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先月(2017年6月)

わたなべさんのレビュー一覧

投稿者:わたなべ

185 件中 1 件~ 15 件を表示

騙し絵としての文学史

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1981年に出版された本書は、70年代後半から北米に輸入されはじめたいわゆる「ポスト構造主義」、日本では「フランス現代思想」といわれたバルト、フーコー、ドゥルーズ、デリダらの著作に代表される思想潮流に対するマルクス主義文芸批評の立場からのレスポンスの本として広く知られる時代を代表するような名著である。
いまとなっては信じがたいことだが、当時アメリカの文学批評では、文学作品の形式を内在的に論じる「形式主義(フォルマリズム)」が主流的立場にあり、さまざまな価値を相対化する「脱構築」や「記号学」などといった概念や方法が席巻していたのだが、ちょうど同時代のマイノリティーの復権と呼応するかのようにまずフェミニズム批評からはじまって、単純な教条主義的な「政治性」に退行するのではなく、むしろフォルマリズムの緻密な分析技法の成果を積極的に取り入れた上で、独自の「政治性(現在への介入)」を実現していく、そのような大きな時代の流れを、本書はその「はじめに」の冒頭の一句《つねに歴史化せよ!》のスローガンによって決定づけたのだった。
本書の内容は一言でいえば、作品を作家が規定されている歴史的なコンテクストから産み出されたイデオロギーの層とユートピアの層を備えた「社会的象徴行為」として捉え、さまざまな解釈学的技法(ノースロップ・フライ、グレマス、キリスト教神学、フロイト、レヴィ=ストロース、ルカーチ、デュルケーム、etc)を縦横に駆使して分析し、西欧19世紀に登場するリアリズム小説という文藝ジャンルに属する作品たちが、いかにしてタイトルとなっている「政治的無意識」を産み出す「社会的象徴行為」となっているかを示す、というそれ自体が殆ど壮大な「物語」とさえ思われるようなもので、全体の三分の一を要する第一章のでその「物語」が成り立つ理論的根拠と見通しが語られ、二章ではリアリズム以前の中世から19世紀に至るロマンス的作品を、本質的に非歴史的である共時的なジャンル批評を歴史化する理論的作業とともに分析し、三章ではいまだロマンス的なものを残しつつリアリズム小説として大きく変容していくバルザックの作品を、四章では資本主義が加速し物象化/商品化/断片化が加速度的に進行する時代の「実験」としてギッシングの作品が、そして五章ではリアリズムの時代からモダニズムの時代へと変貌する過渡期の作品としてコンラッドの作品が、それぞれ分析・記述されていく。結論となる「結語」では、マルクス/アルチュセールによって分析されたように歴史的布置によって規定された作家のイデオロギー(虚偽意識)によって夢見られたユートピアのアレゴリーとしての小説作品、というふうに弁証法的に歴史化=全体化される。そういった「作品」の二重性に、著者はベンヤミンの《文化の記録であって、同時に野蛮の記録でないものはない》というテーゼの発露を認め、そこにこそマルクス主義的な「介入」の契機を見る、という文芸批評の可能性へと結びつけていくことでこの大著は終る。
この、一種独特のパースペクティヴを持った「文学史」について、訳者を代表して解説を書いている大橋洋一氏は、「アヒルウサギ」のだまし絵に譬えてこう書いている。

《現実の一部でもある文学と、文学(物語)の一部でもある現実という両者の関係の析出に向けての歴史的解釈力の錬磨こそ、文化認識を変革するというきわめて重要な言語行為(象徴行為)へとつながるからである。騙し絵の比喩を続けるなら、見方を変えて、カムフラージュされたもう一方の図柄を認識できると、それ以後、二つの図柄が同時に見えてしまい、一方の図が消え去ることはない……二度と。》

このイメージ豊かな記述ほど、この大著の魅力をあますところなく表現しているものはないとさえ思う魅惑的なヴィジョンであり、作品に対する認識の変容こそが、優れた批評に触れる最大の楽しみであると考える読者には、是非手に取って本書を読んでいただきたいと思う。
また、ポスト構造主義で批判されるスタティックな構造分析や、記号学とは不倶戴天の敵とされる解釈学の技法、さらには神学的な象徴解釈の技法などさえも、マルクス主義を意識的に媒介させることによって「使用可能」に作り替え、その危険性をじゅうぶん認識しながら《つねに歴史化せよ!》のスローガンのもと分析の道具として躊躇わずに投入していくところなど、68年世代のフランスの映画作家フィリップ・ガレルが、国家の援助金を受けて映画製作をしているのを批判されて「敵の武器を奪って戦うことも出来るってことさ」と笑いながら答えていたのを想起させるもので、その凝縮された思考のきらめきとフットワークの軽さに爽快さすら感じさせられる。
平凡社ライブラリーではおそらく最大のページ数となるのではないかという巨大な文庫本であるが、注釈と字句索引、それに文中に登場する概念用語の解説となる「キー・コンセプト集」が付された非常に丁寧な作りになっていて、アカデミックな文芸批評に馴染みのない読者にもじゅうぶん読みやすいものとなっているのも好感度大。

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不思議な旋律

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは不思議な気分にさせられる作品である。ドイツ語圏スイス人の散文作家としてマイナーな人気を集めるローベルト・ヴァウザーの最初の作品で、奇妙な情熱的性向を有した主人公ジーモンが、職と住居を転々としながら放浪し、その兄姉、また知り合った人々と交流するほとんど永遠かと思われるような「猶予期間」を描いた長編小説。
まるで終ることのないギターのアドリヴのように、ジーモンは、たんにテキトーなことをそのときどきだけは真面目に燃えあがって発言したり考えたり(考えるというよりは夢想に近いが)行動したりするのだが、まったくもって論理的な一貫性がなく、ほとんど難癖に近い世界に対する批判精神と、いい気なもんだとしか言えないような寛大と慈悲とがないまぜになって倒錯的な「幸福感」につつまれていて、かといって不安がないわけではなく、また、しょっちゅうみずからのいたらなさを反省さえする、という有様で、しかも物語は、彼が周囲から愛されてばかりおり、非常に都合がよく、彼の異常さを「良いもの」としてくれる理解さえマレにではなくあり、その上、それでも彼の生活はほぼ破綻し、まったく未来に希望を見出せるものではないのに、それであってさえ、人生は淡々と続くのだ。このある種の「終らなさ」と、そもそも何も「はじまっていない」というかのごとき世界のありようは凄い。
私はまあそれなりに色んな小説を読んできたと思うのだが、これはそのなかでも随一の変わった作品だと思った。このわからなさ加減と言ったらばそうそうありえない境地をひらいていると思う。まあこんな法外な作品を書く作家の作品集が出るなんて、21世紀の日本もなかなか悪くないじゃないかとさえ思ったりする。続刊にも超期待。

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しかしデカくて重い本だよな。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投げつけたら致命傷を与えられるような本である。本文の紙質が良いのは写真図版があるからいいとして、カバーの紙が汚れやすく、書架にある1、2巻が、それよりも随分前に購入した『映画史』(筑摩書房・ISBN:4480870520)よりもゴテゴテになってしまっていて、ようするに雑文とインタビューを合わせた軽い読み物を、こんなデザインで作ってしまうセンスには疑問を感じる。一巻分を三分冊ソフトカバーにすりゃいいじゃんかと思うのだがどうなのだろう。ゴダール自身の本の読み方と同じく、ゴダールの書く本も、最初のページから最後まで律儀に読み進んで完読するような具合にはなっていないのだから、もっと軽やかにならないものだろうか。
それはともかく本書には1984年から1998年まで(作品で言えば『映画というささやかな商売の栄華と衰退』から『愛の世紀』まで)に書かれ公表されたエッセーやシナリオや本の序文、手紙、講演の記録、対談、インタビューなど雑多な文章と、付録として50年代に書かれたふたつの評論が収められている。あいかわらず表現は直線的なのだが論旨が複雑な韜晦に包まれた言葉の連続で、ペンを握る(あるいはキーを叩く)手が眼のように動く人なのだと思わせられる。ゴダールの意見は、基本的な部分では非常に保守的というか反動的でさえあって「私はフランス人ではない」などと言いながら、いかにもフランス的なものを感じさせ、その昔アレクサンドル・トローネが「ゴダールと仕事をするのはあまりにも困難だ」と言っていたことを思い出す。しかしそれでもなおここにあるのはまさに「いま考えている」という状態の真っ直中にある言葉の連なりの躍動感といったもので、知識でもなく、アイディアでもなく、その運動性に否応もなく引きつけられてしまう。
「映画ではものを考えるのはフォルムなんだ。そしてできのわるい映画では、思考がものを形づくるわけだ。」
こう語るゴダールの言葉に、映画のみならず20世紀の芸術の定義を読むことは決して間違いではないと思う。それは野崎歓が早稲田文学2002-7月号での浅田彰との対談で、最近のフランスの作家はみんなゴダールになりたがっている、と語ったようなメディア的な「ゴダール」という記号の流通とは別の次元で、ゴダールの存在が刺激的であることを、ゴダールの創作活動の持続性から学ばなければいけないということだ。僕は正直言ってゴダールの作品はあまり好まないし、すべての作品をまめに観ているわけでもない。けれど、この不器用とも言える映画作家の「形式への愛」には驚嘆しかつ共感しないわけにはいかない。

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紙の本シャティーラの四時間

2010/09/26 01:40

文学によって結晶化された死

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

待望の一冊。
表題作は1982年九月に起こった西ベイルートのパレスチナキャンプ襲撃虐殺事件に、十年ぶりでレバノンを訪れていたジュネがその知らせを聞いてすぐに駆けつけ(事件の三日後)、四時間の滞在の後パリに帰還、十月一杯をかけて執筆され、翌年一月に「パレスチナ研究誌」に掲載されたルポタージュ。晩年のジュネのルポタージュ全般に共通する、愛と希望と、静かな観察眼と洞察に満ちたきわめて美しいエッセーで、まるでジュネが見る/語ることで何かを語り出すかのような死体の数々の描写と、生者の彫像のような描写、生活することの根が破壊されてしまった人々において、たとえば芸術の自律性であるとか、政治と文学の差異であるとかの「分別」と言うものが、いかに欺瞞、というよりもむしろ根本的にありえないものであるのかを、このきわめてはっきりした政治的目的を有した文章はあらわしている。ジュネの孤独な連帯(政治=文学)は、ほとんど一つの奇跡のようだ。
続いて収録されているオーストリア・ラジオでジャーナリスト、リュディガー・ヴィッシェンバルと行った対話の記録では、質問者はほとんど執拗にジュネにとっての「文学」と「政治」の書くことにおいての関わりを問うている。これはかなり読み応えのある対話。

《リュディガー (略)あなたは話すときにいつも少し嘘をつくのだとおっしゃっていますね。それは単なるアイロニーだったのでしょうか。
ジュネ こう言っておこう。ちょっとした冗談でもあった。けれでも根本では、事実そう感じている。自分に対してしか正直になれない。話しはじめると、周りの状況によって裏切られる。聞いている人間によっても裏切られる。コミュニケーションというのはそういうものだからだ。自分の言葉の選択によっても裏切られる。自分一人に話しているときには、私は自分を感じない。時間がないし、自分に作り話を聞かせるまでもない。自分に嘘をつくには歳を取りすぎている。それに、私がパレスチナ人たちと一緒にいることを受け入れるのは、孤独のなかでのことだ。ライラにウイと言い、君と一緒に出発しようと言うときではない。そういうときではない。それは私が一人でいて、自分だけで決心するときなんだ。そしてそのときは、自分に嘘をついていないと思う。》

孤独のなかにだけ真実や連帯があるとするジュネの態度は、もちろんジュネの得意な出自がかかわっているのだろうが、彼の文学が一種のユートピア文学であることを示しているのだろう。

その後に、翻訳者による二つの論考が収録されているが、一つは訳者自身の単行本異既に収録されているもので、もう一つはごく短い補足であり、内容的には初読ならば大変参考になる良い論考であるのだが、その単行本を所有している身にするとやや疑問が残る構成ではある。しかし、ともかくこのエッセー(ルポタージュ)は絶対に本にしてほしかったものなので、まあ贅沢を言ってはならないのかもしれないのだが。

もっとも、他にパレスチナ国民憲章の邦訳と関連地図、年表が資料として添付されているのはなかなかグッジョブだとは思う。

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紙の本激しく、速やかな死

2010/01/12 11:33

歴史/書物の隙間から

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、18世紀後半から19世紀後半までのおよそ百年を、さまざまな著作から召還した「私」たちによって語らせた短編小説集である(集中一編だけ「私(ぼく)」が語り手になっていない作品がある)。この本の感想や評言で「元ネタがわからないので楽しめない」とか「知識がない人間は読むなっていう感じ」とかやや卑屈と言うか気の弱い文言をみかけるが、むしろ著者自身が註解でいわゆる「元ネタ」というか、著者に霊感を与えた本について明かしてくれているので、これはむしろ、一冊の本というものは、複数の本の間で成り立つものであって、読書という体験の本質は、その複数性の体験にこそあるのだ、という一種の「誘惑」であると考えるべきだろう。いうまでもなく、それらの本(たち)や、そこで対象とされている「事実」に親しんでいる人間は、この本を読むことでそのような体験を得るだろうし、そういう本、事実、歴史、言説などに馴染みのない人にとっては、この本を起点にして、サド侯爵に、ナポレオン戦争に、『戦争と平和』に、ボードレールに、と導かれ、そこで本と本との間から立ち上ってくる「思考」や「イメージ」にめくるめくような魅惑を味わうことになるわけだ。小説作品が、それ自体で激しい誘惑の身振りになっているような作品というのは、最近稀なので、たぶんイマドキの読者はその巨大な善意が信じられないんだろうと思うが(佐藤さんは皮肉な毒舌家で有名でもあるし)、まあそこは騙されたと思って註解にある本をたどって読んでいってみてほしいように思ったりもする。複数的読書というのは、思ったよりも快楽的な行為であるとたぶん知れる。まあ「サプリメント的読書」が流行っているイマドキに、こういう誘惑の身振りをほとんどあからさまに実践してみせる態度は見事なまでに反時代的だと思うが、作品集に通底する歴史感覚も、これまた見事に反時代的であって、たとえば吉田健一などを想起してしまう。アーノルド・ハウザーは著書『芸術と文学の社会史』で、フランス革命以後芸術は政治化する、と言っており、この短編集で扱われている主題の一つが、その「政治」であることは、サドではじまりボードレールで終る構成、タイトルロールのギロチン、タレーランとメッテルニヒを書簡体小説というスタイルで対にする、短編集の真ん中におかれたナポレオン暗殺をたくらむ狂人の「狂気(ナショナリズム)」、フランス語訳を参照する『戦争と平和』などから見ておそらくは明らかで、しかも作品を読むかぎり、佐藤亜紀はあからさまに「反革命」を指向しているわけで、そこにはほとんど革命的理念に対する批判や解体を越えた「痛罵」や「怨念」といったものさえ感じる。もっとも、トニー・ジャッドが看破したように、1968年の「革命」は、フランス革命からはじまったイデオロギー闘争の「(西欧における)終り」を画する歴史的事件であった、という見方が最近は有力になっていて(89年はその東欧、ロシアでの反復とする)、フェーズは「政治」から「経済」へと移動した、と考えるのが一般的だろうから、その意味でもこの作品集は「反時代的」であると言える。おそらくはこの作品集のみならず、一連の佐藤亜紀作品から通奏低音として聴こえる皮肉な笑いとロマンティシズムは、このような「反時代的」精神の賜物なのだろうし、それを読むのは非常に贅沢な読書となるだろう。

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「書く権利」について。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルを見てピンとくる人もいるかもしれないが、これは2004年の年末にタイ西岸部を襲った津波に際し、当時タイの人気芸能人の本を翻訳するためバンコックに滞在していた著者の白石昇さんが、日本の大手メディアの取材に報道助手として同行した25日間を、当時の日誌、取材メモをもとにして書き下ろしたドキュメントである。著者は「文章藝人」を自称し、翻訳のみならず戯文や小説などさまざまな表現方法を実践してきた人であり、みずからが見聞したものを、その見たり聞いたりしている「現場」で、すでにそれをどうやって「書くか」という問題に直結して思考している様子が、この再構成された記憶/記録の隅々にまで浸透していて、前述したような一種独特な読後感を残すのだが、それは端的にいえばブレヒトの、人は経験を容易に認識に置き換えてしまうことによって多くのものを失う、という言葉を想起させるような、あるシステムに対する思考であると言っていいかと思う。本書の中で何度も繰り返される「言葉にできない」「表現できない」という津波の被害のシリアスな現実を、しかしそこに渦巻いている「感情」を書かずにはいられない、誰かに伝えなければならない、という著者の矛盾を抱えた切迫した思いがとてもストレートに読む側に伝わってくるのだが、昔高橋源一郎が中上健次の死に際して、出来事が、それについて書かれるものがすべて紋切り型にしかならないようにやってくるときがある、と語っていたことがあり、それは、死というできごとが、本質的に「歴史(の一回性)」にかかわっているからで、著者が繰り返す「言葉にできない」という「言葉」も、そういった「紋切り型」に他ならないのだが、高橋源一郎の件の言葉を受けて、対談者の蓮實重彦は、他人の死に対して紋切り型で語るためには「権利」が必要だ(中上の死について柄谷行人は語る権利がある、と)、と答えていて、つまり白石氏が葛藤し、思考しているのは「語る権利」についてなのである。もちろん本書が語っている(実際に著者がもっとも伝えたいと願っているだろう)のは、実際に津波に遭われた方々の悲しみと、その悲しみに向けられた人々の「情け」とも「人情」とも訳される「ナムチャイ(心の水)」という言葉が示す感情に他ならないし、読み手はその感情の奔流に感動せずにはいられないわけだが、同時に、というよりもむしろ、読者にとってより本質的には、その「権利」をめぐる葛藤という問題のほうが、よりシリアスにみずからの「問題」としてずっしりと感じられるものなのではないかと思う。人は、権利上は、つねに災厄に対して「生き残る側」から思考することしかできない。それは、いうなれば「死はつねにすでに他人の死である」ということであり、そして、そのような「死」に対して、人は、いかに語ることができるのか、その経験をいかに認識に変換すべきであるのか、という「倫理」を問うことでもある。無論その問いの対する答はおそらく出ない。しかし、出ないからと言って思考を停止してはならない(問い続けることの宙づりの苛酷さを「祈ること」で一時的に癒すことはあっても)。おそらく「書くこと(の倫理)」とは、そのような「問い」を根底に有しているのであって、本書の読後感の独特な複雑さは、そのような苛酷な「問い」から由来するものだと思われる。
もちろん、災害現場での生々しい人間同士のぶつかりあいや齟齬や葛藤を感情豊かに描き出したドキュメンタリーとしての面白さもじゅうぶん備えているので、単純に「現場がどうだったのか」を知りたいという方にもオススメできる本でもあります。

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紙の本灰と土

2009/06/02 16:03

歴史の困難について

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは傑作だった。近年私が読んだ中ではトップクラスの傑作。著者は1962年カブールに生まれたアフガニスタン人。フランス語の教育を受け、1984年にパリに移住、そのまま政治亡命を果たす。高校のときにフランス映画に出会い自らもシナリオを執筆、ルーアン、ソルボンヌ大学で映像を学び、映像作家として主にドキュメンタリーを制作。本作は1999年にダリー語(アフガンのペルシャ語)でフランスの出版社から刊行され、翌翻訳家サブリナ・ヌーリーによる仏語版が刊行されるのだが、その際、みずからもバイリンガルである著者によってフランス語にふさわしい文章にするべく大幅に加筆修正を施され、さらにダリー語版の原テクストに仏語版を参考にしつつ別様に加筆修正されたという。したがって日本語訳の底本となったのは2000年度版のダリー語テクストである。物語は、孫を連れた老人が、炭坑に働きにいっている息子のために、ソビエトの侵攻によって故郷の村が焼かれ、母親(老人に取っては妻)、妻(嫁)が死に、息子(孫)は聴覚を失った、と伝えるべく炭坑までやってくる、というシンプルなもの。前半は炭坑の入口で資材搬入のトラックがくるまでじっと待ち続ける様子を、後半は孫を入口の商店に預けトラックに乗って息子の元へ行くまでの道程が描かれる。ほぼ完全に老人の視点に固定された語りで、あまりに過酷な運命に隙あらばという感じで夢や幻想に陥りそうになりながら、ひたすら静かな叙述が続く作品で、デュラスとベケットに影響を受けたという著者の文章はあくまでも静謐で、ギリギリに削られたシンプルな作品の構造もほぼ完璧であり、ラストまで(それがまた驚くべきラストなんだが)緊張がまったく緩まずに持続するのだった。著者の経歴を見ればわかるが、つまりここで語られる物語において作者の現実はむしろ情報を伝えられる側であり、それが二人称という形式が選択されている所以でもあるのだろうが、同時に、そこにはみずからが惨劇の記憶を共有することが叶わない亡命者の現実が直面する「記憶(=歴史)の困難」という主題が浮かび上がってくるのを感じずにはいられない。そしてそのように考えるとき、アフガニスタンのローカルな出来事は同時代的な普遍性を持って迫ってくる。そのような普遍性こそが「文学」と呼ばれるにふさわしいものなのだ。

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紙の本変身/掟の前で 他2編

2007/11/03 13:00

待望の原典に忠実な新訳。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

カフカの原典は、これまで新潮社の決定版全集のもとになったマックス・ブロート編集版と、白水社の小説全集やコレクションのもとになった批判版全集(ブロートが編集する以前の草稿を専門家たちが校訂して出したもの)の二種があったが、1995年に草稿をそのまま写真やCD-ROMを駆使してまとめた「史的批判版」というのが出たのだそうで、今回の文庫版はその「史的批判版」をもとにできるだけ原文のニュアンス(改行や表現)をそのまま伝えることを目指した新訳となっている。知っている人は知っていることだが、カフカの翻訳はこれまで相当翻訳者の解釈や読みやすさへの配慮が行われていて、池内氏の訳などは原文を知るものにはたいそう評判が悪いのだが(私は岩波文庫版を読んで後は読んでいない)、せっかくの批判版があまりに自由な意訳で出ている(しかも確か翻訳権を独占している)という事態にかなりの疑問を持っていたので、今回の忠実な翻訳(本人はクラシックのピリオド奏法に例えている)はとてもありがたいし、喜ばしいことだと思う。で、訳文の印象だが、なるほど現代的なカフカで、とても新鮮であり、かつ、やはりカフカであってとても面白いのは変わらない。時代を超えた核にある部分と、翻訳される時代を反映した現代日本の状況を彷彿とさせる部分がすっきりと混ざり合って、ぐいぐい読まされてしまう。このスタイルによる更なる翻訳を熱望。

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ゴーレム100

2007/08/14 12:25

これがSFというものですな。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もちろん『虎よ、虎よ!』はマイフェイヴァリットSFなのだが、後期の作品はいまいちと聞いていたのでこれまで読んでいんかったのだが、ここにきての世間の大絶賛に遅ればせながら読んで見たのだった。そしたらば、いやあ、大変面白かったですよ。
二十二世紀のニューヨークを舞台に、ブルジョワの有閑マダム「蜜蜂レディ」が退屈しのぎの戯れに悪魔召還の儀式を執り行い、イドの怪物たる「ゴーレム100」を本人たちも知らないうちに都市に舞いおらせ、その残虐きわまる連続殺人事件を、担当捜査官のヒンドゥー教徒インドゥニ、何故か殺人現場にいつも居合わせる天才化学者ブレイズ・シマ、その素行調査を依頼される黒人の美人精神工学者グレッチェン・ナンの三人が追ううちに、事態は思わぬ展開を見せる、という娯楽大作である。とにかくきわめて効率的に練られたスピード感溢れるプロットに、やたら細かく設定されていると思しいガジェット満載の背景と人物、神秘思想と現代思想と科学思想がごっちゃになった地平で、馬鹿馬鹿しいほどに凝りまくった実験的な言語と馬鹿丸出しの卑語猥語の横溢でケバケバしく彩られた作品で、あれよあれよと読まされてしまうリーダビリティーも兼ね備えており娯楽小説としてはほぼ完璧な出来なんじゃないだろうかと思う。
印象としては大原まり子のある種の作品をめちゃくちゃブラックにして文章を濃縮還元したような作品である。ちょっとスキャナーズを連想させるような物語のラストの101の意味が実はまだよくわからないのだが、まあさらにパワーアップした!ということだと思っておけばよいのかもしれない。もっとも、もはやここまでくるとSFがどうとかいうよりもむしろラブレーとかジョイスとかそういうたぐいの作品の系列に置きたくなるわけだが、こんな作品が1980年に書かれたというのがちょっと驚きではある。ああ、評判が悪かったので読まなかった『コンピュータ・コネクション』も読みたくなってきたので再刊を希望。

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紙の本醜聞の作法

2011/01/06 09:52

トライアングルズ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは大変面白い作品だった。ともかく文章がきれいで読みやすく、語り/騙りの技法も冴えていて読んでいてとても楽しい軽やかな作品。

内容は、18世紀末(と帯にあるのだが、内容的に世紀末にはちょっとまだ早いんじゃないかなーと思ったり)、とある侯爵が美しい養女ジュリーを金持ちのヒヒジジイに輿入れさせようと企み、侯爵夫人はジュリーのために反対するが(ジュリーには将来を誓った恋人がいる)、怒った侯爵はジュリーを攫って修道院に閉じ込め翻心を迫る、困った夫人のために「私」は一計を案じ、パレ・ロワイヤルの腕はいいがお人好しでうだつが上がらない弁護士に白羽の矢を立てて、近頃流行の「パンフレット」で面白お可笑しく状況を醜聞に仕立てて流し、パリ中の口さがない連中をけしかけて逆転しようと目論んだ、さて若い恋人たちの、また哀れな匿名作者ルフォンの運命やいかに。という物語を、「私」の語り手による侯爵夫人への書簡と、ルフォンが執筆した(と思われる)パンフレットの文章で構成したサタイア風味の小説である。

この作品には「作者」にあたる人物が三名存在する。まずはスイユに記された「佐藤亜紀」。作品の外部にあって作品の執筆者であり、そして従来からの佐藤氏の主張に拠れば、作品においては「死んだ」ものとされなければならぬ存在。次いで、作品のいわば「地の文」というよりも、作品の終盤で登場する絶妙な「現実のほうかい?デタラメのほうかい?」という台詞に合わせれば「現実」のほうの語り手たる「私」、これは小説の「語り手」を兼ね、「作者の死」的立場からはむしろ「《私》と言っているもの」に過ぎない、機能的存在のさしあたっての形象としての「私」でもある。そして最後に、「現実」からは登場人物「ルフォン」であり、そして小説に挿入される「パンフレット」においては完全に非人称に身を隠し「私」でさえありえない匿名の「作者」であるルフォン。このそれぞれに二重化された「作者」のトライアングルが、いわば虚実皮膜のテクスチャーを編んでいき、読者はそうやって折り合わされたハンモックのうえに寝そべって、宙づりの快楽を味わいながらその織目を読んでいく「読書」を楽しむという仕掛けになっているわけだ。読むということの、曖昧な自己放棄とでも言ったごく微量の毒を含んだ欲望を、ちょっと人を小馬鹿にしたような皮肉と機知でもって楽しむエレガントで人を食った作品で、こういう作品を21世紀に読むことができようとはちょっと思っていなかった。

また、これは非常に洗練された叙述トリックを用いた本格ミステリーの趣もある作品で、読了後、というか、終盤を読みながら、そこはあれか、あそこか、とか、これはそうかそういうことか、といったさまざまな細部の仕掛けについて、思い当たる節々に舞い戻り再読し確認せずにはいられないゲーム性を有した作品でもあって、まったくもって、楽しんで読むために作られた機械のような躍動的な美しさに呆然としてしまう。これまでの佐藤亜紀作品の中でも一、二を争うくらい個人的には気に入った。

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紙の本死者の軍隊の将軍

2010/09/26 01:07

骨まで愛して

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは傑作だった。カダレは以前いくつか読んで、アルカイックな壮麗さはあるがまあ朴訥とした真面目な作家、というイメージがあったのだが、この長篇は、たしかに素朴な味わいはあるにしても、まったく違った「軽さのエレガンス」の感じられる作風で、非常に楽しんで読めた。
物語はいたってシンプル。戦争が済んで20年ほど絶った後に、自国の兵士の遺骨を収集しにきた「将軍」が、「司祭」やアルバニア人の「技師」、また「将軍」とは異なる国から同じ目的でやってきた「中将」などと連れ立ったり交錯しながら旅するお話。ほとんど全編にわたって「将軍」と「司祭」による暗く陰鬱な掛け合い漫才が続けられ、嘘かホントかわからないような戦時中のエピソードやらいかがわしい「アルバニア人(の民族、文化)論」やらが語られ、地元の人間からはひたすらうさんくさく疎まれつつ死体をほっくりかえす珍道中といった趣で、この皮肉な黒い笑いはきわめて苦いのだが、スタイルとしてはドン・キホーテとサンチョ・パンサ、あるいはジャックとその主人を思わせるもので、しかもそのディスコミュニケーションはどんどんインフレし後半に至って「後戻り不能」な地点にまで達し、浮薄な成功を夢見る「将軍」の思惑(結婚式に参加し地元民と酒を酌み交わしてダンスを踊る)をズタズタに引き裂き、冒頭から繰り返し現れる「身長1メートル89」の「大佐」の運命/本性を暴露する老婆に「袋」を投げつけられる場面ではほとんど幻の哄笑につつまれるような不思議な痛快ささえあって、しかも、その後のトラックでのやりとりで決定的に「将軍」は「司祭」に見放されてしまう顛末のあたりでの呼吸は、実に現代的できわめて見事である。その後の長い下痢のような「中将」との掛け合いの場面と、スッと切るようなラストとともに、いかにも20世紀の傑作にふさわしいものだ。この浮薄な苦いアイロニーはなんとなくイーヴリン・ウォーを想起した(悲劇への志向と、その不可能性に対する敏感な知性と、あとはちょっぴりの感傷)。また、もちろん日本人である私にとっては、大岡昇平の一連の作品や、川内康範の活動などが知られる旧日本軍の戦没者遺骨引き上げ運動なども想起せずにはいられないものがある。そして「将軍」がカラオケで「骨まで愛して」を歌うシーンが眼に浮かぶのだ。

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紙の本時代閉塞の現状 食うべき詩

2009/02/04 22:15

ヨーロッパの「外」としての日本

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2008年11月の復刊。もちろん表題作などは既読だったわけだが、これには大逆事件に際して幸徳秋水が獄中から弁護士に送った手紙に啄木がつけた未完の注釈というのが収録されており、それが読みたくて買ったのだった。
書簡はほぼ幸徳秋水が無政府主義について弁護士に向けて説明する朴訥としたもので、啄木は理知的にクロポトキンなどを参照して注釈をつけており、中途でブツ切りになっているのがかえって生々しい。
忘れている人も多いが明治の自然主義文学というのはいわば明治の理想の挫折から生まれた文学による思想運動であり、文学と文学の外側の関係が近代日本で最初に思潮として問われたのだとも言える。おそらくほとんどの芸術運動/思潮がそうであったように、自然主義文学もたとえば藤村、白鳥、秋声、花袋などによってその内実は大きく異なっており、論争は多角的に分析される必要があるのだが、ともかくこれは反自然主義(漱石、鴎外、荷風など)も視野に入れて再考されるべきなんだろう。
啄木の論集は最初高山樗牛経由によるニーチェへの一面的な傾倒(「超人」幻想とでも言ったもの)が見られるが、しだいに「現実」の複雑な構成に視点が移動していく。松田道夫の解説によるとそこには樗牛の盟友だったという姉崎嘲風の西欧(ドイツ)批判があった、というのだが、引用されている嘲風によるドイツの反ユダヤ主義への注目など、「日本(外)から見ること」の優位性が際立っていて、しかしそこから何かを「生み出す」のがどれほど難しかったか、を、啄木の生涯は教えてくれる。「見えている」だけではどうしようもないのだが、しかしそもそも「見えない」ではもっとどうしようもない。また「見えている」のか「見えているような気がする」だけなのかは本人にはわからない。啄木のジレンマはまったく他人事ではない。

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覗くひと

2008/05/12 14:38

空白の魔力、あからさまな不在

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先日亡くなったロブ=グリエの代表作。時計のセールスをするために生まれ育った離島へやってきた主人公マチアスが、良くない素行で知られる島の娘ヴィオレットが行方不明になったという話題で持ち切りの島を自転車で走り回る、という筋の小説。1955年発表。批評家賞を受賞し、賛否両論を呼んだ。作者はのちに『新しい小説のために』という評論集にまとめられるポレミークな論考を次々に著し、彼と同じくミニュイ社から発行されていた革新的な小説作品をひとつにまとめるムーブメントとして「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれた、というような周辺事情はいまや歴史に属する。そこでは、従来の小説作品とは違って登場人物の内面や物語の内容を目的とはしておらず、ただテキストのみが目的とされる、と言われることが多いのだが、その嚆矢とされるこの作品を読むと、確かに直接に描かれることは殆どないにもかかわらず、むしろハイデガー的な、環境を綿密に描写することでその内面が負の中心として浮かび上がる、という読後感を得るし、また物語はゾクゾクするような臨場感でもって語られているではないかと思わずにはいられない。文学史的な紋切り型が信用できない好例と言えよう(もちろん、ロラン・バルトその他の分析の魅力と説得力はそれはそれとして認めるのだが)。語る現在の中に、過去も未来も同時に、複数に折り重ねられているこの複雑な物語構造は、8の字の象徴的イメージの蝶番によってきわめて緊密に統一感をもって造型されており、ほとんど現代美術か音楽のような堅固ささえ感じさせる。正直ここまで面白かったとは再読するまで思っていなかった。やっぱり本は再読してみないとわからない。

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紙の本千年紀の民

2011/04/25 16:10

作者の幽霊的回帰

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三部作完結編だが、前二作との対応関係は、その二作の緊密な鏡像的関係に比べればもう少し緩やかで、しかしむしろ二作をメタレヴェルから見下ろすかのような独特の位相を開いた作品として、違う種類の関係性を有しているようだ。いわば弁証法的な高次での統合とでもいったようなものだが、もちろん、たとえば『夢幻会社』や『楽園への疾走』といった作品が、ほとんど自己パロディ的な反復的モチーフの総合として作られていたように、その「統合」には、どこか人を食ったようなあっけないユーモアが漂っている。
第一作『コカイン・ナイト』で、自己言及的に「サイコのスタイルでリメイクされたカフカ」と予告的に語られていたように、本作では、レンタルビデオ店とフィルム・アーカイヴが重要な場面として登場し、フィルム・ノワールの固有名とイメージがいたるところに鏤められている。複雑に交錯する時間軸や謎を孕んだ人間関係なども三部作そのままに、事件を先導する魔術師的人物、妖精のような少女(的人物)、語り手の分身たる暗殺者、真相を知る協力者のエロティックな女、というさまざまな役割を配分し直して、退屈な未来の「革命」が語られる。
政治思想的にいうのなら、ブルジョワ革命によって出来した「近/現代」の状況の隘路に、ブルジョワ自身が自家中毒的に落ち込む暴力幻想とでもいったものの「退屈さ」がさらっと描かれたということにもなるのだろうが(なにしろゴダールが中国女を撮影したのがいつだったかを考えてみればよい/あるいはフーコーがイラン革命に幻視した蜂起を想起してもよい)、そう言ったことどもの、際立った「退屈さ」を、反復するモチーフ/関係の順列組み合わせによって「ポストモダン」のスタイルに落とし込むバラードの技巧は水際立った美しさを示し、さらには、その操作性によって、いわゆる「ポストモダン(批評)」のテーゼのひとつでもあった「作者の死」を、ネガティヴなかたちでいわば「作者の幽霊的回帰」とでもいったふうに簡単にひっくり返してしまうのだ。
そういう視点で見直すとき、たとえば夫婦の危機と再生とか、結末の「影のない太陽」というシュルレアリスム(ブルトン)的イメージの意味するところなど、さまざまな細部がふたたびバラードの幻視として読み直されることになり、小説が、世界に関するバラードの私的実験室の様相を呈してくる。思えば、一番好きなSF作家としてずっと私がバラードに指を屈してきたのは、この「実験室」性こそが、私にとって「SF」だったからだろう。私がバラードの後期作品についての冷淡な批評(時代に追いつかれた的な)に違和感を憶えるのは、私にとってバラードのバラードたるゆえんは、この「実験」の「私性」にあるからであって、それは決して「新しい」とか「現代的」であることの価値ではないからである。バラードはつねにすでに決定的なものが終った後の、どうやっても「退屈」な「現在」の作家なのである。

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紙の本イメージの運命

2010/06/08 13:59

芸術の二つの体制

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芸術の二つの体制

著者は1940年アルジェ生まれ。高等師範学校でルイ・アルチュセールの指導を受け哲学教授資格を取得、パリ第8大学で長年に渡って教鞭をとり、現在同名誉教授。アルチュセールの『資本論を読む』に若くして寄稿するが、70年代の半ばに師から離反、仲間とともに雑誌「論理的叛乱」を主宰し、労働者運動に関する研究を背景にした政治と文学、映画などの美学を「感性的なもののパルタージュ(分配)」という概念/切り口で通底させて語る独特の理論的活動を続けている。
本書は、折りに触れて行われた講演と、論文集に寄稿された論文を五つ集めて作られた薄い本で、近代において大きくその様態を変化させた「イメージ」という概念/現象をめぐって、文学、絵画、写真、デザイン、映画、哲学、さまざまな領域を横断する非常に濃密な議論を展開したものである。
全体の構成は、まず総論と考えて良いと思われる第一章「イメージの運命」でイメージをめぐる近代における二つの体制(表象的体制と美学的体制)の分割を提起し、モダニズム以降の芸術論において前提されてきたいくつかの概念とその枠組みを再検討し、第二章「文章、イメージ、歴史」では、ゴダールの『映画史』の分析を通して、イメージとテキストの複雑な関係を解きほぐし、イメージが、それが指示する意味が所属する文脈によって読み取られる物語と、イメージそれ自体が文脈を構成する作品横断的な物語の二つの水準(これがつまり前記の「表象的体制」と「美学的体制」の一つの側面である)という議論が展開し、継いで第三章「テクストの中の絵画」第四章「デザインの表面」において、クレメント・グリーンバーグが印象派以降の美術史のディククールにおいて展開した、絵画が文学的なミメーシスの制約から逃れ、おのれのミディウムに固有の「平面性」に依拠した芸術表現に向かう、といういわゆる「モダニズム」の歴史観に対し、絵画と文学両方を貫く「リアリズム」の方法(オランダの風俗画によるつまらない細部の拡大、フローベールやゾラによる並列的描写の象徴性)に端を発し、機能主義的なデザイナー、ベーレンスと象徴派詩人マラルメの双方に見られる「表面」というトポスに至ってほぼ完成する、芸術と非芸術、あるいは芸術と政治という分節化を、いわば「歴史的事件」として提起する。さらに終章となる第五章「表象不可能なものがあるかどうか」では、表象的体制の限界を画するものとしてのコルネイユによる『オイディプス王』翻案と比較検討するかたちで、現在/近代の美学的体制における「表象不可能なもの」のありえなさを、理論的にはカント、ヘーゲル、リオタールなどを、作品的にはクロード・ランズマンの映画『ショアー』を、フローベールのリアリズム技法の延長において捉える前節からの分析によって明らかにしていく。
これらの議論を通じて否応もなく理解させられるのは、ランシエールが提起する表象的体制から美学的体制へ、というイメージの意味(イメージが何を意味するか、イメージによって何が意味されるか)に関する構造の歴史的変動は、それ自体がある種の政治的隠蔽をもたらす《力》として働いている、という鋭い批判精神であり、それはちょうどアメリカのマルクス主義文芸批評家のフレデリック・ジェイムソンが唱えたテーゼ「つねに歴史化せよ!」とまったく共振する問題意識であって、理論の袋小路を、運動への情動的な退行ではなく、緻密な分析や方法はそのままにブレイク・スルーする変革への意志を失わない強靭さを感じさせてくれるものだ。また、北米の批評家にありがちな生硬さを感じさせないさすがフランスの文人らしい洗練された文章のスマートな読みやすさは、密度の濃い議論だけにそれ相応の難解さも孕みつつ、しかし文学的香度のこまやかさも楽しめる美しい文章/物語であって、何度も読み返し味わうことができるので、現代芸術の政治性のリミットを文章そのものも楽しみつつ知りたいという贅沢な読者にはオススメの一冊だろう。

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