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先月(2017年8月)

黒木太郎さんのレビュー一覧

投稿者:黒木太郎

17 件中 1 件~ 15 件を表示

ラブシーンの掟

2005/02/20 18:55

笑えて、ちょこっとそそられて

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本の魅力を著者の石川三千花自身が「あとがき」に書いている。「単行本になるのが自分でも楽しみだった。だって、毎回ページをめくる度にキスシーンやベッドシーンのイラストが出てくるんだもの。笑えて、ちょこっとそそられて。」(231頁)でも、石川のイラストではそそられるまでに至るかどうかは読者にまかせるとして、少なくともこの本を読み終わったら、ここで紹介されている何本かの映画を観たいと思いたくなる、映画のラブシーンばかりを集めた映画お楽しみ本である。(実は私もさっそくこの本で紹介されていたキム・ベイシンガー主演の『ゲッタウェイ』をレンタル店に借りに行った一人である)

 映画はいろいろなことを教えてくれる。家族のあり方、戦争の是非、愛の姿…。ラブシーンもそのひとつだろう。キスの仕方を映画で勉強した人もいるのではないだろうか。あるいは美女と美男が繰り広げる華麗で淫靡なベッドシーンに胸ときめかせた人も多いだろう。石川はこう書く。「ラブシーン。それは、ひとつの作品においての、ここ一番の見せ場である」(74ページ)けだし、名言である。西部劇でいえば、ヒーローと悪者の一騎打ちみたいな場面である。ただただ息をのんで観るだけだ。

 その一番いいところを石川はイラストにしているわけだが、その一部は表紙画になっている。表紙には3本のラブシーンが描かれているが、本書には48本のラブシーンが紹介されているから、これは予告編みたいなもの。できれば全編カラーで読みたいところだが、予算の関係もあるのだろう、残念ながらカラーで読めるのは数本しかない。(若い人は知らないかもしれないが、昔ポルノ映画がピンク映画と呼ばれていた昭和40年代の頃はあの場面になるとカラーになる作品が作られていた。まさに一番の見せ場だけを当時の言い方でいえば<総天然色>で見せていたことになる)

 ぜひとも、<総天然色>版の続編を読みたいものだ。

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紙の本男性誌探訪

2004/02/02 23:50

あいうえお文化

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近絶好調の文芸評論家斎藤美奈子さんの最新刊は、男性誌という、今までほとんど批評の対象にもならなかったメディアの解体新書である。ご本人は「編集後記」という巻末文章の中で「とても分析や批評と呼べる域には達しておらず、あくまでも男性誌という未知なる領域への探訪記、フィールドノートのようなものに近い」(339頁)とご謙遜なされているが、その実「つつきがいはありましたね」(2月1日朝日新聞朝刊)と本音を吐かれている。このあたりが斎藤さんの怖さだといえる。

 この本で批評の対象となったのは男性誌三十一誌。みなさんご存知の『文芸春秋』から軍事雑誌『丸』に至るまで、斎藤さんはバッタバッタとなぎ倒していく。剛速球ありスローカーブあり変化球あり、その切れ味は抱腹絶倒、拍手喝采である。切れすぎて、斎藤さんご自身が手厚い看護をされていることもあるが、ほとんどの場合相手(もちろん男性誌)は瀕死の重傷である。男性誌には悪いが、斎藤さんの批評はほとんど当っている。あの『ダカーポ』を「遅れてきた『朝日ジャーナル』」と云い切れるのは、今や斎藤さんしかいないのではないだろうか。

 しかし、斎藤さんが本当に語りたかったのは男性誌というメディアではない。本の表紙にも書かれているように「雑誌で読みとく日本男児の麗しき生態」なのだ。つまりこの本は、男性誌という秘境に生息する日本男児という絶滅寸前の生物を観察したフィールドノートなのだ。斎藤美奈子って怖い。女って怖いのだ。この本にバカ受けしている男性諸氏は、文章に隠された女性の冷静な眼を実感しないといけない。

 ただ斎藤さんの男性誌タイプ分け(14頁)はやや大まか過ぎるきらいがある。私は男性誌とは「あいうえお」文化だと思っている。つまり、あそぶ、インテリ、うそ、エッチ、おたく、である。このことをきちんと押さえた雑誌が男性誌の王道ではないだろうか。『週刊ポスト』がこれにもっとも近い。若い人向けなら『週刊プレイボーイ』だろうか。では、女性誌はというと「かきくけこ」文化となる。か(買)う、き(着)る、く(食)う、けっこん(結婚)、こそだて(子育て)、というのが私の見解なのだが、少し強引すぎて、斎藤さんのような切れ味はやはりない。

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紙の本愛撫の手帖

2005/02/16 23:22

詩を読むように官能小説を読もう

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 電車の中で官能小説を読むのは恥ずかしい。それと同じくらい、電車で詩を読むのも恥ずかしい。官能小説と詩。まるで北極と南極のような文学のジャンルだが、たくさんの他人の眼がある電車の中で同じように恥ずかしいと思うのはどうしてかしらん。おそらくふたつともが人間の根幹を表現する文学だからだろう。私たちは多くの衣装を身につけて生きている。身体だけでなく、心も裸では生きていけない。しかし、時に自分自身を探し求めて、私たちは詩を求める。官能の世界をさまよう。だから官能小説が極めて詩的な表現であったとしても不思議ではないし、詩に官能性があってもおかしくはない。

 フランスでベストセラーになったというこの『愛撫の手帖』(原題は「幸福」という極めた単純明快なものだが、読者はこの原題を忘れないで官能の世界を堪能してもらいたいものだ。きっと読みすすむうちに、原題がもっている簡素だけど奥深い言葉の意味に気がつくのではないだろうか)は、妻子のある作家と若い人妻の性の記録である。互いの愛の証が、偶数の頁が女性の熱情で、奇数の頁が男性の激情で綴られていく。まったく白紙の頁があったり、数行しか書かれていない頁があったり、複数枚にわたる表白があったりする。この本の製本自体が詩集のようである。

 書かれている内容は官能小説のように過激である。しかし、その表現は詩のように流流と流れている。戯れに、この物語の一節を書きとめてみよう。「時間がほしい/彼の悦びのために利用されたい/彼の悦びはわたしの悦びなのだ/愛なんか欲しくないし、尊敬されるなんて/もってのほかだ」(204頁)段落(/)をつけたのは私だが、段落(/)をつければこれは詩としかいいようがない。この物語はそのような表現に満ちている。そして、それは官能の世界にゆだねていく主人公たちの、心象風景でもある。

 詩を読むように官能小説を読んでみる。少なくともこの物語では読書の愉しみ方としては有効な方法だろう。でも、そうはいっても電車の中で読むには恥ずかしい。それはこの物語が官能小説だからではない。ここに描かれているのが、男と女の官能の果ての「幸福」だからだ。「幸福」なんて使い古された、それでいて求めてやまない幻を描いた物語は、ひとりこっそり読みたいものだ。詩を読むようにして。

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ひみつのとき

2004/08/22 22:00

名前のない男と女

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 官能小説の登場人物たちはみんな名前を持っている。神崎京介のこの小説の主人公は奈央子。三十二歳の人妻である。結婚して六年になる。官能小説だから、奈央子の身体の特徴も、もっとも感じる所も、あの時の表情も詳しく描写されている。しかし、官能小説の魅力はそんな固有名詞の世界を描きながらも、読者によって読者自身が思い描く名前と身体に置き換えられる抽象性をもった存在をもっているということだ。読者は奈央子を奈央子としてでなく、自身が描く○○に読み替えている。読者の目の前にいるのは、あなたが抱きたいと思っている女性だ。そういう意味では、官能小説の登場人物は名前を持ちながらも、名前のない男であり、女だといえる。

 かつて村上春樹が『ノルウェイの森』を書いた時、「直子」(偶然にも神崎のこの小説の主人公と同じ読み方だが)という名前を持った登場人物を描くことで、作品の奥行きを広げたと評せられたことがある。一九八九年に出版された雑誌「ユリイカ」の臨時増刊に畑中佳樹が『村上春樹の名前をめぐる冒険』という評論の中でこう書いている。「村上春樹の小説に名前が出現した時期は、彼の小説が豊かな物語性をまとい始めた時期に一致している」と。固有名詞を持つことで広がる物語性がある一方で、読者自身がより自身の世界だけに留まろうとするのが、官能小説であるといえる。

 神崎のこの作品は、そういった官能小説の秘めやかな構造を模索したものだといえる。主人公の奈央子が出会う男は、村田という名前を持ちながらも奈央子にとってメールという通信手段がもたらした抽象でしかない。奈央子は村田がどういう職業をもち、どんな生活を過ごしているのかを知らない。彼女にとって村田は村田である必要はないといえる。そのことに気がついた奈央子の心情を、神崎はこう描写している。

 「肉には名前などない。必要なのは快感だけなのだ。彼はそれをわからせようとして、互いの顔が見えないようにしていたのではないかと感じた。男と女の純粋な形だわ、これが…」(214頁)

 奈央子の独白は作者である神崎の官能小説がたどりついた答えだろう。名前を持ちながら、名前を消し去ったところに官能小説の魅力があるといえる。 

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作家の媚薬

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 なぎさという名の娼婦がいる。なぎさは中年の男性を青春時代に戻してくれるという。そして、男に昔叶わなかった夢を、その頃セックスをしたいと望んでいた女性との交わりを、見させてくれるらしい。

 私も媚薬を飲んだ一人だ。ただ飲んだのはなぎさの媚薬ではなく、重松清という名だたる作家の媚薬だ。この媚薬を飲むと、私は誰にだってなれる。リストラによって単身赴任を余儀なくされた四三歳の敦夫という男にもなれるし、新妻の心の空洞に気がつかない二六歳の研介という男にもなれる。彼ら二人がなぎさの媚薬によって見た夢も同じように見ることができる。眼だけで、文字を追いながら、色々な角度から、二人の青春時代の女たちを見、交わり、官能の世界に入ることができる。

 重松氏の文章は蕩けるような熱さを持っている。器用という方がいいのかもしれない。官能のツボを心得た、心憎い書き方だ。余りにもうますぎて、重松氏が官能小説の第一人者になってしまうのではないかという、期待と不安? がある。書き手からすれば、官能小説の世界では読み手が特定されているから書きやすいのかもしれないが、官能がもたらす快楽を求めようとする読み手を満足させるのはなかなか難しい。単に濡れ場を描けばいいというのではない。主人公たちの痺れるような快感を、震えるような喜びを、読み手にも感じとらせないといけない。まさに重松氏の文章は、熱く濡れそぼった女陰だ。私たちを夢中にさせる。

 昔からの重松氏の愛読者の人たちは、重松氏がこのような官能小説を書くことに抵抗があるかもしれない。しかし、官能小説ファンにとって、重松氏のような、しっかりとした文章表現や構成をもった作家が誕生したことを嬉しく思っている。そして、重松氏の官能世界に酔ったあとは、重松氏が本当に描こうとしている時代のことや家族の問題を扱った、他の作品にもふれてみるのもいい。もっと夢中になれるかもしれない。

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紙の本団鬼六論

2004/02/15 21:01

一期は夢よ、ただ狂え

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 団鬼六。鬼六を<きろく>と読む人もいるようだが、正確には<おにろく>、この本の著者である堀江教授も冒頭にきちんとルビをふっている。いかにもおどろおどろしい名前だが、昭和六年生まれの男が鬼と化してSM道をつきつめることを決意してつけたペンネームらしい。SM小説の巨匠である。誤解をおそれずにいえば、漫画界の手塚治虫に匹敵する、ビッグネームである。最近は新潮社のような大手出版社が何冊も新作を出版しているからかなり有名になっているが、私が初めて鬼六の名前を知った三〇年以上前は、名前を見ただけでドキドキしたものだ。(七〇年代の初頭は今みたいにヌード写真も氾濫していなかった頃である。『SMファン』や『SMセレクト』といったSM雑誌のグラビアは縛りとか鞭打ちの写真を掲載していたが、ヌード写真を見るにはこういった雑誌を購入する方が容易な時代だった。そして、そんな雑誌には必ずといって団鬼六の名前があったものだ。そのような事情も、貸本漫画時代の手塚に似ているような気がする。)

 著者の堀江珠喜教授はれっきとした大学教授である。しかも女性なのだ。そのような方がこうしてSM界の巨匠といわれる団鬼六の作品論を書かれるのであるから、SMを変態扱いにしていた時代からすれば隔世の感がある。そもそも鬼六が活躍していたSM小説や官能小説というのは文学史の鬼っ子みたいな存在で、まじめに論じられてこなかった印象が強い。多くの読者(そしてその多くは匿名性をもっているのだが)を持ちながら、社会史としても風俗史としても論じられていない。「大衆的な材料ほど、研究対象として扱うのは難しいのであるが、このあたりで<ガクモン>としての<鬼六論>を、一度まとめておくことで、昭和文化誌の一端がうかがえると思われる」(11頁)と書く、堀江教授に拍手をおくりたい。

 そもそも団鬼六のSM小説は極めて日本的な構成である。SMの世界でもっとも有名なマルキ・ド・サド(いうまでもなくサディズムは彼の名前からつけられたものだが)との比較でいっても、鬼六作品では鞭打つといった乱暴な描写は極めて少ない。「それよりも縄で縛ることによって、精神的にいたぶりながら、綺麗な身体に官能美を与えるのが、鬼六のSMなのだ」(72頁)と、教授の分析は懇切丁寧である。鬼六の作品はよく耽美小説といわれるが、この耽美という言葉には美の追求という真摯な意味が込められていることを忘れてはいけない。

 SMが社会的に認められるようになったのはいつ頃だろうか。鬼六の『SMに市民権を与えたのは私です』という本が出版されたのは一九九五年であるが、さすがに公共図書館では購入してもらえなかった。(同じ図書館が二〇〇〇年に新潮社から出版された鬼六の『檸檬夫人』を貸し出したのが不思議で仕方がなかった。いずれにしてもそのあたりがSM開化の頃だろう)日本におけるSMの歴史にとって、鬼六の果たしてきた意味は大きい。それはいつまでも第一線で活躍し続けた手塚治虫と、やはりよく似ている。手塚ファンには叱られるかもしれないが、手塚の「鉄腕アトム」がいつまでもヒーローでありつづけたように、鬼六の「花と蛇」の静子は永遠のヒロインである。そして、多くの手塚漫画論が書かれたように、これからも真面目な団鬼六論が書かれることを期待する。 

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インモラル

2005/04/17 20:47

乳房をもった官能小説家

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本書は昨年(2004年)公開された映画「花と蛇」でその眩いばかりの肢体を惜しげもなく披露し世の多くの男性を魅了した、女優杉本彩の官能小説家としての処女作品集である。「花と蛇」はSM作家団鬼六の代表作で、映画でも淫靡なSMの世界が繰り広げられている。その映画の中で緊縛と辱めにあう主人公の麗夫人静子を演じたのが杉本で、彼女はその難しい役どころを見事に演じきっていた。彼女は自身の肢体をもって団鬼六の作品に生気を吹き込んだのである。
杉本は自身のこの官能小説でもその肢体を存分に活用している。この連作集の主人公をセックスレスで離婚した女優という設定にすることで、多くの読者は著者である杉本彩の生活でだぶらせていく。主人公が杉本に近くなればなるほど、読者は主人公の肢体や表情を想像しやすくなる。女優杉本彩の乳房も悩ましげな表情も雑誌のグラビアや写真集、そして映像で多くの男性の目に焼きついている。杉本は主人公を自身の分身であるように描くことで、文章の表現以上の昂ぶりを読者に提供することになる。
そもそも官能小説は読者の想像力にその出来栄えの多くをゆだねざるを得ないものだ。作家たちのどのような筆力をもってしても、読者が何ひとつイマジネーションを引き出すことができないとすれば、その作品は官能小説として評価されることはない。特に男性を読者とする官能小説では、そこで描かれる女性の肢体や表情をどれくらい生々しく読者自身が想像できるかにかかっているといえる。そういう意味では、官能小説はもっとも読者の想像をたくましくするファンタジーなのである。
新人官能小説家杉本彩は自身の魅力を充分に認識している。自身の乳房がどれほど多くの男性の視線を集めるか熟知している。だから、この連作集は新人作家の作品集とはいえ官能小説として評価されていい。そして、今後自身の分身を捨て去った時、杉本がどのような作品を書くのか。乳房をもった官能小説家の、次の作品が待ち遠しい。

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最後の愛人

2004/03/21 14:57

私にもいつか終恋の女は現れるのだろうか

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 最初にことわっておくと、この連作集は官能小説ではない。SM小説の巨匠団鬼六の作品ということで、縛りとか辱めの場面を期待される方も多いだろうが、この連作集に収められた三編の作品にはほとんどそのような描写はない。何しろこの作品の主人公である七二歳の老作家は勃起不全なのだ。それでいて、孫娘のように年の離れた二四歳の愛人をつくった。マンションに住まわせ、車を買い与え、高級な着物で飾った。でも、肌さえ合わさない。しかも、その愛人さくらが「先生ごめんなさい。本当に先生を愛してました」という短い走り書きを残して、突然自らの命を絶ってしまう。この連作集は彼女の死によって取り残された老作家の、愛人さくらとは自身にとって何だったのかを辿る巡礼の物語である。

 「七十過ぎて知り合ったさくらが終恋の女ということになるだろう」(「花は葬らしめよ」187頁)

 団鬼六は二四歳で命を絶った愛人さくらのことをそう書いた。終恋。初恋に対峙する言葉として、団はそう書いた。そして、初恋の人もそうであったが、終恋の女であったさくらも「感情がこまやかで神経が微妙で、女のいじらしさを持っ」た「男が永遠に愛し続ける女の原形というものを備えて」いた女性だったことに気づくのである。団鬼六の情痴小説の愛読者なら気がつくだろうが、団が多くの物語の中で辱めをうけさせてきた女主人公(ヒロイン)の原型がそこにある。つまり、団の女性観は初恋の女から、多くの女主人公を経て、終恋の女に至るまで、何ひとつ変わらない、小さくて純な世界なのだ。

 それは団だけの特別な世界なのかもしれない。団が情痴小説の作家であったからこそ、彼は純粋に自身の女を追い求めることができたともいえる。現実の団の女性遍歴は知るよしもないが、どのような女性と関わりをもったとしても、作家団鬼六は作品の中では常に自身の好みの女性を描き続けてこれた。そんな仕合わせなことがあるだろうか。そして、七二歳にして、終恋の女とめぐりあうという、幸福。それはまるで団の物語の女主人公たちが辱めの果てにたどりつく、快楽の極みの感情に似ている。

 私はいつしか七二歳の老作家に嫉妬している。「もうメスを追う牙は欠けている。犬を道連れにして静かな老後を過ごそうよ」(188頁)と書く、団鬼六を羨んでいる。私にもいつか終恋の女は現れるのだろうか。そして、自分の生涯の中で本当に愛していた女性の姿に気がつくことがあるのだろうか。終恋までには、まだ少し時間がありそうだから、ゆっくり恋をさがしてみるか。

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愛妻日記

2004/01/18 17:33

夫婦という距離

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 直木賞作家重松清の、初の官能小説集である。物語の運び、語彙の豊かさ、文章の組立て、そのいずれもが上手な書き手であるから、性の表現も豊穣であり、過激である。官能小説としても満足できる作品集だ。それでいて、平野甲賀の装丁、重松清という作者名、「愛妻日記」というソフトな書名、講談社という大手出版社名、とくれば、この本のことを知らない人は、読んでいる私がこの本でどれほど興奮し欲情しているかはわからないだろう。それはこの作品の中で描かれた、密室の中で秘儀を繰り返す六組の夫婦の愉しみに似ている。

 六つの物語はいずれも夫のゆがんだ性の発露によって展開する。しかしながら、それらは異常な性の行為なのだろうか。この本の宣伝コピーは「奥様には隠れて読んでほしいのです」とあるが、むしろ性の喜びを共有できないことの方が不思議な気がする。夫婦とはある意味で、この作品の夫婦たちがそうであるように、性の共犯者であるはずなのに。

 ならば夫婦とは何だろう。男と女はどうして同居という煩わしい形態をとってまで夫婦という関係を結ぶのだろうか。いつも一緒にいたいという感情の底には、性の関係を夫婦という自分たちの空間の中で行い続けたいという欲望があったはずだ。しかし、夫婦生活を続けるうちに、夫婦が行なう性の営みに何の刺激もなくなっていく。その果てには「饗宴」という作品に描かれたように、互いの肉体の衰えにおぞましさまで感じるようになっていく。それは何故か。夫婦の関係こそどのようなタブーもない性の営みができうるはずなのに。夫婦の間の性だからこそゆがんだ行為さえも認めあえるはずなのに。何故夫婦は変化のない性を繰り返すのだろうか。

 重松清は「妻に対する夫のゆがんだ…でも、だからこそまっとうでありうるはずの情欲を描いた」と書いている。その上で「小説の書き手として、これらの物語を僕は欲していたのだろう。今後も夫婦や家族の物語を書きつづけたいから、性から逃げたくなかった、のかもしれない」と続ける。だから、読み手である私たちも夫婦の性から逃げないでいよう。そして、そのことを手がかりにして夫婦という関係のありようを考えてみるのも重要なことかもしれない。

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紙の本俳句とエロス

2005/03/29 22:46

亀鳴くと

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 俳句は窮屈な文芸である。五七五の十七文字で表現すること、季語といわれる語句を 必要とすることなど作句には決められた規則がある。もちろん山種火の作品のように不定型のものや季語をいれない無季のものはあるが、俳句が俳句として成立するにはやはり一定の規則が必要だろう。そういった縛りの中で日常生活のあらゆる場面を自由自在に表現しうる喜びが俳句の妙味といえる。つまり窮屈であればこそ、俳句は文芸として今に至るまで多くの支持を得てきたといえる。

 ただ残念ながら俳句はわびやさびだけの「閑寂趣味」と捉えられる傾向があるのも事実で、「花鳥風月」だけを愛でる「老人の文芸」と誤解している人も多いのではないだろうか。本書はエロティシズム俳句の開拓者である日野草城(俳人・1901〜1956)の俳句(草城自身は「官能俳句」と呼んだらしい 。私はこの呼び方の方が好きだが)を中心に俳句がどのように日常生活でのエロティシズムを描いてきたかを多くの作品を紹介しながら論じたものである。本書を読めば俳句がわび、さびの世界観だけを表現しうるものではなく、実に瑞々しい官能の世界をも描ける文芸だということが理解してもらえるにちがいない。

 本書で著者のいうエロティシズム俳句とは「性の営みそのものを詠むというよりも、性の営みへの憧憬を詠」(4頁)んだもので、本書で紹介されている多くの作品も直截的ではない。そのことを著者は「あえかなるエロティシズム」と呼んで、自身の嗜好とまでいう。もちろんもっと直截的な表現を好む読者もいるだろうから、このあたりは個人的な嗜好にまかせるしかない。本書では即物的に性を詠んだ川柳における「破礼句」(ばれく)や短歌でのエロス的な表現も紹介されているから、読者が自身で気付かないエロティシズムの嗜好を掘りあてる一助になるかもしれない。

 そのようなエロティシズム俳句の紹介に留まらず、季語や切字の使い方など俳句上達のための方法が丁寧に書かれているのも本書の特長で「俳句の読み方入門」としても役立つようになっている。特に切字については「俳句の面白さを演出する」ものと著者が書いているように、紹介されている俳句すべてに「切字」「切れ」が明記され、その作用が句に与える影響がわかりやすく解説されている。切字というのは使い方や読み方が頗る難しい俳句だけの独特な用法だが、本書はそれ一点をとっても出色の入門書と評価していい。

 本書に誘発されて、戯れに官能俳句を作ってみた。

 亀鳴くと 言ひて恋人 背の熱し (太郎)

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愛は噓をつく 女の思惑

2004/08/08 18:27

あなたにとって、私は何?

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 漢和辞典に面白い漢字を見つけた。嬲(なぶ)る。男に挟まれて女がいる。何だか男の事情に振り回されている女の戸惑いを表しているような漢字である。女一人が男二人の嫉妬に苦しめられているというより、男の二つの表情に女がとまどっているとも見える。

 おなじ登場人物、同じ場面、会話も同じ、それでいて、女と男は微妙にずれていく。そんな女と男の心の動きを、女側から描いた作品と男側から描いた作品という意欲的な二部作として発表した、官能作家神崎京介氏の、これは女篇である。二八歳の独身OL佐絵は、妻子持ちのサラリーマンである田島と不倫関係にある。佐絵にとって田島は、愛の対象である。しかし、叶わない愛だということは頭では理解している。だから、つきあうとしても、甘い言葉を口にしても、どこか遠慮があるが、女の願望が見え隠れする。いつも自分の夢の実現を願っている。そのことで、佐絵は田島の心の有り様が見えなくなっていく。

 印象的な場面がある。冒頭の、久しぶりに会った二人がシティホテルで官能の時間を過ごそうとする場面である。「早く来て欲しい」と田島の抱擁を望んでいる佐絵は「後ろから抱きしめて欲しい」と願いながらも、部屋にはいってすっと窓際に行く。女のポーズが佐絵の行動を田島と向かい合わせない。同じ場面を田島の視点から描いたもう一冊の男篇で読むと、田島はそんな佐絵の行動に「つまらない女」と思っている。「喜ぶことを下品だとでも思っているのだろうか」と、そんな視線で田島は佐絵を見ている。このように、微妙にずれながら、二人の関係は破局へ向かっていく。

 この女篇に描かれた佐絵の心の動きは、やはり不倫の関係にあるからだろうか、あまりにも哀れだ。愛を信じようとする女の視点で男をみると、男がどこかに裏切りを秘めているように思える。田島という男性はいつも逃げようとしている。そのことに気がついていくことに、女の強さがあるともいえるし、哀しみがあるともいえる。この女篇を読んだ読者はぜひ、男篇も読んでもらいたい。女と男。その間には、やはり深くて暗い川が流れているのだろうか。

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愛は噓をつく 男の事情

2004/08/08 17:58

君にとって、僕は何?

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 漢和辞典に面白い漢字を見つけた。嫐(なぶ)る。女に挟まれて男がいる。何だか女に攻め立てられている男の戦々恐々を表しているような漢字である。男一人が女二人の嫉妬に苦しめられているというより、女の二つの表情に男がとまどっているとも見える。

 おなじ登場人物、同じ場面、会話も同じ、それでいて、男と女は微妙にずれていく。そんな男と女の心の動きを、男側から描いた作品と女側から描いた作品という意欲的な二部作として発表した、官能作家神崎京介氏の、これは男篇である。妻子持ちのサラリーマンである田島は、二八歳の独身OL佐絵と不倫関係にある。田島にとって佐絵は、性の対象である。だから、つきあうとしても、甘い言葉を口にしても、どこか打算があり、男の身勝手が見え隠れする。いつも逃げられる場所を探している。そのことで、田島は佐絵の心の有り様が見えなくなっていく。

 印象的な場面がある。冒頭の、久しぶりに会った二人がシティホテルで官能の時間を過ごそうとする場面である。部屋にはいってすっと窓際に行く佐絵を田島は「つまらない女」と思う。「喜ぶことを下品だとでも思っているのだろうか」と、そんな視線で田島は佐絵を見ている。同じ場面を佐絵の視点から描いたもう一冊の女篇で読むと、佐絵は「早く来て欲しい」と田島の抱擁を望んでいる。「後ろから抱きしめて欲しい」と願いながらも、女のポーズが佐絵の行動を田島と向かい合わせない。このように、微妙にずれながら、二人の関係は破局へ向かっていく。

 この男篇に描かれた田島の心の動きは、同じ男ながらあまりにも身勝手だ。そんなつまらない男の視点で女をみると、女までもがつまらなくみえる。佐絵という女性はもう少しまっとうに愛を考えている。そのことに気がつかないことに、男の哀れがあるともいえる。この男篇を読んだ読者はぜひ、女篇も読んでもらいたい。男と女。その間には、やはり深くて暗い川が流れているのだろうか。

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2004/06/06 18:47

愛の前にあるもの

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 性的にいやらしいことやそういうことをする人のことを「エッチ」という。その語源は諸説色々あるらしい。その中で通説になっているのが、六十年代に女子高生や女子大生が「変態」のローマ字書きの頭文字の「h」をそのようなさまの隠語として使っていたというものだ。最近の「エッチ」は変態というほど特異な意味をもたない。もっとあっけらかんとしている。ちなみに、私の子供の頃には、当時人気のあった漫画から「エッチ」な人を「8(エイト)マン」と呼んでいた。「h」がアルファベットの八番目の文字だという、わかってしまえば単純な理由である。

 神崎京介のこの作品は、夕刊紙「日刊ゲンザイ」に『女耽り』という題名で掲載されていたものの単行本化だ。読者の多くが帰宅途中のサラリーマンということからだろう。この作品の主人公は四十二歳の厄年を迎えた、電気メーカーの営業部に勤める男性である。肉体の衰えを感じ始める年令であるが、主人公はまだ枯れていかないと思っている。そんな彼が偶然三十歳の人材派遣社員と「えっち」をしたことで、自信をもっていく。彼女につづいて、清純な社長秘書、三十五歳の女性会社社長、二十五歳の女子社員、と原題とおり女耽りが続く。(三十八歳の妻との「エッチ」も描かれているが官能性が乏しいのは作者が意図したものか、それともそれが現実なのか)

 この作品を読んだ読者は、もしかしたら自身にも主人公のような愉楽の生活が訪れると思うだろうか。そんなに現実は甘いものでないことを、読者自身が一番わかっているにちがいない。官能小説は大人の童話だ。自分ではできないことを物語の主人公がかわりにしてくれる。主人公に名前があったとしても、彼の想いや行動は読者自身に近いものでなければならない。それが官能小説の成功の秘訣だろう。そういう意味で、神崎の作品が多くのファンを持つのは、読者の欲望をツボをつかんでいるからといえる。

 「女性を愛する愉しみは、想いを秘めつづけているからこそ得られるのかもしれない」(8頁)と作者は書いている。そういえば、「エッチ」の語源のひとつに、「愛(i)」の前に行なうのが「エッチ(h)」というものがある。アルファベットの順番からの強引な説である。愛が先か、エッチが先か、あなたはどちらだろうか。

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紙の本エロチカ

2004/05/03 22:43

作家は官能の荒野をめざす

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 トルコだったか、ある国の諺に「すでに本はたくさん書かれすぎている」というのがあると聞いたことがある。人間如何に生きるべきか、であるとか、恋情の狂おしいまでの思いであるとか、作家たちは絶え間なく書き続けている。この諺を前にして萎縮する、そんな柔な心臓であっては小説などは書けないということであろうか。いわんや、官能小説である。どのようなジャンルよりも古今東西、どれほど幾多の作家たちが官能の世界を描いてきたことか。彼らにとって、冒頭の諺にどんな意味もない。官能小説は確かにたくさん書かれてきた、しかし自身が求める官能ではない。かくて、作家たちは二一世紀になっても、官能の荒野をめざすのだ。青年たちは、とっくに荒野をめざさなくなっているのに。

 この「エロチカ」という本は、津原泰水、山田正紀、京極夏彦、桐野夏生、貫井徳郎、皆川博子、北野勇作、我孫子武丸といった八人の人気作家たちが、それぞれの官能を描いた作品集である。作品の前に「官能とスキル」と題して、桐野夏生が堂々たる官能宣言を書いている。「人は一生かかっておのれのエロスの何たるかを知る。あるいは、知らずに死ぬ。自分のエロスこそが最大の謎なのだとしたら、作家たる者は皆、摩訶不思議にして、生きるに肝要なエロスというものを、文章によって表現すべきではないだろうか、これぞ作家のルネサンス運動に相応しい」と。桐野の気負いを感じさせる文章は、作家たちがなぜ官能の世界を描こうとするのかといった疑問の答えを明らかにしている。つまり、官能とは謎であるということ。そして、謎であるということは答えもどこかにあるということ。作家たちは果てのない荒野に歩きだすしかない。

 では、官能とは何だろうか。その答えは読者一人ひとりの心の中にある。少なくともこの本に収められた八編の作品を読んで、生理的な性欲を掻き立てられることはない。そういう点ではこれらの作品に官能小説の高ぶりは期待しない方がいい。しかし、京極の、あるいは桐野の作品を読んで、深く心の官能を揺さぶられる人もいるかもしれない。少なくとも私が感じられなかっただけで、別の読者は違うかもしれない。それこそが、桐野のいう「自分のエロスこそが最大の謎」なのだろう。

 昔ずっと昔、スフィンクスは旅人に謎かけをしていたという。この本はもしかしたら、現代のスフィンクスかもしれない。私たちにかけられた謎、それこそが「おのれのエロスの何たるか」ではないだろうか。 

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紙の本良いセックス悪いセックス

2003/09/14 18:38

斎藤綾子という毒(ポイズン)

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 食卓の上になにげなく置かれた文庫本。娘も二十二にしてようやく読書の快楽に目覚めたか、文庫本とはいえ本は本、浮かれ気分で手にとってハラリと表紙をめくると、斎藤綾子、「愛より速く」、と文字が飛び込んでくる。父親はさすがにやばいと、周りに誰もいないことを確かめて、元あった場所に文庫本を戻したものの、何かいけないものを見てしまったようで、血圧が少しあがったかもしれぬ。

 斎藤綾子は毒である。特に若い娘にとって、その毒性は強い。オヤジが興味本位に手にするのとは訳がちがう。

 なぜ斎藤が毒なのか。彼女があまりにあっけらかんとセックスの快楽を描きすぎるからだ。斎藤が描くセックスっておいしすぎるし、刺激に満ちている。しかもオヤジには体験できないのがしゃくにさわる。おいしいものはこっそり隠れて味わうものだという卑しさを見破られたようで、だから斎藤は毒だといい募り、ドクロのマークをつけて戸棚の奥にしまっておきたいくらいなのに。ところが、若い娘に人気の高い安野モモコのイラストを表紙にしたり、花柄絵文字風に「良いセックス 悪いセックス」と書かれてしまうと、この本おいしいですよと言いまくっているようで、若い娘が手にしても何の違和感もない。むしろオヤジが手にした途端、場違いな空間に放り出されてしまう。これこそ斎藤の毒にちがいない。なのに、斎藤綾子を毒だといい募ればつのる程、自分の年令や経験やセックスライフが貧弱に思えてしまうのはなぜだろう。

 セックスについての短文、自身の経験にそってのセックス技術、はたまた斎藤流(ということはかなりエロティックな)恋愛小説、とまさにこの本を読めば、あなたにとって斎藤綾子が毒かどうか、わかるはずだ。でも、あなたがもしも四十を過ぎた良識ある大人であれば、くれぐれもご注意を。斎藤綾子の「おーい、みんな発情してるかァ!?」(123頁)なんていう挑発にはけっして乗らないように。おいしいものは戸棚にしまっておきましょうよ。 

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