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レビューアーランキング
先月(2017年1月)

清華さんのレビュー一覧

投稿者:清華

3 件中 1 件~ 3 件を表示

原初の生命の力

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 彼らと交わる時、私たちは様々な感情を受け入れる強さを持っていたことに、驚くだろう。原初の生命力の悲しいほどに、あきれるほどに、笑い出すほどに強く逞しいことに。

「蟲」:小さきものの集まり。動物の総称。生命すべての本質を表す名。
    生きる形に対する名。 
 虫ではなく、「蟲」。
 この物語に出てくる、私たちとは異なる体系を持つ生命に付けられたこの呼び名は、非常に的を射たものである。
 原初に近くさまざまな形をした、小さい者たちの塊は、私たちと少し違った体系を形成しただけの私たちと変わらないもの。私たちだって、バクテリアという「蟲」が共生というつながりで塊になっているに過ぎない。植物だとて動物だとて同じこと。

 小さい者たちが集まって作った広く大きな生命体系、それは私たちと重なりながらも交わることの少ない、世界の一部である。
 重なり合いながら偶に交わる。その時に物語りは形を成す。
 
 原初に近い純朴な蟲は、ただ生きているだけなのである。
 しかし、ヒトの側は蟲とは違い複雑に編まれた社会がある。
 蟲は、ヒトの社会においては其の都度判断が変わる。都合というものがヒトにはある。
 よきもの・あしきもの、それだけでは括れないさまざまな感情。ヒトの都合はそのまま蟲に映される。
 悲しみ・痛み・喜び。それだけでは括れないヒトの心。蟲を通して交わった人に返る。

 終わりを選びそうになる。返ってきた答えは耐え難いこともある。
 けれど、受け入れ切れないまでも前を見て、笑う。ヒトの儚く強い生命力が見える。
 きっちりと《強い》、そうではない。ただ、それでも生きなくてはならない、先を見なくてはならないと思い、ヒトは生命力を思い出す。それは、見ていてこちらが悲しくなる程に、だけど、こちらも強くなれる程に、強い強い心となる。
 
 きっと根源でつながっているもの。私たちもすべてを含め「蟲」として。
彼ら・蟲は、ヒトである我々の心など知りはしないで生きるだろう。けれど我々も、生きるしかないのだと、そう思い知るのに、強さと清々しさを感じる。そういう作品だ。
 生きよう。
 

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ひとつの究極。ひとつの本物。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この作品は、主人公の少女「昴」は、強く強く人の心をひきつける。
 この物語に嵌ってはいけないのではないか、そういう危機感を孕ませて、でも、私の心を捕らえて離してはくれない。魅という激しい力がここにある。

 どのような人間にも、自分が本当に生きる「道」というものが必ずある。それを教えてくれる作品である。しかし、その「道」を行くことが幸せに見えるか、不幸せに見えるかは、あなたが見るべきだ。

  彼女は自分の「道」を選び出したとき、まだ小学生であった。
 「道」を見出す事ができる人生からして稀である。さらにその道を歩くかどうかを決意するには大人でもかなりの恐怖心を覚える。決断できず、見ないふりをして通り過ぎる人がほとんどだ。
 「道」を歩いていたとしてもその先が見えなくなる、いや、「道」の激しさに人はたいてい耐え切れずに自分を先に見失う。ただ、「道」は続く。
  なのに彼女は、さっさとそちらへ行ってしまった。たった、九つの歳で。

 人生のとある究極は、かように激しく、ただ自分を見失わずにそれを歩いていく人間は、これほどまでに美しい。そう! この作品は魅せつけてくれる。
 ひとつの究極、ひとつの本物。あなたには、それが観られますか?

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紙の本飛雲閣ものがたり

2005/08/30 13:21

彼は菩薩を見たのか?

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 目が彷徨う。本の中を隈なく探す。
 何を?と問われれば「誰かを。」
 ここにあるのは、物として不完全な世界だ。
疲れるまで見ても、何かが足りない。どうしても誰か「かたち」を冀う。
 皆さんはミロのヴィーナスをご存知だろうか。
 彼女は、当時の彫刻の中で他を圧するほどの魅力がある。
壊れているのに。
 それは違う。彼女は壊れて、両の手を失っている。それこそが神々しい彼女を作る最後の仕上げだったのだ。
 足りない腕は、彼女が各々の望む姿を、各々の心に映る「かたち」をとる事を可能にした。
 それは女神として、誰もの心を受け入れることができるよう、彼女を完全にすることになったのだ。
 彼が、もし西本願寺から許されて、ここに特定の誰かを据える。そんな事が無くてよかった。
 目は彷徨う。でもそのうちに、フレームいっぱいの景色の中に誰かの影が、気配が、確かな「かたち」をとらないけれど、私の心に映し出されていく。
 それを菩薩というべきか。
阿弥陀如来の願いと言うべきか。
 私の中に、確かに射し下ろされるものがあると思えるのだ。

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