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レビューアーランキング
先月(2017年6月)

おぎさんのレビュー一覧

投稿者:おぎ

7 件中 1 件~ 7 件を表示

悲しいほど美しい

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「午後の紅茶」のCMでもおなじみだったモデル、高橋マリ子。川端康成は「悲しいほど美しい」という表現をよく使ったそうですが、彼女がまさにそれ。僕もページをめくって眺めているうちに何故か涙が出そうになりました。月並みな言い方ですが、大人と子供の中間に位置する彼女の表情は儚く、少しも性の匂いをを感じさせません。その意味でも、女の子にぜひみてもらいたい一冊。

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響きと怒り

2002/05/19 18:40

ものすごく濃い上澄み液

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 フォークナー初期の代表作にして、もっとも実験的で、その後の方向性を定めることになる重要作。彼自身、「最も愛着のある作品」と言及していた。
 全四章から構成される内容は言葉の洪水というほかない。特に一章と二章はそれぞれ、白痴と自殺前の青年の視点から描かれていて、すさまじいの一言。一般の言う意味での健常者ではない人物の意識に、読者は始め戸惑いながらも、力技で入り込んでいかされる。過去が現在のように、現在が過去のように語られ、妄想が生々しく、現実が夢であるかのように立ち現れてくる。過去と現在の、夢と現の、外と内の正常な感覚は混濁され、麻痺する。一日が一年と思わせるほど引き伸ばされる。この辺は、ドストエフスキーに連なる、フォークナー独特の特殊な時間感覚であるのだろう。
 読後、膨大な言葉から抽出されるのは、濃い上澄みとでもいうべきか。この巨大な作品を前にして、僕はただ言葉を失うしかなかった。
 スティーブ・エリクソンなんかが好きな人にもお勧め。

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紙の本アメリカの鱒釣り

2002/05/11 16:00

「ようこそ」

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古本市場で軒並み高い値を付けているブローティガンの小説。そんな中、唯一新品で手に入る作品。しかし『アメリカの鱒釣り』は価値や値段といったものから、最も遠いところにある。四十七の断章からなる内容は、これといった筋もなく一見難解だが、その文体は何度でも再読が出来るほど詩的で儚い。章を一つだけ取り出して味わうもよし、気に入った断片をノートに書き出すもよし。
またこの作品はあらゆる解釈を受け付けると同時に、あらゆる解釈もはねのける。十人いれば、十通りの読み方が可能でありながら、あらゆる「読み」を超越している。その意味において「消費」とは全く無関係の作品といえるだろう。
といったわけで、そういう僕のこの意見も一つのものでしかありえない。藤本和子氏の名訳もさることながら、彼女のあとがきも素晴らしい。とにかく手にとって、美しい文章を堪能してみてもらいたい。
「銅像の土台のまわりには、四つの言葉が彫り付けてある。東に向けて、ようこそ、西に向けて、ようこそ、北に向けて、ようこそ、南に向けて、ようこそ」
良くないですか?

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紙の本カチアートを追跡して 2

2002/11/29 00:44

戦争であり、戦争にあらず

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 戦争を体験していない僕が戦争を語ること、そこにはとまどいがある。それが悲惨で残酷で、邪悪なものであることは頭ではよく理解できるのだけど、どうも実体がつかめない。さらにいえば、戦争に“関わる”事柄に“関わる”ことにすら後ずさりをしてしまう。そういう意味では、たとえば、アート・スピーゲルマンの漫画『マウス』は、まさに僕のそのような感情をうまく代弁してくれた。アウシュビッツの後遺症に悩む父親の性癖を理解できない主人公。彼は「アウシュビッツ」を題材に漫画を描こうと、調べていくうちに、次第に父への共感を深め、最後には和解へと近づいていった。
 さて、T・オブライエンである。彼が扱うのはヴェトナム戦争。人類史上、最も無意味で、空虚で、錯綜していた戦争。もちろんあらゆる戦争は、それら修飾語句を冠するに値するが、ヴェトナムは本当にひどかった。だいいち、戦争の目的が完全に喪失していた。そこには前線もなければ、敵か味方の区別もしばしば明瞭ではない。自分たちが何のために戦っているのかもわからない。従軍兵士たちの志気は最低だったという。実際、彼らの姿はマリファナとロックに象徴され、そのイメージは今でも付きまとう。
 そんな渦中に放り込まれた、ごく普通の、普通過ぎるくらいの青年ポール・バリーン。他の兵士と同じく、彼は常に戸惑い、混乱している。でも、彼には恐れの裏返しの空威張りもなければ、投げやりもない。ただ恐怖を恐怖として、困難を困難として真っ正直に、真っ向から受け止めてしまう。そんな彼がとった手段が、「想像」であった。「想像力を飛翔させること」、そう書かれている。言い換えれば、要するに、異空間・異時間への飛躍。“ここ”に、“このとき”にいながらにして、“ここ”ではない“どこか”へ、“このとき”ではない“いつか”へ。
 それは、悪く言えば、現実逃避なのかもしれない。だけど、ここで留意しなければいけないことが二つある。一つは、創造は想像の延長線上にあるということ。実際に、オブライエンはヴェトナムを体験しなければ、小説なんて書かなかったと発言しているし、ストーリー・テリングの方法にしても、思い浮かべた(想像した)ことを、思い浮かべた(想像した)がまま、徐々に積み重ね、短いエピソードを編み上げて長編に仕立てていく。彼の小説は綿密に構築された「創造」物というよりは、もっとてらいのない「想像」物に近い(その「てらいのなさ」は、一部、批評家たちによるオブライエン文学の無視を招いたけど)。
 そしてそのことは第二の留意点にもつながる。それは、誰もが誰も自分の物語を持っている、ということだ。僕たちは、自分らの将来を思う。たとえば、弁護士になった「私」を思い浮かべる、今はただの貧乏学生、それでも必死に勉強する。そこには想像(フィクション)がある(そしてもちろん可能性がある)。あるいは過去に思いをはせる。へまをやったことばかりが喚起される人もいれば、思春期の無垢が失われてしまったことを嘆く人もいる。取捨選択、人間は記憶を選び取る、そして作りかえさえする。そこにもフィクションはないだろうか?
 このように、この世界自体、虚構の上に成立しているといっても過言ではない。誰もが虚構の中で息を吸い、吐き、自分だけの物語をせっせと紡ぎだしている。そういう意味で、『カチアートを追跡して』は、戦争を媒介とした、もっと普遍的で、身近な話だ。
 戦争にデリケートになっている人も、距離を感じる人も大丈夫。この作品は戦争の物語であり、戦争の物語ではない。

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紙の本青い眼がほしい

2002/11/27 00:55

人種問題に無知な僕でものめりこめる

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 翻訳文学を読むとき、どうしても原語と日本語の問題にぶち当たる。ヘミングウェイの文章を例にとるとわかりやすい。日本語は「〜た。〜た。」と単調に続くけど、英語ではもちろん文末に変化がある。『武器よさらば』なんかは“rain”という単語が様々なことを暗示していて、その単語を最後に物語りは意図的に閉じられるのだけど、翻訳ではもちろんそうならない。
 そんな事情はこの小説にも当てはまる。たとえば、冒頭、「秘密にしていたけれど」という表現があるが、これは黒人にはお馴染みの言い回しらしい。英語圏の人間であれば、その微妙な含みが理解できるのであろうが、僕はもちろん素通りしてしまった。著者自身「黒い書き方」をしようと苦心惨憺したと「あとがき」で言及しているのを見る限り、その他にもこのような見落としがあったのだろう。
 さらに、テーマは人種問題を密接に孕んでいる。日本に住む人間、少なくとも僕が日常的に人種の相違を目撃し、まして体験することは滅多に(ほとんど)ない。ここにもズレが生じる。日本人である僕がこの著書をどう扱い、どう消化するか。自分自身の浅学無知が嫌でも露呈される。
 それでも、そんな無学な僕でも、この作品は十分に面白かった。それは一重にトニ・モリスンのストーリーテリングのうまさによるのだろう。差別を声高にプロテストするわけでもなければ、むやみに読者を煽情するわけでもない。残酷な場面が繰り返し描かれても、不思議と嫌味な(これが差別でございます的な)、わざとらしい感じがしない。犠牲者を中心に据えつつ、加害者の暗闇がいかに形成されたかにも光を当てる。
 犠牲者と加害者、ここでは黒人同士の問題として扱われる。白人に対し劣等を感じながら、自らの「美しさ」に気づかない人々。彼らは諦め、慣れきり、次第に黒人社会の枠組みのなかで完結していく。共同体が形成されるとき、「落とし前」が必要とされる。そして犠牲者が生まれる。人種間ではなく、同じ人種内のいさかい。黒人の少年たちが、黒人の少女を「黒んぼやーい」とはやし立てる。そこには自分自身の黒さに対する嫌悪が詰まっている。吐き出しようのない弱者の不満が、さらに弱い者へと向かう。終わることのないネガティブの連鎖。
 これらの構造はもちろん、いじめの問題へとそのまま還元できるし、さらには、白人の美的感覚に馴らされ、屈服している黒人という文脈において、アメリカナイズされた日本の価値観を根本から揺るがすだけの説得力をもつ。それだけの普遍性と幅をトニ・モリスンの文学は備えている。それゆえ人種問題に縁遠い僕でも、『青い眼がほしい』はのめりこむように、最後まで飽きず読み通すことができた。

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紙の本勝手に生きろ!

2002/11/26 20:30

汚物、目を逸らすべからず

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 崇高なテーマもなければ、流麗な文章もない。たとえば、同じ「絶望」つながり(?)であり、『パルプ』にも名前が出てくるセリーヌのように、文体は練りに練ったというものでもないし、既成秩序の欺瞞を糾弾するわけでもない。そこにはただ(ブコウスキー流に言わせてもらえば)、糞溜めのような日常が素っ気無い文体で描かれているだけ。希望といえば、女を抱くこと、酒を飲むこと、ギャンブルで儲けること。希望というより、欲望まみれ。定職にも着かなければ、酔っ払って仕事に出かける始末。やる気ゼロ。社会適応性なし。
 そんな「ないない」尽くしのブコウスキーを、それでも、僕らは愛する(それは他の大家たちを差し置いて、彼の著作の多くが文庫化されていることからも明らかだろう)。取り留めのない日常の間に差し込まれる、主人公チナスキーの短編が初めて文芸誌に採用されるエピソードでは、自分がチナスキーであるかのごとく喜び、かつ、ブコウスキーにその姿を重ねホロっときてしまう。そして読了後、なんともいえぬ爽快感。希望すら湧いてくる。何とかやっていけるんじゃないか、そう思ってしまう。
 だけど、それを単純にカタルシスと呼ぶことはできない。薄汚い現実をありのまま、あるいはそれ以上の形にして文章に移しかえる、つまり人生の醜悪を極端に虚構化する、それはブコウスキーにとって自己救済であり、現実を乗り越える方法でもあった(彼はある深刻なトラウマを抱えていた)。
 想像力を働かせること、自分だけの物語を紡ぎ出すこと。
 ブコウスキーは、書くこととはつまり、生きることであると教えてくれる。働く、金を稼ぐ、食べていく、恋愛をする、そして何とか生きていく。彼は、僕らの身近で当たり前だが、決してたやすくはないことを題材に書いた。それには、頭だけで創りだした優等生文学を蹴散らすだけの切実ないい加減さ(とでもいうべきもの)がある。彼の文学は汗も血も、ネガティブなもの全て含め人生にまみれている(まさに「まみれている」といった感じだ)。彼がこんなたわごとを聞けば、「何? おれの文学? あんなの糞の塊さ」なんて笑い飛ばすだろうけど。

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紙の本母なる夜

2002/05/19 16:02

楽しむだけ、それで十分

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 「ありのままのわたしでいたい」というような表現がよく使われます。
 しかしここで疑問が生じます。「ありのままのわたし」とはどの「わたし」か? 「ありのままのわたし」とはどんな「わたし」か? つまり極言してしまえば、「わたしとは何か」という素朴にして根源的な疑問が浮かび上がってくるのです。
 人は社会(他者)と接するとき何らかの立場に立たされます。先生に対する生徒であり、生徒に対する先生であり、客に対するタクシー運転であり、といった具合に。意識的か無意識的かに関わらず、何らかの役割を演じなければならないのです。最近では自分を一つの商品とみなすかのごとく、自らが自らをプロデュ—スし、社会に売り出していく、ということが当たり前のように行われています。就職活動をしたことがある人にはよくわかるでしょう。それは世の中の矛盾を平らにし、日常生活をスムーズに進行するため、全ての人間に要求されます。言い古された表現ですが、世界は一つの舞台であり、各人はその上で行われる劇の登場人物を忠実に演じなければならないのです。たとえば、『桃太郎』の最初の場面で、桃太郎が亀に乗って川を泳いできたら、その劇はどうなるでしょうか? ある意味面白いかもしれませんが、他の役者は困ります。社会は表面上、このようにして成り立っているのです。
 しかし矛盾は矛盾として確かに存在し、世界はすべて合理的に割り切れるものではありません。役割を演じるということは、その矛盾に目をつぶり、人間という複雑なわけのわからない存在を半ば強引に単純化してしまう、ある意味不自然なことだといってもいいかもしれません。つまり元々人間の奥に潜む、不合理で透明な性質に無理やり色をつけてしまうことになりかねないのです。
 『母なる夜』には、演じすぎた男の悲劇が描かれています。それは自然、「舞台としての世界」を皮肉ることになります。この小説は他のヴォネガット作品ほどストーリーが奇想天外でもなく、宇宙人も出てきません。しかしそれゆえに、ヴォネガットの真摯な姿勢やメッセージが真正面から我々の常識に迫ってくるのです。
 21世紀の今日、最初に書いたような表現が無効になってしまうほど、「わたし」という存在が実体のないものだと心得ているわたしたちに、この小説はどんな意味をなしえるのでしょうか。そのさりげない文体からにじみ出てくる痛烈な皮肉が空虚に感じられるこの時代こそ一つの悲劇なのかもしれません。この作品を前にして、わたしたちは痛みつつも、ただヴォネガットの作り出す世界を純粋に楽しむしかないのです。

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