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  3. そらさんのレビュー一覧

そらさんのレビュー一覧

投稿者:そら

14 件中 1 件~ 14 件を表示

紙の本国家の品格

2006/04/02 17:34

新書という形態の功罪

21人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

藤原正彦さんは今とても売れているらしい。
歯に衣着せぬ発言で、その言動に快哉!を叫ぶ人も多いだろう。
一方、短時間の講演や薄い新書などでは、その論点も要約を述べるにとどまるため、誤読されたり、細部の説明不足をあげつらわれる嫌いもあるようだ。
現在、新書という形態が隆盛だそうだ。
内容も含め軽い、低価格ということから、手に取りやすいということだろう。
しかし、新書には自ずと限界があり、重いテーマを論ずるには紙数が不足である。
読書人口が減り、より軽い書物が求められる昨今、出版社が「新書」という形態に注目する理由はよく分かる。
「国家の品格」は、「文化防衛」という国家にとって、また国民にとって、存続をかけた重大なテーマについて述べられた本である(と、言い切ってしまってよいと思う)。
(従って、実は「新書」という形態に相応しくない重い内容を持っている。しかし「新書」であることで新たな読書人口を開拓できるというメリットもあるが)
また近代国家の成立にかかわる「自由、平等、国民主権」という理念が、封建的権威を覆すために創作されたフィクションであることを再確認させる。
今日の世界史の教科書の内容については全く疎いのだけれど、五十代の私が高校で学んだ世界史は、実は西洋史であった。
その「蒙を啓く」ために、この書物は大いに有効であると思う。
「国家の品格」を読んでも、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ人は少ないだろう。
非常に薄い文庫本でも、巻末に膨大な原註を含む社会科学者の気の遠くなるような仕事を逐語的に読む余裕のある学生(これは皮肉)、或は意欲のある学生がどれくらいいるだろうか(だからこそ、新書というスタイルで易しく解説してくれる人が必要なのだろう。その実、新書では批判的に読むことは不可能だし、著者は必然的にアジテーターにならざるを得ないのではないだろうか。それがこの本に対する毀誉褒貶をもたらしているのだろう)。
プロテスタンティズム、それも特にカルヴィニズムが市場経済を促進させた。
カルヴィニズムに限らず、遡ってキリスト教が出現した当時のローマ及びヨーロッパ社会のひずみについて考察することなしに、宗教・思想は理解できない。
革命的思想が一つの仕事をし終えた後で、その「虚構」を冷静に見つめ、著者の言葉で言えば「惻隠」の情という不確かだけれど強固な感情に立ち戻ってみることが今必要なのだろう。
因みに現在50代の人間が学生時代に読む社会科学者と言えば、政治の季節であったことの影響として文科系理数系を問わずまず「マルクス」であったのではないだろうか。
放置すれば残酷さをむき出しにする市場原理は、人間性の麗しい側面を破壊するだろう。
マルクスによる革命思想が潰えた今、資本主義は覆すものではなく、制御すべきものとして、理性的に付き合ってゆくべき対象となった(この本には現政権の政策に対しても批判的である)。
エレガントな論理では割り切れないもの、時代を通じてあまり変わらない人間感情の機微について、それを最も抽象的な数学を研究する人によって「諭される」と、えらく説得力があるものである。

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紙の本目白雑録 3

2009/12/10 20:37

ユーモア溢れる批評性

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

久しぶりに金井美恵子のエッセイ&評論集を読んで、相変わらずの舌鋒の鋭さに胸がすくような心地よさを覚えた。
「オーラの正体」では中田英寿を俎上にのせて、日本のマスコミ報道の偏向を突く。
世界に雄飛?したサッカー選手の「期待される」虚像を、日本という「辺境?」に住むサッカー・ファンは唯一マスコミを通じて知らされるわけだが、「オーラ」というものを金井美恵子自身が否応なくまとわされてしまった体験から、「オーラ」の正体見たり…、となる下りは抱腹絶倒である。
そのある日、「薄い西陽のあたる喫茶店の窓際の席」を占めた著者は、西陽のせいで「ふつふつと気泡の沸く黄金色」を呈したビールを前に、やはり西陽のせいで黄金色に見える大きな美猫を眺めていた。
オーラの正体を暴くにもユーモアをもって日常の一瞬のかけがえのなさを描写してしまう著者の姿勢(或いは書くことへの欲望)にあたたかな共感を覚える。

(オーラは大衆の欲望に迎合するかたちでマスコミが醸成するものだ)
同時に「よど号ハイジャック事件」に遭遇して、あまりに実態とかけはなれた報道をするマスコミの甘い姿勢を批判し、サッカー報道にも苦言を呈す医師・日野原重明を紹介している。

一説に金井美恵子の書評はだれも書きたがらないという。
本書にも斉藤美奈子の言葉が引用されているが、その理由はへたな書評を書こうものなら著者にばかにされかねないからという単純明快なものだ。
長いセンテンスは引用と枝葉の想念を「」や()でくくりながら淀むことなく続いて行く。
著者の思惟は文章そのままになめらかなラインを描いて滞ることがないのだが、読者の方は能力不足ゆえ、いつのまにか主語を失念し、何度か数行前に遡ることを余儀なくされる。
引用文が「」でくくられるや否や、「」内におさまった文章がとたんに陳腐化するのを目の当たりにすれば、なるほどすすんで戯画化される轍を踏むまいと誰しも思うだろう、と推測する。
グロテスクなアカデミズムの気取った物言いは真っ先に標的にされてしまう。
例えば茂木健一郎…
昨今、巨額の脱税がありながら起用し続けるNHKに対して苦情の手紙が殺到したというが。
人気者、売れっ子への視聴者の目が厳しいのも確かだが、公器たるNHKがしめしのつかない態度をとることに疑問を感じていたところだ。
(本書が描かれたのはこの事件以前でもあり、茂木健一郎が批評されるのはもっと本質的なところである)
著者の批評性は、読者のもやもやとした不満にかたちを与え、溜飲を下げさせてくれる。
同時に著者自らを相対化する客観性が金井美恵子の批評性をユーモアに満ちた後味のよいものにしていることは冒頭の「オーラの正体」でも明らかである。

後半は網膜剥離の手術後、老いを予感する作者の感慨が綴られていて、あれだけ威勢のよい啖呵を切っていた著者がこれからどう変わってゆくのか、さらなるαを期待したいと思った。
視力の回復を待ちながら
「文章を書くということを通さずには生きているという実感は無く、何よりもまずそれこそをのぞんでいるのだが―。」
とここに至って切実に吐露する金井美恵子であるのだから…


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紙の本発明マニア

2008/05/15 17:30

絶妙な批評としての”発明品”

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

時事ネタや環境ネタを俎上に載せ、想像力たくましく、問題点の解決法を探る。
米原万里の発明品の数々は、対象に迫る姿勢において正しく、その実現性において大いに疑わしいことは自明なのだけれど、読者を痛快がらせることこの上ない。
この世の矛盾、不都合、不条理を解決すべく、知識を総動員して想像の上で孤軍奮闘する可笑しさ・・・。
けれど、それは可笑しさというより、実は現実の裏に潜む不条理を打つ批評なのだ。
不思議なことに、発明品が荒唐無稽なものになるほど、痛烈な文明批評として文体も溌剌と生気を帯びてくる。
正義感と天衣無縫な性格、約20年に亘る通訳者としての蓄積がものをいう。
曖昧さを寄せ付けない文章は、明快な断定の内に強烈な皮肉を含み、爆笑を誘うユーモアを孕んでいる。

特に時事を扱う時、政治を読む厳格さに圧倒される。
政治家は名指しで批判される。
王様が裸であることを喝破してくれる代弁者を得て、気弱な読者の溜飲を下げてくれるのだ。

2006年5月25日逝去。
果敢な発明家?も卵巣癌から生還することはできなかった。
本書はサンデー毎日に2年半にわたって連載され、ついに絶筆となった文章をまとめたものである。
言いたいことを正直に、勇気を持って言う方法に二通りあるかもしれない。
ひたすら愚直に正論をかざすやり方と、敵のアキレス腱の在り処を掴み、あくまで正攻法の姿勢を保ちながら敵を笑い飛ばしてしまうやり方だ。
後者こそ、人間に対する愛情の確信がなければできないことだろう。
それが米原万里さんの方法論だったのだと思う。
後半は次第に環境問題に傾斜してゆく。
かくも重いテーマに果敢に!挑むことができたのは、深い絶望ゆえであったからかもしれないと今になって思う。

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軽い「自分」が爽快!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

町田康を読む。
こんな面白い作家がいたなんて、今まで損をしていたような気分。
マスメディアや生真面目な世間に負けて、つい正攻法でしかものを考えない。挙句、早々に煮詰まってしまい、あ〜、もうどうでもいいやっ、と考えること自体放棄してしまったりする。
このような時、町田康は格好の解毒剤だ。
三島由紀夫を読みながら、片手に「日本浪漫派批判序説」、茸採りに吐瀉剤といったところだろう。
読んでいるうちに、この論法、何かに似てるぞ・・・。そうそう、ギャグ漫画であったな〜。「大人」とは何かを追求する小袋君!だ。
「飄然」たる態度とはどのようなものかを極めようとする作家の、強烈な自意識。
こういうと至極真面目なエッセイのようだが。例えば「清貧のすすめ」とかベストセラーの新しいところで「国家の品格」などのように。(その実どちらも読んでいないのだが。このタイトルに惹かれる人の気持ちが分からない)
「飄然」というスタイル、生きる姿勢を至高?のものとして、この俗世に生きながら世間から超然としていようとすると、このように滑稽な自分があらわれる。みずからを戯画化して、その自画像にマゾヒスティックな喜びを覚えたりするのが過去の文学だとすると、そのウェットな喜びを笑い飛ばして、さらにドライに、さらにシニカルにカリカチュアライズしたのが町田康。
お笑い番組の放送台本かと思えるところもあって、町田康っていう人は或はそんなアルバイトでもしていたのかしらん。
自意識過剰な大衆社会ってグロテスクだなあ。そんな大衆社会の陥穽を避けるためにはギャグと言葉遊び。鮮やかだな〜。笑えるな〜。癒し系だな。実に巧妙な方法論だな。ちゃんと読者に受けてるし。
自身が私小説作家のパロディになり、生活演技の楽屋裏を読者といっしょに笑いのめす。
以上の評も、実は微妙にずれているに違いないけれど・・・。が。
「飄然」というスタイルそのものが所詮、抽象であり虚構である。そのことが、バレバレの、人間の獲得した言葉と喪失した現実の狭間で、それでも「飄然」に郷愁を覚え、滑稽な生活演技を言葉に置き換え、照れが最高潮に達すると言葉遊びによって確信犯的でルーズな逃げをうち、閉塞した現実に風穴を開けてしまう。
風穴が開いてから、さてどうしよう?
それからは読者各々が考えれば良いことである。
少なくとも隔頁ぐらいには、グスッ・・・、と吹きだしてしまう。
これだけで大いに貴重だ。これ以上の爽快さを昨今味わったことがないのだから。

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洋装界のパイオニアの生涯を克明にたどった記録

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

落葉を踏みしめて、皮のブーツで闊歩したくなる。
暑く長い夏が終わり、ようやくおしゃれをしたい季節になった。
そんな秋の日に、日本の洋装の歴史を牽引した原のぶ子の生涯に思いを馳せ、装うことの意味を今一度問い直してみたい。
著者は、原のぶ子の姪である原秋櫻子。
和装から洋装へと日本人の衣生活が激変してゆく時代に、まず和裁を修めた原のぶ子は昭和9年に、洋服について学ぶために、文部省の委託を受けてパリへと旅立っている。
日本人としてはじめてのことだった。
渡航先のフランスでは、夫となる画家の原勝郎が待っていた。
本書を読めば、熱い向学心、パイオニアとして洋装の技術を学び日本に移植することへの強い責任感とともに、渡航前の気負いゆえの不安感を、重苦しくなるくらいに感じる。
第二次世界大戦が勃発して、やむなく帰国し、戦後の洋裁隆盛を担った原のぶ子であれば、美しくあることが平和につながるという信念を培った事は想像に難くない。

本書の冒頭に、三宅一生による序文が掲載されている。
もれ聞くところによれば、晩年、三宅一生のショーを観覧したのぶ子は、席まで挨拶に来た三宅一生に「あんたさん、どなたさんでしたかね。お名刺頂けますか」と言ったそうだ。
天下の三宅一生にそう言える人は業界広しといえどもそうはいないはずだ。
「あの人も立派になられて…」と感心していたことなど、本書にも書かれている。
直接には7千人を超える子弟を育てたという。

96年にわたる生涯を、日本人の洋装の歴史とともに生きたのぶ子。
皇族、華族、文化人をはじめ、きらびやかな社交の世界にありながら、ただひたすら美しい洋装を求め続けるという姿勢は一貫している。
その姿勢ゆえに、学ぼうとする人には平等に接し、利を得ることに疎かったという。
戦後、のぶ子の設立した服飾研究所では、東条英機の娘さんも学んだという。
A級戦犯の家族に対して風あたりの強かった時代に、のぶ子はわけ隔てなく声をかけ、接していたという。
本書にさりげなく紹介されたエピソードから、気まじめで、厳しいだけではない人柄が彷彿とする。

立体裁断を伝え、日本初のファッション・モデルを育て、美容体操やウォーキング、また洋装の心構えなど、洋服にまつわるあらゆることを教えたのぶ子の膨大な仕事量に圧倒される。
アメリカの平面式では解決しない服作りの極意を「立体裁断」によって伝授したのぶ子。
人体(マネキン)に布を当てて裁断する技は、フランス仕込みの感性と、確かな知識に裏付けられていた。
立体を平面である布によって構築するという技は、人間の肉体を理解し、人をより美しく見せるという文化に直結している。
服こそ人間をつくるものであることを、昨今しみじみ感じるのだが、若い頃には気づかなかったことだ。

大量生産品が安価に出回る時代は、手作りする時間の流れの中でしか学べないことが置き去りにされているのではなかろうか。
本書は、一人の服飾研究家の生涯を懇切に調べ上げ、その活動の軌跡を可能な限り記録し顕彰していると思う。

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脳内リセットに"Evidence"あり

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今頃になって“Evidence Based Medicine(EBM)”(科学的根拠に基づいた医療)などと言われると、医療サービスを受ける側としては、えっ!今までの医療は科学的な分析なしに行われていたの!?と、逆に鼻白んでしまう。
せめて大学病院は、患者の検査結果をデータベース化し、治療効果の検証がなされているはずだ、と思いたかった。
まあ愚痴を言っていてもはじまらないので、これからはできる限り有効な治療のみが行われるようにEBMのムーブメントが広く浸透して欲しいものだ。

本書はその点、笑うこと、泣くこと、という情動面の変化が、身体にどのような影響を及ぼすものか、主に関節リウマチ患者の協力を得て実験がなされた結果をもとに科学的に推論されたものだ。
統計学的要件を満たしつつ、血液検査という客観的データを得るために何度か大がかりな実験が繰り返されている。

無作為に選ばれた患者群と対照群に、落語や人情噺、怪談などを聞いてもらう前後で、採血を行い、自律神経系、内分泌系、免疫系にかかわる物質がどのように変化したか調べる。
これら3系は健康な状態では互いに連携プレーをとりながらホメオスタシス(恒常性)を維持しているのだが、患者群である関節リウマチ疾患ではこの3系のバランスに乱れがあるという。
その乱れを是正するのが、笑いや涙などの激しい情動の発露によって得られるカタルシスであることをデータが語っているという。
笑いや泣き、さらには全身麻酔などが、3系をコントロールする大脳前頭葉を刺激する外部からの精神的ストレッサーを排除、或いは前頭葉から下位に伝わる情報を遮断するからだと推測されている。

笑いや涙などのいわゆるナチュラル・ハイが、疾病の治癒や発病の抑止に役立つなら、基本的なスキルとして意識的にでも日常生活にとりいれたい。
そんな前向きの気持ちにしてくれる本。
科学的なデータに基づいた理論的な説明だけではなく同時に、「脳内リセット」のヒントを様々に示唆してくれるだろう。

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紙の本正直じゃいけん

2006/05/05 21:14

レトロな詩人

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「明るくてポップで、でも主張が明快で、美沢さんの人格そのもののような文章だった」
著者の町田康が美沢真之助(隅田川乱一)という人の著作を評した一節です。
行間から作者の自意識が脂汗のように滲み出ているというのに、カラッとしてレトロで、とてもテンポがいい・・・これは町田康その人の文体です。
織田作之助の影響を受けているといいますが・・・どうでしょう。
一時代前の語彙とぼけとつっこみの一人芝居で使う関西弁、華麗です。
やはり人格が成せる達意の文体です。
かって内田百閒の文体を真似ようと修練に励んだ人たちがあったと聞きますが、結果は、どう努力しても飄々としてケレンミの無い彼の文体を手に入れることはできなかったそうです。
マスコミのジャーナリスティックでニュートラルな文体と異なり、固有の肉体に発した文章はその人の息遣いそのものです。
フィクションであるにせよ、文体は生々しい肉体そのものと言えます。
パンク小僧の成れの果て、という卑下が実は偏屈なプライドの裏返しであることもあるわけですが、そこでじたばたする著者の姿が、ユーモラスで決して嫌味でないのは、これはもうキャラクターの誠実さを語っています。
まだ3冊しか読んでいないというのにすっかり町田康のファンになってしまいました。
「パンク少年」の読書遍歴の一端も伺え、文体の秘密にも迫れます。
感覚にどんどん語彙がついて行く速度、自意識の滑稽な足掻きと尊大な文語調の語彙とのギャップに陶然とさせられます。つまりそれが「レトロ」な印象を与えるのです。
世間的な常識を踏まえた感覚と大時代な語り口が笑わせてくれるのは、今や世間の方が常識を逸脱しおかしくなっているせいでしょう。
もっとゆっくり時間が流れていた時代の様式で今日の風俗や気分を活写してくれて、言葉はリサイクルできるんだな、という発見もあります。
町田康は詩人なのです。

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紙の本「解説」する文学

2012/03/23 18:55

「解説」という渾身の芸(文学)

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


書評というのは、費やす手間と労力を考えれば到底、割に合わない仕事だ
と、井上ひさしが書いていたのを思い出す。
テレビ書評というのが新鮮で、NHKの週刊ブックレビューを観ていたことがあった。
関川夏央はその頃よく出演していて、同席していた羽仁進が感に堪えたように、本そのものより説明のうまさに舌を巻いたと語っていたのが印象に残っている。

「解説」もまた文学である。
小林秀雄の批評が文学的創造と同義であったように。
本書は、関川夏央による少なからぬ文庫解説の中から取捨選択し、その精華を単行本化したものである。
山田太一のエッセイ集「逃げていく街」の解説の中で、関川夏央自身は次のように書いている。
文学とは小説だけでなく、テレビドラマも脚本も戯曲も含まれる、とした上で

「その背後に批評する精神と歴史意識をともなう日本語表現が文学である。ジャンルを選ばず、表現を立体的に行ない得ることそのものが現代文学のにない手たる条件である」

と。

「解説」の本道とは
感性だけでなく歴史的教養を背景に、当該文学の現れた世相も視野に入れて、文庫版によってはじめて作者の名を知った読者にもよく分かるように、作品の立ち位置を示し、簡にして要を得た説明をすることなのだ。
ところが何でも文庫化されるようになった70年代半ばころから解説の劣化がはじまったという。
雑文の類でお茶を濁す解説が多く見受けられるようになった。

本書の2/5を占める、文春文庫全10冊に及ぶ「司馬遼太郎対話選集」の解説は、「解説」というスタイルを借りながら、同時代の文学者・知識人群像までも描き出そうとした意欲作である。
司馬遼太郎は対話を好み、学生時代からいつも座談の中心にいる人だった。
一方、先生と坊主を嫌うなど、人の好悪がはっきりしていた。
対談によって、該博な知識と柔軟な思考は、専門家や異なる資質からの刺激を受けて、より豊穣になった。
新聞記者としての経験からもそのことをよく知っていたと思う。
司馬遼太郎にとって「他人の創見についての受信感度のよさ」が、人間評価の基準だったという。
作家が厳しく斥けた自己愛と我執こそ、それを妨げるものだった。
関川夏央の解説は当然のことながら、司馬遼太郎だけでなく、対話者の著作への興味をかきたてる。
本書は、「解説」という渾身の「芸」に感心させられつつ、さらに面白い読書へと誘うガイドブックでもあるのだ。

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紙の本死顔

2007/03/08 21:30

大人の男のすなる<純文学>

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人の本をちょっと手に取り、読み始めた。
ああ、純文学ってこんな感じだったなあ、と少々懐かしい。
「純文学」という言い方、ジャンルが未だあるかどうかも疑わしい昨今、吉村昭の「死顔」は、文学とは道を求めると同義であった時代を回顧することにもなった。
死をテーマとした五編を収録したこの短編集は吉村昭の遺作となった。
巻末に著者の妻である津村節子が「遺作について」という短文を寄せている。
それによると著者は、平成17年に舌癌を宣告されてから、入退院を繰り返し1年7ヶ月後に死亡した。
彼の生は、自然死と自殺のあわいで絶たれた。死が間近に迫っていることを感じた著者は、点滴の管と首の下に埋め込んであったカテーテルポートの管を自ら引き抜いた。
死が確実な時に、自らその不可逆の時間を短縮したとしても「自殺」と呼ぶことに私は躊躇いを覚える。
逃れようもない死がやって来る時、わずかのショックでも人は死を早めるものだろう。
とすれば受身的と見える行為ですら、実は死を早める無意識的な動きである場合が実は決して少なくないのではなかろうか。
作家の行為はひどく意識的にうつる故に「自殺」とさえ看做される。
ここに、作家は「死を書けるか」という命題が浮かび上がってくるように思う。
死の約二ヶ月前吉村昭は日記に次のような言葉を書きつけている。
「・・・死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ・・・」
この言葉は、それを読む読者にとっても年齢を問わず意外に差し迫って感じられるリアリティを持っているのではなかろうか。「ありがたい」と感じるのは読者の方だ。
しかし、どんなクソリアリズムも死の直前までを私小説として描写することは不可能だろう。臨死体験を除いて。
人間の生を至高のものと捉え、最期の最期まで延命を試みる近代医学。それはやがて、資本の論理に利用されるようになり、遺産相続などの人事によってもゆがめられているのではないか。
次兄の死をあつかった「死顔」は、死というものを作家がどう捉えていたか明瞭になる一篇である。
一般に葬儀のクライマックスに参列者は、棺の中に花を捧げながら、死者の「死顔」を見つめつつ最後のお別れをする。
この何の疑問も持たれず進行する儀式に、作家は否を呈する。
別れはもうすでに終わっているのだ。棺の中の死者は、誤解を恐れずに言えばすでにモノなのである。だからこそ生前の人格を尊ぶがゆえに、死者の顔はごく少数の近親者を除いて参列者の視線にさらされることなく封印されねばならない。
積年の違和感が解けた思いで、今は亡き作家の考えに共感した。
いかにきれいに死化粧を施されていようとも、死の苦痛を戦い抜いて果てた人の顔を直視すべきではないと思うのである。
また社会的な義務から参列する者は、深い愛情関係によって結びついた家族の、絆を確かめる尊い一瞬をわずかでも冒してはいけないとも思う。
或いは延命して、ぎりぎりまで見つめた死について書き残すのが、<純文学>の作家の使命なのかもしれない。
そうして、死という最期の経験すら、大人の男のすなる<純文学>は、行間にもの言わせ、くれぐれも書きすぎてはいけない。

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紙の本秋の四重奏

2007/02/23 12:42

日常に潜む無限の可能性について

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

何も事件らしい事件は起こらないのに、ページを繰る手が止まらなくなる・・・
サマセット・モームがジェーン・オースティンの「高慢と偏見」について評した言葉である。
「秋の四重奏」の著者バーバラ・ピムは、〈20世紀のオースティン〉という声価を得ているという英国の作家だ。
確かに人間のドラマを表面化させる“事件”は起こらない。
独居する初老の4人の男女
そのうちの一人マーシャの死が、彼らの心の深層を浮上させるが、その表現も穏やかなものだ。
日常のルーティーン化された儀式、常識の範囲内で起こす行動、ささやかな葛藤・・・
この1977年の作品を読み始めた直後、近代化を最も早く成し遂げた大英帝国は、個人主義の宿命「孤独」についても深い考察に達している・・・
という第一印象に引きずられながら、やがてページを繰る手が止まらなくなる。
人間である以上ドラマが無いはずは無い、と読者というものはつい期待するものだ。
平凡な人間であろうと、人間であるということがすでにドラマである、という認識が無ければ、このような小説は書けないだろう。
「味わい深い上質なユーモア」の背後には、冷静な観察眼と辛辣な批評が隠れているはずだ。
「高慢と偏見」はまさに適齢期の女性の視点で書かれていたが、「秋の四重奏」は人生の終盤に至って、減速するエネルギーと分別盛りにもかかわらず、愛というものが人間にとって永遠のテーマであることを思い起こさせる。
すでに英国でもキリスト教の求心力は失われている。
神を介在させることによってはじめて成立する「愛」
個人主義はそれなくして存在しないだろう。
次第に希薄化する人間関係において、自由を一義に置きながら、初老の男女にどのような「愛」が可能だろうか。
「愛の不在」という不条理から、いつの間にか「難婚時代」へと突入した。イギリスに比べて、不自然なほどに婚姻率の高い日本であったのに。
長く強力な現代のラブストーリーが再生産されねばならない。
しかし、それにも増して、静かな、誠実な、冷静でありながらユーモアに満ちた、こんな小説もどんどん書かれてもいいのではないかと思う。

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紙の本井戸の底に落ちた星

2007/03/13 15:36

詩作の秘密について明かす書評集

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

主に書評を中心に、本にまつわるエッセイ・短編・詩を収めている。
できれば書評だけでまとめて欲しかったと思うほど、書評に読み応えがある。
ここに書くことは、書評集の書評ということになるが、それもまた成立するだろう。
というのは、「世界にただ一冊の本」という詩形式の短文の中で
① 何が書いてあるのか、わからない、
② あらすじがへた、
③ 書評でなく感想
と、著者自らが自分の書評の評判について書いている一方
これらの書評群は“作品”としても自立しているからだ。
難解な(=多様な読みを可能にする)書物を、自分なりに読み解こうとする真摯な姿勢に著者特有の誠実さが看取される。
そして何よりも書評の対象となった本をすぐにでも読みたくさせる。特に昨今売れないといわれる翻訳物に焦点が当てられているのがうれしい。
著者の書評はまずおいて、自分が読んだ後で、その印象が鮮やかなうちに、再度著者の書評を読み直してみたいという誘惑にかられもする。
小池昌代の読みの特性を見極めてみたいという誘惑・・・。
書物の中にある謎を、それは内容(物語の展開や人物造形)にまつわる謎であったり、文体や物語の構造に関する謎であったりするのだが、その謎をまず謎のままに受け入れた上で、不思議の川を源流に向けて遡行してゆこうとする著者の孤独な姿が目に浮かぶ。
困難な読書ほど実りが多いものだ。
書評を読んで、当の書物を読んだつもりになるためか、書評ゆえに売れなくなる書物があるとも聞く。
あらすじを丁寧に書けばネタバレになってしまう種類の書物もある。
書評にもちょっぴり“謎”を残して、小池昌代の書評からは未知の本に対する憧れのようなものを喚起させられる。
或いは書評集というより、読書という孤独な行為について書かれた書物と言えるかもしれない。
一説に小林秀雄が日本の批評をダメにした、と言われる。
いわゆる印象批評というものは、小林秀雄ほどの直観と強靭な思弁あってのものだろう。
詩人の書評は期せずして、詩作の秘密の一端について明かしているのではなかろうか。それがこの書評集のミソだ。

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二元論ではない心と体の親密な関係について

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

外科系の医師が、心の身体に及ぼす少なからぬ影響について語っているのが、この本のすごく面白いところだ。
外科的な処置は、どのような病気でも内科的な治療が行き詰まり、もはや回復が望めない段階で行われるものだろう。
かって外科手術は医の世界で「外道」とされたそうだ。
今日では医学生の憧れの視線を一身に浴びるのもまた外科医である。
(昨今は激務と、その割に見返りがないことで、外科医のなり手が減っていると聞くが)
身体をともすれば心をはなれた物質そのものとして扱わざるを得ない外科医が、心の問題に言及している点がユニークだと思うのだ。
それも約3000例という人工関節の置換術を行った医師が、である。
癒しについての具体的なヒントを与えてくれることで、この本は前著書「脳内リセット」より優れていると思う。
ストレスが免疫系をはじめとする内分泌系、神経系のバランスを崩し、病として発症させる原因となることは今日では広く知られるところだ。
ストレス刺激をうまく回避できるのは健康な人である。
すでに病を得ているものは、症状そのものがストレスとなる。
特にストレスになりやすい原因を人間関係に探ることができるという。
著者は脳の働きを重視して、生身の人間同士のコミュニケーションの不在が、脳の成長を阻み不健康な状態にしている今日の状況に警鐘を鳴らしてもいる。
深く多様な感情生活こそ脳を育てるというのだ。
それでは何故脳が人間の健康にとって重要なキーポイントとなるか。
是非本書を読んで日頃の人間関係を振り返り、心のありようを検証してみてください。
Evidenceを重視する医学会で、著者は心と身体の相互作用について実験を重ねた。
実際にリウマチ患者と健康体の人とで、どのような違いがみられるか、落語や人情話を聞く前と後で採血を行い比較する。
また眠りや全身麻酔も3つの系(免疫・神経・内分泌)相互の悪循環を断ち切り、「脳内リセット」がなされて身体は回復への糸口をつかむという。
最後の方で自律神経を調節する可能性として「禅」への興味が示されているのに意表をつかれた。
代替医療への関心が示されるところに、医師自身による近代医学への批評があった。

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紙の本雪屋のロッスさん

2006/07/14 21:30

読後、世間の風景が変わるかもしれない

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「癒し」という言葉はもうすっかり手ずれしてしまっているけれど
やはり「癒し」というキーワードがまず思い浮かんでくる。
自分の凡庸さに辟易しながら・・・
くさいんじゃないの?と言えば
きっと、いしいしんじファンには怒られてしまうだろう。
美しい心、と言えば抽象的過ぎる。
登場人物の心は、美しいというより、透明で強靭である。
相手の心をとかし=癒し、読者の心を癒す。
ちょうど「風呂屋の島田夫妻」の「すべてを溶かす黄金色のお湯」のように。
というとまた、新興宗教の教祖が行う奇跡ほどに胡散臭いが。
胡散臭さとファンタジーは紙一重だ。
フィクションは現実の鏡であり、現実を渡世してゆくための平和な武器となる。
これらの短編のひとつひとつが、世界の見かたを変えてくれるかもしれない。
複雑奇怪で悪意に満ちた世界が、シンプルで透明な“見える世界”になるだろう。
試してみるといい。
世界の風景を変えてみよう。
老獪な世間がひどく単純な原理で動いていることが分かるだろう。
眉ねにしわ寄せる原因など風に吹かれて飛んでいってしまうだろう。
「ボクシング選手のフェリペ・マグヌス」
たった2ページの物語。
その最後のセンテンスにこの世界の可能性が透視される。
「偉大なるフェリペは教えてくれた。この世界は、勝者のためにだけうつくしいというわけではない」
あたりまえのことなんですけどね・・・。

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紙の本無思想の発見

2006/05/03 21:38

「自己」からの解放!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

確固たる自己などというものは幻想に過ぎないから、さっさと裃を脱いで、現実に臨んでは臨機応変に対処するがよい。
無宗教、無思想とは言っても、生れ落ちてからひとつの文化圏で育ち、渡世してゆくならば、文化と世間が、思想らしきものを一個の人間に植えつけることだろう。
著者は、哲学や思想という抽象的なものは現実生活とは関係がない、という主張に対して、ならば現実というのは思想や哲学から切り離されたものなのか、と問うている。
新聞の世論調査では、日本人の70%以上が自分は無宗教であると答えているという。
宗教も哲学・思想のうちに含めるならば、それらすべては世間で通用している不文律の基盤を成しているはずだ。日本人も宗教とは無縁であり得ない。
「哲学なんか(私には)関係ない」という態度も実は一つの哲学だろう、と著者は推測している。
一方、「自分探し」「自分らしさ」「本当の自分」とは何ほどのものなのか、とも問題提起される。
あまりに個性的で異質であれば、世間からは金輪際「個性的な人だ」という賛辞は得られまい。何故ならば人間は、本当に異質ななものは理解できないからである。個性的というのはせいぜいお互いに了解できる範囲のことだ。
現世人類の社会が成立した時、最も強い淘汰圧は言語使用ではなかったか、と著者は推測している。コミュニケートできぬ個体を人類は徹底的に排除してきたはずだと。
ここでは言語発生の起源について、人類の祖先に厳しい現実がつきつけられただろう、という想像とともに、すぐさま、アウシュビッツ体験者の深刻なエピソードを思い出させられた。
つまり、過酷な絶滅収容所の中で、最も早く死んだのはドイツ語を理解できなかい人たちだったということを。
ここでまた一つ思い出したのは、同時並行で読んでいた茂木健一郎著「クオリア降臨」の中の一節だ。おそらく自己意識を持っていながら言語を持たないるチンパンジーは慢性的な統合失調症状態にあるという説を紹介している。チンパンジーによる子殺し等の異常行動がこれで説明されるそうだ。
人類の祖先が、言語を獲得することによって、危うく逃れた破局について想像をめぐらせてみればこれはもうSFの世界だ。
再び「無思想の発見」にもどると、知的障害があって施設に入っている人のなかに、「サヴァン症候群」が見られるという。脳の機能全般が悪いわけではなく、よくないのは言語機能に限られ、それも言語を使う動機づけを失っていることが多いそうだ。
コミュニケートしようという深い欲望、或はコミュニーケートしなければという切迫感が失われた人間というものを思い描いてみよう。これは私たちの自画像ではないだろうか。
生身の人間との交感の失われつつある今日、自意識の渇望をインターネットのデジタル信号が癒している?
言語以前の感覚への覚醒を促し、「自己」からの解放を問いて、解剖学者だった人の本はひとつの癒しであろう。
「自己」の死など、なるほど毎日訪れる意識の中断である睡眠のそれが、ただ永遠に続くだけのことだ。
言語はすでに「癒し」であるが、くれぐれも暴走させないようにしたいものだ。
三島由紀夫の評価について、「無思想・・・」の著者と「クオリア・・・」の著者が、同じことを、違った立場でそれぞれのレトリックと論法で語っているのが面白い。

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