サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 音羽ふらとさんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年3月)

投稿数順ランキング
先月(2017年3月)

  1. 1

    UP

  2. 2

    UP

  3. 3

    UP

    3月のライオン(1)

    3月のライオン(1)

    羽海野 チカ(著),先崎 学 (将棋監修)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

  4. 4

    UP

  5. 5

    UP

    はらぺこあおむし 改訂

    はらぺこあおむし 改訂

    エリック=カール (さく),もり ひさし (やく)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

音羽ふらとさんのレビュー一覧

投稿者:音羽ふらと

3 件中 1 件~ 3 件を表示

第一部第三篇はどうして書かれなかったのか

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 木田元によれば、1927年に公刊されたハイデガーの『存在と時間』、これは当初考えられていた構想の三分の一しか掲載されていないという。既刊部分の『存在と時間』では、周知のごとく「現存在」の分析、つまり人間の在り方の分析がおこなわれている。未刊のところは、存在論の歴史をカント、デカルト、古代ギリシア哲学へと遡っていく予定だった。
 その折り返し点に構想されていたのが、ハイデガーがちょうどそこから筆を折った『存在と時間』第一部第三篇「時間と存在」だ。ハイデガーはここから書けなくなったという。それはなぜか、についての謎解きが本書である。
 なお、この筆折りとハイデガーの「転回」が深く関わっている。
 カントの定立作用とハイデガーの存在了解、主観性とのかかわりにおいて、なにがどう違うのかという問いを抱くようになったわたしのようなものには、まことに興味深い一冊となった。ハイデガー自身が、『ヒューマニズム書簡』のなかで、次のように言っていると本書で引用されている。
 「『存在と時間』において<企投>と呼ばれていたものが、表象しつつ定立することだと解されるならば、企投は主観性のしわざだと受けとられ、<存在了解>が<世界内存在>の<実在論的分析>の領界内でもっぱら考えられうるようには、つまり存在の明るみへの脱自的な関係としては考えられないであろう。主観性を放棄するこうした別の思索を遂行しなおし、それを真に遂行するということは、たしかに『存在と時間』の公刊に際して第一部の第三篇「時間と存在」がとどめおかれたということによって困難になった。……ここで全体が転回するのである。問題の第三篇がとどめおかれたのは、思索がこの転回を思うように十分なかたちで語ることができず、こうして形而上学の用語の助けでは切りぬけらなかったからである。」(22−23頁)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ジャズに魅せられたいあなたに役立つかも

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ジャズ喫茶は、ジャズについての膨大な情報が充満している稀有な空間だ。レコード、CD、ジャズの専門誌。そしてなによりもそこにいる人、つまりマスター。
 ジャズ喫茶の店主にまでなってしまう人というのは、なみ大抵ではない。うーん、なんて言ったらいいのだろう。つまり損得抜きの魅せられたるジャズ魂とでもいおうか。ジャズ・ファンにしてみれば、そばによってみるだけでいろいろ触発されるものなのだが、くわえて、この本には、ご本人からはとてもじかにきけないような過去の話もけっこう盛り込まれている。そして、ちかごろジャズに魅せられたいと想いはじめているあなたにそっと耳打ちしときますが、ジャズ喫茶に行ってみるのが、一番手っ取り早いでっせ。(そんな二十歳の、ぎんぎんに魅せられちゃった若者をふたり知ってます。)そういった訪問先の情報源としても活用できそう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

まずタイトルが凄い、長さも。

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『意識の自然』というタイトルに魅せられてしまった。このタイトルは凄いと思う。現象学において、意識はとりわけ重要な対象だ。存在するもの、あるいは世界や自然や宇宙と、人間を結ぶのは、目の前の対象に意識を向けているその人の意識だからだ。そういう意識、の自然とはどうなっているのだろう、そんな視点をもった書物は実に面白そうだ。垂涎の的だ。だがいったいどうやったら、そんなことが論じられるのだろう。この点も非常に気になった。
 実際に読んでみると、全体のテーマは「現象学とは何か」、その新しい答え、フッサールの現象学を中心に据えて、その前と後の諸潮流もふくめ、731頁にわたって論じていた。
 「現象学は、くみつくしがたい可能性である。」
 ある日あの時あの場所でのハイデガーやフッサールの言葉(たとえば「現実性よりも高いところに位置するのが可能性である。現象学の理解は、ただ、それを可能性として捕えることのうちにのみ、ある」など)を援用しながら、まるで証明済みの命題のようにそのように言われても、いったい著者がなにを言わんとしているのか、よく解らなかった。
 「現象学の真に新たな可能性」が別名「形而上学とも呼ばれる」と、やはりある日あの時あの場所でのハイデガーの言葉をもって「この印籠が目にはいらぬか」という調子で言われても、納得できない。「形而上学」という言葉を、著者がどういう意味で使っているのか、これまでのこの言葉をめぐるいきさつも含め、きっちり論じて欲しかった。
 この本は、著者流に解釈されたこういった方向性(現象学の真に新たな可能性、形而上学としての現象学)で全体が統括され論じられており、その方面に関心のむきには面白いかもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

3 件中 1 件~ 3 件を表示