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k.mさんのレビュー一覧

投稿者:k.m

紙の本音楽 改版

2002/07/22 16:35

音楽

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あまり三島由紀夫を読んでいないのだけど、著者の作品へは「耽美的」なイメージがある。そして僕のそんなイメージを押し進めるのに、この小説はとても機能を果たした。

まず主人公である精神分析医・汐見にかかった患者・麗子の病症を、「音楽」と言う一つの象徴に見立てて巡ったドラマであること。その設定はまさに先日観た映画「青い夢の女」そのもので、安楽椅子にくつろいで自らの性癖歴を語る美女、というものが映像の再現のように目に浮かぶようだった。あの映画では「精神分析医とは滑稽な存在だな」という感想が大きく、コミカルさばかりが目立っていたが。

精神分析ものは基本的に好きだ。それは三島の小説の中で出てくる分析という行為が、とても誠実に学術的でありながら、多くの分析書が難解な症例を通じて語るしぐさを解きほどくように、具体的なドラマによって伝わってくるからだ。それはラカンの面白さをサブカルチャーになぞらえて説きほどく東浩紀の面白さにも通じるかもしれない。もちろん、文学的な装飾が個人的に好みだというのも大きい。

二人が交わす医師と患者としてのやり取りは、恋愛模様に重なる。汐見が彼女のへの治療にたいして「勝利」や「敗北」という言葉を使うのも、それらを良くあらわしているし、幾重にも繰り返される患者・麗子のウソと、そのたびに様々な解釈と闘う精神分析医・汐見の奮闘が、したたかな奴隷を演じているしもべのようでもあることとも繋がる。要するに診療の模様全てが、巧みにイマジネーションを抑制した二人の「エロス」を超えていく「激情」の裏返しを見ているようでいて面白い。

分析という「冷静さ」をもってして、男女の肉体的エロスを語り、転移という「恋愛感情」をもって、職業 的な言及を続ける姿。それらはどちらもある意味でとてもコミカルで、阿部和重の小説が持つ「妄想」や「自意識過剰」の独走が醸し出す<それ>のように僕のツボにはまった。

物語の終局は、何かおぞましいモノを覗いていくようでもある。「耽美さ」と「おぞましさ」が繰り返し襲ってくるリズムによって、何とも言えない好奇心で満たされていくようだ。ピーター・グリーナウェイの映画に見る魅力とはこんな感じではなかったか? ホラー映画を怖がって見ていた子供の頃の好奇心を、エロスへのそれに置き換えた感覚に近いのかも知れない。見えざるタブーの深淵に、どんどん身体がはまっていく快感である。

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紙の本現代イスラムの潮流

2002/08/12 18:43

全世界を一つの価値観で覆うことは可能なのか?

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英仏のアラブ支配は大戦後の1920年、サンレモ会議で国際的に認定された。かくて今日のイラク、ヨルダン、パレスチナは英、シリアとレバノンは仏の委任統治領となった…。パリを旅行したときの楽しみの一つにアラブ世界研究所を見る事があった。ジャン・ヌーベルほかの設計でコンペに入選した作品で、1987年パリに竣工した建物。最大の特徴は、南側のファサード。アラブ文化特有の幾何学模様のパターンで、カメラの絞り機能を応用したダイヤフラムが圧巻だった。かつて列強時代に支配していたアラブ世界に関する研究機関がこうしてパリに存在するいきさつは複雑なのだろう。当然アラブ世界への影響力を保持したいフランスの思惑はあるのだと思う。このようにヨーロッパとイスラム世界はきってもはなせない関係があるのだが、日本とのそれは希薄だ。

この本にはイスラムの歴史や思想、社会的に背負っている困難などが詳しく分かり易くまとめられている。例えば酒を飲むことを禁じているこの宗教では、当然人間の神経をマヒさせる麻薬も厳禁だ。しかし現在アフガニスタンが世界最大の麻薬生産地となっている現実を、単なる「教えに背くもの」として言い切れない「困難」が、イスラム全体を覆っていることが分かる。

イスラムでは「利子」が禁止されているという。経済的平等主義に関連するこの考えは、明らかに資本主義とは矛盾するものだ。実際にイスラム銀行では、預金者と銀行が共同で企業経営を行い、預金額に応じてその利益の配当を行う方式があるという。急速にグローバリズムを叫ぶ我々日本を含む資本主義社会は全世界を一つの価値観で覆うとしているのかも知れない。当然上記のような価値観をもつ宗教民族とは摩擦が起きるだろう。

おだやかで気さくな人々が多いなか、政府の上層部による「イスラエルの解体」や「アメリカは大悪魔」などのスローガンによって、アメリカにテロ支援国家として嫌われているイラン。ここでもその外交上の理由から、様々な困難を振りまかれているのだ。「国家」という枠組みが生みだしているこれらの矛盾は、今世界中で起きている「単一民族による国家造り」という、血みどろの争いを巻き起こしている矛盾と重なる。これらナショナリズムが欧米の作り出した思想であるのなら、日本のようにたまたま島国であった国とは違い、地続きの広大な多民族地域で、自らの思惑とはちがう列強の国々のご都合主義によって分断された「国家」とは、思想からも造られ方からも二重の困難を背負っている。クルド人などはその最たる存在なのだろう。

この本によると国内にクルド民族問題などの矛盾をもつイラクのサダム・フセイン政権は、それを覆い隠す為に、常に国家的危機をつくり、その危機を乗り越えることによって、国民の支持を維持してきたという。1973年の対イスラエル戦争、75年のクルド内戦、80年から88年のイラン・イラク戦争、また湾岸戦争において現れたものは、まさにこのイラクの特殊事情によるのだそうだ。同時に著者は、アメリカ人のメンタリティーとして概して「敵」をつくることを好む傾向にあることを指摘している。冷戦時代の「ソ連」という敵、そして98年以降その「敵」はあきらかにビン・ラディンとなったという。彼のためにCIAが膨大な費用をかけて衛生監視システムをつくるなどの、過剰さがあった。これを多民族国家であるアメリカが、仮想敵の存在によってナショナリズムを固めるための常套手段と見るならば、サダム・フセイン政権のしている事とあまり変わらないようにも思う。

まだまだこの本には興味深いイスラムの事情がたくさん掲載されている。世界がはらむ困難のカギを握っているのが、イスラム諸国への対応如何でも、それらが後戻り出来ない状況になりうるのだという「重要さ」が分かる。

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紙の本ゲルマニウムの夜

2002/08/12 18:40

エロテイシズムは他者にしか発動しない

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暴力に対して嫌悪を感じ呆れさせ、笑わせてくれ「さえ」するのが中原昌也の小説だとしたら、花村萬月のそれは笑えない。徹底的に痛めつけ、読んでいてその痛みや吐き気が実感されそうなほどリアルである。ただ人間の本質と言われるものの中に、暴力的な面があり、それを目の当たりにさせてくれるという意味で、ある種「清々しく」もあった。もちろん、中途半端でいやらしい暴力とこの清々しいという感触自体に、価値判断はともなえるはずもないが。

例えば先日読んだ、「美と共同体と東大闘争」(三島由紀夫・東大全共闘/角川文庫)において三島由紀夫はサルトルの「存在と無」を引用し、エロテイシズムは他者にしか発動しないと述べていた。つまり相手が主体的な動作を起こせない、意思を封鎖された状況こそが、エロテイシズムに訴えるのだと。

この作品のクライマックスは、まさにそんなエロテイシズムの絶頂にあった。修道院の農場における、主人公と美少年の同性愛。そこで少年は主人公に対して、無償の「奉仕」を切望した。少年の一方的な「奉仕」に初め主人公は冷静だった。がしかし、その一方通行な愛の態度と、それを受け止めている自分との状況が、まさに意思を封鎖されたエロテイシズムとして最大のたかまりをむかえていた。

そのたかまりには、ある種の宗教性を感じさせている。もちろんそれは、物語全体にも流れている著者の宗教にたいする態度を通して感じられるものだ。残虐な暴力を行う主人公の存在は、恍惚とかがやく特別な存在へと重ねられていた。そのようなある象徴性として、そしてあるリズム、あるいは流れとして、暴力が描写されているように思えた。

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紙の本演劇入門

2002/07/22 16:23

演劇入門

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ここで扱われている「リアル」や「コンテクスト」自体が、日頃から興味をそそるテーマであり、時代性という流れにも十分に当てはまる考察である。人と人とが向き合い、その関係性から自らの混沌たる内面を引き出す。こうした他者とのコミュニケーションについては、あらゆる言及が繰り返されている。特に「ツール化」され、「商品化」され様々に相対化させる材料がそろっている現在の「コミュニケーション」には、それ自体を語る場が極端に増えてきていることも興味深い。「対話」のなさから、「繋がり」への貪欲さまで、現代のマスメディアや言論をにぎわすテーマのほとんどに係わっているのだから。

「演劇」という切り口で上記のテーマに係わる。それがこの著作での試みなのだが、実作を論理的に分解していく過程はとても楽しく、「演劇」自体への興味を増幅させられた。それは日頃感じている「演劇」に対する敷居の高さや、テンションの釣り合わなさといった既成概念が「小屋」へ足を運ばせない大きな原因となっていることを、著者自身が自覚していることに、とても共感出来るからだ。作り手自身がそのような問題意識をもっているというラディカルさがこの人の魅力なのだろう。「近代」を批判する「現代」の眼差しには、あらゆる分野を横断していく視野の広さを感じる。それは演劇に限らず、現在活躍している様々にクリエイティブな人達の意識からも感じられることだ。

著者は一貫して問題意識の焦点を、作り手→俳優→観客へと伝わるとき「コンテクストの摺り合わせ」が生じる、そのズレに向かっている。このズレをどう解消して行くかの過程に、この著者の人間性が大きく出ている。もとよりこの3者の完全な同意は無理であろ うし、そんなことは誰しも感じら れることだろうが、それを強引にねじ伏せてきた演出も多いのだという。確かに3者をみな納得させることは、鋭利なモノを丸くするだけの危険性を感じるし、作り手との対立が新たな創造を生むようにも思う。ただ著者が狙うモノは同意ではなく差異にある。「漠然とした差異」を強引にねじ伏せるのでもなく、丸く納めるのでもなく、その違いの明確な領域を認識するのだ。

こういった問題意識はとても参考になる。建築を作るのだって同じコトだ。一人で建築が出来ないのは自明なことだが、ではどれほどその「コンテクストの摺り合わせ」へ自覚的になっているかと言えば、確かに疑問を感じる。人はある作品なり空間なりに向かうとき、「コンテクストの共有」を感じられることが、その印象を左右する大きな要因ともなる。そのとき、僕が演劇に感じる敷居の高さや、テンションの釣り合わなさといった「既成概念」がコンテクストの共有を妨げて来たように、僕らが作る建築に対する印象にもそのことは言えるではないか。

最近のカフェブームや雑貨ブームのおかげで若手建築家が雑誌に取り上げられるようになった。こうして得られるコンテクストの広がりは大きい。白くてさっぱりとした部屋へ、自らの趣味の装飾で色付けの出来る空間の需要は増えている。そのなかで作り手が狙う「構成の無化」、「文脈の透明化」といった「恣意性の排除」というコンテクストが行いやすい状況も作られているのだ。しかし依然として広がる「既成概念」の壁は存在する。それは作り手自身の存在感でもある。建築を作る様々な問題に対するコンサルティング業務自体に理解を示す人はまだまだ少ないだろう。そこには「大工さん」から「ゼネコン」へ至る日本の建設事情に、「設計者の不在」という社会意識が根強く存在しているからだ。話が全くそれたが…役に立つ書物です。

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紙の本エロ事師たち 改版

2002/07/22 16:18

エロ事師たち

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これが70年代の「ベストセラー作家」だったというのをインターネットで調べて驚く(ちなみにこちらもカッコイイ!)。まったく痛々しいほどの描写が続き戸惑うかと思えば、何時しか「ぐいぐい」と引き込まれていた。もともとこのような過激な文学に「憧れと興味」は持っていたつもりだったが、これほど「衝撃」的な作家だとは思っても見なかった。かといって暗く重い雰囲気はなくって、むしろポップで「突き抜けた」面白さだ。中原昌也はセリーヌなのかと思ったら、むしろこちらの影響のほうが大きいのだろうか。とにかく考えられる卑劣、苛烈、妖艶、猥雑このうえない、いやとても考えの及ばない所にまで話は進む。

「エロ事師」というまず聞き慣れない名前。ようするに「あらゆる享楽の手管を提供する」不法なエロ商売をしている人達なのだが、「エロ道」というか「エロ哲学」というか、いやそんな簡単な言葉では表現できない! とにかくそこへかける男達の「生きざま」がすごい。作中どんどんエスカレートしていく姿には、もう「やめたら…」と思うほど凄まじい。その描写たるは、単なるエロ小説へと向かわない著者の観念的エロス、そして深淵なる森の奥底どこまでも…。さらに関西の無頼達、いや実際はエロの「プロテスタンティズム」とでもいうべき忠実な働きぶり、しまいには膨大な「エロ構造改革」とでも言うばかりの思想突き抜けぶり…。しかしその幹部「スブやん」実は義理の娘に手を出しかねて、それ依頼「不能」になる。散々に極エロ狂乱を仕込んで置いて自分はなんとも性的な興奮から遠ざかっていく始末。

「ブルーフィルム」の撮影風景。ピンク映画製作日誌かのような、詳細な手法の数々。これにはなんとも臨場感があり、最近のピンク映画再ブーム(今年のPFFでも特集!)にも乗りそうな勢い。

人の死に対する扱いもスゴイ。「ややこ」死ねば川へ弔い、「妻」亡くなればブルーフィルム流して弔い、「エロ仲間」亡くなれば棺の上で麻雀弔い。死への恐れ悲しみなど全く何処吹く風、ところがむしろ目頭熱くなるような思いやりに感じられるから不思議だ…。そして一番スゴイのがスブやんの死にざま…娘も大笑い…。ここに流れている著者の死に向かわしめる「たくましさ」(それが「たくましさ」なのかもとより分からないが)、あるいは遙か遠い絶望からの視点、その正体はとてもこの1冊を読んだだけでは理解出来ない…。

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紙の本うたかたの日々

2002/07/22 15:56

うたかたの日々

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主人公コランは金持ちで気ままに暮らす御曹司だ。こう言ってしまうとすごく自分がコンプレックスを抱いている様だが、実際にそうかもしれない。しかし「気ままに」と言ったところで、彼にとっては恋愛が何よりも人生をリアルにさせる主体であって、全てのエネルギーの源であるのだから、全く気の抜けない一大事ばかりの連続でもあったのだろう。そう思うと自分の抱いたものは「気ままさ」でなく、その「全力さ」だろうか。全力でぶつかっていく彼の姿が余りにも明快で辛辣ですらある。その強い態度に何か敵わない思いを抱かされたのだろう。

全てのことに対して先験的な判断を下し、個人が常に正しく、そこから行動の指針を引き出す。そんな作者の言葉とともにコランは激しく「自由に」行動を起こしていく。

それにしても恋人そして妻であるクロエは肺の中で睡蓮が生長するという何とも奇妙な病気にかかっている。それが二人の幸せを徐々に奪っていくのだ。どうして幸福の絶頂にある人間は臆病になるのだろうか。コランもまたよからぬ想像を膨らますのであった。この幸せが終末をむかえるときを頭の中で描く。それは少しでも衝撃を和らげようとあがいている自己防衛なのだろうか。そのためにかえって、良心の呵責に苦しめられながらも? 人間はそうやって不毛なことを繰り返していかなければ、幸せに向き合えないと言うのだろうか。

この小説の素晴らしさは、不幸を描くなかに美学をも打ち出しているところではないだろうか。肺に花が咲く、そしてその花を枯れさせるために部屋を花でいっぱいにする。膨大な花の中で美しいく、はかない男女が嘆き悲しみ、その言葉の中にも軽やかにユーモアを混ぜ、ただおちて行くばかりでない「華麗」な姿ですらある。そしてそれは悲劇と喜劇の等価な扱いにも見える。

無邪気に喜び幸せを分かち合っている人間の姿。それぞれが向き合う悲劇はいつもそんな姿などお構いなしに背後にピッタリとついている。屈託無く笑う背後で同じように屈託無く近寄っていた死。この小説の半分以上は悲劇の連続でもあるのに、それが深刻に見えてこないのは、そのような等価な表現によるものだろう。

お金に執着のない生活を送ってきたコランが向き合った貧困。人生における労働の無意味さを謳歌しながらも、自らの困難を救うものがお金であり、彼の幸福な生活を支えていたのもそんな有限なものでしかなかった。その簡単な事実に立ち向かいやがて訪れる終末。最後には貧困を背負ったことをあざ笑うかのような展開だ。

軽やかにカクテルをつくる冒頭の姿と同様な意匠で友人が死に、パルトルというカリスマが死に、そしてクロエが…。最後には飼っていたネズミが「頭をおれの口に入れて待ってろよ」と猫に「自殺」を依頼する姿も同様な「軽やかさ」で描かれていた。それが全ての締めくくりなのだから、なんとも等価な意匠で激しい振幅を流れている「記号の戯れ」のような小説である。

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ロックンロールミシン

2002/07/13 15:11

ロックンロールミシン

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こ女性1人に男性2人。この「ドリカム系」とも言える…そういえばもう3人じゃないんだっけ? それではこの「リトル・エブリシング…」…これも違ったっけ? そんな訳で必ずしも長く続くことのない(?)この組み合わせによる、建築系で言うと「ユニット系」は、この小説の柱となっている。賢司という刹那的な語り手である主人公への共感という楽しみもあるが、ここではむしろこの「装置」へ注目してみる。

まさに可動し、そして崩壊していく間を描いたもので、しかしこの組み合わせには事件が付き物だ。やはり3人の中に男女のペアが発生してしまうことが破綻へのキッカケなのだろうか。必ずしもこの小説では「それ」が原因として描かれていないものの、やはりペアは存在していた。ではもっとほかに構造的に見えてくるものはと言えば、それは創作にかかわる「立ち上」げと「挫折感」ではないだろうか。

椿は「確実」な技術力とは裏腹に、凌一の「粗雑」ながらも型破りな姿勢に創作の原点のようなものを見ているし、カツオや凌一も自分に足りないものを他の2人へ見いだし、3人の夢を叶える「装置」として「STOROBO RUSH」を立ち上げたのだろう。そして一度「可動」し出した装置は、その勢いに任せて進むのだし、それを動かしていく「意志」とのバランスによっては、少しずれたところで動いて行くものだ。

複数の意志を「一つ」の流れとして結合し、おのおの参加している「意志」を満足させることは困難だ。むしろ無理なことだと思う。しかし創造の過程に参加し、一つの意志を「引き受け」て、「自分」の作品として帰属していくことはあると思う。

では何が違うのか? 「前者」には妥協が目的化していく危険性があり、誰の意志によるものでもない、棚上げ感にも近い作品になってしまう構造がある。そして「後者」には、「妥協を許さない」という信念の様なものが、ひとつの「意志」となって、作品そのものの個別性とは違った、やや精神的なレベルでの繋がりを生み出すからではないだろうか。

何れにしろ作品を作り上げる「意志」というものは一つしか存在出来なくて、この物語のように「装置」を可動し続ける目的のなかに3人が持ち合わせた「それ」が回収されてしまった事への危険性に、「まった」をかけたのが凌一であって、鋏で切り刻む事が破綻への「儀式」でありまさに「リセット」であった。

創作とは本来厳しいものであって、それに立ち向かう勇気を「ユニット」は生んでくれた。そして次へのステップへと向かわせるための「儀式」によって締めくくられた。これ以上充分に「可動」出来た「装置」はないのではないか。ラストのフリスビーへは、むしろその充実感すら感じてしまう。

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「彼女たち」の連合赤軍

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70年代からはじまった消費資本主義的な社会現象が、その時代に生きていた男女の行動へどのような影響を与え続けていたのか、そんなテーマに沿って、連合赤軍の悲劇をたどっている。

この著作によって、70年代、80年代の流れ、そしてバブル崩壊へと続くあたりまでの現代日本への変化していく構造を読みとれるような気がした。バブル崩壊後も早10年以上経つ。そろそろバブル後自体も、この著作のように「歴史的」に分析してくれるものが登場するのではないだろうか。

ここで与えられた男女に関する分析は、現代への様々な視点へと繋がっていく可能性があるように思う。特に「自己表現」という焦燥の果てに…と題された、「フェミニズムのようなもの」の分析は興味深い。消費行為と自己実現があたかもパラレルな現象のごとく踊らされた80年代を、女性の自己表現意欲を満たす材料として、消費や社会参加がやや欺瞞的に押し進んでしまったものとしてとらえている。その後90年代に入り、フェミニズムはそれらの現象を引き受けないままに、社会化しきれていない状況を見落としてきたのだと。

これは、「ある」社会現象と「ある」イデオロギーが明確に繋がって見えないほど、高度に消費化させれた社会が陥ってきた様々な困難の一部を、とても象徴的に表しているのだと思う。女性の焦燥に限らず、現代の細分化した社会では、明確な因果関係などもはや見いだせない。そのために起きている様々に二次的な困難がある。全てが事件であり、全ての事象を僕らは事件として日々目の前に突きつけられている。それらには繋がりなど見いだせないし、どんな理由ですらウソっぽさを伴う。

しかし人々は常に「コア」な世界を持ち、「べた」な日常に生きる。国家や共同体を経てきた人々が、いかに細分化した社会に生きようとも、あの「W杯」に見る異常なまでの盛り上がりには、その二重性を行き来し、バランスをとっているかのようで、実はかなりアンバランスな社会に生きていることを表してはいないだろうか。今ほど明確な発言が求められ、またそれに流される危険性をもった時代もないのではないだろうか。そして、どこかでハッキリとつかまえてくれる明快さを探して、見極める決断を迫られているのが日常なのではないだろうか。

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紙の本コンセント

2002/08/12 18:39

世界を言い当てる姿勢に弱い僕ら…

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物語に没頭するよりも、心理学と精神分析の違いについてや、科学的な世界とシャーマニズムなど精神世界の対比について書かれた所が面白かった。小説には知的教養を促す箇所が大抵入っているものだが、それが人物像を語る上で重要だったりもする。この小説の主人公には妙に分析的な面があり、上記のような精神構造の解析と、宗教的な衝動との対比は常に物語の軸となっている。以前読んだ著者のエッセイもそんな面が多かったと思う。

ただ著者のどこか冷静な文体には、物語のなかで起きている人間性の振動の大きさを打ち殺してしまうような感触を感じた。確かに自身を分裂病の症状と比較し、そのような自覚を分析することで、かろうじて病気でないことを言い聞かせながらも、衝動がそれを越えて破壊的に襲ってくる所など、迫力があり興奮させられる。

しかしそれをも越えて冷静に語る著者の視点はどこか遠くを眺めているようだ。その眼差しが没頭から客観的な視点へと引き留める働きをしているように思った。

冷静ながらも世界を言い当てる姿勢には共感をしてしまう。それは同時に、言い切られる事へ「弱い」自分を見せつけられているようでもあった。その様に、控えめながら確実に言い当てている「したたかさ」へ魅せられている人も多いのではないだろうか。それと、著者のように世界を発見する敏感な感覚を持つ人も多いだろう。田口ランディはそんな時代の持つ感覚へ、共鳴し代弁しているではないかと思った。

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ビューティフル

2002/07/17 01:40

ビューティフル

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様々な登場人物達の視点が一人称で語られ、複数の目で読み進められる。事件の終盤への4日間に絞って全貌を徐々に見せていく。そんな明快な物語構造がまるで映画のシナリオのようにシークエンスをつくっている。

家族がめちゃくちゃ、というニュアンスで、三池監督の「ビジターQ」を思い出しつつも、あの映画ほど破天荒な主題は無く、描かれていたのは以外と普遍的な恋愛の姿ではないか。

十七歳の女子高校生キリエという、不幸の連続のなかでうごめく主人公。消えた家族を心の中で追い求めて全裸で立てこもる、差し押さえの自宅(これ、かなり説明不足です)。

はたして家族というものが、このように現代小説の主題たりえる存在感を持ち得るのだろうか。殺伐とした空気の和則の一家。失踪、教祖、一気のみ死というワイドショーネタの寄せ集めようなキリエの一家。極端に脚色され、それでいて「ありそうな」話でもある、そんなフィクション的存在の家族を、いったいそれ以上に向かわせるテーマになるのだろうか。むしろ空しさを先読みしてしまうのであった…。

たとえば主人公・キリエと隣の大学生・和則の家族は対称的であるように見える。しかし実際の内部的視点によれば、それぞれの崩壊ぶりを、かなり深刻なレベルとして語っている。むしろ違いと言えば、属している個人達による崩壊の受け止め方のほうである。崩壊を自明なこととしてとらえ、諦めの姿勢すら見いだせるキリエ。崩壊を事後的な悪としてとらえ、もはや見向きすら避け、意識の奥へとしまい込んでいる和則。キリエは諦めのなかに和解を見つけ、家族への信頼という幻想のなかに生きている。和則は奥へとしまい込んだ悪の目が、家族全員に憎しみとして向かい、当然のようにその反発した空気は家庭を緊張感で満たしていた。

そこへ恋愛という「かたち」をとって、キリエの幻想を失われた自分への「何か」として魅了されていくのが和則である。彼女の中に生きていくための「強度」のようなものを見出し、現代の乾いた空気感を意匠に取りながらも、作者の普遍的な愛にたいする「希望」のようなものが家族を通して描かれている。

愛へと収束されていく結論よりも、複数の視点である登場人物達の「内部」を、あたかもワイドショーを見ているかのような、パロディー感すらともないながら、読み進んでいる自分にやや恐ろしさを感じつつも、キリエのような「無垢さ」をまたしても羨ましく思ってしまうのであった。

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ABC戦争Plus2stories

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阿部和重の作品はどうして映画化されないのかと思うほど「映像的」なのだが、それは同時に僕がいかに映像的に彼の作品を読んでしまうのか、という興味深い疑問へと投げかえっても来る。

それにしても、「GO」や「ロックンロールミシン」が映画的な魅力を付加したい思いに駆られる作品だとすると、阿部和重のには、それらがあらかじめ表現「され過ぎて」しまっているのが原因とも考えられないだろうか。実際に「ロックンロールミシン」を監督した行定監督によれば、映画化には原作を批判することから始まると言った言及があった。原作に足りない「映画的な空気」を批判してつくっていくのだと。

つまり作品の中に余りにも映像的な表現が多く読みとれてしまうと、「映画的な消費」をそこで成立させてしまうような「錯覚」を与えるのかと思う。

そしてそれを映像的に読もうとする僕のほうだが…。

場面の展開を思い描く時に映画のようなカット割でイメージし、それが連続していく時にも映画的な記憶を頼りに構成してしまう。これはその人の参照するバックグラウンドにも寄るのだろうが、TVにしろ映画にしろそう言った映像媒体の「貢献」は、同時に僕らの想像力の「限界」をも与えているのかも知れない。

阿部和重の小説はむしろその「限界」をよく了解しているがゆえに面白味があるのだが、反面、監督達へ映像化を促すような、「解釈」のフトコロが狭いのかも知れない。しかし彼が「監督」を行わずして、あくまで活字の世界で映画的才能を発揮出来るのだとすれば、今の作品達は出来るべくして上がっているのだろう。

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「凡庸さ」をめぐって

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心の微妙な振幅を丁寧に描いている作品だ。初め家政婦と言うよりも(ここでは隣人のような存在と言っている)、精神分析医を思い起こさせた。患者との距離感を気にし、転移を恐れ、入り込むことに慎重になる医師のように。サービスの内容よりも、そこから派生するユーザーとの関係へ話題が続くことへ興味が深まる。分析医がやがて患者との距離感に葛藤を抱いていくような物語があるが、この主人公は、自らを「職業」隣人たるべく立場におき、そこから見えてくる他者という存在、そしてその他者から見えてくる自分という存在へ、さらにその「関係性」にまで葛藤をしのばせていく。

そこには都会へ出て来きた一人の女性が立ち向かう孤独があり、やがてもっと普遍的なもの、存在自体の抱える寂寥へと向かっているようにも思えた。しかし主人公は「仮の隣人」という微妙な接し方を通して、孤独からの呪縛を紐解いていくのだ。様々なユーザーとその要求は、関係性の事件として主人公に降りかっていく。その度に一喜一憂していた心が、やがて「凡庸さ」という言葉に集結していくさまは、悟りにも近い覚醒の流れを感じつつも、あくまで等身大な女性の内面を描く著者の姿勢には、したたかさを見るような気がした。「好きでやっていることと、しなければならないことを区別するのは間違っている」(作中引用)。

狡猾なさま、嫉むさま、人間性をあらわす姿とは、むしろそんな「醜さ」の中にこそ際だつのではないか。ドラマの展開からいっても、コントラストのある動きが見い出せそうだ。しかしこの著作ではむしろ徹底した「凡庸さ」を軸に据えている。このことは「現実は所詮こうなんだよ」と言った諦めよりも、むしろ通常の生活で切り捨ててしまうような、心の小さな振幅に対する執着すら感じる。「平凡なものはつまらないという感覚こそが、密かに卑下していた凡庸さそのものだ」(作中引用)。

「平凡な結婚をして、平凡な幸福を手に入れ、平凡な人生の道のりを、決定的に択ぶ。」(作中引用)。「凡庸さ」が導くものを慎重に定義するこの物語を読み進む内に、一方で上記のようなサトの言葉へは嫌悪すら感じるようになっていく。思考停止という無責任さこそ、無意識の悪意に通じる危険さを孕んでいるのだろう。考え、そして、したたかな姿勢を身につけて行く内に、下記のような言葉も出てくるのだし。「人はみな違うということは、もっと根本の部分で、人はみな同じだということに思えた。」(作中引用)。

著者の強い意志が作中にあふれ出ていて、何か元気づけられるような躍動を感じた。

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