなのである。第二章「文学」においてはさらにこのネイティヴ・インフォーマントに着目しつつ、近現代文学における帝国主義への容認と拒否をさぐる。ブロンテからクッツェーまで、7人の作家と作品が徴候的読解にさらされている。

 本書の議論の一大頂点と言えるのが第三章「歴史」である。ここではかつてのスピヴァクの代表論文『サバルタンは語ることができるか』における議論が再審され、更新される。サバルタンは語ることができないと結論したことは「得策ではなかった」と彼女は告白する。そもそもこんにち「サバルタン」とはいかなる「従属的存在者」なのか、議論が整理され、より多くの説明がなされている。第四章「文化」では、ポストモダニズムにおける女性のトランスナショナルな表象がいかに帝国主義に裏打ちされているかを暴く。一例として挙げられるのが、服飾デザイナーの川久保玲(コム・デ・ギャルソン)なのだが、80年代を濃密に経験した世代の日本人ならば、スピヴァクとは異なる観点から川久保玲を論じることができるはずだ。付録には「脱構築の仕事へのとりかかり方」という、デリダの「脱構築」の射程を論じたテクストが収録されている。本書での彼女の言葉遣いはけっして平明なものではないけれども、論旨は明晰であり、勘どころで明示的な議論の整理を避けるようなことはしていない。基調となる「抵抗の論理」を念頭に、丹念に読み進めたい好著である。


連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年5月13日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ラカンと政治的なもの

2003/03/17 18:51

ラカン理論が民主政治を刷新する。少壮学者の力作論考

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は1970年にギリシアに生まれ、現在はイギリスで研究活動を続けている俊英で、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフの弟子筋にあたる。本書は1999年に英米で出版されたもので、彼の処女作である。ラカンの精神分析の政治的可能性を、ラカン本人の思想だけでなく先行する数多くのラカン研究書を参照しながら系統立てて探っていくた好著で、師のラクラウをはじめ、ラカンを政治思想へ転用してきた先達の代表格といっていいジジェクも賞讃の声を寄せている。少なくともラカン本人は現実の政治に積極的に参加するような人物ではなかったが、彼の精神分析は現実政治の倫理的基盤の再定礎に貢献し得る重要なヒントをもたらすのだということを、本書は教えている。本論にあたる全五章のうち、最初の三章「ラカン的主体」「ラカン的対象」「政治的なものを包囲する」では、ラカンの精神分析理論や概念装置が政治理論や政治分析にどれほど有用であるかが検証される。後半の二章「ユートピアの幻想を越えて」「両義的民主主義と精神分析の倫理」ではより具体的に、ラカン理論が政治的理想主義の腐敗に抗し、新たな政治的触媒として民主主義の窮地を解放する役割を果たすポテンシャルを有していることが論証される。ラクラウやムフによるラディカル・デモクラシーの構想の発展的継承がここでは見られる。ラカン理論は、政治における「すべての壮大な幻想に関するわれわれの考え方を変えようとする闘いの最前線に位置している」わけである。本書は、ジジェク、バトラー、ラクラウによる討論の書『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(青土社、2002年)での錯綜した議論に、一定の論理的道筋を与える効果を有するものと思われる。日本ではスタヴラカキスはほとんどまだ無名に等しいが、本書の力作ぶりは、ラカン読解における新たな基本書とみなされるに充分な仕事であるといっていい。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年3月18日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

こんにち「知識人」であるとはどのようなことか。激越なる考察

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ブランショは1907年生まれだから、もう数年経てば100歳だ。まだ存命中で、過去の作品の再編集であったり、版元の移動であったりはするが、新刊もぽつりぽつりと出ている。本書はもともと1984年にフランスの雑誌に発表されたもので、翌年には日本でもいち早く雑誌『ユリイカ』のブランショ特集号に邦訳が掲載された。その後加筆されて1996年に単行本化。さらに新編集で2000年にも再刊されている。知識人像の過去と現在、そしてその社会的役割を論じたエッセイであり、小さい本だが濃密で、パッションに溢れたテクストだ。かのドレフュス事件において、「知識人」という言葉は蔑視的な表現として誕生した。冤罪に異議申し立てをした一部の人々は、「非国民」的なゴロツキとして罵られたこともあったのだ。幸い、ゾラをはじめとする論客たちの言論活動によって、ドレフュスの冤罪は晴らされる。知識人は、正義のために異議申し立てをする積極的な人物像に変容したわけである。ブランショはこう述べる、「ドレフュス事件からヒトラー、そしてアウシュヴィッツに至るまで、確認されてきたのは、知識人に知識人たることをもっとも啓発してきたのが、反ユダヤ主義(人種差別、外国人嫌いも含む)だということである。言いかえれば、こういう形での他者への配慮からこそ、知識人は、自己の創造的孤独の外に出るのを余儀なくされた(あるいは余儀なくされなかった)のだ。定言命令は、カントによって与えられた理念的一般性を失いながらも、アドルノによってほぼ次のように定式化された命令となった。アウシュヴィッツが二度と繰り返されないように考え、行動せよ。これはアウシュヴィッツが一個の概念になってはならないということ、そして、一つの絶対がそこで到達されてしまい、他の一切の権利や義務はその前で判断されるということを含意している」。いつ回帰してもおかしくない、人種差別やファシズムや戦争といった暴力に対抗すること、それが知識人の使命のひとつであるわけだ。知識人は無関心でいてはならない、とブランショは強く警告する。誤解しないでおきたいのは、彼はアウシュヴィッツを神聖化したいのではないということだ。繰り返されてはならない愚行、忘れるべきではない真実、アウシュヴィッツはそうした契機において絶対的なるもののひとつとなるのである。絶対化は必ずしも神聖化ではない。さらに本書では、知識人像の変遷について語りつつ、当時を代表する作家のヴァレリーの微妙な立場に言及しながら、転向の問題についても一言述べているあたりも興味深い。訳者による親切な注としっかりした解説に加え、ブランショの近況を伝えるあとがきも必読である。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年1月15日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

宗教と法律と医学の三大権威からの独立を謳う、哲学のマニフェスト

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本巻では、「諸学部の争い」(1798年)とその準備草稿、そして、その他の著作の準備草稿や覚え書き、補遺など、合計七篇を収める。「諸学部の争い」はもともと三つの異なる論文だったが、後に著者の判断で一冊にまとめられた。神学部、法学部、医学部といった当時の「上級諸学部」に対して、「下級学部」である哲学部の独自な地位を宣言した、重要書である。カントは、上級諸学部を国家と政府によって保証された権威であるとし、一方、哲学部は国家的権威ではなく理性の立法のもとにあるのだ、と述べる。「自律によって判断する能力、すなわち自由に(思考一般の原理にしたがって)判断する能力」である理性を重んじるのが哲学であり、真理か否かを問うことによって哲学部は「上級三学部を統御し」、「三学部にとって有用となる」。カントがこれらの国家的権威に対抗する姿勢にはなかなか狡猾なものがある。彼は三つの権威を亡ぼそうとしているのではなく、それらを真理探究の見地から表向きには「保証」し、そのかわり上級学部の抑圧や政府の禁令から自由な批判者として哲学部を位置付けるのである。真理の探究があらゆる学問の根本であって、哲学がそれを司るのだから、哲学はもはや神学等の単なる「侍女」ではなく、「松明を掲げた先導者」たりうるのだ。

「諸学部の争い」は、聖書を理性に照らして読み、戦争の廃絶を訴え、健康とは何かを問う三つの論考からなる。国家や諸々の権威と哲学との関わり方を規定しようとするこのテクストは、その政治性ゆえにすぐれて現代的である。カントは、国民が盲目的に聖職者や司法官、医者を信じ、「指導されること」を望むことによって、自ら判断する面倒を省いてしまうという現実を揶揄している。政府はそうした三者を通じて国民に働きかける。「学部の学者たちの純粋な洞察から生じた理論をではなく、実務者[三者]が用いることで国民におよぼしうる影響力をあてこんだ理論を、学部に押しつけるよう」、政府は「誘惑」されているのだ、と。18世紀も21世紀もその意味では状況に大差がないようだ。なお、本巻に収められたその他のテクストは「遺稿集」として一括されている。詳細を列記しておくと、「『美と崇高の感情にかんする観察』への覚え書き」、「『理論と実践』準備草稿」、「『永遠平和のために』準備草稿」、「『人倫の形而上学』準備草稿」、「自然地理学」補遺」である(前述した通り、「諸学部の争い」の準備草稿もある)。「全集」と謳っていることもあり、この遺稿集の中にかの「オプス・ポストゥムム」が収録されるのを楽しみにしていた読者がいたかもしれない。結局それは叶わなかったようだ。カントが晩年に十年以上をかけて取り組んだ「オプス・ポストゥムム」は彼自身にとっても主著と呼ばれるべきものであり、三批判書をはじめとする彼の哲学体系の基礎は根本的な変容を遂げつつあった。恐らくいつかは邦訳を手にすることができるのだろうが、できればそれが今回の全集に入っているのなら、なおよかった。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年1月21日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

サイードの嘆きと怒りを十二分に肉化した素晴らしい翻訳

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 狂った世界を前に怒りが灼熱の炎となってほとばしる。世界はその怒りを暗く押し包み、繰り返しひねりつぶそうとする。エドワード・サイード、66歳(本書執筆当時)。白血病に蝕まれた彼が、死神の吐息を間近に予感しながら、ペンという剣をもって、暴力の暗黒に完全包囲されたパレスチナの悲惨になおも立ち向かっていく姿は、人を感動させるという以上に、大いに動揺させる。日本独自編纂の論文集『戦争とプロパガンダ』の第三弾。2002年の春から秋にかけて主に『アル・アーラム』誌に発表された、8つのエッセイを収録している。発表順に列挙すると、「アメリカのユダヤ人の危機」「パレスチナの選挙が浮上」「一方通行」「細目にわたる懲罰」「不統一と党派対立」「無力のどん底」「イスラエル、イラク、合衆国」、「生まれついてか、選び取ってか」である。私たちが本書を読んで動揺せざるをえないのは、ここまでパレスチナが追い詰められているにもかかわらず、日本人の認識はまだまだ甘いことを、サイードに痛烈に教えられるからである。彼のペンの戦いを前にただただ呆然とするだけの自分であっていいのか。偏重報道や歪んだ政治的正義などによって、「パレスチナ人が経験させられている日々の細かな出来事は隠蔽され(…)、自衛やテロ撲滅という理屈で覆い隠されてしまう。テロリストのアジト、テロリストの爆弾製造所、テロリスト容疑者等々、無限にリストが続くテロ撲滅は、シャロンや嘆かわしいジョージ・ブッシュにはうってつけの仕事だ」とサイードは辛口に述べる。

「テロリズムという観念はひとり歩きしはじめ、何度も重ねて正当化されているが、そこには何の証明も、論理も理屈も合理的な議論もない」。そもそもテロリストという言葉は、かつて第二次世界大戦期にドイツのファシスト体制がユダヤ人を評するためにもっとも頻繁に使った表現だ、と彼は指摘する。なんと言う皮肉だろうか。散々「テロリスト」呼ばわりされてきたユダヤ人が、その歴史的教訓を脇において、今度は自ら抑圧するパレスチナ人たちをその名前で呼ぶ。サイードはパレスチナ人の自爆テロを「テロではない」と言いたいのではないし、むしろ「それはテロだ」と明言している。彼が言いたいのは、自爆テロは、けっしてイスラエル軍のパレスチナ人への暴力的蹂躙や最悪の侮辱、思いつくままの虐殺、長期にわたる占領等々を正当化しうるものではない、ということだ。占領政策とそれを後押しするアメリカによって、パレスチナ人は非人間的な状況に置かれている。その具体的事実を繰り返し説明しながら、なおもサイードは戦う。ブッシュ政権のパレスチナ再生計画はまやかしであり、対イラク戦争は断乎反対すべきものである、と彼は考えている。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)は民族的宗教的争いを超えて、「できるだけ早く、二つの国民で構成される世俗主義の一つの国家(バイナショナル・セキュラー・ステイト)に所属する完全な一員としてお互いを受け入れるようにするのが賢明というものだ」。サイードのヴィジョンは明晰である。彼と比べて言えば、あれこれと問題点をあげつらって事態を複雑に語ることだけに終始する一部の知識人は、ほとんど陳腐な現実逃避にしか見えなくなる。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年1月21日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「スロー」という価値観を脱領域的にマッピングする好著

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)で話題を呼んだ文化人類学者・環境運動家による「スロー」な生活のための100の視点をエッセイ風に明かした入門書だ。本書は著者の言う「スロームーブメント」の中から生まれたものである。書斎ではなく、運動から生まれたものだ、と。オビ文には「スローでいこう! あなたはもう新しい世界の入口に立っている」とある。いやいやとんでもない、私たちはスローダウンして世界に乗り遅れることなんてできやしない、とつい思ってしまう読者は多いだろう。でも、本当はもっとゆっくりしたい、と内心は思ってもいる。暮らしの中の「ごく当たり前な「楽しさ」や「美しさ」や「安らぎ」を、お金や効率や経済成長を優先する社会に住むぼくたちは、これまで軽視したり、疎んじたり、バカにすることが多かった」と著者は指摘する。世界がいま、どんな困難に逢着しているのか、ちょっと立ち止まって考えてみよう、という考え方なら、今までにも世間にはあった。しかし本当は、「ちょっと立ち止ま」る程度ではまた再び「流れ」に呑まれ、押し流されるだけだったのだ。立ち止まるのじゃない。流れは止まってはくれないけれど、その勢いを弱めることはできる。スローと聞くと、まず日本人は「スローフード」の流行を思い浮かべるかもしれない。スローなんて、感覚的なものにすぎない、と見くびる人もいるかもしれないが、著者の言う「スロー」は違う。スローは革命だ。肩肘張らず、怒鳴り散らさず、盲目的に熱狂することもない、新しい革命。「スローライフ」から「アンプラグ」、「今、ここ」、「戦争」、「ディープ・エコロジー」、「非電化」、そして「ナマケモノ」等々、全100項目。忙しい毎日でも、少しずつ読みきれるような工夫がしてある。項目別に参考文献が掲げられているほか、「スロソファー」なる思想家たちも参照される。「スロソファー pslothopher」とは、「哲学者 philosopher」と「ナマケモノ sloth」を合成した言葉で、スローな価値観を提示してくれる人々を、著者なりのくくりでそう呼んでいる。例えば「歩く」の項目には民俗学者の宮本常一が挙げられる。なるほどね。生活、経済、政治、思想、地域、環境、農業、など、じつに様々な視点が提供されている。これは「スローの思想地図」だ。現代人必読。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年8月5日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

在日の若手が鋭く抉り出す、日本の国家主義の歪んだ諸相

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者のチョン・ヨンヘはリサ・ゴウとの共著『私という旅』(青土社)などでつとに注目されてきた在日の社会学者だ。本書は彼女の1992年から2002年までの論文10本をまとめた第一論文集である。様々な限界を露呈している国民国家を支える近代主義の悪循環の諸相を指弾する本書は、問題提起の鋭さと危機意識の性急さ、冷静な分析と叙情的な理想がないまぜになっている繊細な本だ。性急さや叙情的という言葉で彼女を非難しようというのでは全くない。むしろそうしたありがちな印象を抱かぬよう、読者は勘違いしないようにしなければならない。君が代ではなく〈民が代〉という非常にきっぱりした象徴的な言葉は、あたかも既成の体制的価値体系の完全な逆転を目論むような明快さ——往々にしてそうした明快さは見かけ倒しに過ぎないことがある——でもって読者を易々と昂揚させてくれるかのように期待されてしまうかもしれないが、そんな単純な本ではない。すんなりと通覧させてくれるような理論的鳥瞰図のもとに体系化されている書物ではなく、常に現実の諸矛盾と向き合い、粘り強いネゴシエーションで突破口を開こうとする挑戦が内実となっている、いわば現在進行形の書物である。唯一の書き下ろしである巻末の「はじまりのための、あとがき」で、著者は本書が何を主張しているのかを述べている。近代の国家主義が日本国民にもたらした、加害性にも被害性にも鈍感な精神的呪縛を解くことができるのは、日本国民自身であり、人々の「意思と感情表現が希薄なところでは、何も始まらない」という事実を直視せねばならない、と。〈民が代〉を謳うこととは、ナショナリズムと反ナショナリズムのジレンマから抜け出す第三の道を歩むことだ、とも著者は示唆する。ここで言われている第三の道とは、イギリスにおけるギデンズ流の生き残り戦略と同義なのではないが、かといって急進的な理想主義に終始するものでもない。著者は例えば、定住外国人の参政権をめぐって活動を続けているが、その活動の根幹にある「市民権」をめぐる彼女の考えは、積極的な意味で極めて現実的である。ポスト近代国家の社会に必要とされている新しい市民権は、国籍によって保証される国民の排他的な特権ではなく、定住外国人を含めた国内に居住する住民に対して平等に結ばれるべき社会契約であり、それがもたらす権利と義務の一切である。国籍を有する国民だけでなく、より広く、そこに住んでいる人々全体が現実的に社会を構成しているのだという事実を無視するべきではない。「国籍とは、個人よりも国家主義にとって必要な概念」なのだ。保守的政治の危機と破綻の時代において、〈民が代〉への改革を掲げることは実際的な急務であるが、国家は〈民〉が国粋主義とは別のかたちで一致することによってその従来の構成を解消せざるをえなくなる「進歩」を恐れているし、一致させるまいと〈民〉を諸々の群集に分断しておく術に長けている。群集は群集で自由勝手に生きていると過信しているようでおめでたい。おめでたい我々がどう変わっていけるのか、著者の今後の研究が示唆するものに期待したい。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年9月9日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

美しく、悲しく、緊張に満ちたテクスト群に垣間見る被暴力的体験

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 待望の邦訳である。原著は1982年にアメリカで刊行されている。四半世紀を経てついに翻訳されたわけである。とはいえ、この書物の多言語的横断的な性質上、「翻訳された」という言葉を使うのは難しいのかもしれない。本書は日本では1990年代に入ってから酒井直樹らによって高く評価されてきた。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やソレルスの『楽園』が「翻訳不可能」であるのとは別の意味で、本書もまた「翻訳不可能」であった。いや、原著の刊行当時には「理解不能」ですらあった。アメリカ本国においてすら、同様の情況だったようだ。邦訳副題に「韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール」とある。著者は1951年にプサンで生まれた韓国人で、1977年にアメリカに帰化し、31歳の秋、ニューヨークで見知らぬ暴漢に殺害された。本書が公刊される直前のことだった。暴漢は常習犯だったという。

 本書は複数の断片的テクストと図像からなる一種のコラージュである。強いて分けるとすれば、全部で10のパートから構成されており、そのうち9つには古代ギリシア語の表題が付されている——クリオ(歴史)、カリオペ(叙事詩)……テルプシコレ(合唱舞踏)、ポリムニア(讃歌)というように。母語でない言葉(著者の場合それは仏語や米語を指す)を学び、書き、話そうとすることがもたらす教育的政治的作用の迷宮が、本書の「語り(=ディクテ)」を開く。ある時は抗日の女性闘士ユ・グァンスンが語られる。またある時は母の来歴に思いを寄せる。そして娘つまり著者自身が——その喉が、血液が、肉体が語られ、語る。合間にリジューの聖テレサが語り(引用され)、複数の「女たち」が語られる。魂、のような、名づけえぬ次元が旋回しはじめる。父、息子、聖霊、の三位一体ではなく、母、娘、複数の声(霊媒?)、の三位一体。この驚くべきポリフォニーの流れはしかし、解放されないまま、様々な大地と歴史と現在にしっかりと結わいつけられたまま、被暴力と抵抗と移動の体験を曝す。美しく、悲しく、緊張に満ちたイメージの奔流である。美しいとは言ってもそれは巷に満ち溢れているありふれたあの「商業的」な美しさではない。本書の美しさはその意味ではもはや美しさではなく戦慄である。帯文に「アメリカにおけるポストモダン、ポストコロニアル、ジェンダー研究の必読書」とあるが、なるほど90年代以後の文脈ではそうも読める。恐らく本書はそうした文脈を超えて生き延びるだろう。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年6月17日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

アメリカ先住民文化と西欧文化における「蛇」像の比較研究

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今から百年以上前のこと、1895年年末から約半年間をかけ、著者はアメリカ南西部の先住民族「プエブロ・インディアン」の自然信仰と精神文化を取材した。その旅程から得た情報資料をもとに、1923年スイスで多数のスライドを駆使しながら行った講演「北アメリカ、プエブロ・インディアン居住地域からのイメージ」が、本書の内容である。ウォーバーグ研究所所蔵の草稿から翻訳されている。コロラドの岩棚住居、ニューメキシコの先住民絵画や土器や壁画、アリゾナをはじめとする各地の舞踊を見聞し、時代の流れのなかで失われゆくそれらの習俗と伝統のうちに、著者が「文化史記述の全体にとってきわめて重要な意味をもつ」と推察した、「キリスト教以前の原始的な人間世界の本質をなす特徴」について問い掛けるための契機を見いだしている。蛇儀礼とは、先住民が雨と雷の象徴として崇拝する毒蛇を用いて行う、呪術的な舞踊を伴う一連の祭式のことだ。毒蛇は荒野に降雨をもたらす豊穣の象徴であり、「人間が精霊的な自然の働きのもとで外面的にも内面的にも克服しなければならないものの象徴」である。ヴァールブルクは、これらの表象を、西欧における古代神話世界から初期キリスト教世界にまで見ることのできる蛇の表象と比較対照する。蛇は原罪をもたらした諸悪の根源であるだけではない。それは不死身の異教的シンボルとして、治癒の神としても、聖書に「再び忍び込んで」いるのである。ヴァールブルクは、これらの原始的信仰が洗練され、あるいは棚上げにされ、代用品で置き換えることによって「現代文化」が成り立っていることを示す。雷という自然の猛威は、電気をコントロールする現代文化によってもはや畏怖の対象ではなくなる。そうした「進化」がもたらした世界観の「破壊」が、人間の思考に与える影響について彼は示唆する。貴重な当時の写真や図版が満載された好著である。

連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年5月20日分より。

(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

32 件中 1 件~ 15 件を表示