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5 件中 1 件~ 5 件を表示

明治の苦闘を辿れば、現代の日本の課題が見えてくる

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は近代日本の思想を根本から見直し、思想史を再構築しようとする意欲作である。極めて大きなテーマだが、個々の思想や行動に対する著者の切り口は決して難解なものではない。日本人が明治以降、近代化の波に否応なくのみこまれていくなかで、いかに苦しみ、自ら進むべき道筋を求めてきたのかということに慎重に光をあてている。検証しているのは、単なる政治思想ではなく、個人の内面的な思想までも含めたものである。
 これにより、本書は取り上げられた各人物の魅力と問題点を引き出すことに成功している。先入観によって貼られたレッテルを剥がし、政治的な色分けに惑わされずに読み直す。既に評価の定まった人物の戦時中の言動にも容赦はない。しかし、著者は言葉狩りのように表面だけを見るのではなく、当時の状況を見据え、その立場に至った思想的背景に思いをめぐらせている。
 明らかになってくるのは、今考えられている以上に誠実に答えを求めて悩み続けた人々の姿である。今も日本人は自らのアイデンティティの喪失を嘆くことが多いが、当時の問題点は、本質的には現在の日本人の抱えるものと変わらないと著者は言う。明治期に日本人の「個」の確立が求められた時、注目されたのが仏教であるならば、これも、現代の仏教が担うべき課題として認識されなければならないのではないか。
 第I巻は、読みやすくまとめた総論、近代日本の思想史の中核には仏教があると述べる著者の思想史の入門編ともいえる。第II巻は各論の集成である。
 著者は、今まで編まれた近代日本の思想史は極めて恣意的で、その政治的立場によって黙殺された者もあり、決して全体を見渡せるものはないという。本書は全体を鳥瞰できる通史を目指したものである。もちろん、そういう本書も末木版近代日本思想史なのであり、他の切り口による反論を引き出すことも著者の狙いの一つかもしれない。(藤井正史/文筆家・僧侶 2004.06.15)

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明治の苦闘を辿れば、現代の日本の課題が見えてくる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は近代日本の思想を根本から見直し、思想史を再構築しようとする意欲作である。極めて大きなテーマだが、個々の思想や行動に対する著者の切り口は決して難解なものではない。日本人が明治以降、近代化の波に否応なくのみこまれていくなかで、いかに苦しみ、自ら進むべき道筋を求めてきたのかということに慎重に光をあてている。検証しているのは、単なる政治思想ではなく、個人の内面的な思想までも含めたものである。
 これにより、本書は取り上げられた各人物の魅力と問題点を引き出すことに成功している。先入観によって貼られたレッテルを剥がし、政治的な色分けに惑わされずに読み直す。既に評価の定まった人物の戦時中の言動にも容赦はない。しかし、著者は言葉狩りのように表面だけを見るのではなく、当時の状況を見据え、その立場に至った思想的背景に思いをめぐらせている。
 明らかになってくるのは、今考えられている以上に誠実に答えを求めて悩み続けた人々の姿である。今も日本人は自らのアイデンティティの喪失を嘆くことが多いが、当時の問題点は、本質的には現在の日本人の抱えるものと変わらないと著者は言う。明治期に日本人の「個」の確立が求められた時、注目されたのが仏教であるならば、これも、現代の仏教が担うべき課題として認識されなければならないのではないか。
 第I巻は、読みやすくまとめた総論、近代日本の思想史の中核には仏教があると述べる著者の思想史の入門編ともいえる。第II巻は各論の集成である。
 著者は、今まで編まれた近代日本の思想史は極めて恣意的で、その政治的立場によって黙殺された者もあり、決して全体を見渡せるものはないという。本書は全体を鳥瞰できる通史を目指したものである。もちろん、そういう本書も末木版近代日本思想史なのであり、他の切り口による反論を引き出すことも著者の狙いの一つかもしれない。(藤井正史/文筆家・僧侶 2004.06.15)

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紙の本死者たちの中世

2003/08/28 15:59

死者に囲まれた中世の日常が見える

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 最近では伝統的な葬儀や墓の在り方に疑問を呈す風潮がある。本来の宗教的な意義を振り返ることなく、音楽葬、自然葬、散骨などを現代人の感性に合ったものとして持てはやす報道もある。宗教儀礼に意味を見出せない傾向は、人前結婚式なども同じ感性だろう。なぜ祈り、何に祈るのかという視点が欠けた歪み。それは、住宅地での墓地造成に反対運動が起きるなど、皆が健康で死者のない日常をつくり上げることに汲々としてきた日本人の感覚に通じるものだ。
 このような感覚は今に始まったことではない。しかし、菩提寺での葬儀、墓地への納骨が行われるようになる前は、身近な死をどのように受け入れ、処置していたのだろうか。
 中世の京都では空き地や河原、大内裏にさえ死体が放置されていたという。そのため、犬が人体の一部を咥えて敷地に入ってくるなど事態も日常的に起こりうる。これにより生じた穢れ=五体不具穢に関する記述を本書では丹念に追っている。当時、一般的だったのは風葬・放置等で、使用人や病人が死にそうになると、穢れが生じることを恐れ、亡くなる前に道路に遺棄することさえあった。自分の目の前さえ清浄であれば良いという公家社会の思想は、現在も生きているのではないだろうか。
 当時の葬送儀礼の様子を追っていくと、現代ほど遺体・骨には執着していないことがわかる。穢れへの恐れこそが最も重要なのである。
 やがて京中に放置される遺体は減少し、念仏講による臨終・葬儀の組織的互助の確立、蓮台野など共同墓地への移行、非人・河原者による葬送への関わりが始まり、戦国時代からは禅宗による豪華な葬儀や、華美な葬具の使用も見られるようになる。
 この変化の理由を著者は探っていくが、現在の葬送儀礼の成り立ちを見つめることは、これからの葬儀の在り方を考えるにも重要なことだろう。葬儀を司る身としても非常に興味深く読んだ。(藤井正史/文筆家・僧侶 2003.08.28)

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大胆に論じた新しい空也上人伝

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 平安時代、京の市中において念仏によって庶民を導き、阿弥陀聖・市聖として今なお慕われる空也上人。この名を聞いて多くの人が思い出すのは、日本史の教科書に載っていた空也上人立像だろう。六字の名号(南無阿弥陀仏)を称えるたびに、口から六体の阿弥陀仏像が現れたという伝承をそのまま表現したもので、その表情は恍惚として踊念仏の創始者らしい姿を残している。このように、空也は民衆の熱狂的な念仏の先導者として、法然の曾孫弟子で時宗の開祖、捨聖一遍の先駆者として捉えられてきた。

 しかし、本書では空也の踊念仏については多くを述べない。著者は空也を庶民に対し初めて口称念仏を広めた念仏の祖師として捉え直すべきであるという。口称念仏とは唐の善導によって大成された誰にも可能な易行の念仏である。偏依善導という立場を標榜する浄土宗祖・法然の口称念仏は、鎌倉仏教諸宗の選択・専修という二つの要素を導き、往生に必要なのは念仏を称えることのみであり、仏の救いに経済的選別はないという釈尊以来の立場に戻した歴史的役割があった。本書によれば、空也は法然の口称念仏への帰入より200年も前に善導流の念仏を伝道していたという。
 それならば、空也は、なぜ金泥の『大般若経』の写経を供養し、阿弥陀仏ではなく観音像造立の勧進をしなければならなかったのか。空也の著書が失われている以上、その裏付けは難しいのかもしれないが、本書ではこの理由として“時代の限界”を挙げている。果たして空也ほどの聖の宗教的確信が、その程度のものであろうか。念仏を行じつつも、観音信仰、『法華経』『般若経』なども、自身にとっても必要だっただからと考えるのが妥当ではないだろうか。

 全編を通じて空也の足跡を丁寧に辿り、その魅力と謎を探ろうとしており、最後まで興味は尽きない。平安浄土教の豊かさに目を向かわせる格好の入門書となっている。(藤井正史/文筆家・僧侶 2003.12.20)

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紙の本山水思想 もうひとつの日本

2003/06/06 15:21

日本的なるものの「方法」とは

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「日本の水墨画を完成させないで死ぬのは無念だ。ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」日本画家・横山操の遺言である。

 画聖と呼ばれる雪舟、日本人に最も好まれるという「松林図屏風」を残し、雪舟五代を名乗った長谷川等伯。二人の間には100年の歴史がある。何故ここに日本画の将来を見出すヒントがあるのか。その疑問を解くため、著者は水墨山水の原点へと遡る。中国水墨画の歴史、それを取り巻く山水思想、道教、仏教などの思想的背景をたどり、技法の発展に言及する。

 思索の旅は縦横無尽に時代と分野を超えていくが、テーマはあくまでも日本である。著者は禅画として日本に入った水墨画が、法華信仰の者たちの手へと移る?過程に注目した。雪舟は臨済宗の僧であり、狩野派と等伯は法華宗徒なのである。

 取り上げられた画家たち一人一人が、それぞれの思うところのため力強く動いていて魅力的である。雪舟は東山山荘(銀閣)の障壁画の依頼を受けるが辞退し、狩野派の祖である正信を推薦し、日本中を旅する。等伯は一大勢力となった狩野派の永徳に追随してもがき続けるが、ついにその呪縛を脱し「大いなる余白」を生かした境地を手にする。「三玄院襖絵」を描くシーンは息をのむように感動的である。

 さて、日本画とは何か。日本的なるものを求める論考は、日本文化全般において、海外文化を輸入し、我がものとしていく「方法」を追求することになる。著者はきちんとその結論を用意している。

 贅沢をいうなら、山水河原者について、特に時衆との関連についてはもう少し読みたかった。仏教に関する記述はかなり強引であり、首肯しかねるところも散見する。しかし、昨年の雪舟没後500年に際し、その宗教的背景をあえて無視して評しようとする意見が多かったことを思うに、美術から思想に挑んだ著者の姿勢は極めて真摯なものである。(藤井正史/文筆家・僧侶 2003.06.04)

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