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レビューアーランキング
先月(2017年6月)

喜多哲士さんのレビュー一覧

投稿者:喜多哲士

4 件中 1 件~ 4 件を表示

本書は牧野短編の精髄である

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 以前、私は牧野修について「言語感覚の鋭敏さには舌を巻く」と書いたことがある。この短編集を読むと、確かにそれは間違いではなく、それどころかその言語感覚ゆえに牧野修の小説は優れているのだと実感させられる。
 しかし、この短編集でそれ以上に感じさせられたのは、身体感覚に対する鋭さである。例えば、「踊るバビロン」である。ここに登場する〈家具人間〉は、痛みというものが理解できない。痛み自体は感じるのだがそれは単に刺激にしか過ぎず、我々が感じる痛みではないのだ。そして、そんな〈家具人間〉に道具のように扱われ身体を徹底的に傷つけられる人間は、その痛みの極限に至った時、なんと〈物語〉を生み出してしまうのである。
 言語と身体が一体化するとなると、「逃げゆく物語の話」であろう。書物が完全に記号化され、それがラングドール(言語人形)という形のアンドロイドに形成される。言語統制のためにホラーやポルノのラングドールは狩られることになるのだが、傷つけられた部分からまるで人間の血のように言語がこぼれ落ちるのである。
 言語の具現化といえば「インキュバス言語」にとどめをさす。〈インキュバス言語〉を与えられた男の猥雑きわまりない言葉は、世界を変化させ、崩壊させてしまう。身体どころか、この世界そのものが猥雑きわまりないものなのだという本質をえぐり出す。
 「或る芸人の記録」では、一世を風靡したが現在は落ちぶれてしまっている芸人が、世界を滅亡させるほど力を持った謎の生命体を言語により笑わせてしまうのである!
 本書は、ホラー・アンソロジー、バカSFアンソロジーのために書かれたものを中心としている。そして2編だけ本格デビューする前に発表されたものも収録している。しかし、それらは作家としてポジションを確立させてから書かれたものの間にまじっていても、なんら違和感を生じさせない。文章の硬さなど若さを感じさせるところはもちろんあるのだが。
 現実世界に対する違和感、理解できないものを排除しようとする社会への不信。そういったテーマがどの短編にも感じられる。本書は牧野短編の精髄である。『忌まわしい匣』と並ぶ傑作短編集として書棚に並べておいてほしい一冊である。

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星の綿毛

2003/10/27 10:40

SF作家と育種家の二つの顔がみごとに結合して生まれたのが本書なのだ

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 砂漠の中にあるオアシス。そこには私たちが知っているものとよく似た不思議な植物が育ち、ムラの者はそこから得た収穫を〈交易人〉の持ってくるドウグと交換する。ドウグはトシから運ばれてくる。ムラには銀色の地平線である〈ハハ〉が必ずあり、〈ハハ〉が砂漠に緑をもたらすのである。
 物語は、このようなムラに住む少年ニジダマと、交易人ツキカゲとの交流から始まる。ニジダマはトシへの憧れを持っており、ツキカゲはなぜかニジダマをトシに連れて行きたがる。
 異世界ファンタジーであるかと思われる立ち上がりから、急展開して滅亡寸前の人類が地球から脱出しようという本格SFに転換していく。その転換の仕方は全く不自然ではない。少年が世界の構造を知ろうとする過程で、それらは明らかになっていくからだ。そして、物語の主人公が少年から交易人に移っていくと、一見不思議な舞台設定に一貫した意味づけがなされていく。
 作者の藤田雅矢は「ファンタジーノベル大賞」でデビューし、長編を2冊刊行した後は、叙情的な中にも一本筋の通ったSF短編を「SFマガジン」に発表し続けてきた。寡作ではあるが、それぞれの短編は読者の高い評価を常に受けている。また、育種家という顔も持ち『捨てるな、うまいタネ』(WAVE出版)という著書もある
 本書もまた、詩情あふれる描写で人々の思いを綴り、アイデアの核はSFならではの面白さに満ちたものである。そして本書は、育種家の本領発揮という側面があることも見逃せない。
 ムラ、トシなどで活写される植物の生態の緻密なこと。そして、読者はその植物たちに頼らなければ生きていかれない〈動物〉という種の特性をとことん思い知らされる。ここで描かれる植物と動物のかかわりは、〈共生〉ではない。まさに植物に生かされているといっていい。いや、われわれだってそうなのかもしれないのだ。そういう意味では本書は植物からの人間文明批判の書として読めなくもない。
 しかし、藤田雅矢はそれを声高に叫んだりはしない。静かに、そしてひそかにそういったメッセージを私たちに刻みつける。並々ならぬ力量を感じさせる。その文章の技の見事さ。
 しかし、本書の提出するテーマは、重く、そして残酷ですらある。砂漠に覆われた地球に点在して暮らす人間たちの姿、それは私たちの未来なのかもしれない。そして、そこから脱出しようとする人々の未来を暗示するラスト。何と冷酷なメッセージなのだろうか。SF作家と育種家の二つの顔がみごとに結合して生まれたのが本書なのだと、改めて思うのである。(bk1ブックナビゲーター:喜多哲士/書評家・教員)

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「現代の夢野久作」のデビュー短編集

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 タイトルを見て、ああそうか、この作者のねらいは夢野久作にあったのだな、とやっとわかった。「ドグラ・マグラ」のもじりだろうと推測されるのである。そして、本書に収録された各短編に、その影響を多分に感じることができる。
 一言でいうと、奇妙奇天烈摩訶不思議な世界、というべきか。擬古的な文体しかり、異様なオノマトペしかり、登場人物の怪しげなネーミングしかり。いたるところに夢野久作を意識した作りが見えてくる。
 では、夢野久作を読んだことがなければ本書は楽しめないかというと、そうではない。夢野久作の影響は濃いけれど、ここで展開される世界は明らかに深堀骨独自のものであるし、現代感覚とレトロ調の融合の面白さを堪能できることはまず間違いない。
 すすり泣くコインロッカーをめぐって無生物に意識があると主張するレヂナルド・キンケイドの奇行を描いた「蚯蚓、赤ん坊、あるいは砂糖水の沼」やおっさんの命令で角材と戦う男が登場する「隠密行動」などを読めば、その不可思議さを実感してもらえると思う。ここでは本筋などあってもなくてもよく、我々から見て異常とも思える登場人物の日常生活がただただ饒舌に語られる。この饒舌さが効果的に発せられるのは「飛び小母さん」だろうか。都市伝説である「飛び小母さん」をめぐって、最初はそんなものとは無関係なはずの登場人物たちの面妖な日常が、最後にはその「飛び小母さん」に収斂されていくあたり、作者の才気を感じさせる。
 さらに、茸学者の若松岩松教授とオッケペケ共和国国王(共和国なのに国王がいるというところがえもいわれずおかしいではないか!)をめぐる「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」にいたっては、ナンセンスでデタラメでいいかげんな(褒め言葉であることに留意されたい)展開に唖然とすること受け合いであるし、時代劇である「闇鍋奉行」のバカバカしさは(ほりのぶゆきの漫画を想起させる)ひたすら無邪気でたわいない。
 異色なのは「愛の陥穽」で、この短編だけはファンタスティックでもの悲しかったりするが、設定はやはり作者らしいナンセンスなものだ。
 なにはともあれ、「現代の夢野久作」のデビュー短編集である。本書をステップとして、「ドグラ・マグラ」に匹敵する奇書をものしてほしいと切に願う次第。いやいや、どんなものがこれから出てくるか、目の離せない作家の一人ではある。(bk1ブックナビゲーター:喜多哲士/書評家・教員)

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紙の本忘却の船に流れは光

2003/07/29 12:02

本書を読まずして田中啓文を語るなかれ

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 閉ざされた空間に作られた都市。その都市の秩序を保つのは徹底した階層社会。というと、眉村卓あたりの社会派SFを連想する人もいるだろう。しかし、本書の作者は田中啓文である。支配階層である〈聖職者〉には性器がなく、子どもをつくるのは性器のみが発達した〈雌雄者〉である。子どもを育てる〈保育者〉は三対の乳房を持ち、作物を育て取り入れる者は三対の手足を有する〈耕作者〉、治安を守る〈警防者〉には鋭い嘴と爪がある。さらに脳だけ肥大した研究者である〈修学者〉……。神〈スサノオ〉によって産み出されたフリークスがそれぞれの階層で都市を守る。特化していない者は〈普遍者〉と呼ばれ、最下層の身分とされている。
 この設定だけでわくわくしない人がいたとしたら、その人はSFファンではない、と断言してしまおう。物語は、〈修学者〉に生まれ〈聖職者〉として育った主人公が、悪魔崇拝者たちの会合を取り締まったその場で出生した〈普遍者〉の子どもを〈保育者〉に預け、そこで出会った〈修学者〉からこの世界を律するルールに対する疑念を示唆されるところから動きだし、秩序に従おうとする心とこの世界の隠された秘密を知りたいという欲求の葛藤を経て、ついに真相にたどりつくまでを描く。その葛藤、真相、複雑な人間関係は、一点に収斂していく。作者のその手並みたるや見事なもの。
 読み始めたら一気によまずにはいられない面白さではあるが、私は本書を読了した後、本書が作者のデビュー直後に書いていたヤングアダルト作品でただよわせていた匂いを感じていた。そして、その余韻にひたっていた。本書では、人間の悪意、虚無感、猥雑性、幼児的なものがごった煮のように詰めこまれている。小さい子どもが不思議な姿形をした怪獣に熱中するように、怪獣が町を破壊する様子にカタルシスを感じるように。それこそ、作者がデビュー以来ずっと追い続けてきたものではなかったか。
 本書ではまた、作者独特の言語感覚、言葉遊びの楽しさも味わうことができる。駄洒落すれすれの寸止め……いや、もうこれは駄洒落を超えた言語遊戯かもしれない。
 汚物や猥褻なものを嫌う潔癖な人たちには、本書は受け入れられないかもしれない。しかし考えても見てほしい。人間、いや生き物、いや、この世界全てを律する現象は全てがそういったもので満たされているのではないか。作者の小児的なまでの汚物指向を嫌悪してはならない。そこにこそ、生けとし生きるものの真実が現れているのだ。
 さあ、ここまで拙文を読んだあなたなら、もうおわかりだろう。本書を読まずして田中啓文を語るなかれ。ここには彼のエッセンスがたっぷり詰めこまれているのだから。(bk1ブックナビゲーター:喜多哲士/書評家・教員)

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